2018-03-18

"ハイイロガンの動物行動学" Konrad Zacharias Lorenz 著

エソロジー(= 動物行動学)の権威者コンラート・ローレンツ博士。彼に言わせると、ハイイロガンのつがいは、生涯貞節な夫婦として添い遂げるものらしい。だが同時に、移り気の早い衝動を合わせ持ち、つい不倫までやっちまう。オスもメスも愛に狂うのだとか...
博士は、人間と交流するに最も相応しい動物は、犬の次にハイイロガンだと断言し、相似アナロジーを愉快に物語ってくれる。ハイイロガンは、コンタクトコールとディスタントコールを発して自己主張する。接触したいという表現声と、置き去りにしないでという表現動作を繰り返すことによって。動物の抽象化の能力は、人間よりもはるかに劣り、因果関係を見出すような思考能力が欠如している。それだけに慣習の奴隷となる。では、人間は?なるほど、エソロジーとは、人間学であったか...
「ハイイロガンもまた、人間にしかすぎないんじゃないの...」

研究者がひとたび研究対象を選択すれば、生涯の大部分を費やすほどのものとなる。彼らが取り憑かれる動機とは、いかなるものであろう。その対象に興味があることは間違いあるまい。だが、それだけだろうか。生涯をかけても決定的な成果が得られるのは、ごく稀。研究分野とは、そうしたものだ。問題を解決する度に新たな問題が生じ、研究の成果は、世代を超えた系統として眺めることになる。
そして、成果よりも動機の方にこそ、人類の叡智と呼べるものがあるのだろう。個人の手柄なんぞどうてもいい。趣味が使命に昇華した動機は、押し付けがましい義務などとは格が違う。自然科学者ならば、やがて使命感のようなものを芽生えさせるであろう。天職に巡り会えれば、この上ない幸せ。その動機は、すこぶる単純な自由精神から発し、愛好家魂に支えられている。
ところが、一旦、専門家という地位を獲得すると、権威主義に埋没してしまう。専門領域を聖域とばかりに。これも、ある種の縄張り意識であろうか。となると、「専門家」という人種の定義も微妙となる...
「一人の研究者の生涯にわたる関心が沸き起こってきた深層の原因を探ることは、楽しいだけでなく、ことのほか啓発的な試みでもある。とりわけ有益なのは、研究対象を選んだ理由を見いだすことである。」

人間の行動パターンなんてものは、ほとんど自己存在、ひいては自己愛で説明がつくだろう。行動は繰り返されることによって慣習化し、儀式化し、社会常識となっていく。しかも、無意識に。いや、盲目的に。それは動物でも同じようである。つまり、行動の根底には、種を維持するための本能が働くということ。この本能の最たるものに、繁殖という行動がある。しかしながら、個体の繁殖率を高めることが、必ずしも種全体の利益になるわけではない。過剰繁殖となれば、自然淘汰より熾烈な種内淘汰が始まる。自殺という現象は、他の動物ではあまり見かけない。高い社会性を持つ動物や、人間と関わったがために、引き起こされる事例は多く見かけるけど。人間社会とは、愚かな種内淘汰の特別な事例なのかは知らん...

1. 刷り込み
「刷り込み」とは、一般的に行動が特定の対象に結びつけられる獲得過程であると理解されている。だが、この定義は誤解されやすく、しばしば学習過程の一つとして、教育の場に持ち込まれる。しつけの一環として...
対して、動物行動学で言うところの「刷り込み」とは、もっと動物の根源的な、種の根源的なものから発しているようである。人間で言うところの生得的な、さらに認識論的に、アプリオリな... と言えば、ちと大袈裟であろうか。少なくとも、他の学習過程とは大きく違うようである。
第一の特徴は、報酬や強化を必要とせず、特定の刺激状況と絆を固定するには、単に受け身で接するだけで充分だということ。
第二の特徴は、その不可逆性で、一旦獲得すると取り消すことが極めて難しいこと。
第三の特徴は、数時間しか継続しない極めて狭い発達段階に限定されること。
そして最も注目すべき特徴は、非常に説明の難しいことだけど、刺激を出すのが個体ではなく、種にかかわるということ。
例えば、マガモの刷り込み過程では、数時間に限定されるそうな。孵化したばかりの雛が、はじめて目にしたものを母親と思い込む。それが博士であれば、いつまでも博士について回る。まるで「トムとジェリー」の一話を観ているようである。取り消しが効かないとなると、他の学習過程とは完全に区別される。鉄は熱いうちに打て!と言うが、本当らしい...
そういえば、刷り込みのような根源的な現象からは遠ざかるが、小学校時代、子供の教育は小学校低学年までが勝負!と熱心に教育論を語ってくれた担任の女性教師がいた。一年生の時は何度ビンタを食らったことか。ちょっとでもズルをしたり、誤魔化そうとするだけで猛烈に叱られ、当時、恐怖心しかなかったような気がする。
ところが、上級生になると優しく諭す穏便な教師に変貌していた。諭すというより暗示にかけると言った方がいい。あまり幼い時期に叩けば虐待となる。間違いをした時に徹底的に叱る!そのようなことのできる時期は、意外と短いようである。人間に自尊心があれば、動物にも自尊心があるということであろうか...

2. エソグラム
ローレンツ博士は、行動システムの目録やレパートリーを「エソグラム」と呼び、それぞれの動物行動は厳密にプログラムされているという。しかも、きわめて早期に成熟すると。動物種の解発機構を理解するには、まずは本能運動の体系を理解することだという。哺乳類、特に霊長類のような高度に発達した哺乳類では、道具的な学習、すなわち、オペラント条件づけによって獲得された行動様式が非常に大きな役割を果たす。それはあまりにも多種多様で、行動様式の目録を作成するなどとても望めそうにない。
しかし、ハイイロガンの行動様式となると、はるかに単純な構造で好運な状況にあるという。エソグラムの意義は、まずもって種の特異的な本能運動を観察すること。ほとんどの本能運動には、「生得的解発機構(AAM)」があるという。動物種には、生得的な行動様式のシステム特性があると。しかも、刺激への欲求メカニズムは、種の維持機能から比較的簡単に認めることができるという。
本能運動は長く抑制されると、徐々に落ち着きがなくなっていき、やがて爆発する。本能運動とは、なかなか手ごわい用語だが、とりあえず、内因性の刺激欲求と中枢性のメカニズムの協調の結果とでもしておこうか。
ただし、特有な自発性を持ち、外部からの刺激作用がなくても本能運動は現れるものらしい。心理学で言うところのゲシュタルト知覚は、人間にとっての生得的な生理的装置であり、それによって刺激データの連鎖、あるいは、規則的な連なりを認知することができる。これが自発的なのか、無意識的なのかは微妙である。ただ、いびつな社会でゲシュタルト崩壊が生じるのは、比較的簡単に説明がつきそうか。要するに、ある種の防衛本能が働いているということだろう。
ところで、種の維持機能とは、自由精神の原型のようなものであろうか。プラトンは、人間精神の純粋な形である「イデア」なるものの存在を説いた。ゲーテは、植物の特徴的な器官をすべて持つ「原植物」なるものの存在を主張した。
しかしながら、そのような原型的な存在は、現世に見つけられそうにない。遺伝的に残された形質、あるいは、遺伝的にプロブラムされた運動様式の欠片を見つけることができるとしても。進化の道は、非遺伝的な変化をともなう外部環境に左右される。
もし仮に、人間精神の純粋な形を見い出そうとすれば、それは自然界の動物に見ることができるだろう。人間社会では報酬を与えてくれる者がボスとなり、構成要素の一員として飼われる。人間はみな、パブロフの犬よ。人間社会には、生まれるとすぐに国籍や自治体といった集団社会に組み込まれるという奇跡的なシステムがある。無意識に帰属意識が植え付けられ、地元出身というだけで支持したり、妙に仲間意識を煽ったりと、もはや帰属意識に縋らなければ生きてはいけない。アリストテレスの唱えた生まれつき奴隷説も、あながち否定できまい。自律的な本能運動の動機づけには、本当に自発性があるのだろうか。自ら隷属を望むなら、それも自発性ということになるのだろう...

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