2018-01-28

世間との距離感... 集団から距離を置く...

おいらは、人間嫌いだ。人見知りが激しい... と言っても誰も信じちゃくれない。夜の社交場で、君に酔ってんだよ!などという台詞を吐きまくるヤツが、人間嫌いなはずがないというのである。まるっきり人間嫌いというわけではなく、人混みが鬱陶しいだけで、集団から距離を置きたいだけなのかもしれんが...
実際、人間嫌いであっても、人当たりが良く、如才なく振る舞えるような社交的な人たちがいる。世間に惑わされることもなく、しっかりと自分自身を見つめて生きているような。自分自身に絶望しているわけではなく、むしろ自信を持っているような。小説家や芸術家などは、そうした人種なのだろう。
誰とでもつながれる社会では、逆に孤独愛好家を増殖させる。グローバリズムが浸透するほど、民族意識やナショナリズムを旺盛にさせる。多くの孤独愛好家は、それほど深刻ではあるまい。心の状態に応じて適度に孤独を愛するから愛好家なのである。したがって、拒絶するのではなく、距離を置くことがより重要となる。まずは自分自身を知ること。孤独という恐怖心に歪められた思いに惑わされぬよう、まずは人生の主導権を取り戻そう。とはいえ、自分の本性を見たくなければ、他も見えなくなる... シリル・コノリーはこんなことを言った、「孤独に対する恐怖は、結婚による束縛に対する恐怖よりもはるかに大きいので、俺達はつい結婚しちまうんだ。」と...

木を見て森を見ず... と言うが、何事も距離を置かねば、バランス感覚を失い、その本質をも見失う。人間社会では、どんなに良いことでも、同じことをする人が多過ぎると問題が起こりやすい。原始の時代、集団の中に身を置くことで個の命が守られた。ホモ・サピエンスという種は、群れずにはいられない遺伝子を持っているようだ。すでにアリストテレスは定義している、「人間は生まれつき社会的な生き物である。」と...
生を授かり、終焉するまでの間、人とのつながりを拒絶することができないのは、いわば人間社会の掟。大抵の人は生まれ出てすぐ、自動的に国家や自治体の名簿に登録され、無意識に帰属意識を植え付けられる。だから、どこにも所属していないと、酷く怯えるのか。地上で、これほど孤独を恐れる生命体が他にあろうか。それは、精神を獲得した者の性癖であろうか...
世間では、孤独を悪のように触れ回り、孤独死を悲惨な結末として忌み嫌う。ただ、大抵の人は独りで死んでいく。心中でもしない限り。おまけに、仲間はずれの類いを、異常に、異様に恐れ、多数派に属さなければ安住できない性分ときた。誰にでも訪れる死を、人生の最大の不幸と捉えるばかりか、死に方にまで理想像を追いかける。それでいて生き方については、あまり気にかけないとは... ウィリアム・ヘイズリットはこんなことを言った、「死に対する嫌悪感は、人生が無駄に過ぎてしまったという諦めがたい失望感に比例して増大する。」と...

そもそも人間が多過ぎるのだ。人口が溢れれば、人口抑制が自然に働き、人間関係も自然に整理されていく。仕事場は高層ビルに閉じ込められ、寝床はマンションに閉じ込められ、現代人は生きながらにして埋葬されている。死んだら死んだで納骨堂に移され、ここでも部屋番号で管理される。おまけに、生前の姿が三次元画像で映し出されれば、魂は、まったくバーチャルがお好きよ。それで、仲の悪い奴と墓の中まで一緒にされてはかなわん。なぁーに、心配はいらない。滅びた肉体は行政が処分してくれる。無縁墓の方が、にぎやかで楽しそう。財産はすべてくれてやるさ。どうせ借金だらけ...
大女優大原麗子さんの死は、孤独死として報じらた。淋しい死として。だが、その結末が不幸かどうかは、本人にしか分からない。はっきり分かっていることは... すこし愛して、なが~く愛して... とハスキーな声で囁かれれば、男性諸君がイチコロ!だということだけだ。
現実に孤独を歓迎する人たちがいる。偉大な思想や真の創造性は孤独から生まれた。淋しさを知らねば、詩人にもなれない。芸術家たちは、自我との対立から偉大な創造物に辿り着き、真理の探求者たちは、自問することによって学問の道を切り開いた。そのために命を擦り減らし、自ら抹殺にかかることもある。だが、その結末が不幸かどうかは、本人にしか分からない。満足感のうちに逝ったのかも... 現世に幻滅して逝ったのかも... トーマス・エジソンはこんなことを言った、「最上の思考は孤独のうちになされ、最低の思考は騒動のうちになされる。」と...

人間ってやつは、意味づけをしながら生きていく動物である。自分の人生に言い訳を求めながら生きていく動物である。それゆえ、自分の行動は正解だった!自分の人生は正解だった!などと、自我を慰めるのに必死だ。孤独感を和らげるために自己を欺き、人生を脚色して偽りのペルソナをでっちあげる。幸せな人生とは、現実を幸せに生きることではなく、幸せなように見せたい、あるいは、そう思い込みたいと願うことなのか。年老いてくれば、自然に人間関係を整理していくことになる。友人の数を競ったところで虚しいだけ。その中に真の友人がどれだけいるというのか。一人いれば十分!二人ではちと多い!三人となるともってのほか!そして、関係を求めるよりも、関係から距離を置くことの方がずっと本質的のように思えてくる。人生とは、孤独に立ち向かうための修行の場なのかもしれん...
相対的な認識能力しか持ち合わせない知的生命体は、仲間の在り方を知らなければ、孤独の在り方を知ることはできず、その逆もしかり。したがって、孤独を拒絶すれば、仲間の在り方にも目を背けていることになろう。これだけ人間が溢れているというのに、なにゆえ小じんまりとした人間関係に縛られねばならんのか。古いしがらみに... 惰性的な関係に...

本当の自由なんぞ、この世にありはしない。あるのは自由感だけ。自由意志の存在を信じても、責任まではいらない。責任感だけで十分。人生の意味や目的が必要なのではない。意味感や目的感に浸りたいだけ。真理を求めるのは、それがないと生きられないわけではない。盲目感に耐えられないだけだ。真の名誉を求めているのではない。名声や名誉感を味わいたいだけだ。自己存在に意義を求めているのではない。存在感を噛み締めたいだけだ。正義感に燃えては批判癖がつき、高い倫理観を求めては意地悪癖がつき、理性や知性までもストレス解消の手先となる。まったく依存症のオンパレードときた。本当の自分なんぞ知りたくもない... 芥川龍之介はこんなことを言った、「自由は山嶺の空気に似ている。どちらも弱い者には耐えることはできない。」と...

2018-01-21

自然に発する仕事とは... いまだ見えぬ...

ヴォルテールは、こんなことを言った、「仕事をしていると、人生の三大悪から免れることができる。して、その三大悪とは、退屈と悪徳と貧困である。」と...
仕事に励む機会が得られれば心が落ち着き、精神的合理性となる。働かざる者食うべからず... などと慣用句を持ち出せば、後ろめたさを感じ、無理やりにでも人数分の仕事を用意しなければ、社会的合理性は叶えられない。
しかしながら、自然に適った仕事に身を置くことが、如何に難しいか!そもそも人間社会が自然に適っているのか?仕事の在り方や物事の哲理を問わなければ精神は堕落し、慣習に流されて義務となる。これを世間では常識と呼ぶ。はたして自分の仕事は、義務と呼べるほどのものなのか?ただ言えることは、仕事は楽しい...
とはいえ、設計とは虚しい仕事だ。自分で製作したものを、自分で検証し、自分のミスを暴き、それを嘆く。実に虚しい。こんなチマチマした仕事、好きでもなきゃやってられん...
そして、自分をどこまで納得させて生きて行けるか。ただ、それだけを問うてきた。仕事は自分でこしらえるもの... 自分で用意するもの... 四十代を充実させたければ三十代を精一杯生きること、五十代を充実させたければ四十代を精一杯生きること、六十代を充実させたければ五十代を精一杯生きること、そして七十代を充実させたければ... 死ぬ瞬間まで仕事を探し続ける。天国と地獄があるとすれば、まさにこの世だ。生き甲斐ってやつが見つかれば天国となり、見つからなければ地獄となる。ただそれだけのこと。おまけに、一日に何か一つでも会得できた!知ることができた!と実感できないと、損した気分になる時間貧乏性ときた。
とはいえ、回り道、寄り道、道草、そして、失敗こそ人生の醍醐味。歳を重ねれば、自然と人間関係を整理していくことになるが、その分、真の仕事が残っていくのかは知らん。仕事への情熱を生涯持ち続けられれば、至福の喜びとなろうが...
ジーン・トゥーマーは、こんなことを言った、「人間は自分の望みに従って人生を送ろうとするが、人生は必然に従って流れていく。」と...

今日、脚光を浴びるインターネットは、もともとはボランティア的な活動から始まった。その前身である ARPANET は、大学や研究機関の無名な研究者たちによって支えられた。日本では、JUNET がそれに当たる。そういえば、JUNET アカウントを持っているが、今でもログインできるんだろうか?
まだインターネットという用語が認知されていなかった時代、こんなものが何の役に立つのか?などとお偉いさんたちに馬鹿にされたものである。そして今、ネット社会に身を置けない人が馬鹿にされる。世間ほど移り気の激しいものはない。どんな文化にせよ、どんな技術にせよ、黎明期に金儲けをしようなどという脂ぎった動機は極めて控え目に映る。World Wide Web の基本構造を編み出したティム・バーナーズ=リーにしても、人類を一つに結びつける手段を求めただけで、最初から営利目的を考えていたわけではあるまい。ひたすら効率よく仕事をやりたい、なるべく雑用を削りたい、真のやるべきことに集中したい... と願い、その動機は義務よりも自由の方が優勢にある。そして、人生の目的は目的ある人生を生きること... これが最優先される。
しかしながら、仕事が軌道に乗り、安定段階に移行するにつれ、官僚化の道を辿るのが社会法則というもの。文化や技術が庶民化するにつれ、本来の目的を見失い、人を出し抜こうとする欲望が目立ち始める。報酬が多いに越したことはない。だが、はるかに優先したいものがある。
自然は数学ではないし、自然の中に直線や直角が現れるのは、ごく稀だ。しかし、規則的なスタイルは精神を安定させる。秩序あるものに自己は満足する。だからといって、自己を満足させるだけでは能がない。ソクラテスは、こんなことを言った、「生きるために食べよ、食べるために生きるな。」と...

現在の経済システムは、本当に報酬を得るべきところにお金が流れているだろうか?現在の情報システムは、本当に知るべき人々のところへ情報が流れているだろうか?そして、自分の今やっている仕事は、本当にやるべきものなのか?... などと問うても詮無きこと。真理の探求者は、余計な雑念を排除しようとするだろう。貨幣経済に対抗して知識経済を囲い、シャングリ・ラのような世間から隔離される場を求めるだろう。おいらのような酔いどれ天の邪鬼ですら、ネット社会から少し距離を置こうとする。おいらは、SNS が嫌いだ。年に一度、三日間、完全にネットを遮断し、依存症になっていないかを確認するために露天風呂へ出張する。
技量と見識の道に憑かれるのも、ある種の麻薬のようなもの。最大の問題は、真の仕事が何か?一向に見えてこないことだ。自分に嘘をついても虚しい。口に虚しいと書いて「嘘」、人の為(ため)と書いて「偽り」、さて、どちらの道を選ぼう。バートランド・ラッセルは、こんなことを言った、「遠からず神経衰弱に陥る人の兆候のひとつとして、自分の仕事がきわめて重要なものだという信念があげられる。」と...

2018-01-14

一人前の定義とは... そんなもん知らんがね...

新年早々、悪夢だ!
とある産学連携センターのサロンで弁当を喰っていると、どことなく人が集まってきて議論が始まりやがった。おいらは、議論が嫌いだ。すぐさま席を立とうとするも、人が好い酔いどれは、いつの間にか巻き込まれてしまうのだった...

近年、教育の立場を考慮して欲しいとの依頼がある。技術屋に教育なんてものは無用だと考えている人間に。引退勧告か!
知識がいくらでも入手できる時代となれば、尚更。情報が平等に手に入るということは、意欲の差で認識格差を助長する。意欲さえあれば、ちょっとしたヒントから視野が開けてくるが、受け身でメディアを当てにしていれば、視野が狭まっていく。何がヒントになるかは、その人次第。そのヒントとなる材料を与えるってことが、教育なのかもしれん。ガリレオ・ガリレイは、こんなことを言った、「人にものを教えることはできない。できることは、相手の中にすでにある力を見い出すこと、その手助けである。」と...

さて、最初の話題は...
「あなたの仕事は何ですか?」と尋ねると、会社や組織の名前を言う人がある、と聞く。あなたは、どんな人ですか?と尋ねると、私は日本人です!と答えるようなものか。これには、いささか驚いて耳を傾けていたが、世間ではそう答える方が多数派らしい。おいらの周りは少数派に属す輩ばかり、どうやら天の邪鬼はおいらだけではなさそうだ。
自分ならどう答えるだろう。即座に、電子回路設計者!と答えるさ。いや、リアルタイム OS を書いていた時期もあった。二十年以上前に遡ると、ネットワーク管理なんて仕事は、ちょっぴりパソコンに詳しい人がボランティア的にやっていたものである。おまけに、プレゼン用資料作成者、いや、PowerPoint 操作係なんてのもあった。なんでも押し付けられる性分か。ある時はプログラマ、またある時はネットワーク管理者、はたしてその実体は、ただの雑用係というわけさ。しかしながら、雑用係も馬鹿にはできまい。広範に渡って知識に精通していなければならないのだから...

次に、「職場の空気について」という話題で、なぜか?体験談を求められた...
自慢できるものは何もないんですけど... と前置きして、二十年くらい前、ベンチャー企業と称するアドベンチャーなハードウェア設計会社に在籍していたことを少し話してみた。まず面を食らったのは、自分のマシン環境は自分で整えることであったと。実に当たり前のことだが、サラリーマン根性が染み付いていると、そんなことでも新鮮さを感じてしまう。
まず、10万円の予算が与えられるが、当時、この金額でパソコンを買うことは難しい。メーカ品だとディスプレイ込で20万円ぐらい。要するに、仕事ができるほどの性能を求めれば、自作の道しかないのである。電子回路設計者が、パソコンを組み立てる知識もないようでは話にならんというわけだ。マザーボードも、グラフィックカードも、サウンドカードも、ネットワークカードも、はたまた、メモリ容量も選択自由。OS に何を搭載するかも自由。Windows あり、Linux あり、FreeBSD あり、はたまた、VMware あり... 社員の間で、自然にハードウェアやソフトウェアの相性などが話題になる。
逆説的ではあるが、暗黙で自作へ仕向けられていながら、自由の感覚に見舞われる。この空気はなかなか。ただ、そんな空気も、金融系の資本が入り始めると、どことのう息が詰まる。自由になりたかったら、まず知識をまとうこと。組織依存症から解放されるためにも。そういえば、やたらと独立心を煽る社長であった。さっさと追い出したかったのかもしれん...

そして、「仕事は与えられるもの!?」と考える人が意外に多いらしい...
おいらも、やることがないので仕事を下さい!と言われたことがある。周りが忙しそうにしていると、後ろめたい気持ちになるのも分からなくはない。
しかし、だ。仕事がなければ、好きな事をやればいい。興味ある技術にトライすればいい。おいらなら喜んでそうする。堂々と...
会社という組織が能力ある人材に仕事をさせない、なんてことはない。面白そうな事をやっていれば、自然にマネージャの目に留まり、グループに引き抜かれるだろう。プロジェクトマネージャというのは、常日頃から慢性化した人手不足をなんとか解消したいと考えているものだ。会社とは、利潤を求める組織であり、無駄な人員を抱えることを極度に嫌う。ギリギリのリソースでやっているから、グループで成長できる面も大いにあるのである。
また、会社に所属し、それで安心している人がいる。だが実は、社内における就職活動こそ重要なのだ。ヤル気があります!などと面接風に訴えられても、こちらの気分が萎える。
現実に、定年退職した途端に生き方が分からなくなる人がいる。自由になってもなお自分の仕事が見つけられないとは、なんと悲しいことか。喰うための仕事... 金を稼ぐための仕事... というようにこだわらなければ、いくらでも仕事は見つけられるはずだ。
実際、趣味を仕事にしている人たちがいる。オープンソースやフリー経済に身を置く人たちがいる。彼らにとって、お金は副次的な目的である。そもそも人生に定年はない。マハトマ・ガンディーは、こんなことを言った、「明日死ぬと思って生きよ。不老不死だと思って学べ。」と...

さらに、「一人前の定義とは...」という話題へ突入!
ここでもなぜか?意見を求められた。こんな難しいこと聞かれても、知らんがね。とりあえず、こう答えてお茶を濁しておいた。
「私が美青年と呼ばれていた新入社員の時代、先輩から伝授された言葉があります。『自分の技術について、一冊の本が書けるようになったら、それで一人前だ!』と...
そして、『技術』というところを一段階抽象化して、こう伝えるようにしています。『自分の仕事について、一冊の本が書けるようになったら一人前と言っていいのではないか』と...」

おいらは、議論が嫌いだ。しばらくサロンには近づかないようにしょう...

2018-01-07

2018年は、犬学派の年だそうな... でも、おいらは子猫ちゃん派...

吾輩は犬である。小悪魔の前で、いつもクンクン尻尾を振る。名前は夜の社交場でトッキーと呼ばれ、どこで名付けられたか頓と見当がつかぬ...
... アル中ハイマー著「自我失認論」、序説23篇「子猫ちゃん派学徒の独り言」より抜粋

干支は、十干と十二支の最小公倍数をとって 60 年周期をとり、天文学的に意味付けされる。それで各年に動物を割り当て、生まれた年で性格までも決定されてはかなわん。決定論とは、占星術の類いか...
今年は、戌年!... あえて犬学派の年としておこう。そして、本ブログが「酔いどれディオゲネス」を称すからには、この逸話を語らずにはいられない...

かのマケドニアの大王は、古代都市テーバイを破壊し、次にアテナイを滅ぼすかどうかを決め兼ね、この街に住む賢人に意見を求めたという。
「余はアレキサンダーである。」
「わしが犬のディオゲネスじゃよ。」
「お前は物乞いと聞く。欲するものがあればなんでもくれてやろう。望みを申せ!」
「では、そこをどいてくれ!太陽が陰るでなぁ...」
「お前は、余が恐ろしくないのか?」
「お主は何者か?善人か?悪人か?」
「むろん、善人だ!」
「ならば、誰が善人を恐れよう。」

自由都市として輝くアテナイに陰りを与えるとすれば、それは独裁者という存在... と悟ったか。その帰途、大王はこう呟いたという。
「余はアレキサンダーでなければ、ディオゲネスでありたかった。」
かくして、アテナイは救われたとさ...

犬儒学派で知られるディオゲネス。犬のように気ままに歩き回り、酒樽をねぐらとする堕落人にして自由人。プラトンに「狂えるソクラテス」とあだ名された。プラトンが「人間とは二本足の羽のない動物である。」と定義すると、ディオゲネスは雄鶏の羽をむしりとって「これがプラトンの言う人間じゃよ。」と応じたのである。狂ったこの世で狂うなら気は確かだ!とは、彼のような生き方を言うのやもしれん...

犬は人間にとって最高の友、いや、最高のペット、いや、最高の奴隷!その証拠に、権力者の犬などと呼ばれる。それで、対抗馬の猫が虐げられてはかなわん。
科学の最先端を突っ走る量子力学は猫に非人道的な扱いをする。猫は生きているのか?死んでいるのか?しかも、それは猫の意思なのか?人間の意思が関与できない純粋な物理現象においては、生と死の両方を体現できるパラレルワールドだって現実味を帯びる。量子論はなんでもありか?
量子力学の基礎方程式を唱えたシュレーディンガーは、著作「生命とは何か」の中で、自由意思なるものの根源を問うた。量子コンピュータは、猫の非人道的な扱いに復讐を企てようとしているのか?夜の社交場で男性諸君が子猫ちゃんにひれ伏すのも、神の企てか?どうやら、子猫ちゃん派とは、小悪魔の犬になることを言うらしい。これが決定論の下した帰結だ...

人間の脳は、単なる時分割多重処理型のオートマトンに過ぎないのではないだろうか。人間でも心があるのか分からない人がいるし、心があるようでも、そのように演じているだけかもしれない。心の存在証明は、神の存在証明と同じくらい難しい。おそらく、それを証明することは不可能だろう。デカルトほどの人物ですら、私は思惟する!という単純な心の動きで証明を終わらせた。
精巧なロボットにも霊感のようなのを感じる。それは人間と何が違うのだろう。犬型ロボット AIBO は子供たちの人気者。ちょっと故障して、大人が足を付け替えようものなら、子供は足をもぎとって虐待しているのかと思い、白い眼で睨みつける。しかし、こいつはロボットだ。映画「ターミネーター」では、シュワルツェネッガーが腕を切るシーンがある。しかし、こいつもロボットだ。いや!シュワちゃんの腕だから気色悪い...
どんな物体であれ、心があるように見えれば、それなりの扱いをする。人間の脳だって、同じ原子構造を持ち、同じ電子活動をしていれば、そこに仲間意識のようなものが芽生えても不思議はない。情報処理の仕組みやコミュニケーションの原理は、言葉や記号の概念だけでは説明がつかない。経験的で精神空間にマッピングされる像のようなものを感じとって、認識の形をなす。ロボットは時計仕掛けの存在であり、電気的な周波数によって動作する。
では、人間はどうだろう。人間だって、時間に支配されているではないか。天体運動によってもたらされる昼と夜の配分によって、刻まれた時を守りながら仕事勤めを続けている。それは、天に看取られているということか?しかも、おめでたいことに、それを義務だと思い込んでいる。自由意志の動作原理には時計仕掛けの何かがあり、心はその安定周期に安住を求める。それが習慣ってやつだ。
いまや自由意志を解明するために、千鳥足で気ままに歩きまわるロボットの開発が急務だ。これによって、星々が点間をうごめく力学現象も、アル中ハイマー病患者が店間をうごめくハシゴ現象も、完全に解明できるはずだ。
ところで、異性型ロボットとの間に不倫は成立するだろうか。人類がロボットの犬となる日も近い...