2017-04-30

"ディケンズ短篇集" Charles Dickens 著

明るい作風をイメージしてしまうチャールズ・ディケンズ。だが、この短篇集では違った酒肴(趣向)を魅せつける。なんとも薄気味悪い復讐劇に幽霊劇、おまけに狂人的で自虐的なモノローグ。そこに、さりげないユーモアが混入されると、涙を誘う人間悲劇も皮肉めいた人間喜劇へと変貌し、生きる勇気のようなものを与えてくれる。

パスカルが言ったように、やはり人間は狂うものらしい。それを自覚できるかどうかが運命の分かれ目。真理を追求し、ついに自分自身が狂人だと知った時、人は何でもやれるし、殺人鬼にもなれるというのか。実直で率直であるがゆえに、死者の霊魂に耳を澄ますことができるというのか。世間では誠実と呼ばれ、善人と呼ばれる連中よりも、ずっと素直な情愛に富むがゆえに、心が傷つきやすいというのか。そうかもしれん。
そもそも人間の魂ってやつは、虚栄心の塊、嫉妬心の塊でしかない。歳を重ね、経験を十分に積み、何もかも分かったつもりで説教を垂れたところで、誰も耳を貸そうとはしない。
そして、人間の本来の姿が孤独であることを知れば、なお狂う。正義や道徳を憂さ晴らしの道具とし、正義の鬼となって、道徳の鬼となって、社会を呪うのだ。狂人の自由は、道理に合わないほど脆い。自由が果敢(はか)ないとなれば、この世を墓(はか)場にするしかない。自由の砦を死守せよ!この短篇集は、ディケンズの聖戦であったか...

尚、本書には、「墓掘り男をさらった鬼の話」、「旅商人の話」、「奇妙な依頼人の話」、「狂人の手記」、「グロッグツヴィッヒの男爵」、「チャールズ二世の時代に獄中で発見された告白書」、「ある自虐者の物語」、「追いつめられて」、「子守り女の話」、「信号手」、「ジョージ・シルヴァーマンの釈明」の十一篇が収録される。

1. 墓掘り男をさらった鬼の話
とかく葬儀屋というのは、仕事に反して陽気な人種のようだ。死の象徴に四六時中囲まれている男は、なにかと嫉妬深く、いつも陰険なしかめっ面をしてやがる。クリスマスイブだというのに朝まで墓掘りのお仕事。彼にとって墓地は聖地。明るく歌いながら通りかかる子供には、待ち伏せして薄気味悪い笑みを浮かべ、説教を垂れると泣いて逃げ出す。クリスマスイブに棺桶のプレゼント!イッヒヒヒ...
そして、一人でジンをやっていると、鬼たちが群れてくる。荒れ狂う風とともに、恐れおののく墓掘り男。そこに鬼の王様が現れ、声をかけてきた。今夜はやけに冷えるねぇ... 暖かい飲み物を... 鬼どもは火焔酒をやってはお祭り騒ぎ。鬼の王様は墓掘り男に、お蔵の中から二、三の映し絵を見せた。幸せそうな家族団欒の中、幼い子が死んでいく映像。苦労をともにしてきた老夫婦の傍ら、妻も安らぎの地へ追っていく映像。... これらをどう思うかね?と訊ねると、綺麗ですね!ぐらいしか感想が言えない情けない野郎。呆れた鬼の王様は、次から次へ教訓めいた映像を見せ続ける。子供を脅し、説教を垂れて弄ぶ墓掘り男は、今度は、鬼に説教され弄ばれるという寸法よ。
ついに男はなにやら学んだようである。... 働き詰めなのに僅かな食い扶持しか稼げない人でも幸せに暮らせる。無学な人でも自然な慈愛溢れる顔が慰めや喜びとなる。愛情深い環境にあれば貧乏でも明るく生きることができる。そのような心境は、幸福と満足と安らぎによってもたらされることを...
他人の幸福を見ては、ぶつくさ言う自分が最も情けないことを悟ると、鬼どもはいつのまにか目の前から去っていた。敵意と不機嫌に憑かれるほど、鬼に取り憑かれるというお話であった。

2. 旅商人の話
退屈な文面の続く中、最後の1ページに遭遇した瞬間、慌てて最初から読み返す羽目に。キーフレーズはこれだ。
「たしかに風変わりで薄気味悪い家具ではあった。でも、椅子と老人が似ているなどと考える人間がいたとしたら、じつに驚くほど独創的で活溌な想像力の持主に違いない。」
さて、旅商人が宿屋に着くと、オーナーの未亡人にイチコロ!だが、強力なライバルがいた。背が高く感じのいい男でやはり未亡人を狙っていて、未亡人の方もまんざらではない。敵わないと見るや、ヤケ酒を煽って眠る。
目を覚ますと、椅子が老人に変身して未亡人の父親だと名乗る。パンチ酒を五杯も飲めば、椅子が老人に見えてきたり、壁と語り始めるなんて、まぁ、よくある話。バーに行けば、一人で氷と会話している素敵な女性を見かけるし。もちろん会話に割って入るなんて野暮なことはしない。
おまけに、このお爺ちゃんときたら、若い頃はプレイボーイで女をブイブイいわせた!などと武勇伝を語りはじめる。そして、ライバルの男は既婚者だから、未亡人にアタックしろ!とけしかけるのだった。父親のプレイボーイ振りの報いで、娘がプレイボーイにものにされようとしているのを、霊魂になって阻止しようってか。おかげで、旅商人は未亡人と結ばれたとさ。なんとも退屈な展開である。
ところが、だ。この椅子と老人の話は、どこまで信憑性があるのか?この謎が最後の1ページに集約される。この物語の語り手は泊まり合わせた旅商人で、主人公の旅商人とは別人。しかも、伯父さんから又聞きしたと言ってやがる。二重の、いや三重の間接物語となっているところに、主人公をけしかけた黒幕がどこかに隠れていそうな、なんとも歯切れの悪さが興味をそそる。いや、黒幕は主人公自身かもしれん。実に前置きのながーいお話ではあったが、おいらは前戯が大好きだ!

3. 奇妙な依頼人の話
舞台は、債務者監獄のマーシャルシー監獄。債務者監獄とは、1868年までイギリスの法制度の下で現存した施設だそうな。個人から借金して返済できない時、債権者の告発によって一般犯罪者とは別の特別な監獄に収監されたという。
主人公は物心ついた頃から、飢えと渇き、寒さと貧困の記憶しかなく、両親も不幸のうちに死んだ。債務者監獄に入れられた者の家族の悲劇は、なおも続く。仇敵は、親を債務者監獄に放り込んだ親戚の奴ら。玄関払いを喰らわせた奴ら。手助けの言葉は気前よく用いられる分、残酷な響きとなる。やがて裕福になり、恐ろしい復讐のチャンスが到来。悪魔の導きか。奇妙な依頼人の飽くなき執念は、訴訟の勝利だけでは収まらず、相手の破滅によって百倍にも強まる。
「法律の機構を総動員し、知恵の生み出し得る限り、辣腕の及び得る限りの策をめぐらし、公正不正の手段を尽し、最高の切れ者法律家の手練手管をうしろだてにして、法の公然たる圧力を働かせるのだ。あの男を苦しめ、じりじりと死なせてやりたいのだ。やつを破産させ、動産不動産を全部売り払わせ、家から追い出し、老残の身を乞食として引きまわし、監獄の中で死なせてやるのだ。」
尚、ディケンズの父は、気のいい呑気者で、経済観念や責任感を欠き、借金のために債務者監獄に放り込まれたそうな。まだ義務教育制度のない時代、ディケンズは12歳で小学校をやめさせられ、工場で働いたという。この物語は、債務者監獄が人の心を徹底的に打ちのめす悪魔のごとく、凄まじい復讐劇として描かれる。

4. 狂人の手記
今まで恐れていた「狂気」という名が好きになりそう。精神病バンザイ!
周りのみんなを気違いと思い、奴らが敵わないほど頭が良いと自画自賛。天才もまた一種の狂気。この狂気を子孫末代まで伝える暗い運命を背負った子を産むかもしれない、と思うと妻を殺そうと決意する。
さて、どうやって殺すか?毒殺、溺死、火事... 邸宅が炎につつまれて黒焦げになるのも絶景!犯人逮捕に莫大な懸賞金がかけられ、無実の人間が絞首台にぶらんと風に揺られる、と考えただけで愉快!
ある夜、眠っている妻の前で剃刀を持って耳元で囁いていると、悲鳴をあげて目を覚ました。妻にじっと見つめられると、金縛りになる。妻が大声で助けを呼ぶと、家中の人が目をさまして部屋へ集まってきた。そして医者を呼ぶと、奥さんは気が狂いました!と狂人の俺に言うのさ。奥さんを監禁して見張りをつけなければならないと。この俺が見張りだとさ。目的を果たし、妻は翌日死んだ。葬式で、白いハンカチの陰で涙が出るほど笑った。狂暴な喜びと有頂天を隠すために、歯を食いしばり、足で地団駄を踏んで、手に爪を立ててこらえるも...
「おれは憶えている... もっともこれはおれが憶えていることができる最後の情景の一つなのだ。なにしろ、いまここでは夢と現実がごっちゃになってしまって、やる仕事がどっさりあるうえに、いつも急がされているので、その二つをごっちゃになっている混沌から切り離している暇がないからだ... おれは憶えている、おれがどのようにしてとうとうそれをばらしてしまったかを。あっはっは!」

5. グロッグツヴィッヒの男爵
グロッグツヴィッヒの男爵の名は、フォン・コエルトヴェトウト。古城に住み、魅力的で若く、是非一度逢ってみたい人物だというから、人物紹介物語とでもしておこうか。しかし、血気盛んな男爵は子供を多く授かったために財産が尽き、借金を抱えてしまう。社交界で見栄を張って生きていかねばならぬ身の上では、チャラにするなら死ぬしかない、と自殺を覚悟する。
尚、Grogzwig(グロッグツヴィッヒ)は、grog(グロッグ酒 = ラムの水割り)と、swig(がぶ飲み)を合わせた名。Koëldwethout(コエルトヴェトウト)は、cold-without のもじりを思わせる。それは砂糖を入れないジンの水割りでのことで、warm-without で砂糖を入れないお湯割りとなる。また、フォン・シュヴィーレンハウゼン(Swillenhausen)男爵という人物も登場し、swill(鯨飲)の家という意味になる。
なぁーんだ。大酒飲みたちの駄洒落物語であったか。酒は百薬の長と言うが、自殺の決意までまろやかにしてくれるとは。命の重みをアルコール度数で相殺するなら、人生なんてまさにスピリタス!
「それでもまだ、みだりにこの世から引退したくなるようなら、まず最初に大きなパイプを一服やり、そして酒壜一本まるまる空にして、グロッグツヴィッヒの男爵のあっぱれなお手本から学んでみたらどうかな。」

6. チャールズ二世の時代に獄中で発見された告白書
獄中の最後を語る独白。生涯の最後の夜だから、包み隠さず赤裸の真実を綴ることができるというもの。無論、勇敢な人間でもなければ、子供の頃から疑い深いムッツリした性格であった。いつも出来のいい兄と比べられ、しかも同じ姉妹と結婚し、絶えず劣等感に苛んできた。兄は先に逝ってしまい、心を見透かしたような目で見る兄嫁も息子を残して死去。その息子も兄嫁と同じような目で見やがる。おまけに、姉の息子を可愛がる妻にいたたまれない。ついに胸中に悪魔を抱き、兄の子供を殺してしまった。そして、明日死ぬ運命にあると、恐怖心の表白を綴る。

7. ある自虐者の物語
幼き日は、祖母と過ごした。いや、そう名乗る人と過ごした。やがて孤児と思い知らされる。皆の優越感と傲慢な憐れみで優しくされ、破廉恥な芝居にも見えてくる。これが馬鹿でない最初の不幸。親切、保護、その他もろもろの美名の下で自己満足に浸る慈善家。彼らは気の毒な子供を見つけては、見返りの奴隷とする。人の不幸をだしにして憐憫、同情などという方法で、自尊心や優越感を誇示するわけだ。
主人公は美貌にも恵まれた才女で、孤児のコンプレックスを反骨精神に生きてきた女性。見下した親切心に失望が加わると自立心を養ってきた。道徳的タブーに凝り固まった世間の無知と偽善には、条件反射的な道徳批判で対抗し、同情は蔑視の裏返しとして断じて拒む。
しかしながら、才ある人間はとかく誤解されやすい。ましてや気の強そうな女性ともなると、狡猾かつ滑稽な皮肉屋に見られる。「狂人の手記」のごとく、最初から狂気を自覚し、世間からもそう思われる方が、まだしも楽であろうに...
道徳的な人間にせよ、非道徳的な人間にせよ、自動的に身に付けた価値観に支配されるのは同じ。それに気づくから不幸なのかもしれん。ただ、彼女もまた自虐の法則に自動的に従っているだけではないか...
「私は馬鹿でないという不運に生まれついている。まだほんとに小さい頃から、まわりの人たちが私に隠しおおせたと思っていることを見破ってしまった。いつも真実を見破るのではなくて、いつも騙されていることができたなら、私も大多数の馬鹿者と同じように平穏な人生を送ることができたであろうに...」

8. 追いつめられて
ある生命保険会社の総支配人の告白。
「生命保険会社というのは、人間の中でも最も狡猾、残忍な連中にいつ何時乗じられるかわからないということ、これだけ言っておけば十分だろう。」
保険金を支払うには、まずもって客観的に判断する材料が求められる。それは、まずもって人の言い分を疑ってかかること。会社の資産を守るために保険金支払いの義務から免れたいと考える。裁判沙汰に追いつめられても。主観性の入り込む余地のない事細かな契約書は、いわば、自分の身を守るため。それゆえ、小さな文字で、これでもか!これでもか!と読み手が嫌になるほどに注意書きを羅列する。まるで暗号解読。
対して、生命保険に入ろうという人は、今の生活よりも楽になりたいと考えて保険に入るぐらいだから、困窮しているわけではない。そこそこ余裕のある人間でなければ、保険金も払えない。現在の生活水準を保つばかりでは飽き足らず、あわよくば裕福になりたいと。
したがって、ここにはグロテスクな人間模様が露わになる。人間の容貌を読破するのは事だ。人間を支えている希望や目的を失った時、人はどんな正体を見せるであろうか...
「態度と結びつけて考察した場合の人間の容貌、これにまさる真理というものはこの世にない。永遠の知恵が各人一人一人に命じて、それぞれ固有の文字を使ってそれぞれ固有の一ページを寄稿させた本、これが人間の容貌である。」
尚、この物語のモデルは、実在した毒殺魔トマス・グリフィス・ウェインライトという人物だそうな。彼は良家の出で、インテリで文才画才にも恵まれ、社交界の寵児だったという。贅沢な生活がたたれば、祖父を毒殺して遺産をせしめる。その後も、妻の妹など何人もの女性に保険をかけて毒殺。仕舞には金目的では飽き足らず、快楽のために殺人を犯したとか。ある女は足首が太くて目障りだった、という証言もあるとか。そして、終身刑を宣告され、流刑の地タスマニアで死んだという。

9. 子守り女の話
少年時代の思い出話。おばあちゃんが怪奇物語を語ってくれれば、幼児期の思い出がいつまでもこびりつく。神話や童話も同じようなもので、それが教訓となって蘇る。殺人鬼大尉というサイコパスに、わが身を悪魔に売り渡した船大工が登場すれば、少年にはトラウマとなる。とはいえ、子守り女の話芸が見事だからこその物語。子供ってやつは何でも信じられるし、脅すのに筋書きなんてなんでもありだ。とはいえ、大人も大きな子供に過ぎない...

10. 信号手
信号手は、列車の安全確保のために常に正確と緊張が要求される。信号燈の手入れをし、時々ハンドルを動かすだけで、労働と呼べるほどの労働ではない。労働といえば、身体を動かすことが主流だった時代、プロレタリアートの象徴はやはりブルーカラーか。
しかしながら、いつベルで呼び出されるか分からず、常に耳をすまし、見かけほどのんびりでもなければ、けして気が休まることがない。通過列車に旗を振り、念入りに機関手に口頭で何かを伝える。少しでも怠れば、大事故になりかねない。
そこに、幽霊の声が....おうい!そこの下の人!気をつけろ!気をつけろ!その十時間も経たぬうちに、歴史的な大事故が発生。偶然か。幻か。そして、またもや危険信号燈のところで幽霊の声。すると、またも死人が... これが何度か続き、妄想に憑かれる。
さて、予兆ともいえる声は、いったい誰の声か?信号手の心の声か?実はいつも無意識に予兆が聞こえていて、事故が発生した時だけ、自意識として明確に浮かび上がってくるということはないだろうか。人間の危険予知能力とは、案外そんなものかもしれない。超自然現象をどう説明するか?これを幻覚として片付けてしまえば、合理的な解釈はできない。まずは、グロッグツヴィッヒの男爵を見習って、酒を飲んでから幻聴に耳を傾けるとしよう...
尚、この物語は、「世界階段名作集」のようなアンソロジーにもよく選ばれる有名な作品だそうな。ちなみに、1865年、この物語が書かれる前の年の6月9日、ディケンズは愛人とのフランス旅行からの帰途、ロンドン行の列車が大事故を起こし、多数の死傷者を出したという。二人とも怪我はなかったようだが、精神的後遺症からは抜けられなかったとか。そして、5年後の1870年6月9日、ディケンズは亡くなった...

11. ジョージ・シルヴァーマンの釈明
「ある自虐者の物語」は、孤独で内気でありながら攻撃的な性格を持つ女性の独白劇であった。この物語は、その男性版でありながら、性格は極めて忍従的で受動的という対称性を担っている。
主人公は貧乏な家で生まれ、地下室に閉じこもって暮らす。母親からも世故いガキと呼ばれ、偏狭な性格になったと告白。世故に長けた者の世故い人生とはいかなるものか。それは、地下室への階段が急だったことが物語っている。両親は二人とも地下室で寝たきりになり、笑い、唄って、死んでいった。
やがて、そんな地下室にも変化が訪れる。世間の変化が、こんな低いところまで舞い降りてきたのか。世故いガキは牧師に拾われ、大学にまで行かせてもらう。だが、気難し屋で不愛想なムッツリ屋の性格は変わりようがない。こんな性格にしたのは、地下室のせいか?貧乏のせいか?救いを哲学に求めたところで自問という拷問に晒され、内気で自己主張できないがゆえに自我を破滅させていく...
とはいえ、墓場に片足を突っ込みながら、すごく世故に長けている。なにしろ皮肉な独白劇を披露しているのだから。そして、この一文に宗教的道徳観への反骨精神を感じる。相手は英国国教会ということになろうか...
「ずきずき痛む心と疲れきった精神を引きずって、この修羅場から退却した。こういった偏狭な人間たちを神の威厳と英知の解釈者と見なしてしまうほど、ぼくが弱い人間だったからではなく、ぼくの中のまったく世故にたけた心がわずかでも頭をもたげかかるのを抑えようとしたやさき、そして懸命の努力によって、成功したと精一杯思い込んでいたやさき、事実を歪めて述べられ、また意味を取り違えられてしまったのは、ぼくのよくよく不運であるかのように感じるほど、ぼくが弱い人間だったからだ。」

2017-04-23

"ラ・ロシュフコー箴言集" La Rochefoucauld 著

フィーヌ・ブルゴーニュにほどよく酔い痴れ、ノスタルジアに浸って本棚を眺めていると、懐かしい金句の群れが押し寄せてきた。こやつに出会ったのは、三十年くらい前であろうか。おいらが好青年と呼ばれていた頃、純真な心を癒やしながらも、天の邪鬼精神を目覚めさせたのであった...
「われわれの美徳は、ほとんどの場合、偽装した悪徳に過ぎない。」

「箴言集」は、ルソーやサルトルらの反発を買い、後世、高名な作家たちから槍玉に挙げられてきたアクの強い作品である。ラ・ロシュフコーは、フランス貴族の中でも屈指の名門の出だそうな。ルイ13世やルイ14世が権威を誇り、革命にはまだ間のある時代、上流社会には見栄っ張りの浪費家が溢れ、ラ・ロシュフコー家も例外ではなかったようである。
紳士の格言では、社交術や会話術を交えながら皮肉たっぷりに問い詰め、恋愛をめぐる辛辣な警句では、ご婦人方がサロンでお喋りしている光景が目に浮かぶ。ここには自己完結した文句が無作為に羅列され、どこからでも拾い読みができる。それでいて、一つの体系を成しているように映るのは、隅々に渡って自己愛の原理が働いているからであろう。主題には、哲学でお馴染みの節制、謙虚、義務、正義、幸福などが挙げられるものの、それぞれが自己愛を中心に絶えず循環し、さらに、嫉妬症、妄想症、説教癖、狂言癖、老人病といった性癖を随所に絡ませる。あらゆる所に否定の通奏低音が響き渡り、いわば、自己愛の肖像とも言うべき作品なのだ。
尚、本書には「考察」という作品が付録されるが、考察というより、人間観察と言った方がいい。「考察」は著者自身は公刊しなかったそうだが、参考までに併せて訳出したという(二宮フサ訳、岩波文庫版)。なるほど、人間観察というより、ラ・ロシュフコー観察ってわけか...
「話すための技術が沢山あるとすれば、黙するにもそれに劣らぬだけの技術がある。世には雄弁な沈黙があり、これは時に賛同したり否認するのに役立つ。からかう沈黙もある。敬意に満ちた沈黙もある。」

パスカルは、神なき人間は悲惨だと語ったが、はたしてそうだろうか。確かに、縋るものがなければ、絶望の淵に沈んでいく。虚偽的な正義、打算的な虚栄心、自己満足的な憐憫、気まぐれな情念... こうしたものが人間の本性であり続ける限り、そこから逃れることは叶うまい。
ならば逆に、悲観的な人間観を心の拠り所にする術はないだろうか。人間の行動パターンなんてものは、ほとんど自己存在、ひいては自己愛で説明がつく。自我にとって自己愛ほど手に余る存在はない。誉められたい... 認められたい... だから人は努力する。自己の中に得意なことを見出し、強調し、集団の中で優位に立とうと。ちょっと不幸そうに見える人には幸せの押し売りどもが群がり、本当に不幸な人には誰一人目もくれない。人間ほど差別好きな動物はいない。なによりも自分自身を差別化しようとする。自分自身に本当に自信があれば、他人を蔑んだりはしないはずだが、自己確認のために劣位な存在を欲してやまない。見返りばかりを求める心の高利貸しが、支離滅裂な自負心を旺盛にさせて自己を慰めれば、まるで自慰行為の塊!人はみな、ネガティブキャンペーン好きよ...
「自己愛こそはあらゆる阿諛追従の徒の中の最たるものである。」

かと思えば、自分の真の姿を知りたいのは自分自身のはずなのに、他人から暴かれることには恐れおののく。何事も愛が結びつくと狂気沙汰となるものだが、自己に取り憑いた時は厄介極まりない。自己を偶像のごとく崇拝しちまう。人はみな偶像崇拝者よ。
愛ほど、ひた隠しにすることもなければ、装ったりすることもない。おまけに、絶えず掻き立てなければ持続できず、自己を蝕むだけでは飽き足らず、相手の安らぎまでも餌食にする。案外、人は自分の欠点をよく知っているものだが、欠点を欺くという欠点を纏っているがために、いっそう欠点を増幅させる。
嫉妬もまた他人の幸福に我慢ならない狂気の類い。幸も不幸も、その人の感受性で程度が決まり、情念の暴虐に跪く。自己が最もうんざりする存在であることを承知するには、非情な勇気がいる。己れの傲慢さには、己れの傲慢さを対抗させるしかない。ありとあらゆる行為が自己弁明を装った自作自演と化し、もはや敵は己れ自身!
こんなものに無防備で立ち向かえば、悲観論に陥るは必定。哲学は過去と未来の不幸を克服してくれるが、現在の不幸は哲学をいとも簡単に凌駕する。それでもなお... 自己否定に陥ってもなお... 愉快でいられるとすれば、真理の力は偉大となろう。箴言とは、自分自身をおちょくってもなお、愉快になれる境地を言うのかもしれん...
「人間の心をあばいて見せる箴言がこれほど物議をかもすのは、人々がその中で自分自身があばかれることを恐れるからである。」

では、気に入ったところを少しばかり拾ってみよう... すると、どうも捻くれたものばかりを選んでしまう。それも、おいらの精神が歪んでいる証であろう...
「人は自分について何も語らずにいるよりは、むしろ自分で自分の悪口を言うことを好む。」

1. 欠点の告白
「われわれが小さな欠点を告白するのは、大きな欠点は無いと信じさせるために過ぎない。」

「もしわれわれに全く欠点がなければ、他人のあらさがしをこれほど楽しむはずはあるまい。」

「もし自分に傲慢さが少しもなければ、他人の傲慢を責めはしないだろう。」

「われわれは実際に持っているのと正反対の欠点で自分に箔をつけようとする。気弱であれば、自分は頑固だと自慢するのである。」

「断じて媚は売らないと標榜するのも一種の媚である。」

2. 助言の良識
「およそ忠告ほど人が気前よく与えるものはない。」

「自分と同じ意見の人以外は、ほとんど誰のことも良識のある人とは思わない。」

「助言の求め方与え方ほど率直でないものはない。助言を求める側は、友の意見に神妙な敬意を抱いているように見えるが、実は相手に自分の意見を認めさせ、自分の行動の保証人にすることしか考えていない。そして助言する側は、自分に示された信頼に、熱のこもった無欲な真剣さで報いるが、実はほとんどの場合、与える助言の中に、自分自身の利益か名声しか求めていないのである。」

3. 正義と義務
「真実は、見せかけの真実が流す害に見合うだけの益を、世の中にもたらさない。」

「正義とは自分の所有するものを奪われるのではないかという強い危惧にほかならない。」

「あらゆる立場でどの人も、みんなにこう思われたいと思う通りに自分を見せようとして、顔や外見を粧っている。だから社会は見かけだけでしか成り立っていない。」

「生まれつきの残忍性は、自己愛が作るほど多くの残忍な人間は作らない。」

「人から受ける強制は、多くの場合、自分自身に加える強制よりも辛くない。」

「われわれは死すべき人間としてすべてを恐れ、あたかも不死であるかの如くすべてを欲する。」

「怠惰と臆病がわれわれを義務に繋ぎとめているだけなのに、もっぱらわれわれの道義心が義務遵奉の名誉を独り占めにする。」

「金に目もくれない人はかなりいるが、金の与え方を心得ている人はほとんどいない。」

「どれほど多くの人間が、罪のない人間の血と生命を食らって生きていることか。ある者は虎の如く常に獰猛かつ残忍に、ある者は獅子の如くいささか鷹揚らしき外見を保ちながら、ある者は熊の如く粗野で貪欲に、ある者は狼の如く強奪と非情に徹し、ある者は狐の如く奸智に生き瞞着を生業としてる!犬に類する人間もなんと多いことだろう!彼らは自分の種を滅亡させる。自分の飼い主の快楽のために狩りをする。...」

4. 美徳と嫉妬
「人が節度を美徳のひとつにまつりあげたのは、偉人の野心に歯止めをかけ、凡人の不運と無能を慰めるためである。」

「美徳の虚偽性を証明する箴言を、とかく正しく判断できないのは、あまりにも安易に自分の中の美徳は本物だと信じているからである。」

「凡人は、概して、自分の能力を超えることをすべて断罪する。」

「嫉妬はあらゆる不幸の中で最も辛く、しかもその元凶である人に最も気の毒がられない不幸である。」

「謙遜は、誉め言葉を固辞するように見えるが、実はもっと上手に誉めてもらいたいという欲望に過ぎない。」

「人はえてして少しも相手の邪魔にならないつもりでいる時に邪魔になる。」

「ティベリウスやネロの罪悪のほうがわれわれを悪徳から遠ざけ、最高の偉人の立派な手本は、それほどわれわれを美徳に近づけない、と言えるかもしれない。アレクサンドロスの武勇はなんと多くの空威張り屋を作ったことか!カエサルの栄光はなんと多くの祖国への謀反に口実を与えたか!ローマとスパルタはなんと多くの狂暴な徳を称えたか!ディオゲネスはなんと多くの図々しい哲学者を、キケロはお喋りを、ポンポニウス・アティクスは優柔な怠け者を、マリウスとスラは復讐魔を、ルクルスは道楽者を、アルキビアデスとアントニウスは放蕩者を、カトーは頑固者を、作り出したことだろう!これらの偉大な原型はすべて無数の劣悪な模型を産んだのである。美徳は悪徳の国境である。」

5. 幸福の法則
「われわれは、どちらかといえば、幸福になるためよりも幸福だと人に思わせるために、四苦八苦している。」

「幸福な人々はめったに自分の非を改めない。そして運が彼らの悪行を支えているに過ぎない時でも、きまって自分が正しいのだと信じている。」

「この世で最も仕合せな人は、僅かな物で満足できる人だから、その意味では、幸福にするために無限の富の集積が必要な王侯や野心家は、最もみじめな人たちである。」

「賢者を幸福にするにはほとんど何も要らないが、愚者を満足させることは何を以てしてもできない。ほとんどすべての人間がみじめなのはそのためである。」

「運も健康と同じように管理する必要がある。好調な時は充分に楽しみ、不調な時は気長にかまえ、そしてよくよくの場合でない限り決して荒療治はしないことである。」

6. 老人病と虚栄術
「老人たる術を心得ている人はめったにいない。」

「年寄りは、悪い手本を示すことができなくなった腹いせに、良い教訓を垂れたがる。」

「本来の自然な顔をやめて成り上がった位や顕職の顔をなぞるだけでは飽き足りない人もいる。憧れている顕職や位の顔を、ひと足先に作っている人さえいる。なんと多くの大将が元帥に見られようと懸命になっていることか!なんと多くの法曹家が大法官の風を空しく練習し続けていることか!そしてなんと多くの町人女が公爵夫人の顔を作っていることか!」

2017-04-16

"物象化論の構図" 廣松渉 著

「物象化論の構図」と題して、ここではマルクスの物象化論を主眼に置いている。というのも、「物象化」という用語が、マルクスの唱えた「疎外」に対置する形で現れたという経緯がある。プラトンやアリストテレスの時代から「形象」や「形相」という語が用いられてきた。精神という得体の知れないものを、どうやって具象化するか?どうやって具体的な主体として説明できるか?魂と物体の関係をめぐる論争は、幽体離脱か?はたまた、霊魂融合か?いまだ決着を見ない。精神ってやつは、自己の内で確実に認識できる。にもかかわらず、客観的に説明できない実体が存在すれば、真理を探求する自然哲学にとって由々しき問題だ。
プラトンは、観念を独立した実存と捉え、精神の完全な原型である「イデア」なるものを唱えた。だが、実体からの派生は、もはや原型の面影を微塵も残さず、不完全極まりない。
対して、アリストテレスは、観念を物質と分離不能なモナド的内在として「エイドス」なるものを唱えた。だが、脳や心臓の構造までは説明できても、魂の構造までは説明できず、不死を唱えて慰めるが精一杯。
プラトン対アリストテレスの論争は、後世、偉大な哲学者たちによって微妙に言葉を変えながら引き継がれてきた。いや、プラトンとアリストテレスもまた、ソクラテス以前の哲学者たちの代理戦争を繰り返していたのやもしれん。つまり、人類は未だ己の正体すら知らないってことだ。

目に見えて分かる実体は心を落ち着かせる性質がある。一方、最も身近に得体の知れないものがあると、大きな不安に襲われる。大概の人は、精神が投影する自我ってやつを、無駄な存在とは考えたくないだろう。何か意味あるものだと信じたい。抽象的な存在はすべて、肩書、権力、金銭といった確実に目に見える形で具象化し、神という存在ですら偶像崇拝に縋る。そして、自己存在に「価値」という概念が結びついてきた。それは、精神の持ち主の性癖であろうか...
「存在が意識を決定する。存在が無意識をすら決定する。」

さて、物の形として価値を評価する典型に、経済循環というシステムがある。本来、価値とは、如何に社会にとって役立つか、如何に個人にとって心の拠り所となるか... さらに人間そのものに迫って、如何によく生きるか... といった問いに発し、そこにはソクラテス哲学が組み込まれている。
しかしながら、商品価値という概念が生まれると、交換価値が優勢となり、モノより交換手段に目が奪われる。政策立案では、なんでもいいから貨幣を循環させさえすればいいという思惑に憑かれ、命の価値までも貨幣換算される。
マルクスの物象化が、当時の資本主義を基調とした生産社会への批判から生まれたのは確かであろう。労働価値説が、マルクス以外にも様々な形で現れた時代である。大量生産の合理的なシステムが自己疎外を招き、人間とは何か?といった根本的な問い掛けへと回帰させ、自己実現への道を開こうとする。人間本性の自由を担保できなければ、どんな制度を持ち込んだところで官僚腐敗化するは必定。
廣松渉は、マルクスは既に疎外論から脱皮して物象化論の段階にあったと解き、これを「疎外論の止揚」と表現している。止揚とは、「アウフヘーベン」。そう、ヘーゲル哲学の基本概念だ。おいらはヘーゲル弁証法を哲学論というより、慣習的方法論と捉えている。ソクラテスは矛盾を克服すべき障害と捉えたが、ヘーゲルは矛盾と向き合うことによってのみ真理に近づけると考えた。批判哲学の原理は自己の哲学をも批判する立場をとるのであって、酔いどれ天の邪鬼流に言えば、健全な懐疑心と啓発された利己心が自立や自律をもたらす、とでもしておこうか...

1. 資本論と唯物史観
廣松渉は、「唯物史観こそがマルクス哲学の基軸である。」と表明する。もちろん完成した体系ではない。ただ、しばしばマルクス主義者が主張する頑固なドグマの体系でもなければ、イデオロギーやユートピアを唱えたものでもないようである。硬直化した解釈の下では宗教と同じことで、ならばマルクス教と呼べばいい。マルクスはこう書いているという。
「哲学の実践はそれ自身理論的である。個々の実存をその本質において、あれこれの特殊な現実を理念において量ること、これが批判である。」
ところで、マルクスの大作に「資本論」ってやつがある。いつかは読破してみたいと考え、もう二十年が過ぎた。お茶を濁そうと、序文に位置づけられる「経済学批判」を手にとってみると、カントの批判哲学を継承したようなイデオロギー色を感じないものであった。それどころか、経済活動の同質化による精神的弊害を指摘し、より高尚な自由主義を唱えているように映り、「資本論」に少しばかり近づけそうな予感がした。次に、マルクスとエンゲルスの共著「共産党宣言」を手にとってみると、理想像を具現化した途端に幻滅し、再び「資本論」を遠ざけることに。「共産党宣言」が1848年、「資本論」が1867年から1894年と時間の隔たりも大きく、考えも変わったのやもしれん。人生において、思想に一貫性を保つことは不可能なほど難しい。
本書は、元来マルクス哲学は近代イデオロギーの地平を超克し、ロシア・マルクス主義流の科学主義的マルクス主義や、西欧マルクス主義流の人間主義的マルクス主義を批判する立場にあるとしている。しかも、第二インターナショナルのカウツキーあたりからマルクス主義の教義体系が持ち込まれたと。
「人々が、もし、理論体系、叙述された文章内容を自存化させ、それが自己完結的に、その内部で、いわゆる "革命の必然性の論証" をおこなうことができ、一定の当為を論理必然的に論証・導出できると考えるとすれば、それは『著述』というものに対する一種の『物神崇拝』フェティシズムに陥っていることの一表白であります。」

2. 疎外論から物象化論へ
自己疎外から解放させてくれる一つの方法に、社会との関わり方がある。実体として捉えようとするから無理があるのであって、関係として捉えてみてはどうであろう。相対的な認識能力しか発揮できない知的生命体にとって、絶対的な実体を認識することなどできはしない。だから、自己を見つめるために、他の人との相対的な関係から見つめる... などと鑑みると、マルクスの物象化は、実体主義から関係主義への転換という解釈も成り立ちそうである。マルクスの唯物史観は、物質と人間の関係、人間と人間の関係、さらには歴史と人間の関係から生じたようである。それもプロレタリアート側の意識から。彼のイデオロギー的な物言いは、著作「ルイ・ボナパルトとブリュメール18日」にも垣間見ることができる。
一般的に、社会的価値が個人的価値よりも優先される。アリストテレスは、人間はポリス的動物だとした。マルクスとエンゲルスは、資本主義の生産関係に代わるべく社会編成を提示し、物象化された実現条件を示した。そう、共産主義ってやつだ。何か新しいものを提示しようとすれば、新しい語をもって説得力を与えるのが常套手段。案の定、マルクス主義はイデオロギー色に染まった政治団体によって利用されてきた。マルクス主義を貶めてきたのは、マルクス主義者たち自身かもしれない。
マルクス・レーニン主義とも称されるが、マルクスとレーニンは本当に同じものを目指していたのか?マルクスは、本当に資本主義を否定したのか?あるいは、資本主義の改善を求めたのか?はたまた、真の共産主義は未だ物象化に至っておらず、マルクスをもってしても、その物象化に失敗したのか?
そうなると、「物象化」という用語もなかなか手強い。本書では、具体化や具現化というより、普遍性に近い意味で使われている。少なくとも「資本論」は、イデオロギーや経済システムを超越した難解な哲学書として君臨している。本書のおかげで、再び「資本論」へ近づけそうな気がする。いや、気のせいか?酔いどれ天の邪鬼ごときに読解できるとは到底思えないが、この大作に一度手をつければ、一ヶ月は集中することになりそう。そんな余裕が、今のおいらにあるのか?仕事が忙しいとは、権威をまとった、実にうまい言い訳である...

2017-04-09

"省察" René Descartes 著

デカルト哲学の第一原理は、「方法序説」のあの有名な命題でほぼ言い尽くされている... 我思う、ゆえに我あり... と。「省察」では、より精緻な表現が用いられる... 私は実体である... と。この原理を根本から支える主張に心身分離論がある。精神は肉体とともに腐敗していく存在ではなく、独立した崇高な存在であり、それ故、死はけして恐れるものではないと。
しかし、こうした思考は、なにもデカルトに始まったことではない。そもそも哲学の課題には、大きく二つあるだろう。一つは、真理とはいかなるものか、いかに真の知識を得るか。もう一つは、現実世界をいかに生きるか、いかに生きるべきか。要するに、哲学の根本原理は、知識と道徳の融和にある。知識を蓄えるだけでは知性に達し得ない。道徳を学ぶだけでは理性は得られない。ここには、精神の不死を唱えたソクラテス精神「よく生きる」が脈々と受け継がれている...

デカルトの思考法は、きわめて数学的である。ユークリッドが「原論」の中で公理と公準の形で、これ以上証明のしようがない純粋な命題の存在を明らかにしたように、神の実存性とその無限性を、人間の直観の偉大さによって示そうとする。
デカルトの形而上学は、自然学と結びついて地球の構造や磁力、水や大気や熱などを論じ、機械論的宇宙論の様相を呈す。動物をも機械とみなせば、人間はどうであろう。身体が機械的であっても、精神は別物だというのか。理性的言語の使用は、精神の持ち主にだけ与えられた高貴な能力だというのか。デカルトは、情報伝達だけの言語ならば動物にもあるが、哲学を構築することのできる言語となれば人間だけの才だと主張している。
では、その崇高な言語を操る精神の存在をどう説明できるというのか?人間は思惟する存在であり、この思惟するという崇高な性質を説明するためには... そもそも崇高なのかも分からんが... 人間を超越した存在を仮定しなければならない、というわけである。相対的な認識能力しか持ち合わせない知的生命体が、自らの有限性を証明しようとすれば、その対極にある無限性を持ち出さなければ説明できない、といった具合に。そして、神の存在証明を目論むと、詭弁論にならざるをえない。
「神を存在するものとしてでなければ考えることができないのは、山を谷なしに考えることができないのと同じであるが、しかし、山を谷とともに考えるからといって、そこからただちに、ある山が世界のうちに存在する、という帰結ができてこないことも確かである。」

百歩譲って神が存在するとしよう。それでも、神は人に考えを強制しないが、人間は人に考えを強制しようと止まない。それは聖書の解釈をめぐって顕著だ。不完全で有限な存在が見識が狭いのは道理であり、人間の想像する神が、これまた不完全であることも道理である。無知者は無知を自覚できない、あるいは、すべての誤謬は無知に発する、といった無知の原理は、プラトンによると既にソクラテスによって提示されている。知らぬが仏と言うが、鈍感でなければ幸福にはなれない。
したがって、精神を研ぎ澄ます自然哲学者が、神の存在を認識できたとしても、幸福者にはなれないだろう。そもそも彼らの目的は、幸福ではないのかもしれない。
では、真理を探求する目的とは何か?人間の創造は宇宙法則の延長上にあり、あらゆる存在意識はおそらくそこに発している。すべての存在を論理的に説明しようとすれば、一旦存在を疑ってみることになり、自己存在をも疑ってかかることになろう。
しかしながら、自己存在と自己否定は精神の内で共存が極めて難しい。思惟した結果が自己否定に辿り着こうものなら、自己を欺かずにはいられず、さらに愛が絡むと、もう手に負えない。純粋な愛情劇がドロドロの愛憎劇へ変貌するのに、大して手間はかからないのだ。自己否定を承知してもなお精神が平穏でいられるならば、真理の力は偉大となろう。その境地こそが、彼らにとっての幸福というものであろうか。少なくとも自然哲学者の唱える神は、宗教家の唱える神とはまったく異質のように映る...

ところで、精神には、二つのことがある。一つは思惟すること。いま一つは、肉体と結びついて、物体を主導したり、物質に隷属したりすること。形而上学では思惟することに主眼を置くが、精神の実体は、能動的であると同時に受動的であり、情念の関与は避けられない。人間の精神は、客観性よりも主観性に支配されることが圧倒的に多い。主体や主観は、肉欲や物欲とすこぶる相性がよく、なによりも自己存在の根源的意識となっている。そもそも思惟するという行為が、極めて主観的である。デカルトをもってしても、形而上学の次元では心身分離論を唱えても、現実世界の次元では心身合一論を唱えざるを得ないか。実際、彼は「情念論」も書しており、スピノザ哲学にも通ずるものを感じる。
「省察」には文字通り反省の意味も含まれるが、意地悪く言えば、モナドロジーへの鞍替えか?いや、心身分離論と心身合一論の矛盾はデカルト哲学の弱点ではあろうが、むしろ自然哲学が抱える矛盾と捉えるべきであろう。
人間には性癖がある。認めたものが感情論に支配されていることに薄々気づきながら、絶対に認めようとはしない。社会常識とされることも、しばしば狂気じみている。そんな性癖でもなければ、戦争のような人間が人間を抹殺にかかるという現象を、とても説明できそうにない。正義という動機がいかに脆弱なものであるか。それは歴史が散々示してきたというのに、いまだに社会全体が正義の言葉に踊らされる。人の欠点がはっきり見えるということは、自分自身にも似たような欠点があることを意味する。自分自身の本性と向き合わずして、何が哲学よ!
デカルトの唱える方法論は、自ら「普遍的な懐疑の効用」と呼び、先入観から解放させてくれるという。それは、蓋然論者の独断や懐疑論者の不可知論を退けることが前提される。無思慮と軽率さに見舞われる盲信に対して、熟慮した懐疑心で対抗するしかないというわけである。誤謬の原因は、有限な悟性の明晰判明な認識を超えて自由意志を働かせることにあるという。これを避けるために、意志を悟性と同じく有限界に押しとどめよ!と。有限界にとどまる人間が無限界の存在を語ろうとすると、恐ろしい虚無感に襲われる。はたして、健全な懐疑心と啓発された利己心が、自立と自律をもたらし、自己精神の存在を確実に発見させてくれるだろうか...

2017-04-01

今年は2017年... トリ返しがつかない上に、酉年なんて申します...

今日、四月一日...
朝っぱらから場末の角打ちで一杯ひっかけていると、角の隅っこで酉年のお人が何やらつぶやいている。

2017年は、酉年!
とは申しましても、鳥のごとく大空へはばたくことも叶わず、コケコケコッコと騒ぐが精一杯!人生に説得力なければ、言葉に信憑性ともなわず、いくつになっても、まったくヒヨコのままのチキン野郎でして...

ところで、人間の身体って、すべて金でできてるって言われまんなぁ。
頭は頭金、眼は元金、借金の肩に手つけを払って、耳は揃えて返しまひょ。足はお姉ちゃんの足代、鼻は芸者遊びで花代、そして、指は高い高い指名料とくれば、へそくりでもしてお腹を温めなはれ。宮仕えは首にでもなったら、ワヤ!おまけに、酉年には借金とりに追われ、首が回りまへん。ベンジャミン・フランクリンという人は、うまいこと言いなはる...
「お金と人間は持ちつ持たれつ。人間は贋金をつくり、金は贋の人間をつくる。」

シメを飾るは真打ちでして、これを「とりを務める」なんて申します。人生のとりを飾るは、トリカブトでっか。夫婦喧嘩もほどほどに。終わりよければすべてよしと申しまして、人生をどう完結させるか苦心する次第。ただ、とり返しのつかない上に、これを世間では酉年と申します。神も仏も無情でんなぁ。バーナード・ショーという皮肉屋がうまいこと言ってましたわ...
「人が死んでも人生は滑稽であり続け、人が笑っても人生は深刻であり続ける。」

現世に幻滅しつつも、一月一日ともなれば、新年明けましておめでとう!なんて皆々合言葉を交わしよる。せめて年明けぐらいは夢を見ていたい!というのが本音でありましょう。
一方、四月一日は、世間ではエイプリルフールなんて申しまして、堂々と冗談の言える日ということになっておりますが、実は、本音が存分にぶちまけられる日のようでんなぁ。ただし、嫁さんへの本音は、保険金を惜しまず掛けてからにしときなはれ。コミュニケーションには言葉のキャッチボールが大切なんて申しますが、すぐさま言葉のドッジボールと化し、やがて言葉のビーンボールが頭をかすめよる。
ちなみに、完璧な仕事料の相場は、300万ドルと聞きましたわ。ゴルゴ13... 奴を狙撃しろ!

ジョージ・ムーアという人は、うまいこと言いなはる...
「現実は夢を壊すことがある。だったら、夢が現実をぶち壊したっていいではないか。」