2017-12-31

"ヘミングウェイ短編集(全二冊)" Ernest M. Hemingway 著

夜な夜な仕事に集中できず、気分転換に本棚を整理していると、その奥底から見覚えのある作家が出土された。アーネスト・ヘミングウェイ!?... おいらは、この作家が嫌いだ。いや、嫌いだった。というのも、大学時代、一般教養科目の英語でヘミングウェイ狂の教授がいて、作品を持ち出しては行間を読め!などと、やたらと威圧的な授業があったのを覚えている。
そもそも小説とは、作家だけでなく、読者の自由精神をも解放してくれるものでなければ楽しめるはずもなく、無理やり解釈を迫れば想像力が働かないばかりか、拒絶反応を起こしてしまう。天の邪鬼だから尚更だ。行間を読むにしても、作品全体を通して立体的な視点に立脚する必要があり、いくら優れた作品だからといって部分的に引用されても、上っ面の文章ですら読む気がしない。おそらく単位をとるために仕方なく買ったのだろう。
とはいえ、引っ越し貧乏で、その都度処分してきたはずが、ここで出会えたのは奇跡!いや、運命に違いない。三十年の月日を思えば、なんと回り道な人生だったことだろう。回り道、寄り道、道草の類い、これがたまらないのだけど。今、この考古学的発見に感動を禁じ得ない...

ここに連なる短編群には、物語の設定や登場人物の人格といった前提説明がまったく見当たらない。淡々と登場人物の会話を記録したような外面的な描写に、文体にも技巧的なものが感じられず、むしろ素朴な印象である。題材も凝ったものが見当たらず、ありふれた日常を綴っている感じ。凡人は日常の幸せにも気づかないものだが、天才は日常までも芸術にしてしまうらしい。
それでいて、会話から徐々に浮かび上がってくる状況や人物像は、推理小説風の酒肴(趣向)すら感じられる。言葉が足りなければ、読み手が物語を補わずにはいられない。つい作家との共同作業に参加してしまうような衝動に駆られ、独り会話風のモノローグが酔っ払いの独り言を加速させる。いや、単に説明に怠慢な小説家というだけのことかもしれん。これが、ヘミングウェイ流か...

ところで、ヘミングウェイには、帰属意識なるものがあるのか?あるいは、途中で失ったのか?社会的所属とは、ぼんやりした概念ではある。大抵の人は、生まれた時にどこかの国に、どこかの自治体に自動的に所属させられ、それが学校だったり、職場だったりと、常にどこかの集団に取り込まれるという奇跡的なシステムの中を、当たり前のように過ごしている。そのために、どこにも所属しないことが、ネガティブなイメージを与えて不安に陥れる。地上で、これほど孤独を恐れる生命体も珍しいかもしれない。
まずもって不自由を存分に思い知らされれば、才能豊かな人ほど、この呪縛から逃れようとするだろう。悪徳は恐ろしき怪物なれど、それが人間の本性。これに対抗するかのように、人々は愛という言葉を口にする。この言葉には、実に幅広い意味がこめられ、社会とのつながり、人間とのつながり、自己とのつながり... それは温かくも感じられれば、隷属にも感じられる。隣人愛や自己愛の押し売りが、社会嫌いへいざない、人間嫌いへいざない、ついに自我までも否定しかねない。ただ、愛の奴隷になるのも悪くない。おいらは、M だし...
見たまんまの風景をそのまま綴り、あとは読者に解釈を任せるだけであれば、それは書き手としての究極のエゴイズム。自ら言葉を自立させなければならない、と読者に要請してきやがる。自分に嘘をついても虚しいだけ。口に虚しいと書いて「嘘」、人の為(ため)と書いて「偽り」、さて、どちらを信じよう。人間の弱さを素直に曝け出し、自分の弱さを認める勇気を持ちたいものである...

尚、本書は、大久保康雄訳版(新潮文庫)の全二巻構成。
第一巻から...「インディアン部落」,「医師とその妻」,「拳闘家」,「兵士の故郷」,「エリオット夫妻」,「雨のなかの猫」,「心が二つある川(一, 二)」,「挫けぬ男」,「異国にて」,「白い象のような山々」,「殺し屋」,「ミシガン湖のほとりで」,「世界の首都」,「橋のたともにいた老人」,「キリマンジャロの雪」。
第二巻から...「五万ドル」,「十人のインディアン」,「贈りもののカナリヤ」,「アルプスの牧歌」,「追走レース」,「身を横たえて」,「清潔な明るい店」,「世の光」,「海の変化」,「スイス礼讃」,「死者の博物誌」,「ワイオミングの葡萄酒」,「父と子」,「フランシス・マコーマーの短い幸福な生涯」が収録される。

1. ロスト・ジェネレーション
ヘミングウェイは、第一次大戦で戦傷を背負った、いわゆる「失われた世代(ロスト・ジェネレーション)」の代表のように言われる。彼の人生が自殺によって終焉したことも、その一因であろう。戦争体験を爽やかに描けば、却って暗さを浮かび上がらせる。無意味な死の荒れ狂う場に身を置けば、素朴な風景を欲するものなのか。何か失ったものを取り戻そうと藻掻いているかのように。死者から得られる合理的な興味といえば、死者からの無言の教示であるが、これに必死に耳を澄まそうと。
そして、生命の本質は無への回帰を望むのかは知らん。精神が空洞化すれば、残されるのは肉体のみ、それも単純素朴な人間味のみ、まさに抜け殻。現世の秩序や道徳に不信をいだき、知性や理性を否定する。現代人が疲弊にあげく自意識過剰とは真逆な価値観だが、それだけに自我と、いや超自我との対決を余儀なくされる。
「清潔な明るい店」では、自殺に失敗した爺さんが孤独感を背中に漂わせて酒を飲む。ひどく年をとり、足取りもおぼつかないが、威厳を保っている。そりゃ清潔さ、酔っ払ってもこぼさないし。清潔さと秩序が無(ナダ)の中で生き長らえ、それに気づかなければ幸せというもの。ちなみに、ナダはスペイン語で、虚無といった意味があるそうな。
さらに、「死者の博物誌」で登場する台詞が追い打ちをかける。
「いまぼくは、ヒューマニストと自称する人たちの死にざまを見たいと思う...」
絶望と虚無を描きながら自暴自棄の側面を見せつつ、少年期の童心回帰を試みるのも現実逃避の一つ。娼婦の癒やしに光を見つけるのも、現実逃避の一つ。
「ニック・アダムス物語」と呼ばれる一連の作品で体験物語を綴り、狩猟や魚釣りをした思い出に救いを求め、ノスタルジーに耽るのも防衛本能の一つ。
その一方で、勇気ある男の世界を夢見る駄目オヤジには、一瞬の勇気と引き換えに死を与えるような滑稽な演出をしたり、けして懲りない闘牛士は老いても異様な執念を燃やし続け、不眠症のボクサーは試合が気になって眠れないんじゃなくて、女房の身体が恋しくて眠れないんだとさ。
こうした物語に小説家の病んだ心と結びつける批評家もいるが、実は、ヘミングウェイ流のジョーク、言わば、彼独特のファルス論ということはないだろうか。自分の死までもお笑いで片付けようというなら、巧妙な策略家と言わねばなるまい。あの世で翁は、行間を読みすぎる読者を嘲笑っているやもしれん...

2. ニック・アダムス物語
体験に裏付けられた題材を創作の信条とすることで知られるヘミングウェイだが、いっそう彼自身に密着する一連の作品群が「ニック・アダムス物語」と呼ばれる。この老作家は、北ミシガンのインディアン部落に近い森林地帯で少年期を過ごす。青年期には第一次大戦に参加し、イタリア戦線へ。戦傷と治癒の期間を経てパリで修行を積み、「日はまた昇る」や「武器よさらば」で作家の地位を確立した。闘牛と狩猟と魚釣りに没頭し、スペイン内乱を体験。
ニックの遍歴を辿ると、最初に出会うのが「インディアン部落」という作品である。ニックの父は医者で、インディアンの女性に帝王切開を施して無事に子供を取り出すが、その上のベットでは女性の夫が剃刀で喉をかき切って死んでいた。生と死の対比がなんとも印象的である。
「医師とその妻」がこれに続き、ニックは人生の悪を否定する母を捨て、狩猟好きな父とともに森の中へ入っていく。父は悪を承認する側の人間なのだ。善の側よりも、悪の側に最も人間の本質が顕れやすいということを体現しているような。
「拳闘家」では、かつてのスターは落ちぶれ、黒人の前科者に保護されながら田舎を放浪する、なんとも不気味な光景にニックは衝撃を受ける。
「殺し屋」では、事件に至るまでの説明がいっさい見当たらない。登場人物がどんな奴か?舞台はどこか?目の前でなされる会話を直接ぶつけてきやがる。物語の筋は単純で、だから張り詰めた緊迫感とリアリティを醸し出すのか。
「心が二つある大きな川」では、戦傷に病めるニックを描く。夢魔に精神と肉体を蝕まれて、眠れぬ夜を過ごす日々。本国へ戻り、魚釣りに出かける。餌に捕まえたバッタが真っ黒に染まっているのを見ると、焼け跡で死んでいった人間と重なるのか、一見釣り好きの物語のようで陰の世界を垣間見る。虚無と絶望から救われるのは、純粋に打ちこめる趣味ぐらいなものか。
「十人のインディアン」では、インディアンの恋人を寝取られたニックの失恋体験を告白。
「アルプスの牧歌」では、雪の深いアルプスで山小屋に住む農夫を描く。農夫の妻が死んだのは12月で、今は5月。死後硬直した遺体を半年間も丸太のように、壁に立てかけていた粗野ぶりに唖然。
「身を横たえて」では、戦争のさなかにあっても、戦争を意識しないで済むひとときを描く。もはや郷愁の思いに縋るしかないか。
「世の光」では、娼婦に縋る男のロマンを描く。ただ、主人公は「ぼく」で、ニックなんて名前はどこにも出てこないが、これもニック・アダムス物語なのだそうな。
最後にニックが登場する作品は「父と子」で、すでに38歳。今度はニックが父親となって長男を連れて行く。胸に絶えず去来するのは自殺して果てた父のこと。息子と亡父の墓参りに行く約束をして物語は終わる...

2017-12-24

"音楽と音楽家" Alfred Einstein 著

古本屋を散歩していると、シューマンの書した同じ題目でアインシュタインのものを見かけた。偉大な物理学者が音楽論???まぁ、音楽に造詣の深い科学者や数学者をよく見かけるし、ピュタゴラスだって音楽論を語った。そして近寄ってみると、なぁーんだ、アルベルトではなくアルフレートかぁ。この勘違いのおかげで、音楽のまったくのド素人が、これほどの書に出会えたのは幸せである...

19世紀の音楽史家に、アルフレート・アインシュタインという文才がいたそうな。本書は、イタリア・ルネッサンスに始まり、シュッツ、バッハ、ヘンデルから古典派やロマン派を経て、フルトヴェングラーまでを外観してくれる。これほど広範に及ぶからには、一般書に分類すべきなのだろうが、それにしては造詣が深すぎるほどに深い。
尚、モーツァルトに関する記述があまりに乏しい... と思っていたら別本で出版されていて、やはりモーツァルトは特別な存在と見える。こちらの作品にもいずれ挑戦してみたい...

18世紀中頃、音楽にとって、音楽家にとって、いまだかつてない危機に見舞われたという。バッハやヘンデルが世を去り、その後を継ぐ者が学問的なものと、ガラントなものとに分裂したと...
「ガラント」という言葉のニュアンスがいまいち掴めていないが、音楽界では世俗的で、社交的慣習の特殊な用語としている。「学問的なもの」というのは、真正のポリフォニーは死滅し、もはや自然な音楽言語ではなく、専門家たちの意思疎通の道具になってしまったということ。いずれの分派も、偉大な感情の担い手としては相応しくないというのである。そして、ルネサンス精神を最も純粋に再現した形式としてマドリガルを語りながら、国粋主義の知らぬ幸福な時代を懐かしむ。
「マドリガルの本質は、伴奏付リート技法の一種だったフロットーラとは反対に、まったく無伴奏音楽であり、しかも、モテットという教会音楽の分野での同時的平行現象よりも、はるかに高度に無伴奏音楽なのである。」

さらに、大バッハより百年早く生を受けたシュッツには音楽家の根源的な動機にディレッタント魂を重ね、モーツァルトにはバッハの偉大さを認識した唯一の創造的精神だと賛辞を送り、ヴァーグナーの攻撃性に対しては、そんな弱点も全体像を眺めれば充分に耐えうる完成度があるとし、あるいは、クリストフ・ヴィリバルト・グルックがどこの国に属すかといった楽壇論争を皮肉ったり、ハイドンが長い間不当な評価を受けてきたことを嘆いたり、フルトヴェングラーの段になると「もはや聴く能力を失った」音楽評論家の悲しい仕事と酷評したり...
自分の愛好する音楽や贔屓の音楽家が批判対象となれば、苦々しく感じそうなものだが、そんなところがまったくなく、素直に聞き入ってしまう。それも、純粋な直観から発しているからであろう。
「われわれが尊敬するのは、たいていは、このような楽匠の真の偉大さ、ほんとうの姿ではなく、われわれが勝手に作り上げた姿である。よい例がベートーヴェンである。同時代人たちは、彼を荒々しい革命家だと思い、メンデルスゾーンの時代は古典主義者とみなし、ヴァーグナーは一人のロマンティカーだと考えた。そしてわれわれはといえば、なかでも一番困り者だが、一人のクラシカーだとみなす。」
また、音楽家たちがポリフォニーと対決してきた様子を物語ってくれるのも、なかなかの見モノ。
「ベートーヴェンは、ハイドンやモーツァルトと同様、ホモフォニーの、私に言わせれば、反ポリフォニーの時代、少なくともポリフォニー的言語がもはや適合しなくなった時代に属している。」

1. ルネサンスから近代国家へ
18世紀から19世紀は、近代国家の枠組みがはっきりと現れた時代。芸術家たちが世界中を旅しながらこしらえた偉大な作品も、彼はイタリア人だ!フランス人だ!ドイツ人だ!などと発祥をめぐって論争が巻き起こる。この新たな枠組みが、国粋主義を旺盛にさせてきた。彼らは自問したであろう。普遍性を追求するのに、なにゆえ、どこぞに属さねばならぬのか?と。
そして、国民名簿から抹殺してくれるよう願い亡命するも、受け入れ先でまた名簿に登録され、故郷から非国民などと罵声を浴びる始末。国家という言葉のニュアンスも、愛国心という概念も、プラトンの時代から随分と変質したようである。生まれたら即座に所属させられる、この奇跡的なシステムに、なんの疑問も持たずに生きて行ければ幸せであろうに。
彼らは才能豊かであるがゆえに、世俗の所有物とされる。学問にせよ、芸術にせよ、堕落への傾向はディレッタント的な趣向(酒肴)の排除、すなわち寛容性を失った時に始まる。宗教にしても、いくつかの福音だけを認定したがために、それ以外の福音は異端とされ、いびつとなっていく。いびつな社会には、いびつな精神で対抗するしかあるまい。だからバロック音楽なのか。
ナチス時代に限らず、不遇を強いられてきた音楽家たち、彼らは世俗人と専門家の双方からの攻撃に曝されてきた。その境遇を思うと、アルフレートのなすべき仕事に対する態度を思わずにはいられない。
「フリードリヒ大王が一七四七年にバッハをポツダムに招待したとき、大王はバッハの偉大さを測定するにたる尺度を所有していたのだなどとは、信じないでいただきたい。老バッハは大王にとって、過ぎ去った諸時代から出現した対位法の化石、奇獣だったのである。」

2. ハイドンの再評価
1800年頃、パリのある音楽協会がヨーゼフ・ハイドンのために祝賀会を催した。祝賀行事の山場に聴衆の面前でハイドンの胸像に花環がかけられることになっていたが、そのような像がなかったので、古代のカトー胸像の石膏模像に花環がかけられ、その下に「不滅のハイドンへ」と刻まれたという。このエピソードは、長い間ハイドンが誤解されてきた象徴的出来事として紹介される。
さらに19世紀ときたら、ニセモノのハイドンの頭に誠実味のない保護者ぶった賞讃の月桂冠をかぶせたと。20世紀になって、ようやく再評価されるようになったとか。
そして、オペラ、オラトリオ、ミサ曲、セレナーデ、ディヴェルティメントなど多くの功績の中から、シンフォニーよりむしろ弦楽四重奏曲こそ頂点をなすと評している。18世紀の危機、すなわち、ガラントな音楽と学問的な音楽の二元性を克服した救世主として...
「同時代の批評、殊に北ドイツの批評はハイドンの卑俗性を避難した。ハイドンは微笑して自分の道を歩む続ける。彼は単純で自然である。しかし彼は自分の濁りない不屈な天性の高貴さを頼みにする。シュトゥルム・ウント・ドラングの流行病は彼には触れない。感傷的な自然への復帰を説教するルソーの時代に、ハイドンはみずから自覚することなく、まったくこだわりなく、とうからこの夢想された楽園に坐っていたのである。」

3. 作品最終番とデスマスク
モーツァルトのようにおびただしい作品群に見舞われれば、ケッヘル番号のように整理したくなるのも分かるし、素人にはありがたい。ただ、その整理の基準は、音楽家によってまちまちときた。器楽曲だけを数えたり、声楽曲を別に数えたり、時系列であったりと。音楽家本人にしてみれば、意図しない分類を迷惑がっているかもしれない。
最後の作品ともなれば最後の顔となり、感傷の対象とされる。中には、酷く文学的な扱いを受けることも。死後に音楽評論の尽くされた顔は、死体解剖後に作られたデスマスク。この顔が音楽家の魂から幽体離脱を計り、独り歩きをはじめる。
一方で、最後の作品に最後の思想を結びつけるのが難しい音楽家もいる。例えば、ヴァーグナーは、ベートーヴェンとは違って最後の主題がないという。デスマスクをこしらえるのは後世を生きる者の身勝手な想像であって、芸術家というものは、自分自身が生涯を通してこしらえた芸術履歴や総合芸術、いわば自分自身の世界観に仕えるものらしい。彼らのシンフォニーは音楽的散文であり、最後の作品でレクイエムを奏でる。それは、ある種の信仰告白か...
「偉大な楽匠の作品の総体にはある謎めいた法則が支配している。創造的な人間はみな、自分の作品が完成を見ないうちに死ぬことの恐ろしさ、滅びることの恐ろしさを知っている。創造者はまだ生まれていない作品の完成像を心に抱いているものであり、またひとたび生まれ出た暁には、この作品がそれ固有の存在を得て、永遠に自分のために証人となってくれるであろうことを知っている。」

2017-12-17

"音楽と音楽家" Robert Schumann 著

ゲーテ「西東詩篇」に曰く、
「ただ沈黙の中にのみ啓け行くものを
 あたかも名によりてあるかの如く、-
 神により形作られしままの
 美しき良きものこそ、我は愛す。」

ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン、カール・マリア・フォン・ヴェーバー、フランツ・シューベルトらが死んで間もないドイツ楽壇にあって、ロベルト・シューマンは「新しい音楽(ノイエ・ムジーク)」の運動を展開する。「ダヴィド同盟」がそれだ。尤もこの同盟に属する音楽家はシューマンが独断で選んだものであって、架空の団体である。そこには、ショパンをはじめ、ベルリオーズ、メンデルスゾーン、リストなど錚々たる顔ぶれ。ロマン派音楽の正統後継者は、我らにあり!と言わんばかりに。いや、ライプツィヒの饗宴としておこうか...
「会衆のダヴィド同盟員諸君、即ち音楽におけると否とを問わず、俗人どもを粉砕すべき青壮年諸君!」

酒の肴は、作曲に対する批評である。饗宴の共演者たちは、自らこしらえた協奏曲によって自身を狂想曲へいざない、変奏曲によって自身の変装曲をまとい、独奏曲によって独り善がりに独走曲を奏で、憂鬱な夜想曲までも優雅にさせる。おまけに、無言歌と称しておきながら世間を騒がせる。そして、理論、ゲネラルバス、対位法といったものにおじけないように、と読者を励ましてくれる。カノンなんぞ糞食らえ!と...
音楽の最初の試みは、単純な喜びと悩みに発する。長調と短調がそれだ。とはいえ、この複雑怪奇な精神活動を言葉や楽譜で記述することは難しい。ここには、文学と音楽の融合を見る想いである。実際、シューマンの父親は出版するほどの文学愛好家だったそうで、ロベルト自身もバイロンやゲーテの詩を愛し、ウォルター・スコットやジャン・パウル・リヒターを耽読して育ったという。
ロマンチックな男には詩的な幻想が香る。男は目で恋をし、女は耳で恋に落ちる... とは、ウッドロー・ワイアットの言葉である。こいつは音楽の解剖学か、いや、楽譜の解剖学と言うべきか...
「どんな作曲家もそれぞれみるからに独特な譜面の形をもっていると思う。ちょうどジャン・パウルの散文がゲーテのそれと違うように、ベートーヴェンは譜面からしてモーツァルトと違う。」

1. シューマンの二面性
本物語は、オイゼビウスとフロレスタンという二人の人物が、ラロー先生を囲んで問答を繰り返すという形で展開される。一人が感情をぶつければ、もう一人が沈着に分析し、二人が主観を思いっきり解き放てば、ラロー先生が客観的になだめるといった具合に、まるでシューマン自身の二重人格性を物語っているようである。
また、クララへの想いも見逃せない。ラロー先生のモデルは、後に妻となるクララのことらしい。クララは九歳にして初公演を果たしたピアノの天才少女で、このヴィークの娘との恋物語はなにかと噂される。
シューマンは、ピアノのメカニックな練習に冷静に気長に打ち込むには、あまりにもロマンチックでありすぎたと見える。うまく動かない薬指を酷使したために損ねてしまい、ピアニストの道を断念。そして、作曲に専念することになるのだが、その創作活動にクララが多大な影響を与えたと言われる。シューマンは、妻クララの演奏活動でヨーロッパ諸国に同伴したという。
自由精神は、まず制限を感じとってその反発から活動が始まる。偉大な作家ですら、小説の材料は古典や神話からとってくる。他人の自我に依存して、自律的になるといったことがほとんど...
「ベートーヴェンは(いつも題目なしに)多くの作品を書いた。しかしシェークスピアがいなくてもメンデルスゾーンの『真夏の夜の夢』は生れたろうか。そう考えると憂鬱になる。」

2. 激しい運動の犠牲
シューマンの寵児ブラームスは、非難と支持の双方の的となり、精神病院へ。彼は、ドイツ古典音楽の偉大さを回復するために、感傷と官能性とですっかり膨れ上がってしまった後期ロマン派との対決という巨大な課題を一身に背負うのだった。批評運動というものは激しさを増すと、世間から吊し上げられる者をこしらえる。魔女狩りの類いである...
「罪は僕らにあるとともに彼らにもある。誰かが生涯を通じて、全く同じ眼で見てきたというような大家が果たしているだろうか。バッハを正当に評価するには、青年の持ち得ない数々の経験がいる。モーツァルトの太陽のような高さでさえ、彼らにはあまりに低く値踏みされる。ベートヴェンに至っては、ただ音楽を勉強しただけでは足りない。」

3. 旋律について
音楽とは、ちょうどチェスのようなものらしい。最高の力を持っているのは女王(旋律)だが、勝負は常に王(和声)によって決まる...
「音楽好きの人たちは何かというと『旋律』という。もちろん旋律のない音楽なぞ、音楽ではない。しかし、その人々のいう旋律とは、何をさしているかよく考えてみるがいい。あの人たちはわかりやすい、調子のよいものでなければ、旋律だと思わない。しかし、旋律にはもっとちがった種類のものがあって、バッハ、モーツァルト、ベートヴェンをあけてみると、そこには幾千といういろいろとちがった節がみつかる。貧弱な、どれもこれも同じような旋律、ことに近頃のイタリアのオペラの旋律など、早くおもしろがらなくなるように。」

4. フーガの知ったかぶり
さる気短な男がフーガの概念を大体このように定義したという。
「フーガとはある声部が他の声部からのがれてゆく音楽である... (フーガはフゲーレ、つまりのがれさるという言葉からでている)... しかも第一に逃げだすのは、聞き手である。」
シューマンは、この男はフーガについてほとんど何も分かっていない!と詰め寄る。だが、誰もが主役を主張すれば、その場から逃げ出したくなるのも分かる。酔いどれ天邪鬼は、このフーガ知らずの定義がなんとなく気に入っている...

2017-12-10

"徳富蘇峰・山路愛山" 隅谷三喜男 責任編集

自由政治思想史の一コマ...
明治大正の論壇において、緊密な連鎖関係にあった二人の論客があったそうな。その名は、徳富蘇峰と山路愛山。蘇峰は西南雄藩の出自で、愛山は旧幕の遺臣と、その生い立ちは勝者と敗者、性格も正反対であったとか。蘇峰は、新聞人から松方内閣の勅任参事官、ついで貴族院勅選議員となるが、愛山は終生在野の論客を通す。蘇峰ほどの人物に対して、愛山ほど自由に振る舞った者はいなかったという。いかなる権威にも屈しない真の野人であったと。ところが、愛山を論壇に引き出したのは蘇峰であり、愛山は蘇峰の手を握りながら世を去ったという...
尚、本書には、徳富蘇峰から「将来の日本」と「吉田松陰」、山路愛山から「現代日本教会史論」と「評論」の四作品が収録される。

人間の思想領域とは、奇妙なものだ。同じ考えでも、哲学として眺めれば調和できそうなのに、宗教として眺めれば対立する。改革ってやつもまた、目的が同じでありながら急進派と穏健派で対立する。つまりは方法論をめぐっての争い。
ただ、武力と相性がいいのは急進派の方、いや過激派であって、穏健派は抹殺される運命にある。正義の旗の下では残虐行為までも正当化され、しかも十全にまた愉快になされるものらしい。博愛を唱える修道僧が、最も残虐な行為に及ぶのも道理というものか...
徳川二百六十余年ともなると、難癖をつけてはお家断絶に追い込もうとしてきた幕府に対する溜まりに溜まった怨念は、根深いなんてものでは表現が足りない。元禄文化は、皮肉のこもった演芸を滑稽芸術にまで昇華させた。歌舞伎狂言や人形浄瑠璃の類いがそれで、忠臣蔵などの事件は格好の題材となった。間接的に批判する風潮は、庶民だけでなく武士階級にまで浸透し、中央政府への不満は思想領域において多種多様な形で蓄積されていく。
とはいえ、鎖国政策が時代遅れであることは、幕府の重臣たちも感じていたはずだ。廃藩置県の意義は、武士階級を一旦チャラにすること。西欧列強国に対抗できる国家軍を創設するのに、藩の面子などどうでもいい。ましてや、武家も公家もあるまい。
歴史を眺めれば、いつの時代もグローバリズムと排外主義の綱引き。時代の流れは情報エントロピーには逆らえず、大局においてグローバリズムへと押し流されていく。
そして、明治維新で一気に爆発したものの、この改革は未完成のままで、自由主義への転換は未だ過渡期にある。日清、日露戦争で大国を相手にしての大勝利に国民が沸き立つ中、大正デモクラシーとあいまって自由主義と愛国心が強烈に結びつく。
次の段階では、帝国主義論をめぐっての論争へ移行し、村社会という日本社会の特性が、本来唱えるべく個人の自由を犠牲にする。ベンサムの功利主義から多数派の幸福を優先すると解し、ミルの自由論を集団的自由と解し、アダム・スミスの国富論が唱える生産拡張論を領土拡張論と解し、富国強兵とともに侵略的帝国主義へ。平民主義から国家社会主義へ、自由主義から帝国主義へ、という二重の転換期にある。
歴史を評価する時、いつの時代でも、あの時代は狂っていたと現代感覚で処断される。では、今の時代は?パスカルが言うように、やはり人間は狂うものらしい...

1. 帝国主義へ傾倒
蘇峰ほどの人物ですら、最初は平民主義を唱えていたものの、戦争を契機に帝国主義者となって日本膨張論を展開していく。
一方、愛山は、急激に西洋かぶれしていく日本社会に対して警告を発するものの、内村鑑三のキリスト教平和主義を反駁し、やはり国家社会主義へと傾倒していく。「人を殺す勿れ」を裏返して、「存在する権利あり」とするのが帝国主義論だというのである。ただ、愛山には一つの歯止めがあったという。それは人民の視点である...
「主体のなかに伝統的共同体が根深く存在していたのであり、この家族共同体理念が日露戦争後の、日本の外的・内的危機のなかで急激に膨張し、表面化してきたわけである。この点への透徹した認識こそが、日本国民に課せられた歴史的課題であったのであるが、蘇峰も愛山も、日本社会の根底に盤踞するこの関係と思想とを客観化し、克服することができなかった。そこに日本におけるナショナリズムの軌跡の悲劇があった。」

2. 吉田松陰論
維新革命の功績で、第一の人物を挙げるとなると悩ましい。蘇峰と愛山は、ともに思想面で導いた功績として、吉田松陰を挙げている。
ただ、思想の種を蒔いた者は、その成果を見ることができないのが歴史の皮肉である。自由と平等、そして権利という新たな道徳への展開は、自らの死を覚悟せねばならんのか。松蔭は獄中にあっても、囚人、監守、官吏たちを教化し、門弟たらしむる。そして、その意志を継ぐ松下村塾の門弟たち。
だが、思想とは、人間が編み出した最高位の虚構やもしれん。蘇峰は、「日本国を荒れに暴(あ)らしたる電火的革命家」と評す。
「彼は多くの企謀を有し、一の成功あらざりき。彼の歴史は蹉跌の歴史なり、彼の一代は失敗の一代なり。しかりといえども彼は維新革命における、一箇の革命的急先鋒なり。もし維新革命にして伝うべくんば、彼もまた伝えざるべからず。彼はあたかも難産した母のごとし、自ら死せりといえども、その赤児は成育せり、長大となれり。彼豈に伝うべからざらんや。」
さらに、蘇峰は「小マッチーニ」と呼ぶ。イタリア帝国建立時に活躍した革命家の一人だが、新イタリアは彼の唱えた共和国には程遠く、誇り高い態度を崩さずに死んでいったとさ。マッチーニ曰く、「吾人がなさんとするところは、単に政治的にあらず、徳義的事業なり。消極的にあらず、宗教的なり。」

3. 自由と平等
吉田松陰と同時代を生きた啓蒙的思想家に、福沢諭吉がいる。彼の言葉に「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」というのがあるが、彼らは自由と平等をどのように捉えたのだろうか。それは、能力主義までも否定したのではあるまい。
現実に人間社会は、人の上に人をこしらえ、人の下に人をこしらえる。ただ、あくまでも身分や出生に関係なく個人の努力によるものでなければならず、その意味で封建的な世襲とは相容れない。それゆえ、「学問のすゝめ」なのであろう。
しかしながら、学問とて流行モノに群がる。蘇峰は、当時の西洋化していく様を、フェニキア人が商業をもって征服し、続いてローマ人が腕力をもって征服するにも似たり... と回想している。確かに、西洋哲学には優れたものがわんさとある。モンテスキュー、ルソー、ミル、ヒューム、ホッブス、ロック、ベーコン... だがそれらは、孔子や孟子を否定するものではあるまい。
維新の時代に「自由」という用語が西洋的解釈で使われ始めたとしても、自立や自律といった概念は日本にも古くからある。自由とは、責任を前提とした自己抑制下にあるもので、他人のせいにするのでは自由を放棄したようなもの。けして自由放任とは相容れず、結局は中庸の哲学に辿りつくはずだ。そして、その中庸にも節度が求められるはず。愛山は、こう書いている。
「中庸の哲学は天道に重きを置くときは唯物論となりやすく、性に重きを置けば唯心論となりやすしとす。」
仏教は、徳川時代にほぼ唯一の国教とされ、その保護を受けた。僧侶が伝道せずとも、生まれてくれば、自動的に親の宗派に組み込まれる。民衆は邪宗門徒ではないことを宣言するために、信者の名簿に名を連ねる。まるで戸籍のごとく。こうした宗教原理は、惰性的な儀式と常識によって支えられ、哲理による疑問がわかなければ、精神的向上も望めない。宗教をして儀式の一種とさせ、今日、葬式仏教と揶揄されるに至る。
だがそれは、国民という帰属意識とて同じであろう。近代国家の枠組みが確立したのは、19世紀頃とそれほど古いわけではない。にもかかわらず、生まれてくると自動的にその国に属すよう命じられる。人はこの世に生まれ出ると、まず不自由を体験するわけだ。だから、自由に焦がれるのか?いや、他を知らなければ、それが常識で終わり、他を知ればそれに焦がれる、ただそれだけのことやもしれん...

2017-12-03

"Linux カーネル Hacks" 高橋浩和 監修

"GNU is not Unix !" という自由を象徴するような言葉遊びがあるが、"Linux is GNU ?" と問えば論争になる。人間の縄張り意識は果てしなく続く。自由をめぐってのものとなると尚更...
自己にとって自由精神ほど手強い相手はないかもしれない。自由になるためには知識がいる。それなりに金もいる。そして、なにより時間と空間がいる。空間は仮想的になんとか誤魔化せるし、コンピューティングの最も得意とするところ。そもそも精神空間がバーチャルな存在ときた。
だが、時間はそうはいかない。哲学が暇人の学問と言われる所以がここにある。凡人に出来ることと言えば、無駄な時間をできるだけ削ることぐらい。ただ、何が無駄で何が大切なのかが分からない。行き詰まると... 自分でやれない事は素直に諦めな!... とメフィストフェレスが耳元で囁く。誰かがヒントを与えてくれたとしても、手取り足取り教えてくれる者はいない。そこには、常に自己責任がつきまとう。だから自由なのだ。
なぜ、ハッキングの衝動に駆られるのか?自由を欲するが故に。環境をハッキングしては自分色に染め、アプリケーションをハッキングしては自分の手足とし、核をハッキングしてはすべてを手懐けようとする。なぜ、コンピュータを相手に?人の心をハッキングすることは難しすぎる。自己のハッキングを試みても、頭はいつも Kernel Panic !!
そして、監修者が冒頭から仕掛けてくる言葉が、いつまでも耳に残る...
「いまだ、ソースのないプロブラムは信用できないでいる...」

厳密に言えば、Linux は Unix とは認められていない。これだけ Unix ライクでありながら。これだけ PC-Unix という地位を確立していながら。その線引については様々な見解を呼びそうだが、やはりカーネルの仕組みにありそうか...
Linux の前身 Minix はマイクロカーネルであり、こちらの方が  Unix っぽい。ファイルシステムやメモリ管理などを独立したプロセスとしてカーネルの外に置くという方式は、小さな部品を集めて多様な処理をするという Unix 哲学に適っており、柔軟性も移植性も高い。ただ、実用性に耐えない!
一方、Linux はあえてモノリシックカーネルの道を選んだ。非力な x86 アーキテクチャのために、チューニング思想を優先したのである。それは、プロセス管理、メモリ管理、ファイルシステムなどのコードを一体化させ、一つのアドレス空間で実行するというやり方で、vmlinux に収められる。それでも、カーネルモジュールという動的に機能を追加や削除できる仕組みによって柔軟性が高められ、今では、x64, Alpha, arc, arm への移植性も担保される。しかも、このチューニング思想はリアルタイム性を重視する組込系システムとも相性がよく、いまや、Unix クローンとしての存在感は大きい。
こうした流れも、オープンソースによって後押しされてきた。オープンソースの世界とは、ソースコードが公開されるという事よりも、有能な人材を自由に解放するという事の方がずっと本質なのだろう。本書に名を連ねる方々も、これが趣味から昂じた世界であることを教えてくれる。
Unix を権威主義的とするなら、Linux は民主主義的である。ただ、あまりにも民主主義的すぎる。実に多くのディストリビューション、実に多くのバージョンが混在し、いまや単一のリポジトリでは管理しきれない。そこで、分散型のリポジトリ管理が求められるわけだが、本書は Git の有難味を改めて味あわせてくれる...

本書には、リソース管理やパフォーマンス改善、ファイルシステムやネットワークのハッキング、あるいは省電力化のためのテクニックなどが紹介され、それぞれに興味深い。
しかしながら、個人的に注目したいのは、デバッグ、プロファイリング、トレースといった検証の立場からの視点である。どんな問題にしても解決策の第一歩は、まず観ること、自分がどんな状態にあるかを知ること、そして、それを知るためのエラー検出機構の在り方を問うこと。システム検証で最も厄介なのは、自己矛盾に陥ることだ。
カーネルをいじれば、当然ながら、それが正常に機能しているかを検証する必要がある。エラー検出機構の在り方を問えば、エラー状態を定義し、それをシミュレーションすることになる。例外処理を定義することは意外と難しく、デバッグ機能をデバッグするとは、まさに循環論的な問い掛けなのだ。
政治家は「第三者会議」という言葉がお好きなようだが、それは客観的に正当性を担保できるからである。では、第三者とはどういう立場の人間か?メンバーは誰が選出するのか?そこに政治的な思惑が絡めば、既に自己矛盾を孕んでおり、第三者会議のメンバーを選出するための第三者... その第三者を選出するための第三者... というように無限循環論に陥る。ちなみに、似たような用語に「有識者会議」ってやつもあるが、それで正当性が担保されるかは知らん。つまり、完全な検証とは、無限の試みとも言えるのである。
本書には、クラッシュテストやフリーズ検出、さらには、意図的に Kernel Panic を発生させる方法についても言及される。最悪な状態に陥ってもなお、自動的に再起動できるような仕掛けを作ることも可能なのだ。とはいえ、Kernel Panic にも様々な異常状態があり、再起不能な状態も十分に考えられる。脆弱性をつかれたり、ハードウェアが破壊されたり。今日では一般的となったプログラマブルデバイスにしても、ハードウェアでありながら外部からプログラミングできる代物だ。人間社会は妥協で成り立ち、人間意識は妥協の中をもがき続ける。そして、システムも確率的な存在であり続ける...

1. Git 型民主主義
バージョン管理システムといえば、CVS を思い浮かべる。ちなみに、おいらは RCS に馴染んできたネアンデルタール人だ。
CVS では、リポジトリからローカル作業領域にソースコードを借り受け、修正したコードをリポジトリにコミットするといった手順を踏む。こうした単一型リポジトリは、複数の開発者が一つのリポジトリにコミットする。
一方、Git は分散型リポジトリを採用し、作業領域そのものがリポジトリとなる。ローカル領域がリポジトリとして完結しているという意味では、極めて民主主義的である。
Linux カーネルは、様々な形でソースツリーが存在する分散型の開発スタイルを持つ。最も代表的なソースツリーは、創始者に由来する Linus ツリー。他にも、将来のリリースに向けた linux-next ツリー。安定化バージョンの stable ツリー。モジュール毎に開発が進められる個別の開発ツリーといった形態があるようだ。そして、Linus ツリーが中央リポジトリとして認識されているが、それは暗黙的なもので、Git の仕組みにそのような階層的な定義はないらしい。
そういえば、社会人類学者レヴィ=ストロースは、首長の存在意義について、共同体の必要性から生まれるものではない... というようなことを語っていた。集団社会を形成する上で、それを仕切る者、すなわち政治的な存在が必要だとする考えは、世間では常識とされる。だが、人間が支配欲に憑かるのは本能的な欲望からであり、これに義務という意識が絡んで複雑化させる。誰もが参加できる開発組織では、権威的な存在は自然発生する以外には無用であろう。
ただ、メーリングリストには... コーディング規約に従っていないので直すように... といった指摘を見かける。指摘される側も、自発的なだけに恥ずかしい思いをする。誰もが参加できる!というのは、実はハードルが高い。実は、権威主義的な監視よりも民主主義的なプレッシャーの方が、はるかに厳しいのかもしれない。なるほど、分散型リポジトリとは、自己責任型であったか...

2. リソース管理
カーネルの主な仕事にリソース管理がある。CPU 時間を割当てるプロセススケジューラ、物理メモリや仮想メモリの割当て、ディスク I/Oの制御などである。
本書では、Linux カーネル特有なリソース管理法として、Cgroup(Control group)と Namespace(名前空間)、そして、この二つの機能を利用した LXC(Linux Container) の使用例を紹介してくれる。Cgroup 自体は、プロセスをグループ化するための機能とインターフェースを提供するもので、これを利用してリソース管理機能が実装されるという。Cgroup が提供するサブシステムは、こんな感じ...

$ cat /proc/cgroups

#subsys_name  hierarchy  num_cgroups  enabled
cpuset                2            1        1
cpu                   8            1        1
cpuacct               8            1        1
memory                9            1        1
devices               6           52        1
freezer              10            1        1
net_cls               8            1        1
blkio                 7            1        1
perf_event           11            1        1
hugetlb               4            1        1
pids                  5            1        1
net_prio              8            1        1

そして、Namespace を使うことでプロセスグループ毎に独立した PID や IPC、あるいは、ネットワーク空間やマウント空間を持たせることができるという。名前空間を分割するには、clone システムコールへの引数にフラグを設定して行う。

3. スケジューリングポリシー
スケジューリングポリシーのクラスは、大きく二つに分けられるという。TSS クラスとリアルタイムクラスである。マルチタスク環境では、一般的にプロセスは時分割で動作するが、実時間の保証が要求される処理では、静的に優先度を指定したい。これが、リアルタイムクラスである。例えば、こんなスケジューリングポリシーが定義されている...

SCHED_OTHER         : 標準 TSS クラス
SCHED_FIFO          : 静的優先度を持つ RT クラス
SCHED_RR            : ラウンドロビンでFIFOと違ってタイムスライスを持つ RT クラス
SCHED_BATCH         : 対話型でないとみなされ、休止時間による優先度の変更なし
SCHED_IDLE          : 他のプロセスがなくなって、やっと実行権が与えられる
SCHED_RESET_ON_FORK : リアルタイムクラスの実行を制限する特殊フラグ

スケジューリングポリシーに対するシステムコールも用意され、chrt コマンドは、ユーザレベルでスケジューリングポリシーを変更できる。おっと、i オプションに誘惑されそう。そういえば、おいらが好青年と呼ばれていた新入社員の時代、先輩からメインフレーム上でジョブの優先度を下げられるという悪戯をされたものだ。

# chrt --help
Show or change the real-time scheduling attributes of a process.

Set policy:
 chrt [options]   [...]
 chrt [options] --pid  

Get policy:
 chrt [options] -p 

Policy options:
 -b, --batch          set policy to SCHED_BATCH
 -d, --deadline       set policy to SCHED_DEADLINE
 -f, --fifo           set policy to SCHED_FIFO
 -i, --idle           set policy to SCHED_IDLE
 -o, --other          set policy to SCHED_OTHER
 -r, --rr             set policy to SCHED_RR (default)

Scheduling options:
 -R, --reset-on-fork       set SCHED_RESET_ON_FORK for FIFO or RR
 -T, --sched-runtime   runtime parameter for DEADLINE
 -P, --sched-period    period parameter for DEADLINE
 -D, --sched-deadline  deadline parameter for DEADLINE
  ...

また、リアルタイムクラスの CPU 時間を制限するための機能として、RT Group Scheduling と RT Throttling が紹介される。sysctl を使って取得と設定を行うには、こんな感じ...

# sysctl -n kernel.sched_rt_runtime_us
950000

# sysctl -w kernel.sched_rt_runtime_us=-1
尚、設定値 = -1 は、ランタイムクラスに対する CPU 時間の制限をなくす。

4. 省電力
電源管理のインターフェース規格に、ACPI(Advanced Configuration and Power Interface)ってやつがあり、動作モード、休止モード、シャットダウン状態でも若干の電力消費があるモード、あるいは、完全なシャットダウンモードといった電力状態が定義される。
ただ、この手の機能は昔からトラブルの元で、ハイバネーションにしても、ネアンデルタール人はことごとく機能をぶった切る性癖がある。とはいえ、最近はそうも言ってられない。実際、WON(Wake On LAN)といった機能は、外出先からジョブを覗くのに重宝している。例えば、いくつかのシミュレーションをバッチで実行させ、外出先からログを監視することで仕事をやっているふりができる。もちろん夜の社交場からでもアクセス可能だ。
本書は、OpenIPMI について触れてくれる。IPMI(Intelligent Platform Management Interface)も、リモートで電源管理できる仕組み。WON の場合、MAC アドレスを指定するために、マジックパケットが届かない場合があるが、IPMI の場合は、IP アドレスを指定するために汎用性が高いという。WON は、NIC が対応していれば利用できるが、VLAN や VPN などを経由すると、MAC アドレスが見えなくなったりする。
対して、IPMI は、ベースボード管理コントローラ(BMC)が搭載されている必要があり、サーバマシンなどに限定されるという。
また、アプリケーションの電力消費の指標を表示してくれる powertop コマンドを紹介してくれる。

# yum install powertop

# powertop
Summary: 5875.4 wakeups/second,  0.0 GPU ops/seconds, 0.0 VFS ops/sec and 32.4% CPU use

      Usage       Events/s    Category       Description
   21.3 ms/s     4417.5       Timer          hrtimer_wakeup
    2.7 ms/s     344.8        Timer          tick_sched_timer
    1.0 ms/s     143.7        Process        [rcu_sched]
  571.1 μs/s     142.7       kWork          cs_dbs_timer
    3.4 ms/s     134.1        Interrupt      [30] nvkm
   22.6 ms/s     107.3        Process        /usr/bin/gnome-shell
   43.7 ms/s     103.4        Process        gnome-system-monitor --show-resources-tab
    4.2 ms/s      60.3        Interrupt      [27] hpet5
    8.3 ms/s      55.6        Interrupt      [24] hpet2
   12.1 ms/s      52.7        Interrupt      [25] hpet3
  125.1 ms/s       1.0        Process        /usr/bin/X :0 -background none -noreset -audit 4 -verbose -auth /
    1.6 ms/s      24.9        kWork          nouveau_fence_work_handler
    1.4 ms/s      24.9        Process        /usr/libexec/mysqld --basedir=/usr --datadir=/var/lib/mysql --plu
    2.4 ms/s      23.9        Interrupt      [26] hpet4
  131.7 μs/s     23.0        Process        [usb-storage]
    7.3 ms/s      19.2        kWork          nv50_disp_atomic_commit_work
   20.4 ms/s      10.5        Process        [kworker/u16:1]
  160.7 μs/s     19.2        Process        [xfsaild/dm-1]
  158.5 μs/s     19.2        Process        [xfsaild/dm-2]
    2.1 ms/s       8.6        Process        [kworker/u16:3]
   27.0 ms/s      0.00        Process        powertop
     ...

5. SysRq キー : Magic System Request Key
本書は、クラッシュダンプの採取、クラッシュテスト、ウォッチドッグタイマによるフリーズの検出など様々なテクニックを紹介してくれる。
特に注目したいのは、キーボードの特定キーを使って、一発でカーネル内の情報を取得できる方法である。通常は proc ファイルシステムを覗くかコマンドで情報を取得するが、システムがフリーズするとコマンドも受け付けられない。そこで、SysRq キーというわけである。
この機能を使うためには、CONFIG_MAGIC_SYSRQ を有効にしてカーネルをコンパイルするという。
尚、RedHat 系では最初からカーネルに組み込まれていて、sysctl コマンドにより有効/無効を設定できる。ちなみに、CentOS 7 で試すと、こんな感じ...

# sysctl -w kernel.sysrq=1

あるいは、

# echo 1 > /proc/sys/kernel/sysrq

このマジックキーは、/proc/sysrq-trigger にコマンド発行することによって実行されるようだ。

# echo [key] > /proc/sysrq-trigger
尚、key は、b で reBoot, c で Crashdump...

6. perf tools
本書は、perf tools によるパフォーマンス解析、ftrace を使った動作解析、SystemTop を使ったプログラマブルトレーシングを紹介してくれる。これらの機能はカーネルの解析だけでなく、ユーザプログラムの解析やトラブルシューティングにも有用である。
perf tools とは、Linux カーネル上の統合パフォーマンスプロファイリングツールで、CPU 内蔵のパフォーマンスカウンタや、カーネルのトレースポイントを使ってプロファイリングが行えるという。
同様のツールに、Oprofile ってやつがあるが、カーネルとのメンテナンス頻度が違うために、サポートが追いついていないようである。perf tools はカーネルのソースコードにマージされているので、その点では安心できそう。実行イメージは、こんな感じ...

# yum install perf

# perf top
Samples: 991  of event 'cycles', Event count (approx.): 602222914
Overhead  Shared Object         Symbol
  9.94%  [kernel]              [k] module_get_kallsym
  5.64%  [kernel]              [k] ioread32
  4.27%  [kernel]              [k] format_decode
  2.73%  [kernel]              [k] vsnprintf
  2.48%  [kernel]              [k] number.isra.2
  2.43%  [kernel]              [k] kallsyms_expand_symbol.constprop.1
  2.43%  [kernel]              [k] string.isra.7
  2.39%  perf                  [.] rb_next
  2.35%  [kernel]              [k] __memcpy
  2.19%  libc-2.17.so          [.] __strcmp_sse42
  2.15%  perf                  [.] __dso__load_kallsyms
  2.06%  [kernel]              [k] strnlen
  1.96%  perf                  [.] rb_insert_color
  1.91%  libpixman-1.so.0.34.0 [.] pixman_edge_init
   ...

# perf stat -e cycles,instructions,cache-references,cache-misses,bus-cycles -a sleep 10

Performance counter stats for 'system wide':

  10,766,726,847      cycles
   8,240,154,632      instructions      # 0.77  insn per cycle
      92,804,452      cache-references
       8,681,674      cache-misses      # 9.355 % of all cache refs
       bus-cycles

    10.002226767 seconds time elapsed

7. PEBS と LBR
PEBS(Precise Event Based Sampling)とは、Intel Core マイクロアーキテクチャから導入されたパフォーマンスカウンタ。NetBurst マイクロアーキテクチャの一部でも採用されているようだ。適用できるイベントは限られるが、正確なアドレスを割り出せる。
従来のパフォーマンスカウンタは、イベント発生後に外部割込みを発生させるため、発生時点から少し遅れてしまい、正確なアドレスを検出できない。x86 アーキテクチャは、CISC命令を採用しているので命令長もばらばら。その点、PEBS はイベント発生直後のアドレスが取得できるという。
それでも、分岐命令に出くわそうものなら、追っかけるだけで大変だが、perf tools では、PEBS に LBR(Last Branch Record) を組み合わせて、分岐命令から逆算までやってくれるという。ただし、この機能を利用するにもプロセッサ次第で、未対応なら ENOTSUP エラーが返されることに...

2017-11-26

"標準テキスト CentOS 7 構築・運用・管理パーフェクトガイド" 有限会社ナレッジデザイン 著

千ページ近くもある分厚さ!OS で熱くなりたければ、このくらい厚くないと...

一つの OS に初めて触れるにはリファレンス的な存在が欲しいが、いくら Linux が無料とはいえ、こうして参考書を漁れば金がかる。それでも、強制的でないところがいい。人間の本質とも言うべき多様性ってやつは、小さな知識、小さな経験、小さな感情、そして、小さな思考の集合体として形成される。しかも、この集合体はあらゆる方向に選択肢の網を張り、自由精神とすこぶる相性がいい。どの文献を選ぶかは、自分の知識レベルに合わせればいいだけのことで、動機は極めてシンプルだ。シンプルな部品を組み合わせて多様な処理をする... これぞ、Unix ライクな世界と言えよう。まさに本書には、部品的な情報が満載!これをヒントに、後はググれば大抵の情報は入手できそうである...

"Unix comes with a small-is-beautiful philosophy. It has a small set of simple basic building blocks that can be combined into something that allows for infinite complexity of expression."
 - Linus Torvalds -

さて、Fedora Core の時代から愛用してきた Fedora だが、システム入れ替えのために CentOS へ鞍替えすることに。というのも、バージョン 2X あたりからであろうか、GUI 環境の不安定さが目立つようになった。ハードウェアとの相性か。
Fedora の魅力は、なんといってもパッケージの豊富さ!最新版のカーネルに触れることもでき、そのために distro の実験台とも囁かれ、実験好きにはたまらない。
しかしながら、Unix の本来の姿は、安定性の方にあるのだろう。厳密には、Linux は Unix とは認められていないが、Unix ライクであることに違いはない。
そこで、安定感抜群との噂の CentOS というわけである。なるほど、RHEL のクローンと呼ばれるだけのことはある。ただ、パッケージ群がちと寂しい。それでも、あちこちから拾い集めたり、ソースからビルドしたりすれば、なんとかなりそう。systemd の採用は CentOS 7 からのようだが、Fedora で経験済みなので、まったく違和感なし。dnf が yum に戻って、ちょっと古い Fedora ってな感じ。これを機に、Linux の勉強をやり直してみるのも悪くない...

ところで、本書にはサーバ監視に関する情報が満載だというのに、なぜか?SNMP に関する記載が見当たらない。時代の流れからすると、https + 暗号化の方向であろうが、SNMP にも v3 でセキュリティ機能も強化されている。だが本書は、OpenLMI について触れていて、どうやら WBEM ベースが流れのようである。
結局、酔いどれネアンデルタール人は、snmpwalk コマンドを叩きまくって、霧に包まれたプロトコル空間を歩き回ることに。リュケイオンの学徒のごとく。だから逍遥する学派などと呼ばれる。いや、彷徨する学派か。いやいや、崩壞する学派か。行き詰まると... 自分でやれない事は素直に諦めな!... とメフィストフェレスが囁いてくる。誰かがヒントを与えてくれたとしても、手取り足取り教えてくれる者はいない。だから自由なのだ。自由人とは、自己能力の縄に縛られながらも、それを快感にできる人のことをいうのだろう。きっと、M に違いない...

1. 趣味が昂じた世界
当初、リーナス・トーバルズ氏は、自分の名前を OS につけるのは利己的と考え、Freax と名付けたそうな。自由を匂わせる名である。これを友人のレムケ氏が気に入らず、Linux という名を与えたとか。リーナスも最終的に同意し、冗談まじりにこう語ったという。
「Linux は良い名前だし、その名前を付けたことを僕は誰か他人のせいにできる。今もそうしているようにね...」
商用 Unix は高価で一般ユーザにはなかなか手が届かない。そこで、386 アーキテクチャ用にチューニングを試みてきたのが、Minix や Linux といった Unix ライクな世界である。
Linux の前身 Minix は、マイクロカーネル。つまり、ファイルシステムやメモリ管理は、それぞれ独立したプロセスとしてカーネルの外に置かれ、カーネルは割込み、プロセス管理、メッセージなどの最小限の機能のみを持つ。この方式は、プロセス間のメッセージ通信のための実装が重くなり、パフォーマンスが劣るのが気になるところ。
そこで、リーナスは興味本位でチューニングし、モノリシックカーネルとして設計し直したのが Linux である。つまり、プロセス管理、メモリ管理、ファイルシステムなどのコードを単一ファイルで管理し、それを単一のアドレス空間にロードして実行するという方式で、vmlinux に収められる。Unix っぽいのは、細かく部品化するマイクロカーネルの方であろう。モノリシックカーネルは移植性に劣るとの批判を受けてきた。
しかしながら、カーネルモジュールという動的に機能追加できるチューニング思想のおかげで、ちょいと古いマシンでも Linux 化して延命できるし、組込システムのようなリアルタイム性を重視する分野とも相性がいい。x86 ベースのパソコンのためにスクラッチから書かれ、しかも、POSIX 準拠を目指せば、一般ユーザ向け Unix クローンとしての存在感を増す。著作権も、とっくに GPL へ移行済だし。今では、x64, Alpha, arc, arm への移植性も担保され、この酔いどれ天の邪鬼も二十年以上に渡って恩恵を受けてきた。Unix を権威主義的とするなら、Linux は民主主義的である。自由精神とは、こうした才能豊かな人たちの趣味が昇華した姿ということは言えるのかもしれん...

2. ユーザ管理: LDAP
簡単そうで侮れないのが、ユーザの一括管理。Unix 系のシステム管理で最初に遭遇するのが、ユーザデータベースとしての二つのファイルの扱いであろう。/etc/passwad と /etc/shadow がそれである。
だが、ネットワーク環境が当たり前の今日、これらのファイルでマシン毎に管理するのは非現実的であり、アカウント情報やホスト情報などを共有し、自動配布するための仕掛けが欲しい。ひと昔前には、NIS や NIS+ で運用し、Sun Microsystems の講座を受けたりもした。
そんなネアンデルタール人にとって、OpenLDAP はありがたいツールである。本書は、あまり興味のなかった Active Directory との連携にも触れられ、LDAP サーバの視点から語ってくれる。

3. ログ管理: Journald
systemd では、ログ収集のためのツールに Journald ってやつがある。ただ、ルータ管理のために rsyslogd に馴染んできたので、Journald と別々に扱うのはスッキリしないなぁ... と思いつつ、保留状態であった。本書は、こららの連携についても触れてくれる。

4. NTPサーバ: chrony
インストールして、いきなり ntp 系のデーモンが動作中?ntpd は、まだインストールもしていないのに。どうやら、CentOS 7 から chronyd ってやつが標準のようだ。ntpd よりも効率的に同期してくれるのだとか。どういうふうに効率的なのかは知らんが...

5. SELinux の感覚
ルータのフィルタリング管理では、まずはすべてを遮断し、徐々に必要なポートを開けていくという考え方があり、フィルタリング設定が熟成されていく様が快感だったりする。静的フィルタリングだけ考慮していればいい時代では、それで十分だったが、いまや悠長に構えてはいられない。ただ、基本的な考え方は、あまり変わらないだろう。SELinux にしても、Firewall にしても...
SELinux のような LSM(Linux Security Modules)の感覚がちと違うのは、独立したセキュリティポリシーの元で管理されるために、サービスを外からアクセスする時に結構厄介だったりする。煮詰まった時は、SELinux を疑え!という標語ができそうなほどに。そして、とりあえず停止してみると、たいていうまくいったりする。この時、アクセスを許可しながらログを記録してくれる Permissive モードはありがたい。そして、エラーログを拾いながら、setsebool コマンドで必要なブール値を許可していくといった手順を踏む。SELinux を disable してしまうという荒っぽい手もなくはないが、そんな気にはなれない。
そして、ファイルのパーミッションは、ACL(Access Control List)を適切に設定することを忘れずに...

6. サーバ監視ツール: Zabbix
サーバ監視ツールといえば、昔から MRTG が定番だったが、ちと面倒なところがある。必要な情報が限られていれば、データベースに記録される情報をクライアント側からテキストレベルで拾ってきて、独自に html 化してブラウザで視覚化するといったこともやってきた。
ところが最近、視覚的にも、操作的にも、進化したものがたくさん登場しているようだ。この機会に少し試してみよう。簡易的にブラウザで覗けるツールとして、Monitorix を愛用してきたが、Munin もなかなか。
本書は、古参の Nagios、デファクトスタンダード的な Zabbix、日本生まれの Hinemos を紹介してくれる。惚れっぽい酔いどれ天の邪鬼は、「デファクトスタンダード」という言葉に弱い。てなわけで、Zabbix を試すことに...
なるほど、操作性もよく、スクリーン設定が柔軟で、グラフやサーバー情報を行列で配置できる。複数のスクリーンをスライドショーできるのも魅力で、ルータ群やサーバ群の監視画面を指定の時間間隔で循環させられる。おまけに、マップが作れる。つまり、ネットワーク構成のお絵描きができて、ルータ、サーバ、モバイルなどアイコンも豊富。こりゃ、病みつきになりそう...

構成要素は、Zabbix サーバ、Zabbix エージェント、データベースサーバ、Web サーバの四つ。監視対象にエージェントをインストールしておけば、サーバ側で統合監視ができる。したがって、自分自身を監視したければ、サーバとエージェントの両方をインストールすればいい。
データベースサーバは選択でき、ここでは MariaDB を使用する事例を紹介してくれる。MariaDB は、MySQL から派生した RDBMS で違和感はない。
おっと!いきなり、"Zabbix server is running" が、"no" になってやがる... Oh no!
サービスは起動中なのに?そして、SELinux を疑い... Firewall を疑い... 半日を費やす。あれ?設定ファイル(/etc/zabbix/zabbix_server.conf)には...

  DBUser=zabbix

GUI 画面で設定したはずが、デフォルト値っぽい。変わったユーザ名にしたのは確かだけど。あるいは入力ミスか?本書の事例では、ユーザ名を zabbix にしているので、問題ないってわけか。
なので、mysql コマンドで設定したユーザ名に変更すると、無事 "yes" が表示された。Zabbix サーバの起動が、"no" なんていうから悩んでしまったが、実はサーバが起動していなかったわけではなく、単にユーザがデータベースの情報を参照できなかったというオチ。その間、障害や警告のログを貯めてしまう。はぁ~、情けない!
ただ、こんな些細なことでも、引っかかるから仕組みを理解しようと真剣になれるのであって... などと自分に言い訳するのであった。

7. SNMP を歩き回る... : Zabbix + snmp
さて、本書では触れられないが、実はここからが本チャン!まずは昔を思い出しながら、SNMP を歩き回ってみる。
監視対象ルータは、YAMAHA RTX810 で、SNMPv2c で運用中。まず、YAMAHA が公開している MIB を  /usr/share/snmp/mibs 配下に置いて、snmpd を起動。以下がそのファイル群。

  yamaha-product.mib.txt
  yamaha-rt-firmware.mib.txt
  yamaha-rt-hardware.mib.txt
  yamaha-rt-interfaces.mib.txt
  yamaha-rt-ip.mib.txt
  yamaha-rt-switch.mib.txt
  yamaha-rt.mib.txt
  yamaha-smi.mib.txt
  yamaha-sw-errdisable.mib.txt
  yamaha-sw-firmware.mib.txt
  yamaha-sw-hardware.mib.txt
  yamaha-sw-l2ms.mib.txt
  yamaha-sw.mib.txt

MIB 内のオブジェクトは、階層構文の SMI(Structure of Management Information) で定義されているので、地道に中身を追っていけば、エンタープライズ ID が "1182" であるとか、他のオブジェクト ID も見えてくる。

階層を辿るには、snmptranslate コマンドが便利で、例えば、こんな感じ...
# snmptranslate -On YAMAHA-RT-INTERFACES::yrIfPpInUtil
.1.3.6.1.4.1.1182.2.3.9.1.25

ファイルを覗かなくても頭から追っていけば、ネットワーク関連が以下の OID 配下にあることが見えてくる。
# snmptranslate -Tp
# snmptranslate -Tp .1
# snmptranslate -Tp .1.3
     ...
# snmptranslate -Tp .1.3.6.1.2.1.2.2
+--iso(1)
   |
   +--org(3)
      |
      +--dod(6)
         |
         +--internet(1)
            |
            +--mgmt(2)
               |
               +--mib-2(1)
                  |
                  +--interfaces(2)
                     |
                     +--ifTable(2)
                        |
                        +--     ...
                        +-- -R-- Counter ifInOctets(10)
                        +--     ...
                        +-- -R-- Counter ifOutOctets(16)
                        +--     ...

ある程度あたりをつけたら、snmpwalk コマンドを叩きまくる。
# snmpwalk -v 2c -c "コミュニティ名" "IPアドレス" .1.3.6.1.2.1.2.2.1.10.2
IF-MIB::ifInOctets.2 = Counter32: 864038922

# snmpwalk -v 2c -c "コミュニティ名" "IPアドレス" .1.3.6.1.2.1.2.2.1.16.2
IF-MIB::ifOutOctets.2 = Counter32: 477116257

これらの情報を元に、Zabbix サーバでアイテムを作成していくわけだが、一個作るだけでヘトヘト!

  Name     = WAN0 Recv bps
  Type     = SNMPv2 agent
  Key      = ifInOctets.2
  SNMP OID = .1.3.6.1.2.1.2.2.1.10.2
  Port     = 161
    ...

  Name     = WAN0 Send bps
  Type     = SNMPv2 agent
  Key      = ifOutOctets.2
  SNMP OID = .1.3.6.1.2.1.2.2.1.16.2
  Port     = 161
    ...

Munin だったら、拾える情報を自動的にソフトリンクしてくれるコマンドがあるんだけどなぁ... などとぼやいていたら、なんと!テンプレートを公開してくれる素敵な方々がおられるではないか。素直にググってれば、5分とかからなかっただろう。ネアンデルタール人には、SNMP は歩き回るものという先入観がある。はぁ~、情けない!
自由人になるには、まず時間を有効活用すること。それでも、勉強にはなったぞ!と自分に言い訳するのであった...

2017-11-19

マルチモニタに睨まれて... 四面楚歌!?

モニターってやつは、向こうから一方的に光を放ち、こちらは受け身でそれを見る。だから、出力装置なのである。しかしながら、四面ともなると、こちらが見られているようで、なんとも奇妙な気分になる。恥ずかしいような...
誰かがリモートで仕掛けているのか?贅沢にも一つの画面でリソース監視をやれば、お返しに四つの目線で人間監視をくらう。仮想ワークスペースを加えれば、十面以上もの影の眼で見張られる。まるでマジックミラー...
それでも贅沢ってやつは恐ろしいもので、三日もすれば慣れちまい、こちらの方から、チラッと見せたくもなる。だから、こんな記事を書いているのやもしれん。
ゲームをやるでなし... デイトレードをやるでなし... 贅沢な空間が心にゆとりを与え、新たな境地を開拓してくれる。いや、そうに違いない。いやいや、そんなものは幻想だ。能力が上がるわけもなく。自己投資とは、自己満足の類いか... 自己啓発とは、自己陶酔の類いか...



 * 左四面がメインマシン、右縦二面がサブマシン...

1. メインマシン
マシンにパフォーマンス不足を感じるようになり、新たなマシンを購入することに。自作する元気もなく、BTO パソコンを求めるも、断じて歳のせいではない。今まで二面のマルチモニタを使用してきたが、酔いどれ天の邪鬼の衝動は、なぜか四面にこだわってやがる。
まず、スタンドタイプのモニターアームとなると、安定感を優先したい。そして、エルゴトロンのものを選択。首角度の柔軟性が乏しいが、安定性と両立させるのは、ちと酷か。モニタは大抵のものが VESA 規格準拠なので、叩き売りしているやつを四台調達し、同じ型番で揃えて、まあまあ...




ケースでは静音性を求めたいが、冷却性も気になるところ。SSD にすれば、音はそれほど気にならないだろう。そして、こいつがなかなかのお気に入り... be quiet!




オーディオ端子は、Optical OUT が捨てがたく、できれば、Realtek HD 対応が欲しい。すると、ちょうど ASRock のマザーボードに、Realtek ALC1220 Audio Codecs 搭載のものがあった。ASRock は、ASUS から独立した企業ということで、なんとなく選んでしまう。
ところで、ASUS は今では「エイスース」と読むって、店員さんに教えてもらった。おいらは昔から「エーサス」と読んでいたので、歳がバレちまった。
そして、マシン構成はこんな感じ...

  Mother Board  : ASRock Z270 Extreme4
  CPU           : Intel Core i7-7700 3.6GHz
  Graphics Card : nVIDIA GeForce GTX 1060 3GB
  RAM           : DDR4 16GB
  Strage        : SSD 480GB
  Case          : be quiet! PURE BASE 600
  Monitor Arm   : ERGOTRON DS100 Quad monitor 33-324-200
  Monitor       : PHILIPS SoftBlue 234E5EDSB/11 x4

2. サブマシン
メインマシンを買い替えたので、今までメインだった DELL Studio XPS8100 をサブマシンへ。とはいっても、Linux を搭載し、サーバやルータの監視用にほぼフル稼働しているので、降格という意味ではない。Linux の魅力は、なんといってもハードウェア要件が緩いこと。一世代古いマシンをサブに位置づけても、メインが SM 狂なら遜色ない。
十五年前の独立時に Solaris マシンを導入して、その役割を与えていたが、コストダウンで Fedora Core に乗り換え。ただ、Fedora 2X あたりからであろうか、GUI 環境の不安定さが目立つようになった。例えば、xwininfo で情報がうまく取得できなかったり、たまーに固まったり。酔いどれ天の邪鬼は、ウィンドウの位置やサイズを非常に気にするタチときた。1ドットでもずれるとストレスになるので、geometry 系のオプションを多用する。ウィンドウを掴もうとした瞬間にくしゃみでもしようものなら... なので、ウィンドウ情報に関するコマンドが当てにならないというだけで幻滅してしまう、実にしょうのない性格なのである。
ハードウェアとの相性であろうか。いや、WUuu... の呪いが、フェドーラの悪魔を目覚めさせたのかも。尚、WUuu.. とは、Windows Update の略で、うぅぅ... と、うなるように発声する。
Fedora では前々からグラフィックドライバで悩まされることが多く、解決できたり、できなかったりを繰り返してきたので、そのうち直るだろうとは思っている。それに、ほとんどリモートで、しかも、CUI 環境で操作しているし、視覚的に覗きたい時はブラウザを経由するので、大した問題にはなっていない。いや、そんな感覚に慣らされていること自体が問題やもしれん...

てなわけで、distro の乗り換えをぼんやりと考えていた。ちょうどモニタが余ってマルチモニタにもしたいところ、それで GUI が固まるのでは洒落にならない。そこで、Fedora 26 から CentOS 7 へ鞍替えというわけである。RedHat系にこだわったわけではないのだけど。
Fedora の魅力は、なんといってもパッケージの豊富さ!最新版のカーネルに触れることもでき、そのために distro の実験台と囁かれる。
対して、CentOS は安定感が抜群!Fedora と比べちゃ悪いけど。Window System は、gnome2 が default になっているが、gnome3 で運用しても、まったく問題なし。忌み嫌ってきた gnome3 も、frippery + gnome-tweak-tool で印象が変わり、皮肉にも gnome3 を愛用している有り様。
ただ、パッケージ群がちと寂しい。それでも、あちこちから拾い集めたり、ソースからビルドしたりすれば、なんとかなりそう。systemd の採用は CentOS 7 からのようだが、Fedora で経験済みなので、まったく違和感なし。dnf が yum に戻って、ちょっと古い Fedora ってな感じ。
Unix ライクの本来の姿は、安定性の方にあるのだろうけど、Fedora に哀愁を覚える今日この頃であった...

2017-11-12

"日本教会史(上/下)" João Rodrigues 著

アビラ・ヒロンの「日本王国記」にせよ、ジョアン・ロドリーゲスの「日本教会史」によせ、なにゆえローマ・カトリック教会は、こうも日本の調査報告を求めたのか。やがて訪れる植民地政策の布石か。いきなり武力制覇を目論むより、まず敵を知るという意味では孫子の兵法に適っている。極東への野望はマルコポーロの「東方見聞録」に端を発し、黄金の国ジパングの噂を耳にした野心家どもが群がる。
しかし、それだけだろうか?
少なくとも、日本に初めてキリスト教を伝えた聖フランシスコ・シャヴィエールは違ったようである。東洋に初めて聖福音を伝えたのが聖トメーという人物で、バラモン教徒の手にかかって殉教したと記している。これは十二使徒の一人、インドの地で殉教したと伝えられる、あの疑い深きトマスのことのようだ。聖フランシスコは、その意志を継ぎ、さらに東へと布教の旅を続ける。その過程で、悪行のために良心の呵責に苛み、薩摩から逃れてきた弥次郎と出会う。彼は心の休まる宗派を求めて西へ、西へ、ついにマラッカで聖フランシスコに救われたとさ。
聖フランシスコは、日本には悪魔の宗教が蔓延ることを知り、日本へ行くことを決意する。パードレたちは悪魔が住むと聞けば、どんな土地にも赴く。
しかしながら、布教の旅とは、殉教の旅を意味する。死を覚悟してまで旅を続けるのはなぜか?その使命感はどこからくるのか?聖人という自意識が、そうさせるのか?神のためにすべてを犠牲に捧げる... 洗礼を受けるとは、そういうことのようである。
ただ、幸せ者に余計な信仰は不要だ。救済を求めているのは、耐え難い苦境にある人々。時代は戦乱の世、京の都が荒廃し、難民が溢れていた。藁をも掴む思いとは、こういう事を言うのであろう。重病人相手にお布施をたかる坊主たちに対して、医術の心得のあるパードレたちは無料奉仕。ボランティア精神は、キリスト教と相性がよいと見える。聖フランシスコは平戸や山口で布教活動をし、キリシタン信者の数を急激に増やしていった。
だが、それらの街々がやがて迫害の舞台と化す。西洋思想に対する怨恨は徳川時代に長らく封印され、その反動として、吉田松陰をはじめとする思想改革から、維新時代に薩摩や長州を中心に爆発した、と解するのは行き過ぎであろうか...

コロンブスの新大陸発見後、新世界を効率的に分割するための条約が結ばれた。トルデシリャス協定が、それである。エスパニアは西方へ、ポルトガルは東方へ、それぞれ航路を開拓するよう定め、ついに地球の裏側で衝突する。キリスト教会も一枚岩ではなく、聖ドミニコ、聖フランシスコ、聖アウグスティーニョ、イエズス会の四つの托鉢修道会が押し寄せてくる。こうした布教活動は、ローマ・カトリック教会が主導しているというよりは、各国の思惑によって展開されていく。おまけに、宗教改革の時代を迎えると、新興勢力であるイギリスやオランダが参入し、さらに政治色を強めていく。日本では、エスパニア人やポルトガル人を南蛮人と呼び、イギリス人やオランダ人を紅毛人と呼んで区別した。
アビラ・ヒロンの記録によると、紅毛人が権力者に意見したためにキリシタン迫害に及んだ、というようなことが記される。南蛮人が布教活動に熱心なのは日本支配を目論んでのことで、これに激怒した秀吉は大々的な迫害を企て、さらに、暴君家康とその子秀忠によって陰湿極まる拷問に及んだと。キリシタン大名も同じ運命を辿り、三条河原の公開処刑の様子など、いかに日本人が残忍であるかを綴っている。アビラ・ヒロンの記述は、日本人の慣習や文化については、ほとんどルイス・フロイスの引用かと思わせるところがあり、むしろ半分以上が迫害史、殉教史の性格を帯びている(前記事参照)。
対して、ジョアン・ロドリーゲスの報告は、日本贔屓な面を覗かせる。茶道や数奇の道、職人の技術魂、おもてなしやお土産の文化、湯殿や酒の作法など、清潔さと礼儀正しさではアジア随一と賞讃し、また、複雑な政治体制については、天皇と将軍の両立や、公家と武家の従属関係の逆転など、ちょうど時代変革の過程にあるとし、当時の政治体制がこの王国で矛盾していないと考察している。ロドリーゲスの弁明めいた記述が、当時、誤解を招くような書が多く出回っていたことを想像させる。
ただ、「教会史」と題しておきながら、教会について語られるのは下巻の最後の方だけ。アビラ・ヒロンの報告を「日本殉教史」とし、ロドリーゲスの報告を「日本旅行記」とした方がよさそうである。当初の目的が、政治的であったにせよ、宗教的であったにせよ、書いているうちに純粋な興味となって、自然に事細かく綴っているということはあるだろう。そうした記述ほど、本性が露わになりやすい。もし教会が主題だとしたら、なんと前置きの長い大作であろう。前戯好きにはたまらん...

1. ロドリーゲス通事
ローマのイエズス会本部が、日本管区における実地見聞者の手で教会史を編纂することに積極的に乗り出したのは、1610年頃からだとか。そして、最初の編纂者に命じられたのが、マテーウス・デ・コーロス神父だが辞退したという。迫害のさなか、とても教会史を執筆する気にはなれなかったようである。
代わって編述したのがジョアン・ロドリーゲスである。ただ、ジョアン・ロドリーゲスというのはポルトガルではありふれた名。当時の日本イエズス会には重要な地位にあった同名の人物が二人いたそうで、近年に至るまで布教活動の文献で混同されてきたらしい。そして、同名の司祭 João Rodrigues Girão に対して、著者の João Rodrigues Tçuzu は「ツウズ」と日本語の「通事」に当てて呼ばれたという。
ロドリーゲス通事は、ポルトガル人としては郷土方言に終生悩まされ、故国ではこれといった教養を身につける機会もなかったとか。そのために却って日本語やシナ語といった外国語の習得に真剣で、その結果として通事として身を立てることになったという。
いずれにせよ、これだけの大作を一人の力で執筆できるわけもなく、イエズス会の経験と観察力が結集された作品と言えよう。母国の知識に対して超越的であることは難しく、自分自身を外からの視座で問うことは極めて難しい。だが、そうすることによってしか母国を問うことはできない。外国人からの視座として、こうした文献が残されていることは、我が国にとって幸せであろう。翻訳の苦労が滲み出ているだけに、翻訳者たちに感謝したい...

2. 三位一体論
パードレたちは、なにゆえ日本の宗教を悪魔の宗教と呼ぶのか。なにゆえ釈迦や孔子を悪魔のごとく言うのか。
一つに、アビラ・ヒロンも、ジョアン・ロドリーゲスも、偶像崇拝を強調している。キリスト教の中心的な教義に「三位一体」ってやつがある。簡単に言えば、神という実体は一つだが、神の位格、すなわち、ペルソナは三つの姿で現れるというもの。父なる神、父の言葉を代弁する子(イエス)、そして聖なる魂(聖霊)の三つ。これは抽象的な概念だけに、様々な解釈を呼ぶ。
とりあえず、勝手に宇宙論的に解釈してみると... 根源的な宇宙法則は一つであって、そこから派生する物理法則、さらに多様化する物理現象すべては神との因果関係にあり、したがって、すべての自然物に神の魂が宿り、すべての存在原因は神の意志である... とでもしておこうか。そして、人間がやるべきことは、神の意志にそぐう行いをしなさい!と諭す。確かに、この精神的存在論は偶像崇拝とは対立しそうである。
しかしながら、こんな難解な概念を庶民にどうやって説こうというのか?信じる者は救われる!の原理に縋るしかあるまい。では、パードレたちの信用度はどこからくるのか?しかも、目の色、肌の色の違う異国人に。目の前の苦難から救ってくれただけで、信用に足るということはある。恩義からくる信用である。坊主どもの迷信まがいの祈祷では病気は治らない。ましてや人を救うよりも形式を重んじ、その伝統は現在では葬式仏教などと揶揄されながら受け継がれている。
対して、パードレたちの実質的な医術によって命が救われれば、全面的に信じてみようかという気にもなろう。人間の信用や信仰といった心理的性向は、そうしたものかもしれない。本来の宗教の姿は、苦難にある人々を救済するものであって、けして民族や国家を優越するためのものではないはず。だが、愛国心とすこぶる相性がよく、優越主義に陥りやすい。自己存在の本能を集団的な本能に結びつけるのだ。
とはいえ、宗教家の勧誘技術は、プレゼン技術としては非常に参考になる。人間ってやつには、自分が良い目にあうと、誰かに喋りたくてしょうがない性分がある。そして、こうするといいよ!って経験談を吹聴してまわるのである。こうした信者たちの口コミが、幸せの押し売りを演じながら各地に拡散していく。まるで戦国時代版 SNS だ。苦境にある人ほど宗教に嵌りやすいというのも道理である。人間ってやつは幸せ過ぎても、不幸過ぎても、やはり残酷になるものらしい...

3. 偶像崇拝の呪い
よく分からないのは、「踏み絵」によって、実に多くの庶民が迫害されたことである。偶像崇拝を悪魔だというなら、なにゆえ「踏み絵」ごときは堂々と踏みなさい!と教えなかったのか?仏像にしても、その象徴を庶民に分かりやすくするためのものであって、逆の意味でキリシタンも偶像崇拝を実践しているではないか。
いや、踏みなさい!と教えたのかもしれない。敬うものに対して、粗末に扱うことに後ろめたさのような気持ちがわくのも道理である。恩義のある人に対して、足を向けて寝られないとも言うし、そんな心理状態が良心の呵責と微妙に絡むと、奇妙な正義感に囚われたりする。だとしても、拷問の代償に神のせいにできれば、神も本望であろうに。
思想や信仰の領域では、それを庶民に分かりやすく伝えるために象徴的な存在が欲しいと考える。キャッチフレーズのような合言葉もその一つ。凡庸な人ほどそうした形を欲する。だから、実質的なものよりも形式や儀式に伝統の重みを与えようとする。いわば、存在感の強調だ。
しかも、思想信仰の創始者がどんなに天才であっても、それを継承していくのは凡庸な人々である。お釈迦様が気の毒なのは仏像として拝まれることだ。偉大な釈迦がそんなことを望むはずがない。釈迦は、あの世で私は仏教徒ではないと愚痴っているかもしれない。ナザレの大工のせがれも、あの世で私はキリスト教徒ではないと呟いているかもしれない。そういえば、土下座してまで当選回数にこだわった国会議員がいた。どうやら銅像が建つらしい...

4. 三つの政治形態
当時、西洋では、信長の登場や秀吉の豪華絢爛と治安安定を実現したこと、統治と商取引などの合理性について、政治的な矛盾が指摘されたようである。ロドリーゲスは、これを矛盾ではなく時代の変革と捕らえ、三つの政治形態を示している。
第一の政治形態は、日本固有の一人の主君、すなわち天皇による王国で、武家は公家に従属する階級。これが、日本王国の本来の姿としている。
第二の政治形態は、建武の新政から政権を奪い取った足利政権のあたりから。武家が公家の支配していた統治権と領地を奪取し、その後、武家同士で反目しあって日本全土を戦火とした。
第三の政治形態は、下克上から秀吉の平定あたり。イエズス会は、この第二と第三の政治形態を実見しているとのこと。実質的な王となった信長と秀吉は、第一の政治形態の一時的な代替品のような扱いか。
徳川家については、暴君家康と、その子秀忠の拷問政権としているが、天皇家と将軍家の両立は、なかなかうまく説明できないようである。それは日本史の課題でもあり、まともに説明できる歴史家も稀である。
とりあえず、将軍家が天皇家を滅ぼさなかったのは、気分の問題とでもしておこうか。それは後ろめたさのようなもの。いつの時代でも、権力者たちは勅令という形式にこだわった。武力を行使するための正当性をどう担保するか?それは、現在の民主主義でも問題とされるが、正義の看板を掲げられなければ同意されない。人間社会では、表立った粗暴な振る舞いは本能的に受け入れられないのである。だから古くから暗殺が横行し、自殺と公表されるのは政治の常套手段だ。天皇家の存在が神格化していったという意味では、伝統の力、慣習の力は偉大である...

5. 日本人の三つの心
「日本人には、誰にも理解されないきわめて表裏のある心の持ち主である。」
日本人は、三つの心をもつという。一つは、口先のもの。二つは、友人にだけ示す胸の内。三つは、心の奥底にあるもので、自分自身のためだけのもの。
日本人は契約や条約を無視したり、目先の利害関係だけで相手を騙したりしないという。やるなら、非常に几帳面で、周到に裏切るというわけである。異国人には多大の歓待と好意を示すので、つい安心してしまうとか。異国人を軽蔑し、極度に用心深く、攻撃的になるのは小心さの裏返しであり、日本人は、この点で大胆であると。表面的には笑顔でも、なかなか本音を表に出さないことが、陰険さとも取られるわけだが、遠慮がちな振る舞いを上品とする文化も、少しは理解があるようである。
また、職人や技芸の扱いを賞讃している。日本社会では大工の頭領や芸術の家元などが尊敬されると。建築様式では、木材しか使わないものの、工匠たちははなはだ卓越かつ巧妙、その器用さは傑出していると。金細工、彫刻師、染物師といった技芸者が大名などの権力者のおかかえとなったり、千利休という茶の工匠が天下人から一目置かれ、悲運の最期を遂げたのも、たかが茶人ではなかったことを示している。西洋社会では、こうした職業が蔑視されがちであると、ルイス・フロイスやアビラ・ヒロンも書いている。技術や工芸に敬意を払う文化は、現在でも技術立国の伝統として生きているようである。
「日本人はきわめて純真で勤勉であり、また儀式や外面的な華麗さを好むので、よく秩序立てられた国家における礼節ある人間生活に必要なほとんどあらゆる種類の学芸と技芸を持っている。」
そして興味深いのは、言語システムの柔軟性について言及している点である。漢字文化であるのはシナ人と同じだが、同時にかな文化が組み込まれているので、外来語を持ち込む時に合理的といったことが綴られる。読みに準じて言葉を伝えることができるので、教会用語もそのまま使えるし、「ローマ字」という概念が持ち込まれた様子が記される。「ツウズ」を「通事」に、「パードレ」を「伴天連」に、というように駄洒落風に字を当てることも容易。ちと訛るけど...

2017-11-05

"日本王国記" Bernardino de Avila Giron 著

エスパニアの商人ベルナルディーノ・デ・アビラ・ヒロンが記した「日本王国記」は、16世紀半ばの三好長慶の京都占領から、下克上で台頭した織田信長や豊臣秀吉を経て、徳川家康の晩年までを物語る。本書は全編二十三章から成り、日本人の起源、風土、風俗、慣習、年月日の計算法、貨幣、度量衡、貿易、盃の儀礼、行政機構、宗教にまで及び、当時の日本人の価値観を西洋人の目から語ってくれる。
同じような記録に宣教師ルイス・フロイスのものが有名であるが、こちらは一般人が記したという意味で貴重な文献と言えよう。専門家が書いたものではないので、地名や人物名など誤記が目立ち、イエズス会士ペドロ・モレホンが多くの注釈を加えている。それでも、手掛かりなしに書けるわけもなく、当時の風潮、流布などを垣間見ることができる。例えば、本能寺の政変では、秀吉は毛利側に信長の死を隠して講和したという説が一般的だが、本物語では、素直に伝えて講和したことになっており、その親厚ぶりと人間味を伝えている。秀吉英雄伝として広められたのかは知らんが、世間ではそのような噂が流布していたようである。京の三条河原で盗賊が釜ゆでになった事件でも、石川五右衛門という名をモレホンの注釈によって見ることができ、実在した人物であることが伺える。
また、マニラ政府との交渉に原田喜右衛門が絡み、秀吉の誇大妄想が朝鮮出兵から明国に向けられただけでなく、フィリピンへの野望を隠さず、さらには天竺、すなわちインドに向けられていたことも匂わせる。

種子島の鉄砲伝来に始まり、西洋人の日本渡来が盛んになった、いわゆるキリシタンの時代。宣教師ガスパール・ヴィレラとルイス・フロイスは信長に謁見し、布教保護の朱印状を得た。
その頃、日本全国のキリシタンは3万を越え、1579年頃には約10万、1610年頃には75万にのぼったと伝えられる。信長の叡山焼き討ちに対しては、お布施で私腹を肥やす坊主どもの享楽ぶりに悪魔退治のごとく擁護する記述もある。アビラ・ヒロンは、偽りの阿弥陀や釈迦の教義、あるいは弘法大師のでたらめが教えられていると記している。坊主たちは権威や外面的な装飾と豪華さを誇り、王侯のごとく尊ばれ、なによりも偶像崇拝を導入していると。
ところが、秀吉のキリスト教禁止令から運命は一変する。1597年、二十六聖人の殉教。1614年、大殉教および宣教師をマカオとマニラへ追放。家康は秀吉の禁教令を引き継いだ格好だ。
本物語には、「元和の大殉教」にまで筆は及ばないが、そうなる運命を想像させる。高山右近は太閤秀吉に向かって、キリシタン宗徒の生き様を誇り高く言い放つ。キリシタンになったのは、けして気まぐれや好奇心などではない!ましてや利害関係でもなければ人生上の問題でもない!人を救うことのできる教えがあるとすれば、それは何かを問うた結果だ!坊主どもの教えすべてが悪ふざけで、偽りで、まやかしだ!さぁ、首を斬れ!... 本書の半分以上がキリシタン迫害史の様相を呈す。原題には「転訛してハポンとよばれている日本王国に関する報告」とあり、皮肉がこめられる。黄金の国ジパングと伝えたのはマルコ・ポーロの東方見聞録だという説があるが、以来、ジャパン、ジャポン、ヤポンなどと呼称され、ここでは「ハポンとは、サヨン(死刑執行人)なり」ということである。

しかしながら、異教徒を悪魔と呼ぶのは、どの宗派も似たり寄ったり。パーデルたちが信長の叡山焼き討ちを擁護するならば、坊主たちとて同じこと。統治者というのは、庶民が奴隷となるのを喜び、庶民が思考することを嫌う。したがって、まずもって迫害を受ける者は知識層である。
確かに、信長の叡山焼き討ちには凄まじいものがあり、日本史の中でも、この下克上の残虐な性格は非難の的とされる。だがそれ以上に、秀吉の大々的な迫害、さらに家康の拷問は陰険さを増し、蛮行はますます激化していく。聞かぬ耳は剃り落とし、命令に背いて動かぬ体は指を切り落とし、足を切り落とし... 親兄弟、親類にまでおよぶ。ここには、「踏み絵」なんぞでは言い表せない、凄まじい残酷史、いや拷問史が綴られる。キリシタンの時代とは、日本史随一の宗教戦争の時代とも言えよう...

1. キリスト教宣教師とて一枚岩ではない
コロンブスの新大陸発見後、1494年、エスパニアとポルトガル両国の間に「トルデシリャス協定」が結ばれた。この条約は、東方航路による地球半分をポルトガルの勢力範囲とし、アメリカ大陸の大部分を含む西方半分をエスパニアの勢力範囲と定めた。互いの航路開拓が進めば、両者はいずれ地球の反対側で衝突する。東方航路は、喜望峰をまわって、インドのゴア、マラッカ、マカオを経て日本へ。ポルトガルはエスパニアに先んじて日本へ上陸し、平戸や長崎をはじめ九州の諸港で貿易による巨利を得た。
とはいえ、日本へ渡ったのはポルトガル人だけではなく、エスパニア人やイタリア人も混じっている。初めて日本でキリスト教を説いた聖フランシスコ・ザビエルはエスパニア人だし、九州のキリシタン大名の名代として少年使節のローマ派遣に尽力したアレッサンドロ・ヴァリニャーノはイタリア人だし、この書を記したアビラ・ヒロンもエスパニア人だ。
一方、国家としてのエスパニアはマニラを征服し、ここを足場にシナや日本への進出を狙っていた。だが、1585年、教皇グレゴリオ13世の教令発布により、日本入国はポルトガル側のイエズス会に限られることに。これは、一歩先に日本に来たアレッサンドロ・ヴァリニャーノが、エスパニア側の宣教師が入国すると、布教に混乱をきたすことを憂慮して、グレゴリオ13世に要請したからだという。
しかしながら、オランダやイギリスも宣教師を派遣し、植民地貿易上でポルトガルやエスパニアと激しく争うことになる。日本では、先に関係を持ったポルトガル人やエスパニア人を南蛮人と呼び、新参者のオランダ人やイギリス人を紅毛人と呼んで区別した。いずれも蔑視を込めた用語であろう。
本物語には、宣教師やキリシタンの弾圧に紅毛人の助言があったことも記される。すなわち、南蛮人による植民地化を企てる陰謀があるという紅毛人の進言である。映画「将軍」でもモデルとなったウィリアム・アダムスこと三浦按針は、家康の外交顧問として仕えたイギリス人である。
秀吉が死去してしばらく政治不安が続くと、イエズス会やフランシスコ会だけでなく、ドミニコ会、アウグスチノ会も布教進出を狙い、宗派争いが国家の思惑と結びつく。日本人から見れば、南蛮人も紅毛人も同じ西洋人であって、双方が東洋をめぐって覇権争いをしていることは感じ取ったであろう。秀吉にしても、家康にしても、残虐きわまる迫害に及んだのは、外国勢力に対する恐怖の裏返しであり、特に鎖国政策はその顕れと言えよう。人間の意識として自己存在を強調するために排外主義に陥りやすいのは、いわば本能的な反応である。しかも、こいつは集団的意識と結びつきやすく、愛国主義とすこぶる相性がいい。そして、西洋への対抗意識とともに徳川家に対する憎悪までも、迫害の中心となった九州や山口に封じ込められ、明治維新で一気に爆発したという流れ... などと解釈するのは行き過ぎであろうか。

2. 信長の人物像
本書では、残虐な性格の持ち主とされる信長への擁護が感じられる。伝統や形式を打ち破ろうとした改革精神や、農民出身の秀吉を出世させるなど、この下克上の政治手法は、当時でも西洋人受けしたと見える。布教活動において坊主を排除する点で、利害関係が一致したこともあろう。信長の死は、勇気、寛容、気構えの気高さなど、ひとしくすべての人に惜しまれたと記している。そして、こんな人物像を残している。
「体格のよい、背の高い、よく均整のとれた人物で、眼は大きく、鼻の高い、小麦色の肌で、神経の強靭な、やせて、毛ぶかい、すばらしい武士で、しかも気さくで、面倒くさい儀式ばったことを極端に嫌った。」
こうした信長の風采や性格を記述したものは、日本の文献でもあまり見られないそうな。
尚、宣教師ルイス・フロイスは、こう記述しているという。
「この尾張の王は、年齢三十七歳ぐらい、丈は高くやせ型で髪は少ない。声は大層高く、非常に武技を好んで粗野である。正義と慈悲を楽しんでいるが、傲慢で名誉を重んじ、決断を表に現わさず、戦術にたくみであって、ほとんど規律を守らず、部下の進言に従うことも稀である。彼は諸人から異常な畏敬を受け、酒を飲まず、自らを奉ずること極めて薄く、日本の王侯たちをことごとく軽蔑して、まるで目下の役人に対するように肩の上から話しかけるが、人々は至上の君に仕えるかのように服従している。理解力にすぐれ、明晰な判断力を持っており、神仏やその他の偶像を軽視し、異教のうらないは一切信ぜず、名義上は法華宗信徒ではあるけれども、宇宙に造物主もなく、霊魂不滅なこともなく、死後何物も存在しないと明言している。彼の仕事の処理は完全であって巧妙を極め、人と話す際は廻りくどくくだくだ言うことを憎んでいる。」

3. 日本人評
キリシタンの時代とは、信長の下克上に始まり、強硬姿勢で外国を威圧した秀吉、その反動で、これまた強硬姿勢で内に篭った家康と、いずれも極端な人物の登場、極端な政策を経験した時代だったと言えよう。
アビラ・ヒロンは、日本人の起源をシナ人と同じとしながら、シナ人と違って日本人は派手で残虐と評している。三条河原の公開処刑や殉教事件を目の当たりにすれば、それも致し方あるまい。その半面、礼儀正しく、几帳面で、清潔としているなどは、フロイスの記述をそのまま引用した感がある。
女性や子供に対する評判は、すこぶるいい。女は色白で、鼻立ちがよく、美しくてしとやかな者が多いと。子供は可愛く、六、七歳で道理をわきまえるほど優れた理解力を具えていると。このあたりは、フロイスも書いている。
特に、結婚した女性は十分に信頼に足り、世界中でこれほど善良で忠実な女性はいないとまで書いている。日本人はいかに貧しくても傲慢で尊大で怒り易く果敢であるという。残忍で非情、貪慾で吝嗇であると。あらゆる行動が陰険で、基準と誠実に欠け、何事にも極端に走りやすく、変わりやすい人々であると。だからこそ、キリスト教の布教が必要だというわけである。なんとも支離滅裂な論評だが、当たっている面も少なくない。
また、真面目な職人ということが、不名誉とされないどころか、芸術とも、技能とも見做され、鍛冶屋、大工、絵師、刀を研ぐ刀剣師などが極めて尊重されると、驚いた様子。こうした職業は、西洋では卑しいとされていたようである。
「日本人は占星師でも数学者でも哲学者でもない。それに大まかなところはほとんどない。もっとも、すばらしい手工業者で、生来ひどく短気なくせに、手先仕事なら何によらず、すばらしい完璧さを示して、ゆっくりと仕事をやる。しかし、それでも彼らの諸国の行政はすばらしい秩序と整いとがあり、完全無欠に諸法律が守られているので、どういう事態が起こっても、法律に反してことがおこなわれることはないくらいである。」

2017-10-29

"ウバールの悪魔(上/下)" James Rollins 著

シグマフォースシリーズは十作品を越え、もうついていけない。学生時代であれば、間違いなく追尾していたであろう。一旦、推理モノに手を出せば、かっぱえびせん状態に陥り、次の日はまず仕事にならない。おいらの読書スタイルの基本がこのジャンルであり、それが幸か不幸か...
そして、のんびりとシリーズ 1 から「マギの聖骨」、「ナチの亡霊」、「ユダの覚醒」、「ロマの血脈」の順に追ってきたが、なぜか、ここでシリーズ 0 に戻る。というのも、「ウバールの悪魔」は最初に発表されながら、日本では、5番目に刊行されている。0番を加えたのは、やや苦し紛れ感があるものの、シリーズ半ばで原点の作品に立ち返ってみるのも悪くない。惚れっぽい追い手は、素直に出版順に従うのであった...

原点に立ち返る意味で、シグマフォースという組織を軽くおさらいしておこう。それは、米国防総省の DARPA(国防高等研究計画局) 直属の秘密特殊部隊で、「殺しの訓練を受けた科学者」と形容される。Σ(シグマ)記号は数学では総合和を意味し、物理学、生物学、電子工学、考古学、人類学、遺伝子工学などあらゆる専門知識を融合した天才集団というわけである。もちろん架空の組織だ。ただ、DARPA は実在するし、これに相当する組織がないとは言い切れまい。
ロリンズ小説の最大の魅力は、科学と歴史学を融合させる手腕にあると思う。科学は最先端の知識を重んじる立場にあり、歴史学は過去の知識を遡る立場にあり、各々が時間と空間を越えて調和してこそ、真の知識を覚醒させると言わんばかりに。しかも、古代知識の偉大さを描きながら、歴史の可能性ってやつを匂わせてやがる。現代人が流行知識に振り回される様を嘲笑うがごとく...
また、あらゆる行動には緻密な分析がともない、アクションと知識、すなわち、動と静の絶妙なバランスも見逃せない。ただ奇妙なことに、動の領域に文章のオアシスを感じる。静の領域はあまりに知識が溢れ、何度も読み返して疲れ果てるのだ。無尽蔵な知識の中に放り込まれるとアクションの方に安らぎを覚え、動脈と静脈が逆流するかのような感覚に見舞われる。結果よりも原因や過程、さらには背景に重きを置き、読者にかなりの気合と体力を要請してくるのも、前戯の大好きな酔いどれには、たまらない...

舞台は、大英博物館、ナビー・イムラーンの霊廟、アイユーブの霊廟、そして、シスルへ。大英博物館の功績の一つに、皮肉にも植民地時代にコレクションされた人類の遺産の保管場所になっていることが挙げられる。時の征服者たちは考古学的な発見に価値を見いだせず、破壊された事例も珍しくないが、ここに収集されれば安全管理される。
本物語では、その遺産の一つが爆発した謎の物理現象が発端となる。それは、アラビア半島の東端に位置するオマーンで発掘されたナビー・イムラーンの霊廟に関するもの。アラビアで最も有名な墓は、聖書やコーランにも出てくる人物を祀っている。そう、ナビー・イムラーンとは聖母マリアの父だ。本当に、ここに眠っているのかは知らんが...
暗号を解読した一向は、次にアイユーブの霊廟へと導かれる。アイユーブは旧約聖書ではヨブと言い、これまた聖書にもコーランにも出てくる人物で、神への信仰を貫いたことで知られる。そして、最後に導かれる場所はシスル、そこはシバの女王が封印した古代都市ウバールだったとさ...
この道しるべとなるのが、いずれもユダヤ教、キリスト教、イスラム教で共通して崇められる人物である。人類の禁断の知識、すなわち、パンドラの箱を開けるには、一つの宗教に頼るのでは心許ない。だからこそ、人類共通の悪魔を封じ込めるために、宗教を越えて崇められるほどの存在に縋ったというのか。
しかし皮肉なことに、もともと兄弟であった三つの主教が骨肉相食むという長い歴史がある。人間の憎しみってやつは、血が濃いほど倍増するものらしい。
一方、大英博物館の爆発原因の方はというと、鍵となる物理現象は、古くから伝えられる球電現象から始まり、乾燥状態で起こりやすい静電気、砂漠特有の巨大な砂嵐、そして、無尽蔵のエネルギー源となる反物質へと至る。この反物質ってやつが、すべてのエネルギーを引き寄せる。人間どもの野望までも。人間精神の物理構造が原子や電子で構成されているのだから、それも自然というものか。
しかしながら、物質と触れた瞬間に対消滅してしまう代物だ。物質同士が反応すれば、いがみ合うっていうのに。存在を重んじる物質界の住人にとっては、なんとも掴みどころのない存在なのである。反物質を安定した状態で物質界に留まらせる方法があるとすれば?それが大英博物館のコレクションの中にあるのか?シバの女王が封印しなければならぬほどの脅威とは?人類にはまだ、それを知る資格がないということか...

1. あらすじ
激しい雷雨に見舞われた夜、大英博物館で爆発事件が発生。防犯カメラには、青い火の玉を追う警備員の姿が映っていた。これが、古代から伝えられる球電ってやつか。オマーン出身の学芸員サフィア・アル=マーズは、爆発物の痕跡から古代アラビア語で「UBAR」に相当する文字を発見し、現地調査へ向かう。
一方、シグマフォースのペインター・クロウ隊長は、爆発の陰に無尽蔵のエネルギーを持つ反物質が存在していることを掴み、身分を隠してサフィアたちに同行する。無尽蔵のエネルギーと聞けば、各国政府の諜報機関だけでなく、あらゆる集団が群がる。テロリストも、ブラックマーケットの裏組織も。反物質にはそれだけの魅力がある。1グラムもあれば、原子爆弾相当のエネルギーを生み出す力があるのだから。
テロ組織ギルドも反物質を狙っていた。サフィアはギルドに拉致され、霊廟で発見された手がかりをもとに古代都市ウバールの場所を突き止める。ペインターたちもサフィアの足取りを追ってウバールへ。
しかしながら、超大型の砂嵐が迫り、地下に封印されていた反物質の湖が攪拌し始めていた。不安定になった反物質は、いままさに膨大なエネルギーを放とうとしていたのである...

2. 失われた古代都市
紀元前九百年頃、都市ウバールは数少ない水場の近くに建設された。シバの女王が生きていたとされる時期に。この地は、オマーンの沿岸部の山々の乳香の木々の林と、北の豊かな都市の市場とを結ぶ「乳香の道」の重要な交易所となった。
庭園都市サラーラはドファール特別行政区の中心都市で、このあたりだけがモンスーン気候に恵まれ、一定の雨量が観測されたという。ペルシア湾からアラビア半島にかけて、このような恵まれた気候は他に例がなく、そのために希少な乳香の採れる樹木が育ったのだとか。二万年前、オマーンの砂漠が緑豊かなサバンナに覆われ、川や湖が多く点在したことは、考古学的にも明らかにされているそうな。砂漠化したのは、「軌道強制力」「ミランコビッチ・サイクル」といった自然現象のためだと考えられているとか。
古代都市ウバールは何世紀にも渡って繁栄したが、西暦三百年頃に巨大な陥没穴にのみ込まれ、迷信深い住民たちは砂に埋れた街を放棄したと言い伝えられている。王が預言者フードの警告を一笑したために神の怒りに触れ、都市は地上から姿を消したとさ。アトランティスの砂漠版か。
ウバールは、イラーム、ワバール、「千の柱の都」などの名で呼ばれ、都市伝説はコーランやアラビアンナイト(千夜一夜物語)、あるいはアレクサンドリア図書館所蔵の文献にも見つけることができるという。
人間や動物が石になったという物語は、各地の神話で無数に伝わるが、「千夜一夜物語」の中にも二つある。「石になった町」「真鍮の都」で、どちらも失われた砂漠の街の発見にまつわる物語。一つ目は、退廃した街は神の怒りに触れ、住民たちは罪によって固められてしまい、二つ目は、真鍮にされてしまう。本物語では、この二つ目の伝説と失われた都市を結びつける。
尚、シスルは最初にウバールの廃墟が見つかった場所で、1992年、アマチュア考古学者ニコラス・クラップによって衛星地中レーダーを使って発見されたという。

3. ツングースカの大爆発
球電現象は、古代ギリシア時代から報告され、現在でも目撃例があり、多くの記録が残される。原理には諸説あり、雷雨の中で電離した空気によって生じる浮遊性のプラズマという説や、雷が地面に落ちた際に土壌中から蒸発した二酸化ケイ素とする説など、あるいは、UFO説との関連までも囁かれる。
では、本物語の爆発事件とどう関係するというのか?雷雨や落雷で、静電気が起こりやすい状況にあったことは考えられる。静電気に誘発されて何かが化学反応を起こした結果なのか?
ちなみに、1908年、ロシアのツングースカで大爆発が発生した。隕石が衝突して、大気中で爆発したと思われる事件である。だが、隕石落下説には、いくつかの問題が指摘されている。電磁パルスが地球の半分を覆ったほどの大規模な現象であったにもかかわらず、隕石の欠片を発見することができなかったこと。爆発の衝撃は、40メガトンとも、後に、5メガトンと訂正されたりと、情報が錯綜している。
尚、約五万年前のアリゾナの事例では、2メガトンほどの衝撃で、直径約1.5キロ、深さ150メートルの巨大クレーターを残しているが、ツングースカではクレーターも見つかっていないらしい。樹木が爆心地を中心に外側へ倒れたために、爆発の中心点がはっきりと判明しているというのに。
通常、炭素系の隕石はイリジウムの痕跡を残す。本物語では、証拠となるはずのイリジウムの塵すら見つかっていないとしているが、後に検出されたという報告もあるようだ。
ただ、この地域では、興味深い生物学的な影響が見られるそうな。シダ類の成長が早まったり、マツの木や種子や葉、さらにはアリにまでも遺伝子異常が見られるほどの突然変異が増加したり。この地域に住むエヴェンキ族の間では、血液 Rh 因子に異常が見られたという。いずれも放射線被曝による影響で、ガンマ線由来の放射線の可能性が高いということらしい。
本物語では、赤血球細胞の突然変異によって超能力を有する女系種族が鍵を握る。そして、爆発物はオマーンの遺跡から発掘された隕石で、しかも、この隕石に反物質なるものが封じ込められていたという想定で。反物質ってやつが、量子力学的に神の賜物である超能力を目覚めさせるのか...

4. 反物質とバッキーボール
量子論ってやつは、なんでもありか。量子物理学者は、物質界で説明のつかないエネルギー源を、反物質なるものを登場させて説明を企てる。プラスの現象には、マイナスの現象を登場させて相殺すれば、エネルギー保存則に矛盾することなく説明できるという寸法よ。超対称性ってやつだ。
重力子も、この類いで説明される。例えば、銀河系の形状を保つために必要な引力が不足しているとされるが、仮想粒子なるものを登場させればいい。宇宙空間には、ビッグバンの名残である反物質でできた小惑星や彗星が存在するのではないかという説もある。地球上層には、常に宇宙線に含まれる反物質の粒子が降り注いでおり、大気中の物質に触れるとたちまち消滅してしまう。そもそも物質でできた人間が、反物質なるものを認識すること自体に矛盾がある。宇宙誕生説が、いまだに神との結びつきを断てないでいるのも道理というものか。
さて、反物質が物質界で存在できる原因を、どう説明できるというのか?彫像や隕石の内部に保存されていたとしても、その容器の役割を担う存在が物質であれば、やはり消滅するはず。これを説明するために、結晶学には「バッキーボール」という五角十二面体の結晶構造がある。建築家バックミンスター・フラーにちなんだ名である。
物質界に存在する水素と酸素で構成される分子構造は、周囲の分子とすぐに反応する性質があり、極めて不安定ということができる。例えば、水の分子構造 H2O は、O に対して2つの H が角度を持っているために若干の極性を持つ。バッキーボール構造ならば満遍なく力が均衡し、非常に安定した状態で分子の中心に反物質を閉じ込めることができるというのである。
実際、反物質の生成や保存に成功したという実験が報告されている。スイスの CERN(欧州原子核研究機構)は、反物質の粒子を実際に生成し、ナノセカンドの単位で保つことに成功したなど。近年では、半水素原子を人間が十分に感じられる時間単位で閉じ込めることに成功したという研究報告もあり、SF の域を脱しつつあるようだ。
本物語では、古代都市ウバールの地下に貯まった水が、バッキーボールの湖だというわけである。安定性が高いほど崩壊した時のエネルギーが膨大となるは、物理学の掟。この湖に巨大な砂嵐が近づき、強力な静電気の場が生じたとしたら、青い精霊(ジン)が砂漠の悪魔を目覚めさせる。ここは、ニスナスの住む国だ!

5. 無性生殖と物質界の掟
古代都市ウバールは、ノアの曾孫たちによって築かれたとされる。本物語では、その子孫となる二つの部族が鍵を握る。それは、他の部族と接触を持とうとしないシャフラ族と「ラヒーム」と呼ばれる女系種族である。シャフラ族はドファール山脈に実在し、自らウバール王の跡継ぎと称して、今でもアラビア最古とされる方言を話すそうな。いわば、ウバールの門番か。
さて、興味深いのはラヒームの方である。なぜ女性だけの種族が、数千年に渡って存続しうるのか?これには聖母マリアの処女伝説を見る思い。本物語では、ウバールに祝福された女性たちは不思議な能力を持っている。テレパシーやテレポーテーションの類いだ。自分の意志を他人の心に反映したり、単純な動物ほど操るのが簡単。ただし、しっかりとした意志を覚醒させた者を操ることはできない。
神からの賜物とは、自分の意志で妊娠することである。女性にとって最高の祝福は、子供を授かることという価値観。この生殖アルゴリズムは単為生殖か、いや、無性生殖か。単為生殖とは、昆虫や動物で見られる生殖過程の一つで、雌の遺伝子コードを含む完全な核を持った子供が生まれる。遺伝子的に完全な複製となるが、この女系はクローンとは違う。通常、体の細胞は分裂し、まったく同じものを作り出す。卵巣と睾丸の生殖細胞だけが、女性の卵子と男性の精子という元の遺伝子コードの半分だけを持つ細胞を作り出すように分裂し、それによって遺伝情報が混じり合う。
しかし、もし女性だけが何らかの方法で、例えば意志の力で、未受精卵の分裂を止めることができるとしたら、その結果として生まれる子供は母親の完全な再生となる。そして、この言葉がなんとも薄気味悪い。
「わたしたちが、シバの女王なのです。」
ただ、神から授かった能力も徐々に薄れ、中には男性と恋に落ちて村を離れたり、男が生まれることもあり、純粋な女系血統は徐々に数が減っていったとさ。
子孫の複製では、ほとんどの生物が二つの個体で結ばれることを望む。雌雄同体であっても。生命の複製だけなら単体で生殖する方が合理的であるが、自然界はそうはなっていない。遺伝子にはほんの少し変身願望があるようで、なにかと結合を求めてやまない。これが物質界の掟なのだ。これを人間界では進化と呼ぶが、宇宙法則の観点から進化なのか退化なのかは知らん。反物質ってやつは、物質と接触した途端に無に帰するというのに、物質ってやつは、物質同士で接触すると、さらに欲望を倍増させやがる。

6. ラヒーム女系族とミトコンドリアの突然変異
地下のバッキーボールの湖のように、ラヒーム族の赤血球細胞や体液中には、バッキーボールが満ちているという。だから、テレパシーのような強い意志の力が保存できるということらしい。
この能力は、ミトコンドリア DNA の突然変異だとか。ツングースカの大爆発で植物相や動物相に突然変異が発生したような。それも、自分のDNAではなく、細胞のミトコンドリアのDNAだ。ミトコンドリアとは、細胞の中の小器官で、細胞質の中に浮いていて細胞のエネルギーを作り出す小さなエンジンみたいなもの。大雑把に言えば細胞の電池である。ミトコンドリアは、かつてはバクテリアの一種で独立した生命体であったために、生命体の遺伝子コードとは別に独自の DNA を持ち、進化の過程で哺乳類の細胞に吸収されたと考えられているそうな。
ミトコンドリアは細胞の細胞質にしか存在しないので、母親の卵子中のミトコンドリアがそのまま子供のミトコンドリアになる。だから、この能力は女王の血筋だけに受け継がれたというのである。そして実は、サフィアも...

2017-10-22

"学問の進歩" Francis Bacon 著

"scientia est potentia (知識は力なり)" との格言を残したフランシス・ベーコン。彼は人類に奉仕するために生まれてきたと信じていたようで、ルネサンス人によく見られる傾向である。万能人という特質が、そのような使命を駆り立てるのか。そして、知識の発見や知識を生かす技術に着目して学問の尊厳と価値を説き、さらには、学問の進歩のために何がなされ、また何が欠けているかを論じる。学問と知識の喜びを語り、まがいものの快楽とは違うと...
学問には、主観的で感情的な精神に、冷静な目を向けさせる役割がある。冷静さとは、ちょいと客観性を混ぜ合わること。主観をほんの少し遠慮がちにさせることができれば、自己から粗野と野蛮を取り払うことができよう。古来、哲学者たちが語ってきた... 謙遜は悪徳を知ってからでなければ身につかない... というのは本当かもれない。
「疑いもなく、学芸の忠実な履修は、品性を柔和にし、たけだけしさをなくさせる」
... オウィディウス「黒海のほとりから」

徳を知っていても、徳を身につける手段と、これを用いる方法を知らなければ、ものの役には立たない。学問が導くものはこれか。したがって、学問は、経験的で帰納法的なプロセスをとり、試行錯誤の上で省察となるであろう。
客観性へと導く論理学には、根本的な思考原理に三段論法ってやつがある。こいつは人間精神と非常に相性がよく、大前提、小前提、そして結論へと導くやり方が妙に説得力を与える。それゆえ、古くから熱病のごとく研究されてきた。おそらく論理学の王道は演繹法であろう。人間の能力だけで世界を完全に説明できるならば、演繹法だけで済むはずだ。
しかしながら、現実世界を説明するならば、帰納法に頼らざるをえない。ベーコンの学問の立場は、まさに観察や実験を重んじる帰納法的考察にある。彼は、理論傾向の強かった哲学を、実践傾向へと向かわせた。散歩するがごとく自由に試行錯誤することが、学問の真髄と言わんばかりに。
ただ、このルネサンス人をもってしても、やはり真理を語ることは難しいと見える。その証拠に、学問の進歩を語る段になるとアフォリズムを展開し、過去の偉人たちの言葉に縋る。既に真理は語り尽くされていると言うのか。いや、そうするしかなかったのだろう。学問の道は、真っ直ぐすぎてはつまらない。寄り道、回り道があってこそ道となる...
アリストテレス曰く、「わずかなことしか考慮しない人びとは、容易に意見をいえるものだ。」

尚、ここで言う説明とは、存在意義や合目的を問うことであって、最も説明の難しい手強い相手が人間精神そのものである。古来、偉大な哲学者たちは、自己を説得するために弁証法なるものを用いてきた。弁証法とは、矛盾と対峙する上で有効な弁明術とでもしておこうか。人間は、人間自身の存在意義を求め、その言い訳をしながら、学問を進歩させてきたのである。
それゆえ、学識が人を傲慢にすることもしばしば。知らない相手を小馬鹿にしたり、有識者たちの議論でさえ知識の応酬に執着したりと、結局は自己存在を自己優越に変えてしまう。人間が編み出した知識が永遠に完全になりえないとすれば、学べば学ぶほど謙虚になりそうなものだが、そうはならないのが人間の性。答えの見つからない命題があれば、いかようにも解釈できる。
そして、説明に困った挙句に登場させるのが、完全なる神の存在である。神とはなんであろう。万能の知識といえば、そうかもしれない。科学や数学といった客観的知識が、主観的知識を拒んで無神論者にさせ、今度は宇宙法則の偉大さという側面から、絶対的な存在を受け入れる。これを神と呼ぶ者もいるが、少なくとも既存の宗教が定義しているような存在ではない。
「浅はかな哲学の知識は人間の精神を無神論に傾かせるが、その道にもっと進めば、精神はふたたび宗教にたちかえるということも確実な真理であり、経験から得られる結論である。」

ベーコンは、学問に対する功績ある事業や行為には、三つあるという。それは、学問の行われる場所、学問をおさめる書物、そして、学問をするその人である。
古来、実に多くの学院や図書館が建てられてきた。学問の体系化ではアリストテレスの功績が大きく、その流れから学問分野は細分化され、多彩な専門科目を生んできた。
子供たちには、義務教育の名の下で一般教養が強要される。真の教養は強要からは導けないだろうが、知識が強要されるべき時期は必要であろう。ガリレオは言った... 人にものを教えることはできない。できることは、相手のなかにすでにある力を見いだすこと、その手助けである... と。
では、大人はどうだろう。自分自身で学ぼうとしなければ同じこと。鉄は熱いうちに打て!というが、大きな子供ほどタチが悪い...

2017-10-15

"カルダーノ自伝 ルネサンス万能人の生涯" Gerolamo Cardano 著

自伝の類いでは、聖アウグスティヌスの「告白」、マルクス・アウレリウスの「自省録」、チェッリーニの「自伝」、ルソーの「告白」などに触れてきた。人生の終わりが見えてくれば、生きてきた証のようなものを残したいと考える。それは、遺言書の類いか...
しかしながら、なかなか勇気のいることでもある。どんな醜態にも弁解がつきまとい、美化、正当化の誘惑を免れない。たとえ偉人であっても。自伝を書く前で、誠実であれ!などと命ずる者はいない。いるとしたら自分自身だ。正直に書いたとしても、下手をすれば単なる暴露本になりかねない。書くほどのものなのかと問えば、それほどの人生を送ってきたのかと問わずにはいられない。実際、彼らはこれを問い続け、ジェロラーモ・カルダーノ自身もまたアウレリウスに触発されて書くといった旨を語っている...
尚、清瀬卓、澤井繁男訳版(平凡社ライブラリー)を手に取る。

自伝を書く理由とは、なんであろう。自伝を書かずにはいられない心境とは、いかなるものであろう。そして、自伝を書く資格とは。ある作家は言った... それは、五十を過ぎてからにしなよ... と。人類の叡智という衝動が、そうさせるのか。魂が不滅だとしても、どのように不滅なのかは知らないし、それがどれほど大事な目論見なのかも知らない。ただ、読者は知っている。名誉というものが、いかに災いをもたらすかを。虚栄心とは、いわば人間の性癖の一つで、名誉欲と表裏一体。人から良く思われたいということは、人目を気にしながら生きているということ。これが、自伝を書く理由の一つでもある。もはや、ある種の依存症!あらゆる依存症は自立や自律を拒み、何よりも自由を犠牲にする。
とはいえ、生き甲斐を見つけるということは、依存できる何かを求めているということ。なによりも万人の夢みる幸福ってやつが、何かに依存している状態なのだ。人間にとって不幸のタネは二つあるという。一つは、万事は果敢なく空虚なものであるにもかかわらず、人間が手固く充実したものを追い求めようとすること。二つは、人間が知りもしないことを知っていると思い込むこと。あるいは、そうした振りをすること。
さらに、ものの考え方を変える要因は三つあるという。年齢と幸運と結婚がそれだ。なるほど、わざわざ自伝を書かずとも、人生に言い訳を求めてさまようことに変わりはなさそうだ...

1. カルダーノの業績
当時、カルダーノは医者として名声を博し、数学者、哲学者、占星術などに秀でた百科全書的な奇人。本書には賭博師ぶりが目につく。ダ・ヴィンチを友人にもつ父は法律家でありながら、数学など多くの学問に通じていたという。彼を万能人とさせたのは、父の影響が大きいようだ。ただ、カルダーノは父の研究主題について、気移りが激しいと指摘している。
カルダーノの方はというと、本業ではミラノ医師会から入会を拒否されたそうな。貧乏人が社会的地位を得るための最良の道だが、私生児という理由で拒否されたんだとか。処女作で医師たちの慣習や処方を批判し、多くの敵をつくったようである。異端の嫌疑をかけられたのも、キリストを星占いしたことに起因するらしい。結局才能が勝り、後に医師会会長になったものの。
しかしながら、カルダーノを有名にさせたのは、本業よりも数学の方であろう。まず、三次方程式の解の公式をめぐっての論争が挙げられる。この公式はニコロ・フォンタナ・タルターリアが長らく秘蔵していたが、カルダーノが公表しないと誓いを立てたので教えた。だが、カルダーノは自著でこれを公表したために、タルターリアとの間で論争となる。また、四次方程式の解を導いたのは、カルダーノの弟子ルドヴィコ・フェラーリであった。
尚、三次方程式と四次方程式の代数的解法は、偉大なる技法を意味する「アルス・マグナ」に掲載され、タルターリアの名前もきちんと記載されているとか。この書は、虚数の概念を登場させた最初の書としても知られる。デカルトが初めて虚数という用語を持ち出したとされるが、概念そのものは既にカルダーノが記述していたのである。実数と虚数の組み合わせで表される複素数の概念は、電子工学においても物理量演算で絶対に欠かせず、ずっと悩まされてきたが、いまや数値演算言語やスクリプト言語でも扱えるようになり、ちょっぴり幸せを享受している。
しかしながら、数学史においては、初めて確率論を書したことの方が評価が高い。ベキ法則や事象概念などを初めて論じたのだから、いや、イカサマ論を記述したのだから、ギャンブラー理論の先駆者と言うべき存在なのだ。尤も当時は、確率論を数学の一分野に受け入れられていなかったようである。どうやら賭け事にのめり込みやすいタイプか。尤も賭け事が好きなのではなく、引きずり込まれたと言い訳めいたことを語っているけど...

2. 苦難の宿命から天啓へ
自伝を書くなら、やはり苦難や不幸事がなければ締まらない。時代は、神聖ローマ皇帝カール5世とフランス国王フランソワ1世のイタリア支配権を巡る戦乱のさなか。おまけに、宗教改革やら、対抗宗教改革やら、異端の嵐が荒れ狂う。この時代に多くの万能人を輩出したのは偶然ではあるまい。それは、夢や幻への逃避なんぞではなく、真理を渇望した結果であろう。
カルダーノは、自身の呪われた宿命を語る。まず、母は中絶を試みて失敗したという。そして、黒死病が流行り、母はミラノからパヴィアへ移ってカルダーノを産んだと。金星と水星が太陽の下に位置し、奇形児の生まれやすい位置関係で生を授かったと。彼の不幸ぶりを列挙すると、先天的な病に後天的な病、長男の無残な死、不肖の次男、娘の不妊、そのうえ性的不能に加えて絶えざる困窮、さらに誹謗中傷や名誉毀損の奸策を被り、ひっきりなしの訴訟事件、おまけに投獄体験ときた。
カルダーノは逆境を生き抜くための術に、「天啓」という言葉を持ち出す。あらゆる学問への興味は閃きと守護霊の恩恵であり、天啓を完全なものにしようという努力であったと。好きな事とやりたい事を分けるものが、これだ。好きな事は、少々の苦難があると挫折してしまうが、本当にやりたい事は、苦難をもろともしないばかりか、底知れぬ力に変えてしまう。天才には、何か途轍もないものが取り憑くようである...
「自分の境遇を嘆く権利などない。アリストテレスの言葉を信じるならば、重大な事実について確実でしかも稀な知識を豊富に持っていることからすれば、わたしはほかの人々よりずっと恵まれていると自認している。」

3. 万能人に欠けるもの
この万能人にして、欠けているものが多すぎると告白してやがる。自分の内気な性格や気難しい両親を嘆き、友人や頼みとする家族を欠いたうえに、記憶力や身のこなしが欠落していたと。あまりにも卑屈すぎはしないか。いや、その反骨精神が万能人たる所以なのか。凡人は欠けているものを隠そうとするものだけど。
カルダーノに取り憑いた守護霊だって、理性を欠いた獣の霊と化すこともあれば、欺瞞に動かされることもある。霊魂ってやつは公然と警告してはくれない。自問している自分が答えるだけだ。
そして、社会を嘆き、人間を嫌い、自己嫌悪に陥り、反社会分子的な性格を覗かせる。この万能人には、占星術師らしい中世の神秘主義者と、その中世の価値観を否定するルネサンス人が共存するかのようである。
さらに、ラテン語の習得が遅れていたことを嘆く。この時代の文献といえば、ニュートンのプリンキピアを思わせるような整然としたラテン語で書くのが慣例であるが、自伝の原書は、俗語とも古典ラテン語ともつかぬラテン語で残されるそうで、中世ラテン語と呼ばれるとか。カルダーノは、あえて俗語的なラテン語で世に問おうとしたのだろうか...
「さて、読者諸君へのお願いが一つある。この書物をざっと飛ばし読みして、その目的が人間の束の間の栄光であると考えてもらっては困る。かえって、われわれの惨めで難儀な一生をすっぽり覆っている重苦しい暗闇を、広大な地上と天体とに比較してほしい。そうすれば、わたしが物語っていることがいくら奇跡めいているとはいっても、信じがたいことは何も含んでいないとたやすくわかってもらえるはずだ。」

2017-10-08

"意志と表象としての世界(全三冊)" Arthur Schopenhauer 著

アルトゥル・ショーペンハウアーの随筆をいくつか拾い読み、ようやく彼の大作に挑む下地ができたであろうか。実は、この大作を避けに避け、お茶を濁そうと目論んできたが、気まぐれには勝てそうにない。随筆のような形式を好むのは、本音を覗かせるところにあり、なにより著者の愚痴が聞こえてきそうなところにあるのだが、哲学書として構えられると、学識張っていてどうも近寄りがたい。プラトンの対話篇は学生時代から馴染んできたが、アリストテレスの学術書となると、手に取るまでにかなりの時間を要した。カントの三大批判書にしても、ゲーテをはじめとする文芸家や科学者たちの書で引用されているのを見かけるうちに衝動にかられ、ダンテの大叙事詩に出会えたのも、ルネサンス期を生きた美術家たちの言葉によって導かれた。
そして、ショーペンハウアーはというと、西欧ペシミズムの源流とも評され、ニーチェや森鴎外などの文芸書に、はたまた、シュレーディンガーやアインシュタインなどの科学書にも、その名を見かける。
ただ当時は、厭世主義、非合理主義、反動主義などとレッテルを貼られ、フェミニストからは女性の敵と叩かれ、有識者からは頽廃の哲学と非難されたようである。産業革命にはじまった合理的な生産社会は、明るい未来を想像させ、楽観主義を旺盛にさせたが、同時に、人間中心的な享楽主義によって自然への配慮を忘れさせてきた。ショーペンハウアーは、人類の浪費癖と、人間社会が自然物から乖離していく様を嘆いているが、そうした風潮は、21世紀の今日に受け継がれ、現代悲観主義を先取りしていたようにも映る。
俗世間では、楽観主義を、明るい... 積極的... などの形容詞と結びつけて肯定的に捉え、悲観主義を、暗い... 消極的... などの形容詞と結びつけて否定的に捉える風潮がある。ショーペンハウアーは、これに逆らうかのように積極的な悲観論を受け入れ、自己否定論にも臆することはない。むしろ現実を直視する立場にあり、見方をちょいと変えるだけで楽観主義と悲観主義が逆さまにもなる。狂気した社会に対抗するには、世間から狂人と呼ばれる立場に自ら身を置いてみることだ!と言わんばかりに。楽観論の渦巻く暴走社会において、唯一歯止めを利かすことができるとすれば、それは悲観論にほかなるまい。狂ったこの世で狂うなら気は確かだ... とはこの道か。ショーペンハウアーは、あえて世間の敵役を演じているのやもしれん...
尚、西尾幹二訳版(中公クラシックス)を手に取る。

ショーペンハウアーという人物は、自由ハンザ都市ダンツィヒの生まれだけあって自由を信条とし、何ものにも屈しない激しい気性の持ち主だったようである。ちょうどフランス革命の時期に生まれ、政治、経済、文化、宗教などあらゆる既成価値が崩壊していく時代。革命が急進化すれば、政敵は次々と断頭台へ送られ、恐怖政治と化す。民衆は革命派にも、保守派にも希望が持てず、もはや旧体制に戻ることすらできない。ショーペンハウアーの気性は、こうした時代を反映しているかのようである。特に、自由人は集団的性向を嫌うところがある。だからこそ、自己を徹底的に追求することができたとも言えそうか。近代的市民の自立性を体現しているような...
人生ってやつは、苦悩と退屈の二部構成の人間悲劇、いや人間喜劇。苦悩がなければ、人生は怖ろしく退屈なものとなり、暇が過ぎれば、ろくなことを考えない。主観と客観の葛藤も、あらゆる論争も、暇つぶしにはもってこい。ドグマに没頭するのは暇な理性のやることだ。人間ってやつは奇妙な存在である。役に立つとか、立たないとか、そんなことにこだわらないと生きられないのか?生きているだけで幸せとは思えないものなのか?... などと問わずにはいられないのも、これまた人間の悲しい性。意識が完全になるほど苦悩も露わになる。知識を高め、認識が明晰に達するほど苦悩も増す。芸術家が苦悩に悶えた挙句に自ら抹殺にかかるのも、天才であるがゆえの結末か。命の存続を望むのは、生への愛着だけではあるまい。死を忌み嫌うのは、恐怖からだけではあるまい。悲観主義を講じて虚無主義に進めば、いや皮肉主義に陥れば、酔いどれ天の邪鬼の共感をますます誘う...
「すべての幸福は本性のうえから消極的にすぎず、積極的なものではない。だからこそ永つづきする満足や幸せというものはあり得ず、いつもただ苦痛や欠乏から脱出し得たという思いがあるだけであって、その後に必ずつづいて起こるのは新しい苦痛か、さもなえればもの憂さ、空しい憧れ、そして退屈ですらある。」

ところで、認識論の不完全性は科学的にも暗示されている。それは、不確定性原理の哲学的な解釈をめぐってのものだ。物理現象を観測するということは、純粋な物理系に観測系が加わってはじめて成り立つ、との主張は観察者効果と呼ばれ、不確定性原理とは一線を画すものの、人間がある存在を純粋のまま認識することは不可能だと言っている。精神がニュートン力学に幽閉されていれば、尚更だ。感覚器官で知覚することはできても、真の姿を知ることはできない。だから、耳鳴りがしたり、錯覚を見たり、霊感を感じたり、ついにゲシュタルト崩壊を起こす。時間にしても、空間にしても、相対的に認識することができるだけで、それは意識の産物でしかないのではないか、と疑いたくもなる。人間認識が介在した時点で純粋な現象ではありえないとすれば、プラトンの唱えるイデアを認識することも叶うまいし、それが無機的な存在か、有機的な存在かも分かろうはずがない。
そして、人間とは何であるか?精神とは何であるか?と根源的な存在を客観的に捉えようとしても、矛盾に辿りつくのが関の山。この矛盾こそが、哲学する者にとっての真理となり、心地よい矛盾となるのであろう。
対して、この酔いどれ天の邪鬼ときたら誤謬の奴隷であり続け、永遠に真理など見えてきそうにない。だから、幸せでいられるのだろう。ジョージ・バークリーはこう言ったという、「考える人は少ない。しかし誰もが意見をもとうとする」と...
迷いを断ち切るだけで、悩みの多くを削ることはできよう。謙虚とは、誇り高く過信しないことであり、それは断じて卑屈ではない。もし悔いなき生涯を送るとすれば、凡人には忘却の道しか残ってなさそうだ。悲しみを背負った者でなければ、魂に平和が訪れぬとすれば、悟りは悲観論の側にあるのやもしれん...

「世界そのものの声をもっとも忠実に復唱し、いわば世界の口述するところをそのまま写しとった哲学のみが真の哲学である。それはまた、世界の模写と反射にほかならず、なにか自分自身のものをつけ加えたりせずに、ただひたすら繰り返しと反響をなすだけのものである。」
... フランシス・ベーコン「学問の発達」より

1. ショーペンハウアー vs. ヘーゲル
ショーペンハウアーは、ヘーゲルと対立したことでも知られる。当時の書評にも、犬猿の仲のように描かれたそうな。世間ってやつは、対立構図を大袈裟に煽るのが好きなものだけど。ヘーゲルの方はというと、哲学界に確固たる地位を築きつつあり、まだ若造であったショーペンハウアーを意識した形跡はないらしい。そして二人の死後、ヘーゲル学派とショーペンハウアー学派の論争が激しさを増す。本書では、ヘーゲル学派への毛嫌い振りを、序文のカント批判に対する反論に垣間見ることができる。
「他人の叙述からカントの哲学を知ることができると思いこんでいるような人は、救いようのない謬見にとらわれている... ごく最近の数年において、ヘーゲル主義者によるカント哲学の解説の著書がわたしの目の前に現われたが、これはまことに他愛のない作り話に終わっている。」
両派の衝突は、どうやらカントの解釈をめぐってのものらしい。カントは、ア・プリオリという直観概念を持ち出して主観の偉大さを語った。それは、ユークリッド原論で唱えられた公理や公準の位置づけのように、これ以上証明のしようのない命題がこの世には存在するのだという純粋直観に通ずるものがある。
対して、ヘーゲルは、思弁的な立場から客観を重要視した。だからといって主観を完全否定したわけではないし、人間の論理的思考が永遠に矛盾と対峙する運命にありながらも、弁証法が輝きを失うことはあるまい。
ショーペンハウアーにしても、ヘーゲル式弁証法を真っ向から否定しているわけではあるまい。実際、本書では主観と客観の調和めいたものを唱え、彼の随筆集を読んでも思弁的な態度と相性が悪いようには映らない。
となると、同時代を生きたから、ライバル意識を燃やしたのだろうか。同じベルリン大学に在籍したことが、余計にそうさせたのだろうか。時間といい、空間といい、二人は近すぎたのやもしれん。カントぐらい少し離れた時代を生きれば、素直になれたのかも。
あるいは、カント哲学を信条とするだけに、ちょうど動揺を誘う的を射てしまったのか。人間なら誰しも、指摘されるとつい感情的になってしまう事柄を、一つや二つ抱えている。エピクロスは言っている、「人間の心を乱すのは事物ではなく、事物についての意見である」と...
主観と客観は表裏一体、争えば大きな災いとなり、協調すれば大きな力となる。尚、この酔いどれ天の邪鬼は... 哲学する者の資格は、啓発された利己心と健全な懐疑心に支えられていると信じており、前者がカント風の直観概念と、後者がヘーゲル風の弁証法的思考とすこぶる相性がいい... と考えている。
「理性によって正しく認識されたものが真理であり、悟性によって正しく認識されたものが実在である。真理はすなわち、十分な根拠をそなえた抽象的な判断のことである。実在はすなわち、直接的な客観における結果からその原因への正しい移行のことである。」

2. 意志と表象
人間の定義となると、すこぶる難しい。それだけに偉人たちは多くの名言を残してきた。デカルトは、「思惟する存在」とした。ショーペンハウアーは、「意志こそ第一のもの」としている。そして、意志と表象は表裏一体であると...
「表象」という用語は、なかなか手強い。単なる現象ということもできるわけで、自由意志ってやつは崇めるほどのものなのか。哲学では、こうした精神現象を形而上学の名の下で語り、物質的な存在を形而下と呼んで差別する。原子論に照らせば、どちらも単なる物理現象にしか見えてこないのだけど...
また、「意志は完全に自由である」としている。いっさいの目標がないということ、いっさいの限界がないということ、これが意志の本質であると。意志は、終わることを知らない努力というわけである。そして、意志の段階ではまったく認識を欠いていて、盲目的で、抑制不可能な衝動に過ぎないという。
「後悔はけっして意志の変化から生じるのではなく、認識の変化から生じる。」
意志は、けして変化するような代物ではないというのだ。純粋な衝動は無限をまったく恐れず、意志は普遍的であり続け、だから、ひたすら邁進することができるのか。プラトンのイデアとは、そのようなものを言うのかもしれない。そして、意志の継承が人類の叡智と呼ばれるのであろう。
さらに、意志が知識を得て認識に変化した時、不自由を感じるという。となれば、不自由を感じて行動が変化するのも、やはり意志なのでは?福音などというものは認識だけが残った状態で、意志が消えてなくなってしまった状態にほかならない。自己に命じることのできるのは、福音でもなければ、プラトンでも、カントでも、ましてやメフィストフェレスでもない。自分自身だ。そして、意志の命ずるままに、死を恐怖して生きるか、死を覚悟して生きるか、それが生き様というもの。生死を超越した「意志と表象」の思想は、ニーチェの永劫回帰を想わせる。だから、この酔いどれ天の邪鬼は、自らの意志である衝動を「崇高な気まぐれ」と呼んでいる...
「意志はつねに努力して止まない。努力こそ意志の唯一の本質であるからだ。目標に到達しても努力に終止符が打たれることはない。努力はしたがって最終的な満足を覚えることはできず、ただ阻止されることによって止まり得るだけで、そのままにしておけば限りなく進んでいく。」

3. 正義 vs. 良心
人間社会における規定おいて正義や道徳なんてものがあるが、これに良心とやらがなんとなく加わって独特な規定を構成してやがる。人間の自然状態に近いのは、正義よりもはるかに良心の方であろう。しかしながら、現実社会では良心よりもはるかに正義の方が力を持つ。だから、扇動者は正義という言葉を巧みに利用する。良心が優っていれば、けして言葉で欺瞞しようなどとは考えないはずだが...
不正を被りたくないという自己の意志が、他人に対する不正を抑制するところがある。あいつは死んでもいい!などといじめ抜くとしたら、自分が殺されたって文句は言えないってことだ。したがって、目には目を歯には歯を!という信条が法典となるのも、伝統的に不正の程度に対して罰則が規定されるのも、社会合理性が含まれている。
「誰も不正を行おうとはしない、ということが個人の場合における正義のあり方であると思うが、誰も不正をこうむりたくないので、そのために適切な手段が完全に講じられている、ということが国家の場合における正義のあり方である。」
法の執行は、復讐代行業として機能しているところが多分にある。だから、優秀な法律家を金で囲おうとする。本当に法が平等ならば、そんな手の込んだことをやる必要はないし、そもそも法律家の腕で決定されるものではないはず。
自然状態における人間本来の所有権というものは、おそらく存在するのだろう。だが現実に、本当に所有権なるものが存在するかも疑わしい。復讐業の類いが映画やドラマの題材とされ、大盛況となるのは、大衆がそう認識しているからであろう。実際、民主主義社会で求められるのは強力な指導者であって、それは言い換えれば、健全な、いや健全そうに見える独裁者であって、すでに民主主義と矛盾している。理性は、辛うじて良心が砦となり、その砦を正義がことごとく破壊していく。そして救世主は、正義、同情、聖者、裏稼業の順に出現する...
「国家は、人間のエゴイズム一般ないしエゴイズムそのものとは逆の方向を向いているものではなく、それどころか国家は、万人のエゴイズムに端を発している。」

2017-10-01

"読書について 他二篇" Arthur Schopenhauer 著

ショウペンハウエルは、これで四冊目。惚れっぽい酔いどれ天の邪鬼は、暗示にかかりやすいのだ。この厭世哲学者ときたら、とことん積極的なネガティブ思考を仕掛ておきながら、奇妙なポジティブ思考へと誘なう。怖いもの見たさのような。悲観主義を徹底的に貫くと、楽観主義に辿りつくというのか。それは、楽して儲けようという人種が、そのために情報収集に努め、社会システムを駆使し、結局は勤勉になるようなものか。彼の主著「意志と表象としての世界」があまりに分厚いので、お茶を濁そうと随筆ばかりに手を出してきたが、この大作へ向かう衝動を抑えられそうにない。
ところで、障害が大きいほど燃える!というが、それは本当だろうか?愛の場合はそうかもしれん。だが、速読術は速愛術のようにはいかんよ...
尚、本書には、「思索」、「著作と文体」、「読書のついて」の三篇が収録され、斎藤忍随訳版(岩波クラシックス)を手に取る。

ショウペンハウエルは、警句箴言の大家と見える。ホラティウスやゲーテといった偉人たちの言葉を引用しては、皮肉たっぷりに余人に問う。それだけ彼が多読してきた証でもある。そして、「読書」には「思索」という言葉を対立させ、読書は思索の代用品に過ぎない!と吐き捨てる。
「読書は言ってみれば自分の頭ではなく、他人の頭で考えることである。」
いつの時代でもハウツー本は盛況ときた。考えることを面倒臭がり、愚鈍で怠惰な人間ほど、読書は危険な行為となろう。安全な道を模索して他人の経験を犠牲にし、手っ取り早く結論に飛びつく。そして、同じ過ちを繰り返すのである。著作家もまた報酬を求めて書き始めれば、読者を欺くことになる。そんな書群が巷を騒がせば、ショウペンハウエルが愚痴るのも分かるような気がする。
しかしながら、いまや読書にも至らない時代。ちょいとググれば知識はいつでも手に入るし、知識を会得することよりも検索術の方が評価される。考える力までも仮想空間へ追いやられるとしたら、人間とはどんな存在なのだろう。なぁーに、心配はいらない。仮想空間が幻想だとすれば、魂だって、精神だって、同じことではないか。そもそも、人間存在に対して明瞭確実に説明できる哲学を、おいらは知らない。ちなみに、宗教にはよく見かけるけど...
一方で、永遠の生命が吹き込まれたような書物がある。もはや著作家の意志から独り歩きをはじめ、幽体離脱したような。自分で考え抜いた哲学だと思っていても、古典に触れているうちに、既に過去に編み出されていたことに気づかされ、がっかりすることはよくある。それでも、すぐに思い直して、それが却って心地よかったりするもので、普遍的な抽象原理にはそうした力がある。意志の継承こそ人類の叡智。この領域に、報酬や著作権などという概念はない。ちなみに、A. W. シュレーゲルの警句に、こんなものがあるそうな...
「努めて古人を読むべし。真に古人の名に値する古人を読むべし。今人の古人を語る言葉、さらに意味なし。」

ところで、「読書」というからには、本を選ぶという行為がともなう。多少なりと興味がなければ、その本を選ぶこともできない。学校教育などで強制的に読まされるのでもなければ。興味があるということは、似たような思考性向を既に持っているのでは。それは、思索のための題材に飢えているような、いわば暇つぶしに苦慮した心境とでも言おうか。類は友を呼ぶ... という言うが、本を選ぶのにも似たところがある。心を打つ言葉に出会った時、既にその言葉を受け入れる度量が具わっていたことを意味する。もし、心の準備が整っていなければ、偉大な芸術を目の前にしても何も感じることはなく、この作者はいったい何がいいたいのか?などと最低な感想をもらすのがオチだ。寂しがり屋は、そこに共感めいたものを期待し、本を漁っては立ち読みを繰り返す...
「良書を読むための条件は、悪書を読まぬことである。人生は短く、時間と力には限りがある。」

思索の段階では、言葉を探そうとする行為がある。もやもやした思考の中から具体的な言葉を発見した瞬間、思考から真剣さが失せ信仰の段階へ。多読に費やす勤勉な人ほど次第に自分でものを考える力を失っていく。これが、大多数の学者の実状だと指摘している。
思索は主観性の領域にとどまり、知識を獲得すると客観性の領域へと引き出される。思考中は、衝動的なつながりと気分的なつながりを感じながら悶え苦しむことになるが、それでもある種の快感を得ることはできよう。ドMなら尚更だ。それは、酔いどれ天の邪鬼が最も崇拝している「崇高な気まぐれ」を実践している状態とでもしておこうか。
そして、ショウペンハウエルの読書に対する態度を、勝手にこう解釈するのであった... 自己知識に対して常に、カント的な批判的態度とヘーゲル的な懐疑的態度を見失いわないこと。そして、最も純粋な哲学、すなわち思索の最も基本的な態度は、自問であるということ... と。ちなみに、ショウペンハウエル自身は、ヘーゲル学派を毛嫌いしているようだけど...
「数量がいかに豊かでも、整理がついていなければ蔵書の効用はおぼつかなく、数量は乏しくても整理の完璧な蔵書であればすぐれた効果をおさめるが、知識のばあいも事情はまったく同様である。いかに多量にかき集めても、自分で考えぬいた知識でなければその価値は疑問で、量では断然見劣りしても、いくども考えぬいた知識であればその価値ははるかに高い。」

2017-09-24

"自殺について 他四篇" Arthur Schopenhauer 著

「やがて老齢と経験とが、手をたずさえて、死へと導いてゆく。そのとき悟らされるのだ、- あのように長いあのように苦しかった精神であったのに、自分の生涯はみんな間違っていたのだ、と。」
... ゲーテ「詩と真実」より

アルトゥル・ショウペンハウエルは、これで三冊目。さらに、まだ手を付けていない数冊が目の前に積んである。惚れっぽい酔いどれは、どうやら嵌ってしまったようだ...
彼に言わせると、人生とは、こういうものらしい。
「裏切られた希望、挫折させられた目論見、それと気づいたときには遅すぎる過ちの連続...」
さすが、西欧ペシミズム(悲観主義)の源流と評されるだけあって、ネガティブ思考を徹底的に追求してクタクタにさせた挙句に、ポジティブ思考へ誘なおうってか...
尚、本書には、「我々の真実の本質は死によって破壊せられえないものであるという教説によせて」、「現存在の虚無性に関する教説によせる補遺」、「世界の苦悩に関する教説によせる補遺」、「自殺について」、「生きんとする意志の肯定と否定に関する教説によせる補遺」の五篇が収録され、斎藤信治訳版(岩波文庫)を手に取る。

人類が編み出した言語体系には、存在を強烈に意識させる動詞が具わっている。英語の be 動詞やドイツ語の sein 動詞の類いが、それだ。日本語では真実を語る時、ある!ある!と語尾を強める。存在意識は、極めて経験的でありながら、最も自然に発する観念と言えよう。それは、まずもって自己を意識することから始まり、他との比較から徐々に自分自身の状態を把握していき、やがて自我を確立させていく。なにより苦難を感じるということが、自己を意識している証なのだ。他との相対的な関係からでしか自己存在を認識できないとすれば、人間が自己中心的であるのも当然である。死という得たいの知れないものが近づけば、生に対して未練がましくもなる。
そこで、しばしば卓越した知性の持ち主が荒唐無稽の観念に憑かれ、とても消化できそうにない不合理に絶えず悩まされる。死後も魂は生き続けるという、あの観念に。だが気をつけた方がいい。魂の不死を受け入れれば、心霊と肉体を対立させ、ついに肉体の存続を悪として攻め立てることになる。自我が重荷となると、今度は集団の中に安住の地を求め、やがて奴隷根性が染み付いていく。魂の棲家は、有益な誤謬ほど居心地が良いと見える。いずれにせよ、人間は生涯ド M な存在というわけか。自立の道は険しい。自由の道は果てしなく遠い...
「だから真理の代用品などというものはあぶなっかしいものだ。」

自殺を罪悪とする宗教があれば、自殺を美学とする文化がある。ストア派哲学にも、高貴な英雄伝説として語り継がれるものを見かける。その代表格がセネカのものだ。終わりがあってはならないという愚かな希望... 自己という有機的存在が実は無意味であったという絶望... そんなことは、現実社会で十分過ぎるほど体験してきたはず。まったく無力であったことを。
にもかかわらず、無の恐怖に駆られて自虐の門を叩く。人間の怖いもの見たさというのも、困ったものだ。生が夢まぼろしであるなら、死はその目覚めということか。人生とは、死から融通してきた借金のようなものか。睡眠とは、その借金から日毎に取り立てられる利息のようなものか。人はみな、自分の人生に価値を求めずにはいられない。でなければ、自己を否定することになる。しかしながら、そんなこだわりから解放されてこそ、真に意志を目覚めさせるのであろう。それが自由意志ってやつか...
現代社会では死はどこまでも否定的なものとされるが、死にも積極的な面はある。意志の継承が、それだ。輪廻では、霊魂がそっくりそのまま別の肉体に乗り移るとされる。しかるに再生では、個体の解体と再建によって意志だけが継続されることになる。新しい存続の形体は、さらに新しい知性を獲得していくことだろう。生きんとする意志が自己を肯定し、自己に教説を与えていくことだろう。知性は意志の源泉となり、意志は世代を越えて受け継がれる。まさに永劫回帰の道よ...
「知性は救済の原理であり、意志は束縛の原理である。」

ところで、個体が不滅となれば、死を恐れる理由はなくなるだろうか?自己存在という幻想を滅却すれば、無に帰することが出来るだろうか?いや、わざわざ無に帰せずとも、記憶を抹殺すれば同じこと。あらゆる悩みは記憶から生じる。知性の喪失とは、ほかならぬ意志の忘却ではないか。永遠の克服が忘却にあるとすれば、アル中ハイマー病患者にも希望が持てる。神の合目的を解し、あらゆるものに存在意義を与えようとは、なんとおこがましいことか...
人生とは、どうせ思い込みの中をさまよっているようなもの。この能力は、神にも及ぶまい。神は何をやり直したいのかは知らんが、常に新しい生命体をこしらえ続ける。まったく気まぐれな完全主義者にも困ったものよ。破壊と創造こそが永遠のサイクル、やり直しは永遠なり、そのために宇宙は神の実験室であり続ける...

2017-09-17

"知性について 他四篇" Arthur Schopenhauer 著

アルトゥル・ショーペンハウアーは、「幸福について」に続いて二冊目。惚れっぽい酔いどれ天の邪鬼は、またもや嵌りそうな予感...
彼は、西欧ペシミズム(悲観主義)の源流と評されるだけあって、ここでも積極的なネガティブ思考を要請してくる。いや、皮肉屋の愚痴か。悲観主義に皮肉が混じると、奇妙なポジティブ思考へいざなう。「常に多くを学び加えつつ年老いん」とは、ソロンの言葉であったか...
尚、本書には、「哲学とその方法について」、「論理学と弁証法の余論」、「知性について」、「物自体と現象との対立に関する二三の考察」、「汎神論について」の五篇が収録され、細谷貞雄訳版(岩波文庫)を手に取る。

知識をいくら詰め込んでも、知性豊かになれるわけではない。ただ、知識なくして、知性は育まれそうにない。知識は極めて客観性に近い領域にあるが、知性は、これを解釈し、理解することによって身につけていくので、極めて主観性に近い領域にあるということになる。本来、知性とは、自己を客観的な脳髄として現象化するもののはずだが...
それ故に、知性は暴走しやすいということも言えよう。歴史を振り返れば、実に多くの社会的暴走が有識者たちによって扇動されてきた。大衆は、彼らの言葉を自分の意志と解して同調する。思考しない者が思考しているつもりで同調している状態ほど、扇動者にとって都合のよいものはない。下手に知識があるために判断を誤るということはよくあることだが、それもまた主観が介在した結果である。
知性には自由意志がともなう。従って、真理の探求者は、常に自分の意志にも疑いを持つことになろうし、要請されるは、意志に奉仕する知性とでもしておこうか...
「哲学するために最初に求められる二つの要件は、第一に、心にかかるいかなる問いをも率直に問いただす勇気をもつということである。そして第二は、自明の理と思われるすべてのことを、あらためてはっきりと意識し、そうすることによってそれを問題としてつかみ直すということである。最後にまた、本格的に哲学するためには、精神が本当の閑暇をもっていなくてはならない。」

自由を謳歌するということは、自分の意志を弄ぶということであろうか。自分の居場所を自己の中にどっしりと構え、自然と戯れるがごとく意志を貫く。春風駘蕩とは、こうした奥義を言うのやもしれん...
しかしながら、凡人は集団の中に居場所を求めてやまない。孤独を寂しいものとして忌み嫌い、いびつな仲間意識を助長させ、自立や自律を妨げる。儀礼的な態度に徹しては、ひたすらグループに属すことを生き甲斐とし、奴隷根性が染み付いていく。いくら哲学書を読み漁っても、哲学者にはなれない。いくら芸術作品に触れても、芸術家にはなれない。自由を謳歌できる者は、詩人のごとく天賦にしてはじめて成しうるということか...
「自分の知性をいくらかでも純粋に客観的に使用できる人々の間の対話は、その内容がどんなに軽いものであっても、そしてただの洒落におわるようなものであっても、ともかくもすでに、精神的な力の自由な遊びになっているので、ほかの連中の対話にくらべれば、歩行に対する舞踏のような感を与える。」

1. 知性は、本当に形而上学に属すのか?
「知識欲は、普遍的なものへ向かうときには学究心と呼ばれ、個別的なものへ向かうときには好奇心と呼ばれる。」
人間の知識の限界は、例えば、ユークリッド原論が公理と公準という形で示してくれる。それは、これ以上、証明できない自明な原理に支配されるということ。カントは、認識論においてア・プリオリな概念を導入した。それは、時間と空間という直観的存在が、どんな認識原理よりも先立って認識されるということ。プラトンは、イデアという精神の原型なる存在を唱えた。だが、文明人の魂に原型を垣間見ることはできそうにない。
人間の知識は、こうした素なる存在から派生した認識能力によって組み立てられる。その素なる存在は、まさに説明不可能なものとして君臨しているわけで、ここに形而上学の本分がある。その過程では、まず身近な事象を具体的に知覚し、やがて抽象的に捉えようという意識へ変化していく。個別的な意識から普遍的な意識への昇華とでも言おうか。
客観的に説明できないものが存在すれば、もはや主観に頼るしかない。不可知なものを主観で語るということは、独り善がりな議論ともなり、知性は極めて経験的となる。ショーペンハウアーは、哲学が対象とするところは経験であるとし、その意味で、こうも言っている。
「知性は形而下的であって、形而上的ではない、と言うこともできよう。」

2. 合理主義と照明主義
あらゆる時代の自然哲学は、合理主義と照明主義の狭間で揺れ動いてきた。時には、カント式批判原理によって、時には、ヘーゲル流弁証法によって。人間の解釈能力は、恐るべきものがある。なにしろ普遍的な真理を、俗的で特殊な真理もどきに変えてしまうのだから。どうやっても答えの見つからない事象と対峙すれば、客観性を崇める者は懐疑主義や批判主義に走り、主観性を崇める者は宗教に魂を売る。精神を語ろうとすれば、合理主義から逸脱し、超越的な仮説の領域に踏み込む。
だが、宇宙の本質を知らぬ人間どもが精神の本質を語れるはずもなく、形而上学は信仰の領域に踏み込まざるをえない。ならば、何事にも批判的な態度で立ち向かうことにも、ある程度の合理性を見出すことはできよう。実際、議会における野党のごとく、ただ批判するだけでも、ある種の真理を含んでいることもある。たまには...
ショーペンハウアーは、単に利口なだけなら懐疑家の資格にはなろうが、哲学者の資格にはならない、と言っている。凡庸な、いや凡庸未満の酔いどれ天の邪鬼に与えられる資格とは、皮肉屋になって自己陶酔することぐらい。そして、おいらの耳に、この言葉が嫌みに聞こえる...
「とのような時にせよ、異を立てようという気になるな。無知の人々と争えば、賢者も無知に沈むのだから。」... ゲーテ「西東詩集」箴言の書二七番

3. 時間と空間の観念性
カントが唱えた「時間の観念性」は、既に力学で説かれた「慣性の法則」の中に含まれているという。時間は物理量というより、認識主観から発現するものであると。時間の観念性については、古代の哲学者たちも仄めかしてきた。プラトンは「時間は、永遠の動く影」と表現し、スコラ学派は「永遠性は時間の終わりなき継続ではなく、恒常の今である」と言明し、スピノザは率直に「時間は事物の状態ではなく、思惟の様態にすぎない」と語ったとか。この酔いどれ天の邪鬼ですら... 時間は認識の産物に過ぎない!... といったことは言えるのである。永遠性は、その性質上、時間の反対ということもできよう。ショーペンハウアーは、こう言っている。
「永遠が存在しなければ、時間もありえない。いな、われわれの知性が時間を生じうるのは、われわれ自身が永遠の中に立っているからにほかならない。」
時間の観念性が自己存在を想定する上で重要であることは明らかだ。ただ、もう一つ重要な概念に空間の観念性がある。おそらく空間を想定せずに、あらゆる存在を認識することはできまい。もちろん、それがユークリッド空間である必要はない。脳内に構築できる想像可能な思考の次元空間であれば、なんでもありだ。そして、あらゆる事象に対する認識は、時間と空間に支えられた副次的な偶有的な現象にすぎない、ということは言えそうである。
では、空虚とはどんな空間あろうか?時間の観念を失うだけなら精神病患者に見て取れるが、空間の観念をも失えば、もはや人間ではなくなるのだろうか?
ところで、人間の本質的に具わるもの、根源的な思考をもたらすもの、それは意志の存在だという。空間と時間の次にくる観念性は意志ということか。ならば、意志の解放こそが、哲学に求められる資質ということになりそうだ。直観的な認識から知識を汲み取り、自然、世界、人生を直視し、自己の思想原典としていく。それが、自己実現ってやつか。自然と現実は、けして欺かない。無知を自覚してはじめて自然の導きに素直に応じることができる。子供が最も素朴な哲学者!と言われる所以だ。しかしながら、大人になればなるほど知識は歪められ、自ら道化を演じてやがる...

「われわれ自然の道化どもが
 われわれの心には及びえぬ思想で
 かくも怖ろしくわが身をゆさぶる」... シェークスピア

2017-09-10

"幸福について - 人生論" Arthur Schopenhauer 著

「総じて賢者というものは、いつの時代の賢者でも、結局同じことを言ってきたのであり、愚者すなわち数知れぬ有象無象どもは、いつの時代にも一つのこと、つまりその逆をおこなってきたのだが、こいつは今後といえども変るまい。だからヴォルテールは言っている、『われわれはこの世をみまかるときも、この世に生れて日の目を仰いだときと同じく、愚かで悪党であることだろう』と。」

本書は「処世術箴言」の全訳で、「幸福について」という邦題は原題には見当たらない。このタイトルにやや違和感があり、また照れ臭さを感じるのは... いや胡散臭さか... いずれにせよ精神が腐っている証であろう。悪魔に魂を売り、おまけに酔いどれとくれば、それだけで愉快になれる。だから天の邪鬼なのだ。人生を論じれば、いかに楽しく、いかに幸せに過ごすか、という技術に囚われる。その意味で、人生論とは幸福の指針ということになる。
では、幸福とはなんであろう。これを冷静に客観的に捉えることは至難の業。強いて言えば、生きていないよりはまし!と言えるような人生にすることぐらい。あのお笑い芸人が言った... 生きてるだけで丸儲け!... とは、なかなかの真理をついている。現実をすべて受け入れれば、絶望論や悲観論を避けられない。それは、欲望と表裏一体に存在する情念を刺激する。こうした性向は、極めてネガティブ思考と相性がよく、精神と完全に融合してしまうと厄介だ。
「幸福は人間の一大迷妄である。蜃気楼である。が、そうは悟れないものである...」
そこで、この厭世哲学者は、悟れない人間を悟れないままに、幸せの夢を追わせたままに、救済しようというのである。それゆえ、すべての事物を諷刺とユーモアで語ることになり、著名人たちの俚諺、格言、詩文が皮肉めいた金言となって鏤められる。これら一大哲理の背後に、ペロリと舌を出す爺っちゃまの顔を想像せずにはいられない。厭世哲学者という皮肉屋の。人生論とは人生喜劇!なぁーんだ、ポジティブじゃねぇか...
尚、橋本文夫訳版(新潮文庫)を手に取る。

ところで、積極的と消極的、ポジティブ思考とネガティブ思考、これらの組み合わせで四つのパターンができる。積極的なポジティブ思考は無防備な陽気に行動を委ね、消極的なネガティブ思考は敗北主義的な態度で無条件の信仰へと誘なう。消極的なポジティブ思考は慎重すぎる上で行動を定義し、積極的なネガティブ思考は悪魔性を問い詰めた上で信念を切り開く。どれを選択するかはお好み次第、その時々の精神状態によっても違ってくる。
差し詰め、手っ取り早く幸福に浸りたければ、前の二つであろう。後ろの二つには少々困難がつきまとうが、中庸の哲学を実践するにはこの道しかあるまい。西欧ペシミズム(悲観主義)の源流と評されるアルトゥール・ショーペンハウアーは、積極的なネガティブ思考を要請してくる。そして、アリストテレスが表明した「賢者は快楽を求めず、苦痛なきを求める」という命題こそが、処世哲学の最高原則だとしている。処世術の詩人ホラティウスは、こう歌ったとか...

「中庸の美徳を愛する者は
 貧困の汚れに染まず、賢くば、
 人の羨みの邸宅の華美をも好まず。
 松高ければ嵐ますます猛り、
 山高ければ、雷(いかずち)まずこれを撃ち、
 塔高ければ倒壊の惨はなはだし。」

1. 人生の生贄
セネカは言っている、「精神活動を伴わぬ余暇は死であり、人間の生きながらの埋葬である。」と...
肉体的享楽もさることながら、精神的享楽となれば、自分を楽しむ... 自己を楽しむ... という表現がよかろう。だが、人生を楽しむ!この当たり前の事を実践することは難しい。人は誰しも、自分の存在を正当化しようとやまない。そうしなければ、生きて行くことも難しいのだ。才能ある人ならば、能力を存分に発揮し、知識をとことん突き詰め、それを謳歌することができよう。だが、凡人に何ができるというのか。
「人間の幸福は、自己の優れた能力を自由自在に発揮するにある。」とは、アリストテレスの説だ。優れた人間と言えども、憂鬱質をもっているものらしい。いや、才能豊かなだけに、余計に敏感なのかもしれない。そのために、自分自身に愛想を尽かすという苦しい思いもする。他人に同情すれば惨めになるが、自分自身に同情すれば悲惨。誰しも自分以上のものの見方はできない。だから、人間は盲目と言うしかほかはない。ゲーテは言っている、「人間のこの知的無能のために、優れたものの発見はもとより稀であるが、優れたものが認識され、それ相当に評価されるのは、なおそれ以上に稀だ。」と...
幸福は、憂鬱質を克服し、いかに鈍感に生きるかにかかっているというのか。それは、凡人の得意技だ。人のせいにできれば、そりゃ楽よ。神のせいにすれば、神も本望だろう。だが、自由意志を尊重すれば、言い訳は無用だ。そして、自由との引き換えに孤独を生贄に捧げよというのか...
「ところで『悪魔には生贄を捧げよ』というのをわれわれの格言にしようではないか。言い換えれば、災難の起りうる可能性を封じるためには、労苦か時間か不便さか回りくどさか金銭か困苦欠乏か、何か或る程度の犠牲を忍ぶことを恐れぬがよい。そうすれば、未然に防いだその災難が大きかったはずであればあるほど、困苦欠乏は小さく、かすり傷程度で、本当とは思えないくらいなものになるであろう。この原則を最も明瞭に例示するのが保険料である。保険料はすべての人が公然と悪魔の祭壇に捧げる生贄である。」

2. 孤独礼賛
世間には、孤独を死のごとく忌み嫌う風潮があり、報道屋は、孤独死を最悪の不幸のように報じる。だが、人は誰しも、いつかは独りで死と向かい合わなければならない。人生の意義の一つに、死に向かう心の準備というのがある。すっかり年老いて、慌てて孤独に耐えようとしても無理な話。社交界の役割の一つにも、相対的に孤独を知るということがある。怨みや妬みが罪だというなら関係を放棄してみては... 画策や思惑が罪だというなら集団から距離を置いてみては...
とはいえ、独りの世界に篭もれば、自分自身が見えなくなる。相対的な認識能力しか発揮できない知的生命体には、他人を観察することによってしか、自己を観察することができない。ラ・ブリュイエールは言っている、「われわれの不快はすべて独りでいることができないということから起ってくる。」と...
孤独は、およそ優れた人間の運命的な持ち分だという。才知に富む人ならば、独りぼっちになっても、自分の能力でけっこう慰められようが、愚鈍な人々は、社交やら、娯楽やら、ひっきりなしに目移りし、死ぬほど辛い退屈をどうにも凌ぎようがない。
「人間が社交的になるのは、孤独に耐えられず、孤独のなかで自分自身に耐えられないからである。社交を求めるのも、異郷に赴いたり旅に出たりするのも、内面の空虚と倦怠とに駆られるためである。」
凡人には、独自の運動を自ら摘むだけの原動力が不足している。そのために、孤独に恋い焦がれれば、メフィストフェレスの囁きによって反撃を喰らう。社会を嫌い、人間を嫌い、自己嫌悪に陥り... 自虐の道をまっしぐら。この愚かさを承知しつつも、この道へ向かう衝動は抑えられない。アポロン神殿に刻まれた「汝自身を知れ!」という言葉は、いささかでも心得ておくべきであろうが...
「『愛しもせねば憎みもせぬ』という言葉にはおよそ処世術の一半が含まれている。『何も言わず何も信じない』という言葉には残りの半分が含まれている。とはいえ、こうした原則に類するものを必要ならしめるような世界には、背を向けたくなるだろう。」

3. 人間の規定
本書は、人間の根本を三つで規定している。
一つは、「人の在り方」、すなわち、品格、人柄、人物。これには、健康、力、美、気質、道徳的性格、知性ならびに完成度も含まれ、これが最優先される。
二つは、「人の有するもの」、すなわち、あらゆる所有物。
三つは、「人の印象の与え方」、すなわち、外見、名誉、階級、思惑。
あらゆる差別意識は、人間が設けた規定から生じる。幸福と不幸の基準も。生き方そのものが、自分自身の中にあるにもかかわらず、他人との比較によってしか自分自身を発見できない。それゆえ、他人の欠点を探し、それを指摘し、自分の欠点を覆い隠そうとするのか。他人の弱点を見つけ出しては、自己優越感に浸って御満悦。他人の思考を気にせず、他人に依存せずに生きることは、よほどの修行を要する。
「内面的な富をもっていば、運命に対してさほど大きな要求はしないものである。」

4. 金銭欲
「人の有するもの」の代表に、金銭欲がある。しばしば世間では非難の的となるが、衣食住も、医療も、健康も、すべては金次第というのが現実だ。それは相対的な量で、要求と財産との比例に基づき、財産が増えれば、ますます貪欲となる。金では買えないものがある!というが、売っている所を知らないだけだろう。ちなみに、愛は買えるらしい。売人は小悪魔だという噂だ。フランクリンはこう言ったとか、言わなかったとか... お金と人間は持ちつ持たれつ。人間は贋金をつくり、金は贋の人間をつくる... と。
世間には、金を持っている人とは別に豊かな人がいる。能力によって金を稼ぐようになれば、その能力が固定資本となるものの、大きく儲かれば、自分の才能の利子だと自惚れる。精神のための自己投資は享楽のための投資へ向かい、ついに精神の自己破産を招く。貧困が身にしみた人ほど、この危険は大きいものらしい。本当の金持ちは、普段はあまり金持ちには見せないものらしい。富やら、階級やら、そんなものは芝居の中で演じている王様のようなものか。巨額な財産の持ち主より浪費癖が甚だしいのも、これまでの苦境の憂さ晴らしであろうか...
「内面の富を十分にもち、自分を慰める上に外部からほとんどあるいは全然何ものをも必要としない人間が、いちばん幸福である。」

5. 名誉欲
「人の印象の与え方」の代表に、名誉欲がある。
「名誉とは、客観的に見ればわれわれの価値に対する他人の思惑、主観的にみればこの思惑に対するわれわれの畏怖の念である。」
それは、人間の本性に具わる特殊の弱みとでも言おうか、虚栄心が満たされるところの評判の類いである。人はみな、人からどのように思われているか気になってしょうがない。まさに、生まれつきの自然な不合理性!タキトゥスは言っている、「名誉欲は賢者にとっても最も放棄しがたいものだ。」と...
名誉欲は、誇りと密接に関係する。名誉は人間社会を生きていく上で非常に有益であるために、不名誉を避けようと敏感になる。集団に対する帰属意識が強いほど。集団に属す人は、集団の欠点や弱点を熟知しているために、それを改善したいと考えるだろうし、カント的な批判哲学が有効となるだろう。
「名声は名声を求める人を避け、名声を顧みぬ人に従う。」
一方、政治的な扇動では、民族的な優越を誇張しては、凡庸な人々に勇気を与え、団結を求めようとする。賞讃を貪ろうと。
「誇りのなかでも最も安っぽいのは民族的な誇りである。なぜかと言うに、民族的な誇りのこびりついた人間には誇るに足る個人としての特性が不足しているのだということが、問わず語りに暴露されているからである。」
虚栄心は自己欺瞞と相性がいいが、真の名誉は自己欺瞞と相容れない。
「虚栄心は人を饒舌にし、誇りは寡黙にする。」
芸術家たちは、永遠の生への思いを労作に込める。好きで好きでたまらなく、自然に魂を解放した中で生み出された労作でなければ、芸術は完成しないだろう。邪念は無用だ。これが、寿命を克服するってことであろうか。しかしながら、そんな人生が送れるのは、一握りの才能の持ち主の特権。ただ凡人にだって、自然の導くままにとまでは言わなくても、力まずに肩の力を抜いて生きてゆくことはできそうか。これを、崇高な気まぐれとでもしておこうか...
「最も真性な名声すなわち死後の名声は、本人の耳に達することは金輪際ないけれども、しかしその本人は幸福な人とみられる。してみれば幸福は名声を得たゆえんの優れた性質そのものにあり、またその人がこの性質を発揮する機会を掴んだこと、すなわち自分に適したとおりの行為をするか、ないし気の向く好きな仕事に従事するか、どちらかの境遇に恵まれた点にあったことになる。」

2017-09-03

"自然学" アリストテレス 著

天文学がまだ占星術の域を脱せず、ピュタゴラス教団が無理数の存在を隠蔽していた時代、科学的な知的探求は「自然哲学」と呼ばれた。「科学」という用語が広く認知されるようになったのは十七世紀頃、科学革命の時代になってからである。
知るには、まず観ること!ここに思考の原点がある。学ぶためには知識が前提され、この受動的な思考活動の蓄積が、やがて能動的な思考活動へと昇華させる。自由意志の覚醒とでも言おうか。
観測の歴史は、実に古い。古代人が天体観測に憑かれたのは、地上の投影に思いを馳せたからであろうか。そこには自分自身を知りたいという願望を覗かせる。つまり、人類は永遠に自己を知り得ない存在ということか。そして、本格的な観測活動が始まったのは、天体望遠鏡が進化を遂げたガリレオの時代になってからのこと。観る精度が上がれば、知識はより確かなものとなる。しかしながら、人間ってやつは、近代科学をもってしても流言に惑わされ続け、アリストテレスの迷信の時代とそれほど変わりはないようだ。
本書は、観測的な根拠がないにもかかわらず、ひたすら直観によって導かれる宇宙論の醍醐味を魅せつける。その根源的な思考原理は、人類が発明した論理学の偉大さとでもしておこうか。弁証法的な方法論の萌芽を見ているような... それは、カントやヘーゲルより二千年も昔のことである。
尚、出隆 + 岩崎允胤訳版(岩波書店)を手に取る。

「自然学」は全八巻で構成され、古くは「自然学講義」と呼称されたアリストテレスの講義集だったそうな。書として成立した時期も巻によって違うようで、七巻まではプラトンの学園「アカデメイア」にいた頃のものとされるらしい。すなわち、「リュケイオン」の設立前である。そのためか?プラトンへの批判はかなり遠慮がちで、相違点を軽く指摘している程度。イデア論に対する独自の見解を示しながらも、「われわれプラトン主義者は...」という記述もある。
議論は反駁の形で展開されるが、相手はレウキッポスやデモクリトスが唱えた原子論。これは徹底的な機械論を唱える立場で、愛や理性といったものまで否定したようである。
対してプラトンは、イデアという万物の原型のような存在を中心に据えた観念論を展開した。アリストテレスは、イデア論を批判する唯物論的な立場にあるので、むしろ機械論の方が相性が良さそうに見えるが、観念的な存在まで否定する気にはなれなかったと見える。プラトンやアリストテレスは、自然哲学が無味乾燥となっていく様を嘆き、観念論へ引き戻そうとしたのだろうか。
プラトンは、真の知識は超越的で恒常的なイデアを対象とする哲学と、これに準ずる数学のみとし、現実的な物理現象を軽視した。これに対して、アリストテレスは、もっと現実を見よ!としたのである。プラトンが普遍性を重んじ、アリストテレスが多様性を重んじたと解するのは、ちとやり過ぎであろうが、前者が理想主義者で、後者が現実主義者という見方はできそうか。冷徹なほどに虚無をまとった形而上学と、崇高なほどに成熟した科学は、よほど相性が良いと見える...

アリストテレスは、形而上学を第一の哲学とし、自然学を第二の哲学とした。しかしながら、どちらを優先したところで、双方の間には矛盾がつきまとう。唯物論と観念論とて同じこと。論理崇拝者が矛盾に遭遇すれば、動揺は隠せない。アリストテレスは、あえて動揺する自己を曝け出すことによって、人間自然論を語ろうとしたのだろうか。矛盾を前にして人間の出来ることといえば、弁証法に縋ることぐらい。しかも、そこに解が見つからなければ、双方の中間に身を委ね、中庸の哲学を模索せよ!とでも言うのか。そうかもしれん...
ちなみに、レーニンの言葉に、こんなものがあるそうな。
「アリストテレスによるプラトンのイデアの批判は、観念論一般としての観念論にたいする批判である。... 或る観念論者が他の観念論を批判するとき、そのことで勝つのはつねに唯物論である。」

抽象的思考とは、自然界の合目的を知るために、目先の目的をぼかした見方とすることはできそうか。アリストテレスの運動論は、「存在」という観念的な上位概念から発していることが伺える。デカルトがそうであったように。
物理学の発展は、最も基本的な物理量としての「重力」をめぐるものであった。それは、存在する場と変化する状態、すなわち、空間と時間をめぐるもの。人間の根源的な意識が自己存在から発しており、これほど存在を意識させられる物理量が他にあろうか。にもかかわらず、女性は体重計の前では必死に存在の軽さを演じる。おいらが純情無垢な美少年だった時代、理科の先生が、真空ポンプで熱心にデモンストレーションをやっていた。どんなに重くても、どんなに軽くても、物体は同時に落ちるという実験である。先生には悪いが、おいらは懐疑的に眺めていた。ガリレオが正しいと分かってはいても、酔いどれ天の邪鬼はアリストテレスの世界で生きている。その証拠に、アルコール度数の重い方が沈むのも速い...

1.質料と形相
アリストテレスは、根源的な存在に「質料」という概念を持ち出す。物事は、素材である質料に形式を与えた時、はじめて成り立つというわけである。そして、形式化されて出現する存在に「形相」という概念を対置させる。原子構造が同じでも、DNA構造が似通っていても、形成されるものは違う。属性的な存在である質料に何かが働きかけた時、形相なるものが生じる。運動論の観点から、質料は動かされるもの、形相は動くもの。動くものはすべて何かに動かされ、さらに、動くものと動かされるものは接触していなければならないとしている。アリストテレスの時代には、真空という概念がない。近代科学をもってしても、物質や圧力が完全無の状態は見つからず、絶対真空は仮想的な状態とされ、ここにエーテル説の源泉を見る思いである。それは、受動的な知識から、能動的な自由意志なるものを覚醒させるような関係にも映る。自由意志とは、無への反発なのかもしれん...
対して、プラトンは、大や小などの属性を質料とし、基本的な唯一の存在としての形相を説いた。まずイデアという原型の存在が前提され、その変化した形である大や小、あるいは濃密や希薄といった性質の違いは、同じものだと考える。理性の原型もあれば、知性の原型もあり、様々な形で分岐した形は変質した存在に過ぎないというわけだ。こうした思考は、フラクタル幾何学や位相幾何学に通ずるものがある。
しかしながら、現実社会を見れば、もはや原型とされる理想形などというものは、欠片も残っちゃいない。質料にしても、形相にしても、おぼろげな物理量にしか見えず、真理は常にぼやけてやがる。人間社会で最も明白で明瞭なものといえば、混然たる集団そのものだ。その中に存在する一人の人間は、一つの物体か、それとも一つの霊魂か、依然釈然としない。
ただ、一つの実体ですら多様性に満ちているのは、人間だけの特質ではない。ダーウィンの自然淘汰説は、なにも弱肉強食を正当化したわけではなかろう。地上に豊富な生命を溢れさせ、共存するには、生命体が多様化するのは必然だというのが真の意図だと思う。法則は単純でも現象は複雑というのが真相なのだ。
とはいえ、宇宙は単純な法則に支配されているはずだ... との研究者たちの信念が科学を発展させてきた。物事を知るということは、そこに内包される原理や原因、あるいは構成要素といった本質を知り尽くすこと。こうした学問精神は、プラトンとアリストテレスで共通しており、現代科学に受け継がれる。
人生を単純化できれば、きっと幸せだろう。ただ、ある大科学者は言った... 物事はできるかぎり簡潔に、ただし簡潔すぎないように... と。理想像とする原型を崇めすぎても、はたまた、多様な現象のすべてを受け入れても、真理から遠ざかる。中間的な原理を見出すことの方に、真理に近づく道があるのかもしれない。ただし、永遠に近づくということは、永遠に到達できないことを意味する。微分学の美学とは、このもどかしさを言うのであって、ドMにはたまらない...

2. 有と無
アリストテレスは、原理は二つか三つだと言っている。原理が一つでは、あまりにも単純すぎて人間は認識能力を発揮できないであろうと。原理が多すぎれば、これまた混沌の中で認識不能に陥るであろうと。そして、「質料」「形相」という二つの原理に対して、「欠除」という第三の原理を加える。相対的な認識能力しか発揮できない知的生命体にとって、一対で存在するということが知る上で鍵となる。善の認識は、悪の認識によって可能となるのだ。
質料と形相は、対置関係にあっても共に有の存在で、これに欠除という無の存在を絡めて、より一層理解を高めようというわけだ。ただ、二つの有に一つの無が絡んで三つ巴となれば、三体問題のような状況になる。世間では三角関係と呼ばれる状態だ。生成するものはすべて消滅の運命を背負い、無から有が生じ、有から無が生じる関係を崩すことはできない。
では、魂の不死ってやつは、単細胞生物のような存在を言うのだろうか?一つの細胞が永遠に細胞分裂を繰り返せば、永遠に若返ることができる。人間が精神分裂症を患うのも、不死に焦がれた結果であろうか。ただ、いずれは環境に影響されて分裂は止まる。中途半端な分裂状態ほど厄介なものはない。では、DNAのような単なる分子構造ならどうであろう。受動的なままでいれば、消滅もありえないのか?永遠に存在したければ、無のままでいることか?だとすれば、死にも幸せを見い出せるかもしれない。人は、まず受動的な存在として生まれてくる。生まれることも、生まれる場所も、選べない。にもかかわらず、生き方となると、自ら支配しようとする。さらに、死との向かいた方となると、選択肢は二つしかない。必死に生きるか、必死に死ぬか。死を完全に支配しようとすれば、自殺の道ぐらいしか残されていない。天国への道は受動的でも、地獄への道は能動的なのだ。人は誕生日を祝う。死に近づくことをみんなで祝う。生とは、死の運命を背負うこと。それを知りながら。はたして、生きている自分と、死んだ自分とでは、同じ存在であろうか?
時間は、善意にも、悪意にもなりやがる。たった一分でも、地獄のように長く感じるかと思えば、一年を与えられても、天にも昇る気分のうちに一瞬で過ぎ去る。昨日はもう来ない。明日は来るかも分からない。現在に絶望すれば、未来に根拠のない希望を抱く。これが能動的な生き方なのか。過去は、片時も休まず未来を抹殺し続け、希望はすぐに絶望に変質する。すべては意識の産物か、幻想か。有限もまた無限に飲み込まれ、結局は同じことか...

3. 自然物と人工物
「自然」を理解するためには、これに対置する言葉が欲しい。世間では「人工」という言葉を当てる。人間は、自然物ではないというのか?それとも、自然から逸脱して取り返しのつかない状態とでもいうのか?この方面でのエントロピーは絶大のようである。芸術では、自然は神の代替物として描かれる。宗教では、自然の合理性から神の合目的が説かれ、あちこちに神の代弁者を名乗る者がわいてでる。人工とは、悪魔の仕業か?人間は、そうした意識を潜在的に持っているようだ。その証拠に、自然災害に対して、人災という言葉を持ち出しては有識者どもが憤慨する。もし人間が神の子だとすれば、人間が人間を抹殺にかかることの説明がつかない。
ただ、言葉の対置は、あくまでも認識能力からくる人間の都合であって、これが真理なのかは分からない。それでも、言葉からでしか学問を発展させることは叶わない。すべての知は言葉や記号で構成され、無知の知というものを自覚した時、精神のうちに何かを覚醒させることが可能となる。
そして、人間は、言葉で自問し、自己を語り、自己を崩壊させる運命にあるのか。ならば、無知のままで、そして、永遠に奴隷のままでいる方が幸せかもしれない。アリストテレスの「生まれつき奴隷説」も捨てたもんじゃない。ドMには...

4. ゼノン仮説の論駁
ユークリッド幾何学のような純粋数学を記述するには演繹法が輝き、おそらくこの思考法が王道なのだろう。しかし、人間社会を記述するには、帰納法が現実的である。前者をプラトン流だとすれば、後者はアリストテレス流とでもしておこうか。実際、本書には帰納法が鏤められる。
ただ、帰謬法となると、毛嫌いする記述も目立つ。帰謬法とは、ある命題をまず偽と仮定し、その矛盾を示すことによって命題が偽ではないことを証明する方法で、背理法と呼ぶ方が馴染みがあろうか。どうもアリストテレスは、偽を仮定することに抵抗があると見える。ニュートンが仮説を嫌ったように。それが顕著に現れる議論が、ゼノンの運動否定論に対する論駁である。それは、アキレスと亀のレースで語られる二分法の原理。そう、ゼノンのパラドックスっやつだ。
「走ることの最も遅いものですら最も速いものによって決して追い着かれないであろう。なぜなら、追うものは、追い着く以前に、逃げるものが走りはじめた点に着かなければならず、したがって、より遅いものは常にいくらかずつ先んじていなければならないからである、という議論である。」
アリストテレスは、あらゆるパラドックスを受け入れれば、運動そのものを否定することになると指摘している。そもそも人間の存在が矛盾しており、神の合目的に照らしても説明できない。そして、矛盾が矛盾を呼び、人間そのものを否定せざるを得なくなる。ここに、論理の限界がある。人間が存在するかも怪しいとなれば、仮想社会に邁進するほかはあるまい。ちなみに、宗教があらゆる存在の意義を唱え、死後の世界を必ず用意しているのは、そうでもしないと、庶民がついて来れないという事情がある。

5. 無限の境界面をさまよう...
「万物は数である」とは、ピュタゴラスの教義である。自然数で表されるものは、すべて実存として定義できる。例えば、直角三角形の二辺を自然数で描いてみれば明白であろう。古代ギリシアで、作図問題が実存証明において重要とされたのも頷ける。有理数は、分母と分子を自然数で記述するので、実存を示している。アリストテレスは、人間が力学を観測できるのは、空間と時間の有限界においてのみだとしている。
では、無理数は記述できるだろうか?無限はどんな存在であろうか?数学は、∞ という記号を用いる。こいつは数と呼べる代物なのか?便宜上のズルではないのか?コンピュータだって無理数を近似演算で誤魔化しているではないか。無限には、永遠に吸い込まれそうな魔力を感じる。有限と無限の境界は、記述上では近くにあっても、実存となると果てしなく遠い。とはいえ、単位正方形の対角線は、どんなに目盛りを細かく切った定規を使っても、正確に長さを測定することができない。そこに、√2 という無理数が現れるからだ。しっかりと図形で描けるということは、無理数の実存性が証明できているではないか。そりゃ、数に実存性を求めたピュタゴラス教団が隠蔽するのも無理はない。
アリストテレスは、無限は実存しないとし、空虚の類いとして扱っている。しかしながら、無限までも大小関係を記述した野郎がいる。カントールは、無限の濃度を定義しやがった。そう、アレフってやつだ。数学は魔物か?これをアリストテレスが聞いたら、どう反駁するだろう?前提知識が違うだけで、賢さはこっちが上手だとでも言うだろうか?どんなに賢明な思考でも、その根源にはいつも疑問がつきまとう。ならば、答えよりも疑問の持ち方、質問の仕方の方が重要と考える方が賢明かもしれない。結果よりもそこに至る思考過程の方が重要と考える方が。ただ、過程にあるものは、不完全であることを意味する。なぁーに、心配はいらない。不完全な存在はどうせ完全には到達できない。真理の探求とは、微分学の美学を示している通り、もどかしいものらしい...

6. 深遠な真円よ!
真理が、無理数、無限、無秩序など無の側にあるとすれば、有限界に生を授かった人間にとっては絶望的である。しかしながら、有限界にも無限モデルが存在する。そう、円運動だ。幾何学が真円を崇めるのは、生に希望を持たせるためか?人間が創作意欲を持ち続けるのは、創生に限界がないこと、ひいては、自己存在が永遠であることへの願望であろうか?有限界だけでなく、無限界にも、安住の地を見い出せれば幸せになれそう...
アリストテレスは、移動を「第一の運動」とし、円運動を「第一の移動」としている。本書には「慣性」という物理用語は登場しないが、円運動のみが永遠に連続的であるしている。円運動は、時間までも凌駕する。運動方向が同じでも、角度によって状態を変え、おまけに逆戻りを必要としない。180度の移動は人格を正反対にし、360度ならば昔のまんま。始端も終端もなければ、誕生も死滅もない。この無限モデルは図形に描くことも簡単なのだから、実存することは明白だ。
ちなみに、四則演算に対して第五の演算と呼ばれるものに、モジュロ演算がある。この演算法は、幾何学的に投射すると円運動をする。しかも、四則演算をすべて可能とする深遠な演算となるのだ。モジュロ演算は、剰余演算とも呼ばれる。割り算の余りとは、数の残り物。昔の人はうまいことを言う。残り物には福がある... と。

2017-08-27

"神曲 天国篇" Dante Alighieri 著

「神曲」は、地獄篇の三十四歌、煉獄篇の三十三歌、天獄篇の三十三歌、その合計百歌から成る壮大な叙事詩である。この大作が、実に多くの芸術作品でモチーフにされ、様々な分野の書で引用されるのに出会う度に、いつか挑戦してみたいと思い... 思い続け... そして二十年が過ぎた。ようやく至高天に登りつめたという次第である。しかしながら、理性の世界は肩が凝る。酔いどれ天の邪鬼には、地獄の方が居心地が良さそう。天使と小悪魔の違いも、よう分からんし...

時は西暦1300年、大赦の年の復活祭。ダンテは一週間に渡って、地獄、煉獄、天国をめぐる旅をする。地獄と煉獄の案内人は、古代ローマの大詩人ウェルギリウス。ダンテは、この人物をライバル視したか。天国の案内人は、代わって久遠の女性ベアトリーチェ。かつてダンテが恋するも、他人の妻となって夭死した少女の聖霊で、いまだ未練があると見える。
そしてついに、天国の最高位「至高天」に達した時、新たな案内人が現れる。熱烈なマリア崇拝者として聞こえる老翁、聖ベルナールである。ダンテを救うために遣わされた案内人たちは、天界の女王たる聖母マリアの意志であったとさ...
地獄の深い谷を堕ちていくには、肉体の重みに身を委ね、煉獄の険しい山を登るには、肉体の罪がそのまま重石となる。そして、天国へ昇天するには、肉体をまとっていては重力に打ち勝てない。知への渇望が、身を軽くするのか。認識を司る五感を放棄すれば、苦痛を感じずに済むのか。脂ぎった欲望から脂肪分を落としきったら、自由になれるのか。天国では、魂どもがマリアを囲んで、バッハのカンタータ風にラブシーンまがいの唄で交わる。まるで女王蜂!どうりで女性はみな聖母に焦がれて、体重計の御前で存在の軽さを演じようと躍起なわけだ...
尚、平川裕弘訳(河出文庫)版を手に取る。

フィレンツェから永久追放を喰らったダンテの怨みは、天国に至ってもなお、おさまりそうにない。十三世紀、商業都市フィレンツェはヴェネツイアと並んで最も繁栄した都市国家の一つ。イタリアでは、「コムーネ」と呼ばれる共同体の間で抗争が続いていた。世界を支配すべき王者は誰か?それはローマ法王だとする法王党と、神聖ローマ帝国だとする皇帝党とに分裂し、法王党は、さらに白党と黒党とに分裂する。なぜ、正義の復讐が正義によって報復を受けるのか?ダンテは、こうした様を嘆いては、フィレンツェを呪い、ヴァチカンを呪うのである。おまけに、貨幣贋造などの悪徳商法が蔓延り、商売人魂に敏感なだけに憎しみも倍増。
しかしながら、目が開けられないほど眩い光景が眼前に広がれば、魂に安らぎをもたらす。地獄を見る資格とは、煉獄を見る資格とは、はたまた、天国を見る資格とは、どういう境地を言うのか。俗界の悪意から追放された者の特権だというのか。愛は障害があるほど燃える!というが、天国もまたそうなのか。愛が最高善だというなら、なにゆえ愛に溺れる者を罰する。ダンテは、人性と神性の境界をさまよい、実存の本質を探求し、形相なき存在への昇華を夢見る。それが、自由意志の本質だといわんばかりに。感動させる詩は、どこか神がかっている...

ダンテは、この大作に「喜劇」という名を与え、邦題では「神聖喜劇」の名を冠する。人生ってやつは、人が死んでも滑稽であり続け、人が笑ってもなお深刻であり続ける。理性は憎悪に姿を変えて魂を焼き尽くし、道徳は嫉妬に姿を変えて肉を焦がす。この悪臭から救う道は、もはや忘却しかない。いや、忘却よりも鈍感でいる方が遥かに楽だ。実際この世は、そこそこ鈍感でなければ生きては行けぬ。
人間の自尊心を満足させるには、眩しすぎる光を直視するよりも、盲目でいる方が遥かに楽だ。運命には、人に取り憑いて完全に支配する運命と、打開すべき自由意志を芽生えさせる運命とがある。仮に、天使と人間が相思相愛だとすれば、神の代弁者と称する者が、こうもたくさん現世にわいて出るものか。大きな銭を施して「おおきに」、程を越すから「ほどこし」言うんや。「信者」と書いて「儲かる」、そりゃ教祖様業もやめられまへんなぁ。皮肉屋バーナード・ショーは言った... 信仰を持つものが無神論者より幸せだという事実は、酔っ払いがしらふの人間より幸せなことに似ている... と。独り善がりな芸術家たちもまた、神への片思いは永遠に続くだろう。そして、人生は人間喜劇として完成を見るのである...

1. 地球中心主義とは
地獄の到達点が地球の核にあるならば、天国の到達点は、その真逆の天空に位置づけられる。プトレマイオス宇宙観の天動説をなぞるように。地球の核はただ一つの目標点で定められるが、天空にはあらゆる方向に星々が鏤められ、目標点が定まらない。おまけに、天体は運動してやがる。
ダンテは、天界を「月光天、水星天、金星天、太陽天、火星天、木星天、土星天、恒星天、原動天、至高天」の十天で構想し、この順番で昇天していく。最初の七つの身近な太陽系と、黄道十二宮の宿る恒星天までは具体的な星々で示されるものの、続く原動天と至高天の段位になると、もはやどこをさまよっているのやら?
ここでは、具体的な目標点を示してくれ!なんて野暮な質問はよそう。凡人は、具体的なやり方を他から求めてやまない。書店に行けばハウツーものが氾濫し、ネット社会ではたいていの知識がググれる。こうした面倒くさがり屋な性向を、俗界では合理性と呼ぶ。この世の合理性は、苦労して試行錯誤してやまぬ自由意志と相性が悪いのかは知らん。ダンテは、地獄で九つの悪徳を具体的にこらしめ、煉獄で七つの大罪を具体的に示した。地獄は具体論と相性がよく、天国は抽象論と相性がいいのか。そして、真理は抽象論の側にあるのか。
ここでは、天使が形相を表し、天球が形相と質料の両方を表し、地球が質料を表す。そして、形相もアリストテレスによって実体の仲間入り。神が存在し、人間が神の創造物だというなら、それでもいい。だが、本当に人間は神に看取られているのか?本当に神は製造者責任を負っているのか?昇天のための試練は、俗人の想像力ではついていけない。だから、地獄に近いほど具体的な対処法を提示するのか。地上では、政治屋どもが具体的な政策を示さなければ意味がない!と吐き捨てて政治哲学を疎かにし、宗教家どもが具体的な死の世界を提示しては暗示にかけ、小悪魔どもが具体的な肉欲を求める輩を餌食にし、これに酔いどれ天の邪鬼はイチコロよ!地球中心主義とは、欲望を具現化した様相を言うのかもしれん...

2. 天界の十天めぐり
月、水星、金星、太陽、火星、木星、土星、恒星は、天体運動を繰り返す。だが、神が住む第十の至高天には動きがないという。その中で回転している第九の原動天が、物質的宇宙の最外縁に位置し、すべての運動は、この原動天に由来するのだとか。原動天が、それぞれ聖なる天体に異なる性質を賦与し、下位の天に異なる性質が配られるという仕組みである。一つの魂から、それぞれ異なる性質を与えて五体に行き渡るように。
昇天するために、ダンテは現世から切り離される。真の実体が魂ならば、肉体はその属性に過ぎない。肉体は最下位の天から授かったもので、上位の天を目指すならば、それを失うことを恐れるな!というわけである。プラトン風に言えば... 至高天から降りたばかりの魂は限りなく純粋でイデア的な存在であり、下位の天に降りるほど歪み、もはや現世の魂は原型がどんなものだったかも分からない存在... といったところであろうか。原型をとどめていない魂ならば、真理を見るためには邪魔となり、そのまま十天をめぐる試練となる。天国に祝福されし者は、その至福以上に望むものはあるまい。では、何かを望んでやまない存在は、天国に祝福されていないというのか。少なくとも見返りを求めるようでは...

第一の天「月光天」...
いきなり太陽光を見るには眩しすぎるので、まずは月光から。幸いを得るために、神意のうちにとどまることが第一要件となる。最初に神が創り、次に自然が造る。実体とは、それ自体で存在を意識できるもの、すなわち、自分の罪を意識できるもの。ここには、誓願を立てたにもかかわらず、それを破ることを余儀なくされた人々の魂がいる。修道僧となってもなお、還俗した者たちの魂が...

第二の天「水星天」...
天地創造に際しての神が惜しみなく賜うた最大の贈り物は、神の意志に似つかわしいところの自由意志だという。それは、神と人間との間で交わされた契約に基づく、自発的な抑制である。そして、純粋な知識に飢え苦しむことが試練となる。ここには、名声に執着し、誉れを高めようと善行を働いた人々の魂がいる。正義の行為が怨みや妬みを買って...

第三の天「金星天」...
ここには、愛の虜となった人々の魂がいる。最上善が愛だとすれば、愛に溺れる者をなぜ罰するのか?ダンテは、意志的な愛と、自然的な愛を区別する。真理愛と欲望愛の違いとでも言おうか。
「剣を佩びるべく生まれついた人を無理強いに宗門に入れ、説教をするべく生まれついた人を国王に仕立てたりする。君らが道を踏みはずす原因はそこにあるのだ。」

第四の天「太陽天」...
神が子を生み、その両者から精霊が生じる三位一体の構図を太陽光に見る。直視するには眩しすぎる光だ。だから、人間の目に優しい日の出や日の入に神を拝むのかは知らん。ここには、盲目の魂を見開く智慧を求める人々の魂がいる。トマス・アクイナスが三段論法を用いて、真理を証そうとする。説教好きには、居心地のよさそうな場所だ。
ちなみに、彼はドミニコ会修道士で「神学大全」を著し、アリストテレス哲学をキリスト教の護教のために用いたスコラ哲学者。
「ああ、現世の人間の狂気の沙汰よ、なんという欠陥だらけの論理に左右されて地面をのたうちまわることか!ある者は法学を、ある者は医学を学び、ある者は僧職を狙い、またある者は詭弁を弄し、暴力をふるう。またある者は掠奪を事とし、ある者は俗務に専念し、ある者は肉欲の快楽にふけり、またある者は安逸の生活に溺れる...」

第五の天「火星天」...
ここには、信仰のために戦って死んだ者の魂が、十字の形に並んで光っている。十字軍の勇士たちである。ダンテの祖父の祖父に当たるカッチャグイダの魂もいる。彼は、イスラム教徒との聖戦で戦死し、殉教者となって、この天の平安へ到達したとさ。正義の復讐は、正義の報復を受ける。正義や聖戦といった言葉がもてはやされる社会は、ろくなもんじゃない...

第六の天「木星天」...
ここには、栄光に輝く賢王たちの魂がいる。彼らの正義心と慈悲心は、悪人どもですら敬服する。キリストを信仰する機会に恵まれなかった人々でも、神意に従えば、この天に達する機会が与えられるとさ...

第七の天「土星天」...
ここには、観想の生活のうちに一生を送った人々の魂がいる。自由な愛さえあれば、それで十分に永劫の摂理に従えるものらしい。愛とは信じることなのか。人間の肉体には、あまりにも誘惑が多い。善行をはじめたかと思えば、すぐに惑わされ、いつも良心は気まぐれときた。ひたすら神を信じ、信仰を重んじるには、清貧を聖貧に昇華させなければ。だが、無条件に信じるということは、信仰馬鹿にでもならないと難しい。なぁーに、心配はいらない。狂ったこの世で狂うなら気は確かだ!とは、この道だ...

第八の天「恒星天」...
ここには、聖ピエトロ(ペトロ)らの魂がとどまる。聖ピエトロは、ダンテに問う。信仰とは何か?
「信仰とは望みの実体であって、まだ見えぬものの論証であります。これが信仰の本体であるかと思われます。」
なぜ、信仰を実体と捉え、ついで論証として理解できるのか?天上において見える深遠な事柄でも、下界ではまったく姿が隠れ、何一つ見えない。だから、下界ではその存在を、ひたすら信仰によって導くしかない。そして、その信仰が唯一の希望となる。それゆえ、信仰は実体の性格を帯びるとさ...
このような弁証法的な観点から、永遠の三位一体を信じると答えれば、聖ピエトロを満足させられる。ただ、彼らほどの聖人でも、これ以上の昇天は望めないらしい...

第九の天「原動天」...
中心部を固定し、それを取り巻くものを回転させる宇宙の性質は、この天を起点にするという。すべての事物はここから発し、神意もまたここから伝達されていく。物理学的な運動を示す時間の概念が、この天の鉢の中にあり、光と愛を内包する。時間もまた神の意志によって存在するというわけだ。ただ、この説明を聞いていると、酔いどれ天の邪鬼はブラックホールを想像してしまうのだけど...
原点に近いほど速度も大きく、第一の位階は、熾天使、智天使、王座の天使から成り、第二の位階は、統治、権威、権力の天使から成り、第三の位階は、主権の天使、大天使、天使から成る。この九階級に分かれた天使の群れが、九つの天球に対応する。すなわち、熾天使は原動天、智天使は恒星天、玉座の天使は土星天、統治の天使は木星天、権威の天使は火星天、権力の天使は太陽天、主権の天使は金星天、大天使は水星天、天使は月光天。
ダンテは、天使には記憶力がないとしている。天使は、神の姿に過去、現在、未来の万物を見ることができるから、記憶力を必要としないというのだ。なるほど、時間の概念を超越し、すべてを瞬時に見渡せるとすれば、記憶という概念も必要としない。
一方、人間ってやつは、時間の概念が崩壊した途端に、精神病を患わせる。おまけに、近代天文学では最も近い月は地球から遠ざかっているとされる。人間のツキも堕ちているようだ...

第十の天「至高天」...
ここでは、マリアの光明によって、新たな悟りの視力を得る。それは、忘却の奥義を会得した者だけが到達できる境地である。中央の光をとりまいて、天使の群れと祝福された人の群れが薔薇の花のように輪をなして広がる。まさに円形劇場。
案内人は、ベアトリーチェから聖ベルナールにバトンタッチ。ダンテは、ついに神を見る境地に達す。マリアの下に並ぶエバやベアトリーチェたち、彼女らと向かい合って座る洗礼者ヨハネと、その下に並ぶフランチェスコやベネディクトゥスら聖人たち。神は愛であり、愛をもってすべての円運動を規制する。神は、至高天においてさえ、愛に階級を与えるのか...

3. 呪われし詩人アンジョリエーレ
本書には、毒舌の利いたチェッコ・アンジョリエーレの詩が付録される。彼はダンテと詩で応酬を交わし、「呪われた詩人」というイメージを叩きつけたそうな。清新体の綺麗事や理想主義を打ち破る迫真の表現力は、まるで飲んだくれの悪態。こちらに心地よく反応するとは、やはり酔いどれ天の邪鬼には、天国よりも地獄の方がお似合いか...

「俺が火ならば、この世を焼いてやる、
俺が風ならば、この世を吹き荒らしてやる、
俺が水ならば、この世を水に漬けてやる、
俺が神様ならば、この世を地獄へ落としてやる。

俺が法王様ならば、キリスト教徒をみんな困らして、ひとつ大いに楽しんでやる、
俺が皇帝陛下ならば、なにをやる?すっぱりとみんなの首を斬ってやる。

俺が死ならば、親爺のうちへ行ってやる、
俺が命ならば、親爺のうちから逃げてやる、
お袋にも御同様、振舞ってみせてやる。

俺がチェッコならば、若い美人を取ってやる、
婆(ばばあ)は他人にくれてやる。」

そして次の詩は、ダンテがチェッコへ宛てた詩に対して書かれたものと推察されるそうな。

「ダンテよ、俺をお道化(どけ)の大将というなら、
おまえは槍をさげて俺の腰について来い。
俺が居候の名人というなら、お裾分けをくれてやる、
俺は脂身を喰らう、おまえは骨をしゃぶれ。
...
俺の言葉が過ぎるというが、おまえも一向に慎みが足らぬ。
俺が紳士気取りなら、おまえは学者の面(つら)をするじゃないか。
俺がローマ人を気取るというのなら、おまえはロンバルディーア人の面をするじゃないか。
...」