2016-07-31

"遠近の回想 増補新版" Claude Lévi-Strauss & Didier Eribon 著

自分の人生を遠近法で眺め、明るく語れるようになるには、どれほどの苦難を生きなければならないだろうか...
レヴィ=ストロースは、自分自身についてあまり語ることがなかったという。彼は、ディディエ・エリボンという45歳年下の鋭敏な聞き手を得ると、文化人類学者の魂を自由闊達に語り始める。そして、自身の生涯を「自然から文化への移行という大きなテーマをめぐっての変奏曲」と形容する。人類学とは、人間を極めようとする学問であったか...
尚、本書には、旧版への反響を踏まえた対談「二年後に」が併せて収録される。
「現代の人類は全体的に見た場合、自分自身の資産を接収しようとしているのではないか、ますます小さくなるこの惑星のうえで、かつて人類の一部の者たちがアメリカ大陸やオセアニア地域で不運な部族たちに押し付けたのと同類の状況を、わが身の犠牲のうえに、再び作り出そうとしているのではないか。」

レヴィ=ストロースという名からユダヤ系であることは想像できる。だが、信心深かったのは祖父母の世代までで、両親は宗教にも政治にもあまり関心がなかったという。父は画家だとか。音楽や芸術に囲まれた環境が、幼き頃から自由精神を目覚めさせ、多角的な学問態度へと導いたのであろうか。
とはいえ、第一次大戦からヒトラー政権下に渡って、政治に無関心でいることの難しい時代。16歳でマルクスを読み、若き日はベルギー社会党で政治活動に没頭する。それでも共産党に傾倒することはなかったようで、やがて政治への思いも... 糸くずのようにほぐれてしまった... と語る。
亡命先ニューヨークにあらゆる分野の知識人が集結すると、学際的研究の場が生じる。かつてピョートル大帝が、ヨーロッパの知識人たちを招聘したサンクトペテルブルクのように。レヴィ=ストロースは...  アンドレ・ブルトンと友人になって亡命シュールレアリストと交流したこと、マックス・エルンストとアメリカ先住民の美術工芸品を収集したこと、自己形成の時期に人類学者フランツ・ボアズと出会ったこと、ジャック・ラカンやメルロ=ポンティとの哲学論議、構造主義的思考に決定的な影響を与えた言語学者ヤーコブソンとの友情、あるいは、音楽家ワーグナーや小説家コンラッドへの思い... などをのびのびと語る。多種多様な知性が結集すると、凝り固まった知識も、糸くずのようにほぐれるものらしい。ただし、数学者シャノンに会えなかったことを残念がっている。
彼の学者魂には、ドン・キホーテの精神が生き続けているという。それは、「不正を正すことへの、抑圧された者の希望の星たらんとすることへの偏執狂的情熱」「現在の背後に過去を見つけ出そうという執拗な欲望」であると。自分以外のことを知れば、人は変わろうとする。健全な懐疑主義を貫くには、自分自身の思考法にさえも疑問を持つ。これが、真理探求者の幸せというものであろうか...

文化人類学者として生きれば、文化摩擦、人種差別、基本的人権といった問題に直面する。これらの難題を構造主義の立場から考察すれば反人間主義と批判され、女性の社会的役割に交換という概念を持ち出せばフェミニストの猛攻撃に曝される。研究対象がカニバリズム(人肉嗜食など)に及べば、尚更。おまけに、徹底して無神論者を演じる。敢えて言うなら、純粋理性に従属した超カント主義であるとさえ表明している。無宗教者だからこそ、あらゆる宗教史を冷静に眺めることができる。彼は、どんな宗教が唱える神にもひれ伏すことはない。いや、宇宙論的な神を発見しようと必死に藻掻いていると言うべきか。信仰を否定するのではなく、むしろ必要だとしているのだから...
「時には、根っからの合理主義者よりも、信仰を持つ人間の方が、自分に近いと思えることもあります。少なくとも、信仰を持つ人間は神秘の感覚を持っています。その神秘というのは、私の考えでは、人間の思考が原理的に解決することのできないもののことです。科学的認識はその周縁で、飽くことなき浸食を試みているのですが、人間にできることはそれだけなのです。しかし、科学的認識の道筋を辿ること、それも非宗教的人間としてそうすること以上に、精神にとって刺激的な、またためになることも、私は知りません。非宗教的人間として、と断ったのは、新しい認識の歩みが新しい問題を生み出し、認識の歩みは終わることがない、ということを自覚しておかなければならないからです。」

1. マルクス主義からカント主義、そしてルソー主義
レヴィ=ストロースがマルクスに傾倒したのは、政治的な観点からではなく、哲学的な観点からだという。それでも一時期は、マルクス主義を体現すると思われた共産党に惹かれたこともあったようだけど。ちなみに、マルクス主義者やネオ・マルクス主義者から、お前は歴史を知らない!と罵倒されたそうな。
マルクスには、人の思考はその人の実際の生活条件と関係付けなければ理解することができない、という基本的な考えがあるという。そして、自分自身をマルクス主義者かと言えば、それは言い過ぎの感があると。マルクスの学説からいくつかの教訓を得ただけで、特に「人間の意識は自分を欺くものなり」というやつに...
マルクスを通じてヘーゲルを知り、カントを知ったという。カントから教えられた原理は、これだという。
「精神はそれ自身の枠組みを持っているということ。精神はその枠組みを、精神にとって到達不可能な現実というやつに押しつけるのだということ。この枠組を通してしか精神は現実を把握できないのだということ。」
カントは、人間の認識能力が矛盾に満ちている上に、決定的に不具があることを承知しながらも、理性ってやつに絶対的な根拠を見出そうとした。この信念を継承するならば、不完全性を受け入れながらも、そこに真理を求めるしかあるまい。それが、人間という存在物の正体であろうか...
「資本論」については、全体としてそのまま実験室で作られたモデルであるとし、マルクスは社会科学の分野でモデル思考を体系的に用いた最初の人である評している。マルクスが社会構造と経済システムに相関関係を見出したことは、大きな貢献であろう。しかしその名誉は、ルソーの「人間不平等起源論」に帰するべきかもしれないとも言っている。なるほど、経済関係から、社会に不平等関係を作り出しているのも確かだ。ルソーの知的影響については、ダランベールの言葉を持ち出す。
「彼の意見に賛成はできないが、しかし彼は私をひどく刺激する。」
ルソーの政治思想にはあまり共感できなかったようだが、彼の文章力に魅せられ、自然科学と文学を接近させた人間科学の創始者であると評している。
「マルクスとかフロイトは私を考えさせます。しかしルソーを読めば私は熱くなるのです。」

2. 神話と未開の思考原理
神話は、人間がまだ動物と区別されていなかった時代の物語として伝えられる。その特性は、問題に直面すると別次元の問題として考えるように仕向けられる。いわばメタ的思考として。だから、教訓の意味合いを持つのであろう。神話の起源は、言語の起源に似たところがある。
レヴィ=ストロースの知的形成においては、ワーグナーが神話に対する嗜好という点で重要な影響を与えたという。彼のオペラ作品は神話に基いて書かれただけでなく、神話を構造的に切り分けるということが提唱されているとか。フーガやソナタは、音楽形式として生じる前から既に神話の中に見て取れ、ライトモチーフと詩の対立法が、一種の構造分析となっていることを指摘している。これを言語学における構造分析、つまり記号や意味の側面から言うと... ある観念に、意味空間に浮遊する言葉を対応づけることができれば、その観念を定義することができる... ということになろうか。意味とはこの対応関係を見出すことで、神話そのものは複雑でありながら、そこにイメージされる観念は極めて単純となる。
「意味する(signifier)という動詞が何を意味するかを一般的に考えてみると、それが常に、何か別の領域に、我々が探している意味の形式的対応物を見つけ出す、ということを意味していることに気付くのです。辞書というものが、このような論理の循環性をよく表しています。ある語の意味は別の語によって与えられるのですが、その語もまた、それを定義するためにはそれとは違った語に助けを求める、というわけです。そして辞書編纂者は循環定義を避けようとあれこれ努力するのですが、理論的に言えば少なくとも、結局は最初の出発点に戻ってくるのです。」
未開と呼ばれる人々は、思考を細分化することを嫌うという。全体を包摂するものでなければ価値を持たないと考えるらしい。
一方で現代人は、問題解決のために専門家に助けを求めようとする。専門家はある種の便利屋というわけだ。実際、学問は専門の分化が進み、総合的に捉える機会を減少させる。その点、民族学は、社会学、動植物学、地理学などがすべて結び付けられ、全体的な社会事象として捉えようとするので、未開人的思考と言うことができるかもしれない。いや、純粋な知への渇望であろうか...
「私の知性は新石器時代の知性なのです。私は、自分が獲得したものを資本化したり、そこから利益を引き出すような人間ではないのです。むしろ、たえず動いてやまないフロンティアの上を移動するのが好きな人間です。その時々の仕事、それだけが重要なのです。それはすぐに消滅してしまいます。しかし、その痕跡を保存するという趣味を私は持たないし、必要も感じません。」

3. 政治と人類学
文化とひとことで言っても、その定義は難しい。判断や趣味、あるいは知識の開明的な豊かさであったり、民族や地域社会の固有のものであったり、有形と無形の境界ですら曖昧のまま。そこで人類学には、エドワード・バーネット・タイラーの古典的な定義があるという。尚、この定義は著作「構造人類学」でも触れられる。
「知識、信仰、技術、道徳、法、習慣、その他、人間が社会の一員として獲得したすべての能力・慣習」
文化に属する人間は、同時に当事者であり、また観察者でもある。物理学の観測法で、対象となる物理系に観測系をも含まれるように、それは人間認識によって支えられている。つまり、どんなに客観的に観測しようとしても、必ず主観が関与するということだ。それゆえ、有効な知識ほど、客観性を装って政治的思惑と結びつきやすい。モンテルランの言葉に、こんなものがあるそうな。
「青年は思想の指導者を必要とはしていない。彼らが必要としているのは行動の指導者である。」
レヴィ=ストロースは、思想の指導者に対してやや嫌悪感を表し、文化と政治体制を混同してはならないと指摘している。穏健な人にチャンスを与えないような社会では、自惚ればかり旺盛な知識人を蔓延らせると言わんばかりに。思想の指導者が聖人ともなれば別であろうが、いや!それはそれで問題になりそうか...
コレージュ・ド・フランスは権威ある組織で、伝統的な大学組織の外にあったという。それでも徐々に、政治的な思惑が入り交じるようになったことを嘆いている。社会人類学教室では左翼的な空気が支配的であったとか。いつの時代も、政治家は教育機関に対して影響力を誇示したくてしょうがないものらしい。政治をやる立場に身を置くと、知識は偏重するものなのか?権力ってやつがそうさせるのか?文化の相互を語れば人種や民族の優劣を語ることになり、そこに政治的な思惑が必ず結びつく。それが歴史というものか。お前は歴史を知らない!歴史を学べ!などという主張には、その人の頭の中で勝手に描いた歴史の大法則に置き換えているだけ、ということはよくある。個人が自己意識を押し付けようとするのか?集団が自己意識を押し付けようとするのか?いずれにせよ、人道主義や人間主義といった言葉は心地よく響くだけに、しばしば感情論に支配され、人間中心主義や民族優越主義を旺盛にさせる。少なくとも、この書は批判されるような反人間主義なんぞではなく、反人間中心主義に映る...

4. サルトルとの論争
サルトルをはじめとする実存主義の旺盛なフランスで、著作「悲しき熱帯」の反響はいまいちだったようである。こんな有名な文句がある。
「アロンとともに正論を吐くよりも、サルトルとともに間違う方がよい。」
レヴィ=ストロースは、レーモン・アロンと対置してサルトルを「偽りの精神」と評している。尤も、天才と認めた上でのことだが...
「サルトルという人間は、どんなに優れた知性でも、歴史を予言し、さらにいっそう悪いことには、歴史のなかで一つの役割を演じようとすれば、支離滅裂なことになってしまうということの、もっとも典型的な例なのです。人間の知性というものは、アロンがやったように、歴史を後から理解しょうとすることができるだけなのです。歴史を作る人間の精神的能力というのは、知性とはまったく違った性格のものです。」

5. 遠いまなざし...
著作「はるかなる視線」は、日本語から借りてきたタイトルだそうな。能の創始者である世阿弥は、よい演技者であるためには観客の目で自分自身を見ることができなければならない、と言ったという。その中で、「遠いまなざし」という言葉を用いているらしい。この表現は、民族学の態度をうまく言い表している。レヴィ=ストロースには、仏日はユーラシア大陸の西と東の果てに位置し、対置的な思いがあるようである。特に、西洋化が進みながらも伝統文化を共存させているところに惹かれたようだ。フランス人の気高い誇りに対して、日本人の控え目を美徳とする伝統、という意味でも対置的である。レヴィ=ストロースは、当時の西欧中心主義や人間中心主義を強く批判する。
「人間の諸権利というものの根拠を、アメリカ独立とフランス革命以来そうだと普通に考えられているように、人間というただ一つの生物種の特権的な本性に置くのではなく、人権というのはあらゆる生物種に認められる権利の一つの特殊事例に過ぎないと考えるべきだ。」

2016-07-24

"構造人類学" Claude Lévi-Strauss 著

「人間は自分の歴史をつくる。けれども歴史をつくっていることを知らない。」
これは、マルクスの有名な定式だそうな。レヴィ=ストロースは、前半の言葉に照らして歴史学の性向を語り、後半の言葉に照らして民族学の正当性を語り、二つの学問は相補関係にあると主張する。そして、時間論では通時性と共時性の、認識論では意識と無意識の協調を唱える。彼は、文化人類学や社会人類学という用語が自然人類学と区別され、独立した学問となることを危惧しているようである。
人間の本性が露わになりやすいのは、無意識の領域であろう。客観的でありたい!と願うのが学問というものであるが、無意識に身を委ねるために主観を存分に解放してみるのもいい。とはいえ、本書が構造主義に立脚し、数学的体系を求めているのも確かで、言語学的な音韻体系から人間社会を捉えようとする。なるほど、主観と客観は調和してこそ互いに輝くというわけか...
社会現象の領域で科学がなしうるものとはなんであろう。人類学が、地理学、心理学、社会学、言語学、そして科学などの中間に位置づけられ、学際的研究となるは必定。言うまでもなく、一人の人間が総合的に学問を極めることは不可能だし、何かの専門を選択せざるを得ない。凡人では尚更。しかしながら、他の学問にある程度の理解がなければ、自分の専門にも暗くなる。真理の探求に知識の縦割りなど無用であろう...

エドワード・バーネット・タイラーは、こう書いたという。
「われわれが諸事実の総体から一つの法則を引き出すことができたときには、詳しい歴史というものの役割はすでに大きく乗りこえられてしまっている。磁石が一片の鉄を吸い寄せるのを見て、その経験から磁石が鉄を吸い寄せるという一般法則を引き出すにいたったならば、なにも当の磁石の歴史などを苦労してきわめる必要はない。」
人間が、本当に人間というものを客観的に極めてしまえば、歴史というものを苦労して学ぶ必要がなくなるのかもしれない。学とは、人が無知を自覚して初めて生起するもの。人間は永遠に無知であり続ける。だからこそ人生は退屈せず、謳歌できる。
学問が謙虚な立場を失った時、厳密な研究を放棄することになる。仮説を立てることは思考を活性化させる試みであり、仮説が信仰化すると思考はたちまち停止する。常に思考停止を拒もうとすれば、結果よりも思考仮定の方を重視するしかあるまい。結論や法則ってやつは、真理の仮の姿、あるいは、一時的に心を落ち着かせる場、と思うぐらいでちょうどいい...

本書は、未開社会における親族関係、社会組織、宗教、神話、芸術において構造分析の功績を残した論文集である。ここには、自然科学における同じ厳密さをもった方法を、文化研究にも当てはめたいという願いが込められる。最終的に、社会現象に関与した人々の人体構造、すなわち個々の脳や神経などの物理現象に還元できるとすれば、宇宙論や原子論と結びつけた人文学的集合論とでも言おうか。実際、文化交流の意義と文化の累積が、数学的に語られる。結局は主観を研ぎ澄ませ、ア・プリオリな感覚に身を委ねるあたりは、カント風弁証法を思わせるのだけど。ア・プリオリとアンチノミーは、よほど相性がいいと見える。ちなみに、数学の集合論はパラドックスとすこぶる相性がよく、不完全性定理はここに発していることを付け加えておこう。
「私の考えを単純化していえば、言語記号はア・プリオリには恣意的だが、ア・ポステリオリには恣意的でない。」

また、レヴィ=ストロースの思考法がデカルトに発し、ルソーの影響を受けていることが見てとれる。実際、彼はルソーを人類学の祖と評したそうな。彼が好んで引用したルソーの言葉が、これだという。
「人々について知りたければ、身のまわりを見まわすがよい。だが人間を知ろうとするなら、遠くを見ることを学ばなければならない。共通の本性を発見するためには、まず差異を観察する必要がある。」
デカルトは、自分自身が思惟することによって自己存在を問うた。ルソーは、他人の視点から自分が何であるかを問うことによって自己存在を問うた。レヴィ=ストロースの学問態度にも、人間は思惟する存在である... とする考えが基礎をなしている。
社会における相対的関係から自己存在を見つめるということは、そこに共感の情念が生じる。自分を知ろうとすることは、他人を知ろうとすること。その逆も真なり。異文化を知ろうとすることは、自文化を知る願望の顕れであろう。あらゆる文化説が比較論に縋るのは、相対的な認識能力しか持てない人間の宿命である。そして、あらゆる学問は、人間とは何か?自分とはいったい何なのか?を問うているだけのことかもしれん。人間ってやつは、自分の棲家である宇宙を理解しようとし、自分の依存する価値の正体を理解しようとやまない。知への渇望は、己を知ることに他ならないということか。実は、普遍性の正体は、自己の中にあるのかもしれん...

1. 未開とアルカイスム
人類学に関する書に触れると、必ず「未開人」や「野蛮人」といった類いの用語に出くわす。貧弱な文化の代名詞として。人間ってやつは、いつも優越感に浸っていないと落ち着かない。
しかし、未開人の文化は本当に未開なのか?実は、こちらの方が純粋に進化した社会ということはないのか?文明人は経済合理性に邁進してきた。だがそれは、自然合理性に適ったものなのか?まず生物は、何かに依存しなければ生きてはいけない、という自然法則があり、何よりも自然に依存している。だが、便利な社会を求めて機械文明を発達させた挙句、人類は視覚や聴覚を鈍らせ、身の回りの危険察知能力までも衰えさせた。電子機器の溢れる現代社会では、電源を失って電力網や通信網が麻痺すれば、すべてが機能停止に陥る。人体そのものが電子運動で成り立っているので、それも自然回帰なのかもしれない。現代人は、自然に依存していることすら気づかなくなっていく。政策立案者は相変わらず消費と生産を煽ることしか示せず、森林破壊、埋め立て、乱獲の類いは後を絶たない。
おまけに、現代社会では自殺者が増加傾向にある。その一因に人口密度の集中があると言われる。自己空間を失えば、社会嫌いとなり、人間嫌いとなり、自己嫌悪に陥り、ついに人格までも失う。機械文明が生産性を高め、人口増加を煽り、いまや人類は地上に溢れに溢れている。だが、増えすぎた生物は淘汰されていくのが生物界の法則である。高度な文明社会は、個人の自己破壊だけでは飽きたらず、集団のゲシュタルト崩壊へと導くのであろうか。ますます依存症を強めるとすれば、アリストテレスが唱えた「生まれつき奴隷説」が一段と輝いて見える。
レヴィ=ストロースは、「アルカイスム」という用語を持ち出す。人類学における古典主義的な思考の役割を問う言葉だが、太古礼賛とでもしておこうか...
「さしあたり重要なことは、民族学が『未開』という用語になおつきまとっている哲学的残滓から解放されるよう手助けすることである。真の未開社会は調和的な社会であるはずである。その社会は何らかの形で自足的な社会であるから。反対に、世界中ほとんどいたるところで、いちばん真正なアルカイック社会と見えるものが、すべて不調和の苦渋にみちた社会であり、そこには見まごうかたなく歴史的事件の刻印が押されている。」

2. 半族と結婚
興味深いものに、「半族」という概念を紹介してくれる。双分組織や双分制のことで、アメリカ、アジア、オセアニアの原住民にしばしば見られる社会構造だそうな。さらに、競技や儀式のための半族を再分割している外婚的半族、秘密結社、男子結社、年齢クラスといった複雑な制度を持つブラジルの種族、あるいは、相互に異質な多種多様な文化が一時的に結びつくアステカやインカの種族も紹介してくれる。
部族、氏族、村落では、組織を二分し、互いの親密な協働から潜在的な敵対心に至るような関係を保つという。厳しい環境下で生き残ることが難しくなれば、集団組織の単位で結びつきを求めることは考えられる。集団単位の役割分担は、ある種の集団的合理性と言えよう。人間が単なる寂しがり屋なのかは知らんが、なんらかの必要性があって群れるのであろう。政治の起源は、こうした保存保障的な考えから発しているように映る。
しかしながら、集団が結合すると、宗教戒律や法律などの儀式をめぐって優先権を争い、逆に不合理となることもしばしば。社会形成の基本は親族や血縁にあるのかもしれないが、同時に骨肉の争いとなりやすい。人間ってやつは、最も近い人間を憎む性癖を持っている。
また、社会形成の目的が、相互の欠点を補い、安定社会を求めるためだとすれば、結婚は重要な意味を持つ。結婚による交換保障が成立するのは、王侯社会や武家社会などでも見られる。一夫多妻制もまた、政治的なものと経済的なものの統合した形で保障する。子供を産むことができる女性は、血縁交換社会における大きな役割を担ってきた。そのために利用されてきた苦い歴史がある。婚姻交換が不平等条約をもたらし、政治的、経済的に従属させられる。父方と母方のどちらの家名を称すか、その選択だけで財産相続が正当化できれば、目の色も変わる。現在でも、生活能力のために離婚したくてもできない夫婦は少なくない。安定のための従属関係というのは確かにある。
一方で、子孫の安定という観点から、近親婚を禁止する傾向が一般的に見られる。あまり近い親族の交わりが奇形児を生みやすいことは、まさか遺伝子工学から導かれたものではあるまい。それが経験的なものなのか?本能的なものなのか?あるいは、交叉イトコ婚や平行イトコ婚などで可否が規定されるのは、地域社会における適した氏族の距離というものがあるのか?レヴィ=ストロースは、こう指摘している。
「親族体系が、あらゆる社会で個人の関係を規定する第一の手段であると決めつけるのは正しくない。」
様々な特徴が調和した多様な集団から真の社会力が育まれる、といったことを人間は本能的に知っているのだろうか?社会集団の基本原理は、相互のタイプを区別することにあるように思える。それは、なんでもいいから種別して、自分自身を優越できるカテゴリーに属させようとする性癖である。そうでもしないと自分の幸せが確認できないからであろう。相互的な義務を負い、対称的な権利を履行する半族が、同時に階級を作り、不平等や差別をこしらえる。女性は伝統的な男社会を生き抜くことに苦労してきたが、それが大奥のような女社会であってもやはり苦労するものらしい。自己にとって邪魔な存在を遠ざけ、心地良い存在を近づけるのが人間の悲しい性。ちなみに、いじめや誹謗中傷の類いは、ストレス解消のための心地良い存在として近づけようとする行為であり、ある種の依存症である。
社会形成の原理が半族にあるとすれば、人間もまた半人というわけか。人間ってやつは、生まれながらにして男女の性に分けられ、片輪の宿命を背負わされる。無い物ねだりという欲望の源泉は、ここにあるのかもしれん...

3. 神話について
「神話的思考の特殊な性格を説明しようと望むなら、われわれはそれゆえ、神話が言語の内にありながら、そのかなたにも同時にあるということを、明らかにすべきであろう。この新しい困難は、これもまた言語学者にとって未知のものではない。言語自身も、種々異なった水準を含むではないか。ソシュールはラングとパロールを区別することによって、言語が相補的な二つの側面をもつことを示した。一方は構造的であり、他方は統計的である。ラングは可逆的時間の領域に属し、パロールは不可逆的時間のそれに属す。すでに言語においてこの二つの水準を区別することが可能なら、その第三の水準を定義することを拒むものはない。」
言語の意味機能は、直接の音にではなく、音が互いに結合される仕方に結びつくということ。これに気づいた時、言語学は矛盾から解かれた。神話ってやつは、ある種のメタ言語のような働きがある。その中に埋め込まれる主題や場面は、言語学で言うところの音素のようなもので、神話の体系と結びついて意味作用を持つ。
では、神話の意味機能とはなんであろう?レヴィ=ストロースが言う第三の水準とはなんであろう?ラングとパロールは時間体系において区別されるが、神話もまた二つの時間体系の特性を合わせ持つ。昔々... と始まるお伽話は太古の出来事でありながら、恒常的な構造を持ち続け、現在の教訓として生き続ける。そこに、懐かしさを覚えるのは、忘れかけている何かを思い出させてくれるからであろう。宗教や信仰との結びつきも強い。
常に神話は、神や悪魔を擬人化し、対象や観念や情念の擬人化に努めてきた。これが社会へのメッセージだとすれば、大衆に分り易く訴える方法が用いられ、善を唱えるために悪を怪物化し、真実を語るために虚偽の愚かさを強調する。まさか神話の目的が矛盾を編み出すことではなかろうが、それらを対照的に配置することによって説得力が増す。これが神話の原理であろうか?そもそも人間精神が矛盾で成り立っている。この矛盾を高次で抽象化することが、第三の水準なのか?それが普遍性ってやつか?真理ってやつは、矛盾とよほど相性がいいと見える。この世から弁証法が廃れることはなさそうだ。

4. 仮面文化
真理と虚像の二元論は、神話にとどまらない。民族学でよく見かける仮面は、人格の投影であろうか、それとも理想の反映であろうか。入れ墨をするのは、別の人格を欲しているのだろうか。トーテムポールには人の顔や身体のシンメトリーが刻まれ、語る柱を出現させる。ある種の偶像崇拝と言えなくもないが。
本書は、こうした塑像的表現と様式的表現に、「ベルソナージュの支配」という言葉を当て、社会的次元と自然的次元の柔軟な相互作用であるとしている。なんともユング風の発想である。もともと古典劇には、ペルソナという仮面の概念がある。虚偽を媒介した社会的ヒエラルキーへの反抗、もっと言えば、自由精神の象徴という見方もできそうか。
ここに、芸術の原点がありそうな気がしてくる。近現代においても、絵画や彫刻、あるいは演劇などの主題に、人間社会や人間そのものへの皮肉、あるいは理想像を追求したメタファーが演出される。人間社会では、こうした精神活動で間接的な表現が好まれる。
集団社会の基本原則が、マルクスの言うように階級闘争にあるとすれば、そこには常に力関係が生じる。相手が権力者となれば、弱者は奥歯に物が挟まったような物言いとなったり、対等な立場であっても、言い難いことは遠回しな表現を用いたりする。
さらに、こうした現象に宗教的儀式を結びつけると、芸術と宗教の相性の良さが見て取れる。ただし、芸術は、間接的な表現を用いて思考を活性化させるが、宗教は、直接的な表現を用いて鵜呑みにさせようと企てる。芸術心を支える自由精神は信念と相性がいい。だが同時に、信念と頑固は紙一重である。

5. 社会構造と社会関係
本書は、社会構造と社会関係の観念の違いを指摘している。社会関係はモデルをつくるための素材であって、そのモデルが社会構造そのものを明らかにするという。そして、構造の名に値するためには、四つの条件を満たすとしている。
  1. 構造は体系としての性格を示す。構成要素が一つでも変化すると、すべてのものが変化するような要素から成り立つ。
  2. あらゆるモデルは、一つの変換群。その変換の集合がモデルの一群を構成する。
  3. モデルの要素の一つに変化が起こった場合、モデルがどのように反応するかを予見することを可能にする。
  4. モデルが働く時、観察されたすべての事象が考慮に入れられているように作らなければならない。
「民族学は、機械的な時間、つまり可逆的で非累積的な時間に力をかりる。... これとは反対に、歴史学の時間は統計的である。」
モデルの尺度については、機械的モデルと統計的モデルの二面性からアプローチしている。構成要素を明確化できれば機械的モデルが構築できる。だが、明確化できなければ統計的モデルに頼ることになる。 人員構成において、婚姻や配偶の規則、親族や氏族のクラス、第一次集団と第二次集団の関係などが明確になったとしても、静止した社会状態というのは考えにくい。常に社会はうごめき、流動性、適応性、柔軟性といったものを持っている。現実には、それぞれの形式の中間的な形になるだろう。つまり、確率論的な考察が求められる。
例えば、犯罪モデルは機械的にも統計的にも構築できる。モデルの要素には、犯罪者の性格、個人的背景、所属する集団といった特性が考えられる。自殺モデルも似たような要素で構築できるだろう。同じ境遇にあっても、罪を犯すとは限らないし、自殺するとも限らない。
さらに、モデルを社会規模と結びつければ、人口論の観点からも考察できそうである。民族が自立しうる最適な規模は?と問えば、民主主義が機能しやすい社会単位というものを考えさせられる。秩序を保つための社会的規模、市場を効率化する経済的規模、コミュニケーションで規定される言語範囲や情報単位など、こうしたものも含めて社会的合理性というものを問うとなると、途方も無い学問と言わざるをえない...

2016-07-17

"企業価値評価 第4版(上/下)" McKinsey & Company, Inc. 著

この書に出会ったのは、十年ほど前になろうか。時折辞書代わりにしてきたが、そういえば一度も読み通したことがない。今、あらためて読む気になろうとは...
「本書は、短期的な視点に立った株式売買で利ざやを稼ぐトレーダー向けのものではない。また、四半期ごとの収益改善によって自社の株価を都合よく上げていこうとする経営者向けのものでもない。」

企業に存在価値を求めるということは、ひいては経営陣や従業員、株主や取引先など、その企業に携わる人たちの存在意義を問うことになり、仕事に対する誇りをくすぐるであろう。それは、哲学的な領域に踏み込むことであり、会社は誰のものか?などという次元の問題ではない。経済学の意義とは何か?と問えば、問題が大き過ぎるものの、一つの使命に価値の定量化という課題がある。
しかしながら、この定量化が貨幣換算と結びついた時、人は目の色を変える。貸借対照表には、借方と貸方という損得勘定で記載され、どうやって儲けを最大化するか?いや、どうやって価値をより高価に見せるか?に執着する。debit と credit をあの有名人が翻訳したためかは知らんが、左側と右側ぐらいの意味に捉えた方がいいと、税理士さんに助言されたものである。
経済学が社会現象を扱う一分野である以上、道徳的心理や倫理的判断を無視することはできない。近年、アクティビストと呼ばれるモノ言う株主たちが現れ、コーポレート・ガバナンスという概念が広まった。それでもなお、株式市場が企業の四半期決算に一喜一憂することに変わりはない。経済学が唱える合理性とは、精神の合理性に適ったものであろうか、はたして人間の普遍性に適ったものであろうか...

「企業価値評価」は、ビジネススクールの教科書や金融機関の研修用テキストとなり、いまや世界標準になっていると聞く。本書は、三人の著者 Tim Koller, Marc Goedhart, David Wessels に加え、監修者本田桂子と翻訳チームを含むマッキンゼー社のコンサルタント軍団が、ノウハウを共有して改訂を重ねてきた第四版。彼らは、心理学と一体化した行動ファイナンスが旺盛な時代になってもなお、市場はファンダメンタルズを反映する!という立場を変えようとはしない。実際、世界恐慌、ブラックマンデー、リーマンショックなど度重なる金融危機に遭遇しながらも、必ず落ち着きを取り戻してきた。短期マネーの買い戻しや、HFT(超高頻度取引)の乱用といったものに、恐怖におののくトレーダー心理が重なると、市場をますます不安定にさせる。だが、株価が実体から乖離することはあっても、それが数年以上続くことはあまりない。経済のファンダメンタルズから株価が乖離するのは、企業家や投資家が経済原則を無視したり、時代が変化したなどと勘違いした結果である。確かに、将来価値を見抜く力を求めたところで、これが最も難しい。
しかしながら、ここに語られる企業価値評価に対する原理は極めて単純である。まず、経営者は資本市場に振り回されず、常に自社価値を把握しておく必要があること。次に、企業価値を理論的に理解するだけでなく、事業が価値創造にどんな意味を与えるかを説明できること。そして、目先の業績よりも長期的な価値創造のために何をしているか、が問われる。こうしたことは株主にも言えるだろうし、伝統的な製造業からハイテク企業まで業種を問わず同じはず。にもかかわらず、不正会計スキャンダルは後を絶たない。隙がなければ、敵対的買収や陰謀の類いにも対抗できるはずだが...

1. 概要
財務諸表には、ROA(総資産利益率)、ROE(自己資本利益率)、営業キャッシュフローなどが記載される。純粋な事業価値を求めるためには、非事業用資産や有利子負債・資本構成が数値を歪めることがあり、直接事業に関係する収益、資産、負債を抽出しなければならない。そして、貸借対照表、損益計算書、利益処分計算書から、バリュードライバーを再構築することになる。
具体的な算定法には、主にエンタプライズDCF法とエコノミック・プロフィット法に焦点を合わせている。どちらも、重要なバリュードライバーに、ROIC(投下資本利益率)と成長率を置いている点は同じ。理論的には、DCF法が最も有効とされるが、主観的な予測に基づく弱点を抱える。DCF法が将来キャッシュフローに着目することは、正論であろう。だが、これを高い精度で予測することは困難であり、分析も複雑になる。営業フリー・キャッシュフローの減少は、業績の悪化によって生じることもあれば、将来への多額の投資によって生じる場合もあるのだから。この点、エコノミック・プロフィット法は、投下資産から創出されるリターンに着目するため、少し概念的に捉えやすい。双方とも数学的に同じ結果になるらしいが、数値を解釈する時の意味合いが違ってくるという。
一方、アナリストレポートや投資銀行の資料では、マルチプル法が多用されるそうな。時価総額を単年度の収益の何倍か、といった視点で捉えれば極めて単純化できる。実際、一般公開されるファイナンス情報には、PER, PBR, EPS といった指標が並ぶ。投資家の間では、成長株と言えばマルチプルの高い株のことを指し、そう考えられる傾向がある。
本書では、企業価値と、EBITA や EBITDA との比で分析する事例が紹介される。同業種や類似企業の比較では、成長率と ROIC の算出だけで十分ということはあるだろう。しかしながら、ROIC が資本コストよりも高く、成長している企業では、EPS の成長率も高いが、その逆は正しくないと指摘している。
また、銀行や保険会社の固有の問題から、エクイティ・キャッシュフロー法を紹介してくれる。この手の業界は、直接の生産物が見当たらず、外部からの価値評価が非常に難しい上に、業績のほとんどが個人情報で固められ、会計報告を信じるしかない、というのが実情だろう。おまけに、ビジネスモデルの性格上、レバレッジ率が高いときた!貸借対照表や損益計算書における勘定科目にしても、一般的な企業とは意味するものが違うように映る。実は、ポートフォリオのバランスを考慮して銀行株を一定の割合で保有していた時期があるが、どうしても馴染めないために完全に手放したという経緯がある。銀行株を勉強するために、この書を入手したのではあったが...
他には、有利子負債・資本構成が大きく変わる場合は、APV(Adjusted Present Value)法を用いるべきだとしている。
すぐに想像できることだが、いずれの方法も相補的な関係にあり、一つの算定法が万能というわけではない。それは、統計学が分布モデルに当てはめようとする思考法に似ている。
また、企業にとって長期戦略こそが要であり、それぞれの算定法から継続価値に意義を求めることになる。持続できない事業が、社会的に役立っているとは考えにくいからだ。いずれにせよ、企業価値創造志向で最も重要なのは、その企業を特徴づけるバリュードライバーを把握することであろう。
さらに、キャッシュフローの予測期間と企業価値の関連性はない!と主張していることにも注目したい。競争が優位にある期間はリターンが通常よりも多く、年毎にキャシュフローを予測した方が合理的という考えがある。これは、初期は資本コストを上回る利益を上げ、徐々に投下資産に対する収益率が資本コストの水準まで減少する、という経済原則に基いている。確かに重要な原則ではあるが、ROIC を過信して企業価値と結びつけることは危険であろう。

2. エンタプライズDCF(Discounted Cash Flow)法
エンタプライズDCF法は、企業のキャッシュフローに純粋に注目していることから、学者や実務家が好むという。企業価値が将来キャッシュフローによって決定されることは正論であろう。そのキャッシュフローは投下資産に対するリターンと成長性で決まる、ということが基本原則としてある。ただ、将来キャッシュフローが正確に算定できれば無敵であろうが、将来予測が主観的であることは否めない。
「DCF法による企業価値評価の精度は、将来予測の良し悪しにかかっている。多くの場合、財務諸表の細かな検討に追われ、経済のファンダメンタルズの分析を忘れがちになる。企業価値は、ROICと成長率によって決まる。したがって、ROICと成長率を、業界全体のエコノミクスと関連づけて予測すること、また、予測した内容を過去の実績と比較検討することが非常に重要なのである。」

算定手順は...

  1. 事業から生み出される営業フリー・キャッシュフローをWACCで割り引き、事業価値を算定する。
  2. 短期保有目的の有価証券、非連結子会社株式、その他の資本投資などを含む非事業用資産の価値を算定する。この非事業用資産の価値と、事業価値の合計が当該企業の企業価値となる。
  3. 資産に占める有利子負債などの株主以外に帰属する価値を特定する。固定金利や変動金利による借入金、年金の積立不足分、あるいは、従業員向けストックオプションや優先株式なども含む。
  4. 企業価値から上記3の価値を除いたものが、普通株主に帰属する株主価値となる。1株当たりの価値は、この株主価値を発行済株式数で割って算出する。

キャッシュフローの成長率が一定だと仮定すると、基本的な算定式は次にようになる。

企業価値 =   営業フリー・キャッシュフローt=1

 資本コスト - g 


営業フリー・キャッシュフロー = NOPLAT - 純投資額
純投資額 = 投下資産t+1 - 投下資産t
ROIC = NOPLAT / 投下資産
投資比率 = 純投資額 / NOPLAT
g = ROIC x 投資比率

純投資額 : ある年の投下資産の純増減額
NOPLAT   : みなし税引後営業利益
ROIC     : 投下資産利益率
WACC     : 有利子負債・株主資本の税引後の加重平均資本コスト
g        : 成長率


売上高とNOPLATが一定の比率で成長し、毎年NOPLATのうち、同じ割合を事業に再投資すると仮定すると...

企業価値 =   営業フリー・キャッシュフローt=1

 WACC - g 

営業フリー・キャッシュフロー = NOPLAT - 純投資額
                             = NOPLAT - (NOPLAT x 投資比率)
                             = NOPLAT x (1 - 投資比率)
                             = NOPLAT x (1 - g / ROIC)

そして、企業価値のバリュードライバー式が得られる...

企業価値 =  NOPLATt=1(1 - g / ROIC)

 WACC - g 

3. エコノミック・プロフィット法
算定結果はDCF法と同じでも、企業がどのように創造するかに着目するのが、エコノミック・プロフィット法だという。DCF法で用いる営業フリー・キャッシュフローは、企業の各年の業績を把握するのに適さないが、エコノミック・プロフィットは適しているという。
エコノミック・プロフィットとは、ある期間に企業が創造するみなしの価値を測るもので、以下のように定義される。

エコノミック・プロフィット = 投下資産 x (ROIC - WACC)
                           = NOPLAT - (投下資産 x WACC)

そして、価値算定式は...

企業価値 = 投下資産 + 将来のエコノミック・プロフィットの現在価値の総和

価値0  = 投下資産0  投下資産0 x (ROIC - WACC)

 WACC - g 
= 投下資産0  エコノミック・プロフィット1

 WACC - g 

一般的には、次のように定義される。


価値0 = 投下資産0

t = 1
 投下資産t-1 x (ROICt - WACC)

 (1 + WACC)t 

ただし、エンタプライズDCF法と算定結果を同値にするためには、以下の点に留意しなければならないという。
  • 投下資産は、期首のものを使う。つまり、前期末の投下資産額。
  • エコノミック・プロフィットとROICの計算には、同じ投下資産額を使う。

投下資産をどう定義するかよりも、一貫性を保つことの方が重要であろうか。こうした会計上の感覚はとっつきにくいものがあるが、貸借対照表を書き慣れれば少し分かってくる。

4. 資産評価モデル CAPM
最も一般的な資産評価モデル CAPM を紹介してくれる。

E(Ri) = rf + βi [E(Rm) - rf]

E(Ri) : 株式iの期待収益率
rf    : リスクフリー・レート
βi   : 市場と株式の連動性
E(Rm) : 市場全体の期待収益率

CAPMでは、リスクフリー・レートとマーケット・リスクプレミアム(E(Rm)との差で定義されるのは、全企業に共通でβのみが企業によって異なるからだという。これは確かな理論に基いているらしいが、実際の適用法につていは具体的に呈示されていないのだとか。そこで本書は、次のように提案している。

  • 先進国のリスクフリー・レートを推定するには、10年満期のゼロクーポン・ストリップス債など、流動性の高い長期国債を利用する。
  • 過去の平均値と将来の予測を踏まえ、現在のマーケット・リスクプレミアムは、4.5 から 5.5 の範囲が妥当と考えられる。
  • 企業のβを推定するには、アンレバード・ベータ(有利子負債がない場合のベータ)の業界平均を求め、それを当該企業の目標とする有利子負債・資本構成に応じて変換する。

リスクフリー・レートの推定では、債務不履行リスクの小さい国債の最終利回りを参考にする、という考え。マーケット・リスクプレミアムの推定では、なるべく長い期間で算術平均する、という考え。しかし、これだけでは心許ない。マーケット・リスクプレミアムの予測はある程度可能だろうが、やはり確率論に頼ることになろう。いずれにせよ資産管理は、金儲けの手段ではなく、いかに資産を守るかという問題である。それを、盲目的に国や行政、あるいは金融機関に委ねていいのか?これまた生き方の問題である。

5. ペッキングオーダー理論
ファイナンスの世界には、資本と有利子負債の間にトレードオフの関係があるという見方に代わり、ペッキングオーダーがあると主張する学派があるという。企業が投資をする際、まず内部の資金を内部留保から利用し、次に社債を発行し、最後に株式を発行するというもので、資金調達手段においてコストの低いものから順番に選択していくという考えである。至極当然のようにも思えるが、安物買いの銭失いとなって、結局コストが高くつくということもあろう。
その一つの原因に、投資家は経営者の財務上の意志決定を社会に対するシグナルとみなすという点を指摘している。例えば、株式が発行されれば、投資家は、経営者が自社株が過大評価されていると考えいてると解釈したり。よって、理性ある経営者は、株式による資金調達が株価下落の原因となることを考慮し、株式発行を最後の手段とするという。
社債についても理屈は同じだが、株式よりは財務上の影響が小さい。この理論では、企業の成熟度が増し、収益性が高くなっていくと、内部で資金調達ができ、社債や株式による資金調達が不要になるという単純な理由で、レバレッジが低くなると考える。
しかしながら、実証的証拠はないと指摘している。例えば、潤沢なキャッシュフローをもつ成熟企業は、最もレバレッジが高い企業群に属するが、ペッキングオーダー理論では、この種の企業はレバレッジが最も低い部類に属すという。また、ハイテク新興企業は有利子負債の比率が多くなるとされるが、実際は最もレバレッジが低い企業の部類に属すという。
確かに、こうしたシグナルは短期的に株価を変動させるが、本質的な価値を増減するものではなさそうだ。資本市場に何らかの期待を抱かせれば、遅かれ早かれ期待に応える必要があり、過度に楽観的なシグナルを送れば期待はずれとなる。
「上場企業の場合、有利子負債・資本構成の決定が、将来見通しに関するシグナルを資本市場に送ることになる。投資家は、当該企業の事業、財務の真に見通しについて、経営者は投資家よりも多くの情報をもっていると考えている。もちろん経営者は、投資家に直接見通しを発表できるし、実際そうしているのだが、投資家は言葉よりも行動を信用する傾向がある。このため社債の発行や償還、増資や自社株買い、配当について決定が下されると、それが財務見通しについての何らかのシグナルではないかと考える。そこで、有利子負債・資本構成を調整する前には、このシグナル効果を意識しておく必要がある。」

6. クロスボーダー
外国企業の価値評価では、各国の会計制度の違い、国際税務、外貨建てによる指標換算、そして、為替リスクなども考慮しなければならない。ただ、各国の会計制度の相違は、急速に減少しているようだ。グローバル・スタンダードとして、IFRS(国際財務報告基準)や、GAAP(米国会計基準)を採用している国が多く、この二つの会計基準の統一化が急速に進められているという。
しかしながら、企業評価には、過去の業績に長期間遡る必要があるので、当時の会計基準の相違が問題となる。デリバティブについては、両基準とも金融資産とみなし、貸借対照表上に時価で記載するという。過去に遡れば、このような扱いをしていた企業はほとんどなかっただろうけど。
ただ、両基準とも、デリバティブ商品の時価変動による損益への影響を回避するためにヘッジ会計を適用することは可能だという。特定の条件が満たされた場合に限られるとしながらも。
引当金については、両基準とも、将来の営業損失を補填する目的の積み立てを禁止する点では、類似しているようだ。赤字が続けば、繰入が認められる引当金はありがたいが、計上のタイミングで微妙に違ってくる。引当金の乱用は、企業価値を歪めることになり、活用に制限が加えられるのは道理である。リストラ関連の引当金の計上には、負債としての定義を満たさなければならないし、損失をどう定義するかは会計上の問題となる。
また、法人所得や配当への課税方法は国によって異なり、近年、法人税が国際競争力の足枷となることが問題視されている。経済特区などで法的、行政的、税務的な優遇や規制緩和の措置を受ける場合は、企業にも勢いを感じるが、こうした条件は政治的リスクに曝されるかもしれない。
多くの国で、連結納税制度が採用され、企業損失との相殺によって節税ができる。多国籍企業が多重課税問題を抱えているとは限らず、国際租税条約によって、課税免除や税額控除などで国家間の合意がある。海外子会社の利益は、国内では課税されないなど。
実際、Amazon や Google などの巨大多国籍企業が、国家間の税制の違いを利用して節税を行っていることが問題視される。それでも、国内のグループ企業間の連結納税が認められていても、国をまたがると認められないということもあるようだ。
配当やキャピタル・ゲインへの課税方法の違いは、株主への実効税率にも影響を及ぼし、法人税と所得税で二重に課税されるケースもある。
為替リスクについては、市場がグローバル化したとはいえ、外貨のままで取引する方が賢明な場合も少なくない。ネット社会ともなれば、国内市場にこだわらなくても、自由に市場を選択できる。上場している主だった企業は他の主だった国でも上場しているし、保守的に考えれば、他国に上場していない銘柄をポートフォリオから除外するという考え方もあろう。外国企業の価値評価を行う際に為替リスクを懸念して、ヘッジ取引に頼るというやり方もあろうが。為替リスクは、企業のファンダメンタルズよりも、各国経済のファンダメンタルズに影響するということも考慮する必要がある。

7. コングロマリット・ディスカウント
古くから、コングロマリット・ディスカウントという議論がある。多角化した企業は、特定領域の事業に専念している企業と比較して、総合的な価値がディスカウントされるという考えである。
しかし、これはコンセンサスになっていないと指摘している。むしろ、プレミアムが上乗せされるという考えもある。確かに、奇妙なブランドイメージが作られたり、一見無関係に見える事業でも想定外の関連性を持つことがある。事業部間で内部取引による効率性もあり、その相乗効果は外からは見えにくい。単純に考えれば、各事業部ごとに価値算定を行い、それらを合計して企業価値を求めることになろうが、必ずしもそれが妥当とは言えないだろう。

8. 日本企業の構造的特徴
本書は、事業価値に非事業用資産を加えたものを企業価値とし、そこから有利子負債を差し引いたものを株主価値としている。しかし、日本企業の場合、事業価値、企業価値、株主価値の構成には、二つの特徴があると指摘している。

「第一の特徴は、非事業資産が大きいこと。」
老舗企業ともなると非事業資産が事業価値よりも上回ることが多いという。欧米企業ではあまり見られない傾向である。非事業資産には、まず、持ち合いの株式があり、メインバンクや取引先の株をかなり保有している。次に、余剰現預金、現預金、あるいは流動資産に含まれる有価証券など。企業が経営上安定していれば、余剰金の使い方には2通り考えられる。配当ないしは自社株買いを通じて株主に還元するか、来るべき成長への投資のために内部留保するか。日本企業は、将来に備えて内部留保を厚くすると、よく指摘される。おまけに、若干の遊休不動産を保有すると。

「第二の特徴は、有利子負債・資本構成が、総じて事業固有のリスクを反映したものになっていないこと。」
欧米では、営業フリー・キャッシュフローのボラティリティに反映される事業リスクと、資本コスト最小化を鑑みて、最適な有利子負債・資本構成を設定するという。そして、その目標に向けて資金調達の調整と自社株買いを行う。
一方、日本企業は、さすがに無借金企業礼賛こそなくなっているものの、有利子負債・資本構成の目標を明確にしているところは皆無だという。負債によって利益を計画的に拡充できるならば合理的となるが、借金に対する偏見があるのも確かである。敵対的買収に対して抵抗があるのは欧米とて同じだろうが、日本の経営者の多くは買収という言葉を極端に毛嫌いする傾向がある。従業員も顧客も幸せになれるのなら、経営的合理性となろうが...

ところで、日本国債が破綻しないのは、経済界の七不思議と言われているかは知らんが、こうした保守的な国民性が、デフォルトのリスクを相殺しているということはあるだろう。なにも企業の価値観までも欧米に合わせる必要はないし、市場の多様化こそ世界経済のリスクを分散することになろう。確かに、若年層が多く、活気溢れる市場は羨ましい。だからといって、高齢化社会にも市場的な役割がある。投資家から見れば面白みがないものの、安定した市場は金融リスクが高まった局面で資金の逃避先となる。リカードが比較優位理論で示したように、絶対的な市場価値よりも、相対的な市場価値を求めるという考えもあろう。
ただし、過激な金融刺激策によって、デフォルトのトリガを弾きかねない水準にあることは否めない...

2016-07-10

"フラー制限戦争指導論" J. F. C. Fuller 著

英国陸軍少将ジョン・フレデリック・チャールズ・フラーは、機甲部隊を中心に据えた機動戦略を提唱したことで知られる。しかし、伝統的な将校たちの反発を受けて頓挫。イギリス人の理論がドイツ人によって実践されるとは、なんと皮肉であろう。そう、グデーリアンの電撃戦である。
ナポレオン戦争と二つの大戦は、非戦闘員に多大な犠牲を強いてきた。もはや近代戦争は、消耗戦、総力戦の様相を呈す。無差別爆撃を戦略爆撃と呼ぶことに抵抗を感じる人は少なくないだろう。「制限」というからには、敗北主義のイメージを与えかねない。案の定、攻撃性旺盛な連中から批判を受けてきた。
フラーは、攻撃こそ最大の防御!を信条とする連中を、クラウゼヴィッツを皮相的にしか解釈できない輩だと吐き捨て、戦争のもつ政治的な意義を再定義しようとする。備えこそ最大の防御!というわけだ。真の軍人精神にはスポーツマンシップに通ずるものがある。格闘性の激しい競技ほど自制と厳格なルールが求められるように。敵対心を煽って無謀な行為を勇敢と履き違えるような旧式軍人は、いまや無用だ。

「制限戦争」という言葉には、全世界から戦争をなくすことは可能であろうか?という普遍的な問いが暗示されている。偏重した善は悪魔にも匹敵する。博愛を唱える修道士が、最も残虐な行為に及ぶのも道理というものか。そして、あらゆる行為を正当化するために、正義と大義が道具とされてきた。犯罪心理を考慮しない有識者どもが唱える道徳論ほど陳腐なものはあるまい。
哲学や科学は普遍性を追求する世界であり、いわば理想を求める世界。そのために現実から目を背けがち。一方、政治や経済は現実を直視し、実益を求める世界。そのために目先の利益に目を奪われがち。理想主義には、誰にとって理想かという問題を抱え、その対極にテロリズムを置くことができよう。現実主義には、哲学なき利益に執心し、その対極に弱肉強食を置くことができよう。どちらも排他的思考を旺盛にさせる。クラウゼヴィッツが言うように「戦争は一つの政治的手段」とするならば、人間精神に内在する悪魔性からも目を背けるわけにはいかない。力とペテンは、平和時には悪徳とされるが、戦時には美徳とされるのだ。戦争を根絶することができれば、世界は本当に平和になるだろうか...
「原始人の最も危険な敵は自分の属している人種の敵であった。今日でも、人間が人間の唯一の敵である。そして人が人を攻撃するのは50万年前と全く同じである。戦争と狩猟は昔からアピールする。これは本能的に、どんな子供でも鉄砲が好きで、大人が殺害にスリルを感じるゆえんである。」

そもそも、何のために戦争をやるのか?それは、集団的な自己存在の強調、集団的な自我の肥大化と見ることはできる。民族優越主義もその現れ。本書は、「戦争の真の目的は平和であり、勝利ではない。」と唱える。そして、敵を撃滅して一方的に意志を強制することの愚かさを説いている。平和こそが政治を支配する第一の観念であるとすれば、勝利は平和を達成する一手段に過ぎないことになり、無制限戦争の意味は自ずと失うであろう。
しかしながら、戦争をやる理由がイデオロギーや宗教の対立である場合、国家や民族の根絶までも獰猛に欲する。実際、二つの大戦では無差別攻撃が正当化された。民主主義といっても実に多様な形態があり、自国の民主主義を平和愛好の唯一の手段として崇めるのは危険である。平和にしても様々な解釈があり、真の国際調和を意味する場合もあれば、国際的不和や緊張関係によって殺し合いを抑制するという場合もあり、後者の方が現実的であることが多い。
「冷戦」という言葉は、戦闘状態の継続を意味していたが、ある種の平和状態と見ることもできよう。その証拠に、冷戦構造が終結して平和が訪れたかと言えば、むしろ危険を増している。核兵器といった大量破壊兵器が大規模な戦争を抑止しているとはいえ、新たなゲリラ戦術が生まれ、従来型兵器への依存度は変わらない。本書には、「小銃が歩兵を生み出し、歩兵が民主主義を作った」という記述がある。ネット社会では情報の民主化が進み、国家はサイバー攻撃に晒されている。これもある種のゲリラ戦だ。戦闘様式は、技術進歩にともなって合理化するどころか、より複雑化している。
平和の概念を支える原則の一つに、世界人権宣言などが掲げる「すべての人間は平等」という理想があるにはある。それは政教分離によって支えられる原則であるが、法律でいかに定めようとも完全に政教分離を果たした国家はない。おそらく、人間社会から信仰心を根絶することは不可能であろう。無神論者だって、宗教が唱える神を信じないだけで、宇宙論的な独自の神を構築する。無宗教家だって、既存の宗教が唱える教義に納得できないだけで、自己の中に論理的な信仰を構築する。精神の持ち主が、自己存在に何らかの意義を求めるのは自然であり、生きた証ってやつを求める。
もし、このような思考傾向が相手を煙たいと感じさせ、紛争の根源的な要因であるとすれば、無制限戦争をいかに回避するか、ということに注力することの方が現実的な解となろう。現実を生きるということは、妥協を生きることであり、和平条約の類いがすべて妥協の産物である。

1. 絶対君主の戦争様式
本書は、制限戦争の起源を18世紀の絶対君主の時代に求めている。宗教戦争は三十年戦争で頂点に達し、飢えた人民の大群を産み出した。人口は激減し、人肉食いもあったという。そして、一般市民が傭兵たちの恐ろしい野蛮行為の犠牲になった。絶対君主は、この宗教戦争の廃墟の中から生まれたという。
15世紀頃の専制君主に対して、ルイ14世の処世上の身分は神の摂政としての絶対的地位を確保し、全ヨーロッパの模範となった。その傾向は、軍事面において顕著だったようである。15世紀の専制君主の権力が傭兵に依存したのに対し、17、18世紀の絶対君主は常備軍に権力の基礎を置いたという。常備軍の成立はシャルル7世による親衛隊の編成に遡るが、範となるのは1643年、大コンデ率いるフランス軍がロクロワの戦いでスペインを破った時だとか。常備軍の規模は国力と関係する。国民経済が破壊された状況で常備軍を養うことはできないのだから。そして、ここに制限軍事力という概念が生まれたという。常備軍の意義は、なんといっても非戦闘員との明確な区別にある。
フリードリヒ大王の時代には強制的な徴兵と厳格な規律が、戦術を密集陣形による作戦に限定する主因になったという。この時代の戦争は恐ろしく犠牲者が少なかったとか。戦争は形式的なものとなり、しばしば限定的な戦闘で済んだという。敵の領内に侵入し、相手を右往左往させるだけでも大成功だったと。殺し合いというより脅し合いか、罵り合い。制限戦争で立案される作戦は、疲弊戦が基本原則であったという。だから、スペイン継承戦争あたりまで惰性的な戦争が続いたのであろうか?歴史家ガリエルモ・フェレーロは、合理的で無感動な戦争様式について、こう記したという。
「制限戦争は、18世紀の最も崇高な実績の一つであった。それは、温室植物の種類に属し、したがって貴族的かつ良質の文明の中にだけしか繁茂し得ないものであった。われわれはもはやそれを繁茂させることができない。それは、フランス革命の結果失ってしまった素晴らしいものの一つである。」

2. 国民戦争の原動力
本書は、絶対君主時代の制限戦争を終焉させ、破壊と殺戮の野蛮な形に逆戻りした転換期がフランス革命だとしている。つまり、絶対大衆主義が絶対君主を追放し、大衆の熱狂が国民戦争を覚醒させたというのである。そして、古臭くなった制限戦争と未発達の無制限戦争の二つの形態が初めてぶつかったのは、1792年のヴァルミーの戦いだとしている。
とはいえ、フランス革命は周辺諸国で歓迎された。オーストリア支配から解放されることを熱望した民衆には、自由の観念が輝いて映ったことだろう。
「原始部族は武装した遊牧民の集団であり、各々が戦士であった。部族全員が戦争に従事するので、戦争は総力戦である。しかし人類が野蛮時代に代って農業文明の時代を迎えると、ごく少数の例外を除き、人々は狩りや遊牧の生活をすてるようになった。以来、非戦闘員である食物生産者と戦士との間に差別が生れたのである。古代の都市国家においては、十分な資格を有する市民のみが市民軍に入隊できた。封建時代には、騎士とその家族達が召集の主体となったが、それは全人口のごく一部分にすぎなかった。そして、絶対君主の時代には、一般市民はまったく戦争の域外に立った。この区別がいまや廃止され、武装した遊牧民の集団に復帰することになった。ただし、今度は国家的立場においてである。」
やがて、国家軍を増強するために徴兵制が合法的に組み込まれていく。国民の熱狂を一旦冷静にさせるための手段として法律の存在意義が増すものの、政治家は法律の解釈を捻じ曲げて熱狂を煽動してきた。いわば、論理学の盲点をついて。国民を煽動するには感情論に訴えるのが手っ取り早い。ナポレオンは、国民を奮起させるために敵国を完全に打倒しなければならなかった。民意が戦争を支持すれば当然の帰結。そのことを証明して見せたのが宣伝省を重視したヒトラーである。大日本帝国では、大衆に神の国と思い込ませた。国民啓蒙の原則は、現在とて変わらない。民族優越性をちょいとくすぐれば国民をヒステリクックにさせる。宗教戦争が異教徒への憎悪から生じる衝動だとすれば、国民戦争は周辺国への憎悪から生じる衝動である。自己の内に真の誇りがあるとすれば、相手を罵るようなネガティブキャンペーンに執心するだろうか?民主主義の原動力は、友愛にもまして憎悪にあることを心得ておくべきであろう...
「民主主義の原動力は他人を愛することではない。それは外部のすべてのもの、部族、徒党、党派、あるいは国民に対する憎悪である。このような一般意志は総力戦を予言する。そして憎悪こそが最も権力のある新兵募集官なのである。」

3. クラウゼヴィッツの理論
クラウゼヴィッツの格言には、暴力を容認したものも多く見かける。「敵の打倒こそが唯一の実体である。」といった類いである。本書は、クラウゼヴィッツの原則を三つ挙げている。一つは、 敵軍の征服と撃滅。二つは、 敵軍の侵略活動を可能ならしめる物的要素の奪取。三つは、世論の獲得。こうした言葉が、暴力至上主義の弟子たちを誤った方向へ導いたと指摘している。
とはいえ、戦争が政治の手段である以上、軍人にも政治的な視野が求められる。太平洋戦争時代の日本帝国軍人と違って、今日の軍人には外交的感覚にも敏感でなければならない。政治は社会の利害を代表し、戦争は無政府国家でない限り、政治から生まれる。軍事的観点は政治的観点に従属するが、その逆はありえない。クラウゼヴィッツの理論には、これが大前提されるはずである。
本書は、クラウゼヴィッツの欠点は、戦争の真の目的は平和であって勝利ではないことを、理解させられなかったことだと指摘している。つまり、政治の一手段であるならば、征服や撃滅などとは表現しなかっただろうと。だがそれは、戦闘員に向けられた表現であって、まさか非戦闘員に向けられるとまでは考えていなかったのではないか。どんなに優れた哲学書であっても、解釈する者によって正反対の結論が見いだされることはよくある。法律の解釈ですら、いくらでも戦争を正当化することはできるのだから。ルソーが言うように... 人間は高尚な野蛮人!というのは本当かもしれん...
一方で、クラウゼヴィッツこそが、大衆に対する戦争の衝撃的効果の重要性を早くから認識していた人物で、戦争と政治の関係を唱えたことで軍事理論に一大貢献をもたらしたと評している。確かに、世論の後押しがなければ政治は動かないし、ましてや国民戦争などありえないだろう...

4. マルクスの弁証法
産業革命によって兵器の近代化をもたらし、戦争を総力戦とさせたのも確かだ。大量殺戮の始まりである。そして、巨大な産業都市の出現、人口密度の増加、生産性の合理性をもたらし、戦争論もまた人口論と結びつく。
南北戦争は、産業革命の影響を受けた最初の大戦争だという。それは驚くほど近代的戦争だったそうな。木製の迫撃砲、翼付手榴弾、ロケット、各種仕掛装置などが駆使され、ガトリング砲やスペンサー銃が登場し、さらに、魚雷、地雷、機雷、野戦通信、電光通信、手旗信号が試されたという。
しかしながら、それよりも本質的な影響を、マルクスの主張した階級闘争に求めている。階級間のいがみ合いは、国王や君主の時代、あるいは封建時代にもあった。ただ、産業革命が資本家階級と労働者階級をより明確に区別し、階級単位で団結する傾向を強めたということである。社会主義者たちは、プロレタリアートという恒久的賃金労働者を出現させたと主張する。マルクスはヘーゲル哲学の影響を受けながらも、ヘーゲル弁証法を逆転させる立場だったという。それは、マルクス自身もそう語ったとか。
まず、マルクスの自明の理とするもの、それは物質世界こそを基礎とし、唯一の実存とし、そこから社会構造や社会的意識を捉える。この史的唯物論は、生産関係を巡っての階級闘争という位置づけ。資本主義は、金持ちはますます金持ちとなり、貧乏人はますます貧乏人になる、という矛盾を抱えている。この矛盾を克服した時、生産効率を最大限にまで発展させることができると考えるのも悪くない。
しかし、だ。資本主義を否定したところで、資本家でもない、労働者でもない、全く新しい階級の出現を予期することはできたであろうか?つまり、官僚階級による搾取構造である。クラウゼヴィッツ主義は戦争を手段として敵国政府の転覆を狙ったが、マルクス主義は革命を手段として自国政府の転覆を狙った。前者が戦時における戦争論だとすれば、後者は平時における戦争論とすることはできるかもしれない。
尚、マルクス弁証法における階級矛盾をピーター・ドラッガーは、こう指摘したという。
「恐らく、現代における最大の誤謬はこれといった特色も、社会性もなく、各個ばらばらな集まりである大衆を金科玉条のように讃美する神話の存在である。たしかに、大衆というのは社会的腐敗や階級的害毒の結果生まれたものである。...
大衆の危険性は彼らが反抗するという点にあるのではない。反抗なるものは、これを単なる抗議とみれば、社会生活における参加の一形態であるといえるからである。危険性はまさに大衆の参加能力の欠如にある。...
彼らは社会的地位も機能もないので、社会というものは、悪魔のような、不合理かつ不可解な脅威以外なにものでもない。...
どのような合法的政府も、彼らには専制独裁政府に思える。したがって、彼らは常に非理性的行動に訴えるか、ないしは専制独裁者が変革を約束しさえすれば、その専制独裁者にさえ従おうとする。...
彼らは既成の社会秩序さえ変革してくれるなら、どんなことでもうのみにできる。換言すれば、大衆は常に、権力のために権力を求める煽動政治家や独裁者のえじきになることになっている。力さえあれば、大衆を簡単に隷属的で、否定的な地位につけることができる。...
大衆の動きさえも制止できないような微力な社会なら、そんな社会は消滅してしまう。」

5. イデオロギー戦争
第一次大戦の主目的は、産業上、商業上のものであったが、交戦国は戦争の性格についての観念を持たずに参戦し、完全な膠着状態に陥って、やっと産業と科学に訴えたという。結局この戦争は、海上封鎖によるドイツ国民の飢えと、ロシアとドイツの双方における革命によって終結した。
では、第二次大戦の性格は、どういったものであろうか。資本主義が世界大恐慌によって弱点を露呈すると、自由主義は堕落したと見做され、共産主義やファシズムが勢いづく。そこに、経済的救世主として登場したのは、ニューディール政策を掲げたルーズベルトと、国家社会主義を掲げたヒトラー。戦争の目的は、道徳的闘争や経済的闘争の領域に一層深く拡大されていく。
本書は、ソ連のアキレス腱は、第一線にあるのではなく、内部戦線にあるとしている。その統計的証拠として、ソ連国民の半数が非ロシア系の人民であることを指摘し、しかも、その多くは民族意識が強く、モスクワ支配に反抗的であると。レーニンですらこう語ったという。
「世界中で、ロシアほど多くの人民が圧政を受けているところはない。大ロシア人は全人口の 43% を占めるに過ぎない。すなわち半分以下なのである。残りの人民は他国民だとしてロシア国民としての諸権利を有していない。ロシアの人口1億7千万人の内、約1億人は圧政に虐げられ、いかなる権利も有していない。」
スターリンの圧政は、どのツァーリよりも比較にならぬほど残虐なものであった。巨大ロシアを分裂させるには、ヒトラーが解放者として国境を超え、集団農業化に終止符を打つだけでよかった。これこそがスターリンが最も恐れた戦略であろう。当初、ドイツ側に走ったソ連兵も多かったようである。ウクライナではドイツ軍を解放軍とみなし、一般人民に迎えられたという記録もある。グデーリアンは、白ロシア人が食糧を運んでくれたと回想している。
しかし、親衛隊が乗り込んでくると状況は一変。ヒトラーはスラブ民族を人間以下の存在として抹殺にかかったために、巨大ロシアを団結させてしまった。領土を拡大しても秩序が保てず、レジスタンスやゲリラを旺盛にし、内外に敵をつくることに。
「ソ連の弱点はわれわれの強みである。ソ連の強みはわれわれがその弱点について無知なことである。」
このことは、大陸進出を目指した大日本帝国陸軍にも同じことが言える。中国は蒋介石の国民党と毛沢東の共産党で対立していたが、力づくで侵略したために双方を結束させてしまった。すでに世界はイデオロギー戦争の時代へと移行していたにもかかわらず、当時の日本軍人が国際感覚に敏感であったとは考えにくい。それは、太平洋戦争末期、対米英との仲介役をソ連に打診したという外交的な感覚の鈍さに見て取れる。
とはいえ、ルーズベルトでさえイデオロギーに対して、ぼんやりとした認識しか持っていなかったと指摘している。ルーズベルトは、チャーチルは根っからの帝国主義者でスターリンは違うと見ていて、対日戦争でスターリンの力が必要だと考えていたという。原爆開発も途上でアメリカの優位性が明確でなかったために、親スターリン派を演じていただけかもしれないが。チャーチルにしてみれば、ヒトラーよりはまし、ぐらいなものだろう。地理的な位置が反対だったら、どちらと手を結んでいたことやら...

2016-07-03

"リデルハート戦略論(上/下)" B. H. Liddell-Hart 著

真の平和論を語れるのは、知性ある軍人のなせる業であろうか... 平和を望むなら戦争を理解せよ!人間を理解するためには、己の内にある悪魔性を知れ!自己にとっって、憎悪、嫉妬、復讐の類いほど手に余るものはない。しかし、これが人間の本質である。
愛国心は悪人の最後の隠れ家である... とは、サミュエル・ジョンソンの言葉だ。愛国心そのものが悪いわけではない。だが、情愛ほど暴走しやすいのも確か。犯罪心理学では、平和愛好家の隠された好戦性というものが指摘される。穏健な人ほど一旦ブチ切れると、一層暴力的になる。不必要な危険を招き入れるのは、無防備な平和論者の方であろう。
近現代の軍人には、ますます国際的視野が要求され、時には狡猾さも必要である。そして、戦略なき政策は危険となり、哲学なき戦略は戦争へと導くであろう。
近年、イスラム国の脅威を世界への挑戦と捉える欧米諸国から見れば、今まで敵であったアサド政権は、敵の敵。もし復縁すれば、第二次大戦でアメリカとソ連が同盟し、対日戦線で中国国民党と共産党とが手を握った構図と似ている。これも政治的合理性ではあるが、ロシアがアサド政権を軸にIS対抗策を打ち出したことによって混迷度を増すことに。
一方で、伝統的に外交感覚に乏しい日本は、無策を続ける。失策を続けるよりはましか。
金を失うのは小さく、名誉を失うのは大きい。しかし、勇気を失うことは全てを失う... とは、チャーチルの言葉だ。
「道義的義務感を尊重しない国ほど物質的な力 - 罰を受けずに挑戦するにはあまりにも強すぎる実力を抑止する力 - をより尊重する傾向がある。同じように、弱い者いじめ型や強盗型の人間は、自力で立ち向かってくる人間に対しては攻撃をためらうということは個人について共通する経験である。そのためらい方は平和型の人間が、自分よりも強い攻撃者と取り組み合うのをためらうよりもはるかに強い。」

B. H. リデルハートの「間接的アプローチ理論」は、クラウゼヴィッツの「戦争論」と並び称される。ここには、人間的要因の支配する世界における生命の法則らしきものが綴られる。それは、真理の追求のみが真の戦略を与え、長期的な人生戦略につながるということである。
攻撃は最大の防御なり!... という格言をよく耳にする。しかし本書は、これを見事に反証して見せる。戦争の花形は確かに攻勢にあるが、戦略の本質はむしろ防勢にあるということを。
過去一世紀を振り返っても、軍事ドクトリンの規範では、敵の主力を叩け!というのが本筋とされてきた。しかし、間接的アプローチでは、主力を遠回しに攻撃する戦略が重視される。短期決戦で済むのであれば、主力を直接叩く方が合理的であるが、長期戦になるほど直接的アプローチは犠牲が大きい。ましてや殺戮など余計な行為であり、なによりも愚かである。
直接的アプローチが簡単にどんでん返しを喰らうのに対して、間接的アプローチは戦略を重厚なものとさせ、一度流れをつかむと容易には押し返されない。備えが十分であれば、仕掛けるよりも仕掛けさせる方が優位となろう。
リデルハートは、戦略に対して、より抽象度の高い「大戦略」という用語を持ち出す。戦術が戦略の下位で適用されるように、戦略もまた大戦略の下位で適用される。
「戦争遂行者は戦略家以上の人物でなければならない。その人物は指導者と哲学者を結びつけたような人物でなければならない。戦略というものは、その主体が敵を欺騙する術と関係しているので、それ自体が道徳に対立するものであるのに対して、大戦略は道徳と両立する傾向を持っている。」

人間同士の敵対ほど相対性理論を体現するものはあるまい。矛盾とは、盾と矛の関係。優れた作戦は、相対的に愚かな統帥に対して通用し、上手をいく統帥には通用しない。どんなに愚かな作戦でも、相手がもっと愚かであれば成功する、ただそれだけのこと。歴史的成功とは、まさに相対的関係において生じるのであって、絶対的な戦略などありえない。
したがって、軍事行動には、常にギャンブル性がつきまとう。石橋を叩いても渡らない!とまで言われた家康とて、関ヶ原で万万勝てるとは思っていなかったはず。戦は、なるほどやってみなきゃ分からん。
クラウゼヴィッツは言った... 「政治目標が最終目的であり、戦争はその目的に到達するための一つの手段である。」と... ならば、自国の軍事力を過信して賭けをやる政治家ほど、公共物を私物化した状態があろうか。クラウゼヴィッツはこうも言った... 「あらゆる軍事行動には、知性の力とその効果が行き渡っているべきもの。」と... 知性ある者が、どうして国民の命を犠牲にしてまで賭けにでることができようか。戦争を始める者は、よもや負けるとは思っていないだろう。一旦始めてしまえば後戻りできない。戦争状態では人間の最も野蛮な面を曝け出し、憎悪の念は拭えない。仲間が殺される現場で、どうして敵に寛容でいられよう。味方や一般市民を誤爆、誤射することだってある。犠牲者を最小限にするよう周到に計画された戦争であっても、しばしば泥沼化する。そうなれば、直接行動に目が奪われる。戦局が思わしくなければ尚更。そして、政治家は必ず戦争の正当性を精神論に訴え、愛国心を煽る。合言葉は決まって... 正義だ!戦争に踏み切る前は慎重だった世論もまた徐々に真実を見失い、ちょっとでも苦言を呈すと非国民!と罵声を浴びせる。言論の自由は迫害され、敵の文化までも全面否定し、敵を知り己を知れば百戦殆うからず!という黄金律までも忘却の彼方...
こうした傾向は、悪化したプロジェクトで、納期は絶対死守!などと従業員を鼓舞するマネージャの言動、あるいは、株式市場で業績悪化のためにトレンドに逆らってまで資金投入を続ける行動などと似ており、いわば敗者の心理状態にある。人間のギャンブル性は依存症とも相性がよく、負け始めるとますます止められなくなる。相手を撃滅させることにしか打開策を見出だせない戦略家は、消費を煽ることしか経済対策を打ち出せない政治家にも似たり。そして、どんな戦争でも、どうやって終わらせるか?が大問題となり、第三者が尻拭いをさせられる。
したがって、戦略の定義には責任の範囲を明確にすることも含まれ、勝とうが負けようが戦後処理の方がはるかに重要となる。戦争に勝っても人は死ぬ。いったい誰が勝ったのやら...

1. 孫子の黄金律
本書は、紀元前5世紀から20世紀までの戦争を分析し、間接的アプローチの戦略的使用がいかに有効であったかを物語る。古代や中世の統帥たちが戦略的に意図していたかは別にして、結果的に間接的アプローチによって成功したこと。そして、近代戦争では総力戦と化し、補給戦略などの間接的アプローチの重要性が増し、より長期的な戦略が求められるようになったこと。その反面、突撃や主力決戦といった直接的アプローチが、いかに国力を消耗させ、自滅へと導いてきたかということ。
さらに、核兵器をはじめ爆撃用兵器の大型化にともなって戦術的に融通が利かなくなり、柔軟性の高いゲリラ型戦略の進展を助長したこと... 現代では、更に巧妙なサイバー攻撃が用いられる。
戦略の極致は、いかなる激しい戦闘もなしで、最小限のコストで事態を決着させることにある。その事例では... カエサルのイレルダ作戦、クロムウェルのプレストン作戦、ナポレオンのウルム作戦、モルトケのマクマオン軍の包囲(セダンの戦い)、アレンビーのサマリア丘陵地帯におけるオスマン帝国包囲(メギッドの戦い)、グデーリアンの電撃戦... などが議論の対象となる。
そして、「孫子の兵法」から実に多くの言葉が引用される。どんなに技術や戦術が進化しようとも、二千年以上前から人間の心理的原理は変わっていないということか。人間の行動を抽象化、パターン化しようとすれば、極限状態にある戦争ほど良いモデルはあるまい...

「あらゆる戦争は欺瞞のうえに成り立っている。したがって攻撃が可能なときには、それが不可能なように敵に思わせなければならない。」

「長期戦で利益を得た国は一つもない。戦争の悪について熟知している者だけが、戦争で利益を得る方法をよく理解している。」

「最高の戦争のやり方は、戦わずして敵の抵抗を排除することになる。」

2. 戦略とは...
戦術と戦略を分類して議論する場合、責任範囲を明確にすることと深くかかわる。しかしながら、リデルハートは、戦術と戦略をカテゴリーで分けることは議論するには便利だが、けして分離できないとしてる。両者は相互に影響し合うだけでなく、一方が他方と一体化する場合もあるからである。
クラウゼヴィッツは、戦略をこう定義している。
「戦争の目的を達成する手段として戦闘を用いるための術である。」
この定義の欠点は、戦略が政策の分野に、あるいは、より高度な戦争指導の分野に踏み込んでいることだと指摘している。政府の責任までも軍事指導者が負うべきではないと。そして、もう一つの欠点は、戦略の意味を、純粋な戦闘の使用に局限している点だという。そのために、目的と手段を混同する考えがドイツ統帥部に蔓延していったと。特に、誤解の種となったクラウゼヴィッツの言葉に、これを挙げている。
「戦略の唯一の目標は戦闘であり、勝利は血をもって贖うものである。」
戦略家が戦略と戦術を混同してしまっては、血に飢えた狼となるは必定。忌まわしい戦争の時代に戦いで死ねるのは、軍人にとって幸せではあろうけど...
クラウゼヴィッツの書は抽象度が高いために、言葉の表面だけを追えば多分に誤解されやすい。そもそも哲学書にはそういう性格があり、記述によって精神の領域に踏み込もうとすれば、言葉の限界にぶつかる。真に言葉の意味を理解するには、全体構成から立体的に読み解く必要がある。
したがって、哲学的思考に疎い者が読むと、作者の意図とはまったく正反対の結論さえ導き出すことがある。実に多くの哲学者や思想家が、後世のほとんど言いがかりのような批判に曝されるのも道理である。
さて、戦略と政治の役割については、もう少し明確な区別が欲しい。フリードリヒ大王やナポレオンのように、戦略と政治の二つの機能が一人の人物の中に統一されている場合、両者を区別しないことは大した問題にならなかった。だが近現代では、シビリアンコントロールが主流であり、専制君主的な軍人兼政治家は稀である。かつて戦時下の戦争指導者や軍部は政策の領域まで口を出し、その権限までも要求した。現在の民主主義国家でも、政治家が軍事的手段に干渉する傾向がある。モルトケは、クラウゼヴィッツよりも明確かつ賢明に戦略を定義づけたという。
「戦略とは、見通しうる目的の達成のために、将帥にその処理を委任された諸手段の実際的適用である。」
軍の司令官は、あくまでも政府の雇用者というわけだ。さらに、リデルハートは戦略を再定義している。
「戦略とは政策上の諸目的を達成するために軍事的手段を分配し、適用する術である。」

3. 大戦略とは...
政治目的と軍事目的を明確に区別せよ!とはよく耳にする。だが実際は、この二つを完全に分離することは難しい。国家は、政策遂行のために戦争をするのであって、戦争のために戦争をするのではない。ただ、軍事目的は政治目的における一つの枝葉に過ぎない、ということは心得ておくべきだろう。
本書は、軍事目的は政治目的によって支配されるべきで、政策は軍事的に不可能なことを要求しないことを基本条件としている。戦争指導の方針を示す政策、すなわち、戦略目的を支配するものをより高次な基本的政策とするならば、大戦略は政策と同じ意味を持つことになる。
ではなぜ、わざわざこんな言葉を用いるのだろうか?より差し迫った意味が欲しいようである。少なくとも福祉や社会制度などとは区別すべきである。
例えば、資源を政治目的とする場合、これを確保する基本政策が戦争を手段とした大戦略ということになる。国家の経済資源や人的資源の開発を図ることも、国力としての軍事力と関係し、産業間の資源配分も含まれる。近年、軍事費の有り方は、よく対GDP比で議論される。
また、国民の意欲を涵養するための精神的資源は、戦力の保持と同様に重要だ。戦略で見通すことのできる範囲は戦争に限られるが、大戦略の視野は戦争を超越して戦後の平和にまで及び、安全保障政策まで踏み込む。そして、目的と手段は釣り合っているか?が問われる。目的と手段が混同されるだけでなく、目的が立派すぎて手段がおぼつかないこともあれば、手段が目的を無視して独り歩きをはじめることもある。技術偏重も、理想主義も、平和主義も、過剰となれば危険となろう...

4. ナポレオン方式
適応力は、生命におけるのと同様、戦争においても生存を支配する法則だという。戦争は、環境に対する人間闘争の集中された形態に他ならない。
戦争の原則は一言で言えば「集中」であるとしている。より厳密に言えば「弱点に対する力の集中」であり、相対的には敵軍の分散に依存することを意味する。逆説的ではあるが、自軍を分散することによって敵軍が分散せざるを得ない状況を作り、その隙に自軍を集中させて優位に立つ。したがって布陣では、分散と集中の連続した形態をとる機動力が要となる。基本的な誤りは、自軍の集中のために敵に集中する時間を与えること。
ナポレオンは、戦略的にも戦術的にも「速度による質量の倍加」をもたらしたという。当初は、やはり天才戦略家であったか。彼は、18世紀の二人の優れた軍事研究家ブールセとギベールの理論を継承している。それは、作戦計画が枝分かれを持ち、一つは失敗がありえないほど確実な作戦とすることや、師団編成という概念をもたらしたことである。それまでの陸軍戦略は、フリードリヒ大王をはじめ国家軍の単位で行動を起こしていたが、ナポレオンは師団構成という形で進化させた。
しかしながら、ロシア遠征では、45万もの大軍のために、ほとんど一直線の配備をとることになる。巨象は動きが鈍く事実上の虚像となるは、自然の結果。
おまけに、ロシア軍の自国を焦土化する巧妙な退避戦略が、機動の欠点を際立たせた。もっともロシアの広大な領土が前提条件にあるわけで、うまく誘い込まれたのである。伸びきった補給線が、やがて臨界点に達するのは自明の理。勝ち続けているという幻想が、軍人のプライドをくすぐり、さらに進軍を続けようという誘惑に駆られる。
それは企業戦略でも同じで、ちょっと儲け過ぎると拡販路線をとってリスクを自ら拡大してしまう。上昇トレンドの勢いに乗せられて必要以上にレバレッジをかければ、他人資本がまるで自己資本のように見えてくるものである。はたして領土が本当に自分のものになっているのやら?と疑問すら感じなくなるのだ。そして、軍事資本が無制限に投入できると思い込み、悲劇をさらに拡大させる。まさに負の連鎖。
「人材の銀行にいわば白地式小切手口座を所有することという点で、ナポレオン戦争と第一次大戦は、きわめて類似した結果を示したことは奇妙なことである。いずれの場合もその結果が激しい火砲射撃の方式と関連していることも奇妙なことである。その意味は、惜しみない資源の投入は浪費を生む、ということであろう。これは、奇襲や機動を手段とする兵力の節用という考え方とは正反対のものである。」

5. 第一次大戦
独仏国境線は意外と短く、わずか150マイル余り。だが、ベルギーやルクセンブルクを含めると機動性の余地が出てくる。フランスの当初の計画は、大規模の要塞群によって防勢をとり、反撃を喰らわすというもの。そのために、アルザス - ロレーヌの国境線に沿って要塞が創設され、ドイツ軍を誘い込むためにトルエー・ドゥ・シャルメ峡谷のような間隙を残したという。
しかし、ドイツの「シュリーフェン計画」によってフランスの思惑は外れる。それは、主力をベルギーから迂回させて、右翼の側面から奇襲するというもの。フランス軍統帥部は、ドイツ軍がベルギーへ侵入を開始した時でさえ、マース川以東の狭い正面に限定されると予測したという。奇襲が成功するのは、相手側の楽観主義によるところが大きい。
一方で、せっかく奇襲に成功しつつある中で、用心深さのために躊躇する事例もまた多い。シュリーフェン計画もまた、参謀総長モルトケ(大モルトケよりも若い小モルトケ)が台無しにしてしまう。フランスの攻勢につられて右翼を後回しにし、主力を正面に布陣させてしまったのだ。主力を右翼に転移させれば、敵の主力が集結する左翼が弱体化するものの、右翼にとどまる兵力が大きいほど、背後攻撃が一層決定的になる。正面攻撃を避けて、犠牲を小さくするとうのが、当初の計画である。
本書は、失敗要因の一つに鉄道の発達を指摘している。鉄道という固定化された交通線に軍隊が依存したために、攻勢も防勢も兵力を集中させる傾向があると。鉄道に依存した融通の利かない配備については、日露戦争のシベリア鉄道に依存したロシア軍についても言及される。日露両軍が、その目標に固執したがために正面衝突を繰り返し、互いに犠牲を拡大したという。西部戦線では、独仏の初期戦略の失敗によって、続く四年間を塹壕戦という膠着状態に陥れた。戦車が登場し、最初こそ恐れさせたが、動きが鈍く恰好の標的となった。おかげで戦車の評価が下がり、次の戦争で電撃戦の奇襲性を助長させたという見方もできる。
ところで、西部戦線の膠着状態は、他の戦線から見れば、ドイツ軍の主力を釘付けにしているという見方もできる。当時、海軍大臣だったウィンストン・チャーチルは、こう語ったという。
「連合を組んでいる敵の諸軍は一体のものとして見るべきである。現代の戦いでは距離と機動力に関する概念が大きく変わっており、ある別の戦域で敵軍に与える打撃は、古典的戦争での敵翼側への攻撃に匹敵する。」
イギリス首相ロイド・ジョージもまた、敵の裏口へ通ずるバルカン半島へ主力部隊を転用すべきと主張したという。しかし、イギリス軍はバルカン半島へ兵力を小出しにして、使い果たしてしまう。
そして、本当の意味で第一大戦に決着をつけたのは、海軍力による海上封鎖だったと結論づけている。戦闘による大出血や勝利が不可能と知った精神的ダメージも大きいが、それ以上に国民の飢餓が深刻だったという。戦争を終わらせるために、皮肉にも革命に頼ることになった。しかも、ロシアとドイツの双方で...

6. ヒトラー方式
ヒトラーは、初期戦略で慎重に計画し、経済的効果、精神的効果を狙っている。平和愛好家たちは、ヒトラーの企図を予測することが緩慢だったために暴走を許した。「我が闘争」という著作まで準備し、意思を明確にしているにもかかわらず。人間ってやつは、自分の目で見ているがために、逆に何が真実かを見逃しやすい。秘密はしばしば公然と見せつけられているにもかかわらず、不都合なものには目を背ける傾向がある。これこそが深層心理を巧みについたヒトラーの秘匿の術だったのかもしれない。
そして、資本主義者と社会主義者を巧妙に衝突させた隙に、ワイマール憲法の弱点に乗じて独裁者となった。これほど大々的に宣伝活動を煽動の道具にした政治家は、かつていなかった。見事な間接的アプローチである。
「民主主義諸国の政府が、ヒトラーが次に進む道の予測に失敗した方法ほど、後世の歴史家にとって奇妙に思われることはないだろう。ヒトラーほど大きな野心を抱いた人物にして、自分の目標達成のための全般的手順と具体的方策の両面にわたり、あれほど明らかにあらかじめ暴露してみせた者は他には全くいないからである。」
ドイツの軍事的教義に対して、ヒトラーがいかに斬新的であったかは、ルーデンドルフとの比較から考察される。ルーデンドルフは、ミュンヘン一揆でヒトラーと共にベルリンへ行進した仲間。彼にとってのクラウゼヴィッツ理論の欠陥は、犠牲という代償を無視して無制限の暴力行動へ突進しすぎるという点ではなく、その突進が不十分であったこと。そして、「国家の軍隊化それ自体を目的としない限り、戦争とは目的を持たない手段になる。」と考えたそうな。ルーデンドルフが戦争の下に政策が位置づけられるのに対して、ヒトラーは、戦争を政治の手段の一つとした点で、クラウゼヴィッツに近い。
とはいえ、戦略と政策の二つの機能を兼ね備える総統の地位を獲得し、アレクサンドロス大王やカエサル、あるいはフリードリヒ二大王やナポレオンと同じような利点を享受することになる。

7. 第二次大戦
ジークフリート線は、フランス軍に対する威嚇もあろうが、それ以上に、第一次大戦で傷つけられた国民の誇りを取り戻すための戦略と見ることはできよう。当初、ドイツ軍統帥部でシュリーフェン計画の踏襲が検討されていたことは、グデーリアンの著書でも回想されている。第一次大戦の反省から、この計画が忠実に実行されていれば、十分に戦果が望めるという考えである。
しかし、ヒトラーには硬直化した陸軍司令部が気に入らなかったと見える。そこで、「マンシュタイン計画」が検討される。マジノ線を正面から突破するためには、アルデンヌの森がルートとなり、この方面では装甲部隊の展開が困難に見えるが、マンシュタインはそれは可能であるとの結論を出した。この計画を決定づけたのは、歴史的にはメヘレン事件によって情報漏れを恐れたということになっているが、わざと漏洩させたとの見解も耳にする。
それはともかく、ヒトラーが長期戦を危惧していたことは間違いあるまい。長期戦となれば中立国が連合国側につくだろうし、連合国の軍備拡張が追いついてくることも予測できる。さらに、アメリカの参戦も考えていただろう。それは、第一次大戦で検証済みである。
したがって、第一次大戦のような初期戦略の失敗は許されない。グデーリアンの電撃戦は、要地を正面突破したという意味では直接的アプローチではあるが、航空部隊と装甲師団の連携した三次元攻撃という意味では意外性をもつ間接的アプローチであった。そして、マジノ線をあっさりと無力化した。
しかし、とどめの段階で、最後の脱出港ダンケルクへの突進を中止したのは様々な憶測を呼ぶ。ルドルフ・ヘスの不可解なイギリスへの飛行など、ヒトラーがイギリスとの講和を望んでいたという可能性である。
確かに対イギリス戦争は困難な問題ではあるが、見方によっては単純である。イギリスはヒトラーが大きなミスを犯すまで持ちこたえなければならなかった。対ナポレオンでもそうであったように。ナポレオン戦争と二つの大戦では、イギリスの海上封鎖が機能した。それは、ドイツ側にも同じことが言えたはずである。実際、イギリスの物資力は植民地やアメリカの支援に頼っていたのだから。ブリテンの戦いで空爆目標を空軍要地からロンドンなど都市に変更しなかったら、あるいは、Uボート戦略でもっと潜水艦生産を集中させていたら...
ヒトラーは、空軍と機械化部隊を連携させる斬新な方式を編み出しておきながら、戦局が膠着状態に陥ると、ついに東部戦線で古典的な方法に頼るという重大なミスを犯す。ヒトラーが軽蔑したドイツ軍司令部以上に硬直化した思考に陥ってしまったのだ。ヒトラーとドイツ軍統帥部では侵攻計画を異にする。ヒトラーは、レニングラードを主目標とし、バルト海側を安全にしてフィンランドど提携し、また、経済的要因としてのウクライナの農業資源と、ドニエプル川下流の工業地帯を奪取したいと考えたという。この二つの目標は、地理的に両極端にある。グデーリアンは首都モスクワまで二百マイルに迫ると、再びソ連の兵力が結集する時間を与えないことの重要性を唱えたが、聞き入れられず一時期解任された。マンシュタインも解任された。やがて冬将軍が到来し、広大なロシア領をさまようことに。
本書は、ポーランドを防衛ラインとすれば、地理的に兵力集中の観点からドイツ軍は優位を保っていたと指摘している。ロシア領土内に深く踏み入るほど、部隊の大展開が必要となって優位性を失う。それは、ナポレオン戦争でも二つの大戦でも同じ。歴史は繰り返される... とは、よく言ったものである。

8. 戦後処理のための戦争
ドイツ軍の東部戦線の有り様は、大日本帝国陸軍が中国大陸に侵攻し、泥沼化していった状況と酷似している。さらに、マッカーサーの奪還戦略では迂回方式が採用された。「飛石作戦」によって島々の守備隊を孤立させ、自然の抑留地として取り残されたのである。軍部は「満蒙は日本の生命線」と主張しながら、シーレーンの崩壊によって真の生命線が絶たれた。この点は、ヒトラーがスターリングラードにこだわった思考回路と似ている。
また、本書では言及されないが...
大戦略の観点から、ノルマンディー上陸後、自由主義国と共産主義国との間で、既に戦後処理の主導権争いが意識されていたことは想像に易い。ヤルタ会談はその前哨戦だ。ヨーロッパではベルリンへ向かっての進軍競争が展開された。連合国は、勝ち戦と分かっていながら無謀な作戦をとっている。マーケット・ガーデン作戦もその一つ。この時期には豊富な物量に支えられ、戦局に大きな影響を与えないとはいえ、出さなくてもいい犠牲を出した。ヨーロッパ戦線では、クリスマスまでに終わる!といった楽観的動機で無駄な犠牲を出した事例は実に多い。
日本においても、アメリカは占領政策で主導権を握りたかったはず。本土決戦で長引けば、ソ連が北海道分割占領を要求してくることも十分に予測できる。その方策としての原爆投下の是非は別にして、ソ連の対日参戦のタイミングと重なるのは偶然ではあるまい。米英にとって、戦後の世界における共産主義化に懸念があったことは確かであろう。イデオロギー戦争ともなれば、クラウゼヴィッツの唱えた政治の一手段を超越し、もはや平和のための戦争ではなく、戦争のための戦争となっていくのかは知らん...