2015-07-26

"経済学および課税の原理(上/下)" David Ricardo 著

リカードの比較優位論に感服したのは、十年ぐらい前であろうか。それは、経済学の相対性理論と言うべきものである。自由貿易の力学は、単純な国力の比較や経済的合理性だけでは説明できない。サミュエルソンは、この分野の教科書とも言うべき著作「経済学」の中で、女性弁護士とタイピストの喩え話で説明した。有能な人材が一人ですべての仕事を背負うことが、如何に不合理であるかを。ここに、なぜ性別が関係するのかは知らんよ...
さて、経済学の使命とは、なんであろう?人間社会は、すべての人口を養うための経済規模を必要とする。まずこれを大前提とするべきであろう。その上で、すべての生産を国や企業が独占的に賄うことが本当に合理的なのか?リカードは、生産効率性よりも労働分配を優先する立場を表明し、マルサスの人口論を考察しながら国際分業の意義を唱える。労働に価値を求め、経済規模に相当する労働人口とその収入源を確保する必要があるというわけだ。
ベンサムの功利主義風に言えば、最大多数の最大幸福を目指すために、労働価値の最大化を求める... といったところであろうか。ダーウィンの自然淘汰説風に言えば、地上で大量の生命を養うために、弱肉強食ではなく経済活動の多様性を選択する... といったところであろうか。
価値の相対性原理は、国際貿易にとどまらず、その着眼点は階級間における地代、利潤、賃金、さらに租税に及び、経済と課税の双方から価値と富の違いを考察している。そして、地主、資本家、労働者の三階級の分配比率を決定することこそ、経済学の使命としている。
「大地(アース)の生産物... つまり労働と機械と資本とを結合して使用することによって、地表からとり出されるすべての物は、社会の三階級の間で、すなわち土地の所有者と、その耕作に必要な資財つまり資本の所有者と、その勤労によって土地を耕作する労働者との間で分けられる。」
経済学は、伝統的に需要と供給の間で生じる貨幣価値の力学を問うてきた。だが、実のところ社会的合理性を問うには、課税の在り方のほうがずっと本質的なのかもしれない。ただし、商品価格の決定では、需要や供給の関係で決まるのではなく、生産費用で究極的には労働量で決まるとしており、生産側のコストに偏っている点で古臭い。この時代の経済理論だけあって、すべての人間行動が経済的合理性に従う、という考えが前提にあるのは否めない...

本書は、アダム・スミスやマルサスを論駁の相手としながらも称える文面が目立ち、むしろ継承する立場に映る。当時、オランダは自由貿易を武器に資本蓄積の高度に進んだ最先進国。しかも、イギリス国債で大財産を所有していたという。七年戦争中、オランダは中立政策をとり、イギリスの戦時国債に応募できる立場にあり、イギリスへの投資ブームが巻き起こったという。この時代、オランダ人だった父エイブラハムは、イギリスを好きになり帰化したそうな。リカードが、自由競争主義に立脚しているのは、父の影響であろうか。
一方で、イングランド銀行への痛烈な批判が込められている。銀行はもはや不要機関とまでは言わないにしても、反社会分子のおいらにはそう聞こえてくる。当時、イングランド銀行は紙幣発行権などで政府預金から莫大な利潤を獲得していたという。貨幣の発行権は中央銀行にあるからこそ政府との距離が重要となるが、現在でも、政権が中央銀行への影響力を強めようとしている。
また、ナポレオン戦争とも重なり、フランス国債の償却にもデリケートに対応しなければならない。ところが、戦時中の大陸封鎖令の反動で、戦後、安価な穀物の流入によって農業恐慌に見舞われたという。地主階級は穀物の高値の維持と地代の確保に走ったとか。地主を重商主義の有害と同じだと断じている。重商主義者の思惑は、海外競争を禁止することによって国内市場で商品価格を引き上げることにあった。
こうした時代背景から比較優位論は、自由貿易論と 国際分業論の両面から構築されたようである。自由貿易によって利潤が上がるのは市場が拡大した結果ではなく、相対的な相互利潤の上昇としている。イギリス資本主義の下で世界工場を建設し、後進国を農業国として分業させる、などと言ってしまえば、ある種の植民地構想にも映る。
とはいえ、現在だって労働賃金の低い国が生産を担い、付加価値の高い部分を多国籍企業が独占するという構図がある。世界規模での分業体制という意味では、継承されてきたのは確かであろう...

ところで、ヨーロッパの伝統に「十分の一税」なるものがあるそうな。寄付金や喜捨金などの宗教的な慣習で、古くは主に耕作物に対する租税だったという。固定税率であれば経済状況に応じて有利にも不利にも転ぶが、施しの類いにそんな感覚は基本的にない。リカードは、階級間の分配率においても不変の価値尺度を求めている節があるが、経済原理に立脚すれば、必然的に相対的変動に辿り着くだろう。ただ、宗教法人や政治団体には、課税対象にならない収入で賄われる組織が実に多い。幸福の提供書が不幸では説得力がない。だから、ベンツを乗り回して幸福に見せるのか?なるほど、十一(といち)の原理というわけか。
... などと税に考察が及ぶと、愚痴が愚痴を呼ぶ。したがって、本記事がリカードの意図から逸脱していることは保証しよう...

1. 公平感と面倒感
人間社会には、生まれながらにして義務付けられる課税という奇跡的なシステムがある。無条件で徴収できる正当性は、国家体制や社会サービスを維持するため、ひいては家族や自分のためであろう。逆に言うと、基本的人権が保障されなければ、なんの正当性も持たないことになり、国家そのものの意義を失うであろう。課税対象が全国民に及ぶとなると、まずもって求められる観念は公平ということになる。これは民主主義の根源的な動機であり、社会的合理性と結びつく合法性、あるいは正義の観念もここに発する。
しかしながら、租税は公平ではなく、公平感に支えられている。つまり、気分よ!世間には常に、金持ちからふんだくれ!という感情論が燻る。政治家どもの不正行為にしても、庶民層の生活感との相対的関係から暴露される。なので、経済政策さえうまくやっていれば、少々の不正や少々酷い政策でも世論は黙ってくれる、という意識が強い。
一億総中流思想が蔓延した時代に慣習化された帳簿上の問題は、今の感覚ではスキャンダル沙汰になる。しかも、そこに後援会や政治団体が癒着し、見返りを求めれば、たかりの集団と化すは必定。ましてや世襲的に受け継がれてきた手法だけに、疑問すら感じない。この手の爆弾を抱えていない政治家は一人もいないだろう。公平感とは、いかにバレない程度にうまくやるかってことだ。
また、会計上の処理では、総合課税と分離課税とを区別する仕組みがある。分離課税は源泉徴収とは別枠なので、サラリー収入以外に所得のある人は少しばかり多目に課税されることになる。ただし、別所得があるからといって所得が多いとは限らないので、累進課税による公平感が保たれるかは別問題である。税率を少しばかり抑えるといった細やかな心遣いも見られるものの、銀行利息では分離課税が適用され、僅かな預貯金から絞りとってどうするの?と思ったりもする。それでも分離課税が有難いのは、確定申告が不要なこと。近年、確定申告不要制度が適用され、年金受給者は面倒な手続きから解放され、年寄りは助かるだろう。税務署の混雑が緩和されるのもありがたい。
生計の許容範囲において、精神的合理性と経済的合理性は常に天秤にかけられ、面倒!という動機は、経済的合理性よりも人間行動に大きく影響を与える。面倒なことは、国や行政機関がやることに間違いがあるはずがない!と信じることで簡単に打倒できる。納付が自動的になされるならば、還付も自動的にやってもらいたいものだが、こちらの方は申告が必要とはこれ如何に?公平感と面倒感は、どちらもボッタクリの原理から発しているというわけか。
かつて配当所得も総合課税の対象であったが、申告分離課税が選択できるようになり面倒な手続きから解放された。しかし、税的に有利になるかは別の話で、NISA非課税枠などと合わせて長期的な戦略が必要となる。価値観や生活様式が多様化すれば、収入源も複雑化し、公平感を保つのも一筋縄ではいかない。そして、ますます自己判断、自己管理が求められる。民主主義社会とは、面倒を助長するシステムなのかもしれん...

2. 労働価値と労働量
アダム・スミスは、価値に二つの意味を持たせたという。物の効用を示す使用価値と、財貨の購買力を示す交換価値である。ただし、使用価値を持つものが、まったく交換価値をもたらさない場合もあれば、交換価値をもたらすものが、まったく使用価値を持たない場合もある。スミスが生産に投下された労働に価値を求めたのは確かであろう。生産に寄与しない労働には価値がないということになる。
対して、リカードは主に二つの性質に意味を持たせている。希少性と労働量である。空気は大いに有用でありながら金にはならないが、環境汚染が進めば空気も希少価値を持ち、いずれ金になる時代が来るかもしれない。さらに、労働価値にも希少性を結びつけていると解釈できなくもない。つまり、専門性や特殊技術といったものである。
経済学は、伝統的に交換価値を崇めてきた。楽をして儲ける!最小努力で最大利益を得る!これが経済人の論理だ。貨幣換算できるから交換作用をもたらすわけで、貨幣換算できないものには意味がないというわけだ。リカードは、この風潮にちょっと待ったをかける。
「ある商品の価値、すなわちこの商品と交換される他のなんらかの商品の分量は、その生産に必要な相対的労働量に依存するのであって、その労働に対して支払われる対価の大小に依存するのではない。」
では、労働量とはなんであろうか?無駄な労働もあれば、社会に役立つ労働もあり、その評価は人の生き方に関わる。ましてや物理的な仕事量で計測できるものではなく、機械的な仕事をロボットにやらせれば人間は楽ができ、めでたしめでたし!というわけにもいかない。労働による対価が生計を支えていることに変わりはないのだから。
仕事を生き甲斐にできる人が、世間にどれだけいるというのか?労働価値説の類いは、アダム・スミスやリカード、そしてマルクスも唱えているが、ここに答えを見出せない限り、彼らは何を計測しようというのか?
しかしながら、労働量を雇用量と置き換えれば、重要な指標となろう。例えば、ワークシェアリングという手法で雇用を安定させる考え方は、これに近い。雇用量は、人口とも関わるデリケートな問題で、社会の安定や治安にも深く関わる。技術進歩で生産効率が高まればサービス業に移動し、医学の進歩で寿命が延びれば年齢分布が変化して福祉事業に移動し、産業の人口分布にも変化が見られる。経済的な統計情報がどこまで信用できるかは知らないが、GDPは国力の指標として世間に馴染んでいるし、格差指数、人権指数、平和度指数、幸福度数などで国別に順位をつけられると熱くなる有識者は少なくない。そして、あの国よりはマシよ!などと慰める。人間は、国際標準ってやつに弱い。自由や平等の量、正義や道徳の度合いで順位がつけられるとは到底思えないが、確かに面白い試みではある。
はたまた企業価値に目を向ければ、資産価値の評価で流動資産と固定資産とで区別され、無形資産なんて名目もある。固定資産は減価償却の手法で残存価値を決定するわけだが、事実上、使い物にならない資産もあれば、償却済みでも愛用され続ける資産もある。つまり、会計上の問題でしかない。投資家が重視するのは、目に見えて分かるキャッシュフローの方であろう。いずれにせよ、数値化の罠に嵌らないようにしたい。
実際、生産における限界費用や労働賃金が限りなくゼロになっても経済が成り立つという現象がある。フリー経済では、貨幣に依存しない価値の創出が見られる。労働量の概念はリカードの時代とは、だいぶ違うようだ...

3. 地主と地代
そもそも地代とは、どこから生じるのだろうか?ロビンソン物語のように、所有権の存在しない時代、ここは俺のものだ!と言って柵を作った者が編み出した概念か。そして、第三者が土地を使用したければ、地代を払え!ってか...
地代は、しばしば利子と混同されるという。確かに巷では、みかじめ料ってものがあると聞く。あるいは、土地の登記には時効の概念があり、使用者が事実上の所有者になりうるとすれば、所有権が減価償却されるようなものか。
本書は、土地の生産性の違いで、地代が生じるとしている。安価で生産性の高い土地で生産する方が有利であることは確かで、地代が利子の代わりを演じているようにも見える。途上国で穀物を生産すれば、賃金も安いし生産合理性が高い。本土の地主を優遇する税制は、労働賃金の高騰によって市場価値を歪めることになりそうだ。

2015-07-19

"ロビンソン・クルーソー(上/下)" Daniel Defoe 著

童心に返りたいという願いは、ガリヴァーの冒険物語(前々記事)を試してもダメ!アリスのファンタジー物語(前記事)に縋ってもダメ!いまや魂は根腐れを起こし、悪臭を放ってやがる。そして、ロビンソン物語でダメを押すことに...
とはいえ当初から、政治的、経済的、宗教的な意味合いが強いことは承知していた。多くの経済学系の書で扱われ、ロビンソンの人物像を経済人の特徴と重ねているのだから。実際、無人島から生まれる経済観念は、偉大な哲学者たちが唱えてきた「自然状態」から生起する人間学を物語っている。おまけに、ジャーナリストらしい社会風刺を効かせ、精神破綻者には却って心地良い。ロビンソン物語は、ダニエル・デフォー自身を経済人の原型になぞらえ、彼自身の倫理観、社会観を語った作品と言えよう。
尚、本書は平井正穂訳版(岩波文庫)であり、第一部「ロビンソン・クルーソーの生涯と冒険」、第二部「ロビンソン・クルーソーのその後の冒険」が収録される。さらに、第三部に「反省録」というものがあるそうな。ほとんど研究者しか読まない代物らしい。そこには、こう綴られるという。
「物語があってそこから教訓が作られるのではなくて、教訓があってそこから物語は作られてゆく...」

人間の知は、好奇心に支えられている。自分自身が素直に劣っていることを認められるからこそ、何でも問いかけられる。子供が最も素朴な哲学者と言われる所以だ。好奇心のないところに知識を詰め込んでも、思考の柔軟性が失われる。こうした原理に大人も子供もないはずだが、大人ってやつは実に脂ぎった社会の生息物で、虚栄心や羞恥心の塊と化す、ある種の変異体とでもしておこうか。報酬や名声といった見返りがなければ、何もできないのだから。それでもなお差し迫った危機に遭遇すると、緊迫感の中から好奇心を覚醒させることがある。好奇心と緊迫感は、冒険にはどちらも欠かすことのできない情念だ。最も大事なことは人生を楽しむこと、その過程において希望も絶望も欠かすことはできない。そして、放浪癖旺盛なロビンソンの人生訓がこれだ。
「それ自体として当然必死になって避けようとする災がある、もしそれに陥ったがさいご、命取りにもなりかねまじき災だ。ところが、じつはそれがまさしく救いの道であり、現在の苦難から抜けでる唯一の手段であることが、人生途上、いかに多いことか...」

どんなに飢えようとも、どんなに窮地に追い込まれようとも、けして人間としての誇りを忘れない... ということが如何に困難であるか。飢餓や蛮人の恐怖に晒されると、何をしでかすか分かったもんじゃない。異民族や異教徒を野蛮人やバルバロイなどと呼ぶ習性は、どこの社会にも歴史的に見て取れる。はたしてどちらが野蛮なのやら。恐怖心という盲目的な感情は、臆病どころか、敵対心を煽り、ますます攻撃性をます。あらゆる残虐行為は、恐怖心の慰めから発すると言ってもいい。
ロビンソンは、宗教に頼ることなく自然な信仰を発し、神なき孤独から神ある孤独へと導く。そして、神の意志に従うことで義務を生起させ、そこに慣習が生まれる。孤島の生活では時間は余るほどあり、ゆっくりと人生の意義を考えることができ、根気のいる仕事も徹底的にやれる。天文に通ずるもよし、聖書を究めるもよし。天の配剤とは、退屈病から発するものであったか。哲学とは、まさしく暇人の学問!そして、人生の意義を、自給自足、自立、自律に求めずにはいられない。これが自由精神の源泉であろうか。
また、日記をつけることにも、大きな意義を与える。過去の記録が自分を慰めるための手段となるならば、歴史を残すのも人類の慰めであろうか。こうしてブログを書くのも、自慰行為に過ぎない。
ロビンソンは、あらゆる仕事や経験、あるいは人間関係や人間的成長など、すべての貸し借りを対照的に記録していく。そして最後に、自分の人生はプラスであったかマイナスであったかを問い続け... 72歳にしてようやく放浪癖がおさまり、平和裡に生涯を閉じることの有難味を知ることができた... と締めくくる。なるほど、貸借対照表とは、人生における善悪の総決算、すなわち、神の審判を仰ぐための報告書であったか。帳簿の誤魔化しは自分自身を欺くことであり、なによりも人間的成長を妨げることになる。これが帳簿の意義というわけか。
では、人間社会で義務と呼ばれるものは、自然の義務に適っているだろうか?社会で常識とされるものは、自然の常識に適っているだろうか?はたまた宗教が唱える神は、宇宙論的な存在と言えるだろうか?近現代社会は、経済的合理主義を旺盛にしてきた。しかしそれは、人間的合理性に適っているだろうか?人間の不幸のほとんどは、自然が定めた境遇に満足できないことにあるのでは... 本物語は、こうした問題をつきつける。
「私にとっては神とか摂理とかいうものはまったく問題にはならなかった。そしてただ自然の理にしたがい、常識の命ずるがままに一個の動物として行動したにすぎなかった。それさえも、はたして常識といえるものであったかどうか怪しいものであった。」

1. デフォーの描く理想郷
ここには、普遍的な宗教観を共有した理想郷が描かれる。無人島には、やがて蛮人、スペイン人、イギリス人が次々に来訪し、人間社会が形成されていく。あまり信仰的でなかったロビンソンが信仰に目覚めていき、その統治下で、異教徒、カトリック、プロテスタントが共存するという構図。宗教の本来の姿は、寛容性と言わんばかりに...
実際、デフォーはカトリック的な高教会派(ハイチャーチ)に対する批判分子で、民権派として投獄された。さらに、メキシコやペルーにおけるスペイン人の残虐行為について、世間が何と言おうとも、ここのスペイン人たちは行儀よく控え目な連中と語り、あえてイギリス人に悪役を与えている。人間の横暴さは、民族に関係ないと言わんばかりに...
その一方で、この時代にあって西洋中心主義が強いことも確かで、その性格は第二部でより鮮明となる。改宗されたアメリカ大陸の蛮人は、馴染みやすい、いや扱い易いってか。対して、改宗されないシナ人を無知な奴隷、軽蔑すべき群集に過ぎず、そうした連中しか治める能力のない政府に隷属するとしている。後に、中国大陸が列強国の切り取り自由とされるのを、予感したような記述である。
さらに、植民地政策を批判しながら、植民地主義の正当性を唱えている。つまり、やり方次第ってか...

2. ロビンソン・クルーソーの生涯と冒険 (第一部)
三男坊で自由気ままなロビンソン。父親が法律家にしようとしたが、反発心旺盛で、おまけに、放浪癖に憑かれている。ロビンソンは船乗りになって海外へ渡航。そして、海賊船に襲われ、ムーア人の港サリー(モロックのサレ)に連行される。ムーア人の主人は、度々魚釣りにロビンソンをともない、隙を見てボートを盗んで、奴隷の少年ジューリと共に逃亡。黒人奴隷を買いにギニア方面へ向かっていたポルトガル帆船に出会い、助けられる。ロビンソンは、ジューリを船長に譲る。ブラジルに到着すると、船長から農園と製糖所の経営者を紹介してもらい、未開墾地を買い込んで農園経営を始める。
呪われた航海は、1659年のこと。農園経営を拡大するために奴隷を求めてアフリカを目指す。ところが、大暴風に見まわれ遭難。ブラジル北部のオリノコ河近辺に流され、浅瀬にのりあげ航行不能となる。船員たちは積んでいたボートに乗り移るが、大波で転覆し、ロビンソンだけが助かり陸地に漂着。座礁した船は沈まなかったので、船内の食糧や武器などを陸揚げする。
ロビンソンは、この島を「絶望の島」と呼ぶ。だが、不幸な境遇を悲しんでも仕方がない。神は臆病者が嫌いだ。猛獣に喰われるか、蛮人に殺されるか、それとも餓死するか、そんなことは知らんよ。今を生きるために運命なんぞにかかわっている暇はない。
まず、生活圏を確保するために柵をこしらえる。不毛な無人島であることを知れば、そんな必要もないが。人間ってやつは、外敵に対する恐怖心と緊張感によって、あらゆる知恵を絞り出そうとする。雨に濡れれば屋根を作り、洞窟などの自然の要害を探し、獲物を得るために生息の特徴を調査し、野生の動物を飼いならし、火を焚くための燃料を求めたり。何もないということは、究極の自由を謳歌する材料が整っているという見方もできる。あのお笑い芸人が口にする、生きてるだけで丸儲け!とは、こうした境遇を言うのであろうか。
ロビンソンは、良い点と悪い点を整理していく。借方と貸方の概念は損得勘定を基盤にしているが、なにも金勘定に囚われることもあるまい。
「どんな悲境にあってもそこには心を励ましてくれるなにかがあるということ、良いことと悪いこととの貸借勘定ではけっきょく貸し方のほうに歩があるということ、これである。」

船の積荷には、ペン、紙、コンパス、製図器械、日時計、望遠鏡、海図、航海術の本、聖書など、これらがどう役に立つかは分からないが、少なくとも希望の材料となる。ロビンソンは、すっかり聖書研究者となった。途方もない時間の中で労力と辛抱が試され、その試行錯誤の末、到達できる境地というものがあるのだろう。
「理性が数学の本質であり根源である以上、すべてを理性によって規定し、事物をただひたすら合理的に判断してゆけば、どんな人間でもやがてはあらゆる機械技術の達人になれる。」
仕事をやっていれば、なにかしら不足しているものが見えてくる。話し相手がいなければ、動物や神が相手となる。自分を生かしてくれた神の思惑とは何か?これを問い、その有り難さに感謝の念が生まれる。狩猟で獲物に出会えれば大地に感謝し、穀物の栽培がうまくいけば天空に感謝する。信仰の源泉とは、自然や偶然に対する感謝からきているようだ。ただ、自然に対する感謝が神に対する感謝へと変貌した途端に、人間の願いは横暴となる。神を自然の代理人に仕立て上げ、おまけに万能者とするから、いくらでも都合のよい形に想像を膨らませる。
ここにあるものすべてが自分のものだ!自分は島の王だ!所有権とは、自信のない所有物に対して主張するものであろうか。他に所有権を主張する者がいなければ、そんな概念は不要だ。所有や権利ってやつは、自己満足に過ぎないというわけか。
そして、一年が過ぎる。雨季と乾季があることを知り、太陽の位置を定めて季節に応じた準備をする。大麦と米の穂を保存し、種まきの適当な時期を調べ、穀物の栽培にこぎつける。食糧の安定確保が、まずもっての課題である。刈入れ、貯蔵、運搬、脱穀、籾殻をとるための道具をこしらえ、パンの作り方を忍耐強く会得していく。経済状況が常に右肩上がりであれば、どんなに絶望しても、希望を持ち続けられる。

ここに住みついて18年にもなるが、人影を見たことがない。だがある日、人間の裸足の足跡を見つけ、愕然とする。あれほど孤独を嘆いていたのに、今度は恐怖に駆られるとは。慣習とは怖ろしいものである。
「恐怖心にかられると、人間はなんと馬鹿げたことを考えるものであろうか。一度恐怖心にかられると、万一に備えてかねてから理性が考えていた救いの手段はまったく用をなさなくなってしまうのだ。」
23年目のこと、海岸に焚火の灯りが見える。やはり人間がいた。望遠鏡で見ると、裸の蛮人たちが饗宴をやっている。ロビンソンは、人肉を料理するための火に違いないと殺意に憑かれる。未知の人種を見れば野蛮人と決めつけ、恐怖し、勝手に敵対心を抱く。それは、自分自身が野蛮である証拠だ。しかも、奇妙な暗示にかかっていることにも気づかない、おめでたい存在ときた。ロビンソンは、蛮人たちを撃退するが、同胞が欲しいとも考えている。蛮人の一人ぐらいなら奴隷にして、意のままに使いこなす自信もある。
ところが、今度は丸木舟が五隻もやってきた。敵は、20人から30人ってところか。蛮人たちは火を焚いて、野蛮な踊りを始めた。二人の男が引きずられ、早々一人が殺される。もう一人は、一目散にこちらへ向かって逃げ出した。蛮人たちが弓矢を射かけようとすると、発泡して撃退。ロビンソンは25年もの間、人の声を聞いておらず、感慨に耽り、彼にフライディと名づけた。金曜日に出会ったという意味。そして、言葉を教え、宗教を教え、フライディは忠実な従僕となる。彼から島の周辺情報を聞くと、二人で丸木舟を造って島から脱出を計画する。
そんな時、6隻の丸木舟がやって来た。蛮人たちは捕虜の肉を喰っている。二人はマスケット銃で奇襲して、撃退する。丸木舟にはスペイン人の捕虜の他に、なんとフライディの父親が捕まっていた。フライディは感慨深さに浸る。
こうなると、もはや無人島ではない。絶対的支配者ロビンソンの下に、プロテスタントに改心させた従僕のフライデイと異教徒の父、カトリックのスペイン人という社会構成。そう、プロテスタントを最高位に置いた理想郷というわけだ。彼らの情報から、本土で白人が囚われていることを知ると、フライディの父とスペイン人に命じて救出に向かわせる。

二人の帰りを待つロビンソンとフライディであったが、ちょうどイギリス船が近づく。イギリスの貿易路はかなり離れているはずだが、なぜこんな所に?フライディが密かに探ると、乗組員の叛乱にあって、船長ら三人が捕虜になっている。一人は航海士、一人は船客。そして、ロビンソンらをイギリスまで無料で乗船させることを条件に、君らを助けようと持ちかける。この事前取引は、いかにも経済人らしい。そして、船を乗っ取ることに成功し、叛乱者を投降させる。イギリス人の叛乱者たちは、このまま故国に連行すれば死刑になるは必定。しかも、大勢の捕虜を抱えたままの航海は危険。そこで、叛乱者たちを自由の身にし、スペイン人と共に孤島へ残していくことに。ロビンソンは、狩猟や穀物の栽培など、島での生活方法を伝授する。
ロビンソンがイギリスに帰国したのは、1687年のこと。既に父も母も亡く、他の家族も死に絶えていた。もう死んだものと思われていたので遺産もない。船長が船主たちに、命を救ってくれたことを感動的に語ってくれたおかげで、資金を提供してくれた。アフリカ沿岸沖で助けてくれたポルトガルの船長とも再会。ブラジルの農園管理者は既に亡く、収益は改宗者の施設や慈善事業にあてられていた。今度こそ故国に定住しようと決意するが、やはり放浪癖は治らない。孤島に残してきたスペイン人や悪党たちは、どうなったかと...

3. ロビンソン・クルーソーのその後の冒険 (第二部)
もう61歳、すべてに満ちた平和と幸福な生活を7年間ほど過ごす。唯一放浪癖を鎮めてくれるのは妻の存在だったが、妻に先立たれれば、心の拠り所を本性に求めるしかない。一度知った自由の味は、麻薬のごときもの。島の残酷な様子を夢で見れば、現実を見るまでは、心の中ではそれが真実となる。
ついに、フライディをともなって航海へ。カナダから故国へ向かうフランス商船が遭難しているのを発見すると、かつてポルトガル船に拾い上げられた境遇を思い出す。今度は、自分が助ける番だ!親切心の源泉は、お返しという本能的な義務感のようなものであろうか。だが、親切心が行き過ぎると、押し付けがましい宗教に変貌するから御用心。
救出した人々を無事退船させ、いよいよ西インド諸島へ向けて出航したのが、1694年。今度は、イギリス船が遭難しているのを発見。飢えきって、衰弱しきって、完全に自制力を失っている。死の断末魔の苦悶にあえぐ者あり、ほとんど錯乱状態にある。飢餓ほど人間を残酷なものにするものはないのかもしれない。そして、あの島に到着したのが、1695年。懐かしいスペイン人やフライディの父の姿を見る。

島に遺された連中は、その後の様子を語った...
老フライディとスペイン人の二人は、本土で仲間を助けだし、島に戻ると、悪党どもがいるのに驚愕する。イギリス人の悪党どもは、ロビンソンの命じた通り、手紙と指示書を託し、それをスペイン人に渡した。当座は、仲良く過ごす。リーダ格のスペイン人と老フライディが協力して、万事をうまく処理していた。
ところが、イギリス人たちは怠け者で、夕食の時間に戻ってくるという有り様。やがて喧嘩を始め、イギリス人の悪党どもは残忍な行為に及ぶ。悪党どもは、俺達が総督から島を譲り受けたと主張する。だから、他の者は土地を利用する権利がないと。家を建てるなどもってのほか、地代を払えというわけだ。互いに生きてはいけない境遇にあれば協力し、少しでも余裕ができれば紛争の種となる。人間の悲しい性よ。真面目に働く者が収穫を得る毎に、嫉妬が膨らみ、敵対心となる。悪党どもは、荒削りの船乗り気質をむき出しにする。子供は問うだろう、地球はみんなのものなのにどうして土地は地主のものなの?と...
人間は、なんでも自分のものと勘違いした時に横暴となる。所有権とは、人間社会が生み出した反自然的な概念であろうか。となれば、力づくで自分のものにするまでよ!
ある日、大勢の蛮人がやって来た。リーダ格のスペイン人は、気配を感じさせないように潜むことを命じる。この島の伝統は、ロビンソン以来、蛮人たちが自然に去っていくことで解決してきた。蛮人たちは、二つの集団で戦争をしていた。イギリス人の悪党どもは、捕虜を捕まえ、奴隷にする。ロビンソンがフライディにしたのとは逆に、知識を教えることなく、理性の原理で導くこともしない。再び島に危機が生じても、奴隷が味方になるわけもない。
ついに、その横暴さに我慢ならないスペイン人たちと乱闘になり、イギリス人たちを捕まえた。さあ、処分をどうするか?一人を見せしめに殺すという意見が多数だが、リーダ格のスペイン人はそれを許さない。猶予を与え、誓いをたてさせ、今度、農場や家や柵を荒らし、横暴な行為をすれば、即刻射殺することで同意。そして、彼らと縁を切り、追放した。
ある日、女性たちを捕虜にしたイギリス船が到来。彼女らを助け、妻にするために物色する。今度は妻という名の奴隷か。
やがて、この島に人間が住んでいることが、本土の蛮人たちの知るところとなり、50人の大勢で上陸してきた。鉄砲で応戦すれば、姿が見えない敵に対して、銃声だけで人が死んでいくのに、蛮人たちは混乱する。魔術か!蛮人は、すっかり意気喪失。老フライディが捕虜に交渉を持ちかけ解き放つ。危害を加えないと保証すれば、穀物やパンを提供すると約束して。蛮人たちは、丘の斜面にとどまるように命じると、その区画からけっして出ない、約束を忠実に守る連中であった。
生活方法を伝授し、小枝細工の作り方などを教えていくうちに、平穏な社会へと導かれ、すっかり改宗させていく。イギリス人の悪党どものリーダ格までも、勤勉で、働き者となっていく。仕事に生き甲斐を見つければ、つまらぬ粗暴に走ることもない。宗教的な教義よりもはるかに効果があるようだ。
... その話を聞いて、島の父と崇められるロビンソンは、ある種の共和国が完成したことを知ったのだった。

ロビンソンは、島の所有権を主張するつもりもなければ、住民を統制せず、自然のまま放置して立ち去る。だが、島の繁栄に安堵してもなお満足できず、再びブラジルへ航海する。その途中126隻もの丸木舟に遭遇し、フライディは蛮人の矢を浴びて死ぬ。
「生涯におけるある特定の境遇を自分独力で選びうるといわんばかりに、自らの判断力に自惚れることは、賢い人のとるべき道ではない。人間は目先のきく存在ではなく、眼前僅かの所までしか見ることをえない。情念は人間の最善の友ではなく、特定の感情が最悪の相談相手となることも多い。」
さらに、喜望峰を通って東インド諸島へ。まずは、マダガスカル島に寄港。当初、原住民は休戦協定を結び友好的だったが、ちょっとした挑発行為で戦闘に巻き込まれる。黄金が出るというデマに踊らされた夢想の輩が群がり、船員たちは悪鬼へと変貌。個々では理性的に振る舞うことができても、集団性が人間を悪魔とさせる。しかも、それに気づかない。異教徒、野蛮人と呼称するだけで、どんな残虐行為も正当化できるとは。ロビンソンは、この出来事を「マダガスカルの虐殺」と記す。
「オリヴァ・クロムウェルがアイルランドのドローエダを占拠して、男や女や子供を殺したことはすでに聞いていた。ティリー伯がマグデブルグ市を劫掠して男女あわせて二万二千人を殺戮したことも本で読んでいた。だが、この時まで、そういったことが果たして事実か思いもつかぬことであった。」
ペルシャ港へ寄港すると、マダガスカルの出来事で船員たちと口論となり、一人置き去りにされる。数人の貿易商と友好を温め、船を入手し、船員を雇い入れる。そして、スマトラ島からシャムへ行き、商品の一部と阿片やアラック酒と交換。阿片はシナで非常に高価で取引され、大儲けする方法を知る。さらに、フィリピン、モルッカ諸島を往来して大儲け。もはや麻薬行商人というわけだ。後の阿片戦争の火種がくすぶる。ヴァタビア、マラッカ海峡、ベンガル、このあたりは、オランダ、ポルトガル、イギリスの商船が入り混じり、現地の海賊船が絡む無法地帯。商船といえども武装しており、互いに海賊と罵り合う。ロビンソンの船は、コーチシナ人の船に拿捕され、台湾方面へ北上し、さらに中国大陸に上陸。大都市北京の様子は、ロンドンとパリを合わせても及ばない活気ぶりで、シナ人をキリスト教へ改宗させることの難しさを記す。

さらに、駱駝と馬の一行で内陸部へ進出し、韃靼(タタール)人とシナ人の間の緊迫した国境を越え、モンゴルを横断。シナ人が要塞化したナウムの街を蒙古人が襲撃した歴史を、案内人が説明する。モスクワ帝国のツァーリに隷属する最初の街アルグンに到着すると、やっとキリスト教圏に入ったことに安堵する。しかし、生贄を捧げる野蛮人よりも野蛮な行為を見る。ギリシア正教に属すキリスト教と称しているが、その実は迷信の威風を数多く留め、妖術や魔法と区別ができない。ロシア正教会の風刺だが、偶像崇拝が悪魔礼拝よりもましかは知らん。そして、エルベ河を渡って帰還。
「今まで経験したあらゆる旅よりももっと長途の旅に出る準備をしている。私は七十二年という、さまざまな波乱にみちた生涯をおくってきた。そして、隠退するということの価値も、平和裡に生涯を閉じるということの有難味も充分知ることができたつもりである。」

2015-07-12

"不思議の国のアリス" Lewis Carroll 著

童心に返る試みは、ガリヴァーの冒険物語で半ば失敗した(前記事)。今度は、アリスのファンタジー物語に縋る。この物語には、いつまで純粋な子供心を持ち続けることができるか?という問い掛けが秘められている。しかしながら、知識のなかった頃の自分をどうしても思い出せない。理性的に振る舞ったところで、心の中ではまったく違うことを思ってやがる。悪智慧や悪徳を知った今、もはやエントロピーの法則には逆らえない、ということか...

ルイス・キャロルこと、本名チャールズ・ラトウィッジ・ドジソンは数学者としても知られ、多くの理工系の書で紹介される。数学の心はパズルのような遊び心から発する。そして、数学は哲学である。アリスの冒険物語は、まさに言葉遊びに潜む哲学の妙技を魅せつける。
ルイス・キャロルの作品は、言葉の音調を大切にしているために、原書を読まないと充分に楽しめないという評判がある。むかーし、これを題材にした英会話セミナーに参加したことがあり、なるほどと感じたものだ。
子供は大人の言葉遣いや仕草を真似しながら物事を覚え、音韻との戯れが洒落の世界へいざなう。さらに、本書は翻訳版ならではの言葉遊びを魅せつけ、駄洒落の世界へいざなう。
例えば... ずぶ濡れの身体を乾燥させるために熱気あふれる政治演説が始まると、無味乾燥!と吐き捨てたり、ネズミは返事の代わりにチューしたり、年寄りの先生をティーチャーだから茶々と呼んだり、ウサギをばらして憂さ晴らしやら、そして、難しい哲学問答には、時間の無駄!と一言で片付け、ガキの直感力を魅せつける。おまけに、ニヤニヤするネコはニャーニャーとは鳴かないらしいし、カエルそっくりの召使はケロッとしているらしいし、魚そっくりの召使はギョッと驚くかは知らん...
ちなみに、あるバーテンダーは「酒に落ちる」と書いて「お洒落!」などと能書きを垂れていたが、棒が一本足らんよ!
それはさておき、著名な作品の中には、翻訳版からヒントを得て、第二版で更に洗練された作品に仕上げる、といった現象を見かける。原作が素晴らしいからこそ、翻訳者が釣られるということもあろう。本書の場合は、原作者と翻訳者で生きた時代が違うものの、それでもコラボレーションの妙技を魅せつける。
尚、数多い翻訳版の中で、河合祥一郎訳版(角川文庫)を手にとる。

「不思議の国のアリス」は、学寮長リドルの次女アリスのために書き下ろした物語が原型になっているという。狂っていると噂される三月ウサギに会いに行く時、もう五月だからそれほど狂っていないかもと言い、時間に呪縛された帽子屋さんに今日は何日かと訊ねられると、四日と答えるところから、この物語は五月四日ということになる。実在するアリス・リドルが1852年5月4日生まれで、この物語は誕生日プレゼントというわけだ。ルイス・キャロルは、少女のまま大人になってくれるよう思いを込める。
「見るもの聞くもの奇々怪々... 鳥や獣とお喋りはずむ... 語り手疲れて、もう限度... おそるおそる口にしてみる、続きは今度!すると声を合わせて、今が今度!楽しげな声が禁じる、THE END...」
好奇心こそ冒険心の原動力!それでいて、アリスはいつも人の役に立ちたいと願っている。だが失敗する度に、おうちにいる方が、ずっとよかった!と後悔のくり返し。それでも懲りない子供心。
寝床では、夢物語を永遠に語らせようとする子供の目を振り払うのは難しい。では、大人になったらどうだろう?なぁーに、より具体的な仮想空間に脂ぎった欲望を結びつけるだけのことよ。その証拠に、夜の社交場では、もう一杯とねだるホットな女性の目を振り払うのは難しい...

・第一章 ウサギの穴に落ちて
お姉さんが本を読んでいる側で、アリスが退屈していると、白ウサギが、遅刻だぁ!とつぶやきながら目の前を駆け抜けていく。好奇心旺盛なアリスは、ウサギが巣穴に飛び込むところを見ると、それを追って飛び込み、深い穴を落下していった。着いた所には、細長い広間があって、ドアが並び、すべて鍵がかかっている。片っ端から開けてみようとするが、どれもダメ。途方に暮れるアリスは、テーブルの上に小さな金色の鍵を見つける。それが小さなドアの鍵とピッタリ。ドアの先はネズミの穴ぐらいの通路で、覗きこむと素敵な庭が見える。さらに、テーブルには小瓶が置いてあり、「わたしをお飲み」と書いてある。それを飲むと、身体がみるみるうちに縮み、通路が通れるほど小さくなった。しかし、鍵をテーブルの上に置いたままで、今度は鍵が手に届かない。すると、テーブルの下に小さなガラスの箱を見つける。中にはケーキが入っており、「わたしをお食べ」と書いてある。

・第二章 涙の池
ケーキを食べると、地面が見えなくなるほど足がのびていき、頭が天井にぶつかる。寝そべって片目で庭を覗くことぐらいしかできず、アリスは泣き出す。そして、大量の涙を流し、広間には池ができた。そこに、めかしこんだ白ウサギが戻ってくる。革手袋と大きな扇子を持って。アリスが話しかけると、ウサギは驚いて手袋と扇子を落として走り去った。広間が暑かったので扇子で扇いでいると、身体が小さくなっていく。今度こそ庭へ行けるかと思いきや、またしてもテーブルの上の鍵が届かない。飲んじまったジュースは胃袋の中!喰っちまったケーキは胃袋の中!今度は、涙の池に溺れそうなほど浸かっている。池にはネズミや鳥獣たちが池に落ちてきて、ごったがえしていた。アリスが岸にあがると、ぞろぞろと続いてくる。

・第三章 党大会レースと長い尾話(おはなし)
さしあたっての問題は、ずぶ濡れの身体を乾かすこと。みんな風邪をひきそう。偉そうなネズミは、熱気あふれる演説を始めた。
「ローマ法王にその義を認められたウィリアム征服王に、やがてイギリスの民も恭順の意を示した。イギリスの民は指導者がいなかったため、侵略や征服の憂き目に遭っていた。マーシア伯爵とノーサンブリア伯爵であるエドウィンとモーカーは、征服王を支持した。愛国的なカンタベリー大司教スティガンドさえそれを得策と見てとって、ウィリアムを迎えて王冠を授けた... ウィリアム王の行動は当初おだやかなものであったが、ノルマン兵たちの無礼さは...」
アリスは、ちっとも乾かない!無味乾燥!と吐き捨てる。ドードー鳥は、難しいことじゃ解決できない、単純な党大会レースが一番!と叫ぶ。それは、円のコースを描いてひたすら走るというもの。よーいドン!もなく、好きな時に走りだし、好きなときにやめる。レースというからには誰が勝ったのか?みんな勝ったのじゃ!党大会とは、勝手に喋りまくって、内容も堂々巡りというわけか。
騒ぎが収まると、みんなが輪になって座り、ネズミにもっと話を聞かせてくれと頼む。ネズミは、いまだに尾を引いている悲しい話を始める。アリスは、ネズミの長い尻尾に惚れ惚れし、どうして悲しい尾なのか?分からない。ネズミさんはネコとイヌが怖いんだとさ。アリスは、自分が可愛がっているネコの話を始めた。ネズミを捕まえるのが上手で、小鳥を食べちゃう!なんて言ったもんだから、鳥獣たちは逃げ出し、ひとりぼっちになった。

・第四章 ウサギのお使い、小さなビル
そこに、やって来た白ウサギが何やらつぶやいている。死刑にされちゃう!裁判官は、ウサギをばらして憂さ晴らしってか。ウサギの探しものは革手袋と扇子。アリスはお手伝いさんと間違えられ、ウサギの家からそれを取ってくるよう命じられる。
アリスは、家の中に小瓶があるのを見つけると飲んでしまう。すると、身体がみるみるうちに大きくなり、天井に達して身動きができなくなる。ウサギが家に戻ってくるとドアが開かない。馬鹿でかいアリスが家の中にいるとは知らず、トカゲのビルを使って追い払おうとするが、うまくいかない。ついに家を焼き払おうという声が。外から投げ入れられた小石がケーキに変わり、それを食べると身体が小さくなった。アリスは、やっと家から出られ、森へと逃げていった。
森では巨大なイヌと出会い、じゃれてくるものの、押し潰されそうになる。さしあたっての問題は、身体の大きさを元に戻すこと。何かを食べたり、飲んだり、しなくっちゃ!しかし、何を?ちょうど、キノコの上に座ってキセルを吹かす青虫と目が合う。

・第五章 青虫が教えてくれたこと
青虫は訊ねた。あんた誰?
「よく分からないんですけど、今のところは... 少なくとも今朝起きたときは自分が誰だか分かっていたんですが、それから何度も変わってしまったみたいで... その自分が分からないんです。わたし、自分じゃなくなっているんです。」
このフレーズは、大人が語ると、高度な哲学をやっているように映るだろう。見かけの大きさが変わっているだけで、急に大人になったり子供になったりしているわけではない。もちろん精神が成長しているわけでもない。歳相応に、ちゃんとしろ!と説教されたところで、そう変われるものではない。
青虫は訊ねる。どのくらいの大きさに戻りたいのかね?つまり、どのくらい大きな人間に、どのくらい精神を成熟させたいのか?とも解釈できる。世間には、もう少し背がほしいやら、もう少し美しくなりたいやら、もう少し賢くなりたいやら、で溢れている。そして今、自分にあんた誰?って問うてみても、よく分からんよ!
青虫はキノコの効用を教える。一方をかじれば大きくなり、もう一方をかじれば小さくなると。一方とは、どっち?なかなかの難問だ。人生とは、まさに試行錯誤の中にある。少しかじると、顎が足に押し付けられるほど身体が縮み、もう一方をかじると、肩が見えなくなるほど首がひょろひょろと長くなる。そして、ハトにヘビと間違えられる。ヘビじゃない、女の子です!と言っても、ハトは信じない。ハトは訊ねる。卵を食べるか?やっぱり食べるじゃないか。それとも、女っていうのはヘビみたいなものか?
アリスはキノコの両端をかじりながら、なんとか大きさを調整し、一件落着!そして、森の中を歩いていると小さな家を見つけ、住人を驚かさないように小さくなる側のキノコをかじって家に近づく。

・第六章 ブタとコショウ
そこは、魚そっくりの召使とカエルそっくりの召使のいる公爵夫人の家。アリスを見ると、魚そっくりの召使はギョと驚き、カエルそっくりの召使はケロッとしていたかは知らんよ。家の中では、公爵夫人が赤ん坊をあやし、料理人はスープをかき混ぜている。部屋中にコショウが漂い、公爵夫人はくしゃみをし、赤ん坊はその度に泣き出す始末。くしゃみをしないのは料理人とネコだけ。料理人は手当たり次第に、公爵夫人と赤ん坊に物を投げつける。なんと騒がしい家だろう。公爵夫人は言う。
「みんながよけいなおせっかいを焼かなければ、世界は今よりずっと速くまわることになるだろうよ。」
公爵夫人はチェシャーネコと呼ぶ。cheshire... 意味もなくニヤニヤ笑うということらしい。ニャーニャーと鳴いてうるさいよりましってか。ブーブー泣く赤ん坊をブタと呼ぶ。ブーブーと文句を垂れるのはブタどもってか。そして、アリスが赤ん坊をあやそうとすると、見る見るうちにブタの姿に変わり、森の奥へ走り去った。
ネコはニヤニヤしながら、アリスにどこへ行きたいか?訊ねる。アリスはどこかへ着ければいいと答える。目的なしの好奇心ほど教訓めいたものはあるまい。
ネコは、あっちは帽子屋が住み、こっちは三月ウサギが住み、どっちも狂っていると教える。アリスは、狂っている人のところへは行きたくないと言うと、ここじゃみんなが狂っていると答える。俺も、君も。アリスは自分は狂っていないと反論するが、狂ってなきゃ、こんな所には来ねぇよ。では、ネコのあなたは、なぜ狂っていると分かるのか?まずイヌは狂っていない、怒ると唸り、嬉しいと尻尾をふるから。ところが、俺は嬉しいと唸り、怒ると尻尾を振る。喜怒哀楽が逆転するのは、まさに大人の世界。本音と建前をうまく使い分けなければ、生きてはいけない。
アリスは帽子屋さんは見たことがあるので、三月ウサギの所へ行く。五月だから、それほど狂っていないかもしれないと。ネコは、急に姿を出したり、消えたりする特技を持っている。アリスは驚かさないで!と頼むと、ニヤニヤ笑いだけを残す。ニヤニヤ笑いなしのネコは見たことがあるけど、ネコなしのニヤニヤ笑いってのは初めて!実体がなく、抽象論で煙に巻くのが哲学の常套手段ってか。

・第七章 おかしなお茶会
三月ウサギの家では、大きなテーブルを囲んで、ウサギと帽子屋がお茶会をしている。二人の間にはヤマネが眠っていて、クッション代わりにされている。そして、謎かけが始まる...
席は空いてないよ!たっぷり空いているじゃないの!ワインをどうぞ!でも、お茶しか見当たらない。ないものを勧めるなんて失礼!いや、招かれもしないのに座る方が失礼!
さて、謎かけは...「大ガラスとかけて書きもの机と解く、その心は?」
答えられるなら、思ったことを言ってくれなきゃ!言ってるわよ!少なくとも、言ったことを思ったんだもん、同じことでしょ!ちっとも同じじゃない。食べるものが見えると、見えるものを食べるが同じか?手に入れたものが好きと、好きなものを手に入れるが同じか?眠るとき息をすると、息をするとき眠るが同じか?結局、謎かけの答えは???
これは... 人間は死ぬ、ソクラテスは人間である、ゆえにソクラテスは死ぬ... の類いであろうか。三段論法批判と解するのは行き過ぎであろうか?哲学問答などと大袈裟に吹聴したところで、駄々っ子と大して変わらない。ヤマネが熟睡するのも道理である。
ところで、三月ウサギは、三月に時間さんと喧嘩したという。ハートの女王陛下が催したコンサートで、歌の調子が外れて、時間を殺害しておる!首をはねよ!と命じられた。時間さんは、何をお願いしても聞いてくれない。だから、いつまでも6時のままで、お茶しか用意されないとさ。つまり、三月から時間に幽閉されたウサギというわけだ。時間ってなんだろう?時間さんに話しかけたことすらない!アリスは時間の無駄と吐き捨て、その場を去る。ガキの直感、恐るべし!
次に、一本の木にドアがついているのを見つけ、入ってみると、あの細長い広間に出た。今度こそうまくやろう!小さな金色の鍵をとって、庭に続くドアの鍵を開けた。そして、キノコをかじって背丈を小さくし、通路をくぐり抜けると、やっと美しい庭へ到達した。

・第八章 女王陛下のクロッケー場
トランプの四隅に手足のついた庭師たちが、相談している。赤い薔薇を植えなければならないところを、間違って白い薔薇を植えたもんだから、女王陛下に見つかると首が飛ぶって。そこに、ハートのマークのついた兵隊、廷臣、賓客、そしてジャックとキングの行列が通りかかる。いつも、首をはねよ!と命じる女王陛下。アリスは庭師を匿って植木鉢に隠す。アリスは、クロッケーに参加するよう命じられる。そこに白ウサギが近寄ってきて、公爵夫人が死刑宣告を受けたと耳打ちする。公爵夫人は女王陛下をひっぱたいたという。アリスは愉快に笑う。
そこには、ヘンテコなクロッケー場。ボールはハリネズミ、クラブはフラミンゴ、ボールをくぐらせるアーチはトランプの兵隊が身体を弓なりに反らしている。競技者は自分の順番など待ったりせず、一斉にプレーをやるもんだから、あちこちでハリネズミを奪い合う。一分ごとに、女王陛下は、この者の首をはねよ!と声を張り上げる始末。
アリスは不安になって逃げ道を探していると、空中にチェシャーネコのニヤニヤ笑いが浮かび上がる。会話していると、興味深そうに王様が近づいてきた。無礼なネコの態度に、わしをそんな目で見るな!と命じると、アリスは、ネコにも王様を見る権利あり!と答える。女王陛下は、ネコの首をはねよ!と命じる。しかし、胴体が見当たらず、処刑人は首のはねようがない。女王陛下は即刻実行できなければ、ここにいる全員の首をはねよ!と命じる。王様とて例外ではない。みんながアリスに助けを求めると、公爵夫人のネコだから、まず公爵夫人に聞かなければならないと助言する。

・第九章 海ガメもどきの話
公爵夫人はアリスとの再会を喜ぶ。このお婆ちゃんは教訓好きの性癖がある。すっかり死刑宣告されたおかげで、クロッケーの試合は落ち着きを見せる。その教訓は、愛こそが世界を動かす!だとさ。教訓は盲目に崇められるものの、アリスにだって考える権利がある!と反論する。女王陛下が試合そっちのけでアリスと、その場を去ると、王様が全員釈放!と小声で伝えて、めでたしめでたし!
女王陛下は、海ガメもどきの話を始める。そして、グリフォンにアリスを海ガメもどきのところへ案内し、やつの話を聞かせろ!と命じる。グリフォンは言う。傑作だよ!つもりになっているだけだよ!首をはねよ!と命じても、誰も処刑されない。何も悲しむことなんかないとさ。海ガメもどきにしても、実は、海ガメになったつもりでいるのか。女王も、王様も、偉くなったつもりでいるだけか。アリスは、生まれてこのかた命令されたことがないので、命令というものが分からない。
海ガメもどきは言う。実は本物の海ガメで海の学校に通っていたと。先生はティーチャーだからティーとお茶で茶々と呼ばれる。授業料の明細には、フランス語、音楽、センタク授業... 特別料金とある。アリスは、洗濯と選択を混同する。それから算数は、めでたし算、かぜひき算、かびかびぶっかけ算、わりぃわりぃ算。カビと美化ではえらい違い。他には、古代おせっかい史と現代おせっかい史、チンプン漢文など、へんてこな時間が振られる。無断な時間を割くから時間割ってか。

・第十章 ロブスターのおどり
海ガメもどきは、素敵なロブスターの踊りを実演してみせた。何かと教訓めいたことを言ったり、歌を暗唱させたり、踊りの形式を覚えさせたりするのがお好きなこと。しかし、子供の好奇心ってやつは、なにかと強制しようとする大人の思惑に対して反発しようとする。
ちなみに、タラ(大口魚)は、たらふく食うから、そう呼ぶのだそうな。
この楽しい一時に、裁判の始まりが告げられる。

・第十一章 タルトを盗んだのは誰?
ハートのジャックが、女王陛下のタルトを盗んだ容疑で引き出される。裁判官は王様で、それに12匹の陪審員の動物たち。あの白ウサギが罪状を読み上げる。最初の証人は帽子屋、続いて料理人、三人目にアリス。

・第十二章 アリスの証言
アリスの名が呼ばれると、身体はすっかり大きくなっていたので、立ち上がッタ時にスカートのすそで陪審員席をひっくり返す。
白ウサギは、まだ証言があります!と囚人の書いたと思われる詩を提出。だが、ジャックは否定し、陪審員も筆跡が違うと証言する。王様は、名前がないことが怪しく、いっそう不利な証拠だとし、せめて名前を書けばよかったと言い出す始末。女王陛下の命令は、例のごとく、首をはねよ!アリスは、詩の内容はどうでもいいの?と弁護する。王様は詩を読み上げるよう命じるが、まったくチンプンカンプン。にもかかわらず、確固たる証拠だと決めつける。意味がないことは結構、手間が省けるんだってさ。判決が出ると、すっかり元の身体の大きさに戻ったアリスはついに口にする。あなたたちみんな、ただのトランプじゃないの!すると、トランプが空中に舞い上がり、アリスに一斉に飛びかかる。
もがいているうちに、目がさめる。アリスは川べりで姉の膝枕で寝ていた。姉は、妹のヘンテコな冒険話をすっかり聞いて思いに耽っていると、夢を見る。夢には妹が登場。今、不思議の国にいることを知っている。そして、目がさめると、つまらない現実に帰ることも知っている。姉は、自分の子供時分を思い出しながら、妹がどんな大人になるかを想像する。はたして無邪気で素敵な心をいつまで持ち続けられるであろうか、と...

2015-07-05

"ガリヴァー旅行記" Jonathan Swift 著

ガリヴァーの冒険物語に初めて触れたのは、おいらが愛らしいという評判だった年少の頃。絵本の映像が瞼の内側にかすかに蘇る。たまには童心に返りたい!と思ったのだが...
尚、翻訳版がいろいろある中で、平井正穂訳版(岩波文庫)を手に取る。

こいつを文学作品として読むのは初めて。子供心をくすぐるのは、小人国リリパット、大人国ブロブディンナグ、空飛ぶ島ラピュータ、馬人国フウイヌムの四つの国を訪れるという設定だけで、実のところ大人向けの風刺小説であった。まさか!これほど政治色が強いとは... ちなみに、ラピュータは宮﨑駿映画「天空の城ラピュタ」の題材となった。
"Gulliver" とは、騙されやすい愚か者といった意味である。この好奇心旺盛な愚か者は、人間社会の代表者のごとく別世界を訪れ、故国がいかに優れているかを吹聴して回る。しかし、国王たちの率直な質問に答えていくうちに、最も愚かな社会は自分の住む故国の方であることに気づいていく。
社会嫌い、人間嫌いへ誘なうような、それでいて心地良い。子供が素直に面白がる一方でこのような思いに駆られるのは、魂が邪心の塊となった証であろう。腐敗した大人心を純粋な子供心に訴えるのは、果てしなく難しい...

ジョナサン・スウィフトは、自分自身を船医レミュエル・ガリヴァーという旅行者に仕立て、旅行記を執筆した。非国教会派ジャーナリストのダニエル・デフォーの「ロビンソン・クルーソー」が好評だったことも影響があったようである。本物語が、少年少女に人気を博すとは想像だにしなかったことだろう。どんな境遇にあれば、これほど複雑で捻くれた作品が書けるのか。スウィフトは、生まれた時すでに父は亡く、母も彼をダブリンに置き去りでイングランドへ帰り、孤児同様に伯父の家で養育されたそうな。そんな境遇から終生自分の出生を呪い、女性への愛憎という二重の屈折した感情を持ったという。
不本意ながら得た聖職者の地位も、皮肉な運命であろうか。イングランド国や国王を称賛しながらも、国教会批判、啓蒙思想批判、産業革命批判、近代科学批判、哲学批判、そして女性蔑視が巧みに盛り込まれる。これぞ皮肉屋の真骨頂!アイルランド貧民の逆襲とでもしておこうか...

まず、二つの小人国の間に配置される巨人の態度は、中立的な国際機関の必要性を唱えているのか?逆に、大人国にあって小人と罵る様子は、図体ばかりデカく、精神が成長できないことの皮肉か?はたまた、空飛ぶ島における啓蒙的科学技術は、伝統的農業を荒廃させた風潮への批判か?仕舞いには、馬人の美徳に啓蒙され、人間である妻子の汚臭に耐えられず、飼っている馬の臭いに安らぎを感じようとは。もはや風刺の枠を超越し、人間そのものに戦慄すべき呪詛へと導かずにはいられない。スウィフト自身、様々な論文や詩を書きながら、この物語が運命づけるように狂人となって死んでいく。墓碑には「激しい怒りももはやその心を引き裂くことできぬ」と刻まれ、遺産は遺志によって狂人のための病院設立の費用にあてられたという。物書きを飯の種とする著述家は、言葉によって精神をえぐり、自我をえぐり、ついに狂気へ向かう衝動に魅せられるのであろうか...

・第一篇 リリパット国渡航記
航海中に難破し、ただ一人島に流れ着く。目が覚めると、両手両足と髪の毛が地面に縛り付けられ、身動き一つできない。身の丈が6インチにも満たない連中が、ぞろぞろと身体をよじ登ってくる。そこは、リリパットという小人の国だった。国民は数学の才に長け、機械工学にかけては達人の域に達し、この巨体を葡萄酒で眠らせた隙に車輪つき運搬技術で運ぶ。逃げられないと観念したガリヴァーは、剣と拳銃の押収に従い、法に従って署名捺印。穏やかな人柄が好評を博し、歓待される。
さて、リリパット国は、皇帝と首相が共存する政治体制で、二つの大きな災厄に直面しているという。一つは国内の激しい党派争い、二つは外敵による侵攻の脅威。
トラメクサン党とスラメクサン党は互いに旗幟を鮮明にするために、一方は高い踵の靴を履き、他方は低い踵の靴を履く。ハイヒール党とローヒール党は、イギリス議会のトーリー党(王権派)とホイッグ党(民権派)の風刺で、宗教的には国教会内の高教会派(ハイ・チャーチ)と低教会派(ロー・チャーチ)のこと。外敵とは、ブレフスキュ国。それはフランスのことで、ヨーロッパ中に飛び火したスペイン継承戦争と重ねている。
戦争の理由というのが... 卵を食べる時、大きな方の殻を割って食べるのが昔からの慣習であった。ところが、皇帝の祖父が子供の時分、習慣通りに割ろうとした時、うっかり指を切ってしまった。そこで勅命が発せられた。今後、小さな端から割るべし!背いた者は重い処罰を与えると。これに国民は反発し、ある皇帝は命を失い、またある皇帝は王冠を失うという有り様。叛乱者は、ブレフスキュ国の援助を受けて亡命するのが常であった。卵を大きな端から割る!と大声で叫びながら亡命する連中と、それを抹殺してやる!と叫ぶ連中の罵り合い。国民は、簡単で分かりやすいキャッチフレーズでいきり立ち、戦争は、実にくだらない揉め事で国民の命を犠牲にする。大きな方の端を割る人々にローマカトリック教徒を、小さな方を割る人々にプロテスタント教徒を重ねる展開は、教義の問題を揶揄する聖職者スウィフトの本領発揮。イースター・エッグ、すなわち復活祭と絡めた風刺である。
ガリヴァーはブレフスキュ艦隊の侵入を防ぐために、海上に流すか軍艦どうしを衝突させ、海峡を歩き回って軍艦を拿捕する。また、宮殿が火事に見舞われると、巨人の放尿で3分間で鎮火するという活躍を見せる。しかし、ブレフスキュ艦隊をやっつけたことに、お株を奪われた海軍提督が陸軍大臣らと図って陰謀を画策。火事で放尿した下品ぶりに皇妃は激怒し、拿捕した敵の兵士の命を助けた罪を問い、ガリヴァーを叛乱罪で糾弾する。だが皇帝は、温情のために眼を潰すだけの軽い罰にしようとする。失明ならば慈悲深い刑というわけだが、冗談じゃない。ブレフスキュ国へ脱出し、歓待を受ける。
両国間に巨人ガリヴァーを配置しているのは、中立を促す大国の役割、あるいは国際連合のような国際機関の必要性を暗示していると解するのは、行き過ぎであろうか...

・第二篇 ブロブディンナグ国渡航記
水を補給するためにボートが陸地へ出され、これに同乗するが、一人取り残される。そこは、あらゆる物が巨大な大人族の国であった。リリパット国とは反対に、今度はガリヴァーの方が小人となり、農夫に捉えられ、箱に入れられて見世物とされる。噂が広まると宮廷に招かれ、王妃が買い取る。国王は誰にも劣らない学殖豊かな人物で、歯を徹底的に調べ、肉食動物であることを確認する。はたして、この小人の存在をどう説明するか?学者たちが議論が尽くし、その結論は、レルプラム・スキャルキャス(自然の戯れ)、つまり、できそこない、奇形人間の類い。スコラ学派あたりへの風刺か...
「すべての難問を処理することの驚嘆すべき解決策を考え出したのは、アリストテレスの追随者たちが自分の無知をごまかそうとして笑止千万に用いた、神秘的原因(オカルト・コーズ)というあの例の昔なじみの言い逃れを軽蔑した近代科学の教授諸君だった。これこそ、人間知識の発展に対する筆舌につくし難い貢献といわなければならない。」
王妃はガリヴァーを寵愛し、食事時も傍から離さない。その一方で、王妃つきの侏儒(こびと)たちがいる。とはいえ、彼らは30フィート近くもあり、ガリヴァーを自分よりも小人として見下す。
小人と蔑んで罵り合う態度は、現在にも見られる。巨人国が小人国を笑うように、逆にこちらも失笑を禁じえない。人間ってやつは、自分を馬鹿にしている愚かな自分には気づかないものらしい。
「われわれ人間の偉大さなんてものも、ここにいるまるで虫けらみたいな小さな連中にさえ真似をされるのだから、考えてみればつまらないものだ... しかも、この連中は名誉を表わす肩書きや栄爵制度ももち、小さな巣や隠れ穴をせっせと造って、家だとか都市だとか称している。衣装や設備に粋をこらしているかと思うと、恋もする、戦争もする、詐欺も働く、裏切りもする、というではないか。」
王妃つきの女官たちは、虫けらのように礼儀もへったくれもない、傍若無人として描かれる。乳首に跨がらせて悪戯をするなど、清楚なおいらは思わず赤面してしまう。あまりにも酷い有り様に読者の許しをえて省略させていただくと、痛烈に皮肉をこめる。オヤジたちの現代風女性への偏見は、いつの時代にも見られるものだが...
次に、議会制度、裁判制度、教育制度などイギリスの政体が優れていることを説明すると、国王は軽蔑の念を示す。要するに、陰謀、叛乱、殺人、虐殺、革命、追放への対処法ばかりではないか。こういったものこそ、貪欲、党派心、偽善、背信、残酷、憤怒、狂気、憎悪、嫉妬、情欲、悪意、野心が生んだ最悪の事態ではないか。人間社会は、腐敗作用の相殺によって成り立っていると言わざるをえない。
「国家に対して有害な意見をもっている人間に、その意見を変えろというのもおかしいし、腹の中にしまっておけと言わないのもおかしい。どこの国の政府であれ、前者を強制するのはまさに圧制だし、後者を強制しないのは、その政府が弱体である証拠だ。」
さらに、火薬の製法を伝授しようとすると、究極の殺戮兵器に国王は慄然とする。どうして非人間的な道具が必要なのか、呆れるほかはないと。しかしながら、この国でも長い間、全人類が免れえないあの病癖、貴族の権力欲、人民の自由欲、王の絶対的支配欲という三大欲望に悩まされてきた、と本音をもらす。

・第三篇 ラピュータ、バルニバービ、ラグナグ、グラブダブドリッブおよび日本への渡航記
航海中、日本の海賊船に連行される。中に一人のオランダ人、同じプロテスタントだが、殺したがっている。だが、日本人の船長は殺さないと約束する。同じ信仰よりも異教徒の方が慈悲深いとは...
ガリヴァーは、オランダ人の仕打ちで小さな丸木舟に一人おっぽり出される。無人島に漂着すると、巨大な空飛ぶ島ラピュータに遭遇。魚釣りをしている人影が見え、ハンカチを振って大声で叫ぶと、先端に座席が固定された鎖が降ろされ、引き上げられた。
ここの住民は奇妙な性癖があり、財力のある連中は「叩き役」というのを一人雇っているという。その役割は、会話の最中に、喋る側の口を叩いたり、聞く側の耳を叩いたり。どうやら深い瞑想癖があるらしい。階段を登っている途中でも瞑想に耽るものだから、叩き役のおかげで、やっと危険が回避できるという有り様。宮廷には地球儀や天球儀など、数学用器具が所狭しと並べられている。自我に篭もる自然哲学者への皮肉であろうか。
尚、Laputa(ラピュータ)とは、Lap は高い、untuh は統治者という意味で、Lapuntuh が訛った言葉というのが原住民の説。だが、ガリヴァーはこの説に懐疑的で、Lap outed ではないかと考えている。Lap は海面に反射する太陽光線の輝き、outed は翼と解するのが妥当だという。いずれにせよ解釈を押し付けるつもりはなく、読者に委ねると言っているが... 啓蒙思想への皮肉であろうか。
ラピュータ人の表現法は、もっぱら数学と音楽に依存しており、モノや美しさなどは幾何学用語で表現される。菱形、円形、平行四辺形、楕円形など。おかげで住居はどれも傾いている。紙面上で定規とコンパスを用いるやり方は巧みだが、実用数学を軽視した結果生じる欠陥だという。
また、女性たちは陽気そのもので、亭主を馬鹿にし、他からやって来る男たちに血道をあげる。陸地から大勢の男どもが納税のために島にやってくるので、大胆な痴態で大っぴらに戯れる。空中の空想家よりも、陸上の実践派の男に惹かれるという寸法よ。ガリヴァーにも女どもが群がり、まるでハーレム気分... ユートピアを唱える王立協会への皮肉であろうか。
さて、この島の運命を握っているのは、一個の巨大な天然磁石。「天文学者の洞穴」と呼ばれる場所から底部に厚い鉱石(アダマント)の層があり、巨大磁石が支えられている。そして、バルニバービ国には磁鉄鉱が豊富で、その反発力で国王の統治する領土内を自在に移動できるという仕掛け。したがって、ラピュータは領土外に出られない。
地域で叛乱や内乱が起こると、鎮圧する方法は二つあるという。一つは、上空に留まって日光や雨を遮り、飢饉と病気で罰を課す。二つは、それでも収まらない時、頭上めがけて島を降下させ、全滅させる。実際は、最後の手段に及ぶことはない。住民の反感を買って領土が滅茶苦茶になるだけだし、ラピュータの損傷も懸念され、割れたりすれば再び空を飛ぶことも叶わない... まるで核の抑止力。

ガリヴァーは、ラピュータ島を去り、バルニバービ国の首都ラガードへ。豊かな田園風景が目に入り、貴族に歓待される。そこは、みっともない時代遅れの農場経営とされ、国中で悪い手本として軽蔑されている。しかし、他の領地は荒れ果てている。国民は上京しては皆、ラピュータかぶれになって帰ってくる。学問、言語、技術が啓蒙され、再開発プロジェクトによって首都ラガードに企画研究所が設立される。そのために伝統的な農業は廃れ、国土は見渡す限り荒廃してしまったという.。ちなみに、大研究所で「万能科学者」とされる人物は、物理学者ボイルを指しているという説があるらしい。企画研究所は、英国王立学士院を指すようだ。
いつの時代でも、手っ取り早い方法論に人々は群がる。現在でも、How-to 本が氾濫している。この科学者の宣伝文句は、どこぞで見かけたような...
「技術や学問を身につける従来の方法がどんなに骨の折れるものか、誰でも知っている。ところが、わたしが考案したこの方法によれば、どんな無知な人間でも、安い費用であまり骨も折らずに、立派に哲学や詩や政治や法律や数学や神学に関する書物が書ける、特殊な才能や勉強の助けなしに充分立派に書ける。」
政治に関する企画者たちを集めた研究施設もある。寵臣を選ぶための方策では、まったく理想主義、いや夢想家。福祉やら平等やらと、まったく政治家の好きそうな単語を並べるだけ。人間社会には病魔と腐敗がつきもので、権力への癒着、陰謀の類いは高貴な国会議員に蔓延する。そこで、ガリヴァーは正当性を監視する機関の必要性を指摘し、長く滞在したことのあるトリブニア国のことを話す。土地の者はラングデンと呼ぶ。尚、Tribnia のスペルを変えると Britain。Langden のスペルを変えると England。
やがて、ガリヴァーは帰国を考える。ラグナグ島は日本の東にあり、日本の皇帝と同盟を結んでいることを知る。日本へ行けばヨーロッパへの船便が期待できるが、ラグナグ島への船便が当分ない。
その間、グラブダブドリッブという近くの小島を観光。グラブダブドリッブとは、妖術師や魔法使いの島という意味だという。族長に面会すると、アレキサンダー大王やシーザーなどの偉人たちを蘇らせる。族長の祖先ユニウス、ソクラテス、エパミノンダス、小カトー、トマス・モアと彼自身の6人は、冥界で六頭政治を行い、全歴史を見渡しているという。アリストテレスが現れると、知識の多くは推測の域にあって、自然哲学者とて多々誤ることを認める。過去の偉人たちには、素直に誤ちを認められるだけの器量が残っている。いかに近代史が歪曲されているか。歴史家どもの筆にかかると、臆病者が絶大な戦功をたて、愚か者が賢明無比な策を用い、おべんちゃらが誠実になり、祖国を売った者が美徳で迎えられ、無神論者が敬虔な信仰者を演じ、密告者が真実を持っていたことになるとさ。
ようやく、ラグナグ国行きの船便を見つける。ラグナグ人は礼儀正しく寛容な民族で、「ストラルドブラグ(不死人間)」のことを教えてくれる。ガリヴァーは、もし不死が与えられたら、どんな風に人生を計画するだろうかと夢想する。凡人の感覚では、命に期限がなければ計画する必要もなさそうに思える。いや、不死と不老は違う。凡人が欲するのは不老長寿であり、老衰と永遠に戦うのはむしろ地獄となろう。高齢者はいずれ法的に死者同様に扱われ、世間から厄介払いされる。ならば、死は救済措置となろう。
やっと、ラグナグを後にし日本へ。ラグナグ王との誼みに免じて、オランダ人に課せられる儀式「踏絵」を免除してほしいと願い出る。そんな懸念を示した外人はお前が初めてだと、怪訝そうに言われる... キリシタン迫害をチクリ!

・第四篇 フウイヌム国渡航記
今度は船長となるが、雇った船員が海賊であったために船は乗っ取られ、未知の国に置き去りにされる。そこで、奇妙な動物と遭遇。身体は毛深く、顔は平ぺったく鼻はぺちゃんこ、唇は厚く口が大きい、賤しい知能の持ち主。短剣で立ち向かうと、大声で叫んで仲間が集まり、数匹が木に登って糞尿を浴びせかけてきた。そこに二頭の馬が近づいてくると、彼らは一斉に逃げ出す。
二頭はまるで人間のように協議している様子で、ガリヴァーに触って観察を始める。その起居動作は合理的で整然としているばかりか、犀利で聡明である。魔法使いに動物にされた人間か?もし、そうなら言葉が解せるはずだと話しかけてみる。こちらの言葉は解せないが、なにやら言語を操っている様子。その会話から、「ヤフー」という言葉を聞き取り、鸚鵡返しに発音すると驚く。馬は別の言葉を教えようと「フウイヌム」と発音する。そして、家に連れられると、なんと馬が家事をやっている。家畜をこれほどまでに教化できる人間がいるのか?いや、フウイヌムという馬の姿をした高度な知的動物であった。対して、毛深く何でも食べる野蛮な種族をヤフーと呼んでいるが、人間の成れの果てか?尚、Yahoo! との関係は知らん。
ガリヴァーの姿はヤフーに近い。違いとえいば、毛深くないことと、衣服を着ていることぐらい。フウイヌムには衣服の概念がないので、身体と衣服の関係がどういう構造になっているか分からない。また、フウイヌムの言語には、嘘とか虚偽といった言葉がないので、醜態を表す時はヤフーの行動になぞらえる。
ガリヴァーは、いつも品を保つために服を着ているが、寝所では服を脱ぐ。ある日、召使は服を脱いでいる姿を目撃し、ヤフーの姿に似ていることを報告する。ガリヴァーは、自分はヤフーでないことを示すために、故国の優れた政治制度について説明する。だが、フウイヌムには、権力、政府、戦争、法律、処罰といったものを表す適当な言葉がない。つまり、悪徳による支配によって、どうして社会が成り立つのか?を説明する術がないってことだ。
長期に渡る戦争で多くのヤフーが死ぬことになるが、戦争を仕掛ける原因は何か?と主人は訊ねた。領土や人民を支配するだけでは物足りないという動機、あるいは君主の野望、時には悪政を糾弾する民衆の不満をそらすために。敵が弱いというだけでなく、敵があまりにも強すぎるという理由もあれば、同盟に従うという理由もある。大義名分や正義なんてものは、いかようにも解することができるのが、人間社会というもの... などと説明したところで、フウイヌムに戦争というものを理解させることはできない。そもそも同じ人間仲間を傷つける動機が、理解できないのだ。
「理性の所有者だと称している者がこれほどの残虐行為を犯しうるとすれば、その理性の力は完全に腐敗堕落しきっていて、単なる獣性よりもさらに恐るべきものとなっているではないか、と疑わざるをえない。」
あらゆる人間を守るために考案された法律が、時には特定の人間を滅ぼす結果となる。嘘や欺瞞の概念のないところに、弁護士の存在意義をどう説明するのか?いかなる人間であれ、法廷で自分を弁護することは法律違反とされる。では、第三者がなぜ真相を知りえるのか?しかも、金を払って雇うとは?実際、弁護料の差異で弁護技術が加減され、判決が左右される。
「弁護士なんてものは、その商売から一歩でもはずれると、あらゆる点で殆ど例外なしに無知で愚かな連中だ。他人との交際も拙劣極まりなく、あらゆる学問や知識を必死になって目の敵にしている。専門の職業の場合もそうだが、それ以外の場合でも、何かの話題について論じ出すと、人間に関わっている普遍的な理性を言語道断なほど蹂躙する欠陥がある。」
説明をすればするほど、ますます人間とヤフーが一致してくる。主人は、ヤフーの特質を語り始める...
隣の地域のヤフーに対して虎視眈々と機会を狙い、殺そうとする。お前の言う戦争ってやつだ。その策略が失敗すると、あるいは外敵が見当たらないと、今度は仲間内で諍いを始める。お前の言う内乱っやつだ。この国には、いろんな場所で光彩を発する「輝く石」が出る。ヤフーはこれに目がなく、朝から晩まで掘り当てようと必死。しかも激烈に争う。お前の言う所有権ってやつだ。おまけに、第三者がこれ幸いとばかりに介入してくる。お前の言う、訴訟ってやつだ。ヤフーは実に狡賢く、陰険で復讐心が旺盛、身体は頑丈なくせに心は臆病ときた。したがって、傲慢、卑屈、残酷になるというわけだ。なるほど、人間ってやつか!
ある日、ガリヴァーが川で水浴びのために素っ裸になると、雌のヤフーが情欲に燃え、抱きついてきた。ヤフーが性交を求めてきたのだから、自分がヤフーであることを否定できないではないか...

フウイヌム国の総会で議題とされたのは、最も醜い賤しいヤフーを地上から抹殺すべきか否か。抹殺論者は、他の国でヤフーが理性者を偽ってフウイヌムを隷属していると主張する。主人は、総会で決定された勧告を実行するよう迫られる。理性ある動物が集団的な決定に強制されるとは、いかんともしがたい。主人は苦悩し、船を造って帰国させた。ガリヴァーは、フウイヌムから追放された哀れなヤフーというわけか。
ニュー・ホランドに到着すると土着民の矢を受けて負傷し、ポルトガル船に連行される。そして、洞察力の優れた船長ペドロ・デ・メンデスの手厚い歓待を受ける。船長の人間性によって、ようやく賤しいヤフーと人間の類似性から解放された。
しかしながら、フウイヌムの美徳に魅了された自分が、いかに啓蒙されているかを感じる。声や話し方、歩き方や身振りまでそっくりで、友人から馬みたいと馬鹿にされる。
「理性の命ずるままに生きているフウイヌムたちは、いくら立派な性質をもっているからといって、それを自慢してはいなかった。それは、私が自分に手足があるからといって何もそれを自慢にしないのと同じである。もちろん、手足がなければそれこそみじめなものに違いないが、それがあるからとって威張りくさる奴がいたら、気違い沙汰という他はなかろう。」