2015-03-22

"続 死ぬ瞬間 最期に人が求めるものは" Elisabeth Kübler-Ross 著

死にゆくことは難しそうだ。受容の境地に到達した者ですら、それは辛かろう。生まれる者は死が運命づけられる。人間にとって、これほど偉大なイベントが他にあろうか。なのに、この二大イベントの扱いはまるで正反対。誕生は祝福され、死は口にすることすら忌み嫌われる。寿命が延びれば未練も先延ばし。これだけ技術進歩を遂げておきながら、死観だけは置き去り。近代社会は死を語ることをますます難しくさせ、現代人はまさに死否認社会を生きている。
しかしながら、本当に難しいのは、生きぬくことの方かもしれん。死は向こうからやってくる。そこに熟練した精神力はいらない。死を理解する必要もない。テクノロジー社会が医療施設の能率主義や合理主義を助長させ、非人格化を促す。そんな場所で、人間の威厳を保ったまま死を受け入れることができようか。命が一番大切だと叫ぶ社会で、死にゆく者にどう生きろというのか。生とは、死をもって学びうるものということか...

精神科医エリザベス・キューブラー・ロスは、「死と死ぬことのレディ」として知られる、と自ら語る。彼女の著作「死ぬ瞬間」では、末期患者が死に向かう五段階の精神状態について語ってくれた。それは、否認、怒り、取引、抑鬱、受容への精神遷移である。ここでは、受容の段階に到達した患者の境地が中心に綴られる。ほとんどの末期患者は、人に知ってもらいたいと願っているという。自己存在を確認するために。だが、孤独は現実に目の前にある。自己を狼狽えた孤独へ導くことは容易いが、平安な孤独へ導くことは難しい。
では、自己存在を確認する必要がなくなれば、静かに孤独を謳歌することができるだろうか?キューブラー・ロスは、死は成長の最高のパートナーになりうると語る。彼女の言葉から、末期患者と向き合う医師の叫びが聞こえてくる... 病いには癒やしを... 怪我には救いを... 苦しみには安堵を... 悲しみには慰めを... 絶望には希望を... 死には平穏を... そして、医療技術や権威の正当化よりも患者を見よ!... と。
告白できずに死んでいく者は多い。告白してもなお生き続け、告白の報いを受ける者もいる。告白して死んでいける者は、まだしも幸せかもしれん。人間らしい生き方というものがあるとすれば、人間らしい死に方というものもあるはず。これは、一人の医師が末期患者の戦友であることを表明した記録である...
「死の理解をもとめる人々にとって、死はきわめて創造的なひとつの力である。生の最高の精神的価値が死への思索と研究とから生まれでるからである。」

ところで、尊厳死とは、どういうものを言うのであろうか。欧米社会には、安楽死を合法化する動きが見られる。社会が多様化すれば、死生観もまた多様化していくだろう。近代医学は、延命治療をますます進化させる。だが、そうすることによって苦悶を長引かせるだけに終わるケースも少なくない。医学生たちは、死に向かう心理よりも、肉体に対する物理的な措置の方を多く学ぶ。医師が少しでも死期を早める措置をとろうものなら、メディアは理性の検閲官を自認して袋叩きにし、本人の求める積極的な死ですら殺人と見なす。社会がどんなに合理化へ邁進しようとも、精神の合理化となると躊躇してやまない。あらゆる価値を貨幣換算しておきながら、人間関係をば仮想世界に追いやっておきながら、自分の命となると肉体という物理的な存在に縋る。死の定義では、いまだ古代哲学は輝きを失わない。つまり、人類は生ですら明確に定義できないでいるということか。ショウペンハウエルは、死を「真の霊感を与える哲学の天才」と呼んだとそうな。トーマス・マンは、「死というものがなかったなら、この地上に詩人は生まれなかったろう」と述べたとそうな。「死がその鑿(のみ)をもって彫ったのではないどんな思想も、わたしのなかには存在しない。」と言ったのは、ミケランジェロだとか...
仏教的な教理には、目覚めた者はいかなる欲にも執着しないという考えがある。快楽に執着せず、苦痛からも逃れようとしない。大切なものは、生でも死でもなく、ただその時を待つのみ。無欲と瞑想が、死の回想をもたらすと。いよいよの時に慌てふためくことがないよう、ひたすら知性を磨きながら待つ。それは、受動的な禁欲などとは違う。積極的な無欲であり、自然な風狂を生きるということだ。死を克服するとは、生を克服することにほかなるまい...

1. 死生観
死は人間にとって普遍的な問題。しかし、その答えは文化圏によって大きく異なり、死の意味も自ずと違ってくる。日本では、死人に白装束を着せる風習があり、「死に装束」とも呼ばれる。現在では、葬儀は忌み嫌われる儀式となっているが、古くは、死に召されることは神霊にゆくとされた。死ねば浄土!死はけして恐れるべき対象ではなかった。生の世界に絶望すれば、死後の世界に夢を託す。
では、死してもなお希望が持てるとすれば、死ぬ瞬間まで平穏に生きることができるだろうか?かつて、武士は恥を忍ぶぐらいなら死を選んだ。切腹の苦痛を和らげるために介錯という作法があった。これを残忍と見るかは、死観によって違ってこよう。世界に目を向けると、死者が天国に迎えられるための、めでたい儀式と捉える地域は少なくない。その一方で、遠い過去の大罪人に対して、その墓石を踏んづけ、ツバを吐きかけるといった行為も見かける。パスカルが言ったように、どんな人間も狂気するものだとすれば、そこまで憎悪を引きずるものであろうか?と問うてみても、人間はそう簡単に寛容になれそうにない。人間ってやつは、集団的信仰に憑かれた残虐行為を平気でやる動物だ。そして、憎悪の狂気が正義を暴走させ、建設的な反省を放棄し、別の形で大罪人を創出する。もはや死にゆく者にしか、精神修行のための静寂な空間は訪れないというのか...
一方で、末期患者が告知を受けると、自分探しの旅に出かけるという話をよく耳にする。自己実現のための孤独の旅へ。残り少ない人生だからこそ有意義に生きたいと願う。それは、寿命が延びると、怠惰になり粗末に生きるということの裏返しか。権力欲に憑かれて他人を貶めたり、貨幣的な所有物を増やすことに執着したり、仮想的な人間関係を増やすことに躍起になったり... とエネルギーを浪費すれば、生の最終章を完結させる準備を怠る。生の意義は、死を考えることによってしか見出せないというのか...
「死を恐れることはいらない。気にすべきことは肉体の終わりではない。それよりも、生きている間は生きること... おのおのが誰であり何者であるかの外面的な定義づけに合うように工夫されたファザード(前面)のうしろに隠れて生きているような生き方に伴う霊的な死から、内的自己を解放すること、これがわれわれの関心でなければならない。」

2. 受容の覚醒
死に意義を求めること、それは生の意義を求めるに等しい。つまり、二項対立の原理を克服することである。それは、相対的な価値観しか持てない生命体の宿命であろう。絶対的な価値観の持ち主とされる神ですら、天国に対して地獄をこしらえ、人の運命を弄んでやがる。利便性や自動化によって、なすがままにOKボタンを押しつづけた果てに、誘導サイトに辿り着くかのように。魂が天高く、データの塊のごとくクラウドへ消えていくのか。いずれにせよ地獄への道は、敷居が思いっきり低いことは確かなようである。
二項対立の原理の果てに、苦悩の全円環を回り終え、いよいよ死に挑む。これが自然の摂理というもの。はたして死は、生からの解放をもたらすことができるだろうか?本書は、一つの受容モデルを提示してくれる。
「恵みとしての受容... この覚醒の次元では、人間として、かすかな潜在可能性すらもなしに出発することができる。ゼロから出発するのである。人間が存在するとは、そのことが、誰か他のひとにとって何ものかである。何らかの意味をもつ、ということにほかならない。いまここにこうしてあるという存在を、自力では、単独では、直接には創りだすことはできない。それはもうひとり別の人の存在から与えられるだけである。それはひとつの恩恵なのである。」
孤独の中に自己を発見するということは、自己信頼を深め、自己充足とならなければならない。それは、極めて自己中心的な考えでもあるが、悪い意味での自己中心ではない。啓発された利己主義とでもしておこうか。ここには、知性の役割とは何か?という問い掛けが内包されている。あるいは、信仰の意義とは何か?と問い直してもいい。
患者たちは、自己破壊の道に踏み入ろうとしている。内的葛藤も、病的な罪悪感も、倦怠も厭世も、どうしようもない鋭利な孤独感も、自己の否認、拒否から始まるという。それを救えるものは、信仰と信念だとしている。
とはいえ、信仰を成すものは、なにも宗教とは限るまい。科学者たちは、独自の宇宙法則的な神を構築してきた。いわば、知性の延長上としての信仰だ。どんな学問でも普遍性なるものを探求すれば、自ずと宇宙論的な信仰へと向かうであろう。哲学を伴わない学問や技術は、単なる手段に成り下がる。宗教的方法論として無条件に信じさせることは、集団性と相性がいい。対して、健全な学問は健全な懐疑主義をもたらし、孤独と相性がいい。
はたして、知性の鍛錬を死の準備段階とすることはできるだろうか。ゴードン・オールポートという心理学者の著作には、成熟したパーソナリティの三つの人格特性について記述されているそうな。自我を洞察する自己客観性、メタ的観念、反省的視点といった能力である。人間には、自己存在の意義を見直すことによって、アイデンティティの再構築を図る能力を自然に具えている。人生はいつでもやり直せると言われるが、死に向かう時ですらそれを信奉できるとすれば、真の自己実現をもたらすかもしれない。それは、過去に培ってきた知性によってもたらされるのであろう。自己否定に陥ってもなお、心が平静でいられるならば、知性の力は偉大となろう。
「死にゆく患者が自己憐憫を主調とした人間関係にいつまでもとどまっていず、他の人々と対等の関係へよろこんで入っていくという心的態度は、オルポートの自我延長(自己拡張)といっているものに匹敵する。オルポートはこれを、"自分の身体と自分の物質的所有物以上のものに関心をもちうる能力"と説明している。」

3. 葬式宗教
「葬式とそれに先立つ準備について考えるとき、あなたの心にどんなイメージが浮かんでくるだろうか。自然的とみられるような人工的メーキャップをうけた肉体。礼儀正しくかつ不誠実な会葬者たち。泣くのは未熟の証拠ということだからと涙を必死に抑えること。偽善的で無意味な祭式。非人格的で無神経な人間の群れ。これらは、葬式とそれを取り巻く一切について、ほとんどの人々が抱く典型的な反応の一部である。多くの人々にとって、葬式は無意味で不愉快な儀式となりさがっている。」
日本では、葬式仏教やら、坊主丸儲けやら、と揶揄される。葬儀屋とお寺さんが組んで、そこに病院が絡むという構図だ。戒名料で死者を格付けし、お布施でベンツを乗り回すとは。霊柩車で初めてベンツを体験をする親族も少なくあるまい。宗教は、生身(ナマモノ)は扱わないってか。生きている間は生きている者同士で付き合い、死んだら死んだ者同士で語り合い、生きている者に邪魔されたくないものだ。
葬式に集う人の数、花輪の数で、その人の価値が決まるなどと発言する人も見かける。じゃ、孤独死を覚悟し、共同墓地に入ることを承知した者は価値がないとでもいうのか?そのくせ、大勢の孫たちに囲まれて賑やかに死んでいくことを願ったり、盛大な葬式を願ってビデオレターで演出したり、生前葬をやっては生への未練を断ち切れないでいる。自己を慰める術を知らなければ、他人の同情を引くしかない。
一方で、生まれながら、孤独死を運命づけられた人たちがいる。それでもなお犯罪に及ばず、自殺もせず、誰の慰めも受けずに生を全うできるとすれば、どちらが偉大な精神の持ち主であろう。あるいは、ホスピスのような施設で、死に向かう者同士で集い、分かち合い、静かに死んでいくことを望む人たちもいる。家族や友人には死後通告だけを依頼して。せめて苦痛を和らげてくれるよう医師に縋り、安楽への道があると信じて...
「その人の死と生の質がどうだったかをいえるものは結局、死にゆく人である。死が充分によく生きられた一生のしめくくりであったか、それともこの世で過ごしたある年月の終端であったかという、その人の生の基調が何であったかを決めるのは死ぬ当人である。」

4. 信仰の先生
本当に宗教を必要としているのは、どんな人間であろう。数理論理学者レイモンド・スマリヤンはこう語った... 子供の頃、まったく宗教的な教育を受けなかった。そのことを神に感謝したい... と。
知性を伴わない者に、宗教は危険な存在となろう。精力溢れる者に、神の救いは必要であろうか。だが、宗教勧誘は、まさに生に溢れた者を対象にしている。お布施で見返りを求める余裕のある者を相手にしている。人間ってやつは、自分が良い目にあうと、他人にも勧めたくてしょうがないものらしい。
宗教を営む人たちもまた健康な身体の持ち主であって、死に向かう人と対面するにはよほどの熟練を要するだろう。博愛や友愛などという言葉では救われない。皮相的な人道主義はむしろ厄介。それでも紋切り型の儀礼や死観を押し付けて、自己実現を阻もうと仕掛けてくる。自我を相手取るよりも手強い相手だ。
いまや、成長の定義も問い直さなければなるまい。潜在意識と葛藤する自己実現の道とは、いかなるものであろうか。それは、一切の価値観を逆転させる道であろうか。絶望、孤独、喪失... といった俗世間で忌み嫌われるものに価値を求める道であろうか。自ら地獄へ誘なうような。まるで自虐の道。もはや、幽体離脱していく自我の力を信じるしかあるまい。
しかしながら、仕事を辞め、人間関係を断ち切り、贅沢な趣味を棄て、財産を放棄し、まるで聖人にでもなるような精神修行を積むなんて、おいらには無理な話よ。自我が自我を見つめ直し、自惚れを消し去ることなどできようか。そうしたものが受容の段階だというのなら、そうしたものを教えられる教師がいるとしたら、それは死にゆく人たちだけということか... そうかもしれん。

2015-03-15

"死ぬ瞬間 死にゆく人々との対話" Elisabeth Kübler-Ross 著

古来、死は忌み嫌われてきた。これからも、ずっとそうだろう。死と対峙する心構えについては、偉大な哲学者たちが様々な処方箋を提示してきた。ソクラテスは魂の不死を唱え、キリストは死を霊魂の肉体からの解放とし、神に近づくための昇天とした。あるいは、絶望的な限界を生きることで真の自己実現を目指し、生と死、希望と悲惨を一体化するという考え方もあれば、死を無意味な偶発的事故として徹底的に無視するという考え方もある。
いずれにせよ、死の不安をいかに克服するかを問うことに変わりはない。人類はいまだ、死の意義どころか、その正体すら知らないでいる。おそらく、生の意義もよく知らないのであろう。俗世間では、命が最も大切だ!と声を揃えてやがる。数日後、数ヶ月後、確実に死が訪れる末期患者に対してもなお、この言葉で力づけられるとすれば、それは真理かもしれんが...

命とは、なんであろう。近代医療は、肉体という物理的な存在に対しては大幅な進化を遂げた。延命措置を駆使すれば、機械的に生かすことはある程度可能となり、薬漬けで無理やり生かされるケースも少なくない。死は生命体にとって最も身近な現象であり続け、これを避けることはできない。にもかかわらず、精神的な対処法となると、これを遠ざける。寿命が延びれば死は非現実世界へ追いやられ、メディアの無神経な死の扱いが同情を誘う皮相的な演出を呼び、死をますます冷めて見せる。人類の死に直面する能力は、低下しつつあるのだろうか...
その一方で、末期患者たちは、毎日の医師の回診や、定期的に薬を持ってくる看護師を、ただうつろに待ち受ける。お座なりに精神安定剤を処方し、さっさと追い払おうとしているに違いない... と心のどこかで呟きながら。彼らは、真の会話に飢えている。それは言葉なんぞではない。傍に居るだけで無限の安らぎを覚えるような、人間としての威厳を保つことができるような、そんな何かを求めている。ましてや婉曲法など無力だ。コミュニケーションの本質は、言葉よりも、むしろ沈黙の方にあるのかもしれん...

精神科医エリザベス・キューブラー・ロス、彼女は二百人以上もの末期患者にインタビューし、その接し方についての一つの学習モデルを提示してくれる。それは、死に向かう五段階の精神遷移を承知することである。第一段階「否認と隔離」、第二段階「怒り」、第三段階「取引」、第四段階「抑鬱」、第五段階「受容」...
これらの反応は、順序どおりに起こるとは限らないし、併発させることだってある。ただ、すべての段階に常に並行してつきまとうのが、希望ってやつだ。同じ人物でも精神段階によって求めるものが違う。生きることだけが希望ではないってことだ。現実に、死にたいと願う人たちがいる。それは、いいことがあるなら生きていたいという願望の裏返しでもある。もっと悲惨な仕打ちは、数十年、あるいは生涯、闘病生活を強いられ、生き地獄を生きる患者であろうか。
健康な人ですら生き甲斐を見つけることは難しい。実際、ほとんどの人が惰性的な安定や惰性的な幸せに縋って生きている。生き甲斐とは、死を迎えるための準備段階を生きるということであろうか。神経学者オリバー・サックスは、医師と患者は互いに対等で協力関係にあり、医師が患者を治してあげるといった類いのものではないと語った。キューブラー・ロスにも同じ視点を感じる。これは、受容の境地に達し得た人たちに、教師になってくれ!と頼んだ記録である...

「危険から護られるよう祈るのではなく、恐れることなく、直面しよう。苦しみの納まることを願うのではなく、それを克服する心をこそ願おう。人生の職場で同盟軍を求めるのではなく、われわれ自身の力をこそ求めよう。救われることを心配しながら求めるのではなく、自由を勝ち取る忍耐をば望もう。自分の成功のためのみに慈悲を当てにする卑怯者ではなく、わたしの失敗のなかにあなたの手の握りを発見する勇者でありますよう。」
ラビンドラナート・タゴール「果実採取」より...

1. インタビューの反応
人間ってやつは、優しい反面、残酷だ。インタビューを申し込めば、抵抗にもあう。だが意外なことに、猛烈に拒絶するのは医師や看護師たちの方で、自分の重大疾患を語りたがらない患者は少ないという。
「自分自身否認を必要としている医師は、否認を患者に見いだす。対決をためらわない医師は、彼らの患者もまた対決をためらわないことを見いだす。否認の必要度は、医師自身の否認の必要度と正比例する。だがこれはまだ問題の半面でしかない。」
十分苦しみました!そろそろこの辺で... と口にする者もいれば、いつも奇蹟を信じ、これが奇蹟です!もう怖ろしささえなくなった... と口にする者もいる。戦場のタコツボには無神論者はいないとよくいわれる、これは真理です... と語る者。そして、人工呼吸器なしでは生きられない筋萎縮性側索硬化症の患者は、意思能力が完全に麻痺し、ベットに横たわったまま感情を告げることもできない。だが、多くを話しかけるうちに微妙な反応に気づき、その眼は言葉以上に雄弁であったという。さらに、こんな題目を突きつけられると、もう言葉にならない。
「知恵の発達が遅れている子どもと幼女と、病気の老人二人を抱えて白血病で死んだC夫人の悩み」
人間にとって、死に直面することよりも孤独に直面することの方がはるかに問題なのかもしれない。人間は無に対して異常に拒否反応を示し、無駄、無意味、無価値といったものを忌み嫌う。死を無と重ね、無に帰することを極端に恐れる。それは、自己存在を否定する道だ。だからこそ、死にも意義を求めずにはいられない。
ようやく死を覚悟し、運命を受け入れる境地に達した者に、延命は却って残酷を強いることになる。タブーの言葉を避けようなどという配慮は、虚しさを強調するようなものか。そんなことは、少し余裕のある者の特権なのかもしれない。もはや彼らは、自分を曝け出さずには生きられない。それでもなお心が平静でいられるならば、理性の力は偉大となろう。
キューブラー・ロスは、末期患者たちと対話するには、まず死からの恐怖を取り除かなければならないと語る。告知に際しては、感情移入されているという情緒が大切であると。それは、戦友であることを明確に意思表示することだと。そして、彼女の患者のほとんどが、平和と威厳のうちに死んでいったという。人間らしく生きる権利を主張するならば、人間らしく死ぬ権利を主張してもいい...

2. 死に向かう五段階... 否認、怒り、取引、抑鬱、受容
誰でも最初は、目の前の不幸を信じたがらないものであろう。そして、現実逃避に走る。病どころか、自分の醜悪や愚行ですら認めようとしないではないか。自分が社会の役に立ち、組織の役に立ち、家族の役に立つと信じきっており、それが認められなければ、怒りを露わにする。ふと怒りが去っていくと、せめて苦痛や激痛を和らげてください!と祈り、神と取引しようとする。
やがて訪れる抑鬱には、「反応抑鬱」「準備抑鬱」の二種類があるという。二つとも性質が正反対なだけに、まったく違う接し方が求められると。思いやりのある人ならば、抑鬱の原因を探り出し、それにともなう非現実的な罪責感や羞恥心を幾分でも和らげることは、それほど難しいことではあるまい。自然な振る舞いが、反応抑鬱に対抗する態度となる。
しかし、準備抑鬱の方はどうであろう。世界との決別を覚悟するための悲嘆、これは本人が乗り切るしかない。周りができることといえば、物事をそう暗く絶望的に考えないように配慮することぐらいであろうが、却って仇となりかねない。空元気を吹き込んだところで、お前さんに俺の気持ちは分からんよ... となる。患者に対する無知と理解不足が、過度の干渉となり、鬱を助長させる。準備抑鬱は、冷静な心持ちで自己分析ができるだけに手強い。
「不可避の死を回避したいと闘えば闘うほど、死を否認しようとすればするほど、この不安と威厳とに満ちた受容の最後の段階に到達するのがむずかしくなる。」
これらの精神状態を乗り切って、いよいよ受容の準備が整う。しかしながら、この境地に達するための最も妨げとなる存在が、患者の家族という場合が往々にしてある。ある患者は、こう口にする。
「すでに死ぬ心構えが出来ているのに生きるために闘うことを強制されるのは悲しい...」
患者だけを救おうとしても救われない。死に向かう五段階は、家族も医師も看護する者も一緒に共有しなければならない。この共有こそが最も難しい問題なのであろう...

2015-03-08

"言語と精神" Noam Chomsky 著

泉井久之助著「言語研究とフンボルト」によると、ノーム・チョムスキーはフンボルトの路線にあり、またヒュームの説くところに似ていると紹介される。それは、カントの批判哲学に継承される直観主義的な学者だということである。
幼児には、生まれつき言語を習得する能力が具わっている。生まれたばかりの餓鬼には、純粋な共通観念のようなものが見えるのだろうか?もし、この世に普遍言語なるものが存在するとしたら、プラトンが唱えたイデア的な存在、すなわち精神の原型をとどめた者にしか見えないのかもしれん。
しかしながら、一旦知識を獲得すると、知識のなかった頃の自分を思い出すことは難しい。高名な学者たちですら、科学的な見識を重んじるあまり、計量や数値化に因われているではないか。言葉を知れば、喋らずにはいられない。知識を知れば、それをひけらかさずにはいられない。人間精神ってやつは、知識が蓄積されるほど生得性から遠ざかり、何事も理屈で説明できないと落ち着かないものらしい。なるほど、言語の習得とは、自己に言い訳するための屁理屈論であったか...

能書きはさておき、言語機能を一つの有機体として捉える考察は興味深い。一般的に言語能力と呼ばれるものは、自明な精神現象とは言い切れず、仮説の域を脱していないように映る。あるいは、暗黙に前提されるぐらいなものであろうか。
本書は、ア・プリオリな習得能力をもって「生成文法」なるものが育まれるとし、さらに第二言語の学習戦略にまで議論が及ぶ。そして、行動科学は、実際に生じる行動パターンに目を奪われ、心的現象から遠ざかりつつあると指摘している。なにも構造言語学や分類学といった科学的な見識を否定しているわけではなく、一定の成果を認めつつも距離を置いているようだ。
確かに、近代言語学が経験主義的であることは否めない。そうなると、二段階の考察が必要になりそうだ。つまり、言語が生得的に発達する段階と、知的に発展する段階である。本書においても、科学的な分析を取り入れながら「深層構造」「表層構造」の二つの層に着目し、双方を繋げるための直観的な操作に「変形生成文法」という用語を持ち出す。粗削りな見方をすれば、深層構造で意味解釈を与え、表層構造で文法形式を与えるという役割分担になろうが、そう単純ではない。ソシュールは、記号を構成する要素に意味的なものと表象的なものを区別しておきながら、その不分離性を唱えた。身体と魂のごとく、けして切り離せないモナドのような存在と言わんばかりに。
しかしながら、自己精神の中で合理的な文法形成と心理的な意味解釈の融合を図っても、主観は客観を鬱陶しく思い、客観は主観を罵ってやがる。言語の研究から、教示的なことは何一つ言えそうにないではないか。精神を相手取る理論では、様々な変種が生じるのも道理というものか。チョムスキーやフンボルト、あるいはソシュールやヤーコブソンの理論が一枚岩ではありえないし、様々な批判的立場が共存するのは健全であろう。それは人類が、いまだ主観と客観の双方を凌駕できないでいる証であろう...

ところで、言語ってやつは、生活習慣に最も密接に関わるくせに、その正体は見えない。言語とは、やはり空虚な存在なのか?そんなことは問わずとも、薄々気づいている。愛の言葉によって...
精神に関する学問が困難を極めるのは、あまりにも身近にあるからであろう。人間ってやつは、外的な問題に対してはすぐに難癖をつけるくせに、自己の問題となると沈黙しやがる。自分の事を知っているという自負が、もはや疑問すら持てないでいるのか?
ウィトゲンシュタイン曰く、「事物の最も重要な面は、単純さと身近さゆえに覆い隠される。」
もしかしたら、人間は自分が人間であることも、人間がなんであるかも、知らないのかもしれない。デカルトは、物理現象の説明原理に精神の存在を要請して「哲学原理」を書した。ニュートンは、説明の根拠に完全な原理を求めて「自然哲学の数学的原理」を書した。ニュートンもまたデカルトに対抗して、精神までも含めた原理を数学で説明しようと目論んだのであろうか?精神の原理を説明するのは、やはり芸術家の方が優っていそうだ。芸術家が新たな境地を求め続けるのは、人間であり続ける日常に退屈しているからであろうか?ヴィクトル・シクロフスキーという言語学者は、こう語ったという。
「海辺に住んでいる人々は波のささやきに慣れてしまって、それが彼らの耳に入らない。同じ経緯で、われわれには自分たちの発する語が決してと言ってよい程に耳に入らない、... われわれは互いに見合うが、お互いがもはや目に入らない。われわれの世界では知覚は萎え凋んでしまって、残っているものは単なる認知作用である。」

1. コンピュータ神話
1950年代初期、言語学に著しい凋落が生じたという。ヒルベルト問題が提示されたのが1900年、すべての物理現象は数学で解決できると意気込んだ科学者に、ノイマン型コンピュータという強力な武器が加わった時代である。精神という最も神秘的な現象までも、科学で説明できる日はそう遠くないと信じられた。今日ですら、機械翻訳や自動要約といったツールを、鵜呑みにする人を見かける。多言語間で単語と単語を一対一に対応づけ、数学的に定式化したアルゴリズムを崇める人も少なくない。
確かに、通信工学における数学理論は、語彙の作成と配列、あるいは検索技術などで実用性を高めてきた。オートマトン理論を神経学と結びつけたり、音声学をスペクトル解析と結びつけたり、といった技術は一定の成果を挙げている。構造主義的な発想から、刺激(stimulus)と反応(response)を入出力信号と結びつけて、S-Rの心理学を通信モデルとして実装することは、有限領域においてある程度は可能である。生理学的なメカニズムから条件反射の連想を定式化できるか?という問題は、低水準の知覚においては可能であろう。熱い!やら、痛い!やら。
しかし、理性や意志といった精神の根源的な性質となると、どうであろう?言語の本質は、まさにこの領域にある。そこには、無限の単語、無限に組み合わせた文章があるだけでなく、次々と生成される新語もあれば、社会から自然消滅していく死語まである。メモリ空間上のインスタンスのように、使い終わった知識をきちんと消去しないと、社会はゴミで溢れる。言語の体系は生活習慣や環境条件、あるいは自然淘汰などとも結びつき、量子論的進化論という観点も必要であろう。自然言語の研究とは、人間自身の探求であるが故に、その道は永遠であり、挫折感も大きい。ならば、言語の表面的な現象を追いかけるよりも、まずは精神の正体を知ろ!ってか?まさか、チョムスキーはそこまでは言うまい...

2. 深層構造と表層構造
言語を習得すれば、意味と音声の関連付けを身に付けることになる。だが、深層から意味や解釈と結びつき、表層から音声や形式と結びつくといった単純な関係ではなく、表層から意味と結びつくところもあれば、深層から音声と結びつくところもある。とはいえ、深層構造と表層構造との関連づけに何らかの規則性がない限り、人間社会に文法のような現象は生じないだろう。その初期段階における関連づけが、「生成文法」ということになる。
さて、二つの層の関連付けの規則を「文法変形」と呼ぶそうな。「変形生成文法」という用語はこれに由来するという。
本書の事例では、NP(名詞句)やVP(動詞句)を分離しながら、構文木構造が示される。プログラミング言語における構文解析や字句解析と原理的には同じである。人間精神にもコンパイラという神が住んでいるとすれば、苦労はない。深層構造から表層と意味を分離し、主語と述語の関係や動詞と目的語の関係などから基底構造を見せつけられると、確率的ではあるが規則性なるものを感じる。言葉の用法には個人差も大きいが、それぞれ口癖といった形式もある。それがすべてではないにせよ、ある程度の定式化は可能であろう。文法の役割は、ここにあるのだろうけど。
しかしながら、人間の認識能力とは奇妙なもので、言葉が直線的に配列されるにもかかわらず、精神空間には立体的な像を映す。単語が順序正しく整列していても、認識段階では勝手に順序を入れ替えたり、並列に眺めたりしている。絵画でも眺めるように。このような精神現象を構文的な観点から、どう説明できるというのか?幾何学的言語投影論でも唱えない限り、説明できそうな気がしない。もし、言語を精神空間にマッピングできる法則が見いだせるとすれば、それが普遍文法ということになろう。とはいえ、精神空間は何次元なのか、そもそもユークリッド空間にあるのかも知らん。空間の歪は精神状態によっても変化するだろうし、少なくとも泥酔状態の次元はぶっ飛んでやがる。泥酔状態をオートマトン理論でモデリングできれば、数学は真に偉大となろう。深層構造と表層構造の組合せは、無限空間に君臨してやがる。そして、フンボルトのこの言葉ほど本質をついたものはあるまい。
「有限の手段を無限に用いる。」

3. ポール・ロワイヤル文法について
言語学には、哲学的文法と構造言語学の二つの伝統があるという。哲学的文法の代表に、ポール・ロワイヤル文法について言及される。この文法形式が、フランス語で書かれたことは有意義であったという。だが、ラテン語に翻訳されたことが物議をかもしたとか。当時のデカルト主義者たちは、ラテン語を人工的に歪んだ有害な言語と見做していたそうな。問題となったのは、正当な文法からはみ出した慣用という現象を、いかに合理的に説明できるかである。
ところで、自国語の文法的な特徴を真面目に考える時は、外国語との対比においてであろうか。そもそも喋る時に文法なんて意識しない。そんな言い方はしないなどと言うことはできても、文法的な根拠を示せるわけでもない。
とはいえ、感覚に働きかけて、言語の知識を生み出すなんらかのメカニズムはあるはず。基底にある深層は言語形式の抽象的な組織を具え、精神に現存する。そこになんらかの表象信号が生じると、無意識に表層が形成され、内的器官によって知覚される。言語能力とは、深層構造と表層構造を生理的に連結する機能とでもしておこうか。哲学的文法の真の意図は、文章を解釈する技術を提供するよりも、心理学的理論を展開することにあったようである。

4. 一般性と普遍性
チョムスキーは、レヴィ=ストロースの原始的心性の分析を称賛する。レヴィ=ストロースは、意識的に構造言語学、とりわけプラハ学派のトゥルベツコイとヤーコブソンを取り入れているという。そして、音素分析と同類の手順を社会や文化の下部体系に適用することはできないとしている。無限の多様性を強調しているところにも、フンボルトの継承を感じる。
所詮、生得的な能力を取り戻すことは、脂ぎった欲望を知ってしまった泥酔者には無理な話よ!できることと言えば、多様性に寛容になるよう努力するぐらい。おまけに、自己の言語体系の中で直観を意識することもできず、口の動くままに身を委ねるのみ。心にもないことを口に出すのは、潜在意識がそうさせるのか?語彙の集合から勝手に優先順位が付けられるのか?回帰的に思考を繰り返した結果として言葉を発しているのだろうけど、その意識すらない。脳の中で生じる神経系を辿ることなど不可能だ。それこそ霊媒師にでも依頼するか。
精神空間が主観性に支配されているとしたら、地上の誰にでも理解できる共通言語には、かなり制限を与えることになろう。そうなると、言語は単純化し、本来の特徴である自由度を失うのではないか。だから、世界規模でメディアが発達すると、言葉の揚げ足を取り合い、単純な言葉で罵り合うのか?共通や共有の意識ばかりを崇めれば、言葉は分かりやすい方向に傾倒し、言葉の裏を読むことや、暗喩や比喩といった技巧が廃れるのではないか?
その一方で、芸術心と戯れる人たちによって言語技術は高められる。となると、言語の用法は二極化して、普遍言語から遠ざかっていくのか?実際、グローバル化の時代に、意識格差、情報格差、教育格差、所得格差... などの二極化現象が生じている。能動的な生き方をするか、受動的な生き方をするかの違いが、そうさせるのかは知らん。
それはさておき、言語にとって相性がいいのは、経済的合理性と精神的合理性のどちらであろうか?少なくとも普遍性とは、一般性とまったく異質なもののようである。尚、多数決の原理は普遍性よりも一般性の方を好むようである。

5. 第二言語の学習戦略
第一言語を学ぶ時は精神状態は極めて純粋にあるが、第二言語を学ぶ時は少し事情が違う。それは、余計な知識が邪魔をするということだ。文法を真面目に勉強すると言語の習得が遅れるとも聞く。言語をビジネスや金儲けの手段と考えれば、脂ぎった欲望が精神を支配し、もはや純粋な欲求が見失われるのだろうか?まだしも趣味や興味といった動機の方が、純粋な欲求に近い。第一言語と第二言語の習得レベルを同列に位置づけられる能力が、多言語話者とさせるのだろう。本当に普遍言語や生成文法なるものがあるとすれば、普遍的な欲求というものもあるのかもしれない。
チョムスキーは、知覚表象が第一次構成物で、文法はあくまでも第二次構成物としている。文法ってやつは、ある程度の習得があって、初めて機能するものかもしれない。ただ、基本的な文法が幼児によって形成されるという事実から、目を背けるわけにもいくまい。
「人間の精神はなにかの種類の真の理論を想い描くことに生まれながらの順応性をもっている。... 人間はもし自己の要求に順応した精神という賜物をもっていなかったならば、いかなる知識も獲得できなかったことであろう。」
さて、実践的な言語学習法では、限りなく第一言語の習得状態に近い精神状態を保つことになりそうだ。まずは、幼児的な視点で基本的なフレーズを真似て、それを繰り返す。そこそこ知識が蓄積されると、本当の意味で言語の発達を試みる。大まかにはこの二段階を踏むことになろう。ただ、最初の段階でも、そこそこの応用力が身につくだろうから、段階の移行過程は連続的で、自然な流れになるのだろう。学習の仕方もまた無限にありそうだ。どんな知識を獲得するにも、方法論は人の数だけあるぐらいに思った方がいい。
いずれにせよ、言語とは学ばされるものでもなければ、教えられるものでもなく、自発的な欲求に身を委ねるしかあるまい。したがって、アル中ハイマーは純粋な欲求に身を委ねて、外人パブへと消えていくのであった...

2015-03-01

"言語研究とフンボルト" 泉井久之助 著

ここに、フンボルト人間論という視点から言語学を語ってくれる書がある。それは、カントの批判哲学に触発されたドイツ精神史の一物語、といったところであろうか...
ヴィルヘルム・フォン・フンボルトは、「一つの言語」という名辞を初めて使った人だそうな。この用語には、全人類の普遍言語を模索するという壮大な構想が伺える。言語が精神の投影だとすれば、言語の発達は精神の成熟度の指標となろう。本書で語られる言語哲学には、思想のための言語と実践のための言語の双方を凌駕すること、及び、様々な言語環境に身を置くことで自己育成を図ることを主眼とし、精神の発達を第一義的とする考えがあるようだ。そして、「内的言語形式(die innere Sprachform)」という用語を持ち出す。
「言語は常に人間の主観性の模写であろうとし、思惟は音形にはいって、はじめて客観的に認識されうるものとなる。主観と思惟は、言語において客観化されようと待っている。人間は、その思惟において生き生きと明瞭に認識するところは、これを言語に出さずにはいられない。しかし言語に表現する時には、同時に思惟において概念を判明にする契機がなくてはならぬ。フンボルトのいう表現とはこの判明化の意味である。」

言語は主観によってもたらされ、主観は客観に恋い焦がれ、記述によって客観化されようと望んでやがる。数学という言語には客観性と単純化という神が宿り、プログラミング言語には利便性と分かりやすさという神が宿る。だが、これらの神の正体は、いずれも直観による人間の思惑であって、直観もまた極めて主観に近い領域にある。
では、自然言語には、どんな神が宿るであろうか。言語の法則には法律と似た事情があり、国語学者は言葉の乱れに憤慨してやまない。それでもなお、詩人は孤高の道を行き、優れた文学作品は国語辞典を超越した表現力を発揮する。なるほど、芸術には自由精神という神が宿るようである。
人類が精神の正体を知らぬ今、言語に変化の余地を残さねば、精神を存分に記述することはできまい。言語の体系を語るのに、どんな合理的な記法を持ってしても、思弁的にならざるを得ない。ソシュールの記号論にしても、チョムスキーの深層構造にしても、なるほどと思わせるものの、それですべてが解決できるとは思えない。人間社会の多様性を相手取ることは極めて手強く、いまだ言語学は無限の坑道にある。したがって、言語には自由と柔軟性の神が宿るとしておこうか...
「態度と方法は、われわれにおいて自由である。何の主義、何の態度、何の学説によらなくてはならない... ということはない。過去でもそうであったし、将来もそうであるにちがいない。われわれは進んでみずからの手を敢えて縛る必要はない。対象は言語自体であって、その学説ではない。」

この時代、万能な天才を多く輩出したルネサンス時代から啓蒙時代を経て、まだその思想的余韻が残る。何事も本質を見極めようとすれば、学問の垣根に囚われることなく、自然に学際的となるであろう。
当時、フンボルトは様々な学問に精通した異色の政治家として知られ、学問では弟アレクサンダー・フォン・フンボルトの方が自然学者として知られていたようである。ナポレオン戦争後のヨーロッパ再編の時代、フンボルトはプロイセン第二位の全権大使として活躍。政界を隠退し、本格的に言語学者の道を歩むことになったのは、根っからの真理の探求者であったからであろうか。早朝から深夜まで制約がなければ、精神を存分に解放できる。真理の探求者にとって、これほど喜ばしい環境はない。現役から隠退した途端に生き方が分からなくなるとしたら、それは生きてきたのか、生かされてきたのか。そもそも人間は、死ぬまで人間を隠退することはできない。どんなに自発的に生きていると信じていても、人間は何かに依存せずには生きられない。精神活動が記憶と知識に頼るしかないとすれば、既に言語によって支配されている。確かに、言語を超越した精神活動は存在しうる。だが、それを記述できなければ、後世に残すことはできず、もはや永劫回帰は望めまい。ソクラテスがあえて記述を残さなかったのは、言語の限界を悟っていたからであろうか?フンボルトの言語研究の立場は、この言葉で言い尽くされている。
「人間は言語によってはじめて人間である。しかし、その言語を考案するには、すでにまず、人間でなくてはなるまい。」

1. 政治家フンボルト
ナポレオンの圧政から解放されると、全ヨーロッパでナショナリズムが目覚めていく。啓蒙主義の伝統は国家啓蒙主義へと微妙に変化し、やがて訪れる国家民族主義への変貌を予感させる。フンボルトもまた反フランス的な愛国者だったそうな。彼の全権としての立場は、こういうものだったという。
「国家を損なうのは戦争ばかりではない。防衛の手段を奪われて敵の餌食になるなら、平和こそ却って国家を頽廃に導くではないか...」
政治と学問の両刀使いの新しいタイプの政治家は、論理は鋭く弁が立ち、外国からも警戒される。オーストリア宰相メッテルニヒを筆頭に。とかく才ある者は身内からも疎んじられるもので、プロイセン宰相ハルデンベルクからも疎まれる。タレーランは詭弁主義の権化と罵ったものの、その才能は認めていたようである。
フンボルトの構想は、南はオーストリアを北はプロイセンを盟主とし、全ドイツの愛国主義的な大同団結を図ろうというもの、そして、ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝を復活させ、進歩的な立憲君主国家を構築しようというものだったようである。イギリスの自由選挙制度を批判し、ルソーの社会契約論を斥け、モンテスキューの三権分立をもプロイセンの伝統に合わないとし、その上で、国民に道徳的な義務を植え付けようと。道徳や理性という美しい理念の強制によって団結を図ることほど、国粋主義と結びつきやすいのも確かだ。緩やかに結ぼうとするメッテルニヒと、頑強に結ぼうとするフンボルトの対立は、憲法案において鮮明になる。だが、ドイツ憲法は充分に機能していなかったようで、後にビスマルクがまとめた国は小ドイツであって、オーストリアは加わっていない。
政治思想とは、哲学的な理念を押し立てることから出発するものであろうが、理念だけでは政治的に無力となる。1819年、国王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世は、宰相にハルデンベルクとフンボルトのどちらを選択するかを迫られた時、ハンデンベルクを選んだ。そして、政界を去る。

2. 自己育成と国家機能限界論
人類は、宗教の限界を経験し、国家の限界を経験してきた。自由精神は、どんなに優れた思想をもってしても、どんなに強力な武力をもってしても、強制などで鎮圧できるものではない。だが、有識者どもは、けしからん!と憤慨しながら、罰則の強化によって鎮圧するよう求める。相対的な価値観しか持てない人間にとって、自分の道徳観に自信を持つということは、他人の道徳観を蔑むことになろう。人間には、自分の理解できないものを認めようとはしない性癖がある。だから、第三者の目を要請する。精神を外界に晒すことは、けして自己を失おうとするものではなく、むしろ自己の素材を内的に検証することである。言語とは、そのための役割を果たすものであって、コミュニケーションやプレゼンテーションの手段であるばかりではあるまい。比較言語学とは、なにも言語や文化の優越性を掲げるものではないはずだ。
しかしながら、言語学が政治と結びつき、やがて民族優越主義の時代を迎えることに。フンボルトにもエリート主義的な態度が見られるものの、環境の多様性を自己育成の必要条件としている。ジャワ島のカヴァ語といったマライ・ポリネシア諸言語の広範な比較研究では、現地調査の執念を伝統とし、レヴィ=ストロースなどの民族学者に受け継がれているものと思われる。そして、自己育成に「国家機能限界論」を結びつけている。
「単なる力にもその働く場としての一つの対象が要る。単なる形式... 純粋な思想... にも、自らの刻印を印しつつ自らを永続せしむべき地盤として素材がいる。同様に人間にとっても自己以外に一つの世界がなくてはならない。自己の活動と認識の圏を拡大しようとする人間の努力は、このゆえにこそ起こりうるのである。しかしこの世界から得、もしくは世界において自己の外に実現しうるものは、実は人間にとって真の問題ではない。問題はもっぱら自己を内的に改善し高貴にするにある。あるいは少なくとも内的な不安の鎮静にある。純粋に、その窮極の目的性において見れば、要するに人間の思惟は、自己を自己に対して完全な理解の対象たらしめんとする精神の試みであり、人間の行為は自己内において自由であり独立であろうとする意志の一つの試みであり、その外的な営為の全体は一般に、自己において懈怠にあらざらんとする一つの努力に外ならない。そして思惟と行為の二つの実現は、ただ第三者、すなわち非人間的なるもの、すなわち世界の表象とその加工によって可能なのであるから、人間ができるだけ世界の多くを把握し、能う限り緊密にこれと結ぼうとするのも、また自然の勢といわなくてはならない。」

3. 言語研究と言語哲学
啓蒙思想から受け継がれる科学的な洞察が、構造主義的な観点を育んできた。19世紀初頭、印欧比較言語学が成立して、フンボルトのインド・ヨーロッパ語族の研究が花開く。
フンボルトの科学的分析は、物象性、外対性、特に音形性で成果を上げたという。人間の口の形はだいたい決まっていて、発する周波数が限定的だから、音声学は物理学である程度説明がつく。
しかし、意味論においてはどうだろうか?それこそ客観性や形式性からは程遠い。フンボルトの意図は、科学的な見地よりも精神分析に重きを置いている。比較言語学が機能するのは、比較対象が相互に類似点を持っている場合においてだが、人類の扱う言語はどんなものでも類似点を見つけることができると信じていたようである。言語を客観的に解明するということは、まさに人間精神を解明するに等しく、主観に支配された精神をどうやって記述するか、という途方も無い問題を抱えている。フンボルトがア・プリオリ的な直観主義者であったことは、必然なのかもしれない。
本書は、似たような思想路線の言語学者に、ノーム・チョムスキーを紹介してくれる。チョムスキーはフンボルトと等しく、またヒュームの説くところとも似ているという。ただ、チョムスキーの用語に「深層構造」という階層的な方法論があるが、本書は論理的な根拠は見いだせないとしている。ロマーン・ヤーコブソンの音形論も論理実証的な考察に基づく理論として知られるが、これまた一般言語論には至らないとしている。ソシュールはデカルト的な清掃工作を言語学の方法論に試みた人と言われるらしいが、一応成功するものの、彼もまた経験的な言語学者として一般性の域に達していないとしている。
こうした理論は数学的過ぎるということであろうが、そもそも自然言語を完全な法則や理論に当てはめることなどできるのだろうか?今日では、むしろコンピュータ科学の分野で役立ってきたと言えよう。プログラミング言語における構文解析や字句解析、あるいは、通信設計における語彙の作成と配列、検索技術などで実用性が高い。どんな言語を用いるにしても、例外的な扱いが生じる。数学ですら不完全性定理に見舞われているではないか。どんな学問であれ、一般性と普遍性は混同されがちである。三角形の内角の和が二直角に等しいということは、ユークリッド幾何学における一般性であって、宇宙における普遍性ではない。言語研究と言語哲学の違いとは、こうした一般性と普遍性の探求の違いに表れているのかもしれない。
直観は偉大であるが、人間の言語能力を生得的であると信じるがあまりに、思考を硬直させる恐れがある。そこで、哲学者クヮインという人物を紹介してくれる。どこかで聞いた名だが、クワイン・マクラスキー法の???どうやらそうらしい。カルノー図と同様の目的で使われるブール関数を簡略化する方法で、コンピュータ工学を学んだ人なら聞いたことがあるはず。クヮインは物理学にも精通し、経験的な見方も取り入れて、無限性においてはチョムスキーよりも分があるという。言語研究の流れは、科学的な立場から受け継がれる面が強いようである。
では、こうした傾向に対して、フンボルトの言語哲学はどうあり続けたのであろうか?はたして彼は、言語の本質を掴み得たのであろうか?それも疑わしい。既に数千年の歴史が、それは不可能という結論を出しているのかもしれん。フンボルトは、一般文法なるものを嫌ったという。多くの言語から浮かび上がった論理的操作、すなわち結果論に過ぎないとして。
「私は無限に富んでいる、何となれば地上に私が有効に摂取し得ないものは一つとしてないから。しかもまた無限に貧しい、何となら到達し得べからざるものへの憧憬が常に私を満たしているからである。かつて私は宗教的だったことはない。しかも篤信の人と全く異なるところがない。何となれば私は所有し把握し得べからざる無限なるものに常に心を惹かれ、最も好んで畢竟、永遠なる一つの理念において生活しているからである。」

4. 言語の分類
「言語は本質的に総合である。そして一つの連続体である。」
文章は順序正しく直線的に書かれる。しかし、文豪の手にかかれば、立体的な像を見せてくれる。ページ順に行儀よく並ぶ文字の大群が一斉に押し寄せると、頭の中で再マッピングされ、記憶と精神の空間において有機体のような存在となる。それは、文法論だけでは説明できない精神現象だ。文法には、一般的に規定される外面的なものと、暗黙のうちに自我に形成される内面的なものがある。フンボルトが問うたのは、内的現象の方であろうか。
「若干の固定したクラスに言語を分類しようとするのは悲しむべき思想である。それはまた言語の生きた個性を抹殺するものだ。」
しかしながら、本書に示される四つの種別も、若干の固定したクラスに映る。言語を構造的に分類する場合、「孤立語」「膠着語」「屈折語」、そして、フンボルトが土着言語の研究から唱えた「抱合語」の四つに種別する見方があるという。
屈折語は、原則として意義部と形態部(文法部)とを切り離せないという。意義と文法的役割が、同時にしかも有形的に与えられる特徴があると。主語として立ち、格、数、性において形容詞の形を決定し、数において動詞と一致し、文全体の可能性を決定している。しかも、文における個々の語の独立性は、このために却って明瞭である。単位においても全体構造は予想される。こうした特徴から、総合的に最も完全で最も自由であるとしている。
膠着語は、意義部と形態部の総合が充分でないという。単に接合があるのみで、屈折語のような融着はないと。
抱合語は、原則として文形の全体が固定し、総合の作用には全体を予想する単位と、単位を予想する全体の自由な交流による軽快で冷静な活動がないという。
フンボルトは、これら四つのタイプで、屈折語こそが最も完成度が高いとしたようである。そして、最高位から屈折語、膠着語、抱合語、孤立語の順に評し、サンスクリットとシナ語は屈折と孤立において両極をなすとしている。
ただ、このようなランク付けは独断的な印象も与える。フンボルトがインド・ヨーロッパ語族主義と言われる所以であろうか。西欧中心主義の旺盛な時代ではある。実際、哲学するのに最も適した言語はドイツ語とする哲学者は少なくない。英語は現象の言語で、ドイツ語は理念の言語である、といった具合に。文学作品を、英語で読むのとドイツ語で読むのとでは、ニュアンスも大きく違うだろう。現代の傾向では、屈折語的な特徴が失われ、孤立語的、膠着語的な性格が強まり、特に英語において顕著なようである。源氏物語のような古典を読む場合でも、古典語と現代語では印象が随分違う。言語で精神を完全に記述できないとすれば、文学や哲学の作品では、言葉の裏を読むという技術が求められる。作者の意図を汲み取るには、読者の側からも登っていくしかあるまい。
しかし、情報が溢れる社会ともなれば、分かりやすく簡易的な文章に群がり、文章を隅々まで読むよりもインデックスの検索に注力する、といった皮相的な傾向を強める。

5. シラーやゲーテとの親交
フンボルトが主観主義であったのは、カントの影響というより、カント研究に没頭したシラーの影響のようである。その理想は、カントの批判精神に、プラトンやアリストテレスに発する美的精神を融合して、人間論を完成させようというもの。フンボルトはある論文を発表した時、こう言ったとか、言わなかったとか...
「内容はカントのごとくであって、カントのようではなかった。だからカントはよく解らない!」
カントを知り尽くしたという自負があるからこそ、あえてこう言ったのかは知らん。
また、古典の翻訳作業では、ゲーテに手助けを乞うているそうな。ゲーテの詩「ヘルマン・ウント・ドロテーア」は、ホメロスと同じようにダクテュロスの六脚韻を踏んでいるという。ゲーテとは、古代哲学を尊重する観点から意気投合したようである。哲学の究極目的は、人間そのものである。あらゆる美学は人間性に起因し、それゆえに美と道徳も一致することができる。芸術は、趣味を超越した自己育成をもたらすであろう。客観性は、人間性を排除しようとする試みであり、主観性を崇める理由がここにある。それは、客観性を排除しようとするのではなく、相補関係にあろうとすること。ゲーテは、こう語ったという。
「主観のなかにあるすべては客観のなかにある。しかもなおそれだけでは納まらない、何かまだあまりがある。客観のなかにあるすべては主観のなかにある、しかもなお何かあまりがある。」

6. 近代言語学事情
「少なくともその主流を占める近代の実証的な言語学は... 言語という心理的、社会的、または人間的な現象は、どのようにしてこれを最も合目的的に記述し理解すべきか... を、問題としている。言語は何であるか... あるいは、言語的総合はどうして可能であるか... のような思弁は、それぞれ哲学の分野に依託して、一応はかえりみるところがないと、いってもよい。言語学の問題の据え方においては、言語の存在と作用の客観的な現実性は、自明のことだとしているのである。」
言語学には歴史性の他に共時性という見方があり、さらに、比較言語学や音声学といった見方も現れ、そこに心理学が結びついてきた。そして、社会学や人類学の領域まで踏み込み、方言や言語の分布という観点から言語地理学という分野も開拓されてきた。このような様々な合理的な分析は、西洋を中心に行われてきたが、極めて思弁的であることも否めない。
本書は、言語学の勃興、凋落が特に激しくなったのは、第二次大戦以降だと指摘している。あらゆる分野に科学技術が導入され、新言語理論は主にアメリカで起こる。数理・計量言語学である。こうした数学的な理論が、充分に言語の用法とは合致せず、一般言語理論として発展するには至らなかったという。さらに、モリス・スウォデシュという人が言語年代論を唱えてから、外象的な面に囚われるようになったと指摘している。
しかしそれは、言語学だけの問題ではあるまい。社会全体、ひいては精神に関わるすべての学問が抱える問題であろう。大昔から弁論術や修辞学がもてはやされ、現代ですらプレゼンテーション技術が象徴するように、そこそこ理があって、見栄えの良いものに目が奪われがちだ。メディアが発達するほど、群れの本性を目立たせるだけのことかもしれん。ステレオタイプ的な見方や流言蜚語の類いなど、概して人間は噂話がお好きよ!