2014-02-23

"エウパリノス・魂と舞踏・樹についての対話" Paul Valéry 著

ヴァレリーが、プラトン風の対話篇を書いているとは知らなんだ。本書に収録される三作品は、彼の最も美しいとされる対話篇だそうな。文学作品への想いが自然な物理現象として現れると、もはや余計な知識はいらない。文章の流れとは、川の流れのごときものであったか...
しかしながら、あらゆる物理現象は、観測することによって認識される。人間の認識能力では、観測系の介在なしに物理系を構築することができないのだ。人間が認識した途端に、あらゆる現象を捻じ曲げて見ていることになる。自然のままの自分の姿すら見えない。精神の投影を崇高な光に頼ったところで、光ってやつは障害物の前で反射し、屈折し、たちまち分散してしまう。人間ってやつは、生きている間に様々な知恵をつけ、その積み重ねが狡猾さを身に付ける。光はいつも回折し、余計な知識が真理への道を回り道させる。今宵も、琥珀色に染まったグラスの反射光がまぶしく、目の前がよく見えん...

「人間であるか精神になるか、そのどちらかを選ばねばならない。人間が行動できるのは、ただただ知らずにいることができ、人間の特異な奇癖である認識の一部分で満足できるからに他ならない、つまりこの認識というものは必要以上にすこし大きすぎるのだ!」

プラトン風の対話篇であるからには、ソクラテスが登場する。しかも、冥界に。お宅が隠遁したのは、騒ぎ立てる俗人どもが煩わしいからですかねぇ、ソクラテスさん?
「死者の国では思考は分割できない。いまではわたしたちはあまりに単純化されていて、何かある思考が動きはじめると、その動きが終点に達するまで、じっと堪え忍んでいるしかないのだ。生者には肉体があり、そのおかげで認識を中断して出ていったり、また戻ってきたりできる。生者は一軒の家と一匹の蜜蜂とからできているわけだ。」
魂が肉体という宿に住み着いている間は、純真な思考を呼び起こすこともできないというのか?ならば、目の前で思考している者がいれば、静かに見守り、余計な口出しをして邪魔をしないでおこう。ましてや人の話している途中で、言葉の揚げ足をとったり、大声で割り込んだりするのはやめるがいい。自由に話すから、自由に質問できる。まずは自分に問い、そして自分に答えることだ。沈黙を守ることで相手に犠牲を捧げることが、真理への道となろう。
ソクラテスは、一旦、理性をも蔑み、アンチソクラテスを演じて見せる。自己否定の試みか。既に社会が腐敗していれば、やがて肉体も腐り果てる。先んじて肉体を棄て、雲や風の動きに魂を同化させる方が、よっぽど有意義だとでも言わんばかりに...
「あの下界では、不滅だった、... 死すべき者たちに関連してのことさ!... しかし、ここでは... いや、ここというところはない、わたしたちがいま言ったことは、すべて、この冥界の沈黙の自然な戯れに他ならない、わたしたちを操り人形のようにあつかった、向こうの世界の、とある修辞家の気まぐれと同じように!」
なるほど、ソクラテスの試みもまた修辞家の気まぐれで、そこに不滅があるというわけか。そして、この気まぐれな修辞家こそが、ヴァレリーさん御自身でしたか...

「人間は自然全体ではなく、ただその一部を必要としている。もっとひろい考え方をして全体を所有したいと望むのが哲学者だ。だが人間は生きることしか望んでいなくて、鉄も青銅も必要とするのではなく、あるしかじかの硬さ、あるしかじかの可延性を必要としているにすぎない。... 人間は自分の目的しか見つめない。」

1. エウパリノス
ソクラテスとパイドロスを登場させ、冥界で対話させる。パイドロスは、高名な弁術家リュシアスの心酔者で、プラトン著「饗宴」にも登場する。話題は、偉大な建築家エウパリノスの言葉をめぐってのもの。
「愛する対象が人びとを動かすように、わたしの神殿は人びとを動かさねばならぬ。」
自然哲学への想いを強めるあまりに、人工物の限界を悟り、ついには建築物の可能性までも圧殺してしまうのか。なぁーに、心配はいらない。建築物の静的空間の中で、精神活動を反映する音楽へと議論が及ぶと、まさに静と動の調和芸術として蘇る。沈黙の建築が、魂の中で歌いかける建築へと昇華させるのだ。ガウディは、自ら画家、音楽家、彫刻家、家具師、金物製造師、都市計画家となって、建築はあらゆる芸術の総合であり、建築家のみが総合的芸術作品を完成することができるとした。澄みわたった空の中に旋律の大建造物を想い描くと、一方の側に音楽と建築、他方の側にいろいろな芸術を位置づけるよう導かれるという。額縁に囚われた絵画は事物なり人物なりを装うだけ、彫刻も同じで視界を飾る一部分に過ぎないと。
確かに、絵画は静の手段である。だが、巨匠が手掛ければ、動画よりもはるかに動的な物語を演出するではないか。額縁が世界を閉じるというなら、壁画はどうか?建築物の装飾はどうか?そこに、なんらかの幾何学的形象が生じ、哲学的意義を与えるならばどうであろう。空間的な静と時間的な動とのコラボレーションこそが、ある種の小宇宙を形成する。永遠の存在を代弁する不動性と、奏でながら瞬時に過ぎ去る流動性との調和が、無限の宇宙を物語っているではないか...

2. 魂と舞踏
ソクラテスとパイドロスに、エリュクシマコスが加わって、舞踏の意義についての論議が始まる。エリュクシマコスは、同じくプラトン著「饗宴」に登場する医者で、ソクラテスの思想を注いで欲しいと願っている。だが、凡人は、知性よりも明日にも役立ちそうな知識に目を奪われ、美味の餌食となる。いくら思想のご馳走にありついても、消化不良に陥っては元も子もない。すると、医者の立場から身体の健康を気遣わずにはいられない。
川がただ水を上から下に流すだけの存在だというなら、人間はどうであろう。喰ったものを排泄しているだけではないか。しかも、川の流れよりもはるかに早く果てる。民衆の気移りは激しく、世論は右往左往し、どんな頑固爺であっても、自然の意志力には遠くおよばない。そんなものに、理性を獲得する能力があるというのか?本当に、魂は人間固有のものなのか?どんなに立派な人間であっても、喰うためなら何でもやる。生きるためなら何でもやる。理性が働くのは心に少し余裕がある場合であって、自己存在に保証がなければ何でもしでかす。だから、見下しながら施すか、見返りを求めながら施す。肉体が優雅に踊っていられるのも、魂に余裕があるからだ。知性も同じよ。モノの本質を見極めようとするのも、心のゆとりからくる。そこで逆説的ではあるが、自己の正体を知るために、純粋な魂を呼び起こすために、一旦、舞踏の享楽に身を委ねてみてはいかが...
「真実と虚偽とは同一の目的をめざす、... 同じひとつのものが、別々の仕方で振舞うだけで、わたしたちは嘘つきにもするし、真実を語る者にもする。」
ムーサイの舞いに見蕩れ、一旦、官能の世界へと魂を誘なう。優雅な踊り子たちと音楽の共演の中に身を委ね、さらに酒によって魂を浄化する。すると、素朴な無知者でも、自然美を見分ける能力を纏うことができるとでもいうのか?甘美な接吻の渦の中で、高貴な美脚をむさぼり、知性豊満なボディラインに顔をうずめてみよとでも。よーく分かった!さっそく従おう。真理の素はハーレムであり、真理の道とはエクスタシーへの道であったか...

3. 樹についての対話
古代ローマの詩人ルクレティウスと、ウェルギリウスの「牧歌」に登場する牧人ティティルスが登場する。晩年に相応しい樹齢を思わせるような作品。自然の偉大さに、人間の命の果敢なさを投影するかのような...
人間はたかだか生きて百年だが、植物には何千年と生きるものがいる。有史以来、人間どもをずっと観察してきたヤツもいるだろう。人間の知能で、自然のすべてが語れるとは思えないし、植物に意志があったとしても不思議はあるまい。植物にしても生あるものは、なんらかの周波数を発している。そこに、言葉がないと言い切れるだろうか。人間が言葉として捉えられるのは、知覚能力で制限される特定の周波数範囲においてのみ。自然の声を耳にするには、資格が必要なのかもしれない。曇のない心を持つ者なら、ひょとしたら聞こえるのかもしれない。
しかしながら、人間は純真さを失っていく。生きるための知恵ってやつが、狡猾さを身につけさせるのか。自然が神の恵みならば、知恵は悪魔の恵みなのか。人間どもには、いつだってメフィストフェレスに魂を売る用意がある。人間社会に横行する誇張、流布、デマの類いに耳を傾けるぐらいなら、川の流れる音、波の音、草木が風に揺られる音に耳を傾ける方がいい。芸術の天才たちは、自然とよしみを通じあう能力を持っているのだろうか。その資格を持っているのだろうか...

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