2014-01-26

"自省録" マルクス・アウレーリウス 著

プラトンは、著作「国家」の中で、哲学者の手に政治を委ねることを理想とした。その理想が、歴史上ただ一度実現した例があるという。第16代ローマ皇帝マルクス・アウレーリウスは、多忙な政務を果たしながらも自問自答に耽り、自省自戒の備忘録を残した。この書には、構成らしい構成がない。いちおう12章に分けられるものの、その都度、思いついてはメモったのだろう。言葉が立派だから政治家としても立派だった、とは言い切れないが...
その言葉を眺めれば、プラトンやアリストテレスが信条とした四つの徳「智慧、勇気、節制、正義」を基盤にしていることは想像に易い。注目したいのは、ストア派の影響を強く受けていることである。セネカやエピクテトスなどに代表されるストア派が流行した時代でもあり、本書にもエピクテトスの名を見かける。ただ、ストア派と言えば、物理学や論理学を倫理学の中に押し込んだ、頭でっかちの道徳観念という印象がある。いわば宗教の臭いがするわけだが、アウレーリウスの魂に乗り移ると、こうも様変わりするものであろうか。あるいは、まだ道徳の暴走が始まっていない時代であろうか。いや、ストア派に対する偏見かもしれん。
アウレーリウスは、宇宙論的な道徳を探求し、ひたすら不動心を求める。理性によって精神を解放し、真の自由人にならんがために。大ローマ帝国で、しかも皇帝の地位にありながら、ギリシア語で綴ったというから、よほどギリシア哲学に魅了されたと見える。そして、なんとなくストア派の書籍も漁ってみたくなる... 酔っ払いの衝動は、道徳の暴走よりもタチが悪い!

どんなに誠実な人物であっても、政治を行うとなると、それだけでは足りない。
義弟ルキウス・ウェルスと共同皇帝となるものの、ウェルスは怠惰な享楽好きだったという説がある。平和を楽しむことの久しかったローマ帝国にあって、ちょうど多事多難な時代を迎える。ティベリウス河の氾濫、地震、ペストの流行などの災難が相次ぎ、北方のゲルマン人とのいざこざ、さらにはシリアへ侵攻してパルティア戦争が起こる。アウィディウス・カッシウスはシリアで謀反を起こし、アウレーリウスが死んだと言いふらし、自ら皇帝を名乗ったという。彼は生粋の軍国主義愛国者で、アウレーリウスの平和的文化主義者とは正反対だっとか。カッシウスへ寛大な処置をとるようにと、アウレーリウスが元老院宛に送った手紙も残っているそうな。
しかし、歴史は、アウレーリウスを賢明な人物とするために、カッシウスを悪者にしているかもしれない。アウレーリウスの時代にキリスト教徒を迫害している事実もある。彼自身が率先したわけではないらしいが。
本書には、話し合っても通じ合えるものではないが、それでも根気よく対話すべし、といった自らを励ますかのような文面が目立ち、ひたすら道徳や正義に縋るのではなく、実践的な態度が綴られる。そして、戦争は人間性において不名誉であり、不幸であり、生命を有するものはすべて義務を持ち、目的を持ち、人間は宇宙国家の市民であることが語られる。人間は理性的に創られているとし、理性に生きれば自然に義務を果たし、そのために自律自由でなくてはならないとしている。衝動や欲望に惑わされない確固たる不動心へと導くことが、自由への道であると...
一方で、死後の世界に対しては、それほどの執着を見せない。魂が不死でも、無に帰するでも、どっちでもええやん!といった印象すらある。自殺ですら否定せず、道徳的な姿勢を貫くことができなければ、むしろ是認しているようでもある。そうならないために、知性と理性を養え!と自分に言い聞かせているのかもしれない。知性と理性を高めることによって、死もまた自然に覚悟できるということであろうか。まずは、「死ねばこれができなくなるという理由で、死が恐るべきものとなるだろうか」と自問してみよと...

ところで、理性とはなんであろうか?
我が家の国語辞典によると...「物事の道理を考える能力。道理に従って判断したり行動したりする能力。」とある。道理ってなんだ?...「物事の筋道。」とある。筋道ってなんだ?...「物の道理、条理。」とある。おっと!循環論に陥っている。国語辞典ですらまともに説明できないものを、どうして一介の酔っ払いごときが知り得ようか。
有識者どもに理性を持っているか?と尋ねれば、当たり前と言わんばかりに主張する。ならば、いつも憤慨しているのはなぜ?理性の力をもってしても、心に平穏をもたすことができないというのか?仮に理性を実践し、責任を果たしているというなら、その上に何を望むというのか?彼らは本当に自由人なのか?理性の欠片も持ち合わせないアル中ハイマーにとって、こんな言葉はこそばゆい。

1. 魂と死体
エピクテトス曰く、「君はひとつの死体をかついでいる小さな魂にすぎない。」
生とは、魂と肉体が一体となっている状態であって、魂が肉体をかつぐのをやめた途端に腐敗が始まる。魂は煙のごとく消えゆき、死後の名声ですら忘却に埋もれていく。これが人生というものであろうか。ならば、人を導きうるものとはなんであろうか?アウレーリウスは、唯一、哲学することだと答える。哲学するとは自らの思考によって知性や理性を高めること。ただそれのみが死を安らかな心で待ち受けることができると。能動的に自己の自由を制することこそが、真の自由へ導き、真に自己の所有を実現することができるということらしい。享楽や欲望に隷属すれば、自分の進むべき道も分からず、死体をかついで生きているに過ぎないというわけか。人生において、いつ死のうが大した問題ではないのかもしれん。
「ランプの光は、それが消えるまでは輝き、その明るさを失わない。それなのに君の内なる真理と正義と節制とは、君よりも先に消えてなくなってしまうのであろうか。」
歳を重ねたからといって、智力が増し、精神が成熟するとは限らない。もしそうなら、寿命の延びた現代社会では、より人間性を発揮するはずだ。却って生への執着が横暴になるのか?引退の道すら自分で見つけられず、地位は惰性的となりマンネリな権威で威圧し、他人の目ばかり気にして余生までも消耗してしまう。むしろ、死と隣合わせに生きる方が、生と正面から向かい合っているだけに、自己の腐敗にも気づきやすいのかもしれない。
自己を見つめるには、自問の原理に縋るしかあるまい。生涯を通して真理の探求を怠るわけにはいかない。芸術的な感受性を磨く上でも、自然を観察しないわけにはいかない。これが、神から授かった試練というものであろうか。
しかし、泥酔しきった肉体は、悪臭を放ちながらだんだん重く感じ、やがて引き摺りながら生きるであろう。ますます短気になり、嫌味やら、皮肉やら、愚痴やら、駄々をこねずにはいられなくなるのだ。
「いったい何にたいして君は不満をいだいているのか。人間の悪にたいしてか。つぎの結論を思いめぐらすがよい。理性的な動物は相互のために生まれたこと、互いに忍耐し合うのは正義の一部であること、人は心ならずも罪を犯してしまうこと。また互いに敵意や疑惑や憎悪をいだき、槍で刺し合った人びとが今迄にどれだけ墓の中に横えられ、焼かれて灰になってしまったかを考えて見るがよい。そしてもういいかげんで心を鎮めたらどうだ。」

2. 指導理性
「全体の自然は自己の衝動によって宇宙の創造に向かった。ところが現在は、すべての出来事は因果律に従って生ずるか、もしくはすべて非合理的であって、宇宙の指導理性(ト・ヘーゲモニコン)が自己の固有の衝動を向けるもっとも重大なことでさえも例外ではない。多くの場合においてこのことを思い起こせば君ももっと平静になるであろう。」
指導理性ってなんだ?
他人の指導を当てにせず、自ら先導して理性へ導け!ということのようだ。悟りというやつか。他人の行動を見るより、まず自己の行動を見よ!まっすぐ宇宙の真理を見よ!自然の摂理を見よ!...ということであろうか。
しかしながら、魂ってやつは、自然の意に反して真理から目を背ける。いくら自己に指導理性を求めたところで、社会制度に隷属し、組織に隷属する方がはるかに楽よ。論理を並び立て、詭弁や屁理屈を言っている方が楽よ。そんなアル中ハイマーには、この言葉が重くのしかかる。
「宇宙がなんであるかを知らぬ者は、自分がどこにいるかを知らない。宇宙がなんのために存在しているかを知らぬ者は、自分がなんであるかを知らず、宇宙がなんであるかをも知らない。」
とはいえ、自己の正体を知る人間なんか、この世にいるのか?理性を獲得すれば、それを知ることができるというのか?どうりで理性ってやつはこそばゆい。永遠に獲得できそうにないのだから...

3. 自然的な義務
義務とは、なんであろうか?組織の命令に従うことか?世間では、仕事を持つことが義務とされる。だが、仕事ってやつの定義が難しい。いくら商売とはいえ、誇大広告で欺瞞するのであれば、押し売りの類いと変わらない。悪徳商法だって仕事なのだ。今、自分のやっている仕事は、義務と呼べるほどのものなのか?生活費を稼ぐことを、義務と呼んでいるだけではないのか?下等とされる動物たちは、必要以上に獲物を食さず、自然に自制が利く。なのに、理性の持ち主とされる人間どもは、限りない豊かさを求める。常に将来に不安を抱き、なんでもいいから欲望を抱いていないと落ち着かない。名声を欲し、称賛を求め、けして虚栄心を捨てられそうにない。享楽や欲望のために働いているとすれば、手加減しなければなるまい。
「適当でないことならば、せずにおけ。真理でないことならば、いわずにおけ。その決断はあくまでも君の一存にあるべきだ。」
一方で、知性や理性に対しては遠慮はいらない。知識は無限にあり、道徳に無限に近づこうとしても到達できない。人間の欲望が、無限に解放できる唯一の領域が、ここにあろうか。ただ、知識を詰め込んでも、知性を獲得することは難しい。道徳を叩き込んでも、理性を獲得することは難しい。もうそんな努力は必要ないという人がいれば、既に精神の崩壊を招いているだろう。知性や理性の正体は一向に見えてこない。自然的な義務も一向に見えてこない。真理を探求する学問ですら、金儲けの手段となっているではないか。
「名誉を愛する者は自分の幸福は他人の行為の中にあると思い、享楽を愛する者は自分の感情の中にあると思うが、もののわかった人間は自分の行動の中にあると思うのである。」
アウレーリウスは、自然に適った存在であれば、自然に義務が果たせるとしている。そのためにもまず、自分に嘘をつかず、自己を誤魔化さないことであろうか。しかしながら、自己に欺瞞された状態で、自分の嘘を見ぬくことが出来るだろうか。せいぜい心掛けることぐらいであろうか。欺瞞されていないことを信じて...
「もういい加減で自覚するがいい、君の中には、情欲をかもし出して君を木偶のごとくあやつるものよりももっと優れた、もっと神的なものがあるということを。私の心には今なにがあるか。恐怖ではないか。疑惑?欲望?その他類似のもの?」

2014-01-19

もしも、まったく記憶力のない夢学者が夢現象を語ったら...

もしものコーナー... だめだこりゃ!

夢には、現実世界で意識的に描くものと、眠りの世界で無意識に見るものとがある。両者の扱いは、天と地ほどの違いがある。意識的な夢が幻想と蔑まれるのに対して、無意識的な心的現象は、そこに霊感めいたものを重ねる。古来、予知夢が英雄伝説を予感させてきた。アレキサンダー大王の誕生秘話では、母オリュンピアスは雷鳴が腹に落ちて辺り一面に火が燃え上がる夢を見たとされ、父フィリボス2世は、妻の腹に獅子が封印された夢を見て、後の息子を恐れたと伝えられる。こうした事例は枚挙にいとまがない。都合の良い夢を勝利の証としたり、悪い夢を警告としたり。現在でも、一富士二鷹三茄子を縁起の良い夢としたり、夢判断で宝くじの当選番号を占う人もいる。
人間には、無意識に生じる心的な超現象を、崇高なものと捉える性癖があるらしい。人間は考える葦である... と語ったパスカルは、たかだが一茎の葦に過ぎない存在でありながら、神をも想像できる能力を崇めた。我思う... と語ったデカルトは、神を思惟できる能力から、神の存在までも証明してみせた。
しかしながら、いくら無意識な領域を意識しようとしても、それを精神の存在によって説明しようとしても、そこには制御不能な自我が立ちはだかる。潜在的な不安や恐怖が、警告夢や死の告知夢を脳に投影することもあろう。予知夢が未来願望の姿だとすれば、デジャブのような現象は過去への回帰願望の顕れであろうか。望郷の念や過去に焦がれるのも、心の拠り所、すなわち帰属意識の再確認から生じるものかもしれない。
夢を見ている間は、眠りが浅いと言われる。熟睡すれば、外界との交渉を断ち、完全に刺激を遮断してくれるが、中途半端な眠りは奇妙な災いをもたらす。金縛りもその類いか。ちなみに、大学時代、講義中に睡眠状態をコントロールしようとして金縛りになり、もがく姿を友人たちに大笑いされたものだ。
眠りは、生理学的には休養であるが、心理学的には何を意味するのだろうか?現実逃避か?永遠の眠りへの不安か?はたまた、熟睡を求めるのは死への憧れか?人間は死を忌み嫌いながら、その正体を未だ知らない。実は、DNAあたりに組み込まれていて、潜在的に知っているのかしれないが。生きる苦痛を実感しているから、その対照に位置づけられる死にも同様の苦痛があると考えるのか?いずれにせよ、夢という現象には何らかの心的意味が隠されているのだろう。理解不能なほどに多義的ではあるが。鈍感で無意識でいられることが、どれだけ幸せであろうか...

夢ってやつは、見ている間は妙にリアリティがある。絶対にありえないシチュエーションなのに、見ている間はいとも簡単に信じ込む。現在と過去の人間関係がごっちゃになったり、仮想的な人物や歴史上の人物までも登場したり、まったく支離滅裂の世界!不安や願望で説明できる単純な夢もあれば、わざわざストレスを求める夢まである。自分の笑い声で目覚めることもあり、そんな時は笑いこけている余韻だけが残っていて、内容はまったく覚えていない。はっきり覚えている場合ても、ホットなお姉さんといいところになると必ず目が覚めやがる。続きを見ようとして二度寝すると今度は熟睡よ。一方で、最大の願望であるハーレムの夢を見たことがないのはなぜ?せっかくの夢の世界なのだから、思いっきりエゴイズムを発揮してもよさそうなものだが...
単純な夢では、むかーし、よく落下する夢を見た。突然、身体が空中に放り出されて、恐怖におののく。こういう原始的な夢は、人間の祖先が猿である名残りで、木から落ちる感覚の延長だとする説もあるが、かなり疑わしい。
あるいは、ゴジラ風の怪物やヤクザ風の怖い人たち、あるは軍隊に追い回されて、狭い空間に隠れている夢を見ることがある。何事もなく通り過ぎるのを祈りながら、悪魔に見つかった瞬間に必ず目が覚める。結末が分かっているのだから、気づいてもよさそうなものだけど。
また、熱があると、必ず見る夢がある。歪んだ空間に肉体が放り出され、身体中がねじれそうになるのだが、その現象を言葉で表そうとすると、うまくできない。
未だに、留年する夢を見るのはなぜ?留年はしなかったはずだが。学生時代に戻りたいという願望があるなら、明るい設定にしてもらいたい。
最近の夢では、尊敬していた先輩たちに叱り役を演じさせる。仕事の質には厳しかったが温厚な方々で、とても叱るようなタイプではなかったはずなのに... だから余計に応える。ちなみに、酔っ払うと謝り上戸になるらしい。普段からよほど悪い事をしているのか?叱られ願望があるのか?M系であることは否定せんよ。
これだけ矛盾だらけの世界に何の疑問を持たず同化できるということは、論理的に物語を感じ取る神経と、リアリティを感じ取る神経は別モノとしなければ説明がつかない。だとすると、目の前の現実が、どうして夢でないと言い切れるだろうか。精神そのものが不確実性に満ち満ちているのだから、夢もそうなる運命なのかもしれない。理不尽な夢に憑かれた自我に疲れ、精神病を患うのも、道理というものか。夢日記をつけるだけでも退屈しのぎになりそうだが、自我と喧嘩することになって気が狂いそうな気がする。もともと狂っているから問題ないのだけど。
もはや、夢の内容を解釈しようなんて思惑は絶望的である。夢現象とは、記憶の中で時間軸が再構築されている感じ、とでもしておこうか。そりゃ、記憶がいい加減なのも仕方があるまい。なのに、現実世界の法廷では、人の証言が判決の切り札とされる。人間社会とは、なんと恐ろしい世界であろう。プラトンはこう言った... 善人とは悪人が現実にしていることを夢にみて満足している人間である、と...

ところで、現代人の多くはカラーで夢を見るという研究報告がある。日常の映像情報に、これだけ色彩が溢れていれば、そうかもしれん。しかし、おいらには、はっきりしない。カラーを意識できる場面もあるにはあるが、目が覚めるとよく覚えていない。普段から物事を色の印象で感じていないのだろうか?最近、崇高な光が差す夢を見る。なのに、その光がカラーかと言えば、それすらはっきりしない。色彩系の神経が分裂しているのだろうか?おいらの記憶脳には色という属性がないような気がする。
また、夢とは、ある種の暗示の状態とも言えそうである。睡眠状態は、催眠状態と似ている。眠っている耳元で誰かが嫌な事を囁けば、うなされそうな。夢現象を、神経系の遮断効果と捉えれば、快感だけを感じ取るような覚醒状態とも似ている。神経系を制御できれば、人間の意志なんて、いかようにも誘導できるだろう。人体が量子力学で裏付けられた機械的構造をしている限り、ありえそうな話である。それどころか、既に洗脳状態にあるのかもしれん。
そこで、ある物語が頭に浮かぶ...
ある日、目の前に一匹の犬が現れると、「あっ、カンガルーだ!」と叫んだ。犬は、自信満々に、「おらぁ、カンガルーじゃねぇだ!」とつぶやいて去っていった。次の日、別の人の前にその犬が現れると、またもや、「あっ、カンガルーだ!」と叫んだ。犬は、いぶかしげに、「おらぁ、カンガルーじゃねぇだ!」とつぶやいて去っていった。そんなことが何度が続くと、ついに犬は、「おらぁ、カンガルーかもしれねぇだ!」と言って、ピョンピョン跳ねていったとさ...
この主役が犬だったか?猿だったか?はたまた、この物語が何のネタだったか?暗示にかかりやすい酔っ払いは、どうしても思い出せず... 既に二十年が過ぎたのだった...

2014-01-12

存在屋と破滅屋

物体の存在を強烈に印象づける物理量に、質量ってヤツがある。地上では重さと呼ばれ、女性の忌み嫌う現象とされる。おそらく、人類が意識というもの持った時点から、重力なるものの存在をなんとなく感じてきたことだろう。体調の悪い日には体が重いと感じ、体力が消耗すれば手足が重いと感じる。ガリレオは、著書「天文対話」の中で慣性の法則らしきものを語っいる。だが、いまいち自信がなさそうで、質量についても、おぼろげな認識しかなかったようである。アリストテレスの運動論以来、インペトゥス、モーメント、トルク、エネルギー、フォースなどと用語が乱立するのも、物理学が哲学との境界をさまよってきた歴史がある。
そこで、ニュートンは「力」という概念を持ちだし、質量を万有引力で説明した。だからといって、曖昧さが解消されたわけではない。人間は、あらゆる現象において、本能的に力関係を生じさせる。政治の力、金の力、愛の力などと言っても、幻想にしか思えんが...

はたして、力とは、なんであろうか?
アインシュタインは、あの有名な公式で質量とエネルギーの等価性を示した。ここに、力は質量を通じてエネルギーと結びつく。どうやらエネルギーってやつは、力学的に説明できるものらしい。
では、エネルギーとは、なんであろうか?学生時代、力とエネルギーの違いが分からず、悩まされたものだ。力学的エネルギーは、運動エネルギーと位置エネルギーの和によって構成され、そこには保存則が成り立つとされる。運動エネルギーの存在は、なんとなく分かる。そりゃ、物体が運動を始めるには、なんらかの力を必要とするだろう。実際、質量と速度の関係で示される。
では、位置エネルギーの方はどうであろうか?質量と重力加速度と位置(高さ)の関係で示されるわけだが、位置ってなんだ?物体が存在するからには、空間のどこかに位置するのは当たり前ではないか。つまり、位置とは、他の物体に対する相対的な場所でしかない。位置とは存在を意味しているのか?そうだとすると、存在とは、どんな物理量であろうか?潜在的なポテンシャルってやつか?人は皆、潜在能力を持っている。それを努力によって開花させる者もいるが、ほとんどの者は眠らせたままだ。おまけに、努力したって報われるとは限らない。潜在的な存在では、存在そのものが確実に保障されていると言えるだろうか?物理学は、そんな疑わしい存在までも仮定しないと法則性が導き出せないのだろうか?んー... エネルギー保存則が詐欺に見えてくる。

そもそも保存ってなんであろうか?この世に永久保存されるものがあるのか?少なくとも素粒子レベルでは、宇宙創世の時代から存在するようである。しかし、宇宙空間の変化と共に、物質は原子や分子へと成長し、物体というものを誕生させてきた。物質が成長するということは、そこにエネルギーのやり取りが生じるということ。保存とは、存在を保つと書く。だが、保つものがあれば、失われるものがある。愛は失われると分かっているから、常に確認せずにはいられない。DNAは子孫を残す度に上書きされ、もはや原型を留めておらず、プラトンのイデア論も絶望的な状況にある。
いまや、保存の法則よりも、破壊の法則の方が輝いて映る。より高度な存在を求めれば、物体は成長を望み、創造を試みる。そこに安住すれば、存在そのものが腐敗し、やがて破壊される。宇宙の骨格を成す素粒子以外では、結合体として存在するしかなく、その保存には創造と破壊が生じるとするしかなさそうである。宇宙空間が絶えず変化しているならば、質量とはエネルギーのはけ口としての必然的な現象なのかもしれない。
では、存在を強調するところに破壊が生じるのだろうか?なるほど、政治屋が社会制度を崩壊させ、金融屋が国際規模の経済危機に陥れ、教育屋が教養を偏重させ、愛国者が敵国をでっち上げ、平和主義者が戦争を招き入れ、友愛者が愛を安っぽくさせる。彼らは皆、破壊屋というわけか。いや、破滅屋よ。なによりも精神が、自己存在を意識した途端に絶望へと導きやがる。人間そのものが、自意識過剰な存在屋であると同時に、無節操な破滅屋というわけか...

2014-01-05

友に捧ぐ

ヤツは、生きようとしていた。忌々しい病に憑かれながらも...
癌は進化する生命体にとって、必然的な病だとする研究結果もある。こいつが何よりも厄介なのは、精神の内側から蝕んでいくことだ。寒々しい現実が、生きる意欲、戦う意志... こうしたものをことごとく挫く。精神安定剤などではどうにもならない。迫り来る痛みと孤独を前に、時折見せる目の奥の涙。ヤツは、笑顔を装う。いや、本心から笑みを浮かべていたのかもしれん。どうしようもない運命に導かれる時、人は本心を曝け出すものかもしれん。
人は時として苦痛に負け、つい身を委ねてしまうことがある。絶望という名の希望に。生きることと、死なないことでは、まるっきり意味が違う。ヤツはそれを目で物語っていた。人は皆、何かに縋らなければ生きてはいけない。そして、いつも生命維持装置となる存在を求めて世間を彷徨う。ただそれだけのことかもしれん。
天国と地獄があるなら、まさにこの世がそれだ。生き甲斐が見つかれば天国となり、見つからなければ地獄となる。病と闘うことが生き甲斐だというなら、そういう生き方があってもいい...

欧米には安楽死ビジネスなるものがあると聞く。悪魔のビジネスと呼ぶ者もいるが、そう言い切れるだろうか。死の誘惑はどこにでも転がっている。その衝動に負けた時、死を処方する闇のプロフェッショナルが、ほんの少し自然死の手伝いをしてくれる。もう充分に生きたからと自らを納得させて... 生きる権利を主張するなら、死ぬ権利を主張してもいいのではないか。しかしながら、充分に生きたとは、どういうことか?絶望を目の当たりにすれば、未練を断ち切ることができるというのか?
人が人を助けられるなんて思っちゃいない。少しでも力になろうとするのは、努力したという証を残し、自分に言い訳をするためだ。人間なんて身勝手なものよ。この世にただの一人、親友と呼べるヤツがいたとすれば、そう思えるだけで意義ある人生だと納得することができるのだから。奇跡の力など信じない。神の力などけして信じない。ましてや人間の力など、どうして信じられよう。だが、この時だけは、何かの力を信じてみてもいい... そう思った。希望なんて安っぽいもので運命は変えられない。友情なんてクソ食らえ!そんなことは、とうに承知していたはずなのに...
互いに遠くにいると、ふと思うことがある。待つ方が辛いのか、待たせる方が辛いのか。いずれにせよ、そんな気遣いはもういらない。それが最も辛いのかもしれん...

生きることの意義とは、なんであろうか。そんなものはないのかもしれん。だからこんなことを書いているのかもしれん。もしあるとしたら、生きている行為そのものに意義を求めるしかあるまい。この世に、尊厳死というものがあるとしたら... それを受け入れるしかあるまい...

自由な人間が、死ほど疎かに考えるものはない。自由人の叡智は、死ではなく生を考えるために在る。... スピノザ