2013-12-08

"忘れられた日本人" 宮本常一 著

民俗学者宮本常一は、その方面の第一人者柳田國男が提唱した「方言周圏論」に対して、控えめながらも、東西日本における文化の相違を指摘したそうな。酔っ払った反社会分子は、こういう挿話に弱い!
江戸時代から日本の中心は東京であり、学者も芸術家も東京を目指し、民俗風習の観察さえも東京人を中心になされてきた。しかし、文化や民族における画一的なモノの見方は、本質を見失う恐れがある。情報化社会とされる現代ですら、ステレオタイプ的な見識が旺盛なのだ。宮本氏は、そうした風潮を嘆いてのことか、昭和14年(1939年)から日本全国を思いつくまま歩き、生き字引となった老人立ちの話を聞いて回る。しかも、本土から離れた対馬や四国を題材にしていることが、島国根性の源泉を探っているように映る。現在風に言えば... ビッグデータという用語が世間でひとり歩きしている感があるが、スモールデータの分析もろくにやっていないのに... といった愚痴が聞こえてきそうだ。
とはいえ、きつい地方訛りを聞くだけでも退屈しそうで、交流好きで謙虚でなけば話題も引き出せないだろう。実に根気のいる仕事である。こうした熱意やこだわりが、本当の意味で学問を支えているのだと思う。確かに、学問は高度化、抽象化が進んでいる。その影で、具体的な民俗風習の観察が見落とされるとすれば、学問は本当に進化しているのだろうか?進化という言葉もまた迷信になってはいないだろうか?本書は、それを問うているような気がする。

当時の老人と言えば、江戸末期から明治時代を生きた人々で、本書はここに真の伝承者を求める。いくら島国とはいえ、しかも鎖国の時代とはいえ、村落構造、宮座、民家などで文化の系統が多様なのは自然であろう。大陸に近い地域ともなれば、中央政治とは無関係に文化交流が生じる。戦後、地主制や家父長制が、封建的というだけで批判され、農村イメージを一色に塗りつぶしてきた。だが本書は、様々な地主制の形態が存在したことや、家父長制や世襲制の一辺倒ではなかったことを物語ってくれる。
古来、日本には「講」という自発的な民衆組織があったという。信仰から親睦、農作業に関するものなど、人々は些細な悩み事から集いはじめる。草分け的に生じた民衆の集まりが巨大化していくと、そこに権力が入り込むという構図は、昔から変わらない。弱者の集うところに政治屋が入り込み、農協様のような官僚的組織が巧みに組織化されてきたことを想像させる。
また、女性の地位を巡っては、昔から虐げられてきたというのが通説であるが、西日本では、女性が一人旅をなしえたことや、エロ話を堂々としていた様子など自由奔放な雰囲気が紹介される。夜這いが日常的に行われ、性はタブーとされるのではなく、むしろ開放的であったとか。信長や秀吉と会見したルイス・フロイスも「日欧文化比較論」の中で、日本女性は処女の純潔を少しも重んじないと語ったという。男性社会と銘打ちながら、実は、女性のしたたかさに操られた社会だったのかもしれない。少なくとも、現代社会はそのように映る。家族の中で最も発言力があるのは財布を握る鬼嫁だ!との愚痴も聞こえてくるし。三行半では、夫が妻に離縁状を突きつけることになっているが、妻から愛想を尽かされたというのが本当のところでは?慣習とは恐ろしいもので、慰謝料の概念として受け継がれる。男性社会が成り立つのは金持ち風情の特権であろうし、金の切れ目が縁の切れ目となれば、男の方が三行半を喰らうのはもっともな話である。

ところで、歴史事象を観察する上で、通時性と共時性の二つの視点がある。通時性が歴史的な変化を追うのに対して、共時性は同時に生じる地域的な差異に注目する。いわば時間と空間の視点であるが、その双方が協調されてこそ、真の歴史へと誘なう。ただ、歴史学では、時代の流れから前後の事象と結びつけ、その意義を求めることの方が一般的であろうか。本書のように、時間をスライスしながら土地柄を語ろうとする文献は、少数派のような気がする。民俗学を歴史学に含めるか社会学に含めるかは微妙だが、それぞれ近接する領域にあって補完しあっているのは間違いなかろう。歴史ってやつは、通時性だけでは説明がつかないところがある。古典芸術が再解釈されて現代に蘇れば、たちまち共時性となって出現しやがる。まるで新たな発想が生まれたかのように。忘却が人間の得意技とすれば、いつまでも独創性を主張できるという寸法よ!

1. 寄り合い
村には世話人というものがいて、江戸時代には「肝煎(きもいり)」と呼ばれ、明治以降には「総代」と呼ばれたそうな。また、帳箱には古くから伝えられる文書が入っていて、取り決めや掟が二百年にも渡って残される村もあるのだとか。その様子を、対馬の伊奈という村の事例で紹介してくれる。
伊奈の古文書には、「宗氏の一族にあたる郷士の家が、寄り合いに下男ばかり出すのは、けしからん!」という記述が残っているそうな。郷士とは、農村に土着した武士の身分を与えられた者で、会合には、旦那も下男も一緒に出席する習慣があったらしい。主従関係や身分差別があるものの、意見を平等に聞く場があって、その中に一般の村人も含まれていたということか。寄り合いには、全員参加の風習があって、サボると周囲から非難される。透明性という意味では、見事な民主主義が機能しているわけだが、同時に柔軟性を欠く。些細な事でもなかなか結論がでず、間の間の...間をとって中途半端に決定されるといった具合。そして、最終的に村長や長老といった御意見番が決定するという仕組み。ここだけ見れば、永田町の論理か。
しかし、一旦事が決まると、誰も文句を言わず忠実に守り通す。狭い村ともなると、毎日顔をつきあわせなければならない。それでもなお、互いに気まずい思いをしないような、自然なシステムが育まれてきたということか。民主主義的な寄り合いと、決定事項に対する権威という両面から、村組織が機能していたというわけか。もともと民主主義的な風土があったからこそ、戦後いきなりGHQから押し付けられたアメリカ式民主主義を受け入れることができたという意見をよく耳にするが、あながち間違いでもなさそうである。
「日本中の村がこのようであったとはいわぬ。がすくなくとも京都、大阪から西の村々には、こうした村寄りあいが古くからおこなわれて来ており、そういう会合では郷士も百姓も区別はなかったようである。領主、藩士、百姓という系列の中へおかれると、百姓の身分は低いものになるが、村落共同体の一員ということになると発言は互角であったようである。」
しかし、つまらぬ事でも集まることが重要とされる感覚は、現代に悪しき風習として受け継がれるところがある。忘年会を欠席するだけで査定対象とされる企業組織があれば、その閉塞感に逃げ出す人も少なくないと聞く。また、親切心は村八分に変貌しやすい。せっかく親切にしたのに、見返りがないと妬んだり、好き嫌いが自然に生じ、なんとなく気に食わないといった感情から同調者を募ったりと。そこに、金銭と権力が絡めば、集団的暴力が表面化する。昔の村社会がうまく機能したのは、貧乏で権力と無縁だったからであろう。世話役が必要だったのも、謙遜や控え目を美徳とする風習があるからであろう。そして、世話役のように、きっぱりと物事を主張できるところに人が集まり、そこに政治屋どもが寄生する。村選挙が信仰化して村占拠となれば、若年層が村を逃げ出すは必定。民主主義が信仰と結びつくと、途端に機能を失い、民主主義の面影すら見えなくなる。

2. 農地開放と多様な村落
農地開放は、戦後、GHQ主導で実施されたが、もっと前の農林省が企画したものが引き継がれたようである。とはいえ、政治とは行動力であり、日本の官僚だけで実現できたかは疑問だが...
農地解放という言葉は、いかにも自由や平等と相性がよさそうで、弱者の味方や正義の味方という印象を与える。だが現実には、政治的にうまく振る舞う者や自己主張の巧みな者が得をし、本当の弱者はますます追い詰められる。こうした弱者社会に平等主義を掲げる政治屋どもが、寄生虫のごときつけ込むというお馴染みの構図か。
大きい地主の方は割合がつきやすく、むしろ小地主に問題が多かったそうな。当然ながら農地に対する農民の愛着は強く、実際には、解放する方が不合理という場合も少なくなかったようである。貧乏な農家では、馬や牛が売られる前に娘が売られ、息子も出征にとられ、子沢山が労働力不足を補い、学校なんて行かずに働け!などと説教されるような時代。農地開放の名の下で、ほとんど搾取される小作人たち。こういう有り様を見て、青年将校たちは決起した。二・二六事件などが、それである。貧乏農家出身の軍人が多ければ、正義漢も多かろう。政治がだらしないと偏重したナショナリズムが高揚し、正義の集団性が軍部を暴走させる。
さて、日本の村には、大きい地主が土地の大半を持って小作人の多い部落と、所有地が比較的平均している部落の二つのタイプがあるという。地主と小作の分化している村は、みな面白がって調査するが、後者のような平凡な村は、振り向く研究者も少ないそうな。だが、著者は、むしろ後者のタイプの部落の方が多いのではないかと語る。
そして、その典型として愛知県北設楽郡、旧名倉村(現設楽町)が紹介される。小さな村の存続のために、遠い村と嫁のやりとりをする。適齢期というものが設けられ、嫁に行けないと揶揄され、社会的な圧力も加わる。そして、おのずと格式やら家柄やら財産やらをやかましく言うようになったという。ある種の政略結婚のようなもので、見栄っ張りが旺盛となり、結婚式も派手になっていく。一昔前、名古屋の結婚式の派手さは有名だったが、今はどうなんだろう?共同体意識の強い地域ほど、参列者の数やら見栄えを気にするのかもしれん...

3. 年齢階梯制と隠居制度
年齢階梯制とは、年齢によって成員が区別される制度で、長老組、若衆組などがあるという。あるいは、女衆という集いも生じたようだ。寄り合いでは、戸主が集まるものとされ、女性が代理で出席することは少ない。出席しても、ほとんど発言せず、片隅にいるのが普通。そこで、独自の集まりが組織される。井戸端会議もその類いであろうか。
さて、年齢階梯制が、もっとも顕著なのは、非血縁的な地縁集団が比較的強い社会だという。血縁関係が薄ければ、互いに結合を強めるために地域的な集いが発達する。遠くの親戚より近くの他人というわけか。著者の印象では、年齢階梯制は、西日本に濃く現れ、東日本ほど希薄になるという。しかも、そのタイプも多様性に富んでいて、家父長的な同族結合の強いタイプ、非血縁結合の強いタイプ、そして、それらの中間的なタイプがいくつもあるという。
年齢階梯制の濃厚なところでは、隠居制度も強く現れるそうな。隠居制度の起源や起因は、非血縁的な地域共同体であったと思われるという。そういう村では、村作業が一斉作業となることが多いとか。山仕事、磯仕事、道つくり、祭礼、法要、農作業、公役奉仕などが、公共事業的な存在となっているようである。地方自治体の性格から、公共事業と結びつきやすい地域があるのだろう。そこに、政治権益が結びつけば、政治家の影響力を増し、大物政治家の出やすい地域となる。開発の余地のある土地柄ほど、餌食にされやすい。首相の出やすい町というのは、自慢にならないようである。

4. 講仲間とお堂
九州肥前の西部において、中世に発達した松浦一族のごときは、当初は松浦党と呼ばれ、同族集団的な色彩が強かったという。だが後に、姻戚にあたる宇久氏(五島氏)や青方氏なども含めており、クジによって座席を設け、本家と分家による秩序には従わなくなったという。これは郷土武士のケースであるが、瀬戸内海では、下級武士または農漁民町民など生産者の間でも同業者の集団を結成し、これを「衆」と呼ぶそうな。三島衆や塩飽衆などが、それか。衆は、鎌倉時代の文献にも見られ、一結衆などにつながるらしい。一結衆とは、「講仲間」というやつで、地蔵講や念仏講などが古くからあり、宗教的な集まりが始まりとされるようだ。
現在では、民生委員という用語を見かけるが、地縁集団から生じた世話人のようなものか。昔は、葬式が自宅で行われた。おいらの祖母の葬式も田舎の家で行われ、講仲間のような連中がいた。周囲の人たちが、当たり前のように葬式の手伝いをする。そういう光景が、懐かしく思い出される。今では葬儀屋がすべてやってくれるので、後腐れのない世の中となったものである。どちらが良いかは好みの問題であろう。登山道で自然に挨拶を交わすような雰囲気も悪くないが、周囲の人々が家族事情に詳しいというのも鬱陶しいものである。
また、兵庫県加古川の東岸一帯には、村落の中に講堂と呼ばれる建物が多いという。「お堂」という建物は、中世の絵巻物にも見られるそうな。お堂が村の寄り合いの場所とされてきたことから、宗教的な寄り合いが発達したのではないかという。講堂、講壇、講説といった類いで、もともとは長老の話を聞く場所が、教えを乞うような場所となっていったのかもしれん...

5. 世間師
意外なほど若い頃、奔放な旅をした経験を持つ者が多いという。その傾向は旧藩時代から見られるが、明治になって甚だしくなったとか。彼らは「世間師」と呼ばれる。村里生活が画一的だった分、行動においては個性が強烈だったということであろうか。旅の恥はかき捨て!というのもあろうか。
当時の老人は、若い時は、みんな無鉄砲な世間師だったという。確かに、日本中を歩きまわった経験を持つ年寄りは多い。祖父母の世代には、首都圏に出稼ぎに出た話や、海外で戦車に乗った話などを聞かされたものだ。戦時中、男は人夫として駆り出された。本書にも、東京、大阪、北九州などに出稼ぎに行った話が紹介される。
現在のビジネスマンは、首都圏や地方を往復したり、海外へ行くことも多い。しかし、そのほとんどは往復切符。世間師たちの旅は、それこそ無鉄砲な片道切符!戻れる保障があるのと、ないのとでは、心持ちも随分と違うだろう。安全で便利な社会が、人を臆病にさせるのか?現在のように思考が個性的になると、逆に行動では情報に流されて画一的になるのか?わざわざ現地に行かなくても、画像情報が容易に入手できるし...
貧乏な村の出身となれば、兵隊志願者も多く、海外へ出て行く者も多い。裕福な者が余暇で旅をするのと、貧乏な者が生活のために旅をするのとでも、意味が違う。冒険心においては、昔の人の方が勇気があったのかもしれん。
1877年、西郷騒動(西南戦争)で熊本の町は丸焼けになると、町の復興のために大工や人夫が必要という噂が流れ、人々が大挙して押し寄せたという。その復興も目に見えて早かったとか。こうした光景は国民性として受け継がれている。

6. 文字伝承と時間意識
古くから、日本人の識字率の高さを指摘する欧米人の文献を見かける。寺小屋などの文化が民衆から自発的に生じたり、村長や長老たちが率先して教師役を務めたりと。
とはいえ、地方の農村をくまなく歩く様子から、文字を知らない者が少なくないことも見えてくる。文字を知る者と、知らない者とでは、生活意識や性格にも大きな差が生じる。文字を知らない者は、語る者のことを信じて、そのまま覚えるしかないので、騙されやすい。よほどの作為のない限り修正しようとはせず頑固爺にもなる。対して、文字を知れば、偉大な書を読むこともでき、信じるかどうかの基準を自分で定めることができ、大袈裟な伝承に疑いを持つこともできる。
文字を知る者は、外部からの刺激にきわめて敏感だという。世間の流れやその歯車に、自分の生活を同期させようとして、より世間を気にすると。流行語に惑わされるのも、時代に乗り遅れまいという焦りがあるのだろう。知識があるために、却って惑わせることもある。言葉の持つ利便性は、そのまま言葉の持つ暴走性へとつながる。文字文化が存在しなかったら、国家という概念も成り立たないのかもしれない。よって、国家建設において、教育の重要性は非常に高い。
伝承者としての老人の役割とは、地域の生字引としての存在であるが、そういう役割も文献が整ってくれば自然に消えていく。人間の存在意義は、文字に置き換えられていくのかもしれん。ただし、文字に精神が結びつかなければ、伝承の役割は果たせないだろう。
「民間の口頭伝承は文書資料とちがって、自分たちの生活に必要のなくなったものはぐんぐんわすれ去られていく。しかしただ忘れ去られたのではなくて、神体だけはのこり、管理者がかかわっているものである。」
ところで、文字を知らない者は、一緒に話をしていても区切りをつけることがなく、ほとんど時間を気にしないという。ただ、朝だけは滅法に早いのだとか。飯だ!と言えば食い。暗うなった!といえば寝る。
「文字の縁のうすい人たちは、自分をまもり、自分のしなければならない事は誠実にはたし、また隣人を愛し、どこかに底ぬけの明るいところを持っており、また共通して時間の観念に乏しかった。」
一方、文字を知っている者は、四六時中、時計を気にしているという。時間によって、社会や世間における自分の位置を確認し、そこに責任感を結びつけるのかもしれん。責任とは、ある種の自己存在の確認であろうか。文字に対する意識が組織の中の自分を確認する意識と結びつき、空気を読むという隠れた文字を読む風潮を育んできたのかも。だから、寄り合いでもなんでも、どこかに所属していないと落ち着かないのかは知らん。
「民間のすぐれた伝承者が文字をもってくると、こうして単なる古いことを伝承して、これを後世に伝えようとするだけでなく、自分たちの生活をよりよくしようとする努力が、人一倍つよくなるのが共通した現象であり、その中には農民としての素朴でエネルギッシュな明るさが生きている。」

7. 四国の裏街道
土佐山中で出会った老婆の話は、四国のお遍路の旅を思い浮かべる。巡礼の旅路ともなれば、険しい道でなければ意義を失う。通りかかった老婆は、大変なレブラ患者で、男か女かも見分けがつかないほど。いわゆるハンセン病。その老婆によると、こういう業病は四国に多くて、そういう者のみの通る山道があるという。
「盗人の通る道もあるのだからカッタイ病の通る道もあるのでしょう」
善人に道があれば、罪人にも道があろうし、ケモノにも道があろう。明るい道もあれば、暗い道もあろう。生きる者すべてに道が用意されていなければ...

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