2013-11-24

"カラマーゾフの兄弟(上/中/下)" フョードル・ドストエフスキー 著

悪い病が... 前記事「罪と罰」の勢いで、この長編まで再読してやがる。おまけに、推理小説風の展開に一気読みせずにはいられない。その展開とは、物欲の権化のようなフョードル・カラマーゾフの血を引く三人の腹違いの息子に、私生児と噂される野郎を加え、おまけに、男どもの強欲に女どものヒステリーが絡んだ恋愛構図ときた。女と遺産が絡むと男どもはいきりたつ、儚い性分よ。そんな中で殺人事件が起こる。「犬神家の一族」を思わせるような地獄絵図、とでもしておこうか。
ちなみに、カラマーゾフという名の「カラ(カーラ)」には、暗黒や黒塗りという意味があるらしい。カラス(黒い鳥)の語源でもあるとか。腹黒さを題材にした定番のような物語というわけだ。しかし今読むと、これほど宗教色が強く、社会批判の強い作品だったとは... 宗教社会も、人間社会も... 世界はカラマーゾフ一家、人類はみな兄弟ってか...

父フョードルは一代で財をなした、というより資産家の生娘を口説いては我が物にしてきた。世間知らずの箱入り娘ともなれば、ちょいワル男にイチコロ!駆け落ちまでする。だが、恋が成就した途端に次の女に走るのが、カラマーゾフの性分よ。息子たちは、幼児期に邪魔にされ、召使や修道院に押し付けられてきた。長兄ドミートリイは、父親の財産を当てにする放蕩無頼な情熱漢となる。次兄イワンは、少年期に気難しく自我に籠り、冷徹な知性人でプライドの高い無神論者となる。しかし、三男アリョーシャだけは、長老ゾシマに心酔する純真無垢な修道者で、実にカラマーゾフらしくない。ドストエフスキーがこの人物を主人公に据えたのは、ブルジョワ社会における道義的退廃やインテリ主義といった風潮への批判であろうか?いや、盲目的に何かを信じれば、毒牙にかかっている。やはり、お前もカラマーゾフか。
「兄たちは自分を滅ぼしにかかっているんです... 父もそうですしね。そして道連れにほかの人たちまで滅ぼしてしまうんですよ。ここには、いつぞやパイーシイ神父の言われた "地上的なカラマーゾフの力" が働いているんです。地上的な、狂暴な、荒削りの力が... この上にも神の御心が働いているのか、それさえ僕にはわからない。わかっているのは、そういう僕自身もカラマーゾフだってことだけです...」
そして、息子らに割って入るのが、フョードルの私生児と噂される召使スメルジャコフ。彼はイワンの独特な無神論に心酔し、しかも癲癇病を患っていて、とんでもない行為に及ぶ。ちなみに、ドストエフスキー自身が癲癇病を持っていたことは広く知られる。古来、癲癇病は「聖なる病」とも「呪いの病」とも呼ばれ、痙攣して意識を失っている間、崇高な気分になれると聞く。その崇高な精神状態が、このようにさせるのか?
ついでに、女性陣も紹介しておこう。貴族女学校出の気高い令嬢カテリーナは、ドミートリイと婚約。ドミートリイにとって、お高くとまった女性を自分に振り向かせるのが快感で、しかも金目当て。一方、カテリーナの力強さとは対照的な存在に、妖艶なロシア美人のグルーシェニカを位置づける。彼女を巡るフョードルとドミートリイの確執は、「二匹の毒蛇が互いに食い合いをやる」構図。当のグルーシェニカも嬉しそうだから敵わん。男性諸君はみな、小悪魔にイチコロよ!
そんなところにフョードルが殺され、しかも事件当夜、ドミートリイが召使の老人の頭を殴って屋敷から出てきた。アリョーシャとグルーシェニカは無実を信じるものの...

ところで、本物語の最大の見モノに、二つの口論を挙げておこう。
一つは、イワンがアリョーシャに議論を持ちかける「反逆」とそれに続く「大審問官」の章。評論家ローザノフは、「大審問官」こそ「この小説の魂である」と指摘したそうな。それは無神論と有神論の対決で、カトリック教批判が思いっきり込められている。イワンは、無神論者というよりフリーメイソンか。正統派とされるヨハネに対して、反正統派とされるトマスが論争を仕掛けているようでもある。
二つは、イワンとスメルジャコフが三度の対面をする場面。カラマーゾフ家では、殺してやる!という暴言を耳にするのは日常茶飯事。そこにスメルジャコフが、自ら及んだ行為はイワンの意志に従っただけという証拠を論理立てて説明すれば、イワンは自分の意志に自信が持てなくなり精神病を患う。「永遠の神がないなら、いかなる善行も存在しないし、すべては許される!」と説いたのはイワンである。スメルジャコフは拳銃自殺に追い込まれる。
いくら自由意志を信じたところで、無意識の領域にも本性が深く根付いている。自分の行動が幻想かもしれないと思い込ませるのも、宗教を無条件に信じ込ませるのも、催眠術のごときものかもしれん。そもそも自発的に考える者が、人に考えを押し付けたりするだろうか?キリスト教徒も、反キリスト教徒も、同じく盲目の信仰に憑かれる。それは、敵意という信仰だ。洗脳によって自問する力をも奪うとなれば、俗界の盲目振りは呆れるほど。敵意に満ちた興奮の前では、人間は為す術もない。そして今、自分には社会風潮に対して問う力が残っているだろうか?社会に洗脳されてはいないだろうか?と問うてみても、俗界の泥酔者にはとんと分からん...

1. 幻の後編構想
冒頭には、13年前の出来事を回想する形で記述すると宣言され、後編の存在を匂わせる。だが、ドストエフスキーは本編を書き終え、三ヶ月後に他界。小林秀雄氏は「およそ続編というようなものがまったく考えられぬほど完璧な作品」と評したとか。まったくである。強いて言うなら、同じく冒頭で主人公にアレクセイ(アリョーシャ)を選んだことが宣言されるが、むしろ、イワンやスメルジャコフの方に大きな意義を与えているように映る。好みの問題かもしれんが...
本物語では、アリョーシャは誰にもまして現実主義者として紹介される。
「奇蹟が現実主義者を困惑させることなど決してないのである。現実主義者を信仰に導くのは、奇蹟ではない。真の現実主義者は、もし信仰をもっていなければ、奇蹟をも信じない力と能力を自己の内に見いだすであろうし、かりに反駁しえぬ事実として奇蹟が目の前にあらわれたとしても、その事実を認めるくらいなら、むしろ自己の感情を信じないだろう。また、もし事実を認めるとしたら、ごく自然な、これまで自分が知らなかったにすぎぬ事実として認めるにちがいない。」
だが、この紹介はイワンの人物像に近く、神に心酔するアリョーシャの純真さはこそばゆいぐらいだ。ひょっとすると、アリョーシャが現実主義に目覚めていく様子を、後編で描く予定だったのかもしれない。いくら神に恋焦がれたところで、人間は俗世の側にいる。もし、後編が存在したなら、もっと主人公らしい、もっとカラマーゾフらしい俗の姿を曝け出したのかもしれない。
ちなみに、アリョーシャが修道院を出て、リーザとの愛に傷つき、革命家になって皇帝暗殺の計画に加わり、断頭台にのぼることになっていた、という説もあるそうな。本書にも、アリョーシャと車椅子生活の長いリーザとの純愛が描かれるが、その扱いが中途半端な気がしなくもない。
また、研究家ヴェトロフスカヤは、神の人アレクセイ伝説との関連を指摘しているという。神の人アレクセイとは、4,5世紀のローマの苦行者のこと。名門の貴族に生まれ、妻とむつまじく暮らしていたが、思うところあって家出し、荒野で修行を積んで帰宅すると、妻も家族も彼であることに気づかず愚弄し、ついに死ぬ直前に名を明かすという。ヴェトロフスカヤの見解は、この伝説に主人公アリョーシャの運命を重ねようとしたのではないかというもの。アリョーシャが何に目覚めていくのかは知らんが、偉大な小説は作品が完成するまでの過程までも伝説にしてしまうんだから、敵わん!

2. 長老制度と聖人の遺体
長老制度は、ロシア正教において歴史的に微妙な存在らしい。長老がロシアの修道院に現れたのは、18世紀頃だそうな。ドストエフスキーの生きた時代から百年も経っていない。東方の正教会とはギリシア正教のことだが、長老制度はシナイやアトスに遥か千年も昔から存在していたという。ある説によると、古代ロシアにも存在していたとか。13世紀から15世紀のタタール支配、あるいは動乱、そしてコンスタンティノープル陥落などで東方との交流が遮断された結果、長老制度が忘れ去られ、途絶えたという。復活したのは18前世紀の末、偉大な苦行者の一人とされるパイーシイ・ヴェリチコフスキーとその弟子たちによる、ほんの一部の修道院だけだという。ロシアでは新制度として迫害さえ受けてきた制度で、特に栄えたのはコゼーリスカヤ・オープチナ修道院だという。
本物語では、自己の意志を完全に放棄し、長老の服従下とする思想が、アリョーシャを通して描かれる。アリョーシャにとって長老ゾシマは聖人なのだ。だが、長老とて亡くなる。腐敗、腐臭を放つ聖人の遺体をどういう目で眺めているのか?
「長老の遺体がたちどころに快癒の奇蹟を起すどころか、反対にあんなに早く腐敗しはじめたというだけの理由で、こんな悲しみや不安が心に生じうるものだろうか...」
聖人伝説には、遺体が腐敗を示さなかった事例も少なくない。その奇蹟が、修道僧たちに感動に満ちた神秘性を与える。聖人として心服していれば、腐臭も知覚が受け付けないというのか?それとも、腐臭を感じたならば、それこそ他の僧たちに尊敬の念が足らないと罵られるのか?聖人伝説を創作するには、防腐処理も欠かせない。信者は無条件の信念のためになんでもやる。教会や修道院という知性や理性の集団でさえ。俗人は、偉人に死んでもなお重荷を背負わせようとする。
また、神父の間にも派閥が生じ、長老を嫌う者もいれば、誹謗者もいる。優れた才能の持ち主が故に、恨みや妬みを買うのが俗界の掟だ。思惑が絡めば、防腐処理も手抜きをする。腐敗、腐臭を感じるのは俗人の自然の能力であって、むしろ奇蹟は神への冒涜となろう。長老ゾシマの遺体が腐臭を放てば、まさに自然に帰した証拠である。
「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。」... ヨハネの福音書第12章

3. 無神論 vs. 教会信仰
プラトンは、無神論の誤った考えを三つ挙げた。一つは、神が存在しないと考えること。二つは、神は存在するが人間には無関心と考えること。三つは、犠牲や祈願によって神の機嫌がとれると考えること。しかし、神を崇めるほとんどの者が、この三つ目に憑かれる。無神論者だって、すぐに有神論に鞍替えする。神の代理人と称する人間の多さには驚くべきものがある。信仰の恐ろしさは、病的な興奮にまで高められること。パスカルは言った、「人は良心によって悪をするときほど、十全にまた愉快にそれをすることはない」と。限りない神の愛をすっかり使い果たすほどの大罪を、人間が犯せるはずもない、と信じたいものだが。おいらだって、無神論者だし、無宗教者だし、ついでに泥酔者だ。葬式では、ちょいとばかり仏教に世話になるものの。だからといって、宇宙論的な絶対的な存在を信じないわけではない。宇宙法則としての到底敵わない真理のような存在を。それを神と呼ぶことに抵抗を感じるだけだ。
「18世紀に一人の罪深い老人がいたんだが、その老人が、もし神が存在しないのなら、考えだすべきである、と言ったんだ。そして、本当に人間は神を考えだした。ここで、神が本当に存在するってことは、ふしぎでもなければ、別段おどろくべきことでもないんだ。しかし、人間みたいな野蛮で邪悪な動物の頭にそういう考えが、つまり神の必要性という考えが、入りこみえたという点が、実におどろくべきことなんだよ。」
教皇グレゴリウス7世は、ローマ教皇のみが正当で、普遍的な教会の主であり、教皇のみが新しい法令を制定することができ、教皇が世界の無条件の主であると唱えたという。以来、ローマ教会はウルトラモンタニズムへと邁進してきた。ウルトラモンタニズムとは、「山の向こう側」という意味で、アルプスの向こうから押し寄せる教皇史上主義というわけだ。教皇とは、凶行に走るものらしい。
ロシアでは、無神論だの、革命だの、と叫ぶ社会主義者たちが旺盛となる時代。教会や聖職者は、国家の中で厳密な地位を占め、教会思想そのものが国家に組み込まれる。キリスト教徒の社会主義者は、無神論の社会主義者よりも、ずっと恐ろしい。あるいは、宗教に取り憑かれた革命家は、自由主義の革命家よりも、ずっと恐ろしい。ヨーロッパの自由主義やロシアのディレッタンティズムでさえ、社会主義とキリスト教を混同するという。敬虔な愛を盲目な愛と混同すれば、まるで地上のサタン!正義を宗教で規定しようとすれば、集団的暴力を加速させ、民衆裁判や公開リンチの類いに蝕まれる。このような集団的信仰を編み出す教会が、いったい何を救ってくれるというのか?懐疑心旺盛な泥酔者を、どうか説いてみてくれ!ドストエフスキーよ。
本書は、その答えとまでは言わないにしても、それらしい事をシンプルに語ってくれる。
「肝心なのは、己に嘘をつかぬこと。」
己の嘘に耳を傾ける者は、ついには自分の内にも周囲にも、いかなる真実も見分けがつかなくなり、自分をも他人をも軽蔑するようになるという。誰も尊敬できなくなれば、人を愛することをやめ、愛を持たぬまま心を晴らし、気を紛らわすために情欲や享楽に耽け、ついには罪業たる畜生道にまで堕落すると。すべては、絶え間ない嘘、自己欺瞞から生じるというわけか。
「おのれに嘘をつく者は、腹を立てるのもだれより早い。」
腹を立てることが、時には非常に心地良いものとなる。理性を自負して憤慨することが格好いいもんだから、腹を立てることに快感を求めたりする。叱られるより叱る立場の方が見栄えがいいもんだから。己の美学のために腹を立てる、とでもしておこうか...

4. イワンの叙事詩「大審問官」
さる修道院の詩に「聖母マリアの苦悩の遍歴」というものがあるそうな。聖母が地獄を訪れ、大天使ミハイルの案内で様々な苦悩を見て回る。その中に、火の池に落ちた二度と浮かび上がれぬ大罪人もいて、「神もすでに彼らを忘れたもう」という深みのある表現となる。それでも、聖母は泣きながら神の前にひれ伏し、地獄に堕ちたすべての者に分け隔てなく恵みを乞う。神は、聖母の息子キリストの釘付けされた手足を指し示し、あの子の迫害者たちを赦せるか?と尋ねると、聖母はすべての聖人、殉教者、天使たちに、自分と一緒にひれ伏し、すべての者に分け隔てなく恵みを乞うよう命じる。こうして、聖母の願いは神に聞き入れられ聖霊降臨となる。「主よ、こう裁きたもうたあなたは正しい」と叫んで。
しかしながら、宗教改革が生じると、異端審問の恐ろしい時代へ突入し、壮麗な火刑場で異教の徒を焼きつくす。異端とされたキリストを磔に処した愚かさは、その数十倍の復讐劇とされてきた。人間どもは神の名の下で悪魔と化すが、それでも神は沈黙してこられた。神を目覚めさせるには、これほどの残虐行為では足りぬというのか?自己の自由を主張する者が他人の自由を迫害するとは、これいかに?
イワンは言う...「人間は、もともと反逆者として作られている」と。人間への尊敬がもっと小さければ、人間に対する要求ももっと小さいに違いないと。人間を偉大な存在とするから、ますます神の反逆者に育てると。永遠の調和のために子供の苦しみを必要とするなら、そんな高い入場料を払わなければならぬ未来社会などいらないと。
アリョーシャは弁明する... そんな愚かな行為をするのは、ロシア正教ではなく、ローマのことだと。せいぜいイエズス会のような連中だと。
イワンは続ける...
「人間は良心の自由などという重荷に堪えられる存在ではない。彼らはたえず自分の自由とひきかえにパンを与えてくれる相手を探し求め、その前にひれ伏すことを望んでいるのだ。だからこそ、われわれは彼らを自由の重荷から解放し、パンを与えてやった。今や人々は自己の自由を放棄することによって自由になり、奇蹟と神秘と権威という三つの力の上に地上の王国を築いたのだ。」
すべての悪行を赦せる者がいるとすれば、それは、無実を背負って自らの血を捧げた、あのナザレの人のみ。無実を承知で、黙って犠牲となれる者のみ。大審問官の弾劾に対して、沈黙を守り続け、最後もやはり無言のまま接吻をする。これはいったい何を意味するのか?大審問官が展開する支配者の論理ぐらい、あの高貴なお方はお見通しよ。自由によって生じる社会風潮も、その風潮に流された判決の責任を背負う大審問官の苦悩も。おまけに、大審問官自身が心の奥底でキリストの正しさまでも信じながら、政治の手っ取り早い手段によって処刑しようとしていることも。あのナザレの人はすべてを見抜いていたからこそ、沈黙を通したのかもしれん。
今日、いつの時代にもまして人々は完全に自由であると信じきっている。しかし、自由の暴走ほど恐ろしいものはない。道徳家は、人間の自由を支配する代わりに、いっそう自由を増やしてしまった。曖昧なものや疑わしいものばかりを選び、自由は自ら制するものではなく、多くの自由を見出し、拡散させ、もはや手に負えぬものとなった。自由には、義務と責任が伴うことをすっかり忘れ、選択肢ばかりを増殖させてしまった。神は、本当に人間に自由を与えようとしているのか?無条件に信じる奴隷の方が可愛いと思っているのでは?神とは、実は悪魔と一体ということはないのか?あるいは、メフィストフェレスと無二の親友ということはないのか?二千年以上前、ヘロデ大王の幼児虐殺は、20世紀に大量破壊兵器の時代を迎えて市民虐殺となって見事な抽象化を体現した。21世紀になってもなお、大量破壊兵器に夢を託す政治家で溢れている。
「人間にとって良心の自由ほど魅力的なものはないけれど、同時にこれほど苦痛なものもない。」

5. 思想の姦通者
裁判官のプライドは高く、自尊心の強い性分が、世俗のヒーロー役を演じ、誤審へと邁進する。法廷でさえ洒落たシャツを着て伊達男を気取るドミートリイは、悪役にうってつけ。証人たちも、たちまち危険な存在となる。些細な状況から想像を膨らませ、証拠を歪ませる。こうなると集団的ヒューマニズムほど恐ろしいものはない。そこに出世主義が結びついたら目も当てられない。
興味深いのは弁護士側の弁論である。明白な事実は、フョードルが死んだということだけ。強欲な資産家が死ねば、それが殺人事件となり、しかも親殺しと風潮される。そこには先入観があり、そもそも殺人事件などなかったという主張である。推定無罪もここまでくると...
尚、1875年、保守的な社会評論家マルコフが、「19世紀のソフィスト」という一文を発表し、その中で、農奴解放後の公開裁判における弁護人を「思想の姦通者」と呼んで反響が巻き起こったという。「思想の姦通者」とは、目的のために白を黒と言いくるめるような詭弁を用いる弁護士を指すそうな。
それにしても、法廷とは奇妙なものである。無実を主張すれば、却って反省がないと見なされ、重罪を課せられる。真犯人が自供するよりも、無実の人が無罪を主張する方が、刑が重くなるとは、これいかに?どうせ処罰を受けなければならならないとなれば、少しでも刑を軽くしようと罪を認めてしまう。そうなると、法廷は悪魔の手先だ。冤罪率というものは、事実上、統計には現れない。真実を知る者は本人だけなのだから。法廷の正当性を、科学的に示すことはできるだろうか?本当に無罪ならば、それを主張し続けるしかないわけだが、既に処罰を受けている者は根気が続くだろうか?せめて、模範囚となって仮釈放に期待するぐらいか。法廷もまたメフィストフェレスと仲がよさそうだ...

2013-11-17

"罪と罰(上/下)" フョードル・ドストエフスキー 著

学生時代に読んだ、多分。だが、本棚には痕跡が見当たらない。古本屋にでも出したのだろう。引越しで最もかさばる荷物が書籍、おいらは引越し貧乏だった。一度読んだ本を読み返すなんて考えもしなかった。今から思えば、惜しいことを...

当時は推理小説ばかり読み漁り、その延長上に位置づけていたような気がする。ストーリーは極めて単純!正義のために犯した殺人が、自我の良心に押しつぶされていき、ついに自首するという物語。だが、心理描写だけで推理小説バリの凄みがある。推理小説というものは、もちろん論理性は欠かせないが、それ以上に心理の変遷の方に真髄があるのだと思ったものである。しかし今読むと、社会批判や政治思想の方に目がいく。例えば、こんな文面に...
「犯罪は社会制度の不備への抗議だというのさ... 十八番の紋切型さね!... もし社会がノーマルに組織されたら、すべての犯罪も一度に消滅してしまう。なぜなら、抗議の理由がなくなって、すべての人がたちまち義人になってしまうから、という結論になるのさ。自然性なんか勘定に入れやしない。自然性は迫害されてるんだ... 彼らに言わせると、人類は歴史的な生きた過程を踏んで、最後まで発展しつくすと、ついにおのずからノーマルな社会となるのじゃなく、その反対に、何かしら数学的頭脳から割り出された社会的システムがただちに全人類を組織してさ、一瞬の間に、あらゆる生きた過程に先だって、生きた歴史的過程などいっさいなしに、それを正しい罪のない社会にするんだそうだ!だからこそ、彼らは本能的に歴史というものが嫌いなのだ。歴史なんて醜悪で愚劣なものだ、そう言って、すべてを愚劣一点張りで説明している!」
見えなかったものが見えてくる分、見えていた純粋なものが見えなくなっていくのか...

本書には、心を開かせる二つのパターンが対照的に描かれる。いわば、頑固さをいかに和らげるかという心理的技術として。一つは、純真な心を持つ娼婦の存在が、自己の醜い心を鏡に映し出す。二つは、老練な予審判事が証拠を匂わせて巧みに心理戦を仕掛けると、精神の裁判官とも言うべき存在となる。前者は人間自然性において良心を揺さぶり、後者は心理的技術によって罪悪感を煽るといった構図。
さて、罪人にとってどちらが恐ろしいだろうか?政治的、あるいは宗教的な大人の思惑には無条件に反抗心を抱いても、純真な子供の心には素直になれるところがある。大人に指摘されれば、見栄や体裁ばかりを気にし、どんな些細な事でも憤慨するが、小学生に指摘されれば、素直にありがとうと言える。権威主義の前で意地を張るのは、精神が虚栄心や羞恥心の塊となっている証であろう。映画「小説家を見つけたら」を思い出す。それは、自我に篭った老いた小説家を、文才ある少年が救い出すという物語。純真な心の前では、まるで蛇に睨まれた蛙よ。
結局、本物語は良心が勝利して終わる。ロングセラーを維持し、学生に愛読され続けるのも、基本的な精神構造を題材にしているからであろう。それは、自己肯定と嫉妬に良心や理性を絡めた構造で、特に強調される情念は「選ばれし者」という自負心である。才能を持ち高い理想を掲げるが故に、人をこのようにさせるのか?人はよく、義務だ!良心だ!なんてことを言う。そんなものは惰性的で、都合よく解釈されるに過ぎないということか。無意味や無価値といったものもそうだし、正義ですら解釈される。この方面で、人類はいまだ普遍性なるものを知らないようだ。にもかかわらず、決疑論的な思考が研ぎ澄まされると、もはや自意識に駁論を見出すこともできなくなる。エリート主義が最高潮に高められると正義が暴走を始め、ついには神に選ばれし者を自負する。神の代弁者や、神の生まれ変わりといった発想は、古代から受け継がれ、未だ健在!空想に救いを求めるしか術を知らなければ、ある種の自慰行為であろうに。
人は皆、神にでもなったような気分になれる領域を、どこかに求めているのだろう。スターを夢見たり、自分の考えを多数派に浸透させたり、布教活動をしたりするのも、なんらかの才能を自負し、周囲の人々が跪くことを願っているのだろう。自己主張と権利は、どこまで許されるだろうか?その境界を、良心や理性なんぞで規定できるだろうか?法で規定できたとしても、法では裁けない罪がある。良心や理性などというものは、いくら理論武装したところで、すぐに限界に達し、論理を崩壊させる。だからといって神に縋っても、今度は無力感に襲われる。空想の中で喋り続ければ、不愉快となり、愚痴となり、自我を衰弱させ、心の情景に憂鬱な色彩を深め、ついには自己嫌悪へと貶める。酒場で紛らわせば、何でもくらだない!という口癖が板につき、正義漢は泥酔漢へと導かれる。これを「くだらない病」と言うとか、言わないとか。精神を獲得した知的生命体は、自由意志、すなわち愚痴との対決を宿命づけられているようだ...

1. 非凡人を自負する男
主人公ラスコーリニコフは、貧乏学生で豚箱のような下宿の一室に篭り、徹底した個人主義と論理主義に憑かれたような人物。非凡人には凡人のために設けられた法律や道徳を踏み越える権利があるとし、独自の正義感を膨らませている。
ちなみに、ラスコーリニコフという名は、ロシア正教の分裂派「ラスコーリニキ」に由来するようである。というのも、宗教分裂派の話題にも触れられ、共産団や専制主義への批判が込められている。あるいは、精神分裂症と重ねているのかもしれない。主人公の独立心をプロテスタント精神と重ねているようにも映る。
「いったい人間は何を最も恐れてるだろう?新しい一歩、新しい自分自身のことば、これを何よりも恐れているんだ... だが、おれはあんまりしゃべりすぎる。つまりしゃべりすぎるから、なにもしないのだ。もっとも、なんにもしないからしゃべるのかもしれない。」
ラスコーリニコフは、社会の害虫どもの成敗と言わんばかりに、悪戯な商売をする高利貸しの老婆アリョーナを斧で惨殺する。だが、偶然出くわした義妹リザヴェータまでも殺害してしまう。リザヴェータは、義姉にいじめられ、なんでも言いなりで、気が弱く、お人好しな人物。大義のためには小さな犠牲はつきものと言わんばかりに。しかし、やがて良心の声がささやき始める。正義感が強いだけに、その張り詰めた気分が、病的なほどの臆病へと誘なうのか。完全主義者であるが故に、世間に絶望し、自我に篭り、社会嫌いや人間嫌いを誘発し、心気症や憂鬱症にかかりやすいのか。人間には、肉体のメカニズムだけでは説明できない領域がある。心ってやつだ。極めて危うく、脆く、しかも不可解ときた。ならば、心の愚かさを素直に認め、肩の力を抜こう。

2. 純真な心を持つ娼婦
貧乏な家族を養うために娼婦となったソーニャは、またもな教育を受けず、少女のあどけなさが残る。長い間、苦境にありながら、身投げすることもなく、発狂もせずに生きてきた。男性諸君が、娼婦に憧れるのは、なにも肉体を求めてのことだけではあるまい。経済的にも、精神的にも、苦労が多いだけに、激しい性格でありながら、辛抱強く、心の奥行きを感じる。自分にはない人生観の持ち主に、何かを悟ったようにも映る。そこに、酒神バッカスが魔法をかければ、淫蕩の美学へ導かれるという寸法よ。
純真な心が自我を投影するかのように迫ってくれば、ついにラスコーリニコフは彼女に犯罪を告白する。まるで、真理の感染者のような恐ろしい存在。しかも、殺害したリザヴェータはソーニャの仲良しだったことを知る。下手な知識よりも、純粋な心の方がはるかに説得力があるというのか?所詮、知性なんてものは、情欲に奉仕するものなのかもしれん。
「科学、文化、思索、発明、願望、理想、自由主義、理性、経験、その他いっさい何もかも、何もかも... 何もかもが、まだ中学予科の一年級なんです!他人の知識でお茶を濁すのが楽でいいもんだから... すっかりそれが慣れっこになってしまった!」
自分自身が馬鹿で間抜けで陋劣漢と知れば、不幸になる。だが、その不幸を避けては真理から遠ざかる。幸福とは、陽気な馬鹿に与えられるものなのか?まやかし人生を、まやかしながら、なんとなく生きる。それが幸せというものかもしれん。

3. 精神の裁判官
老練な予審判事ポルフィーリィも、ソーニャと違って別の意味で恐ろしい存在。なんの証拠もないのに、執拗な追求に、冷酷な理論から人間性が引き裂かれていき、傲慢な自信までも失わせる。証拠がなければ、尋問者の方がまごつくこともあろう。その意味では、どちらも隠し事を持っている。ただ違うのは、嘘が刑につながるかどうかということ。疑うことが仕事であるから、疑う側はそれ自体が自然な振る舞い。やはり、心理的優位は、若干尋問者の側にありそうか。その若干の優位性を最大限に利用することが、司法技術というもの。
「予審判事の仕事は、いわば一種の自由芸術!」
科学的証拠に優るものはないはずだが、司法では未だに自白や自供が決定的な力を持つ。科学捜査が盛んとなっても、相変わらず司法取引が有効であり続ける。被害者妄想から冤罪を仕立て上げられるケースもあろう。面倒な捜査を早く終わらせたい、あるいは税金の節約という意識が優先される。エリート主義ほど自分の誤りを認めたがらないとすれば、尋問者も被尋問者も同じ穴のムジナよ。尋問する側は、緊張と緩和を巧みに織り交ぜ、緩急自在に攻め立てる。
ちなみに、取調べ室で、貴様は人殺しだ!と繰り返して疲れさせ、思い切り腹が減っているところに、カツ丼が出るとった刑事ドラマの定番がある。刑事のポケットマネーで人情味を見せることで、ほんの少し良心をくすぐり、本音を吐かせるといった具合に。心理的には、拷問よりも合理的か。その按配は、被尋問者の性格に合わせる。なるほど、自由芸術か。人間社会における客観性なんてものは、若干の補助機能として働いているだけなのかもしれん。

4. 空虚な悪党の思惑
ラスコーリニコフの妹ドゥーニャは、スヴィドリガイロフの家に住み込みで家庭教師に雇われる。スヴィドリガイロフは、ドゥーニャに惹かれていく。彼は、ラスコーリニコフがソーニャに告白した犯罪を壁越しに聞いていた。そして、孤児やソーニャを援助して慈善家を演じる。
スヴィドリガイロフは、兄ラスコーリニコフを強迫して、妹との結婚を取り持つように要求する。埒があかないとなると、今度は妹に真実を語って結婚を迫る。ラスコーリニコフは、淫蕩無惨な背徳漢スヴィドリガイロフのうちに自分の内にある卑劣漢を見る。スヴィドリガイロフは、ドゥーニャが愛してくれないことに絶望すると、ソーニャに財産を授けて街を出る。そして、旅先で拳銃自殺。

5. 懲役刑の意義
刑罰の難しさは、刑期を終えた途端に、罪がチャラになるという気分にさせることにある。宗教の限界は、懺悔すればチャラにしてくれること。更生したと自覚すること自体が、更生できていると言えるのか?だが、そうでも思わないと、自我を救うことはできない。まだしも他人から責められ、社会から責められる方が、楽なのかもしれない。真の更生者は、精神病に蝕まれていき、永遠に救われないのかもしれない。独習哲学者ともなれば、本を読むのではなく、本に読まれる。まだしも、酒に飲まれる方が楽であろうに。良心があれば、自分の過失を認め、勝手に苦しむ。これも一つの罰であろうか。
もし、人を殺していいなんて権利を持つ者がいるとすれば、そいつだって殺されても文句は言えまい。法を超越した権利の持ち主ならば、法の枠組みを超えた罰を与えられるのも道理というものか。それは、法が認めた死刑執行人とはまったく違う次元にある。能動的に罪の意識を持つことは、人間の最も苦手とする情念なのかもしれない。
ラスコーリニコフの場合は、過失ではない。確実な意志の下で斧を振り下ろした。ついに自首する気なるが、なかなか罪を素直に認められず、償う気にもなれない。シベリアの監獄へ移送されても。
悪事とは何を意味するのか?ただ刑法上の違反を認めたというだけのこと。強制労働で疲れた日はぐっすりと眠れる。皮肉なことに、獄中では精神がすっかり自由になる。しかし、冷静に考えれば考えるほど、自責の念に駆られていく。ソーニャもシベリアへ移住し、面会を欠かさない献身さを見せる。あの狡猾なスヴィドリガイロフですら、自ら死に至らしめた。自分の方が、殺されたしらみよりも、もっと嫌な汚らわしい人間かもしれないと...

2013-11-10

"人間知性論(全4冊)" John Locke 著

「壮年にして世を去った亡友加藤卯一郎君が健全であれば、必ず全訳を企てたであろうと、亡き友人を偲びながら筆を取った。」
前記事の「人間悟性論」は加藤卯一郎氏の部分訳版で、この「人間知性論」は大槻春彦氏の全訳版である。加藤氏によると、ジョン・ロックは「悟性論」の執筆に20年を要し、時々思い出しては書いたために、重複箇所が多いことを認めているという。多忙で怠惰のために整理しきれなかった、と後世語ったとか。そうした印象は部分訳版ではあまり感じなかったが、なるほど、全訳版はかなりこってりしている。言い換えれば、部分訳版がいかに要約されていたか、ということか。おそらく逆順に出会っていれば、部分訳版を手に取ることはなかっただろう。重複した書を読むことは無駄と考えがちで、よほど翻訳が気に入らない限りはやらない。しかし、だ。思考プロセスを味わうには全訳版も捨てがたく、こうした試みも楽しいことに気づかされる。
そして、無駄とは何かということを考えさせられる。... 無駄を知らずして、有意義を知ることはできまい。ネガティブ思考を避け、ポジティブ思考ばかりを追いかければ、陽気な無知と成り下がるだろう。情報の9割は、社会風潮に惑わされたもので、無駄なのではないか。回り道、寄り道、道草の類いの方が、遥かに有意義なのではないか。実は、無意味、無意義、無駄、無益、無用などと蔑まれる方にこそ、真理が潜んでいるということはないだろうか。春風にでも揺られるように思考の散歩を楽しむ、まさに春風駘蕩のごとく。真理への道とはそういうものではなかろうか。... などと。そして、無知性バンザイ!無理性バンザイ!ついでに酔っ払いバンザイ!...と自我に同情するのであった。

「無意味な饒舌を弄し、自分で不快になるより、知らないのを知らないと告白する方が、はるかによい。」... キケロ著「神々の本性について」より

ところで、表題を「悟性論」から「知性論」に変えたのはなぜだろうか?理性や知性という言葉はよく見かけても、悟性という言葉はあまり見かけない。一般的に論理的思考や思考力などの語で代用され、哲学の領域に押し込められた感がある。
では、悟性という言葉を、ちょいと解放してみよう...
広義には、知性に含まれるのかもしれない。理性が悟性から生じるのかは知らんが、相性がいいのは確かだろう。理性がいかに直観的であっても、論理的な裏付けがあってより強固なものとなるのだから。さらに、実体験で後押しできれば、揺るぎない思想観念が構築できる。しかしながら、どんなに優れた知識を駆使しても、やはり判断を誤る。人間能力が不完全である以上、知識が完璧だと信じるのは宗教観念に陥った感がある。いくら真知と呼んだところで、厳密な意味で真知にはなりえず、結局は直観や経験に頼らざるを得ない。判断力は常に期限とやらに追い回され、そこに蓋然性がつきまとう。人間の能力が臆見や誤謬から逃れられないとなれば、精神修行などでは何一つ悟れないということか。悟性が悟る性質と書くのは、偶然ではなさそうである。そして、狭義には... 悟性とは何一つ悟れないことを悟る... とでもしておこうか。

まさにロックは、観念の生得性を否定し、経験論を唱える。経験論といっても、キリスト教的伝承を崇め過ぎるきらいを感じないわけではない。彼が敬虔なキリスト教徒であるのは確かなようで、その意味でブレーズ・パスカルの論調に似ている。普遍的な神学論を構築しようとキリスト教の合理化を試みれば、宇宙論的な神を受け入れざるを得ないだろう。原子論的な展開を見せるのも自然である。
この書には、カトリック教会批判が込められているかは定かではないが、少なくともスコラ学派批判が見て取れる。特に、三段論法的な思考を、かなり意地悪で丁寧に論じるあたりに。一旦理知の枠組みを決定して、しかもその形式を崇拝すれば、柔軟性を欠くとしている。真知が様々な種類を持つならば、思考方法や論理形式も多様的になるのは自然であると言わんばかりに。尚、三段論法はスコラ学派が信条とする論理形式だそうな。アリストテレスは、あの世で嘆いているに違いない。
しかし、これだけ経験を重視しながら、ユークリッド幾何学の公準や公理を高く評価している。思考プロセスにおいて、演繹による推理や論証が重要なのは当然だとしても、公準や公理はこれ以上証明できない普遍的な原理によって支えられている。あるいは、カントはア・プリオリな概念を時間と空間の二つのみで定義した。こうした思考原理は、純粋な直観に支えられるわけだが、これらも経験的と言えるのだろうか?人間の直観力を、普遍原理において信じるならば、極めて宗教的ですらある。ロックは、信仰と理知は矛盾しないとしている。とはいえ、信仰と理知の境界を知ることも必要だと言っている。
「もし信仰と理知の境が立てられないと、狂信すなわち宗教で常軌を逸したことも反駁できない。」
思考が働くということは、何らかの情報、すなわち記憶を辿っていることになろうから、経験的と言えるのかもしれない。DNA構造が半永久的な記憶素子として機能していれば、そこに時間の概念が埋め込まれ、立体的な螺旋構造が空間の概念を与える。時間にしても、空間にしても、胎児の段階で知っているのかもしれない。そうなると、生得と経験の境界がぼやけてくる。いずれにせよ、無意識の領域に意志なるものがあっても不思議はない。その証拠に、未だ気まぐれを制御する術が分からん。
... などということは前記事でも書いた。同じ事を繰り返すのは精神が泥酔している証であろう。こりゃまずい!酔いをさますために、知性豊満なボディラインを求めて夜の社交場へと消えていくのであった...

1. 実体と認識イメージ
精神の観念の明晰さは物体と同じだという。確かに、認識イメージは、ニュートン力学やユークリッド幾何学に求めているような気がする。ロックの実体が、おいらの実体イメージと似ているかは分からないが、ちょいと試してみよう...
物事を理解する過程において、おいらの中には、実体的な解釈と、表記的な解釈があるように思う。それは、数式や文章の意味を理解しようとする時に、違いが如実に現れる。事象イメージが幾何学的に投射できれば、実体的な感覚として捉えることができる。つまり、分かった気になるってやつだ。そこに哲学的な意義が結びつくと、おいらは、これを「理解した」と解釈する。
一方、論理の積み重ねで証明できたとしても、どうしても精神空間に投射できないものがある。表記的な解釈ができても、心に訴えるものを感じない。数式や文章が風景のごとく通り過ぎていく感じ。こうした認識イメージは、数式や文章だけでなく、身体運動にも生じる。動体視力というものがあるが、卓越したスポーツ選手は、運動している自分を長く感じられる時間軸を持っているのだろう。ボールが止まって見える!などと言うのは、まさにそれか。精神空間内で対象が幾何学的イメージと結びつくと、思考や運動がスムーズに行える。
ロックは、観念を持つ活動は、思考と運動だけだとしている。優れた思考力にしても、あらゆる能力差とは、より長く感じられる精神内時間の差なのかもしれない。実際、頭の回転が速い!などと言ったりする。時間を無限に感じることができれば、究極の思考力を発揮することができそうだ。無心や無我の境地といった精神状態においても、時間の無限性のようなものを感じて、崇高な気分になれる。精神内には、幾何学的な空間イメージと、論理的過程の時間イメージがあり、双方が結びついた時に記憶として残りやすい。
しかし厄介なのは、理解した気分と理解した内容が、別々に記憶されることである。まるで気分と中身の幽体離脱。どうりで、理解したはずだと思い込んで記憶を遡ると、いつも全然理解していなかったことに気付かされるわけよ。そして、常に思考過程をメモっておかないと不安に襲われるが、それも無駄な努力に終わる。理解した気になった時の思考過程は、現在の思考アルゴリズムと全然違うのだから。おいらの精神空間は、曲率の歪が刻々と変化する上に、気まぐれときた。空間や時間が定義できない領域で、統一観念や普遍観念を見出すことは不可能だ。俗世間の泥酔者には、解釈することができても、理解することは永遠に叶わぬであろう。
... などと、ボキャ貧小僧にはこんな事ぐらいしか語れん。自己放射は、既にブラックホールに落ちた感がある。

2. 意識と無意識
知識を知らない時代の自分を思い出すことは難しい。いまや純真な心を取り戻すこともできない。物心がつくとは、どういう現象なのか?ロックなら、知覚や感覚が観念と結びついた時とでも答えるのだろう。彼は、すべての観念の生得性を否定する。意識できるとうことは、そこに観念なるものが生じるのだろう。それには同意する。だが、生まれたばかりの赤ん坊だって尻を叩くと泣きだすではないか。先立つ教えは、無意識の中にもある。
また、目覚めている自分と眠っている自分とでは、同一人物と言えるだろうか?夢であれば、思いっきりエゴイズムを発揮してもよさそうなものだが、想定外に展開されるのは、そこに別の人格が存在するということになりはしないか?夢現象が眠った肉体と目覚めた魂の分裂とすれば、人格の幽体離脱か?あるいは、現実を生きるだけでは物足りぬというのか?ならば、精神分裂症は、人間の魂を忠実に体現した状態で、こちらの方が正常なのかもしれない。
意識できない領域がこれほど広大なのに、なぜ自由意志なんてものが信じられるのだろうか?そうでも思わないと、やってられないってか!いずれ死を迎えると知っていても、生に意義を求めないと生きられないってか!精神が欲望の奴隷となるならば、真の自由意志は無意識の中に見出すしかあるまい。潜在意識や無意識を意識でき、自由に制御できれば、最も純粋な理念や理知を構築することができるのかもしれない。
しかしながら、道徳の大原理は、実践よりも口先で勧められることの方が多いと指摘される。徳が一般的に推奨されるのは生得だからではなく、得になるからだと。そして、意志と欲望を混同してはならないと。意識があれば思惟せずにはいられない。実存原理の源泉がここにある。だが、心と思考が、あるいは、心と観念が一体だと、どうして言えようか?有は無に屈服するものなのか?時間と空間が究極の物理量である無限と結びつくように。そして、理性や知性を癒すには、無に帰するしかないというのか?そうかもしれん...

3. 力能と自由意志
「必然性と自由が両立できて、同時に自由に束縛されるということができるのでないかぎり、自由であるはずはないのである。」
自由は意志に属さないという。ロックは、「自由意志」という言葉が嫌いなようだ。確かに、意志は隷属への反発から生じるところがある。意志が欲望の虜となることが、しばしば自由とされる。なるほど、意志こそが不自由を規定しているのかもしれない。
もし自由意志なるものが存在するとすれば、必然的に自己抑制の能力を具えることになろう。精神の天才たちは、受動的な観念を能動的に作用させる術を知っていそうである。
「意志が自由をもつかどうかを問うことは、一つの力能がもう一つの力能を、一つの性能がもう一つの性能をもつかどうかを問うことであり、議論したり答を必要としたりするのは一見して不合理が大きすぎる問いである。」
自分の意志が自由であるかどうかを問えることが、一つの能力かもしれない。だが、真の自由人が自由を問うであろうか?自然を満喫できる者が、自由なんぞに目くじらを立てるだろうか?意志は、自由よりも不安や欲望と相性がよさそうである。凡庸な、いや凡庸未満の酔っ払いは自由が欲しいと大声で叫び、純粋な天才は静かに自由を謳歌する。
ところで、誰もが幸福を望むが、幸福は真理であろうか?ロックは、欲望は落ち着きのなさであり、落ち着きを取り戻すことが幸福の第一歩だとしている。幸福を求める心は普遍的であっても、その観念となると極めて多様だ。真理の探求が幸福への道だとしても、貧困や困窮といった切迫した事情があれば、真理を考える余裕もない。善というものは、ゆとりのある者が実践できるのであって、餓死寸前ともなれば、善悪の観念すらぶっとんでしまう。人は幸福過ぎても不幸過ぎても、やはり冷酷になるのだろう。真理と幸福は相性が良さそうに映るが、定かではないし、そもそも幸福の正体を誰も知らないのかもしれない。誰もが幸福を求めるということは、誰もが幸福に到達していないということかもしれない。
ロックのような天才は、願望や欲望を、幸福に結びつける術を知っていそうである。是非教えて頂きたいが、そんなものは教わるものではなく、自分で悟るものだと冷たくあしらわれそうだ。幸福になる術を教えてくれ!と願うだけで、既に欲望の虜になっているのかもしれん。知識は教わることができても、知性は教わるものではないというわけか...
「善人は、もし正しければ永遠に幸福だし、まちがっていても不幸でなく、なにも感じない。他方、邪悪な人は正しくとも幸福ではなく、まちがっていれば無限に不幸だ。」

4. 分節音と不変化詞の意義
人間は、分節音を造れるようになっているという。意志を伝えるための言葉は、人間社会の必需品。記号の観念は、意味音と無意味音の混在によって形成され、無意味音が言葉にリズムを与え聞き取りやすくさせる。会話において、あうんの呼吸や相槌といったものが、いかに重要であるか。空白のような無意味な区切り、接続詞のような区切り、あるいは、雑談や無駄話の類いも。単語や行間に隠される言葉を察知したり、言葉の裏を読む心の働きが、精神を進化させてきたのだろう。言葉は、名前を与えるだけでは不十分。コミュニケーションの本質は、むしろ無音や無駄音の側にあるのかもしれない。神が沈黙を守っておられるのも道理というものか。
ロックは、不変化詞の意義のようなものを語ってくれる。言語系は、本質的に意味を成す人称、数、性などに、語形が変化する動詞、名詞、代名詞、形容詞を組み合わせて、直接物事に対応させる。その一方で、これらを統合する役割に、接続詞、前置詞、副詞、助詞といった不変化詞がある。心の中でイメージを抽象化したり、文章の流れから推論を与えてくれるのも、不変化詞が寄与する。情報工学的に言えば、誤り訂正符号のような役割もあろうか。
日本語が主語をあまり必要としない文体であるのは、助詞や副詞の役割が大きい。西洋語では否定詞が前に配置されるだけに、長文になっても前提が把握しやすい。その点、日本語は前後の文脈から、否定を匂わせながら、最後に否定形が現れる。例えば、「せっかくのお招きではございますが、当日は...」と言えば、最初から断る雰囲気を作る。
不変化詞は、自立語を結びつける付属語として機能し、曖昧な表現が心の活動を促す。芸術作品が抽象的なのも、暗喩や比喩といった技法に訴えるものがあるのも、心の活動を促すからであろう。さらに、音律を整えれば詩や唄が生じる。だが、言語の不完全性が自由な精神活動を誘発する分、言葉の濫用が真理を惑わす。洗脳や勧誘では、分かりやすい言葉を連呼すれば効果的だ。古くから政治的なロビー活動が、メッセージの代用として象徴的な肖像や銅像を用いてきた。弁論術や修辞術といったものが真実を欺瞞し、いかに扇動の道具とされてきたことか...

5. 観念の永続性と忘却
ロックは、絶えず反復される観念が、永続的になるとしている。精神が本質に引き寄せられる性質を持っているならば、永続の観念こそ真理へ向かわせるだろう。
しかし、人間の得意技に忘却ってやつがある。神にも優る能力だ。忘れることで心が平穏を取り戻すのであれば、ある種の防衛本能として機能している。不安が先行して目先にとらわれれば、社会風潮に流される方が気も楽になれる。みんなで不幸になる分には、それほど不快を感じず、むしろ絆といった言葉で癒される。だが、自分だけが不幸に見舞われると激怒する。精神が受動的になると、せっかくの真理は忘却の渦へ消えていき、落ち着きのなさが愚かな行為を繰り返させる。怠惰や享楽はすぐに飽き、退屈病を呼び込むことになるので、持続の観点からけして心地良いとは言えまい。すると、持続の観点から心地良いものが、真理ということになるのか?知性こそが持続ならしめるものというわけか...
「あの不世出の英才パスカル氏について、健康の衰えが記憶をそこなうまで、理知の確かな年齢のどの部分で行ったことでも、読んだことでも、考えたことでも、なに一つ忘れなかったと伝えられている。」

2013-11-03

"人間悟性論(上/下)" John Locke 著

行付けの古本屋で、久しぶりに興奮するような出会いにありつく。1940年刊行... 日焼けしたページがブランデー色を彩り、年代物の風味を醸し出す。旧漢字が鏤められ、かなり読み辛いが、お構いなし。おかげで、新旧漢字対応表を作成するに至る。なぜ、こんな面倒な作業をやってまで?その気になれば、復刻版を入手することだってできるのに...
実用的でない、無駄に思える事をやることに、若干の喜びを感じるようになったのは確かである。怠惰に生きてきたことへの償いであろうか?有から無へ気移りしたのであろうか?酔っぱらいごときが生きていること自体、無駄なのかもしれん。無用や無駄といった定義は、生き方にも関わる。生き方が変わってきたということか?いや、神経が泥酔してきただけよ。もちろん酒にではなく...  君に酔ってんだよ!

ジョン・ロックは、イギリス史上で多難な時代を生きた。それは、清教徒革命や名誉革命で代表される内乱に見舞われた時代である。ちょうどスピノザと同年で、デカルトを引き継ぐ世代、スコラ学的なアリストテレス主義の亜流が色濃く残る時代でもあろうか。ロックが悟性論を書したのは、空虚な論争が学問の進歩を阻害すると考えたのかもしれない。
ロックの実存観念は、デカルトの我思う... と似ている。しかし、人間の能力をはるかに謙遜する立場にあり、あえて神の実存認識を批判しているようでもある。神を認識できる能力があるとすれば、人間の理性はあらゆる事態を扱うことができると考え兼ねない。ロックは、理性の存在を認めるものの、それを批判することによって、哲学の任務としているようである。その意味で、カントの批判哲学に受け継がれているように映る。哲学が宗教と決定的に違うところは、無条件に信じることを許さず、徹底的に悟性を働かせることにある。そして、答えが見つからず、自己矛盾に陥り、ついには救われないってか...
それでも、ロックは誘なう。人から寄せ集められた意見に頼って、のらりくらりと生きることに満足せず、自分にとっての真理ってやつを発見してみてはいかがかと。真理の探求とは、よほど心地よいものらしい。尚、本書は加藤卯一郎氏による部分訳版である。こりゃ、全訳版へ向かう衝動は抑えられそうにない...

さて、人はどうやって自己の存在を感じているだろうか?自己にとって生きている証とはなんであろうか?デカルト風に言えば... 人間は思惟する存在であり、思考を深めることによって神を感じ、崇高な気分を体現する... といったところであろうか。思考を働かせるには、何らかの思考材料を欲する。そこで、人体は知覚という末端の感知機能を具えている。この受動的な知覚能力を元に、自発的で能動的な思考を働かせて、実存ってやつを感じているのだろう。
いま、精神における受動的な働きと能動的な働きを、本書で扱われる「単純観念」「複雑観念」に対応させてみる。
単純観念とは、純粋に物事を受け止めるような精神現象、又は実体を認識するための属性のようなもので、知識の素材とでもしておこうか。それは、色や形や匂いなどの知覚、快楽や苦痛などの感情、運動や静止などの状態である。さらに、かなり微妙ではあるが、1と2は3に等しいといった自明な論理まで含めておこうか。自明とは、何を根拠にしているだろうか?おそらく直観である。ユークリッドは、これ以上証明できない真理があることを、公準や公理という権威と、そこから演繹される定理という形式で示した。無条件に定義されるのだから宗教的ですらあるのだが、普遍性の偉大さが確実に宗教と一線を画す。単純観念が直観の偉大さを示しているとすれば、カントのア・プリオリ的な源泉を感じる。
一方、複雑観念とは、単純観念が相互に関係して結合したような状態、あるいは、その結合した状態に別の結合した状態が関係して結合したような状態... などと言えば、キェルケゴールのあの言葉を思い出す... 「人間とは精神である。精神とは自己である。自己とは自己自身が関係するところの関係である。すなわち関係ということには関係が自己自身に関係するものなることが含まれている。」... 狂ったか!
それはさておき、知覚や感情を知識として構築したり、知識の素材を組み合わせて統合観念を形成することに寄与するものが、悟性ということになろう。しかしながら、いくら論証を組み立てたところで、やはり人間は判断を誤る。完全な論証が構築できるほどの情報を揃えることもできなければ、仮に十分に情報を揃えられたとしても解釈した途端に誤謬が生じる。結局、判断力もまた直観に頼るしかない。したがって、悟性論は不完全性定理への道を暗示している... と解するのは行き過ぎであろうか?

1. 観念と生得論批判
「観念」という用語は、掴みどころがなく手強い!本書は、精神の現象や状態や表記、あるいは、知覚を知る過程や意思など、多義的に使っているようである。意識の対象を、心の自己充足という側面から扱うだけでは不十分であろう。そして、思考も一つの観念として、複雑観念に達する過程における精神現象としておこうか。
しかしながら、一切の観念は生得的でないとしている点が、ちと引っ掛かる。知識はすべて経験的だというのだ。すべての観念は感覚または反省からくるとしている。
確かに、知覚や感情を知識とするためには、記憶という機能が必要である。ただ、知識を受動的に捉えすぎている感がある。過去の記憶と現在の知覚を比較しながら知識を形成していくとすれば、もっともらしい。理性そのものが既知の原理であり、命題から未知の真理を演繹する能力にほかならない。論理的な裏付けがあって、理性はより確信へと向かうであろう。
しかし、すべての思考が意識できるわけではないだろう。本能的に善悪を感じている部分もあるのではないか。直観もまた本能的に働く。無意識的に、あるいは、自然本能的に働く思考をどう説明すればいいだろうか?カントは、ア・プリオリな観念に時間と空間の二つのみを置いた。この時点では、まだ理性は生起しない。判断するということは思考を働かせることであり、材料となる情報を辿っていることになる。その材料を、どこかの細胞に記憶される痕跡に頼るとすれば、すべて経験的と言えるのかもしれない。それは、胎児においても機能するだろうし、なによりもDNAという寿命を超えた記憶素子がある。生命の進化が反省からきていると言えば、そうかもしれん。
そうなると、生得の定義も微妙である。どこからを生命と言うのか?精子や卵子はどうか?胎児はどうか?一般的には、母胎から切り離された時とされるだろう。生まれたばかりの赤ん坊が尻を叩くと泣きだすのも、どこかに知識としてあるのだろう。いずれにせよ、証明する術はないだろうし、せいぜい生得的とは言えない?ぐらいなものであろうか。
確かに、先立つ教えは無意識の中にもある。いくら自由意志があると信じたところで、人間の本性の殆どは無意識の領域にある。それは、思いつきや気まぐれといった現象でも説明できそうである。精神を獲得した知的生命体が寿命から逃れられない以上、制御できない自我に弄ばれる運命にある...とでもしておこうか。

2. 数と無限、そして、持続の観念
「数は最も単純な又普遍的な観念である」
悟性において、数学的思考こそが最も純粋ということであろうか。思考の根拠が明確であるということが、どんなに幸せにしてくれることか。数の観念が記憶の助けとなったり、あるいは、自閉症患者が何かを数えることによって心に落ち着きをもたらすといった現象は、このあたりからきているのかもしれない。人間は、計算の観念によって思考を多様化させ、目論見や思惑を巡らせ、計算尽くしで生きている。
さらに、数の体系は、結合と交換の原理によって方程式やベクトル空間までも呑み込み、属性群として見做せる。思考の様態の変化を、思考の材料群による状態偏移として眺めれば、数学の抽象モデルである有限オートマトンを彷彿させる。だが、精神の状態遷移は数学モデルをはるかに超越し、いわば、なんでもありだ。その究極目的に無限が位置づけられる。
しかも、無限の観念は、有限との比較によって、なんとなく捉えているに過ぎない。せいぜい、アレフのような記法を用いて無限と有限を区別しているぐらいなもの。人間は得体の知れないものを「無限」で表記する癖がある。魂の存在が明確に説明できなければ、精神にも無限を結びつけずにはいられない。だが、人体は明らかに有限である。精神が人体の中にあるとすれば、精神もまた有限でなければならないはずだが。なぁーに、心配はいらない。空間が有限ならば、時間を無限にすればいい。たとえ寿命の壁があったとしても、ここに魂の不死が結びつくという寸法よ。知覚能力を獲得し、認識能力を発揮できる知的生命体は、永遠に真理を求め、永遠の記憶としての歴史が受け継がれる宿命、いや義務を背負っているということか?観念の持続、すなわち永遠の思考こそが実存であり、数直線上の無限にほかならない。

3. 神の観念
神への思いは、どこから生じるのだろうか?有限体と無限体が精神の内で融合した結果であろうか?だから、肉体と魂は分離できるか?などと論争を繰り返すのだろうか?宇宙法則のようなものを、神と呼んでいる人もいる。神の存在を天文に求めるのは、自然法則には逆らえないという意識からくるのだろうか?
なぜ、人間は神なんてものを思い描くのだろうか?無限に賢い存在、けして心を乱すことのない存在、絶対に間違えない存在、永遠の魂を持つ存在、すべてを知る存在... などと並び立てれば、なーんだ、単なる人間の憧れではないか!そして、制御できない自我への処方箋として、神のせいにすれば楽にもなれる。
ロックは、神の観念もまた生得的ではないという。神は普遍的原理ではないということか?やはり人工物なのか?神を全能者と定義し、人間の行為を最善のものに導くための善意と叡智を持っていて、しかも、来世において処罰が強制できるとすれば、道徳基準の最高の試金石となる。しかしながら、神は沈黙を守っておられる。おまけに、神の声が聞こえると言い張る仲介者が神の意志をなそうとする。神の命ずることを証明できるとすれば、人間は神を理解できる能力を持つことになる。全能者に対して、なんとおこがましいことか。結局、人間が人間を操る運命にあるわけか。
そこで、実践的に生じるのが、法の観念である。しかも、政教分離という観念を結びつけて機能する。それは、けして神への不信を唱えているのではない。人工物である宗教の虜になってはならないということだ。もし、神というものが存在するとしたら、その規定は一つしかないのかもしれない。だが、人間が創造した途端に多様な規定を必要とする。あえて一つで規定するならば、寛容性ということになろうか。人間は、認識できるものすべてを、実存という名において、一つの規定で説明できないと心が落ち着かない。ただ、それだけのことかもしれん。
「最大の実証的な善が意志を決定するのではなく、不安がこれを決定するのである」

4. 関係の観念
これが、最も重要な観念かもしれない。おそらく、思考の多様化は、複雑な知識の関係付けによって生じるのだろう。ロックは、単純観念や複雑観念が様々な形で関係することによって、観念の飛躍のようなものを語ってくれる。まさに量子進化論!悟性の原理とは、こういうことのようだ。
「相互に矛盾しない観念から作られた混合様態は実在的である」
論理的思考は、分類化、抽象化、階層化、構造化といった原理に支えられる。そして、人間認識は、あらゆるものを相対的な関係によって結びつけようとする。無意味などと判断すれば思考は停止し、無関係と判定すればそこに観念は生じない。おそらく、天才は関係付けの感性が卓越していて、凡人には気づかないところに関係性を見出すことができるのだろう。独創力、創造力、思考力の源泉は、ここにあるのかもしれない。
一方で、凡人は真に無関係なところに無理やり関係を生じさせ、精神の安住を図ろうとするために却って錯乱する。関係の基本には空間と時間があり、同郷や同年代というだけで意気投合する。また、努力を無とすることを極端に恐れ、何事も原因と結果を結びつけずにはいられない。そして、関係が失われれば、急激に不安に陥る。すべての観念の原理は、神の観念と同様、不安解消にあるのかもしれん。

5. 言葉の意義
悟性の産物に言葉という様態がある。言葉の体系には、言語的表記から絵画や音楽といった芸術的表記まで含めておこう。言葉とは、実に奇妙な威力を持っている。ぼんやりとしか認識できないものでも、名前を付けた途端に明確に認識できたと思い込めるのだから。神という用語を編み出したおかげで、実存の概念すら変えてしまう。仮想化社会へ邁進できるのも、言葉のおかげであろう。仮想化社会には、実に曖昧な用語で溢れている。知識がクラウド化すれば、雲のように消えていく。なるほど、無形を有形とする手段が、言葉というわけか。そして、言葉によって仮想と現実が融合すると、逆に精神は分裂し、エネルギー保存則は保たれるという寸法よ。ならば、最初から現実を幻想としてしまえば、惑わせることもあるまい。人間関係や人間社会、あるいは自己存在そのものが、言葉によって形成された幻想なのかもしれん。
「観念から成り立つ知識はすべて幻想であり得るのみである」

6. 理性の観念
「我々の能力を知ることは懐疑論と怠惰を矯正する」
自分の能力を知ろうとすれば、自己を検分することになり、その過程で何が不足し何が必要かを見積もることができる。自ずと間違いや偏見に気づくことになろうし、無闇に否定的な態度をとることもなくなるかもしれない。悟性によって導くことのできない領域があることを知れば、自己に言い訳をすることもなくなるかもしれない。となれば、自分の理性に自信を持った時点で、理性は崩壊していると見なさなければなるまい。
ところで、理性はどこから生じるのだろうか?無理性な人間が語っても詮無きことだが、それを検証しようとすると極めて直観的にならざるをえない。理性とは何か?と自問したところで、無闇な欲望の抑制ぐらいしか答えられないし、物事の道理を考えて行動しているわけでもなければ、自己の中に啓示のようなものがあるわけでもない。欲望が直観的なら、その抑制も直観的であることは、道理であろうか。酔っぱらいの悟性は、既に熱情の病に蝕まれ、常に危うい状況にあると認めざるを得ない。
ロックは、真理を愛する人は希で、そう確信する者も非常に少ないという。学問が、名声を得たいとか、安定した職業に就くためとか、高い給料を得るためとか、そうした道具にされているのも確か。誰もが流行りの学問に飛びつく。人間ってやつは、無駄な努力を極度に嫌う性質がある。とはいえ、そうした動機も経験する必要があろう。合理性の観念を経済的視点だけで判断するのは不合理だということを、より確かなものにするためにも。
「真理を愛さない人は、それを得るために大した骨折をしないし、又それを見失っても大して憂慮せぬものである。学界に於ては自ら真理を愛する者であると公言しない人は誰もない、そしてそうでないと思われて気を悪くしないような理性的創造物は一人もない。」

7. 悟性と客観性
本書は、悟性の領域に持ち込むための科学の役割について述べ、締めくくられる。それは、次の三つの段階において、科学を用いることであると。
  • 第一に、物事のあるがままの性質、それらの関係、及びそれらの働きについての観察。
  • 第二に、理性的な自由意志的行動者としての目的、特に幸福のための指針をもつこと。
  • 第三に、その双方に到達するための方法と手段を思考すること。
これらが、知識の対象の最初の分類だという。そして、それぞれを以下の学問に対応づけている。
  • Physica : 物事の構成、性質、及び作用に関する知識。すなわち、自然哲学や形而上学。
  • Practica : Physicaを役立てるため、実践するための熟練。すなわち、倫理学や道徳論。
  • セメイオウティケー: 符号の学問。すなわち、言語学や論理学。
悟性すなわち知性は、人間の心の営みである。自己を探求し、思考の働くままに自分の姿を投射し、そこに経験を見出す。経験の下で思考過程を蓄積していく。真理の道に終着駅はなさそうだ。あるとすれば、人類滅亡ってやつであろうか...