2013-10-27

"言語表現の秩序" Michel Foucault 著

分かりやすい書は目の前を通り過ぎて行きやすい。そこに疑問を感じなければ、思考する機会も訪れない。その点、難解な書は思考の材料にうってつけか。だからといって、理解できると期待してはいけない。目は文章を追うものの、頭は別のことを思い浮かべ、幽体離脱したような気分にさせやがる。絵画を鑑賞するようにページを眺め、数十ページ単位で後戻りすることもしばしば。少し目を離し、遠近法のような立体的な観点を要請してくる。そういえば最近、近くが見えにくい... 老眼って言うな!

思考から言葉が生じるのか?言葉から思考が生じるのか?いずれにせよ、言語が人間認識の手助けをしてくれるのは確かだ。頭では分かっているつもりでも、具体的に説明しようとすると、意外と分かっていないことに気づかされる。言葉の用いようは、記述と喋るのとでは、似ているようでまるっきり違う。記述する時は、文法や脈略に注意し、論理性に配慮する。自我のうちに第三者の存在を配置するかのように。
一方、喋る時は、そんなものを一切考えず、口の動きに任せて音を発する。話の展開や会話のリズムに身を委ねるかのように。雛形文法のような秩序が経験的に培われ、その隙間に言葉を埋め込んでいるだけなのかもしれない。口癖というやつであろうか。
記述にせよ、喋るにせよ、思考した事を表そうとすれば、記号に頼ることになる。文字記号や音声記号などに。数学も数学記号で表す言語とすることができよう。もっと言うなら、あらゆる学問は専門用語で形成された言語の体系のようなものか。「客観性」という用語一つとっても、数学と他の学問では抽象レベルがまったく違うし、「信用」という用語は経済学では異質となる。哲学では、面白い光景を見かける。一つの用語を様々な意味合いで用いたり、逆に多くの用語に同じ意味を与えたりと。哲学書が難解となるのは、宿命であろう。なにしろ精神を語ろうというのだから。
人間は、精神の存在をなんとなく感じることができても、いまだ明確に説明することができない。つまり、人間は自分自身の正体すら、よく分かっていないことになる。そして、精神を言語で表そうとすれば、言語の限界に挑むことになる。自ら編み出した人工物への挑戦となれば、既に自己矛盾を孕んでいる。言語は、あくまでも記号でしかないのに、人間が解釈を試み、思考した途端に意味作用が生じる。仮想的な実体形成とでも言おうか。言語が精神の投影となった時、そこにある種の体系が形成され、有機体のような存在となるのだ。その証拠に、国語辞典のような権威が存在するにもかかわらず、誰一人として同じ言葉を喋っちゃいない。
となると、精神現象もまた、単なる記号のようなものから生じるのだろうか?クラウド社会に浮遊するデータ群は、コンピュータによって解釈が試みられた途端に情報社会を席巻し、やがてビッグデータが一人歩きを始める。人体にも、DNAという半永久的なデータ列が存在するとなれば、精神とは、DNA情報に思考が媒介した現象であろうか?記号という薄っぺらな存在に、思考という認識行為が結びつくと、そこに実存という得体の知れない意識が生じる。実存なんてもの、ひいては精神なんてものは、認識の産物でしかないということか。精神の正体を突き詰めれば、言葉を枯渇させ、思考を枯渇させ、精神を枯渇させるというわけか。言語に無限の可能性を与えれば、精神の限界にぶち当たり、沈黙せざるを得なくなる。精神の枯渇から救済できる唯一の方法が、これであろうか。なるほど、神は沈黙したままでいる。

本書に紹介される古井由吉氏の言葉が、なんとも印象的である。
「書くことがあるうちはまだ駄目なのだと以前から考えている。書くことが思い当るうちは、表現はまだほんとうに真剣ではない。発想が底をついて、しかも表現意欲だけが動いているという状態があるはずだ。その時、私は自分の有りようから、世間の中に有る、血縁の中にある、あるいはただ椅子の上に座って有る、その有りようから、確かな言葉を掴み出すかもしれない。その時がやって来るまでに、私はすくなくとも、日常のとりとめのない意識の断絶の中で、自分が端的に有るその有り方への感覚をいくらかでも磨ぎ澄しておかなくてはならない。」

1. ディスクール(言説)
フランス語の「ディスクール」は、一般的に「言説」と訳されるが、もともとはギリシア語の「ロゴス」に由来するそうな。その意味は、話、講演、授業、説、論... から「思考の言語的表現」にまで及ぶという。ロベール仏語辞典によると、こう記述されているとか。
「言語体系(ラング)が構成する抽象的なシステムに対立する、言語における具体的な、言表の総体(エノンセアンサンブル)」
他にも、言述、叙法、話し方、論述、陳述、説術、述語などの訳語が当てられるようで、多様な用語であることが見て取れる。尚、フーコーは六冊目になるが、「言語の体系」や「知の体系」といった論理的な記述に近いような意味で読んできた。勝手な解釈だけど...
さて、言語の体系とはいかなるものであろうか?言語に精神が結びつくと、そこに自律的な有機体もどきが生じる、とでもしておこうか。人間社会では、人間の意思とは無関係に、言葉だけが一人歩きを始める。人間が思惟すると、実に恐ろしい。なにしろ、記号でしかない存在に、意思までも植えつけてしまうのだから。時には、正義の言葉となって法に基づかない社会的制裁を加え、時には、誹謗中傷の類いが集団的暴力となって公開処刑を施す。ミサの聖祭に至っては、パンやぶどう酒にキリストの肉と血を体現させる。
精神を言葉で語ろうとすれば、無を語ろうと必死になり、幻想までも実体に変えてしまう。もはや、言語の中に精神があるのか?精神の内に言語があるのか?も判別できない。ディスクールってやつが、精神の秩序を投影するような存在だとすれば、言葉に権威を求めるのではなく、自然に発する言葉を解放してやらなければなるまい。そして、精神の秩序とは、ア・プリオリな認識に身を委ねることになろうか。ちなみに、アル中ハイマーは、これを、崇高なる気まぐれ!と呼ぶ。

2. 構造主義批判か?それとも、風潮批判か?
「語彙の不足した人々は、もしそれが、真実よりも耳ざわりのいい言葉を好むならば、それこそ構造主義なのだ。」
フーコーは構造主義の批判者とされるが、構造的に分析しようとする立場そのものを批判しているわけではなさそうである。ただ、彼自身を含め、レヴィ=ストロースやアルチュセールといった人物が、構造主義者として一括りにされることに我慢がならないようである。構造主義への批判というよりは、構造主義という言葉を持ち出す論調への批判と言った方がよさそうか。
人は皆、なんでも一括りに分類する癖がある。人のタイプを相性で種別するのは、存在意識が働いているからであろう。自分をどこかのカテゴリーに属させて安住したいのか?あるいは、言語をもって自己存在を正当化したいのか?は知らん。有識者たちもまた、何々主義という枠組みに押し込めるのがお好きなようだ。そして、ある政治屋は国民の代表者のように語り、ある報道屋は市民の代表者のように語り、ある女史は女性の代表者のように語り、ある若者は世代の代表者のように語る。なによりも、知の象徴とされる学問が、最初にカテゴリー化や分類を試みる。逆説的ではあるが、こうした分析手法を試みない限り、多様性という本質も見えてこないだろう。フーコーもまた、言語の主体分析でソシュール的な記号原理を語っている。
「それが創造的主体の哲学のうちにあろうと、始源的な経験の哲学のうちにあろうと、あるいはまた、普遍的媒介の哲学のうちにあろうと、言説は、第一の場合には記述の、第二の場合には読解の、第三の場合には交換の、働き以上のなにものでもありません。そして、これらの交換、読解、記述は、絶対に記号以外のものを働かすことはない。こうして、言説は、その実存性においては、自らを記号表現(シニフィアン)の秩序に置くことによって、無にひとしくなるわけであります。」

2013-10-20

"言葉と物" Michel Foucault 著

またもや悪い癖が... 難解な書き手を前にすると、ついムキになってしまう。怖いもの見たさというやつか。我武者羅に読んでいるうちに、文章のリズムがあってくることもあるのだが... これでフーコーを連続五冊!実はもう一冊、目の前にあるのであった...

この書は、言葉の実存を問うた物語である。言葉ってやつは、実に奇妙な存在である。単なる音声や記号でしかないのに、精神と結びつくと強力な武器と化す。交わす言葉は微妙な距離をはかり、言葉のキャッチボールはすぐさま言葉のドッジボールへ変貌し、やがて言葉のビーンボールが頭をかすめる。おまけに、単語や行間に隠される言葉を察知したり、無言ですら何かを物語る。テレパシーってやつが心の記号を暗黙に呑み込み、恋の達人ともなればウィンクひとつですべてを語ってやがる。そんな魔力が内包されているものに、どうして実体がないと言い切れるだろうか?
言葉には、情報伝達としての役割もあるが、思考の材料や思考の構成要素としての役割がある。人間が思惟する存在であるとすれば、言葉は精神の内に生じる表象作用の翻訳語となるだろう。そう、言葉は、自己存在を確認するための道具でもあるのだ。
思考の源泉が言葉にあるのか?はたまた言葉の源泉が思考にあるのか?いずれにせよ思考の限界を試すということは、言葉の限界を試すことになろう。そして、言葉に実存を求めるということは、ひいては精神の実存を求めることになる。言語の体系は、音韻論、意味論、記号論、文法論... などの複合体を形成する。フーコーは、これらを総体として眺め、「言説(ディスクール)」という用語をあてる。
とはいえ、物理的にはシリアル化された記号の羅列でしかない。にもかかわらず、文章の達人にかかれば、読み手の心の内に立体映像までも生じさせる。画家がキャンバスの上に動的な物語を描写するように、小説家はページの上に物語の奥行きを体現する。フーコーの書にしても、目の前の文章を追いかけるだけでは何を語っているかが一向に見えてこず、立体的な観察を要請しているかのようである。国語辞典や百科事典といった権威主義に陥っては、けしてできない芸当であろう。一般文法で規制するということは、思考の自由を束縛するに等しい。抑制の強いところに皮肉や寓意といった文化が生じるのは、人間が本質的に自由を求めている証であろう。もはや、言語は自律的な有機体として存在する。しかも、人間の意思とは無関係に。言語の体系が精神の投影であるならば、その系は人の数だけあるということか...

ところで、疑問を持たずして思考を働かせることはできるだろうか?無条件で信じられれば楽になれるが、思考を停止させる恐れがある。なぜ?なぜ?...と鬱陶しく問うガキどもが、最も純粋な哲学者と言われる所以が、ここにある。そして、思考した結果生じる批判的思考が思考そのものを深め、カントの批判哲学が一段と輝きを放つ。
「認識と言語(ランガージュ)とは厳密な意味で交錯する。両者は、表象のうちに同一の起源と同一の機能原理をもち、たがいにささえあい、補いあい、たえず批判しあう。」
デカルト風に、人間を思惟する存在で、神の存在を認識できる能力があると定義すれば、他のいかなる動物よりも優越するいう自負が生じる。実際、神を認識できる存在が、反省する自律的な存在となっているだろうか?知が記述として残され、歴史の時間軸に墓標を刻むことができれば、永劫回帰も夢ではないかもしれない。
しかし、人間の最も得意とする技に、忘却ってやつがある。都合の悪いことは見ないだけでなく、実体験してもなお忘れることができる。ヘロデ王の幼児虐待は市民レベルにまで抽象化され、近年まで実施されてきた。醜い歴史は繰り返され、英雄伝説は猿真似に化けてきた。前向きな思考の根源は、無知の楽観性というやつであろうか。精神ってやつは、誤謬、妄想、無知のうちに連続性の秩序を失い、没落していく存在なのか?ならば、最初から思考を歴史から切り離し、機械的に構造的に理解しようとする試みは、客観的に機能するかもしれない。だが、いくら客観性を崇め、科学に頼ったところで、不完全性定理や不確定性原理からは逃れられない。人間精神は、自己矛盾と非連続性という最も苦手とする思考原理に憑かれたままでいる。

1. 人文科学の幕開け
17世紀から20世紀頃、科学の知、すなわち人間の知が宇宙を完璧に説明できるとし、人間中心主義を加速させてきた。ガリレオやニュートンから受け継がれる科学が次々と成果を挙げていく中、人間にまつわる学問においても、人体と精神を分離した分析が試みられ、人文科学、社会科学、人間科学などの分野が生じる。社会学は疎外のメカニズムを社会構造に求め、経済学は価値の流動メカニズムを合理主義に求める。言語学も例外ではなく、機械論的思考に見舞われ、やがて構造主義へと展開される。
だが、言語学者ソシュールは、シニフィアンとシニフィエ、すなわち記号作用と意味作用は分離不能な存在とした。こうした思考の歴史を眺めると、人間の客観性への憧れは半端ではないようである。客観的に語ると宣言された有識者どもの主張が、客観的だったためしはない。無い物ねだりというやつか?
さて、客体とは何であろうか?第三者か、いや、もっと崇高な神への思いであろうか。その証拠に、他人に指摘されると、むしろ意固地となる。神の言葉なら素直に受け入れられるというのに、耳には届かない。人間ができることと言えば、神の思惑を信じて直感に耳を傾けることぐらい。だが、ア・プリオリな認識が誤謬に包まれると恐ろしい。なにしろ科学は宗教レベルにまで押し上げられるのだから...
「人間精神は、本来、物のなかにある以上の秩序と類似を想定しがちである。自然は例外と相違にみちみちているのに、精神はいたるところに調和、合致、相似を見る。」

2. 思考のスケッチと有限原理
思考のための記述と言えば、箇条書きが基本になろうか。画家がスケッチを繰り返せば、アトリエには視覚的言語で溢れる。同様に、思考のスケッチを繰り返せば、散文で溢れる。
しかしながら、万能な言語は存在しない。論理的に優れた言語もあれば、芸術心をそそる言語もある。各々に長所と短所が含まれるとすれば、言語が多様化するのは自然であろう。自国語の特徴を把握する上でも第二外国語に触れる機会は貴重であり、翻訳の意義はこうしたところにも現れる。まさに、記述のスケッチには文化のスケッチが含まれ、フーコーの書は文化の翻訳の難しさを提起してくれる。
ところで、人間が認識できないものが、言葉となりうるだろうか?その微妙な境界に無限という語がある。人間は、有限については実にうまく説明できるのに、無限となると途端に説明できない。せいぜいアレフのような数学記号を持ちだして、有限と区別するぐらいなもの。つまり、人間ってやつは、存在という認識を通じて、無存在までも認識していることになる。そりゃ、実空間と仮想空間が区別できなくなっても不思議はあるまい。
では、精神がなんとなく認識できるのに、その存在となると説明できないのは、そこに無限性があるからであろうか?もし、精神が有限の存在だとすれば、知にも限界が生じるだろう。だが、人間の欲望はいまだ限界が見えてこない。存在しようがしまいが、有限だろうが無限だろうが、人間認識の産物に過ぎないということか。人間は、新たな認識が生じる度に新語をこしらえ、言葉を手がかりに思考を働かせる。カントのア・プリオリやニーチェの永劫回帰といった用語が生じるのも、精神の限界に挑んだ結果であろう。それが幻想であると、薄々気づいていても...

3. 古典主義時代のエピステーメー
フーコーは「エピステーメー」という知の枠組みを提唱し、古典主義時代の知の原理に「マテシス」「タクシノミア」「発生論」という三つの概念を結びつける。マテシスとは、代数学を普遍的方法とする概念で、タクシノミアとは、複雑な自然を秩序づける時に成立させる概念で、前者を相等性の学、後者を秩序の学としている。だが、互いに対立するものではなく、補完しあうものらしい。マテシスは単純な自然法則のようなもので、タクシノミアは複雑な表象のようなものであろうか。
17世紀、18世紀における知の中心は、「ポール=ロワイヤル論理学」に代表されるようなタブロー(表)にほかならないという。タクシノミアは同一性と相違性を扱うといういうから、記号を用いて事物を分類する原理が含まれている。そして、双方とも記号の体系を設定することになる。
タクシノミアはマテシスの中に宿り、それでいてそれから区別され、発生論はタクシノミアの中に宿るという。タクシノミアが、可視的相違性のタブローを設定するのに対して、発生論は継起的系列を前提にするとか。マテシスがモナドロジー的な普遍認識だとすれば、タクシノミアは複雑な現実認識であり、さらに発生論という時間認識を配置するといったところであろうか。人間認識から時間の概念を分離しようとする企てにも映る。しかし、精神ってやつは、時間の概念を失った途端に無に帰するような気もするけど...
古典主義時代の知が、ガリレオやデカルトに絶対的な地位を与え、合理主義的なものであったのは確かであろう。だが同時に、悟性の観念に対抗するかのごとく、生命や経験に制御しがたい無秩序を予感させてきた。
「タクシノミアは、マテシスとの関係においては命題学にたいする存在論として機能し、発生論にたいしては歴史との対比における記号学として機能する。かくしてタクシノミアは、諸存在の一般的法則を規定し、同時に諸存在の認識が可能であるための諸条件を規定する。古典主義時代における記号の理論が、自然そのものの認識と称する独断的様相をおびた学問と、時とともにしだいに唯名論的・懐疑論的になっていく表象の哲学とを同時に担いえたという事実は、まさにこのことに由来するのだ。」

4. 言葉の経済原理
アダム・スミスは、著書「言語の起源と形成に関する考察」の中で、こう述べているという。
「どんな小さな形容詞をかたちづくるにも、どれほどの形而上学が不可欠であったことか」
経済学の父とされる人物が言語学に言及しているとは少々驚きであるが、むしろ哲学者として名声を博していたということであろう。経済では、交換によって富が創出される。知もまた交流によって価値が創出されるとなれば、ここにも経済原理がある。価値の換算に貨幣が用いられ、知の表記に言語が用いられるとなれば、どちらも仮想的な存在となる。貨幣の流通量が多過ぎれば経済危機を招き、言葉の交換が激しければ人間関係が破談になる。貨幣の利息はリスクを計測し、言葉の利息は余計な言動となって返ってくる。富が貨幣の量で決まるとすれば、知は記述の量で決まるのかは知らん。言葉の重みってやつも、幻想なのかは知らん。富への群がりと知への群がりという行動原理には、似たところがある。MBAの取得や人気の学問に群がるの見れば、リカードの比較優位説のごとく、専門知識の比較優位説として知識の合理性を求める。
しかし、真の研究機関は、誰も手を出さないところに意義を求める。地道な研究を持続することこそが、学問の底力として蓄積されることを知っているからだ。役立つ知識ばかりを狙えば思考の柔軟性を失う。金儲け主義や売上至上主義といったものが、経済活動の柔軟性を奪うように。
さらに、経済原理を根底から支える原理に信用というものがある。経済活動においては、契約という形で実践される。契約行為では、誤謬、誤解の類いが必ず生じ、同意、成立、承認などの行為が慣習になっていることが前提される。現実に、巧みな記述によって、不平等契約を結ばされるケースも多い。ちなみに、ルソーは著書「人間不平等起源論」で、「いかなる言語も人々のあいだの同意にもとづくものではありえない」という考えに注目しているという。
確かに、言語を通じての認識合わせには限界がある。思考するという行為、あるいは解釈するという行為そのものが、主体に委ねられているのだから。そして、人工言語は、絶えず認識の限界に挑むことになろう。経済循環が富の限界に挑むように...

2013-10-19

avast! 2014 にアップして... あっぷっぷ!

惚れっぽい上に忘れっぽい酔っ払いなので、ちょいとメモっておこう...

avast 25周年ということで、先日、avast! 2014.9.0.2006 がリリースされた。さっそくアップすると、いくつかの不具合に出会う。セキュリティソフトなんだから、動かないとか、つながらないという事はあるだろう。ファイルスキャンを止めたり、ポートを開ければ済むだろう事は、すぐに想像がつく。
しかし、だ。起動が不安定になるとは、どういうわけだ?しかも、IEだけが...

環境: win7 64bit sp1

1. IE10 の起動が不安定。たまに起動しやがるから、悩ましい...
"Internet Explorer は動作を停止しました"と表示してプログラムを終了。IE11 も同じ。

対処: スクリプトスキャンを停止
ウェブシールドを停止すれば安定するが、あんまりなので、スクリプトのスキャンを止める。これもあんまりかなぁ?どうせ、IEを使うことは滅多にないけど...

具体的には...
[設定] -> [常駐保護] -> [ウェブシールド]のオプションで、[スクリプトのスキャン]の中に、IE, Firefox, Chrome などがエントリされているので、IEだけを対象外にする。

2. localhost:8080 がアクセスできない。
対処: リダイレクトポートを開放

具体的には...
[設定] -> [トラブルシューティング] -> [リダイレクト設定] -> [ウェブ] -> [http ポート]
この中にエントリされる 8080 ポートを削除。

3. google chrome の拡張機能の設定が一部チャラにされてビックリ!
対処: 再設定すればいい

4. 古いアプリが一部起動しない。
対処: ファイルシールドでアプリのパスを除外

具体的には...
[設定] -> [常駐保護] -> [ファイルシールド]のオプションで、[スキャンからの除外]に、アプリのパスを追加。

2013-10-13

新相棒、その名は... Gブロンコっち!

グレンリベットを開けたのが朝日の眩しい時分であろうか。そして、ボトルを空けた頃、夕日が眩しいぜ!シングルモルトの香ばしい色合いが、新たな相棒と妙に合う。歓迎するかのように...

 ・G-BRONCOアタッシュケース = ¥16,800 (amazon経由)
 # ポリカーボネート材, A4サイズ(36cm), ヘアラインゴールド色

隣で、古参のヒップフラスコっちが焼いてやがる...


PC収納ポケットと古株のモバイっち(12.1 inch)の相性もピッタリ...


G-BRONCOショップさんの対応が早く、しかも丁寧、発注から3日で届く。Facebookに公開される画像データを見ると、ヘアラインゴールドが、ちーと明るい気もするが、実物を前にすると、ちょうどいい具合に渋め。惚れっぽい酔っ払いはイチコロよ。億劫な移動が楽しみに変えられそうだ。さっそく出張を入れるとしよう... と思ったら、夜の社交場方面からメールが...

2013-10-06

"知の考古学" Michel Foucault 著

能動的に読める時はすらすら頭の中に入ってくるのに、受け身で読まされる時はなかなか頭の中に入ってこない。何度も同じ行を目で追い、単語に振り回される感じ。フーコーの文章はフランス人の間でも難解とされるようで、どうやら翻訳のリズムが合わないだけではなさそうである。おかげで、もう一冊!もう一冊!と悪い病を患う。知を究めるには、精神の破綻を覚悟せよ!とでもいうのか?... そうかもしれん。

さて、「知(サヴォワール)」とは、なんであろうか?知性、知恵、知識、知覚... こうしたものすべてが含まれるのだろう。そして、その結果生じる「思考する存在」とでもしておこうか。
知的活動を促進する学問は、人間が認識しうる様々な現象から一般性や法則性を見出し、未来への展望を図ろうとする。そこで最初に試みるのが、カテゴリー化や分類で、同一性や属性といった枠組みから抽象化の骨格を組み立てる。相対的な認識能力しか発揮できない知的生命体は、何かを基準にして比較しながらでなければ、物事を知ることができない。そして、知的活動を深化させると、専門化と細分化が進む。学問が高度化するほど知識交流を怠り、「知」の縦割り構造を促進するとは、これいかに?古来、学問の本来の姿は、総合的な能力の結集であった。人類は、自ら編み出した高度な「知」によって、精神を破綻させるのだろうか?
近年、あらゆる学問分野で科学的手法が用いられる。社会科学、精神科学、人文科学... 科学は極めて客観性と相性がよく、主観性の強い人間にとって弱点を補う有効な手段となる。しかし、科学的分析が目指すものは一般性や法則性を導くことであり、人間精神を相手取る分野とは相反する面がある。心理学や精神医学といった分野では、一般性よりも多様性の方が、法則性よりも矛盾の方が適合しやすい。いくら病状や症候群で分類したところで、実際には、個人の性格や精神状態などを考慮して対処することが求められる。そうなると、客観と主観の境界を、科学と非科学の区別で説明ができるだろうか?実は、本書に登場する最も重要な概念に「多様性」「矛盾」がある。一般性と多様性、法則性と矛盾、こうしたものに境界を設けても意味がない... とでも言っているような。
数学者ライプニッツは、空間を構成する最小単位は物理的な原子のような存在ではなく、モナドというけして分離できない複合体であるとした。言語学者ソシュールは、言語記号に内包される二つの性質シニフィアンとシニフィエ、すなわち表現と意味は分離不能な存在とした。こうした思考の根源を遡ると、古代から盛んに行われてきた「魂と肉体は分離できるか?」という議論へ辿り着く。もしかして、フーコーもまたこの手の議論の系譜にあるのか?あるいは、構造的な見方を批判しているだけなのか?いずれにせよ、「知」とは、総合的な観点にほかならない、と言っているように映る。

さらに、「考古学」とは、なんであろうか?最初から最後まで、それを自問しながら読み進めるが、一向に見えてこない。いまだ人類には「知」の源泉なるものが見えていない... とでも言っているような。その証拠に、科学がいくら進化しようとも、それにともなって精神は進化しているか?と問えば、楽観的には答えられない。
人間の原点を探ろうとすれば、時間を遡ることなる。そこで、事象を時間軸上にマッピングする歴史学は、考古学と相性がよさそうに映る。時系列で考察するということは、連続性のうちに解釈するということだ。しかしながら、物理現象は非連続性に満ち満ちている。
「考古学とは危険な語である。というのは、それが、時間の外にぬけ落ち、今や無言の中に凍結されたさまざまな痕跡を呼び起こすように見えるからである。」
生命の進化には、突然変異という現象がある。歴史の激動期には、人類史上初となる原型のような現象が生じ、変革は異端児たちによって牽引されてきた。そして、平穏時には、経験した思考法を流用しながら、自己の責任から逃れ、派生的な思考が大量生産される。こうした繰り返しを眺めれば、歴史とは連続性と非連続性の組み合わせ、という見方もできるだろう。いや、思考エネルギーの蓄積と解放の繰り返しとした方がいいかもしれない。
また、伝統的な形態では、過去の出来事をモニュメントとして記録に刻む。政治屋どもには銅像になりたがる奴らがいる。お釈迦様が気の毒なのは、仏像にされてしまったことだ。まさか、偉大な釈迦がそんなことを望むはずがない。過去という忌々しい野郎どもと、未来という明るい希望とやらに縋る奴らが、現在という悪夢のうちに手を取り合って、いっそう騒いでいやがる。これが歴史というものであろうか...
そして、思考の原型を遡れば、プラトンとアリストテレスの論争に帰着するように思えてならない。もっと言うなら、プラトンにしても、アリストテレスにしても、記録として残されてきただけのことであって、ずーっと昔の記録媒体のない時代から続いている論争で、彼らもまた先人たちの代理戦争をしていただけのことかもしれん。精神というやつは、数千年前から、数億年前から、あまり進化していないということであろうか。どうりで、知の歴史は考古学から脱し得ず、血の歴史を繰り返すわけだ...

1. 言表(エノンセ)と言説(ディスクール)
知の源泉を探求するのに、言語に着目するとは、これいかに?確かに、知は記述によって蓄積されてきた。フーコーは、「言説(ディスクール)」という語を持ちだして、言語系を総体として観察することを要請する。
「一見したところ、言表は、最終的、分解不可能な、それ自身において分離されるような、また、それと相似た他の諸要素との間で連関が成立するような、一つの要素として現れる。」
さて、言説によって「知」を完璧に記述できるだろうか?あらゆる学問は言語コードで記述され、学問の義務は研究成果を記録として残すことにある。知を思考の結果だとすれば、思考する主体である精神を、言語という手段を用いて記述することになる。精神を完璧に記述できるということは、人間が精神の正体を知っていることを意味し、ここには既に矛盾が含まれている。
それにしても、言語とは、奇妙な存在である。記号と意味が結びついただけの表記の道具でしかないのに、精神と結びついた途端にこれほど威力を発揮するものはない。洗脳者が言葉を巧みに用いるだけで、世論が扇動される。
また、同じ知覚でありながら視覚と聴覚で様相がまるっきり変わり、口語体と文語体でまったく違った形式をとる。小説家のように文章の達人ともなれば、独特な言い回しが現れる。単純で完結した、しかも自律的な文章を目の当たりにすると、そこに哲学が存在する。こうした文章は一つの体系を成していて、文節や文法などで分解することはできない。そこに、主語や述語、あるいは名詞や人称関係といった概念の入り込む余地などないのだ。
「一つの知とは、特殊化された言説 = 実践のうちで語られうるものである。」
実際、日本語という一つの体系を観察してみても、誰一人として同じ言葉を喋っちゃいない。客観的であるはずの専門用語ですら、個人や組織によって微妙にニュアンスが違う。言語が精神と結びつけば、そこに多様性が生じるのは自然であろう。しかも、時代とともに微妙に体系を変化させていく。
「コペルニクスの前と後、ダーウィンの前と後では、同一の言表を構成しない。」
大和言葉は日本固有の語でありながら、もはや現代人にとっては外国語のようなもの。時代感覚は言語系にも反映されてきた。翻訳の意義は、過去の知を現代感覚と結びつけること、あるいは、異なる文化圏の知を持ち込むことにあろうか。もはや言語系そのものが、精神を投影するかのごとく有機的存在である。ついでに、本書も間違いなく一つの言語系を形成している。まるで宇宙人の言葉であるかのような...
フーコーは、言説の広大な表面を分節化するために、「言説形成 = 編制」という形象を持ち出す。通常の学問のようにカテゴリー化や分類という手段を用いるのは、一時的な便宜上の方法であって、真の方法は、言説それ自身に問いかけよ!と。そして、分節化とは、モナトロジー的な、あるいはア・プリオリ的な分解とでも言うのか?もっと言うなら、直感的な?いずれにせよ、言語系を平面的な観点だけでなく、多次元的な観点で捉える必要がありそうだ。精神空間として捉えるがごとく...
「或る言説 = 実践によって規則的な仕方で形成 = 編制された総体、或る科学の構成に不可欠な諸要素 -- たとえそれが必ずしも科学を生ぜしめるべくさだめられていないにしても -- こうした総体を、知(サヴォワール)と呼ぶことができる。」

2. 主体なき知
「考古学的記述は、まさしく思想史の放棄であり、その要請、その手続きの体系的な拒否であり、人々が述べたところについての一つのまったく別の歴史の企てである。」
考古学は、統一性の原理としての主体とは無縁で、連続性や関連性を問わず、寓意的であることを拒むという。考古学記述が明確にしようとするのは、言説に隠された思考、表象、イメージ、主題、執念などではないと。そして、こうした記述は歴史への裏切りであるという。考古学は、思想史と違って、皮相的な瞬間を観察していると批判しているが、それは客観性に縋り過ぎと言っているのか?人間社会では、客観的や科学的という言葉が濫用される。だが、客観的に述べる!と宣言された主張で、客観的だったためしがない。
一方で、科学者の論述の中に、あえて主観的に述べると宣言した、イキイキとした記述を多く見かける。客観性という呪縛から解放されたかのような。やはり人間精神は、自由と相性がいいようである。思考は、主観によって牽引され、客観によって整えられるものであろう。本書には、多分に構造主義への皮肉が込められるが、構造的な思考を排除せよとは聞こえてこない。多様性を解明するためには、逆説的ではあるが、一般性や法則性を仮定してみることも必要である。潜在意識の活性化のためには、まったく違う土壌で思考してみることが求められる。芸術と無関係な世界で生きていても、芸術に触れることの大切さがここにある。思考の柔軟性こそが、知の源泉としておこうか。
しかしながら、思考が煮詰まった時に、新たな思考を試そうとするのであって、最初から柔軟に構えることは難しい。一般性や法則性で説明ができないから、多様性や矛盾に縋る。したがって、知の考古学とは、思考の限界を常に試すということになろうか。これが学問の原点ということになろうか。とはいえ、思考した結果が、本当に自分で思考したものなのか?と自問してみると、いまいちはっきりしない。誰かの知恵を拝借しているだけ、ということはないだろうか?独自の哲学を編み出したと自信を持っていても、古典に触れると、既に誰かが思考した結果であることに気づかされ、がっかりさせられる。学問を始めれば、誰かの痕跡を辿ることになる。赤ん坊が親の真似をしながら学習していくように。思考の原点は、模倣から始まるのであろう。それが猿真似で終わるか、独創性として開花させるかは、その深さで決まるのであろう。思考が遺伝子的に継続されるとしたら、「主体なき知」とはそういうことであろうか。
ちなみに、ゲーテはカントを評して、こう語っていた。「たとえ君が彼の著書を読んだことがないにしても、彼は君にも影響を与えている。」と...