2012-09-30

"饗宴" プラトン 著

お馴染みのソクラテスが登場する対話篇の一つだが、ここでは、ちと違った趣向(酒肴)が凝らされる。それは、多重間接談話という形式に、およそ哲学とは思えない筋書きである。又聞きの又聞きという語り話の中で、酒盛りには欠かせない酔っ払いが乱入し、対してソクラテスは飲んでも飲んでもけして酔わないという構図。しかも、この物語には、愛を題材にした「無知の知」の奥義が秘められる。その酔っ払いの能書きがこれ!
「理知の視力は、肉眼の視力がその減退期に入ると、ようやくその鋭さを増し始めるものだ」
知への愛求こそが、盲目から解放される唯一の方法というわけか。これを開眼というかは知らん。それにしても、知識とは奇妙なものよ。知れば知るほど分からなくなるのだから。それどころか、自分の無能ぶりを簡単に暴き、疎ましくもある。
さて、「酔っ払い + 愛」とくれば、夜の社交場の図式である。知的なボディラインを求めて繰り出すとしよう。そして、「酒にけして酔わない。君に酔っているだけさ!」という口癖を持つ酔っ払いの噂話を又聞きするのであった。

原題「シュンポシオン」とは、「共に飲む」ぐらいの意味だそうな。シンポジウムの語源でもある。なるほど、有識者どもの討論会が、千鳥足で迷走するのも道理というものか...
悲劇詩人アガトンの祝宴に招かれた識者たちは、ワインの盃を重ねながら、右廻りにエロス(愛)の讃美を語っていく。そして真打登場、ソクラテスは最高愛について語り始める。しかも、巫女ディオティマに聞いた愛の説を報告するという形で。ソクラテス自身は、無知を自覚する者というわけだ。
いつもの対話篇ならば、ここで終わるのだろうが、更に酔っ払いが乱入する。酒宴に招かれていないアルキビアデスは既に泥酔状態。このソクラテス敬愛者は、どうせ自分を愛してくれない!と絡み、ソクラテスの右に座る。すると、次はアルキビアデスが語る番。彼はソクラテスを妬みながらも、この人物を讃美する演説を始めた。プラトンは、ソクラテスを最高愛の具現者として、第三者に語らせている。酒はしばしば本音を吐く道具とされるが、この酔っ払いに正直者という役割を与えている。
おまけに、全体構成がややこしい!酒宴の様子をアポロドロスが、酒宴に列席したアリストデモスから話を聞き、ある友人に語るという設定。アポロドロスとアリストデモスもソクラテス敬愛者。敬愛者が、列席した敬愛者から、敬愛者が語った演説のことを聴き、それを友人に語って聴かせる。おそらく、この友人もソクラテス敬愛者であろう。ソクラテスが何を語ったかを教えてくれと熱心に頼んでいるのだから。まるで敬愛者たちの伝言ゲーム!つまり、二重、三重...の間接談話という構成。話がだんだん大きくなって、やがて無条件の信仰に達する。崇拝とはそういうものかもしれん。
ちなみに、アポロドロスは、ソクラテスの臨終に際し、弟子の中で最も烈しく泣き、弱気男と渾名されたそうな。尚、「ビブリオテーケー(ギリシャ神話)」の編纂者と時代が違うので別人。プラトンは、この激情家をもってソクラテスの愛を語らせていることになる。
遠近法というものは、事実関係を浄化させ、平凡なことも意義あるものに見せるところがある。人物を讃美するにしても、第三者に語らせる方が説得力を持つ。こうも構成がややこしいと、凝り過ぎに感じそうなものだが、不思議とそうでもない。むしろ複雑な間接談話が、崇高な文学作品に仕上げている。他の登場人物にしても、悲劇詩人や喜劇詩人、あるいはソフィストや医者といった当時の識者たちの風潮をよく表している。プラトン文学の中でも、技巧の結集された白眉ものか。

ところで、エロス(愛)をテーマにしているのはなぜか?ソクラテスといえば最高善を説く者、その背後に徳なるものの存在がちらつく。
まず、当時の社会的風潮を五人の識者の演説によって明らかにされる。古代ギリシアには、ヘシオドスやホメロスの宇宙観に立脚した倫理的なエロス観があったようだ。ヘシオドス著「神統記」は、カオス(混沌)から永久に揺るがないガイヤ(大地)とエロスが生じたとした。つまり、エロスは最古に属する神で、両親というものがない。最も勇敢とされる軍神アレスですらエロスの虜になれば、最勇敢者はエロスということになりそうなもの。これほど原型的で偉大な神なのに、有識者や教育者たちはエロスを教えることを避ける。確かに、エロスには赤面する行為をともなうし、性教育はタブー化されやすい。ただ、愛という情念は美しさから発する性質がある。なぜか?あらゆる知覚の中で美だけが特権を得ている。自然美、芸術美、数学の美、宇宙法則の美といったものが崇高とされる。一方で、美女に憑かれた途端に小悪魔の虜となり、美体(びたい)はたちまち媚態(びたい)へと変貌する。これほど、善悪の双方において人間精神に取り憑く情念も珍しい。人間どもが神々に直接触れるなど恐れ多いことだが、エロス神だけは向こうから近づいてくる。半神のごとく人間と神の間を行き来しながら、神々との仲介役を進んで演じてやがる。俗人の愛といえば、およそ家族愛、友人愛、隣人愛、恋愛といったものであろうか。こうした愛は個人の価値観で解釈され、愛情劇が愛憎劇となるのに大して手間はかからない。
そこで、プラトンはこの厄介な愛に対して最高愛の存在を唱える。天上の愛と万人向けの愛を区別し、肉体美から精神美へ、更にフィロソフィア(智慧の愛)にまで精神を高めよと。智慧の愛求をもって、霊魂浄化できるということらしい。そして、美のイデアは、愛のイデア、善のイデアへと昇華し、原型的な存在を直観できる境地に達するとでも言うのか?理論上の知識が実践上の知識とならなければ、不完全たるを免れない。よって、哲学は、生きる術(すべ)、すなわち生き方となるはず。しかし、これが至難の業!
ソクラテスは、最後の一人が酔い潰れるまで会話に付き合い、ただ一人乱れることなく立ち去る。なるほど、霊魂浄化された者とは、浴びるほどのアルコール濃度にも耐えうる肉体と精神を併せ持つというわけか。

1. 五人の演説
最初の演説者は、ファイドロス。プラトン著「パイドロス」では、高名な弁術家リュシアスの心服者として登場し、リュシアスの愛に関する演説に傾倒したとされる。エロスとは、最大福祉の源泉、全生涯の指針となるべきものと主張する。
二番目の演説者は、パゥサニヤス。プラトン著「プロタゴラス」では、アガトンの愛者とされるが、ここではソフィストの代表のような存在であろうか。愛の女神は二種類あると主張する。一つは天上の子、ウラノスの娘。二つは万人向けのもの、ゼウスとディオネの娘。天上の愛とは、精神的なもの、万人向けの愛とは、衝動的で肉欲的なもの。愛は、正しく行われた場合には美しく、正しからぬ場合には醜くなり奴隷根性を生じさせる。有徳の意に従うのは美しく、放縦に従うのは恥ずべきこととしている。
三番目の演説者は、医者エリュクシマコス。医術の面から説き起こす。
「医術とは、約言すれば、充足と排泄とに関して体内に起る愛的現象(エローティカ)の知識である」
飲食は健康のために善とも悪ともなりうる。実際、人体は善いものを吸収し、悪いものを排泄する。しかし、そうとも言い切れない。消化能力を超えて栄養を摂取すれば、脂肪が増え、悪玉コレステロールが蓄積される。となれば、精神の消化できない領域で知識を詰め込めば、悪知恵になるかもしれない。
四番目の演説者は、ギリシャ最大の喜劇詩人アリストファネス。ギリシャ神話から性の原始的本性に立ち返る。もともと人間の性には三つあったという。男性と女性、そして両性の結合。男性は太陽から、女性は地球から、両性は月から形状を成したという。だが、三つ目の性は罵詈の言葉として残される。ギリシャ語では太陽は男性を表し、月はオルフィック教的に、男女両性という考えがあるそうな。男と女が出会わなければ子孫も残せない。両輪が揃って完全を成すとなれば、人間は割符に過ぎないという。エロス神だけが、男女を合体させ、原型に戻そうとするわけか。失われた半身を求めるのは、もはや本能!これには逆らえまい。しかし、どんなに愛しあって合体しようとも、心が一つになることはけしてない。けしてだ!プラトンよ!この矛盾をどう説明するのか?
五番目の演説者は、悲劇詩人アガトン。伝統的神話に立ち返るが、ファイドロスの捕捉的な位置づけか。

2. ソクラテスの演説
人は、何かを所有していれば、それを求めたりはしないだろう。したがって、愛を獲得した者は、愛を求めたりしないはず。しかし、金持ちがさらに金持ちになりたいと欲求し、健康な人がさらに健康を欲求するのはなぜか?既に所有しているからといって、それを失わないとは限らない。結局、人間は永遠に所有したいと願うのではないか。そして、究極の永遠が、不死ということになろうか。子孫を残そうと願うのも、肉体の不死を継続したいがためかもしれない。
さて、ソクラテスには魂の不死という基本思想がある。そして、婦人ディオティマに愛について質問した時の話を始める。それによると、エロスは知恵と無知の中間にある神だという。善でもなければ、美でもないことを自認した神。正しき意見を抱いて、その根拠を示すことができないのは、知識でも無知でもないという。エロスは善悪の中間にあるらしい。
知恵のある者は、知恵を求めようとはしないだろう。また、無知者も知恵の存在を知らなければ、それを求めることはない。無知者が甚だ厄介なのは、この点にあるという。ただ、無知を知るとなれば話は変わってくる。知恵に欠乏を感じることができれば、愛智者になれるかもしれない。
では、愛は人間にどういう利益をもたらすのか?エロスは美を求める。ここで美の代わりに善をおくとしよう。善から何が得られるのか?と問えば、それは幸福であるという。幸福者が幸せでいられるのは、善きものを所有するからであると。
では、愛は万人にとって共通のものか?万人が共通なものを永遠に愛求するならば、どうして特定の人を愛し、他の人を愛していないなどと言うのか?人々は、愛の中から特定の種類のものだけを取り出し、総括的な名前を付けて、愛と呼んでいるに過ぎないという。愛という言葉は、なんとなく心を癒してくれる。しかし、愛の正体を知る者はおらず、個人が都合よく解釈しているに過ぎない。エロス的欲情によって、創造欲や独占欲を掻き立て、仕事の活力となるのも事実。英雄色を好む!とは、そういうことであろう。何人をも愛せよ!と唱える聖職者が誰とでも愛を育むとなれば、自ら生殖者へ変貌する。
しかしながら、最高善とは、最高美を観ることだとしている。美しき肉体から美しき活動へ導かれ、美しき学問へと進み、美そのものの学問にほかならぬ学問へ到達し、美の本質を認識するに至ると。美の本質を観るに至ってこそ、生き甲斐なるものが観えてくると。地上にも天上にもないものが、直観においてのみ存在を認識できると...

2012-09-23

"プロタゴラス ソフィストたち" プラトン 著

当代随一のソフィストと謳われるプロタゴラスにソクラテスが弁論で挑むという、プラトンの対話篇の一つ。この物語がソフィストへの批判書であることは、想像に易い。だが、プロタゴラス自体には一般のソフィストたちよりも圧倒的に高い格付けをし、敬意を払っている。それは、議論の終結を互いの讃辞で締めくくるところに表れる。しかも、再会を約束するという親愛ぶり。名士を持ち上げながら世情を風刺するという、お馴染みの構成か。
いや、一味違う!自己主張にとらわれず、ひたすら論理性を追求した挙句、両者とも自己矛盾に陥る。これが哲学論議の醍醐味というものか。なるほど、精神の学問はメタ学問というわけか。そりゃ、メタメタにもなろうよ。

プロタゴラスは、アプデラの生まれで、言論にかけての第一人者とされる人物。その有名な言葉がこれ。
「人間は万物の尺度である。あるものについてはあるということの、あらぬものについてはあらぬということの」
この言葉の解釈は様々であろうが、とりあえず...
宇宙にどんなに美しい真理が存在しようとも、人間の認識能力を超えた領域でそれを知ることはできない。そぅ、世界は普遍的な真理よりも認識によって構築されている。しかも、質ちが悪いことに、認識能力は個々に多様である。
...とでもしておこうか。
対して、ソクラテスの教義に「人間が悪を為すのは無知にほかならない」というのがある。知の探求によって認識能力を養い、精神が高みに登るという考え方では、両者は似ている。精神が高みに登るとは、徳や善を知るということであり、国家社会の一員として持つべき徳性を会得すること。この思想が、古代ギリシア哲学の根幹にある。
そこで、プラトンは問題を提起する。徳は教えられうるものか?徳が知識であるなら、教えられるはずだと。親が徳の持ち主であれば、子供も必然的に教育によって徳の持ち主になるだろう。だが、現実にそんな事例はごく希だ。その子が犯罪をする事例は簡単に見つかるけど。議題そのものは「メノン」と同じ。だが、興味深いのは両者とも自己批判をしているかのように映る物語性である。しかも、議論の盛り上がりに、大物ソフィストたちがついてこれない滑稽さを見せる。
まず、徳には、正義、節制、勇気、敬虔、知恵という5つの要素があるという前提が構築される。ただ、これらの要素は部分として分離できる性質なのか、総合として分離できない性質なのか、はっきりしない。徳性を成立させるために、プロタゴラスが戒律や分別から迫るのに対して、ソクラテスは技術と知識で凌駕しようとする。そして、両者は、知恵が最も重要であると位置づけ、他のすべての要素に知恵が介在することで合意する。確かに、すべての要素において正しい知識がなければ実践もできないだろう。
しかし、だ!ソクラテスは、徳は教えられないものと主張していたくせに、徳の最も重要な要素は知であるとことを自ら提起しながら、いつのまにか徳は教えられるものということを証明しようと必死になっている。プロタゴラスもまた、徳を教えられるものと主張していたくせに、反論しているうちに徳は知識以外のものであることを証明しようと躍起になっている。ついに、ソクラテスは、もしかしたら徳は教えられるかもしれない?ぐらいの感覚になり、プロタゴラスも、もしかしたら徳は教えられないかもしれない?ぐらいの感覚になる。そぅ、両者は自己矛盾という共通観念において共感するのであった。なんというオチか。哲学とは、精神とは、自己矛盾との、自我との、葛藤というわけか。なるほど、人生とは、自ら墓穴を掘ることであったか。

1. ソフィストたち
プロタゴラスは、国から国へと渡る途中、弁論で魅惑し、知識人を誘い連れまわっている。大勢の聴講者を募って、賢人ぶりを武装しようという魂胆か?現代でも、有識者や有徳者どもが多数派工作で持論を武装しようとする姿をよく見かける。おまけに、討論会では声の大きい者、自信満々に語る者が勝利する。もはや言論力は、論理性の戦いではなく心理戦と化す。なるほど、人間ってやつは多数決に弱いものらしい。寂しがり屋め!これが衆愚政治の正体かは知らん。
さて、偉大なソフィストがアテナイへやって来た大ニュースが伝わると、青年ヒッポクラテスは興奮してソクラテスの所へ駆け込んだ。この青年は、国家の要人になりたいという野心を持ち、プロタゴラスに弟子入りしたいと考えている。
ソクラテスは青年に問う。金銭を払ってまで、精神の教師がいったい何を教えてくれるというのか?画家は絵画の技術を教え、音楽家は音楽の技術を教え、医者は医術を教える。対して、言論に秀でた者は言論術を教える。学識とは、民衆を扇動する技術を会得することなのか?識者の側にいることで、優れた人物になれると信じこませる術を。
「君には、自分がいま、魂をどのような危険にさらそうとしているかがわかっているのかね?」
そういう術を使う人ほど、よくよく気をつけなければならないと指摘する。それによって招く妬み、そして、敵意や陰謀などは、けして小さなものではないことを。ソフィストとは、「魂の糧食となるものを商品として卸売りしたり、小売りしたりする者」と定義している。ただ、魂の糧食が有益なものか?有害なものか?あえて明らかにしない。その煮え切らない様に皮肉が満ちている。やはり、真理はモザイク画と相性がいい。

2. 人に何が教えられるというのか?
国家社会のための技術とは、国家社会の一員として優れた人物をつくることだという。いつの時代も政治塾は盛況のようだが、何を教えているのだろうか?チルドレン選挙戦略の一環か?人間社会では、何かと専門家に頼ろうとする傾向がある。専門知識に敬意を払うのは自然であろう。ただ、自ら思考することまで放棄してしまうのでは、意味が違う。知識は教えてもらうものという意識が強いのは、暗記教育の弊害であろうか?何々学校や資格教材が繁盛するのも、教官や教材が自動的に与えられる便利さがある。そう言うアル中ハイマーも、かつて英会話学校へ通っていたし、よくセミナーに参加したりする。人間ってやつは面倒臭がり屋なのだろう。
しかし、自分に適した教材を探すのも学ぶ過程の一つであり、独学の面白さには敵わないだろう。学ぼうとする意欲満々の人が学ぶ時間を省略するとは、これいかに?読書家が速読法に惹かれるのにも似たり。愛する人と一緒にいると、時間よ止まれ!などと願うくせに、愛する対象が本となると、わざわざ読書の時間を省こうとする。ちなみに、夜の社交場では速愛法なるものを実践する者がいると聞く。
また、教育そのものを崇めるのも危険であろう。一般的に、犯罪を防止する方法は教育にあると考えがちである。ほとんどの意識向上キャンペーンは、そういう考えからくる。地球温暖化、エイズ予防、酔っ払い運転など。おまけに、有徳者どもは、人々に徳性がなければ社会は成り立たないと主張する。教育によってすべてが解決できるならば、常識者がダイエットや禁煙に失敗することもないはず。教育者が道徳を破壊し、政治家が法律を無力化し、経済学者が経済危機を煽り、友愛者が愛を安っぽくしやがる。人間が持つ人間性ってやつは脆いものよ。あらゆる規範を人間性に頼るのは軽率であろう。善悪の知識を持っていたとしても、必ず悪を避け善を行うかは疑わしい。悪にも惹かれるものがある。暴力映画や戦争映画のあの盛況ぶり、あるいは異性的な魅力がちょいワルを演じたりする。悪にも程度を計りながら節制の原理が働く。
善悪を知っても、その程度が個人に委ねられるとすれば、教育に絶望する。なんとか救済できないものか?そこで、哲学は、都合よく最高善という概念を生み出した。最高善とは、幸福のことである。だが、幸せもまた個人の多様な価値観に委ねられる。人間ってやつは、わがままにできているものらしい。では、教育とはいったい何を教えるものなのか?人にいったい何が教えられるというのか?ひたすら思考を高めよ!と言うことぐらいしかできないのかもしれん。精進しろ!と助言することぐらいしか。

3. 討論会と中庸の原理
「言論の場に立ち向かう者は、対話を行う両者に対して、公平な聞き手でなければならないけれども、平等な聞き手であってはならないのだ」
公平に耳を傾けても人の尺度はそれぞれ。となると、個々の判断でより多くの価値を認めるべきということになろうか。討論は口論とも違う。討論は好意を持つ者同士で行うが、口論は敵対同士で行う。ほとんどの政治討論会が醜態を曝け出すのは、後者だからであろう。目的論と方法論で意見を戦わせれば、議論は迷走するしかあるまい。良策を編み出すという目的よりも、選挙戦の前哨戦が目的となれば、相手の意見を否定することが前提とされる。国会のオヤジどもを真似て、生徒会や児童会でヤジり合ったり、メールをしたりと困ったものよ。もはや政治討論は、R-18指定にするがよかろう。なるほど、討論会が深夜に放送されるのは、青少年への配慮か。
討論中に、優れた見解が聞ければ、幸せになれるに違いない。しかし、意見が合わないことを、心地よいもの、快いもの、そういう境地にするのは難しい。だいたい、どちらかがこれ以上やると揉めるからと、主張を取り下げるか、やめるかであろう。本物語で展開される討論会は、一つの理想像を提示している。目的が共通意識としてはっきりしていれば、こういう議論も成り立つのかもしれない。両者が興奮気味になる場面もあるけど、それはそれで人間味があっていい。
「言論の手綱を解きゆるめて、言論がもっと堂々と優雅な姿をわれわれにあらわすことができるようにしたまえ。またプロタゴラスのほうも、帆綱をすっかり伸ばしきって順風に満帆をゆだね、言論の海原遠くのがれて陸地を見失うことなかれ。ねがわくは両人ともに、中庸の道を進まれんことを。」

2012-09-16

"パイドロス" プラトン 著

プラトンは、膨大な著作を対話篇という形式で残した。実在する人物を登場させ、その人物を持ち上げながら世情を皮肉る。しかも、師ソクラテスが記述を残さなかったことをいいことに、この賢者に代弁させやがる。なるほど、哲学とは、人物をスパイシーに評し、酒の肴にする技であったか。
本書は、愛の語りを交えながら言論の技術に迫り、哲学の根源的な魅力を語ってくれる。そして、哲学者を愛知者、すなわち「知を愛し求める者」と定義している。今もなお、プラトンの言葉が力を持ち続けるのは、魂が不死であるという証しであろうか?あるいは、記憶媒体の存在が前提されるだけのことであろうか?いずれにせよ、近代社会においてさえ、巧妙な弁論法や修辞法がもてはやされることに変わりはない。

プラトンの基本的な思考は、形相(エイドス)から出発している。アリストテレスにも同じことが言えるが、形相に対する解釈が、ちと違う。プラトンは、あらゆる形相には万物の根源であるイデアなるものが存在すると考え、人間精神が本能的に善を欲するのも、善のイデアがあるからだとする。精神の鍛錬をすれば、その先天的な知識も想起できるというわけだ。対して、アリストテレスは、あらゆる形相を魂と分離できない形而上学的な存在と考え、精神は後天的で経験的なものとする。両者をカント風に言えば、純粋理性と実践理性の対立といったところであろうか。こうして見ると、この世のあらゆる論争は、プラトンとアリストテレスの哲学的論争に帰着するような気がする。宇宙論の歴史とは、プラトン対アリストテレスの代理戦争を繰り返してきただけのことか?もっと言うならば、二人の言行が記録として残されるだけのことであって、彼らもまた誰かの代理戦争をしていたのかもしれん。精神ってやつは、数千年前から、いや数億年前から、ほどんど進化していないのかもしれん。

「人間がものを知る働きは、人呼んで形相(エイドス)というものに即して行われなければならない、すなわち、雑多な感覚から出発して、純粋思考の働きによって総括された単一なるものへと進み行くことによって、行われなければならない」
ここでは、形あるもの、色あるもの、重さあるもの、こうした特徴は「固体にまつわる属性」とし、美しきもの、智なるもの、善なるもの、こうした特徴は「神にまつわる属性」として区別している。前者は視覚や嗅覚などの五感から生じ、人間の認識はまずここから始まる。そして、後者によって認識を補正しながら、精神の高みに登るといったところであろうか。ちなみに、後者を第六感と言うかは知らん。ここで言う神とは、宗教的な存在ではなく、宇宙論的な存在と言うべきであろう。それは、プラトン思想の根底に、天文学と幾何学に基づいた自然法則の崇拝があるからである。
ところで、愛とか恋とかいうやつは、どちらの属性に分類されるのだろうか?本書は、神にまつわる属性としている。しかし、原始的な情念には美に惹かれる心がある。あらゆる知覚の中で、美だけが特権を得ているのはなぜか?自然の美、芸術の美、数学の美などが崇高とされる一方で、美女や小悪魔に憑かれた途端に、美体(びたい)はたちまち媚態(びたい)へと変貌する。認識能力が美という視覚から発する(ハッスル)のであれば、一度は美女と恋に落ちなければなるまい。快楽が想起の前兆ならば、ハッスル系の店も体験せねばなるまい。肉体への愛は、固体への愛に他ならないとしてもだ。そして、固体も崇拝するに価すると悟れるかもしれないではないか。知性や徳性といった得体の知れないものを愛するより、女体という確実な個体を愛したい。そして、愛を金で買う!これが最も有意義な金の使い方というわけさ。
...男性諸君の影の代弁者より。

1. 恋(エロース)について
紀元前5世紀頃、リュシアスという高名な弁術家がいたそうな。パイドロスは、リュシアスに心服する者として登場する。リュシアスは、こう述べたという。
「自分を恋している者よりも恋していない者にこそむしろ身をまかせるべきである」
この論旨をめぐって、ソクラテスとパイドロスの対話が始まる。よく、恋は盲目にさせると言われる。恋する者が意見すれば、どうしても贔屓目で見てしまう。となれば、恋の虜になっていない者の意見に耳を傾ける方が有益だという考えは、もっともらしい。
しかし、ちょっと待て!ソクラテスは、恋とはなんぞや?と問う。恋とは、人を勇気づけるものなのか?臆病にさせるものなのか?とんと分からん。恋こがれる者が、命の危険を顧みず犠牲心を発揮するかと思えば、いざ会話をする段になると、はにかんで見せる。恋には打算がある。けして自分自身をなおざりにすることを許さない。愛する者が幸せになるだけでは満足できず、自分が介在できなければ不幸になることすら望む。恋とは、自己愛を膨らませた状態なのか?実際、恋に落ちた人も、自ら正気ではなく、病気であることを認める。
さて、恋とは、一つの欲望であることは明らかであろう。だが、恋をしていない者であっても、美しいものに対して、やはり欲望を持つ。欲望には自己を支配する二つの力があるという。一つは生まれつき具わる快楽への欲望、二つは最善を目指す後天的な分別の心。自己の中で、常にこの二つが互いに相争い、どちらかが勝利する。理性の声によって善へ導かれるならば、それは節制と呼ばれ、盲目的な快楽へと惹かれれば、それは放縦と呼ばれる。快楽の奴隷となった者が、恋の相手を自分にとって快いものに仕立てあげるのは必定。自己が病んでいれば、自分に逆らわないものが快く、自分より優れたものが厭わしくなる。だから、恋する者は相手を劣った存在に仕立てたいという。より無知に、より臆病に、より無能に、より愚鈍に。恋する者は、相手が精神の欠点を持つことに喜びを感じ、必然的に嫉妬深くならざるをえないということか。確かに、賢い相手は疲れるところがある。ソクラテスがいくら賢者であっても、これだけ議論を持ちかけられれば鬱陶しくもなる。できることなら、物静かな愛人を側に置きたい。それが廃人に導かれると分かっていても。なるほど、小悪魔の正体とは、沈黙に癒されたいという願望であったか。
また、自分の恋人には、父母もなく、身内もなく、友もいないことを望むという。交際の邪魔になるからと。そして、、恋の虜になった者は、不実な、怒りっぽい、嫉妬深い、厭わしい人間に、自ら仕立て上げることになるという。
なるほど、恋とは、人を狂気させるものらしい。だが、狂気が悪いと無条件に言えようか?人間の最も偉大なものは、狂気から生まれてきた。芸術にせよ、科学にせよ、天才には神がかった行動が宿る。正気からは凡庸しか生まれない。
では、恋という狂気は、善か?悪か?自己を動かす者のみが自己を見捨てることがないという。狂気が神から授かったものであれば、それは善であると。魂が不死であるなら、精神の活動を止めることはできず、永遠に高みへ登ろうとするのであろう。固体は精神から離脱し、やがて腐敗し死滅していく。快楽の虜も精神を失い、やがて自滅するだろう。恋とは、すでに奴隷根性の染み付いた状態なのかもしれん。自ら恋の奴隷となり、相手に奴隷を演じさせる。そして、互いに演じることに疲れたら破局を迎える。これが所有の原理というものかは知らん。

2. 弁論術について
弁論術は、紀元前5世紀頃シケリア(シシリー)において、テイシアスたち弁論家によって法廷弁論のテクニックという形で始められたとされるそうな。やがて、ソフィストたちの教育と結びつき、法廷論から政治演説にまで応用されるようになる。言論の自由と法の下での平等を建て前とするアテナイでは、世論を動かす方法論として花形的な存在だったという。そして、弁論術の教師が登場すると、模範例を暗記させる教授法が盛んになる。目的から逸脱した弁論のための弁論、文章のための文章、そういったものに関心を集める。リュシアスは、こうした風潮で活躍した弁術家の一人で、ソフィストとは一線を画す純粋な弁術家に属すそうな。プラトンもこの人物に一目置いていた節がある。本書は、当時の有識者に対する批判書であることは間違いないだろう。
21世紀の今ですら、真理を顧みず、ひたすら多数の賛同を得ることに注力する。そこには、知性が暗記力で決まる社会がある。言論術が身の保全と立身を図る技術となれば、政治屋どもが血眼になる。しかも、自分で定義もできないくせに、幸福やら友愛やらを口にする。なるほど、弁論術とは、おべっか術であったか。
本書は、議論をするには、まず対象の本質を見極める必要があると説く。少なくとも、議論の参加者は前提の認識を合わせる必要があろう。だが、多くの場面で、自分が問題の本質を知らないということに気づかない。それを知っているものと決め込んで考察を始めるから、議論は迷走する。
弁論術は、最終的に真実の追求でなければならないとしている。それは、真実というイデアを想起することであると。思惟することが自己との対話であるとすれば、自問自答によって純粋思惟へと導いてくれるだろう。弁論術とは、問答能力とすることができるかもしれない。その試行では、直観性と言語性を駆使することになろうか。
一方で、言葉の力というものがある。言葉が魂と結びついた時、これほど力を発揮するものはない。言葉は、精神の本性を理解する手段となろう。歴史を振り返れば、聴衆を動かす力も言葉であった。演説の天才と評されるヒトラーは、聴衆が自発的に静まり、何か言葉を発するのを期待するまで、喋るのを待った。弁論術が、劇場化するのはやむを得ないのか?言葉は、小さな事を大きく、大きな事を小さく見せることもできれば、真新しい事を古く、古い事を真新しく見せることもできる。そして、無言ですら何かを物語る。言葉は長すぎても短すぎても説得力を失い、また用いるタイミングも重要だ。聞き手が、耳を傾ける度量を具えない限り、どんなに立派な言葉も陳腐となる。また、真理を語ればいいというものでもない。真実が必ずしも真実らしく見えるとは限らないし、嘘の方が真実らしく見えることもある。法廷では、何が真実かを気にかける者なんか、いやしない。重要なのは、真実ではなく、真実らしく見せること。しかも、完璧に証明する必要はない。証明を仄めかすぐらいで、聴衆は勝手に解釈する。社会風潮に逆らわず、多数派に真実だと思い込ませる。これが、弁論術の実践というやつだ。言論の技術だけを問題にするならば、いかに聴衆を誘導するか、ということに傾注すればいい。そして、弁論術とは、精神に優れた者の技というよりは、心理学に精通した者の技ということになろう。それにしても、本質的な目的を忘れ、手段にばかり眼が奪われると、こうも浅ましくなるものか。
しかしながら、言葉というものは最も神の意にかなうようにできているという。幾何学や天文学に見られる神の言葉に耳を傾け、真実の計算なくしては、建築物も成り立たない。そして、言論の技術とは、神の言葉を想起することだとしている。なるほど、宇宙は数学という言語で語られる。プラトンは、真実を知る者のみが知り得る不滅の言葉なるものが存在することを仄めかしている。
「それを学ぶ人の魂の中に知識とともに書きこまれる言葉、自分をまもるだけの力をもち、他方、語るべき人々には語り、黙すべき人々には口をつぐむすべを知っているような言葉だ。」

2012-09-09

"メノン" プラトン 著

メノンは問う、「徳とは、教えることのできるものであるか?それとも、訓練によって身につけられるものであるか?それともまた、訓練しても学んでも得られるものではなく、生まれつきの素質であるか?」
ソクラテスは答える、「人間は、自分が知っているものも知らないものも、これを探求することはできない。」

知らなければ、何を探求していいかも分からない。知っていれば、探求する必要もない。要するに、人間は認識能力を超えた領域で思考することはできないというわけか。
しかし、だ!現実に疑問に思っているということは、答えが見つからないにしても、なんらかの認識が働いていることにならないか。この矛盾に、プラトンはどう答えてくれるのか?
もともと人間は、あらゆる知識を持っているという。輪廻を繰り返すうちに、ちょいと重要な事を忘れるだけのことよ、と。それ故に、自問自答を繰り返し、鍛錬によって想起することができるという。知性や徳性とは、想起に他ならないと。魂は不死であり、常に日々学んでいるというわけか。肝心な知識は、DNAにでも記憶されているというのか?
「探求し学ぶということは、魂が生前に得た知識を想起することである。」
これが、プラトン流の想起説というやつか。宗教は、矛盾を毛嫌いし、無理やり辻褄を合わせる。哲学は、矛盾を自然の姿として受け入れ、答えのない世界で心地よく戯れる。ただし、矛盾に対して寛容になることは難しい。

ソクラテスの教義に「徳は知である」というのがある。悪徳を為すのは無知のせいだとする考え。徳が知識であるならば、教えられることができるはず。そして、最高の教育を受けた政治家によって社会を徳へ導くことができるとし、ここに「善く生きる」という政治哲学が結び付く。
しかし、プラトンはそれだけでは説明できないとし、登場人物ソクラテスに代弁させ、巧みに哲学のパラドックスへ誘なう。そぅ、「徳とは、そもそも何であるか?」と根源的な問いに置き換えるのは哲学の常套手段。哲学論議ってやつは、呪文でもかけるように魔法をかけ、行き詰まらせて、途方に暮れさせやがる。
ところで、知らなかったというのは、過失であろうか?アリストテレスもまた無知を罪だとした。熟慮してやった者が、知らなかったと言い訳するはずがないと。
「魂が積極的に心がけたり、受動的に耐えたりするはたらきはすべて、知が導くときは幸福を結果し、無知が導くときは反対の結果になる」
しかし、熟慮したからといって、正しい選択をするとは限らない。どんなに優れた知識を会得しても、やはり判断を誤る。知識とは不思議なもので、深く知るほど分からなくなる。知識は無限なのだ。このあたりは、プラトンもアリストテレスも徳の限界を感じたことだろう。
人は、ちょいワルというものに憧れるところがある。やってはいけないとなると、余計に衝動に駆られ、つい魔が差す。身体に悪いと分かっていても煙草を吸う。身を滅ぼすと分かっていても博奕中毒になる。禁断な恋ほど燃え、灰と化す。善にも程度というものがあろうが、最高善に背いてまで悪を為すことはないのかもしれない。ただし、最高善にも個人差がある。

プラトンは、想起する過程を、メノンに幾何学の問題を解かせることによって実践してみせる。例えば、正方形の面積は、辺を掛け合わせることで求められる。面積を2倍にしたければ、感覚的に辺を2倍にしたくなる。だが、辺を2倍、2倍...していくと、面積は4倍、16倍...と増える。面積を2倍にしたければ、対角線という知識が必要になる。そして、辺を掛けることと対角線という知識だけで、様々な面積の図形を知ることができる。これは、教えられた結果ではなく、メノンが自力で思考した結果である。要所は師の質問によって誘導されるにせよ。ここには、一から多が生成されるという概念がある。実際、幾何学のあらゆる定理は、根源的な公準や公理から組み立てられる。これが、万物の根源であるイデアを想起させるのか?
また、あらゆるものに名前がある以上、それは形を成しているという。そして、形は立体の限界であるとしている。あらゆる物体はプラトン立体に集約できるとでも言いたげな。
なるほど、この物語はプラトン思想の中心テーゼを匂わせているわけか。徳もまた、精神の本質なるイデアのようなものを想起させるのだろうか?徳とは、ある時は教えられるものかもしれない。だが、ある時は教えられないものであろう。そして、学ぶとは、他人から教えられるものではなく、自ら学ぶ能動的な行為ということになる。知らないことが知への渇望となり、これが無知の克服というわけか。徳とは、まさに精神修行の真っ只中にあるのだろう。すなわち、思考の永続的な状態とすることができるかもしれん。
さて、最初の問いに立ち返る。「徳は誰が教えうるであろうか?」ソフィストたちは?政治家たちは?自称教育者とは、あらゆることを学んだと宣言し、教える資格を持つと自認する輩ではないか...徳には、まず人々を正しく支配する能力を有し、そして、勇気、節制、智慧、度量の大きさなどが具わっているのではないか...と議論が盛り上がる。
ちょうどそこに、アニュトスが訪れる。彼の父アンテミオンは、富も才知も兼ね備えた人物で、人を見下すことなく、尊大で嫌味なところもなく、慎み深く礼儀正しいという評判である。そして、息子アニュトスを立派に教育したとなれば、絶好の観察対象となる。ちなみに、アニュトスは、ソクラテスを告発したメレトスの後ろ盾になった人物。その思想は、頑固な保守派で、徹底したソフィスト嫌いとされる。案の定、アニュトスはソフィストたちを蔑む。ソフィストがダメなら、他に誰がいるというのか?そして、徳は教えられるものではないという結論に達する。つまり、アテナイ人には徳が教えられないと。これにアニュトスは怒る。
人間ってやつは、自分の知っていることで、すべてを解決したがるもの。しかも、現実から目を背け、真実を幻想にしてしまう。知っていることは知っている。知らないことは知らない。これが学ぶということであろうか。しかし、これが難しい。そもそも、知っているかどうかが分からない。知った気でいるぐらいが幸せというものか。では、幸せを求める者の精神は、いつか何かに到達することができるだろうか?何かを悟ることができるだろうか?徳が教えられるものでない以上、もはや知識ではない。努力しても、探求しても、徳が具わるかも分からない。それは神のみぞ知る!結局、人間は神の存在に頼らないと、思考を迷走させる運命にあるというのか?永続的な思考というものは知識ではないかもしれないが、知識に劣らず有益であることに変わりはあるまい。

2012-09-02

"ニコマコス倫理学(上/下)" アリストテレス 著

アリストテレスが人生の究極の目的を探求したのは、ソクラテスの「善く生きる」という思想から受け継がれるもので、この点においてプラトンとなんら対立するところはない。そして、現在においても、政治哲学の骨格となっている、はず...
尚、「ニコマコス倫理学」は、息子ニコマコスが編纂したとされる書で、厳密にはアリストテレスの著作ではない。

議論では、善とは?幸福とは?徳とは?思量とは?選択とは?そして正義とは?と思考を掘り下げながら、アリストテレスの二つの哲学原理を顕にする。それは「中庸の原理」「卓越性の追求」である。
中庸とは、両極端を悪とする考えである。精神を探求するにしても、ほどほどでなければ精神病へ追い込むことになる。真理は、ほどほどに見えるぐらいが幸せというものか。人間を極めるとは、人間を失うことなのかもしれん。
一方、卓越性とは、徹底的に思量することである。俗世間では、考え過ぎは良くないと意見する人がいる。だが、考え過ぎるぐらいでなければ卓説性は得られまい。芸術の境地とは、そういうことであろう。そもそも考え過ぎと思う時点で思考の頂点に到達したと自負するようなもの、神にでもなった気でいることになりはしないか?中庸を知るためにも、両極端を知る必要がある。
そうなると、中庸と卓越性とは、なんとも矛盾する思考にも思えるが、まったく違和感はない。深く思考を試みても、結論が見つからなければ、保留しておけばいい。どうせ結論なんてないんだから。そのぐらいの覚悟がなければ、匠の世界は成り立つまい。すなわち、人生とは思考の限界実験である。最も危険なのは、思考停止に陥ること。知ることについては貪欲を求め、知ったことについては調和を求める。なるほど、矛盾とは心地良いものと、そうでないものがあるらしい。心地よい矛盾ほど、より真理に近いということになろうか。自然界に矛盾という原理が存在しなければ、哲学は成り立たないだろうし、精神も成り立たないのだろう。自己が第二の自己を求めて永遠に苛むのは、精神を獲得した知的生命体の宿命であろうか?
さらに、三つ目の思考原理として「持続性」を付け加えておこう。善を持続することは難しい。だが、悪を持続することも難しい。快楽に耽ることが悪とはいえ、永遠に続けば享楽地獄となる。それは、精神的、肉体的疲労からくるものであろうか?怠惰に浸っても、すぐに退屈病に襲われる。苦痛は、避けても、避けても、やはり苦痛ならぬものが苦痛となる。愛にせよ、憎にせよ、休息にせよ、人間にとって執念とは最も縁遠きものかもしれん。人生とは挫折の繰り返しよ。天才の能力とは、持続力であろうか。いや、永遠に愛する自信はあるぜ!ただ、ちょいと対象が変わるだけのことよ。

最上なのは、みずからすべてをさとるひと、また、よき言葉に従うひとも立派なもの。だが、みずからもさとらず、他に聞くもこころにとどめないのは、せんなきやから。
...ヘシオドス著「仕事と日々」より。

「人間は本性上市民社会的(ポリティコン)なものにできている」
アリストテレスは、善の活動の中でも政治におけるものを最高善に位置づけている。そして、政治的な善とは、民衆の幸福を目的とすることで、自足的でなければならないとしている。自足とは、個人にとって充分という意味ではなく、全市民をも考慮した上で充分ということ。では、幸福とは何か?そこに共通解が見つからないことが、いまだに政治をややこしくしている。幸福を欲望の権利と同一視して、多数決で決定するならば、社会的弱者を虐げることになる。少なくとも、快楽や地位や富に存するものではなさそうだ。
「最高善が幸福であることは万人の容認せざるをえないところ。だが、幸福の何たるかについては異論がある。」
アリストテレスは、卓越性を知性的卓越性と倫理的卓越性に区分し、倫理的卓越性の高まりを求める。倫理的卓越性とは、その名を徳と言う。そして、徳とは、中庸であるとしている。
しかし、アリストテレスは奴隷制度を肯定した人物として、よく批判される。「生まれつき奴隷」を唱えやがったと。だが、本書を読む限りその印象はない。奴隷とは人が人を所有することになるが、所有の概念は個人によって生じるのではなく、社会との関係から生じるとしている。社会との関係とは、君主によって決定づけられるものなのか?そのようにも解釈できるが、ちと違う。君主と僭主は同じ単独支配だが、似ても似つかぬものとしている。君主は自己の利益を考慮せず万人の利益を考慮するが、僭主はまったく反対のことをすると。君主には最高善が前提されるわけか。君主が神のような人物であれば、奴隷であっても不都合はないのかもしれない。だが、歴史に登場したあらゆる君主は、残念ながら僭主であった。それとも古代ポリス時代には真の君主がいたというのか?
尚、国政の形態には、君主制、貴族制、立憲民主制または共和制の三つがあるという。最善なのは君主制で最悪なのは民主制だとし、僭主制は君主制の逸脱形態としている。現実に、社会的な力関係が生じるのは避けられない。組織構造には必ず上下関係があるし、取引関係も顧客に従わなければ成り立たない。あるいは、人生経験や能力の違いから人を敬う気持ちが自然に発する。現在ですら、労働者は企業の半奴隷となって働き、下請業者は半強制労働を強いられる。会議の休憩中、大会社の連中が連休に何をするか雑談している時、こちらは工程の遅れを取り戻す思案をしているものよ。どんな人間だって何かに依存しなければ生きてはいけないし、依存するものに対して奴隷となって生きるしかあるまい。もしかして、アリストテレスは差別制度を容認したのではなく、人間の社会的性質を述べただけなのか?結局、本書は最高善の探求を政治家に求めて終わっている。「より善き人間たらしめようと欲すること」、そうした人間が政治をやるべきだと。「ニコマコス倫理学」は、アリストテレス著「政治学」の前段に位置づけられているわけか。この古典にも挑戦してみる必要がありそうだ。プラトン著「国家」と合わせて...はぁ~道は遠い...

1. 幸福とは
幸福が、卓越性や学習や訓練によって生じるとしても、やはり神的なものに属するところがあると認めている。美しく生まれるのも、健康な身体であるのも、何らかの恵があるからであろう。動物に生まれるのも、植物に生まれるのも、人間に生まれるのも、やはり神の仕業であろうか?人間に生まれることが、本当に幸せなのかは知らんが。
さて、幸福とはいかなるものか?ソロンの言葉に「その最後を見とどける」というのがあるそうな。人生を評するには死後でなければ語れない。だが、死者は語れない。人生とは自己評価もできないものなのか?なるほど、人は死に顔を曝しながら、生き残った者に愚痴られる運命にあるのよ。生き残った者が死者にまで価値観を押し付け、幸せそうな顔をして死んでいったなどと後付けで評す。なんと身勝手な、そして不幸のレッテルを貼るがいい。少なくとも、生きている間は生きている者同士で付き合いたい、死んだら死んだ者同士で付き合い、生きている者に眠りを邪魔されたくないものだ。
人生とは、大半が自己満足の世界なのであろう。そして、その瞬間、瞬間で味わい、自己評価するしかあるまい。とても他人が評価できるものとは思えない。幸福とは、生きているその瞬間の精神活動ということができそうか。幸福な人は、卓越的に活動し、外的な環境に恵まれ、しかも、それが生涯に渡って続く、ということはできるかもしれない。そして、相応しい死に方をするというのを付け加えておこうか。

2. 徳とは
徳とは、卓越性だという。そして、知性的卓越性と倫理的卓越性を区分し、前者を経験的で後天的なもの、後者を習慣づけによって生じるとしている。ちなみに、「倫理的」(エーティケー = エートス的)という言葉は、「習慣」(エトス)から転化したものだそうな。倫理とは、習慣すなわち生き方、そして最も重要な徳とは、人の生き方ということになろうか。
「倫理的な卓越性ないしは徳は本性的に与えられているものではない。それは行為を習慣化することによって生れる」
そもそもの政治の起こりとは、「慣習 = 倫理的卓越性 = 徳」という図式から生じたのかもしれない。いくら政治で成文法を整えたとしても、それが慣習とならなければ、法律として機能しない。しかし、政治家は、条文の解釈をめぐって、いつも法律の眼を掻い潜る。これが「政治家の原理」だとすれば、「政治の原理」と似ても似つかぬものということになる。なるほど、政治家は法律の限界実験をしているのか。
この時代、卓越性というものについて最も勉強したのは政治家だという。市民は、その善き人の卓越性に耳を傾け法律に従い、人間たらしめることにあったと。だが、今ではその面影もない。ユーロ危機がギリシャに端を発したのは民主政治が衆愚政治と化した結果であろうか?

3. 中庸とは
倫理的卓越性とは、情念や能力などではなく、中庸を極めた状態だとしている。物事には調和と適合というものがある。中庸とは、それを悟った自然体とでも言おうか。恐怖と平然に関しては勇敢が中庸、快楽と苦痛に関しては節制が中庸だという。財貨の贈与と取得に関しては、寛厚が中庸で、過超と不足は放漫とケチだという。名誉と不名誉に関しては、矜持が中庸で、過超と不足は倨傲と卑屈だという。中庸は穏和であり、その対極は怒りんぼと意気地なしだという。
「両極端は中に対しても、また相互の間においても反対的である」
ただし、中庸を、無感覚と解するのでは違う。プラトンは、まさに悦びを感ずべきことがらに悦びを感じ、苦痛を感ずべきことに苦痛を感じることが必要であると説いた。これが、教育というものであろうか。徳にとって、快楽も苦痛も知る必要があるのだろう。となると、SもMも知らなければ、真の快楽も分からないというのか?この実験は、癖になりそうで怖い!

4. 正義とは
正義とは、どのような中庸の状態であろうか?正義は、適法的で均等的だとしているが、必ずしも善ということにはならない。このあたりに最大多数の幸福と多数決の問題にぶつかるのだろう。実践的には、運不運に左右される事柄に対する是正という意味での善ということのようだ。法は、理性を実践的な方法で導く手段ではあるが、多少の補正をしているに過ぎないのだろう。せいぜい、不均等を是正すること、いや、是正しようと努めているぐらいか。必ずしも、政治的正義とあらゆる善が一致するわけではない。政治では、最善策よりもそこそこ良策の方が機能する。歴史には、法は徳よりも優先された事例がある。諸葛亮の「泣いて馬謖を斬る」とは、まさに軍律の遵守を優先した結果である。人材の少ない蜀の国にあって、あえて愛弟子を処刑した。権力者だからこそ庶民に模範を示し、自己の徳を犠牲にした。それが理不尽であっても。このあたりが法の限界であろうか。
過多をむさぼることが悪徳だとしても、必ずしも不正義にはならない。だが、非難が巻き起これば、邪悪も不正義となりうる。法が裁かなくても、社会の眼が裁くことはよくある。こうした社会機能が法を補っているのだろう。しかし、民衆はよく暴走する。
「ひとびとは、不正をはたらくということは自分の勝手になることだ、だから正しい人間たることも容易なことだと思っている。」
そもそも、徳全般に対する正義なんてものは、存在しないのかもしれない。正義が実践において生じるならば、その限界は法の限界に近いところにありそうだ。
「法律は政治学の作品のごときものである。」
いや国家の作品、いや国民性のバロメータと言った方がいいかもしれない。
また、実践的な正義として、配分的正義と矯正的正義を議論している。配分的正義は、「幾何学的比例」という見慣れない言葉を用いている。三角形の底辺と高さのような、二つの要素の比例関係から全体の比例関係が生じるような関係で、現代風に言えば等比級数的というイメージであろう。現実に、所得税が累進課税であるのは、この原理からきている。対して、矯正的正義は、「算術的比例」に基づくという。矯正的とは、罪人を罰するための量刑などがこれにあたる。ただ、現在の量刑が比例的かどうかは知らん。無期懲役刑をくらっても、十年もすれば仮釈放で出てくるとは、これいかに?あるいは、死刑が随分と軽んじられているのか?アリストテレスの時代は、裁判官の裁量で比例関係を保つことができたのであろうか?

5. 愛(フィリア)とは
愛は、卓越性と切り離せないという。一般的に、愛は善とされる。おそらく愛も徳から生じるのであろう。互いに親愛であれば、正義など無用であろうか。ただ、愛と憎は背中合わせにあり、これほど両極端を行き来する情念も珍しい。愛することは難しい。いや、そんなことはない。夜の社交場では速愛法なるものを実践している、者がいると聞く。教祖様にいたっては誰とでも愛し合い、合体してまで身も心も蝕む。愛の価値を下げやがるのは友愛型人間ってやつか。
さて、愛にも三種類あるという。善きもの、快適なもの、有用なもの、に対する愛。しかしながら、善のための愛が最高だという。愛は、最も永続するものに価値があるのだろう。家族愛や郷土愛のような無条件に生じる愛もある。では、恋愛は永続するだろうか?そりゃ、するさ。ただ相手が変わるだけのことよ。愛のためなら(小)悪魔も必要さ。現実に、愛の関係には優劣がある。金銭的に服従したり、生活的に依存したりと。あなたなしでは生きられない!なんて、うまい事を言う。優劣関係にすれば、だいたい逆転するけど。力関係による愛、政治力による愛、慣習による愛、いずれも生活目的を結びつけるだけで、幻想ではないのか?人間は人間を利用しながら生きている。これも愛か?では、卓越性に即した愛とは?卓越した愛は永続的だという。永続する愛といえば自己愛が基本であろう。自分を愛せずして、どうして人を愛せる。だが、アリストテレスは、愛の最高位は国家共同体に対する愛だという。親友や家族よりも優先されるとも解釈できる。ちと危険か。
「ひとは自愛的でなくてはならない。だが世人の多くがそうであるごとき意味においては自愛的たるべきでない。」
んー...難しい言い回しだ。人類の歴史では、政治を優先するあまりに愛国心を煽った例が実に多い。戦争の原因のほとんどは愛国心から生じてきた。アリストテレスは、紛争もまた「一方的優位性の上に立つ愛」だとしている。憎しみも愛の裏返しとなれば、博愛主義者も喜ぶだろう。
好意もまた、愛の類いのように思われる。相手が気づかない場合もある。だが、好意は愛ではないという。好意には切実さが欠けていて、欲求が含まれていないからだそうな。愛は行動を伴い、好意は眺めるだけというわけか。憧れも好意に含まれるのであろう。見守るだけの方がはるかに災いを避けられそうだけど。
「愛においては、愛されるよりも愛することが本質的である。」
愛は、報われないと苦痛になる。愛が深まると、相手の価値観を否定することになるとは。真の愛とは、見返りを求めいないということか。すこし愛して、ながーく愛して!というのが、真理かもしれん。これも中庸の原理であろうか。孫に囲まれ、愛する者に見守られて死にたいというのが普通の感覚であろうが、所詮、自己愛の強調でしかない。孤独死を受け入れ、共同墓地に入るのを覚悟する、そんな覚悟を自然に受け入れられる人こそ、強靭な理性の持ち主なのかもしれん。死して屍拾う者なし!