2012-07-29

"字幕の中に人生" 戸田奈津子 著

世界各国で上映される外国映画のほとんどは吹替で、字幕が主流なのは日本だけだそうな。吹替版の方がコストが高くつくため、仕方なく字幕版を放映する国もあるらしいが、そんな理由とは関係なく日本人は字幕を好むという。本物志向が強いのかは知らん。来日した俳優たちも自分の声が流れることを喜ぶという。なるほど、俳優にとって台詞は命というわけか。文化交流の場では、相互の文化をなるべく温存させたままの方がいい。もちろん歩み寄りも必要だが。どちらかに完全に染まるよりは良い傾向であろう。日本語の良さを知る上でも外国語に触れるのは悪くない。人類は完璧な言語を持ち合わせないのだから。

著者の名は洋画を観る人なら一度は目にしたことがあろう。第一人者だけあって仕事量も半端ではない。それだけに違和感のある翻訳を見かけることもある。だが、字幕はあくまでも裏方。著者流に言えば、透明の字幕!ちらっと横目でキャッチするだけで、良い字幕は素通りし、悪い字幕ばかりが目に留まる。因果な商売よ。厳しい批判もあろうが、そういう人たちも字幕という仕事の難しさをある程度は理解しているのだろう。批判する文章が間抜けな日本語では締まらないのだから。
ちょうど今、「Shall we Dance?」を観ながら記事を書いている。「Shall we ダンス?」ではない。ハリウッドのリメイク版で、最後に「日本語字幕 戸田奈津子」と出る。本筋は忠実に再現されていて、あまり字幕に頼らずに済む。むしろ邪魔か?表現がストレートなのは国民性の顕れであろうか。オリジナルの場面が随所に思い浮かべられるものの、違った味わいがあるのはシナリオがしっかりしている証しであろう。そして最後の方...ダンス教室に垂れ下げられたメッセージに、電車の中からリチャード・ギアが笑みを浮かべる...フレーズはもちろん!"SHALL WE DANCE Mr ...?"。その字幕が「シャル・ウィ・ダンス?...」では、なんとも間の抜けた感がある。日本語にしても座りが悪いだろうから、せめて「Shall we ダンス?」か。いっそのこと省いたら...
まぁ、こんな些細なケチをつけたところで、職人芸に敵うはずもない。どんなに長い台詞も「一秒四文字、十字 x 二行」の枠に収める技は、まさに芸術!字幕のルールに則りながらも、「例外のないルールはない!」と断言するところに心が動く。台詞は芸術を成す要素の一つだけに、比喩、ジョーク、ダブルミーニングと、あらゆる技法が凝らされる。遠まわしの言葉は、それだけで歴史や文化が暗示される。単純で思わせぶりなフレーズほど翻訳は難しいはず。リズムも重要な要素で、詩的な感覚も必要であろう。
さらに、映画のジャンルは多種多様で、政治、法律、軍事、医学、科学、テクノロジー、スポーツ、音楽、美術...森羅万象を一人で相手にするという。
「字幕はいうに及ばず、翻訳というものに取り組めばすぐにわかることだが、『語学ができる』ということはスタート・ラインで、決め手は日本語である。『外国語に自信がある』だけでは足りない。日本語の力が問われる。」
とても直訳では通用しそうにない世界。言語が精神の投影であるならば、字幕屋の仕事とは心の和訳ということになろうか。

ただ、泥酔した社会の反抗分子は、第一人者やカリスマ的存在というものをあまり信用しない。頼りきって思考を硬直させる恐れがあるからだ。本人が称さなくても、周りから持ち上げられることもあろう。特に、字幕翻訳者は固定化されている印象がある。言葉には個性が露われ、母国語でも同じ言葉を喋る人はいない。それほど多様化した世界なのだから、もっと多くの人が関わってもよさそうなもの。宣伝で来日した俳優たちに固定された翻訳者が同行するのにも、形式化されているようで違和感がある。翻訳が裏方ならば声だけでもよさそうなものだけど、せめて俳優の年齢やキャラクターに合った翻訳者を同行させるとか、そんな演出があってもいい。業界規模が小さいから仕方がないのかもしれないけど。
「プロを育てる積極的な努力はしないが、仕事を頼んでも安心なプロの出現はいつでも歓迎する業界である。」
愚痴も鏤められ同情するところもある。翻訳は、まさに技術。そもそも日本には技術屋さんに冷たい風潮がある。いや、世界的傾向であろうか。安くこき使われ、安く叩かれる。技術屋さんが団体ごと、国外で拾われるケースも珍しくない。そして、技術大国は空洞化していくわけよ。
字幕は、大収益をあげた映画であれ、宣伝費も回収できない映画であれ、翻訳料の単価は同じだという。しかも、権利まで配給会社に持って行かれ、後にテレビ放映されようが、DVDになろうが、お構いなし。映画翻訳では、印税のような方式は絶対に認められないという。あれ?出版翻訳は印税でなかったけか?実は、技術屋さんの給料は印税方式にしてほしいと、飲み屋で愚痴っていた時代があった。建築士がどんなに優れたデザインで集客力を見せても、テナント管理者が儲かるようにできている。電子機器がどんなに爆発的にヒットしようが、設計者の単価は同じで、依頼主が儲かるようにできている。特許で儲けるのは、発明者ではなく特許管理者だ。あらゆる業界で下請扱いされ、泣かされるようにできているわけよ。はぁ...

1. 名台詞と名訳
一つ区別しなければならないのが、「名せりふ」と「名訳」の違いだという。「君の瞳に乾杯!」なんてのはまさにその類いか。日本語台詞の方が独り歩きすることもある。字幕屋冥利に尽きるというやつか。

「ミラーズ・クロッシング」...
"If you can't trust the fix, what can you trust?"
「八百長を信用できなきゃ、何を信用できる?」... んー、いい!

「めぐり逢い」"An Affair to Remember"...
"Winter must be cold for those with no warm memories."
「暖かい思い出のない人の冬は、さぞ寒いことだろう」... たまらんよ。

今や古典となった「第三の男」...
"I shouldn't drink it. It makes me acid."
「今夜の酒は荒れそうだ」と訳したのは秘田余四郎氏だという。acid には酸味の他に気難しいという意味もある。

映画に限らず、自分の制作物をカットされると気分が悪いだろう。「ライトスタッフ」の劇場公開の際、配給会社が上映時間が長すぎるのでカットすると言った時、もちろん映画監督にお伺いを立てるわけだが、カウフマン監督は「クロサワが切って下さるなら諒承する」と答えたそうな。ちなみに、黒澤明は「自分の映画を切るならフィルムを縦に切れ」という名言を吐いたとか。
ところで、翻訳者が映画の題名まで考えることはないという。これは意外だ。配給会社の宣伝部の仕事だそうな。"BASIC INSTINCT" を「氷の微笑」としたセンスには感服する。"WATERLOO BRIDGE" を「哀愁」とするのもなかなか。"Bonnie and Clyde" を「俺たちに明日はない」としたのが良いか悪いか分からんが、既にイメージ化されている。最近は、題名をあまり意訳しないように思える。ネタ切れかどうかは知らん。「ダイ・ハード」なんて、ずばりそのまま。「セント・オブ・ウーマン」は、副題で「夢の香り」とつけたという。なるほど、副題もテクニックというわけか。観賞者に調べる楽しみを与えるのも、テクニックのうちかもしれん。好奇心とは、チラリズムから生じるものであろうから。

2. 卑猥語と国民性
60年代から70年代には、どの辞書にも載っていない卑猥語の洗礼を受けたという。

「風と共に去りぬ」のあのラストシーン。
"Frankly, my dear, I don't give a damn."(はっきり言おう。オレの知ったことか。)

当時、damn は宗教団体から吊るし上げを食らったという。そこで、二通りの撮影をする。
ソフト版では、"Frankly, my dear, I don't care." というらしい。
同性愛をテーマにしようものなら宗教団体から袋叩きにされる時代。fuck や virgin もヤバい!「インディアン」という言葉が「ネイティブ・アメリカン」に取って代われば、西部劇も色褪せる。冷戦構造が終結すれば、ソ連という仮想敵国を失い、スパイ映画も迫力を失う。台詞は当時の社会風潮の表れでもある。
「日本の社会では蔑視や差別をなくすために、言葉そのものを排除しようとするのに対し、アメリカ社会では言語や行動に表れる現実をはっきり見据え、そのなかで考えてゆこうという風潮がある。」
日本は臭い物に蓋をするが、アメリカは臭すぎて蓋もできないか。いや、陰険かストレートの違いか。

3. ハリウッド映画と字幕
アメリカでは、伝統的に字幕が嫌われるという。ハリウッド映画では、なんでも英語を喋らせる風潮がある。ドイツやロシアを舞台にした歴史物ですら英語の台詞が流れる。「ミッドウェイ」で、いきなり山本五十六が英語を喋るんでは、なんとも締まらない。多民族国家では吹替の方が受け入れられやすいのか?映画産業が最も盛んな国だけに、外国映画に触れる機会も少ないのかもしれない。
「ダンス・ウィズ・ウルブズ」では、インディアン語がかなり問題になったという。西部劇でインディアンが英語を喋れば、それだけで色褪せる。ケビン・コスナー監督はこだわりを見せ字幕を用いた。そして、「アメリカ映画史上、例を見ない画期的な冒険であり快挙」と評されたという。
近年では、クリント・イーストウッドが硫黄島を舞台にした映画を日米双方の視点から描いた。当初、日本兵に英語を喋らせればいいという意見もあったと聞く。だが、映画監督のこだわりは納まらず、「父親たちの星条旗」と「硫黄島からの手紙」の二部作を撮った。言語文化というものは、英語を喋ればグローバル化の波に乗れるなんて単純なものでもなかろう。
ところで、日本の字幕の技術はかなり高いものがあるそうな。東京国際映画祭では、日本映画に英語字幕が義務づけられるという。その字幕のタイミングが酷くいい加減で、短い字幕が延々とスクリーンに出たりするらしい。せっかくの芝居のリズムも台無しで、その点、日本語字幕はタイミングが正確で心地良いという。

4. 字幕評論
「一秒三文字から四文字」という法則は、この道の先輩たちが試行錯誤のすえ編み出したものだという。人間の能力は、耳で聞くのと読むのとで明らかにスピードが違う。時間に制約があれば、意訳は当然の処置か。ただ、主観芸術だけに、意訳のやり過ぎは目障りとなる。映画評論家の中には、一字一句残さず訳すべきだという意見もある。それも一理ある。映画監督の思いは、台詞の隅々にまで行き届いているはずだから。だが、台詞通りに訳せば、字幕が溢れるというジレンマが襲う。字幕への批判は原文至上主義の立場から生まれてくるという。確かにそういう立場もあろう。だが、それだけだろうか?直訳では言葉の力を失い、ストーリー性を欠くことは、ほとんどの人が知っている。本書の言い分も分かるけど。昔は、映画館に行くだけでもお金がかかるし、一度しか観ない人が多数派であったろう。字幕という手段を使って、ほんの一瞬で内容を把握させて幸せにしたい、と配慮されるのはありがたい。その点、吹替の方が楽か。映画評論家が批評できるのは、何度も観れる贅沢な環境を持っているからだという。
しかし、今はちと時代が違う。映画館で公開されて数カ月もすればテレビ放映されるし、DVDもある。分かりにくいシーンを何度も観て味うことができ、目の肥えた観賞者が随分と増えたことだろう。したがって、今の字幕は、分かりやすくするところから、少し重点が移動しているのではなかろうか。英語に馴染む機会も増え、意訳は余計に目立つ。なるべく観賞者の主観に委ねた方がいいだろう。言葉が時代とともに変化するのだから、字幕も変化せざるを得ない。にもかかわらず、字幕が一度つくと、作品に組み込まれるかのように、ずっと付きまとう。歴史を紐解けば、字幕があるだけでもありがたいという時代もあったろうに。人間はますます贅沢になる。これが、技術文化の原動力ではあるのだけど。

5. ほされた「フルメタル・ジャケット」
スタンリー・キューブリック監督は、究極の完全主義者と言われるそうな。公開される国でのポスターのデザイン、宣伝文句、宣材のすべて、フィルムの現像の焼き上がりのチェックまで、すべてに目を通すという。字幕原稿では、逆翻訳を要求するのだとか。そのこだわりはプロ中のプロか。逆翻訳では、文字どおりに英語を並べることを要求するという。
"Go to hell, you son of a bitch!" に「貴様など地獄へ落ちろ!」と字幕をつけたとする。英語では、you しかないところを、日本語では、君、お前、てめぇ!、貴様!、こん畜生!くそったれ!...方言まで入れると、きさん!...これに対して、おいらの極貧ボキャでは、Hey You! Fuck You! ぐらいしか思いつかん。
著者は、son of a bitch は、「貴様」で十分表現できていると反論する。確かに、逆翻訳すれば貴様や畜生などの汚い言葉は、you で抽象化される。そうなると、翻訳したものを逆翻訳して、元の文章に戻すなんて至難の業か。いや、不可能かも。
そういえば、アメリカ人に日本語の表現は美しく、英語は汚いと言われたことがある。それは逆だろうと反論したけど。日本語は、相手を蔑視する人称表現が豊富で、わざわざ具体的に説明する必要がない。対して、人称代名詞が貧弱だと具体的に説明する必要がある。「ケツの穴でミルクを飲むまでしごき倒す!」なんて強烈な台詞も登場するわけだ。日本語では到底思いつかない発想だが、それはそれで感心させられる。ちなみに、「ケツの穴に手ぇ突っ込んで奥歯ガタガタ言わせたろか!」はあくまでも関西語だ。
言語は民族文化そのものであり、歴史を背負っている。そもそも無理やり言葉を置き換えること自体無理があるのかもしれん。
「オリジナルのせりふをあくまで尊重しつつも、映画をトータルに楽しむために、この『余分な作業』は負担にならない程度のものであってほしい。そこにはおのずと正しいバランスがあるはずで、そのバランスに忠実であることが、字幕をつくる者のもつべき姿勢であり、責任であると思う。」
バランスされる位置も、時代とともに変化していくだろうけど。
結局、「フルメタル・ジャケット」の翻訳は、映画監督の原田真人が手がけることになった。しかし、人間社会には、大御所と意見が合わないだけで、恥をかかされたと煽る風潮がある。特に日本社会はその傾向が強い。黒澤映画「影武者」でも、勝新太郎がほされたことが大々的に報じられた。人を貶めて話題にする行為ほど愚かなものはあるまいに。そういえば、ワイドショー文化は日本発だとオーストラリア人に指摘されたことがある。
それはさておき、映画芸術が、映画監督のものであることは言うまでもない。全責任を背負うから自由に描く権利が与えられる。それでほされたからといって、なんのことはない。一つの芸術を共同で制作するからには、芸術家同士で意見を戦わせるのは当然である。

6. 酒の映画
映画を観終わった時に疲労感が残るのは、字幕が原因という場合も多い。字幕のおかげで消化不良なんてことも。これを観客は字幕のせいとせず、映画が難解だと誤解するという。ただ、ちょっと難しいぐらいの方が長く楽しめそう。
長い台詞を忠実に再現した事例も紹介してくれる。「シンドラーのリスト」でワインを注文するシーン。字数が厳しいにもかかわらず、「シャトー・ラトゥール '28年物、シャトー・マルゴー '29年物、ロマネ・コンティ '37年物」と台詞どおりに字幕をつけたという。強制収容所でユダヤ人が飢え細っているところに、ナチ高官の贅沢三昧ぶりが伝わる。
一昔前は、酒場で注文する台詞は「酒をくれ」で事足りたという。スコッチが好きかバーボンが好きかでも違った印象を与える。酒好きは、こういう台詞を観察している。著者の作品ではないが「エニグマ」で暗号解読に成功したシーン。犠牲が大きかったために、ご褒美にハーフボトル。ラベルには白馬の絵がちらり。ホワイトホースを飲みながら観る映画だとつくづく思う。ちなみに、先日プロジェクトのキックオフにハーフボトルの赤ワインを進呈したのは...特に意味はない。

2012-07-22

"字幕屋は銀幕の片隅で日本語が変だと叫ぶ" 太田直子 著

著者は千本余りの字幕翻訳を手がけ、「ヒトラー 最期の12日間」にも「日本語字幕 太田直子」とその名を見かける。
日本で初めて映画に字幕がついたのは1931年、「モロッコ」(1930年、米)だったそうな。字幕の名台詞といえば「カサブランカ」のあのシーン...「君の瞳に乾杯!」Here's lookin' at you, kid! ...瞳という単語はどれ?などと野暮なことは言いっこなし!だそうな。
字幕翻訳は普通の翻訳とは違い、台詞の時間内にしか訳文が出せないので、要約にならざるをえない。人が精神空間に描く文面のイメージは、おそらく人の数だけあるのだろう。とても国語辞典などで規定できるものではない。意訳すれば字幕屋の感覚に委ねられ、マッチしない翻訳が目につくのも仕方がないか。
字幕制作では、一秒四文字を原則にするという。その姿勢は、細かい文章にこだわり、微妙なニュアンスの抜け落ちも許さず、ひたすら辞書を引き倒す。言葉の妙というものに憑かれる姿は、ある種の職業病か。手がける言語の幅も凄まじい。主要五ヶ国語はもちろん、アラビア語、ヘブライ語、トルコ語、インドネシア語、マレー語、タミール語、タイ語、ベンガル語、モンゴル語、アルメニア語、グルジア語、アイスランド語、スワヒリ語... これだけでも、字幕の仕事が単なる翻訳の域に留まらないことを想像させる。言語は、単なる伝達機能だけでなく、民族的、文化的要素の強いものだから。「この映画を日本で是非紹介したい!」という熱意が、字幕屋の魂をくすぐるようだ。そこには専門的で言語学的な話はあまりないが、字幕屋というまったく別世界に生きる現場の愚痴が聞けるのは貴重である。字幕屋は、いつも日本語と外国語の狭間で身悶えているという。言葉を扱う仕事に絶対的な正解はないのだから。「映画翻訳者は、言うならば、言葉の詐欺師」だそうな。それも、観客を幸せにする「善なる詐欺師」であると...

最近、「The Alfred Hitchcock Hour」(ヒッチコック劇場)に嵌っている。もともと30分のミステリーを1時間枠に拡大したもので、全100話ぐらいありそうか。有名な俳優たちの若き姿が観賞できるのもいい。結末はだいたい煮え切らないが、それがたまらない。ラストの瞬間だけのために、長い前置きも隅々まで気が抜けない。もっとも前戯は大好きな質ちだから問題なし。ただ、不思議なことに、重要なシーンではあまり翻訳されない。貴重なキーワードが視覚効果によって登場する場面でも、あえて字幕を入れない。ヒッチコック映像を存分にお楽しみください!と言わんばかりに。まさにミステリー!こういう作品を観ていると、映画翻訳はあくまでも裏方であることが実感できる。
翻訳はもともと作品には組み込まれないもので、存在感を強調すると作品そのものを壊しかねない。しかし、近年の風潮では、分かりやすく!という要求が強くあるという。売りやすく!と言った方がいいかも。不景気が続くと、あらゆる業界でありがちな傾向で、出版業界では字数の詰まったコッテリした本を嫌う傾向がある。護送船団式販売戦略を繰り返せば、多様なニーズが埋もれ、真の愛読者は選択肢を失うだろうに。前提される知識は観賞者によっても様々で、平均的なところを狙っても社会の多様化に対応できない。実際、その台詞からその翻訳はないだろう!と思わず呟くことがある。逆に、惚れ惚れする翻訳にも出くわす。翻訳者自身が納得できないこともままあるという。何をやっても賛否両論がある。ネット社会ともなれば、見知らぬ者同士が安易に共闘して罵声を浴びせかける。匿名が群衆化すると恐ろしい。おまけに、その奔流に目をつけた大手メディアが便乗しやがる。最前線で活躍される方々は、なんと不平等な社会的責任を背負わされていることだろう、と同情しつつ、この記事も匿名のようなものか。
著者は、分かりやすくし過ぎると、日本語力の低下を招くと指摘している。確かに、想像力を働かせる機会を奪うかもしれない。分かりやすいというだけで説得力を持つこともあるのだけど。だいたい高尚な芸術とは分かりにくいもので、観賞者の方から高みに登って行くしかあるまい。製作者のこだわりは、素人には気づかない細部にまで及ぶ。これが職人気質であり、プロ意識というものであろう。
「ヒトラー 最期の12日間」で言えば、シュペーアという人物像の知識がないと十分に味わえない。そこで、登場するなり「真打のご登場」と字幕されるのはなかなか。難しいシーンを、いちいち字幕で説明していたら色褪せてしまう。すべてを分からせる必要はないし、そもそも不可能だ。そこで観賞者は、映画をきっかけに知識を求めて文献を漁ったり、その時代の小説を読んだりする。これも映画の余韻の楽しみ方の一つと思っている。字幕は、そのヒントを匂わせてくれればいい。ただ、優れた字幕が空気のような存在だとすれば、悪い字幕ばかりが目につくことになる。字幕屋とは、批判に曝されるばかりで、なかなか評価されない虚しい職業のようだ。

1. 活弁
映画翻訳には、字幕や吹替の他に「活弁」というものがあるそうな。活弁とは、活動写真の弁士のこと。無声映画の時代、ストーリーを解説したり、俳優の代わりに喋ったりする。1920年代まで映画は音声がなかった。画面いっぱいに文章が出て、説明やセリフが捕捉される。無声映画の上映中、映画館は静粛になる。その退屈感に対して、BGMや語りが挿入される。やがて弁士は講談師のごとく、大袈裟に演出して盛り上げていったという。弁士の語りが、上映中ほとんど切れ目なく続くとなると、映画館専属の名物弁士なんてものも現れたことだろう。どちらが主役かも分からないほどに。

2. 勝手なキャラづけで失敗
字幕では、まず登場人物の一人称を決めるという。「わたし、オレ、ボク、おいら」を使い分けるだけでも、人物のイメージを変えてしまう。英語だと I、ドイツ語だと Ich で済むところが、一人称を老若男女で使い分ける言語も珍しい。同じ人物が、公私で「わたし」と「オレ」を使い分けたりする。ちなみに、「わたし」を「私」とは書けないそうな。正式な訓読みは、「わたくし」だから。この制約は辛そう!
インドネシア映画「青空がぼくの家」に字幕を付けた時の失敗談を紹介してくれる。貧しい家庭の父親が子供を叱る場面で、下品できつい言葉遣いにすると、専門家から極貧生活をしているが教育熱心な親で、乱暴な言葉遣いではなく論理的で穏やかな言い方をしている、と指摘されたという。「生活水準が低い = 下品、乱暴」という偏見があったことを反省している。
また、ナイジェル・マンセル(F1ドライバ)の言葉を翻訳した時、理知的なイメージを与えてしまったとか。ライオンハートこと、レッドファイブのおっさんを。

3. 禁止用語
言葉を公に扱う仕事では、禁止用語は付き物。本書は、作家筒井康隆氏の「断筆宣言」を紹介してくれる。1993年、同氏が国語の教科書に取りくんだ時、「てんかん」という病名にクレームがついたそうな。これを禁止用語にされると、かなり知識が狭められる。ドストエフスキー、ルイス・キャロル、ゴッホなど偉人にもその症例は多く、シーザーの映画では痙攣シーンがある。
「白痴」も、ずばりA級禁止用語だそうな。ドストエフスキーや坂口安吾も否定されるのか?
大河ドラマで「片手落ち」という台詞に視聴者からクレームが出たのは、有名な話。片手を失ったり、生まれつき片手のない人たちを傷つけるとして。そうなると、「片親」も「片目のジャック」も怪しい。「一本足のかかし」も?「一本足打法」も?
「狂う」も忌み嫌われるという。「時計が狂っている」なんて表現も怖いと。「未亡人」も際どいらしい。あるPTA筋では「子供」もダメというところがあるとか。「供え」の意味で、人身御供をイメージさせるのかは知らんが、「子ども」と書くそうな。自治体によっては、「害」を嫌って「障がい者」と書くところもある。身体的なハンディを指摘するなら「チビ」もダメか。「黒人」を気を使って「アフリカ系アメリカ人」と表現する書籍をよく見かける。「ニグロ」もよく見かけるけど。一方で、「デブ、ハゲ、バカ、アホ、クズ、カス、ボケ、ブス...」は野放しだそうな。
ちょっとした失言で袋叩きにする風潮がある。中には政治団体と化す連中も珍しくない。タブーの勢いが、逆に差別を助長するとは。心地良い言葉ばかりを集めれば、裏で陰険さを増し、アングラ精神は地下でますます活発化するであろうに。

4. 英会話恐怖症
非英語圏の映画では、だいたい英訳台本がついてくるという。意外なことに、著者は英会話恐怖症であることを明かす。昔々、字幕翻訳のプロが数人で足る時代はみんな英語の達人だったという。今ではそうでもないらしい。
実際、英語の先生が外国人とまともに会話できないことも珍しくない。英語の論文ではしっかりと記述できても、会話となるとてんでダメという技術者も珍しくない。会話で辞書を引くのは実践的ではないし、文脈や文法をあまり気にせず、知っている単語をどしどし喋って、経験を積み重ねる方が手っ取り早い。会話で重要なのは、まず恥を捨てることであろうか。
言語学では、生まれて数年で母国語の発音に染まり、母音や子音の判別能力がほぼ確定するという説がある。となると、日本人が、L と R の聞き分けができないのも自然であろう。そういえば、日本人は、言葉が喋れればだいたい読み書きもできるだろう。だが、西欧人は、言葉は喋れるが読み書きができないという話を耳にする。映画のシーンでもよく見かける。日本語の音素が五十音と直接結びつくことが、言語習得で記述を重視させる傾向にあるのかもしれない。
「しかし、仕事で英文読解をやる以上、知らない単語を推測で処理するわけにはいかない。少しでも不安な単語はむやみやたらと辞書を引いて確かめるのが職業倫理。やはり、わたしの英語力向上は望めないのだった。」

2012-07-15

"言語音形論" Roman Jakobson & Linda R. Waugh 著

「一般言語学」の余韻を楽しみながら、ヤーコブソンをもう一冊。ただ、フォルマント構造体を理解せずに読むのは、ちと辛い。国際音声記号とやらと睨めっこしながら読み進めるものの...
口の形から発する周波数分析は、物理学的で音響工学的。摩擦音、鼻音、歯音、唇音などからスペクトルエネルギーの集中と拡散が考察される。その対象は、主要五ヶ国語はもちろん、アフリカ諸語、マヤ語、ヒンドゥースターニー語、エスキモー語、チェロキー語など世界の隅々にまで及び...なんと、グロソラリアまで!
口の発する音形のバリエーションには限りがないのか?口の形には個人差があり、発する周波数も年齢とともに変化する。おまけに、世代間で言葉が違えば、地域には方言なんて現象もある。時間的変化と空間的変化の二重性は、まるで時空の世界。もはや誰一人として同じ言葉を喋っている者はいない。ただ一つ、意思疎通で拠り所にできるものは、すべての音形はなんらかの二項対立によって生じるということぐらいか。
さて、ここで素朴な疑問がわく。人間は、なぜ10進数で物事を考えるのだろうか?年齢から借金まで、どっぷりと日常生活に馴染んでやがる。しかも、世界共通!これだけ言語が多元化しているのに。うちは3進数ですよ!いや、うちは6進数ですよ!なんて国があってもよさそうなもの。年齢を16進表記したいと言い張っても、戸籍では認められない。二項対立、すなわち対称性が宇宙法則だとすれば、2のべき乗や対数の方が自然のはず。現実に、コンピュータは2進数で計算し、技術者は設計の便宜上16進数や8進数で思考する。一方で両手の指で数えるならば、10の単位にも合理性がある。では、指はなぜ10本なのか?進化の過程で、10進数なんて中途半端な場所に居心地の良さがあるのか?確かに、テトラクテュスは三角形配列の中にある。いや、人間という種は宇宙法則に逆らう悪魔というだけのことかもしれん。

思考の領域ではすべてが二面的である。観念は二項的である。ヤヌスは批評の神話、天才のシンボルである。三角のものは、ただ神のみである。
...バルザック著「幻滅」より

ヤーコブソンは、言語の基本構造を「選択」「結合」であるとした。人間認識は、あらゆる思考の段階において二元的主体を構築し、それらの連係によって成り立っているというわけだ。プラトンは、対話篇「ピレボス」において、言語的(STOICHEIA)を分離と結合の対立性で示唆したという。絶対的認識を獲得できない知的生命体は、相対的な感覚を駆使しながら対称的認識を働かせるしかない。そして、対称性の原理を中庸の原理へと昇華させる。これが悟りの境地というものであろうか?思考の段階は、母音や子音などの音素から始まり、音節レベル、言語レベル、そして、行動レベルへと抽象度を高める。例えば、アルファベットは五十音に比べて数こそ少ないが、発音記号の視点から眺めると多彩である。音形が意味と結びついた時、言語が威力を発揮するとなれば、重要なのは文字表記よりも発音記号の方かもしれない。特殊例では、多くの日本人が、L と R の聞き分けに苦労したり、意のままに発音できないことが紹介される。日本語の音素が五十音と結びつきやすいことが、言語教育において音声よりも記述を重視させるのかもしれない。
確かに、言語は表現の手段に過ぎない。だが、言語が精神と結びついた時、これほど合理性を発揮するものもあるまい。ヤーコブソンは、その合理性の正体、すなわち「弁別素性」を言語音形に求める。尚、「一般言語学」で「特性」と訳されたものが、本書では「素性」と訳され、より自然的、本質的であることが強調される。
「知覚の階層性の中で、弁別素性は他のすべての素性に優越する。しかしだからといって、他のタイプの素性が知覚されないというようなことはけっしてない。」

ところで、ゲーテの詩的作品が翻訳ですら鮮やかな音調を保てるのはなぜか?もちろん翻訳者の能力を讃えたい。だが、それだけだろうか?言語芸術を翻訳のレベルにまで拡げるとは。音形の普遍原理のようなものを奏でているのかもしれない。翻訳者に自国語を自然に想起させるような、人類共通の精神リズムのようなものが...
本書は、まさにその精神の普遍的音形なるものを探求する。結局、例外と対峙することになるけど。言語研究では、本質的な二つの視点、すなわち、普遍性と変異性を分離させないことが重要だとしている。ここで言う普遍性とは、絶対的普遍性ではなく、相対的普遍性とでも言おうか、いわば、ほとんど普遍性といったところ。確かに、特殊性を認識できるから、崇高な普遍性なるものの存在をなんとなく信じることができる。もし、絶対的普遍性が認識できるならば、特殊性という認識も成り立たないのだろう。普遍性には、その陰に多様性なるものが原理として組み込まれているように映る。普遍性とは、近づこうとする努力であって、けして到達できるものではないのかもしれん。思考とは、まるで矛盾の蟻地獄よ!この世の学問に自己矛盾にまで達しえないものがあるとすれば、もはや学問ではなくなるのだろう。

What fetters the mind and benumbs the spirit is ever the dogged acceptance of absolutes.
(知性を拘束し精神を麻痺させるものは、常に絶対的価値の頑なな心棒である。)
...エドワード・サピア

1. 言語魔術とグロソラリア
母音と子音を基底にする音の三元性は、色の三原色に通ずるものがある。高音調と低音調は色彩の明と暗、音の濃密性と希薄性は色彩の濃と淡に対応する。そして、伝統的に育まれてきた音形は、光の神話的作用と重なるところがある。
人間社会で育まれてきた共感覚は忌み嫌わる言葉を追放し、社会のタブーは語彙追放という形で実践されてきた。心にないものは、言葉としても存在しえないのだろう。言語文化が人間社会の投影であるならば、言語は魔力ともなる。現実に、言葉の力を持つ者が先導者となり、民衆は言葉によって扇動されてきた。
一方で、俗世間から逸脱した言語の魔力がある。聖霊言語の類いで、グロソラリアというやつだ。神話的に異言を操る者、聖霊降臨と称する者、神の言葉を解すと称する者、彼らにとって人界と霊界を結びつける言葉があると都合がいい。神からは沈黙しか教えられないはず、なのに愚人は具体的な言葉を求める。神の言葉は、けして需要を失うことがない。詐欺師や自己宣伝者だと反証することもできなければ、信じるか信じないかの問題でしかない。おまけに、魔術的呪文は詩的効果を与える。音調に癒し系の言葉を重ね、心地良い周波数を反復することによって精神を惑わす。詩の魔術とは恐ろしいものよ。ピロートークもこの類いか。尚、言葉の反復は奇数回よりも偶数回の方が効果があるらしい。

2. 母音と子音、そしてスペクトルエネルギー
母音と子音は、どちらが意味的でどちらが記号的かという役割の違いがあるにせよ、この相対する二つの調音タイプの対立のない言語は知られていないという。母音と子音はそれぞれ、重音と鋭音、嬰音(sharp)と非嬰音(non sharp)、変音(flat)と非変音(non flat)とに分類される。第一、第二、第三フォルマントの絶対値だけでなく、母音と子音の優劣でフォルマント間の二項関係が示される。平たく言えば、重音と鋭音は、低い音と高い音という区別になろうか。あるいは、唇音と歯音にも対応するようだ。
高音調性と低音調性の対立は、大部分の言語で子音パターンと母音パターンの双方に現れ、そうでない言語であっても、どちらか一方には必ず現れるという。同じく普遍性の対立に、密音と散音があるという。ただし、母音と子音に関係しながら調音される。
密音性はスペクトルの中央域におけるエネルギーの集中で、散音性はスペクトルの広範囲におけるエネルギーの拡散である。唇音と歯茎音にはスペクトルエネルギーに拡散が見られ、唇音ではスペクトルの勾配が扁平からまたは低い周波数に向かって傾斜し、歯茎音では高い周波数に向かって傾斜するという。
対して、軟口蓋音は、スペクトルエネルギーが卓立した中央周波数に集中するという。そして、言語の普遍的構造として、「一般言語学」でも紹介された母音三角形(a,u,i)と子音三角形(k,p,t)が論じられる。英語のような四母音系では、a,u,i に、 æ(= /ae/)が加わって、四角体系(a,æ,u,i)となる。

3. 子音パターンの多彩性
特に、子音による対立性の方が多彩のようだ。ほぼ普遍的に存在する重音と鋭音の対立は、主に優勢フォルマントの下降から上昇的移行に関わるものだが、子音パターンには、他に二種類の両極的な音調性素性があり、それぞれスペクトル全体としての形を変えることなしに、劣勢フォルマントの主要な移行と優勢フォルマントの付随的な移行に関わりを持つという。
その第一の素性は、嬰音と非嬰音であり、もっぱら子音だけの対立によって担われ、第二の素性である変音と非変音は、種々の発音手段によって具現されるという。
対して、母音パターンの中で機能する音調素性は二つだけで、重音と鋭音、あるいは変音と非変音の対立だという。そして、後者は、円唇と非円唇母音の弁別によって作られるのが常だという。ちなみに、日本語のように円唇後方母音がある環境では、円唇性を失い、重音と鋭音の対立だけが動かずに保たれるという。
子音パターンの準普遍性の一つに、鼻音性の対立がある。有声の閉鎖音を、鼻音に変える現象である。鼻音と非鼻音の対立は、幼児が習得する最も初期の素性であるという。鼻歌がでるのも、幼児精神への回帰であろうか?
また、子音パターンに粗擦音と非粗擦音(円熟音)の対立がある。減衰と噪音のようなノイズ的な発声である。渡り音なんてものもあるらしい。母音へ移行する時に、はっきり発声することもあれば、黙音のようなものもある。有声なのか無声なのか?有標項なのか無標項なのか?母音のようで子音のような曖昧な存在で、「半母音」とも呼ばれる。
ただ、各言語において、それぞれの子音が同じ役割を果たすわけでもない。

2012-07-08

"一般言語学" Roman Jakobson 著

精神が自然物であるならば、精神空間において自由であってもいいはず。なのに、人工物である言語法則によって束縛を受けるのはなぜか?言語は、たかだか表現の道具に過ぎない。ところが、精神と強く結びつくと、恐ろしいほどの合理性を発揮する。民衆は言葉によって扇動され、言葉の力を持つ者が社会で優位に立つ。これに対抗して論理崇拝者は、言葉の反復性や同義牲、あるいは形容詞のような技巧を毛嫌いする。科学論文や技術論文に主観的な表現が少しでも混じろうものなら、まるで犯罪者であるかのように罵声を浴びせかける。酔っ払った天邪鬼はそんな批判にもめげず、ジョークの一つでも紛れ込ませなければ気が済まない。一方で文学作品では、感情的技法を積極的に用いる。それは、言語の持つ能力が論理性や客観性だけでは説明できないことを示している。
ところで、言語を研究するのに言語で記述するとは、なんとも自己矛盾に陥りそうな感がある。日本語を研究するのに英語で記述すればいいというものではない。言語があれば文化があり、文化があれば言語が生じる。言語の優劣を語るとは、文化の優劣を語るようなものであろう。ソフトウェア業界は用途に応じた合理的な言語を次々に編み出す。人工知能言語や数値演算言語やマークアップ言語などなど。あるいは、機械語のようにプリミティブな言語がある。だが、自然言語にはそんなものがない。
ただ、プログラミング言語には自己ホスティングという概念がある。その言語自身で処理系まで記述できる能力を持つわけだが、自然言語にもそうした試みが古くからある。すなわち、対象言語を上位から眺めるメタ言語的思考である。そして、自然言語がどこまでメタ言語となりうるか?これが問われることになる。つまり、言語の研究は精神の研究にほかならないのであって、精神の分析をメタ精神が行うに等しい。そりゃ、メタメタにもなろうよ!

「言語学」という分野がいつ誕生したかは知らん。その起源は古代ギリシアの弁論術や修辞学にまで遡るのだろう。現代言語学となると、20世紀のフェルディナン・ド・ソシュールで、構造言語学という分野になるらしい。ソシュールの思考には、ラングとパロールの分離がある。平たく言えば、コードとメッセージ、あるいは表現と意味を区別する。丸山圭三郎著「ソシュールの思想」では、パロールを能動的な個人的意思としていた。
さらに、ヤーコブソンは、ソシュールの言語モデルを乗り越えることを訴える。そして、コードとメッセージは相補関係にあり、分離不可能と主張する。量子論で言えば、粒子性と波動性の二重性のような関係になろうか。哲学で言えば、物質の最小単位は素粒子のような物的存在ではなく、固体と魂はけして分離できないモナド的存在ということになろうか。
このロシア人言語学者はプラハ学派に位置づけられる。プラハ学派とはソシュール系の構造主義言語学の一派。当時は青年文法学派、すなわち通時的に研究する方法論が優勢だったようで、その苦々しい思いが伝わる。彼は、共時性と通時性においても言語学の二重性を唱えている。構造主義といえば人類学者レヴィ=ストロースを思い浮かべるが、二人は第二次大戦から逃れてニューヨークで親しく交流したそうな。
また、ヤーコブソンは、ヨーロッパで逸早く音韻論の発展と確立に尽力した人物だという。本書にもその特徴がよく表れていて、コードを音素パターンとの関係から論じている。それは、子音と母音、音調の高低や長短、拍の強弱など、あらゆる音律的特性は二項対立の序列で成り立つとしている。言語の基本原理は、二項対立の選択と結合によって構成されるというわけだ。
言語の主な機能は、情報伝達の手段であることは疑いようがない。情報伝達を音波の観点から工学的に眺めると、サンプリングの概念を必要とする。ここでは、その原理を音素の変化とその序列に求めている。情報理論の父と呼ばれるクロード・シャノンは、著書「通信の数学的理論」で情報の本質はデジタルであるとの考えを披露した。デジタル信号は0と1の選択とその組み合わせによるデータ列で構成され、これも二項対立による離散的集合体である。現実に、分岐構造をもたないプログラミング言語はない。本書にも、シャノンの通信モデルとよく似た言語モデルが提示される。それは、言語伝達系における構成要素を、発信者、メッセージ、コンテキスト、コード、接触、受信者とするモデルで、しかも、符号化と復号化の概念が持ち込まれる。大きな違いは、自然言語では文脈依存性が強く、特に脈絡的な意味が生じることである。相対的な認識能力しか発揮できない人間にとって、何かを認識するには何かと対比する必要がある。時系列的に対比するか、空間的に対比するか。いずれにせよ、認識範囲を超えた領域で思考することはできない。となれば、思考を深めるためには認識範囲を広げるしかあるまい。音声の周波数スペクトルは認識能力とともに進化してきたのだろう。そして、究極の認識能力とは、無音ということになろうか。それがテレパシーなのかは知らん。ただ、高度な認識能力を持った知的生命体の社会は静かになりそうな気がする。

その帰結は...
人間認識は、対称性の原理を働かせながら、あらゆる階層レベルにおいて二元的主体を構築していることになろうか。その段階は、音素から音節レベル、言語レベル、そして行動レベルへと昇りつめる。所詮人間なんてものは、常に選択を強いられ、その結果を引きずりながら生きていくのよ。進学にせよ、就職にせよ、結婚にせよ、すべての選択は離散的であり、すべての選択を経験することは不可能だ。もし、すべてを経験しようとすれば、それは女性の数だけ愛のあるハーレムということになろう。きっと、そうに違いない!

1. 失語症と小児言語
失語症によって言語パターンが崩壊する過程は、小児が言語を獲得する過程と、まったく逆の順を辿るという。習得と喪失が鏡像を成すとは...成長と老化、そして痴呆症へ...年寄りのイライラは幼児化現象であろうか?老化が進むと、音素体系だけでなく、文法体系においても退行が見られる。固有名詞がなかなか思い浮かばず、「あれ」やら「それ」やらと代名詞を頻繁に使う。
失語症のタイプには二つあるという。選択能力が欠如し、結合能力が比較的安定している場合と、その逆の場合である。音素と意味は生活習慣の中で無意識に結びつけているが、どうやって生じたのだろうか?人間の思考は疑問から生じる。何か不確かな事に出会うと擬音めいたものを発声する。Who?, What?, When?, Where?, Why?, How?...ふぅ?わっ?うぇ?うぇぁ?わぃ?はぁ?...なんとなく幼児語じみている。
ところで、我が国の英語教育は、ひたすら翻訳機械のような法則性に仕向けられる。言いたいことを英語にするよりも、例題を翻訳することに努力が向けられる。翻訳機械は、内容を理解しないために文字どおりの直訳をする。だが、人間は言語から思惟する性質を持っている。文章にひとたび解釈が入り込むと、観察の道具と観察の対象との間で相補関係が生じる。言語を習得する場合、自分が何を言いたいかを表現する方が、はるかに実践的であろう。外国人を前にすると、特にそれを感じさせられる。プログラミング言語では、まず書いてみろ!と言われる。習うより慣れろ!だ。感覚的で経験的な性格の強い分野では、理屈よりも重要なものがあるのだろう。アル中ハイマーの英語力もある種の失語症であろうか。脈絡がない点では酔っ払いも同じで、単語を羅列して、ろれつが回らん!

2. 音韻論と音声学
言語分析では、複合的な発話単位を固有の意味を担った構成要素に分割し、更に意味を担う最小の媒介体や形態素を差別するに役立つ構成要素に解体するという。それは「弁別特性」と呼ばれる。弁別特性の基本には二項選択の対立と対比があり、これを「韻律特性」との関係から論じられる。韻律特性には、音調、強度、音量の三つの属性があり、すべて相対的な物理量として考察される。
さて、音韻論と音声学は似たような分野にも映るが、音声学では物理周波数に着目し、音韻論ではそれに内的認識が加わるという。音素には、音声の流れの中で存在が仮定されるものがある。西欧語に見られる摩擦音や無音といった現象は、日本語に慣れ親しんでいると不合理な特性にも映るが、発話のリズムを作る。また、音声には、語彙の表す情報以外に発話者の教養レベル、社会環境、年齢、心理などが表れる。実際、相手が特定できれば言葉の意味もイメージしやすく、初対面であれば人物像を勝手に想像したりする。テンポの違いで言葉のニュアンスも変われば、声の質や変化によって犯罪心理を分析する科学もある。恋の達人ともなれば、ウインク一つで語りやがる。真摯に!命がけで!などと発言し、重い言葉を軽くしやがる輩もいる。弁論術や修辞法を学ぶと、言葉が軽くなるのかは知らん。
弁別特性は音素という同時的な束に集結され、いかなる自由形式にも整数の音節が含まれるという。音節の中軸原理は、主に母音と子音の対比と、その反復性にあるという。反復特性を利用すれば、次に出現する音素の確率を予測しやすい。音素パターンが認識できなければ、言語習得の弊害にもなろう。日本語と英語の周波数帯が違うことも、大きな問題となる。周波数と意味を結びつけるという観点から、聞き流すだけで訓練になるという説もそれなりに説得力がある。ただ、認識能力とするためには、意識を能動的に作用させる必要があるだろう。
さらに言うなら、言葉が癒し系の音楽のようになる現象もある。ピロートークは穏やかに囁くからこそ効果がある。これを、意味よりも周波数が優先される重要な例として付け加えておこう。

3. 母音三角形と子音三角形
音節の唯一の普遍的な型は「子音 + 母音」であるという。母音は音響レベルにおいて明白で、音声器官が周波数スペクトルにおいて最大エネルギーを発する。エネルギーの大小の両極が母音と子音に現れる。小児の最初期段階で鼻子音と口子音の対立を習得するという。鼻歌がでるのも、幼児精神への回帰であろうか?
さらに、小児言語の初期段階で、pa と a、あるいは pa と ap の音が区別されるという。音素の基本パターンでは、高い集中したエネルギーの極 a が、低いエネルギーの閉鎖音 p,t と対比するという。p と t は、周波数スペクトルの優劣、あるいは低音調と高音調の極として対立する。そして、音素パターンの基底は a を頂点とする三角形 a,p,t で示される。
次に、エネルギーの上方集中と下方集中で二つの三角形に分裂する。上方が母音周波数帯で、下方が子音周波数帯である。辺 ap の間に u、辺 atの間に i、そして、底辺 pt と a の垂線の間に k を配置して、母音三角形 a,u,i と子音三角形 k,p,t を分ける。
音素の最少パターンは、低音調と高音調、集約と拡散の特性において区別される。音声のスペクトラム、すなわち周波数分析に「フォルマント構造」というものがあるらしい。それは、各ピークによって対立させる考え方である。ピークは、子音的と非子音的、鼻音的と口音的、エネルギーの集約的と拡散的、時間的急激性と連続性、粗擦的と非粗擦的などの両極で表される。

4. 音素相と文法相
本書は、能記体と所記体の二重性で議論すべきだと主張する。能記とは言語記号の音声面、所記とは言語記号の意味面。ソシュールの用語ではシニフィアンとシニフィエと呼ばれるやつで、知覚相と解釈相とでもしておこうか。
人が文章を組み立てる時、単語を最小単位として思考しているのだろう。しかし、単語の序列をさらに分割すると、それ自身が意味を担う最小の単位に辿り着く。それは形態素と呼ばれるもので、複数形や接辞のように何かの単位と結びついて機能するものもある。本書は、「最小形式単位」と呼び、意味最小体として議論している。
音素自体が弁別特性の集合体であるならば、意味最小体もまた弁別特性の集合体ということになろう。述語の重要性は、それ自体の意味ではなく、使われ方や例題として頭の中に構成されているような気がする。だから、単独で示された漢字の読みが分からなくても、小説の中では自然に読めたり、意味を解したりするのだろう。波長の合う小説に出会えば、数行読み飛ばしても文章が頭の中で再構築されるような気がするし、推理小説ともなるとページ単位で立体的に再構築されるような気がする。逆に、文章構成や語彙に慣れない文献に出会うと、読む速度が極端に落ちる。これも失語症のような現象であろうか?専門書ともなると、自分の専門なのに1ページ読むだけで一日がかりだ。これは、ちと意味が違うかぁ...
西欧人にしてみれば、日本語の文章を分割するのは難しいだろう。なにしろ単語の区切りがないのだから。句読点があるにはあるが、厳密な規則性はなく、執筆者の気まぐれに委ねられる。適当に漢字が入っていると読みやすい場合があるが、わざわざ平仮名だらけにして読みづらくする達人もいる。
言語は感化されやすいところがある。特許を書くと、しばらく特許調で喋ったりする。しつこく主語を付け、くどいほど時制を並べたりと、まったく日本語っぽくない話し方になり、変な外国人と間違えられることも。今日の日本語にしても、西洋語あるいは翻訳語に毒されて、純粋な日本語が分かる人もあまりいないのだろう。こうして記事を書いていても...とりあえずアル中ハイマー語とでもしておくか。誰一人として同じ言葉を喋っている人はいない。にもかかわらず互いに通じるのだから、言語法則だけでは説明できない何かがある。いや、通じていると信じているだけのことかもしれん。

5. 詩学と芸術
言語メッセージを芸術たらしめるものは何か?言語現象が、空間と時間において精神現象へ昇華させるものとは?言語文化には、必ず企図的、計画的、規範的であろうとする一面があるという。芸術性で仕掛ける達人は、多重人格的な側面を見せ、どこか冷たい領域から眺めているところがある。これも、メタ言語的思考であろうか。
文学作品の問題は、共時態と通時態の二群から成るという。歴史的な文学作品が、通時的だけとは言い切れない。古典芸術が再解釈されるとなれば共時的な研究にもなりうる。古典芸術が現代風に蘇ることはよくあるのだから。美だけを強調しても芸術美は生じない。美は醜との対比から現れ、強調は静寂との対比から生じる。この対称性には、二重性のコードから生じる何らかのメッセージが芸術家によって託されている。DNAコードの二重螺旋構造にも、何らかのメッセージが託されているのかもしれん。誰が託したかは知らんが。
「詩的機能は等価の原理を選択の軸から結合の軸へ投影する。」
詩学では、等価性は序列の構成手段へ昇格されるという。一つ一つの音節が、同じ序列の中のすべての音節と等価にされる。長音は長音どうしで、短音は短音どうしで、互いに等価の関係を保つ。対立する言葉であっても、音節において等価となる。そこに居心地の悪い語は一つとして存在しない。音律という自然の秩序が保たれるがごとく、あるいは暗黙の秩序とでも言おうか。反復もまた居心地がいい。詩だということを宣言しなくても、明らかに詩となる。
音文彩は、精密に規定することができるという。音素序列の諸切片の織り成す高い卓立と低い卓立との二項対比において、少なくとも一組を利用していると。音量式韻文では、長音節と短音節が卓立の高いものと低いものとして対立する。中国の古典漢詩では、抑揚をもつ音節(仄音: 曲がった声調)と抑揚のない音節(平音: 平らな声調)とが対立するという。声調式作詩法では、高声調音節主音と低声調音節主音の組み合わせで構成されるという。人の感覚は、明るさ、鋭さ、固さ、高さ、軽さ、速さ、高い調子などを経験的に一系列に関連付ける。これらに、暗さ、鈍さ、柔らかさ、低さ、重さ、遅さ、低い調子などを対比させる。低音調性と高音調性が夜と昼をイメージさせる。こうした精神現象には普遍法則があるのかもしれない。
韻律学の本質として、ウィムサットやビアズリーの言葉を紹介してくれる。
「一つの詩には多くの吟誦が存在し、互いの差異は多様である。一つの吟誦は一個の事象であるが、詩そのものは一種の永続的事物でなければならない。」
詩脚、頭韻、脚韻などの詩的な約束事を音の面だけに限定すると、経験的な裏付けを欠く机上の空論になる。等価の原理の序列への投影は、もっと深い意味でなければ趣を欠くことになろう。詩は二項的な韻文形式というわけだが、それだけに言語的に自由がなく強制される。秩序で強制されながら精神を解放するとは、奇妙な作法である。自由と強制もけして分離できない二重性ということであろうか。

2012-07-01

Fedora 17 へアップデート

さて、アップデートしようと思ったら、なんじゃこりゃ!

"There is a general warning about upgrading via. yum being unsupported at the top of this page. However Fedora 17 is very special. You should seriously consider stopping now and just using anaconda via. DVD or preupgrade, unlike all previous releases it's what the yum/rpm developers recommend. Continue at your own risk."

ディレクトリ配置も変更される模様。

"Fedora 17 will locate the entire base operating system in /usr. The directories /bin, /sbin, /lib, /lib64 will only be symlinks:"
  /bin → /usr/bin
  /sbin → /usr/sbin
  /lib → /usr/lib
  /lib64 → /usr/lib64

んー...嵌りそうな香りが漂う。サーバの再構築が面倒だけど、ここはクリーンインストールにしておこう。それにしても、最近 Fedora のアップデートは心臓に悪い!

1. まずは試行... preupgrade
クリーンインストールを覚悟すれば、恐れるものはない。てなわけで、preupgrade を試す。

  $ yum install preupgrade
  $ preupgrade
    再起動すると、grubメニューに "Fedora17 upgrade" の項が追加されるので、それを選択。

おっと!プログレスバーが30%ぐらいで止まったまま(sbcl 更新中...)。マウスは動くが、ハードディスクにアクセスがない。6時間以上待って電源を落とす。起動後、grubメニューから 再び upgrade を選択すると、続きが始まる。怪しいものの無事終了か?
とりあえず、問題なく動作する。サーバ系の設定も、だいたい継承されたみたい。中身を見ると、ゴミがわんさか残っている。なるほど、very special !!!
このままでも問題ないかもしれないが、あっさりと捨てる。

2. では本番... クリーンインストール
ファイルシステムは、ext4 で、まだ btrfs が選択できない模様。インストールで問題になるところは無し。
systemctl という文化に慣れない上に、SElinux の設定で気が狂いそうになる。一つ一つの設定に対して異常に反応が遅い。キーボードがかわいそう!
てめぇ、disabled にしたろうか!と何度つぶやいたことか。だが、"SELinux Management" のGUI環境を見つけて、少し冷静さを取り戻す。

  $ yum install policycoreutils-gui

3. GTK+2 を利用したアプリで警告 ...この警告は収まった。コメント参照...(2012-7-7)
Emacs を起動すると、stderr に警告が出る。

  Gtk-Message: Failed to load module "pk-gtk-module"

とりあえず問題にならないが、ちと気になる。アイコンから起動すれば目に入らなくて済むが、そうもいかん。ちなみに、Firefox(13.0.1) もコマンドから起動すると警告が出る。こっちは、そうもいく。Google Chrome(20.0.1132.47)もだけど、こっちは起動オプションを時々使うので、そうもいかん。

原因は、PackageKit-gtk3-module が入っていて、PackageKit-gtk-module が見当たらない。/usr/lib/gtk-2.0/modules/libpk-gtk-module.so を探しにいくが、実際は、/usr/lib/gtk-3.0/modules/libpk-gtk-module.so がある。おそらく、GTK+2用をどっかから持ってきて、/usr/lib/gtk-2.0/modules/ に放り込めばいいのだろうけど、そこまでやらんでもええか。
尚、GNU Emacs 24.0.97.1 (GTK+ version 2.24.10)。次期バージョンは GTK+3 対応か?ちなみに、gedit は警告が出ないから、GTK+3 に対応しているのだろう。

4. gnome3 はようやく馴染んできたか
当初、こいつのお陰で気が狂いそうになったが、ようやく飼い慣らした感がある。拡張機能のおかげで、「まず、アクティビティ!」という文化から解放されたのが大きい。とりあえず、これは必須か。

  $ yum install gnome-tweak-tool
  $ yum install gnome-shell-extension*
  $ yum install gnome-shell-theme*

[高度な設定]で、これができるだけでも救われる。
・"Dock 拡張機能" - 画面の右端にマウスカーソルを持っていくと、お気に入り群が出現。
・"Application Menu 拡張機能" - すべてのメニューを表示する足跡アイコンが登場。
・"Have file manager handle the desktop" - デスクトップにアイコン & 右クリックメニューを表示。
ちなみに、昔から愛用しているのがこれ。右クリックメニューに[端末を開く]という項目が追加される。

  $ yum install nautilus-open-terminal