2011-01-30

もしも、アル中ハイマーが禁断の金融体験をしたら...

もしものコーナー...だめだこりゃ!

勝負事には、絶対的な鉄則がある。それは「精神の風上に立つ!」ということだ。そこには、虚実の駆け引きが生まれる。己の虚を実と装い、実によって敵の虚を衝く。これが、孫子風の「主導性の原理」である。それを実践するために、古くから諜報活動が重視されてきた。
市場がゼロサムゲームであるからには、ここにも情報による「主導性の原理」が働く。だが、高度な情報化社会では、偽情報が溢れ、情報の持つ意味は不可解となり、群衆の感情エネルギーが巨大な虚としてうごめく。複雑化した金融商品の価値は欺瞞され、もはや市場原理は客観的価値の計測という機能を果たしていない。おまけに、市場は国際機関ですら手に負えないほど巨大化してしまった。相対的価値観が虚無に向かえば、欲望は無限となる。消費は青天井となり、政府の打ち出す経済政策は消費量を煽る一辺倒という始末。宇宙の膨張とともに人間の欲望も膨らむというのか?では、宇宙が収縮に転じれば、人間にも理性が獲得できるだろうか?
...「虚実の理、および主導性の一般理論」、詠み人知らず...より抜粋。

1. 禁断の金融十か条
フラクタル幾何学の父ベノワ・マンデルブロ氏が亡くなったと大々的に報じられたのは、昨年の秋ごろだろうか(2010.10)。彼は、自ら経済学者と名乗り、金融工学の科学的未熟さを指摘した。そぅ、偉大な数学者が経済学に殴り込みをかけたのだ。そういえば、数学者ハーディは、著書「ある数学者の生涯と弁明」の中で、あのケインズを友人と呼び、彼もまた数学者から出発していると語っていた。
マンデルブロは、著書「禁断の市場」の中で「禁断の金融十か条」を掲げる。
  1. 市場価格とは乱高下するものである。
  2. 市場とは、きわめてリスクが高いものである。既存の金融理論ではけっして起こるはずのないリスクが現実には起こる。
  3. 市場のタイミングはきわめて重要である。巨額の利益と損失は短期間に集中して起こる。
  4. 価格はしばしば不連続にジャンプする。そして、それがリスクを高くする。
  5. 市場での時間は、人によって進み方が違う。
  6. いつでもどこでも市場は同じように振る舞う(各業種や各市場で連動性がある)。
  7. 市場は本来不確実であり、バブルは避けることができない。
  8. 市場は人を騙す。
  9. 価格の予想は無理と思え。しかし、ボラティリティなら予測可能だ。
  10. 市場における価値は、限定された価値である。
実際に市場を体験すれば、大方このような結論に落ち着くだろう。経済学に触れれば、いかに流行り廃れの激しい学問であるかが見えてくる。金融工学が金儲けのツールとしてあまり役に立たないことは、市場原理が証明してきた。しかし、ちょっと視点を変えてリスク管理ツールとして眺めれば、そこそこ活用できることも確かである。人間の持つ合理性は、防衛本能の中にヒントがあるような気がする。
そもそも宇宙原理において、人間の能力でランダムウォークを完全に予測することは可能なのか?数学上の未解決問題「リーマン予想」でも証明できれば、あるいは可能かもしれない。ちなみに、リーマンとは、あのリーマンショックとはまったく関係ない。いや、金融危機までも予測していたのかも?それは、素数分布の振る舞いと純粋ランダム性の法則性を解く可能性を秘めた仮説である。もし、純粋ランダム性が科学的に説明できれば、あらゆる複雑系の正体が解明できるかもしれない。なんとも夢のような話だ。しかし、この仮説はいまだ証明されていない。ならば、金融アナリストたちが占い師の域を脱しえないのも仕方があるまい。

2. 禁断の金融体験
マンデルブロが経済学の勉強を始めたのが30歳頃だそうな。おいらは30代前半であった。独立して事業を行うには経済学の勉強は必要だと考えた。最も嫌いな分野だけど...
会社形態を模索するならば、株式市場を体験するのが手っ取り早いと考え、10年以上前から実践している。経済学の勉強よりも金儲けに目を奪われ、投資術にも嵌った。ソロスやバフェットといった大投資家の書籍を漁り、バリュー投資の父と呼ばれるベンジャミン・グレアムに嵌ったこともあった。当初、市場原理が「価値の重力物理学」に従うと信じてファンダメンタルズ分析が有効なはずだと考えたが、すぐにそれだけでは不十分なことに気づきテクニカル分析も組み合わせる。夜な夜なポートフォリオを構築し、ベキ乗則やブラック=ショールズのような確率微分方程式と睨めっこしながらテクニカル分析に励む...夜のテクニシャンと呼んでくれ!そして、「経済とは何か?」という哲学的問題に差しかかると、過去の偉大な経済学者の書籍にも触れるべきだと考えた。大きな損失を出したこともあるが、未だに続けているということはトータルで実績を上げているからである。
その裏では、いつも「チャート分析になんの意味があるのか?」と問い続けている。「はたして市場を完全に理解するということが、どれほど現実味を帯びているというのか?」と疑問を持ちつつも、そこにはバブルのような分かりやすいトレンドが現れるのを虎視眈々と待つ自分がいる。
人間の欲望とは、そういうものだということも分かってきたような気がする。人間は、何かにすがらなければ生きてはいけない。その何かの正体とは、欲望なのか。ならば、脂ぎった欲望をいかに知への渇望へと変えていくか、そして、いかに世間に惑わされないように生きていくか、ということになろうか...と言ってはみたものの、俗世間の酔っ払いにできるはずもない。ちなみに、先日、夜の社交場で30代前半ですか?と聞かれて舞い上がってしまった。平成生まれのお嬢さんに...所詮、ホットな言葉に惑わされながら生きるしかない。それでも、その愚かさを嘆くことはない。俗世間で精神が惰眠したままでも、麻薬漬けのままでもええんでないかい。精神の安住の地は、認識できない領域にあるのだから...

3. 金融自爆テロ
この世で金融屋が生き長らえるには、安定経済を望んではいられないというのが原理的にある。というより、自らその仕組みを築きながら自己矛盾に喘いでいる。人間は、自らが善だと信じて考案したシステムによって自爆テロを繰り返す。人間社会とは、ある程度の客観的な分析が必要でも、肝心な時には経験や直観、そして勘がものをいう世界である。
近年、世論調査で景気対策が一番に挙げられ、政治問題の中枢に経済問題が位置付けられる。しかし、社会の安定に貢献するはずの政治や経済が、ここまでギャンブル性が強いものか。もっと本質的なもので動いていると思いきや、こんなにも目先の現象に囚われ過ぎるものか。他の学問をしている人々には、これほど幻滅することはないだろう。おまけに「増すゴミ(世間ではマスコミと呼ぶらしい)の原理」が追い撃ちをかける。その市場ゲームに政治屋や金融屋が御執心となれば、政治経済ニュースが冷めて見える。金融危機が訪れても、多くの倒産企業の瓦礫を残したままで、金融機関だけはさっさと業績を回復する。この理不尽さはなんなんだ?まさしくウォール害だ!人間ができることと言えば、確率論に救いを求めながら禍いを避けようとすることぐらいであろうか。

4. 市場と博奕の原理
エコノミストたちは、勝ち組と負け組で差別化するのがお好き!それにしても、勝負事とはおもしろいものである。勝ちの気配はなかなか見えてこないが、負けの気配となるとすぐに臭ってくる。それがギャンブルというものか。それが人生というものか...
成功する投資家には独特の才能がある。天才的なスポーツ選手が直感的なプレーをするような。スポーツ理論を熟知したところで、選手として活躍することはできない。投資スタイルには、陸上競技で短距離走から長距離走まで細かく種別されるように、短期戦略から長期戦略まで個人の資質に合致したものがある。
また、プロとアマチュアの精神的優位性の違いは大きい。高度なネット社会では、個人がプロ並みのトレーディングルームを自宅に構築することはそれほど難しくない。情報格差においては、インサイダー情報でもない限り、プロとアマチュアは急速に接近している。では、どこに違いがあるのか?それは市場への参加を強いられるかどうかの心理である。プロは、他人の資産を運用するために、期限付で成果を出し続けなければならない。市場のトレンドにまったく関係なく、常に成果が求められる。だが、経済情勢が混沌とする中で、常に儲かるように仕組むことは至難の業だ。だから逆ポジションなどのテクニックを駆使する。安定した運営を試みるならば、資本力は大きい方がいい。そして、無暗に資金集めに熱中する。だが、資本力が大きいほどリスクは指数関数的に拡大する。一旦、負債を抱え始めると後戻りできなくなり、制御不能に陥る。ノーベル賞級のドリームチームですら、大規模な破綻は避けられなかった。
逆に言えば、自分の資金のみで運用するアマチュア投機家は、彼らよりも精神の風上に立っている。奇妙なデリバティブに手を出さなければ、自分の財布にだけ言い訳していればいい。台風が来ているのに船出をするのは自殺行為だ。トレンドが見えない局面では、酒でも飲んで静観するのが一番。十年に一度の絶好期に市場に参加すればええ!ぐらいの気持ちでやれば気楽なものだ。この精神原理は、あらゆるあぶく銭を稼ぐための博奕の心理構造に適用される。

2011-01-26

対称性について

宇宙には、様々な特性や形態が閉じ込められている。この不規則極まりない中で規則性を見出すとすれば、対称性の原理ではなかろうか。...などと考えるのは、相対的な価値観しか持てない証しであろうか。絶対的な価値観を持っていれば、なにも対称関係を見出す必要はなく、直接的に認識すればいいはず。
認識を表現する手段は言語能力にあり、言語がいかに精神との結びつきが強いかが分かる。つまり、あらゆる言語的表現は、別の対象に対してなんらかの差異から生じるということである。あらゆる事物に名前が付けられるのは、別の対象から区別するためであって、相対的な認識能力によって実践された結果とも言えよう。もし、人間が絶対的な価値観を獲得できたならば、言葉を必要とせず、静かな世の中が実現できるかもしれない。だとすると、騒がしいジャーナリズムほど、了見が狭く抽象度の低い認識力に見舞われているというわけか。こうして感情的にブログを書いているのも、社会の害でしかないのかもしれん!

地上にあるすべてのものが、天上の物語をなぞりながら、互いに相手を包み込み二重の螺旋を形作る。数学には有限と無限、実数と虚数、連続性と離散性の性質が現れ、天体には点対称性が、人体には左右対称性が現れる。人間社会では現実と仮想が対抗し、社会システムは創造と破壊の原理を繰り返す。DNAの二重螺旋構造、自由と平等、主観と客観...あらゆるものが表裏一体となって存在する。ポーは、著書「ユリイカ」で、物体の本質を引力と斥力の二つの要素のみで情熱的に語った。なにやら対称性には、宇宙の真理が内包されているようだ。
真理は事実として認めるしかないのであって、人間精神にとってこれ以上受動的にさせるものはない。だが、真理への探究という純粋な欲望が生じれば、精神は能動的になりうる。そこには脂ぎった欲望の入り込む余地はない。人間は自らの欲望と認識によって、精神の受動性と能動性を複雑に絡めながら矛盾の概念へと邁進している。
相対的な価値観しか持てないのなら、多様性に向かうしかあるまい。そうでなければ認識力は発揮できないはず。悪を知るから善を知ることができる。幸せしか知らなければ、この世は退屈でしょうがないだろう。美しいものだけを見続ければ苦痛となろう。様々な多様性が認識できれば選択肢が広がる。だからといって最適な判断ができるかは別だが、たった一つのグローバルな規定では偏重した価値観に陥りやすい。人間が絶対的な価値観に到達できない以上、世界が多様化することになんの問題があろうか。
世界の公用語として英語に優位性があり、誰もがそこに群がる。しかし、英語が完璧な言語システムというわけでもなければ、最も優れた言語体系というわけでもない。歴史的な偶然性から、そうなっただけだ。ならば、人間精神の成長には、一つの言語で束縛するよりも、言語の多様化という現象は良い(酔い)ことではないだろうか。

1. 神と魔王
宇宙の原因性とは何か?神は何のために生命体を創造したのか?遺伝子の進化によって抗菌能力を発揮し、あらゆる有害ウィルスを凌駕した時、恐るべき生命力を獲得した生物が誕生するかもしれない。そして、生物的進化によって生じる究極の知的生命体の正体とは?
対称性が宇宙原理だとすれば、絶対的な創造主に対して、破壊の魔王を登場させないと説明がつかない。人間は魔王になろうとしているのか?法律や宗教の戒律といった道徳規制は、人間の悪徳を抑制するための手段として登場した。言い換えれば、法律の進化は、人間の悪徳の進化に比例するということができよう。印刷技術や記録装置の発明は、悪徳の記憶を残す手段として機能する。知恵や知識の蓄積とは、魔王への道しるべなのか?
人類は、いまだ宇宙論的理性なるものの存在を説明できないでいる。にもかかわらず、道徳家たちは、人間を超越した超理性なるものを平気で自分の価値観で語り、道徳観や倫理観を競い合う。
もし、人間が恒久普遍的理性を構築できるならば、人間の存在意義をも説明できなければなるまい。そんなことできるのは神だけだろう。いや、神にすら説明ができないかもしれない。宇宙を創造した時に、神は魔が差して「できちゃった!」と女性がささやくような台詞を吐くかもしれない。ギリシャ神話では、主神ゼウスがパンドラという女性を人類の災いとして地上に送り込む。神は自らパンドラの箱を開けてしまったのか?
もし、人間が魔王と化すなら、理性どころか道徳も人間の持つ合理性も、その存在意義までも疑ってみる必要がある。人間の存在自体が宇宙原理に反しているのではないかと。それでも、神の優位性が保たれる原因が確実に一つある。それが寿命というやつだ。人間がどんなに進化したところで、寿命という遺伝子構造に対抗する術がない。所詮、創造主の手の平で踊らされているだけのことか。いや、遺伝子の突然変異によって、悪徳が熟成する可能性がないとは言えない。神は、魔王という究極のライバルの出現を、酒を飲みながら待ち受けているのかもしれない。神は退屈しているに違いない。ちなみに、アル中ハイマーも退屈している。その証拠に焼酎「魔王」を飲みながら、鏡の向こうの赤い顔した完全なる精神泥酔者の出現を待ち受けている。

2. 対称性と対立性
自然に存在する対称性は、共存してこそ美しい。しかし、人間社会では対称性を対立性と見なされるケースが多い。報道屋は、あらゆる対称性を対立構図で煽り、話題性を強調する。イデオロギーは、相変わらず自由と平等で論争を繰り返す。自由を崇め過ぎると格差社会を助長し、平等を崇め過ぎると経済活動を衰退させる。
戦争と平和の議論は永遠に続くだろう。平和主義者は戦争を悪だと叫ぶ。その通りであろう。だが、平和な理念だけで平和を実現できるものではない。歴史的には、平和主義者が戦争を招いた例が実に多い。山があるから谷がある。戦争の悲惨さを経験するから平和の尊さを知ることができる。死の恐怖があるから生の有難さが分かる。束縛を感じるから自由を獲得できる。腐敗があるから正義が成り立つ。これらが必要悪の正体なのかは知らん!
デカルトは、「憎しみは愛よりも不可欠」とした。善が悪への憎しみから生じるとすれば、憎しみという情念も捨てたもんじゃない。真の憎しみを知らなければ、真の愛も知ることができないだろう。ここに、相対的価値観の原理があり、認識能力の矛盾と虚しさがある。したがって、いつも成功すると自負する者がいれば、失敗の定義をどこか間違えていることになる。
もし、世界に対称性が存在しないとすれば、絶対的な価値観に到達していない精神の持ち主が、はたして認識能力を発揮できるだろうか?精神そのものが成り立つだろうか?価値観が対称性によって構築されるならば、片方に偏重すると必ず副作用が生じるだろう。最高の徳を求めれば、最高の悪徳を身に付けることになるのかもしれない。
矛盾の原理が、自然法則に従うか、自然目的性に従うかは知らん。だが、人間を超越した存在であるのは間違いないだろう。では、人間が認識を放棄したらどうなるだろうか?矛盾の呪縛から解放されるだろうか?対称性という現象は、人間認識の産物であって、実は宇宙原理とは無関係なのかもしれない。絶対的な認識能力を獲得するには、精神を無の境地に追い込むしかないのかもしれない。そうなると、自己の存在も否定することになりそうだ。偉大な数学者や哲学者たちに自殺する例を見かけるのは、自己の存在を無と悟った結果であろうか?死の正体がなんであるかも分からないのに、生きることの意味を勝手に理解した気になれれば幸せであろうに。

3. 男と女
男は一夫多妻主義者で、女は一夫一妻主義者という話を聞いたことがあるが、それは本当だろうか?男とはしょうがないものだ。博奕しおる。借金しおる。浮気しおる。いつの時代でも複雑な乙女心を満たすのは難しい。対して、女は、...ゴホゴホ!!!...人間とはしょうがないものだ。
男は女を支配していると勘違いし、女は男に支配された振りをする。神は男に腕力を与え、だらしない男を救済するために、女に母性本能を与えた。女には物理的に子孫を残すという特技がある。そして、男の弱みを握りながら精神的にも優位性を保とうとする。
対して、男は権力で支配しようとしてきた。実体で支配できなければ、肩書きや金銭という幻想に頼るしかないわけだ。権威の存在するところには、妄想にすがった醜い野望が共存する。ただ、権威を振るう者は無能であっても馬鹿ではない。権威に実体がないことを知っている。実体を妄想に変える術を知っていれば、無限に誇張するができることも知っている。
ところで、男と女ではなぜ、こんなにも寿命に差があるのか?「死ぬ時は一緒よ!」などという言葉にどれほどの説得力があるというのか?どう見たって脂肪も多い。女は子供を産む時、男には信じられない痛みに耐えるという。度胸も据わっているわけだ。日本は世界一の長寿大国と言われる。ということは、日本の女性は世界一恐ろしい生物に成長するということか?
更に不思議なのは、男女の組み合わせのパターンで、男の方が年上というケースが圧倒的に多いことである。年下の方が精神的に支配しやすいということか?精神年齢は男の方がはるかに幼いのだろう。
「男は死に顔を曝け出しながら、女に愚痴られる運命を背負う。」
男は何も悪いことをしていないのに、女とちょいと目が合っただけで、蛇にでも睨まれたようになるのはなぜか?この生き物を理解することは永遠に不可能であろう。長生きできるのは、神経が図太いからか?酒を飲まないからか?いや、そんなことはない。知人で大酒飲みといえば女の方だ。くだらない夢を追わないからか?「夢を描く男性が好き!」と言っておきながら、しばらくすると「いつまでも夢ばかり追っかけてんじゃないわよ!」と豹変する。
しかし、女の向上心は男のそれとは比べものにならない。化粧や美容に異常なほど執着する。目の前の現実から目を背けながら、幻想に憑かれるということか?ちなみに、化粧とは、化生に変身するということか?もののけや妖怪の類いか?たまーに、まったくスッピンの女性を見かけて関心していると、実はフル装備だったという噂を聞いて驚かされる。エンジンだけパワーアップしても、足廻りがついてこなければ、むしろコーナリング性能は落ちる。なるほど、装備はセッティングのバランスを考慮しなければ、お肌の曲がり角も曲がりきれないというわけか。永遠の若さを獲得しようとする執念には、滑稽とも思える自己満足の世界がある。現実を受け入れる勇気ができたところに冷静な諦めが生じる。
「女は永遠の若さを求めて化粧を塗りたくり、男は永遠の若さを求めてお姉ちゃんの尻を追う。」

4. 分かりやすさ vs. 分かりにくさ
一般的には、物事を表現する場合、分かりやすくコンパクトなのが良いとされる。確かに、コンパクトで明解な文章は魅力的だ。数学の証明では、単純でエレガントさに価値を求める。
しかし、そうとは言い切れない場合も多い。
分かりやすさとインパクトのあるフレーズは脳を直接刺激しやすいが、それだけに思考を停止させ鵜呑みにさせる効果がある。宗教の教えは、分かりやすく具体的で洗脳力が強い。この性質は布教活動には絶対に欠かせない。
対して、分かりにくさは、その意図を汲み取ろうとしたり、はたまた理解しようと思考をめぐらす働きを呼び起こす。難しい文章は、再読するだけでも違った見解を想起させる。読書という行為は、言語の持つ情報量だけでなく、読者の思考を含めた総合的な効果によって評価されるべきであろう。哲学書が難解なのは、純粋に真理を記述することを目的とするからであって、洗脳しようとは企てない。そもそも精神の正体すら分からないのに、人間が発明した言語で完璧に記述することは不可能である。哲学者は不完全であることを心得ているがゆえに、様々な角度から書き下そうと試み、まったりと、しつこくもなる。
いずれにしても、説得力のある文章を記述するには、論理性が必要である。だが、その論理にも様々な観点がある。文学作品には、わざと論理を崩す論理性なるものがある。内容よりも視覚効果や音律効果を優先したり、結論をぼかしたり、突然分かりにくい文章を埋め込んで読者のペースにギアチェンジを求めたりと、精神を呼び覚ますための技法は巧みだ。わざと読み辛くして悪戯のように仕掛けてくる。芸術作品は、鑑賞者の精神に何を残すかということを企てる。思いっきり分かりにくいカントの批判書やハイデガーの「存在と時間」に魅力を感じるのは、まさしくこの点にある。難しいことは素直に難しく表現する、それが合理性というものであろう。
カント曰く、「多くの書物は、これほどに明晰にしようとしなかったら、もっとずっと明晰になったろうに。」

5. 天才と凡人
天才とは、人間社会で人気を博す世界で、独自のステータスと能力を発揮できる人々である。人間の思考が、様々な環境の中で個性に見舞われるならば、人間社会の中でたまたま独自の世界が構築されることになる。ということは、天才と凡人の違いは、人間社会に独自の世界が構築できるかどうかの違いなのか?そして、小ぢんまりとした世界でなら、誰でもスーパースターになれる可能性があるのか?
現実には、多数決的に認められた世界が構築され、その世界にマッチした人間だけがスーパースターになる。例えば、野球に人気があるから、卓越したプロ野球選手が超一流とされ、高額な収入を得ることができる。一流選手ならば、野球がなくても他のスポーツ種目でも才能を発揮するであろうが。
文学界の天才は、この世に文学という文化が存在するから一流でいられる。
となれば、人間社会で一般的に認められなくても、ごく少数派の分野の中にもスーパースターたちが埋もれているだろう。もしかしたら、無神経者の中に素朴な精神界のスーパースターがいるかもしれない。精神病界にも悩みを熟知したスーパースターがいるかもしれない。そして、アル中界のスーパースターを目指すのも悪くない。

6. 無限大と無限小に挟まれた中途半端な世界
人間は、広大な宇宙の無限性と、極微な虚無の無限性との間でさまよう。どちらも人間精神の到達できる概念ではない。人間は、この二つの無限性の狭間で、何一つ無限的な能力を身に付けることができないでいる。大き過ぎる音はつんぼにし、強すぎる光は目をくらまし、遠すぎても近すぎても見えず、極端な暑さも極端な冷たさも感じることができない。おそらく、極端な快楽や極端な苦痛も感じることができないのだろう。あまりに真実なことに困惑し、あまりに多くの快楽に不快を感じ、あまりに多くの恩恵に苛立つ。あまりの若さも、あまりの老年も、精神を妨げる。多すぎる教育も、少なすぎる教育も害をもたらす。過度の性質は、感じることなく、その害を受ける。こうなると、あまりの極度から逃避せざるをえない。人間は、完全に知ることも、完全に無知であることもできないでいる。これぞ「生き地獄」というものか。

2011-01-23

独創性について

川端康成は、「言葉は人間に個性を与えたが同時に個性をうばった。一つの言葉が他人に理解されることで、複雑な生活様式は与えられたであろうが、文化を得た代わりに、真実を失ったかもしれない。」と語った。
しかし、言葉を操ることによって新たな境地へ導かれることもある。小説は、思考を強制しながら、「ついてこれるかな?」と嘲笑うかのように多くの視点や感覚を提示する。そして、読者の自由な精神を解放してくれると同時に、表現形式の檻に閉じ込めやがる。
芸術家は、鑑賞者を束縛するのが好きなS系というわけか。泥酔したM系には、たまらんぜ!

感動する作品の前で感想を洩らそうものなら脱力感に襲われる。芸術とは鑑賞者を沈黙させるものらしい。
サルトル曰く、「詩とは負けるが勝ちである。そして真正なる詩人とは、勝つために、死ぬまで敗れることを選ぶ者である。」
絵画を観ても、視覚だけで味わっているわけではない。音楽を聴いても、聴覚だけで味わっているわけではない。そこには鳥肌が立つような何かがある。五感を総動員しながら、別の総体のようなものがうごめく何かが。これを第六感と言うのかは知らん!
それは、味わい深い酒から受ける刺激に似ている...ボトルから注がれるトクトクという音律がスイッチを入れ、氷に触れる冷たい感触が心を引き締め、酒の色、香り、味と調和する。おまけに、バーの照明が精神をグラデーションに変化させ、BGMが孤独感を演出する。葉巻の煙は、意識を煙に巻きながら朦朧とさせ、幻想の世界へと誘なう...
独創性と芸術性には、精神領域において深くかかわりがありそうだ。作者は自らの構想を具体化するために、社会風潮や自然や思想を描写するだけだ。なのに、その行為に魂が宿った時に芸術が顕わとなり、独自の小宇宙が形成される。また、快い感覚と満足する感覚とは違うようだ。大衆は前者を要求するが、芸術家は後者を要求するのだろう。
ポール・ヴァレリーは、「他の作品を養分にすること以上に独創的なものはない」と語った。偉大な芸術は、模倣されることを自然に受け入れる。優れた作品は、模倣しても、模倣されても、ゆるぎない芸術性を保つ。それに耐えうる、それに値するからこそ真の芸術というわけか。
20世紀最高のヴァイオリニストとも言われるクライスラーは、昔の曲を自作に一部引用して新発見と銘打って披露する茶目っ気があったという。騙されて憤った評論家には「名前は変わっても、価値は同じだろう!」と答えたとか。
独創性とは、過去からの知識や感性の蓄積によって獲得できるもので、そこには「模倣の原理」というものが働くものらしい。ただし、「猿真似の原理」とまったく異質であろうことは想像に易い。

1. 独創と模倣
研ぎ澄まされた感覚は、どのように獲得されていくのだろうか?まず、子供の行動は大人の真似事からはじまる。子供は、いつも「なぜ?」と絡んでくる鬱陶しい生き物だ。しかし、その行動様式が「あらゆる思考は何かに疑問を持つことから始まる」ということを教えてくれる。「子供は最も素朴な哲学者」と言うことはできそうだ。
現代人の発想力は、先人たちの知恵や経験の上に成り立っている。あらゆる独創的なアプローチは、過去の天才たちの哲学や経験によって支えらている。それは、過去の知識にほんの少し新たな発想を加えることから始まり、その積み重ねの総体として独創性なるものが生起する。「コロンブスの卵」のように、造作もないことを最初にやる冒険心が発想力を育む。したがって、独創性の根本原理は、発想と模倣の調和を求めるだろう。そして、独創性を磨くには、いかに多くの気に入ったものや、感動するものに出会えるかにもかかっている。あらゆる経験は、自己と結びついて独自の解釈を加えずにはいられない。独創性とは、他人との差別化から自我の正体を知ろうとする一種の方法論なのかもしれない。神は、人間に自己を知ろうとする永遠の衝動を与えたというわけか。
ゲーテ曰く、「どんな人間にも、自分の見たものを模倣しようとする漠然とした欲望が働いている。しかし、そういう欲望があるからといって、企てるものを達成する能力が備わっている証拠にはならない。名手の演奏でもあると、きまって同じ楽器を習い始める者が現れる。そして、多くの人が道に迷う。」

2. 死者たちの言葉
あらゆる独創性と言われるものは、そのルーツを遡ると、ほとんど古代の哲学的思考から継承されていることが分かる。自分の発想が独創的だと自信を持っていても、古典を漁っているうちに似たような思考に出会って、しばしばがっかりさせられる。どこかを経由して回り回って先人たちの影響を受けているのにも気づかない。死せる世代の伝統は悪夢のように生き長らえ、生きる者の思考に亡霊となってのしかかる。
ゲーテ曰く、「たとえ君がカントの著書を読んだことがないにしても、カントは君にも影響を与えているのだ。」
精神の体系化は、人間の寿命によって妨げられる。過去の知恵や知識を学ばなければ、精神の進化は望めないだろう。したがって、自己の優位性と生まれつきの独創性を信じたければ、死者たちの言葉に耳を貸さず、余計な知識を身につけぬことだ。

3. 芸術と技術
カント曰く、「美の学があるのではなく、美の批判だけがある。また美的な学があるのではなく、美的な技術だけがある。」
機械的技術は勉強と習得から得られるが、美的技術は天才だけのものというわけか。芸術は自然と戯れるが人工的な行為であって、自由と自然を感じさせる心的技術ということはできそうだ。ただ、芸術家の才能にも限界がある。芸術の限界を覗けるのは、天才の特権ということになろうか。美の真理が天才にしか見えないとすると、凡人には芸術作品の一部しか味わえないことになる。そして、作品を批評するにしても、作品を語っているようで実は自己を語ることしかできないのだろう。批評とは、自己の気分や趣味に従って意見を述べているに過ぎないということか。
天才は、独自の価値観を一般大衆に強制しやがる。にもかかわらず、教育家や道徳家の強制とはまったく違って、快いのはなぜか?実は強制しているのではなく、「勝手に覗けば!」と鑑賞者に自由を与えているのか?
芸術の技術を習得したからといって、芸術が生み出せるとは限らない。流派があるとすれば、芸術家の数だけあるということになろうか。芸術が人を惑わせるという意味では、人を欺く行為と似ている。芸術家は詐欺師か?詐欺に会っても、心地良ければええではないか!などと言えば、宗教にも通ずるものがある。芸術的感覚とは、実に際どいところをうごめいているものだ。

4. 芸術と自然
芸術では、よく自然主義という言葉が使われる。だが、どんな芸術にも人間の恣意的操作が加わる。人間そのものが自然的な存在なので、素直に精神の感じるままに描くことができれば、それもまた自然主義ということにはなるのだろうけど。少なくとも、見えるものと描くものとは違い、芸術家にしか見えない領域がある。
ゲーテ曰く、「想像力は芸術によってのみ制御される。」
芸術家は自分の信念への素直さと頑固さの二面性を見せる。ただ、精神の解放を封印していては、いくら豊富な情報があっても想像力は働かない。芸術性は、精神を曝け出すことが鉄則であろう。そして、独創性とは、自由気ままに精神を解放することであろう。ここに、器用な職人で終わるか芸術家になれるかの分かれ目がありそうだ。しかし、精神を解放することは難しく、自由意志で制御できるものではない。芸術的思考は自然に醸し出されるものであり、独創性を意識した時点ですでに独創性は失われていることになろうか。
ところで、芸術と自然には、なんとも不思議な関係がある。魂を注ぎ込まれた作品に感動しても、描写対象の自然にはあまり注意を払わない。些細な日常を文豪が描写すると、たちまち芸術に変わる。
パスカル曰く、「絵画とは、なんと虚しいものだろう。原物には感心しないのに、それに似ているといって感心されるとは。」
ここで、ある映画のシーンを思い出す。映画「小説家を見つけたら」で、ショーンコネリーがタイプライタをリズミカルに叩きながら吐く台詞である。
「とにかく書くんだ。考えるな!考えるのは後だ!ハートで書く。単調なタイプのリズムでページからページへと。自分の言葉が浮かび始めたらタイプする。」
おいらは、この数分ぐらいのシーンが好きだ。芸術的精神とは、自然に現れることを願い、待つしかないのだろう。そして、酒の愉悦感に浸りながら精神の高まりをひたすら待ち続け、いつのまにか意識を失い、気がついたら朝だった。アル中ハイマーには縁のない精神というわけか。

5. 発明家と特許権
真の知識は、純粋な知への渇望から育まれてきた。知識が社会で実践されると、そこには脂ぎった欲望が結びつく。金儲けをしたければ、発想力よりも生産力の方が近道なのだ。そして、発想と模倣の協調性のバランスが崩れると、猿真似に憑かれる。
したがって、偉大な発明家や芸術家が伝統的に貧乏であったことは、なにも驚くことではない。死後に功績が認められるケースですら珍しくない。彼らは特許権を放棄してきた。古代哲学を特許の対象とするならば、ギリシャの経済危機は一気に解決して国庫を潤すであろう。
特許権は本当に主張されるべきところでなされているのか?生産でうまく利用した者が、特許権を主張しているに過ぎないのではないか?人類の遺産を残してきた多くの偉人たちが貧乏に喘いだ。にもかかわらず、現代社会では経済的な成功者が賢人とされる。人間社会には、概して「死人に口無しの原理」が働く。

6. 都合のよい個性
時々、若者に個性がないとか、発想力がないと嘆く大人を見かける。そういう環境を提供しているのかも疑問だが。個人の理念は、個々の生活環境や生きてきた経験によって形成されるものであろう。となると、そこまで人間社会は画一的なのか?と疑いたくなる。そもそも、個性がないなんてありうるのか?個性が目立つか目立たないかといった特徴はあるだろうけど。
個性のない集団ならば、コントロールしやすくてええではないか。ちなみに、おいらの周りは個性的な奴らで鬱陶しい!個性を発揮できる人は、互いの個性を発見しながら相乗効果を生むであろう。となれば、嘆いている大人たちが自分に個性がないと宣言していることにならないか?大人たちが求める個性とは、自分の想像する行動規範に収まりながら、自ら考えなくても提案を都合よく出してくれる人材を求めているに過ぎない。

2011-01-19

「知識と思考」チラリズムこそ知への渇望

ゲーテ曰く、「記憶は消えてしまってもよい。現在の瞬間の判断があやまらなければ...経験したことは理解した、と思い込んでいる人がたくさんいる。」
知識とは実に脆いものである。その多くが自分自身では実証できないのだから。もし、今までの知識が否定されたならば、今の自分の思考はどこへ向かうのだろう?
孤独に生きる人間にとって不幸なことは、想像力の欠如であろうか...

知識とは、記憶である。ここで言う記憶には、頭の中に留めるものの他に、整理して即座に知識の手掛かりを追えるような、自ら経験的に編み出した検索様式も含めるとしよう。
思考とは、知識を活用する方法である。よって、まったく知識のないところに思考を働かせることは難しい。知識が思考に結びついた時、知識は認識として働く。知識を基に思考が働くこともあれば、足らない知識を模索するために思考が働くこともある。そして、問題と対峙しながら思考の経験則を組み立て、知識は知恵として蓄積される。したがって、思考は知識から知恵を得るための掛け橋となろう。
知恵から実践的な技術や理論が発明される。実用的でなければ意味がないと主張する人も少なくないが、「優れた暇つぶし」というものがあってもいい。偏った実用主義に陥れば、すべての娯楽までも否定することになり、人間の存在意義に立ち入ることになる。
人間にとって、普遍的な知識を獲得することは最も困難なことかもしれない。それは、真理が感覚的なものから、最も遠いところにあるように映るからである。慣習と本能が役に立たなくなった時、はじめて動物は知能を動員する。変化を欲しないところに、知能は生まれない。したがって、知性とは、己の無知を知ることから始まる。完全に人間社会が自然と調和し、争いのない平穏な社会が実現した時、人間はあらゆる知能を放棄し精神までも失うであろう。これを理想主義と言う。

1. 思考と無知
知識と思考を深く結びつけるものが、抽象化の概念である。それがいつから始まったかは死らんが、人類は有史以来、抽象化を行ってきたのは間違いない。経験から分類がはじまり、過去の似通った現象を引っ張り出しながら学習能力を身に付け、知識を得ることによって思考を活性化させてきた。
だが、知識が豊富だからといって、思考が働くとは限らない。外面から見ても、どれほど思考しているか測れない。物差しで測るならば、知識量を測る方が分かりやすい。だから、有識者と呼ばれる人々が尊敬される傾向にある。
しかし、知識が思考を邪魔することもある。知識を過信すれば、思考力や判断力が横暴になる。知識に囚われ過ぎて思考することを忘れてしまい、更に知識が信仰と結びつくと思考を停止させる。強い思い込みによって、目先の不幸や不愉快なものが見えなくなるとすれば、それは幸せというものか。なるほど、宗教は永遠に廃れることはないだろう。ならば、無知も捨てたもんじゃない。
ここが、知識と思考の関係のややこしいところである。知識が完璧であれば、それもよかろう。だが、知識を再検討した時に、新たな見解が見えてくる。知識は、認識と再認識の狭間でさまよい続ける。したがって、知識を得れば得るほど物事が分からなくなっていき、自信を失うのも道理というものである。
知識を得る欲望が強ければ、分からないことは気持ち悪いものとなり、自らの能力に絶望するだろう。しかし、結論が得られない可能性を覚悟できれば、むしろ分からないことは心地良いものとなる。学問は、苦悩する過程にこそ意義がある。これこそ人生の醍醐味であり、「究極の暇つぶし」というものであろう。知恵者は知識の量で競ったりはせず、知識を蓄積するよりも思考する充実感を楽しむであろう。知識を羅列したところで精神の解放はできないのだから...

2. 知識教育と思考教育
一般的に、日本型教育の弊害は、記憶至上主義に走り、思考することを忘れさせると言われる。その通りであろう。入学試験はだいたいがクイズ形式である。クイズ番組が流行るのも、そうした国民性があるからかもしれない。実際に、社会では知識を頭に詰め込んだ量が多いほど優位に立てる。
では、教育の場で思考を習慣づける方法はあるのか?集団で思考すれば思考は誘導され、本当に思考しているのかも疑わしい。思考が誘導されるのであれば、それは洗脳となる。大人の教師が発言すれば、優等生ぶる子供たちの意見はたちまち収束する。他人の意見を参考にできるのは、自らの意見をある程度確立した時であろうか。
もし、教育の場でやるとしたら、答えの見つからない議題をぶつけてみるのは有効であろう。論理的に組み立てられた意見を出し合うのは楽しいものだ。だが、討論番組では誹謗中傷といった感情論を曝け出す。三人称で一般的に語り会えばいいものを。そもそも哲学的問題とは、矛盾と対峙するもので答えが見つかるはずもない。有識者と呼ばれる人たちは、話し方が穏やかなだけに欺瞞するテクニックは抜群だ。中には感情を剥き出しに喋る人もいるが、分かりやすいだけにその方が良心的とも言える。
ところで、思考の訓練では、「フェルミ推定」がコンサルティング会社の面接試験や教育などで用いられるという話を聞く。この言葉は、フェルミ粒子で有名な物理学者エンリコ・フェルミに由来する。実際に調査の難しいとらえどころのない量を、短時間で論理的に概算して、大胆に推定するというものである。例えば、「ある都市にピアノの調教師が何人いるか?」という問題を推定するには、都市人口にピアノを持つ世帯の割合、調律は一台当たり年に一度、調律師が一日に調律する台数といった数字を大胆に仮定する。これは、正しい答えを求めるのを目的とするのではなく、論理的解決方法の瞬間能力を鍛える方法として用いられる。最初に飛びつく思考の欠片がその方向性を示し、問題解決能力の重要な鍵となるわけだ。思考の運動神経といったところか。
それはさておき、現実に、直面する事象のほとんどは答えが一つではない。答えが見つからないことを不安に感じるのではなく、楽しむ心を養いたいものである。
まず、思考は孤独の空間から始まる。思考を深めれば、下手をすると精神病との境界線をさまようことになろう。しかし、学校教育は、ひたすら集団で生きることを教え、孤独を否定する。現実に孤独は存在し、孤独を生きぬく術は自ら編み出すしかない。では、その術が見つからない時はどうすればいいのか?宗教家や友愛型人間が廃れない理由がここにある。

3. 速読法と速愛法
よく、読書のしすぎからは、実践的な知恵が得られないという意見が聞かれる。確かに、芸術作品について語られた書物を読むよりは、作品そのものに直接触れた方がいいだろう。間接的に伝わった知識には、流布や偏重したものも少なくない。とはいっても、すべてを実践から学ぶことは不可能である。理論に偏り過ぎても、実践に偏り過ぎても、合理的な思考は得られないだろう、ぐらいのことは言えるが、その按配は個々の置かれた環境とセンスに委ねられる。
ところで、愛する人と一緒にいると時間が止まってほしいなどと願うのに、愛する対象が本となると、わざわざ楽しい時間を奪うかのような速読法なるものがもてはやされるのはなぜか?冊数にとらわれる人が多いということか?まったく余計な方法を提案してくれるものだ。映画や音楽を早送りしたところで、味もそっけも無い。読書を知識を得る手段としか思えないのは、なんとも寂しい。そういえば、夜の社交場では速愛法なるものを実践している人がいると聞く。

4. 思考の制御
思考の段階で、最も理想的な精神状態はフロー状態であろうか。無我の境地とも言うべき、時空を超えた心地良さが得られる。しかし、精神を自由に制御することはできない。雑念が邪魔して、どうしても集中できない時がある。所詮、精神は気まぐれに支配されるわけだ。それでも、ある程度誘導することは可能であろう。最初から精神の誘導を諦めていては、フロー状態になる機会までも失う。
ただ、完全に精神が集中したとしても、効果的に思考が得られるとは限らない。連続して集中していると、思考が堂々巡りをはじめる。将棋の棋士は、長い持ち時間の中で意識的に空白な時間をつくるという。脳をリフレッシュさせて、新たな思考を呼び込むわけだ。煮詰まった時に思考をリセットしてみることも大切であるが、余計な知識がリセットの機会を妨げることがある。
また、思考する上で、優れた環境というものがありそうだ。普通に想像すれば無音状態ということになろうか。一旦集中してしまえば雑音など気にならないが、割り込みの発生する環境ではフロー状態へ誘導することは難しい。
ところで、音楽は思考の妨げになるとよく言われるが、それは本当だろうか?トム・デマルコ著「ピープルウェア」では、おもしろい実験結果を紹介していた。それは、プログラムのような論理思考は左脳が働き、音楽のような直感的なものは右脳が働くので影響がないかもしれないという実験だ。ただし、突然のヒラメキによって独創的に問題を解決することがあるので、右脳が音楽に占有されていてはその機会を失うとしている。とはいっても、音楽は気分転換に絶大な効果がある。そこで、気分を乗せることが優先か、思考することが優先かは、状況によって使い分ければよかろう。そのためには、自らの精神状態を冷静に判断するという、最も難しい問題を自ら課すことになる。思考を制御するとは、自らの思考によって行うものであり、自己言及に嵌る矛盾からは逃れられない。

5. 思考のアプローチ
人間は、複雑な対象を思考する時、どのような方法を用いるだろうか?対象の正体を暴くにしても、いきなり全体像を把握することは難しい。そこで、古くからの思考方法に、抽象化という有効な方法がある。抽象化とは、対象を段階的に、あるいは階層的に分割しながら解析していく思考のアプローチである。
かつて、技術業界ではウォーターフォール・モデルという設計思想が流行ったことがあった。ひとことで言えば、上部から順番に決定していく方法である。そこには、上流工程に間違いがないということが前提される。しかし、現実には、下部が決定できないと、上部が決定できない場合が往々にある。そこで、現在ではトップダウンとボトムアップの双方から同時にアプローチすることが有効とされる。
ボトムアップ的な思考は、読書をしている時にも現れる。一行ずつ読み続けながら、作品の全体像を模索する。技術文献などでは目次や序説で全体像をある程度見渡してから細部を読む場合もあるが、文学作品では先が見えない方が意外性があっておもしろい。映画でも、シーンの積み重ねで作品の全体像が見えてくる。
その一方で、トップダウン的な思考は、絵画を味わう時に見られる。全体像を眺めながら、細部を覗くように鑑賞する。人によっては細部から眺めるかもしれないが。
思考のアプローチには大きく分けて、読書風の眺め方と絵画風の眺め方があるように思える。いずれにせよ、立体的な視点が要求され、着眼点の按配はその人のセンスに委ねられることになろうか。いや、気まぐれか。

6. 思考過程の披露
プレゼンテーションは、思考の過程を披露する場と考えている。一般的には、トップダウンで説明する方が分かりやすいとされる。
昔、まず全体像を把握しやすいようにビジュアル的な手法を好んでいた時期があった。ボトムアップで思考した手順をわざと隠して、トップダウンでコンパクトに整理する。
ところが、世の中にはいろんな人がいるもんだ。論理思考の優れた人で、ビジュアル的で直感的な表現では逆に不明瞭というわけだ。確かに、分かりやすい表現は、詳細部の論理性や厳密性を犠牲にする。むしろ論理式の羅列の方が、隙なく全体像をつかみやすいといったタイプだ。いきなり論理レベルまで思考を深めることができるのには感服させられる。こういう人は天才型であろうし、、おそらく社会風潮などに惑わされることもないのだろう。客観的に捉えようとすると、分かりやすい説明というのは、むしろ迷惑な話なのかもしれない。
プレゼンテーションでは、論理の隙をどこまで見せるか、その按配が難しい。どんなに分かりやすく誘導しようとも、聴衆の能力に委ねるしかない。その意味で、宗教の勧誘には優れたプレゼンテーション能力が具わっている。分かりやすくインパクトのある有効な言葉を選びながら、そのまま鵜呑みにさせて思考する隙を与えない。となれば、民衆を誘導するのに体系化した手法がありそうだ。それがプレゼンテーションのハウツウものというものか。歴史的にも、独裁者の出現は優れた演説から始まる。だから、天の邪鬼は一般受けしやすい方法に反発するのだ。

7. 垣根を越えて
人間が身近な世界に閉じこめられると、ろくな思考が生まれないというのは本当かもしれない。近親で結婚すると不都合な遺伝が受け継がれるように。企業体でも重役が同族で占められると弱体化する傾向がある。世襲制で良い思考が生まれにくいのは、知識の同族化の弊害ということになろうか。官僚的な体質が蔓延るところには、知識の縦割りや構造的な縦割りといった現象が起こる。ホンダの創業者、本田宗一郎氏と藤沢武夫氏は、けして身内を入社させなかったという。もっとも、その息子は息子で「無限」を設立している。こうした精神は社員たちがよく観察しているもので、企業文化に反映される。
また、どんな分野の専門家でも、素人の発想を参考にすることがあろう。数学の法則や証明は、アマチュア数学家の着想が基になったものも多い。プロとか素人の垣根を持った時に思考は偏見に陥る。改革会議で、第三者の出席を仰ぐのも、新たな発想を期待するからであろう。だが、きまって「外部者は内部事情を知らないから、そんなことが言える!」などと罵声を浴びせかける。つまり、表面的に改革を訴えながら、実際には都合の良い範疇で改正したいだけなのだ。
ブレーン・ストーミングの暗黙のルールには、「つまらない!」、「非現実的だ!」といった意見を禁止し、むしろ馬鹿にされるような笑われるくらいの意見を奨励したい。

2011-01-16

「所有の概念」と「盲目の原理」

ゲーテ曰く、「たやすく獲得されたものは気が向かない。無理に手に入れたものがひどく喜ばす。」
はたして、理解していないものを、所有していると言えるだろうか?恋愛は相手の心を所有していると錯覚するところから始まる。そして、愛する者が幸せになるだけでは満足できない。自分が介在できなければ不幸になることすら望む。まるで自分自身を救世主に仕立てるかのように...
「君の力になりたい!」とは、相手の心の中に入り込み精神を支配したいという強奪欲の顕れである。したがって、禁断の愛ほど燃え、成就した途端に興醒める。そして、同じことを繰り返し、いまだ学習能力を獲得できないでいる。
エゴイズムとは、人間特有の「所有の概念」「盲目の原理」が複雑に絡むことによって成り立つ。スピノザは、「真に神を愛するものは、神からも愛されることを願ってはならない。」と語った。いや、人からも愛されることを願ってはならないのかもしれない。
では、人生で所有できるものなんてあるのだろうか?アダム以来、人間はずっーと誘惑されっぱなしだ。神の所有物である時間は、人間の労働のために売り買いされる。ルネサンスが人間性の尊重や個人の解放を目指したにもかかわらず、それが進化すると尊重や解放は金持ちの所有物となり、貧乏人はより一層厳しく管理されるようになった。
そして、もっとも有効な金の使い方とは、「愛を金で買う!」ってことさ。...作者不詳!

1. 縄張りの原理
所有の概念には、縄張り意識が深く根付いている。その顕著な例は土地の所有である。歴史を振り返れば、戦争の原因のほとんどが領地をめぐってのものであった。土地の所有を基礎とする社会では、必ず不法侵入の法律が制定される。そして、土地を所有しない者には存在する場所すらない。いや、生まれてくる場所すらない。
所有の概念は、人と人との間に隔たりを作る。権力欲の強い官僚的な社会ほど、縄張り意識が強烈で、醜い境界線を露出する。既得権益にすがり、それを誇示し、自らの居場所を堅守する。境界線の幻想が保障されないと不安でしょうがない。だから、縦割りという無意味な境界線を設けて、そこに安住を求める。
空き地で遊んでいる子供を叱った時、「地球はみんなのものなのに、なぜ?土地は人のものなの?」と素朴に問われたら、大人たちはどう説明すればいいのだろうか?資本主義社会の基本原理には、自由競争と私有財産の概念がある。しかし、その論理には、一部の者に他の者が生きていくのを妨げる権利があるということを主張している。所有する権利とは、独占する権利を意味するのだから。法律には私有財産が保証され、私的所有権では処分や担保などいかなる行為も許される権利が定められている。
だが、マイホームを持ったところで、許しがたい固定資産税の負担を強いられる。自動車を購入したところで、車検と自賠責保険がつきまとう。住宅や自動車の購入を促進すれば、経済が活性化され国庫を潤す。所有してんだが?させられてんだか?ところで自動車重量税ってなんだ?地球に対する税金か?税が枯渇すれば、そのうち体重にも税がかけられるかもしれない。
そして、ここから得られる論理的帰結は、あらゆる私有財産は国から借りているに過ぎないということになる。そぅ、生まれながら所属させられる国家という奇跡的なシステムによって...

2. 命の所有
昔々、偉大な王が死ぬと、そのあとを追う殉死という風習があったという。一人の王の命を最も尊いものとし、すでに失われた一つの命のために、多くの命が失われた。やがて人類は、民衆の命も等しく尊いものであることを学び、埴輪などの代替品を一緒に埋葬するようになり、殉死の風習は廃止された。
国々が戦争に憑かれた時代には、命よりも名誉を重んじた。民衆は国や指導者の名誉のために戦って死んだ。人物の魅力に忠誠を誓う伝統もあれば、血筋というだけで無条件に忠義を果たす伝統も現れた。
そして、ついに最も尊い所有物を獲得したかに見えた。今では、人々の命の尊さは同じという建前の下で、最も尊いものは自分の命とされる。つまり、殉死の時代と命の優先順位が逆転しただけのことだ。人類は、いまだ命を格付けする呪縛から解かれないでいる。命の価値ですら、いまだ恒久普遍の原理に到達できないでいる。
では、命よりも尊いものがあるとすれば、自分の命が危機に曝されても沈着冷静な態度がとれるだろうか?それが人間の尊厳というやつか?誇りというやつか?

3. 義務と誇り
人間には義務がある。逆に言うと義務がなければ人間は生きていけないのだろうか?すべての義務を放棄した時、そこには何が残るのだろうか?生物の究極の義務は、生きていくことである。それは、生きる上での最低限の欲望である。
では、生きる上で最低限の所有とは何か?それが「誇り」というやつか?最低限の欲望を「誇り」に変えることはできるだろうか?
「誇り」を明確に観察できるものに「地位」がある。ただ、それを見栄で武装すると単なる看板と化す。地位がある階級だけで受け継がれていくと、硬直した社会システムが構築される。いわゆる世襲制と呼ばれる現象だ。形式や慣行が、いつのまにか無条件で地位を獲得するようになり、それを永続的に繰り返さないと精神が落ち着かなくなる。ある特権階級は社会システムそのものを所有しているという幻想に憑かれ、庶民層では「生まれつき奴隷」という概念が根付く。なーんだ、アリストテレスの時代と変わらんではないか。特権階級の連中はそれが実体のないものだと知っているに違いない。だから、一度獲得した権益をけして離そうとはしない。
しかし、地位が正常に機能すると、これほど効果的に「誇り」を示すものはない。社会的地位には義務が生じるからである。義務があるところには責任が生じる。責任があれば生き甲斐を感じ、それが誇りとなって精神を支えることになろう。
では、地位に相当した義務がなされているか?これが問われる。誇りの原理を知らなければ、過去の栄光にすがって生きるしかない。地位という所有物は、実に不思議な性質を示すもので、「見栄」にも「誇り」にも作用する。
ところで、自分の命に危機が迫っても、勇敢で誇り高く行動する人たちがいる。それは、義務が誇りにまで高められた結果であろうか。彼らの例は、人間が生きる上で最低限の所有とは何かを教えてくれているような気がする。地位や財産などすべての所有が虚無であることを悟れば、真の所有がなんであるかを知ることができるだろうか?

4. 無を存在とし、存在を無とする
ブランド品を持ち、高級車を乗りまわし、豪邸に住みたいと願うのは、俗世間の酔っ払いの欲望である。これらは、他人から奪い取ることによって実現する欲望である。想像力が豊かで、自ら創造物を見出すことのできる芸術的感性を持った天才たちは、他人から奪い取る欲望が薄いかもしれない。奪い取る欲望が働く前に、自分で創造してしまうだろうから。凡人には「無い物ねだりの原理」が働く。高級志向は金で解決できるが、才能は金で解決できない。ここには、受動的な欲望と能動的な欲望がある。「飢えは最もすぐれた料理人である。」と誰が言ったかは知らん。
人間は、あらゆる分野において利便性を求める。この欲望は、社会を進化させる原動力となってきた。そして、利便性は、仮想化社会へと邁進させる。人類が貨幣という交換システムを発明した時、仮想化が始まり、あらゆる価値が貨幣で計測されるようになった。現在では、その貨幣ですら電子化が進み、ますます実体の見えないものとなった。実体が見えないだけに、「無を存在とし、存在を無とする」奇妙な価値原理が働く。人間は、社会が複雑化し疎外を感じるようになると、幻想に価値を求めるのだろうか?近代社会は、見事なまでに幻想化された価値を次々と編み出す。だが、実体のない虚無を欲すれば、欲望は無限となる。ここに金融危機の原理がある。
自己が存在するかも自信が持てないから、空虚なものに憑かれるのか?何も語らずに何かを語ろうとしたり、修行や鍛錬で無意味な苦難の道を選んだり、自己の存在に絶望したり、実体のない信頼を拠り所にしたり、確証のない安全に身を任せたり、検証できない事に自信を持ったり、愛なるものに無限の期待をかける。仮想化社会は、哲学的な実存問題をますますややこしくしやがる。人間はますます実体から離れていく。いや、そもそも実体なるものは存在しなかったのかもしれない。

5. 理性という所有物
人間は、能力を所有として扱い、無能力を欠如として扱う。ここにも一種の所有の概念がある。霊魂の宿る生命体には理性が働くと信じ、理性を所有の対象とする。だが、理性が人間の所有物なのかは疑わしい。むしろ自然に属するもので、理性を獲得しようと考える時点で獲得できないことを意味してはいないだろうか?
人間よりも劣るとされる動物は、生きる上で必要なものだけを欲する。なんと合理的か。おそらく彼らは、理性が何か?などと迷わずに自然に実践しているだけであろう。
となると、理性を持たない生命体が理性に憧れるのか?おまけに、それを所有物などと考えるのか?無意識無想こそ、もっとも尊い精神なのかもしれない。存在認識とは、人間を進化させ、同時に退化させるもののようだ。むかーし、人間は進化していた時代があったに違いない。今となっては、その時代が懐かしい。

2011-01-12

無認識論

カント曰く、「斯くの如く人間のあらゆる認識は直観をもって始まり、概念にすすみ、理念をもって終結する。」
真理は一つしかないとしたところで、おのおのが思考を始めると勝手な真理の像を描く。そんな絶望の中にあっても、カントは、ア・プリオリな認識を「時間」と「空間」のみで規定し純粋認識の統一見解を示した。アル中ハイマーは、これに「エントロピー」を加えたい。そして、くだらないエントロピーの蓄積が、認識能力に一方向性の解釈を与える。これを「ご都合主義」と呼ぶ。
...アル中ハイマー著「泥酔的認識力批判」、第五章「ご都合主義の不可逆性」より抜粋。

1. 絶対泥酔論とエントロピーの原理
あらゆる物理現象は、純粋な物理現象に観測系が加わってはじめて認識できる。すなわち、観測するとは、人間が認識することを意味する。
純粋なニュートン力学では、物体の運動を可逆性で説明する。だが、現実に観測できる物理現象のほとんどは不可逆性を示す。そこで物理学は、現実的な解として「熱力学の第二法則」と結び付けながらエントロピーの原理で説明する。
しかし、時間そのものが不可逆性である。ここに、物理現象を時間の関数で扱う原理がある。少なくとも人間は、時間を過去から未来の一方向性でしか認識できない。人間精神が介在した途端に可逆性が崩れ、真の物理現象が考察されているのかも疑わしい。人間が認識するということは、精神が主観と客観の狭間で揺れ動きながら、経験や知識を蓄積することになる。そして、人間精神そのものが発散するのだから、「エントロピー増大の法則」が成り立つのも道理というものであろう。
では一層の事、観測しなければ、認識することを放棄すれば、あらゆる物理現象は純粋な可逆性のままでいられるかもしれない。だとすると、宇宙原理において、無理やり認識したり、解釈したりする行為ほど異質で邪魔な存在はあるまい。人間は悪魔なのか?人間が相対的な価値観しか構築できない最大の原因は、認識の存在、つまりは精神の存在にあるのではないか?
そして、絶対的な価値観を構築しようとすれば、人間の存在ですら否定しようとする絶対悲観論へと近づく。いや、精神を泥酔状態にして完全に麻痺させちまう方が手っ取り早い。結局、精神の絶対泥酔論に帰着するわけか。

2. 無意識無想と自己否定
デカルトが人間の知覚を「私は存在する」とたった一言で抽象化してしまったことには感服せざるを得ない。まさしく、一切のものが空間に関係するという先験的な実存認識を表わしているのだから。実存論者は、人間は精神であると主張する。つまり、固体である肉体にはなんの意味もなさないと。
では、精神とはどんな存在なのか?様々な解釈が錯綜するうちに宗教と結び付き、精神を崇め、死を崇め、霊魂を崇め、ついには神の領域へと近づく。それは、悪魔への道しるべか?「罪を憎んで人を憎まず」と言えば、罪を固体化して罪人を概念にまで押し上げる。人間尊重の思想が人間を神の地位に据えようと企てるならば、固体のまま蔑んだままの方がいい。
自己の正体とは何か?と問い続ければ、精神は自己言及で迷走し、自己を失い、ついには精神病を患う。ならば、最初から自己の存在を否定してみてはどうか?精神の存在を無と仮定してみてはどうか?何かに集中し脳がフロー状態になった時、無我の境地とも言うべき心地良い領域へと導かれる。崇高な精神が宿った時、人間は超人的な能力を発揮することがある。時間認識を無とし、自己の存在を無とした時、そこには脂ぎった欲望の入り込む余地はない。匠の世界や洗練された世界とは、精神の高まりを求める純粋な欲望が崇高な精神へと導いた結果であろうか?
人間は無い物欲しさに駆り立てられるもので、エレガントさや美しさに憧れるのは、精神の醜さを写し出しているのかもしれない。人間が、もっとも腹を立てるのは、自尊心を傷つけられることであろうか。自分の人格を否定され、自己の存在を否定されれば、怒りもしよう。だが、無意識無想となれば、そうした雑念はすべて消え去ろう。
哲学をすれば、実存と対峙し、無意味と葛藤し、自然の偉大さに敬服し、ニヒリズムに陥る。そして、自己の醜さに嘆き、精神の悪魔性を憎み、自ら精神病へと誘なう。世の中が狂っていれば、気が狂うのも当然だ。精神病患者とは、正面から矛盾と対峙できる勇気の持ち主で、最もまともな世界を生きている人々なのかもしれない。

3. 共通認識
会話をしていて時々不思議に思うことがある。本当に互いの認識が一致しているのだろうか?そうした疑問を持ちながらでも、会話は成立しているからおもしろい。互いに妄想を膨らませながら、勝手なイメージを描いているだけかもしれないのに。
例えば、「赤い!」といっても、本当に同じ色が見えているのか?色盲という医学的欠陥は別にして、目という視覚の入力装置は同じであっても、認識するのは脳である。好きな色を青や赤と言っているのは、精神が奇妙な変換をしているだけで、実は同じ色を指している可能性はないのか?人間の認識能力は、入力情報に対して様々な変換機能が働くだけで、根底の認識は共通ということはないのか?
人間の視覚は、高周波成分に対して追従能力が低い。テレビがそれなりに見えるのも、追従性の鈍感さに頼りながら想像力で誤魔化しているに過ぎない。宇宙人が観察すると、ノイズだらけの情報に熱中する地球人が滑稽に映るだろう。これがマスコミの原理か。もしかすると、同じ映像を観て違う感想が飛び交うのは、同じ映像として認識していないのではないか?
差別問題にしても、相手を人間として扱うかどうかの抽象レベルの違いがある。どんな残虐な独裁者でも、身近な人間と認めれば優しくもなろう。独裁者はイエスマンには異常に優しい傾向がある。
となると、認識能力にはほとんど個人差はなく、入力情報が脳に到達するまでの変換機能やノイズフィルタ機能が多彩なだけかもしれない。天才たちは凡人とは脳に到達する「モノ」が違うのだろう。彼らは、よほど性能のいい認識前変換装置を具えているに違いない。これが、「心眼を開く」ということであろうか。実は、独創性なるものは幻想なのかもしれない。少なくとも、人間には昆虫どもが同じに見えるように、昆虫には人間どもが同じに見えるだろう。

4. 障害認識
イデア論では、純粋イデアから最高の理性が流出して、人間精神に授かると考える。イデアとは物の原型のようなもの。だが、人間精神は、もはや原型をとどめず、純粋な姿すら想像できない。プラトンは、もともと完全な理念を持った理想イデアなるものがあると考えた。それは、遺伝子コピーの不完全性を示唆していたのだろうか?遺伝子の継承は、ある確率の低いところで障害を創出する。というより、全ての人間はなんらかの障害を持っていると言った方がいい。純粋理性というイデアは、生物の進化の過程でだんだん悪徳を身に付けて、悪魔というイデアへと変貌を遂げのるか?
人類は科学の進化とともに客観的な理性を追い求めてきた。だが、人間社会は破壊のカオスへと邁進し、理性は主観の領域を脱することができないでいる。文明が高度化すれば大量の情報が溢れ、解析能力が追従できず認識能力が機能しないとは皮肉である。
そういえば、幼き時に失明した人が、医療技術の進歩で大人になって手術を受けて目が見えるようになった時、物は見えるのだが、それが何かはっきりと認識できないという話を聞いたことがある。目の前にある道の段差があるのは分かるのだが、具体的にどのような危険があるのかは認識できないのだそうな。なるほど、情報とは、認識能力と結びついてはじめて意味を持つわけか。
ところで、障害者の体の不自由さには寛容でいられるのに、政治屋の精神の不自由さにムカつくのはなぜか?それは、障害者が自分の欠陥をを認めているのに対して、政治屋が自分の欠陥を認めないばかりか、他人を蔑むからであろう。互いの似たような行動を罵り合うという醜態を曝け出しても平気なのだから、奇妙な神経の持ち主である。政治番組は、青少年に配慮してR-18指定するがよかろう。

5. 余計な認識力
海を眺めていると、波がうねる姿には永遠の時間を感じる。そして、子供の頃から、よく思うことがある。海の果てと空が交わる地平線は、地球が丸いからあのように見える。では、地球が永遠に平面であれば、どのように見えるのだろうか?今見える地平線よりは上に見えるだろう。では、どのくらい上に見えるのか?海面が永遠に続けば...と想像しながら、だんだん視線を上げていき、ついには空を見上げる。
だが、無限に平面が続いたとしても、幾何学的には地平線がどこに見えるか簡単に説明できる。平面上を上から眺めている視線の位置より、高いところに地平線が現れるわけがない。ただし、ユークリッド空間を前提した場合だ。
では、非ユークリッド空間ならば、どのように見えるのか?天井まで海面が拡がっているかもしれない。いや、眺めている位置そのものが、海底なのかもしれない。浦島太郎が海底都市の竜宮城に行ったというのは、実話の可能性はないのだろうか?彼は、非ユークリッド空間を認識できる能力を持っていたのではないか?そして、余計な空間認識を持っているがために、乙姫に誘惑されて自らの未来を破滅させてしまった。
認識能力が高すぎるために、おもしろい例がある。絶対音感を持った人間は、あらゆる音が音符で認識できるという。自然音と人工音が混在する街中で、音質の合わない合成音を聴きながら不快感を募らせるのだそうな。余計なものが聞こえなければ、幸せでいられるだろうに。なるほど、老人化すると耳が遠くなるというのは、余計な認識能力を放棄するという精神の到達した答えなのかもしれない。
生命体が感じられない次元は、生きる上で認識の必要がないとも言える。いずれ地球は消滅するだろう。それでも人類が存続を望むならば、突然変異によって感じられなかった次元を認識できるようになるかもしれない。知恵や知識を蓄積すればするほど、次の段階へと認識を高めようとする。余計な認識能力を身に付ければ悩みも増え、同時に余計な欲望も生まれる。やはり、人間は悪魔へと進化しながら自滅する運命にあるらしい。

2011-01-09

存在幻想論

死は永遠に享受できるが、生は一度しか享受できない。生と死の違いとは、それだけのことかもしれん。自殺した天才たちは、それを悟ったのか?そこに崇高な場所でもあるのか?
すべての認識は、前提の上に成り立っている。その基底には、「自己は存在する」という前提がある。自己の存在を前提しなければ、認識力が説明できない。真理が存在するという前提で、真理を探究する。矛盾が生じないという前提で、論理を組み立てる。しかし、基底の前提が崩れた時、すべての思考は崩壊するだろう。人間の思考は、何かを前提しないと前には進めない。永遠の真理があるということは、永遠に暇つぶしができるということさ。
すなわち、真理とは、「前提する」ことである。ハイデガーは、「前提する」とは「了解する」ことだと語った。
...アル中ハイマー著「泥酔的存在批判」、第四章「相対的楽観論もええが、絶対的悲観論も悪くない」より抜粋。

1. 存在幻想論
人々は揃って、人の命は重いと言う。だが、自分の命の価値を知っている者は、この世にどれだけいるだろうか?人間は自らの居場所を求めながら生きている。居場所とは存在意義といったものであろうか。このような悩みに憑かれるのは精神を獲得した生命体の宿命であろうか。キェルケゴール風に言えば、「精神を獲得した時点で絶望する」というわけか。
近代社会が物質的な豊かさをもたらしてきたのは認めよう。だが、同時に自殺者が増加するのはなぜか?単に人口増加に比例した現象なのか?停年になったり、役職を失った途端に気力を失う例も珍しくない。子供たちが自立し、家庭内の役割終え、あとは余生を楽しむだけとなった途端に痴呆症になるのを見かけるのは、単なる偶然だろうか?知的障害者は老けるのが早いと聞いたことがある。こうした例は生き甲斐のようなものと関係があるのかもしれない。忙しい時に見せなかった兆候が、ホッとした瞬間に病状が現れる。人から頼りにされると生きる力が湧く。期待される、あるいは、そう思われていると信じる妄想が気力を支える。
何かを成し遂げた達成感や充実感はほんの一瞬に過ぎ去る。人生の先が見えなければ、漠然とした不安に駆られる。その不安から逃れるために、充実感を求めるようなことを繰り返すしかない。だが、目標や気力を持ち続けることは難しい。
権力誇示や既得権益を堅持したり、自らの存在価値を必要以上に誇張したりするのも、自己の居場所を求めてのことだろう。権威や身分を失った時、自己に何が残るのか?と自問し、いざ名刺の看板を降ろした時、自己の本性が現れる。こうした苦悩の源泉は、自己の無に薄々と気づいているからかもしれない。だとすれば、大した権威や身分を持たない者ほど、自己がなんであるかを知る機会に恵まれていることになろう。なるべく無神経な人間性を演じ、他人から期待されぬように仕向けるのも、逆説的に自己の居場所を求めてのことだろう。ただ、無神経を演じ続けると、本当に他人の気持ちが見えなくなってしまう。
自己を探求すれば自己を失い、自己を遠ざければ居場所を失う。精神とは、実に厄介な代物である。人間は、自分の過去を振り返りながら、その意味を求めずにはいられない。そして、死の代償に生きてきた意味を救おうと願う。

2. 「思い込み」という幸せ
物事とは不思議なもので、知識を得れば得るほど、思考を深めれば深めるほど分からなくなる。途中で理解した気になったあたりで思考をやめれば、幸せになれるものを...
難解な哲学書を一度読むと理解した気になり、二度読むと自分の理解力を疑い、そして更に読み返すのが怖くなる。再読とは勇気のいることだ。だが、BGMのように難しい言葉が流れる中を、勝手に思考するのは心地良い。だからやめられない!
ところで、人間の精神とは不思議なもので、心にも無いことを平気で語ったり、理解していないことを理解した気で語れる。愛の正体が分からなくても、愛について熱弁をふるう。そして、理性とはまったく無縁なアル中ハイマーにだって、語ることぐらいはできるのだ。
「浅はかとは、理解したと自負することである。信じるとは、思考を停止させることである。おまけに、哲学するとは、酒を飲むことである。したがって、俗世間の泥酔者はいつも理解した気で幸せになれる。」
思考を停止させることが良いか悪いかは別にして、心地良いタイミングで自在に停止できれば幸せであろう。これが、思いこみというやつだ。したがって、精神を麻痺させながら脳死状態に陥れるのが宗教の目指すところとなる。

3. 自己保存
人間は自己保存のために努力する。その根底にあるものが徳というものかは知らん。他人に徳を押し付けようとするのは、秩序を維持しようとする努力であろうか。人間社会が存続しなければ個人の存続も危うい。したがって、人間社会は自己愛に支配されることになろう。
名誉欲に憑かれた人間が、野望と高慢とが結びついて、周りから嫌われながら気に入られていると勘違いし権力に固執する。感情と理性の調和とは、人間のもっとも苦手とする精神なのかもしれない。
スピノザは、「最大の高慢あるいは最大の自棄は、自己についての最大の無知である。」と語り、高慢と高邁をはっきりと区別しながら正反対の性質があるとした。そして、高慢な人間ほど感情に支配されやすく、愛や同情から最も縁遠いとしている。同時に、自分を正当以下に評価する劣等感に憑かれた者も蔑視している。こうした感情が必然的に妬み深くするのであろう。虚名に憑かれれば、それを固持するために日々心配と不安の中で葛藤し続けることになる。
スピノザは、こうも言っている。「名誉は理性に矛盾せず、理性から生じることができる」と。それは一種の自己満足であって社会の影で名誉を求めることになる。「名を捨てて実を取る」といったところであろうか。

4. 宇宙目的と存在意義
神学は道徳を規定する手段である。法学は法律によって道徳を実践する手段である。だが、人間社会が実践的に道徳を規定したところで、強制的に方向性を示しているに過ぎない。自律を欠いたところに、真の価値観を得ることはできないだろう。
あらゆる抗争には排他論理がある。平和的な抗争が議論だとすれば、非平和的な抗争が戦争ということになろうか。もし、相手の存在を認め、共存の原理が働くとしたら、もはや沈黙するしかなくなるだろう。
そうすると、教育そのものが成り立たなくなりそうだ。では、理性が構築されるまで、大人が子供に思考を押し付けることになるのか?では、いつ理性が構築されたと判断するのか?それが一人前というやつか?人間は永遠に一人前になれそうにない。
物事の存在意義は、目的を見出せた時にはじめて価値があると認識される。もし、人間の幸福が宇宙の目的だとすれば、人間の存在を神の創造の究極目的として前提されなければならない。宇宙原理に絶対的な価値があるとしても、それが人間の幸福とは到底思えないけど...

2011-01-05

時間囚人説

「シャバを恐れてる。50年もムショ暮らしだ。ここしか知らない。ここでなら彼は有名人だが、外では違う。ただの老いた元服役囚だ。白い目で見られる。あの塀を見ろよ!最初は憎み、しだいに慣れ、長い月日の間に頼るようになる。施設慣れさ!終身刑は人を廃人にする刑罰だ。陰湿な方法で...」
...映画「ショーシャンクの空に」より...

1. 時間囚人説
人間は、過去と未来の狭間でもがき続ける。時間の不可逆性は、人間が生まれて死ぬだけの存在でしかないことを強烈に印象づけやがる。もはや、時間という刑務所で囚人として生きるしかあるまい。
「人間五十年、下天(げてん)のうちを比ぶれば、夢幻(ゆめまぼろし)のごとくなり、ひとたび生を得て滅せぬもののあるべきか」
これは、信長が好んだとされる幸若舞「敦盛」の一節である。人生とは、夢の中で50年の刑期を勤めるようなものか。
人間の時間認識は、数学のように離散と連続を使い分けながら、大まかに過去、現在、未来で抽象化する。できることと言えば、今を精一杯生きることぐらいなもの。にもかかわらず、過去と未来を区別するのはなぜか?昨日はおとといの未来であり、明日はあさっての過去であって、双方に大した違いは認められない。昨日はもう来ない、明日は来るかも分からない、そのちょっとした意識の違いが、過去に絶望し未来に根拠のない希望を抱かせる。そして、希望は過剰な期待によって絶望へと変わる。過去は片時も休まずに未来を抹殺し続けやがる。
生きる勇気を養うということは、死までの時間を覚悟することである。一つを究めるのに、一人の生涯ではあまりにも短い。「芸術は長く、人生は短し」とは誰の言った言葉かは知らんが、その源泉はヒポクラテスあたりか?
人間は、人生のあらゆるパターンを経験することはできない。一つの時間軸において実験的に一つの人生を試すことぐらいしかできない。にもかかわらず、人生経験のプロであるかのように、多くの助言をしたがる人々がいる。彼らは、世間では宗教家や友愛型人間と呼ばれる。そして、自らの理念が最高だと信じ、最も理性の高い人間だと思い込み、幸せの形を具体的に提示する。信じるのは自由だけど...
では、精神を会得するには何世代の生涯を費やせばいいのか?神は人間の生涯を永遠に弄ぶ。カントはア・プリオリな認識を時間と空間だけで規定した。つまり、実存とは時間に幽閉された空間認識に他ならない。神は、人間精神を支配するために、先験的認識を創出する必要があったのかもしれない。閉じられた空間を前提しなければ、精神そのものが成り立たないのかもしれない。

2. 時間からの脱獄
人間は過去も未来も自由にはできない。現在の瞬間ですら自由にできるのか疑わしい。時間は無常にも過ぎていき、ただ無力感を残していくだけ。ついでに、あらゆる苦痛を時間が持ち去ってくれればいいのに、苦痛だけを置き去りにしやがる。時間を自由にできない限り、人間は永遠に自由を獲得することはできないだろう。
ところで、物事に集中していると、精神が突然フロー状態になり心地良い気分になることがある。無我の境地とでも言おうか、時間感覚が消え去った時に訪れる幸せな瞬間がある。もしかしたら、時間を意識しない領域へ精神を導けば、あらゆる不安から解放されるかもしれない。
癲癇病患者は、痙攣のさなか時間が停止したような崇高なひとときを味わうことができるという。この病が、古くから「聖なる病」や「悪魔の呪い」などと呼ばれる所以である。離人症患者は、自己を失い、存在感を失い、放心状態となって時間を感じないという。精神病の多くは、精神の内にある時間の連続性が失われることが原因だという。こうした精神がテレポートするかのような現象は、時間からの解放という欲求から生じるのかもしれない。
また、初めて行った旅先で、昔の懐かしい風景と重なるような不思議な感覚に見舞われることがある。初体験にもかかわらず、懐かしい行動を繰り返すような錯覚に陥ったりする。脳が疲れたりして混乱すると、ノスタルジーに浸るような偽りの体験を見せてくれる。これがデジャヴってやつか。これは、本能的に精神の安住を求めている現象なのかもしれない。
一般的には、夢と現実では、夢の方を偽りの体験とされる。だが、実は逆ということはないのだろうか?いや!どちらも現実の可能性は?少なくとも夢と現実は別空間にあるような気がする。これがパラレルワールドの正体か?パラレルワールドが存在すれば、都合のいい方を選択しながら生きることができそうだが、現実は都合の悪い方ばかりを選択しているような気がする。夢というやつは、必ずいいところで目が覚める。せっかくホットなお姉さんといいとこだったのに。続きを見ようとして二度寝すると今度は熟睡しやがる。おまけに、遅刻だ!これは、夢喰い獏(バク)の仕業に違いない。

3. 予知能力
人間は他の動物と違って未来に対して敏感である。未来に備える能力を持つことで、他の動物よりも優位性を持つ。予知能力が、生存競争の過程で一種の防衛本能から育まれてきたのは確かであろう。となると、時間認識とは、下等動物を見下すために編み出した概念なのか?
一般的には、予知能力が高いほど高度な生物ということになっている。だが、それは本当だろうか?予知能力とは、単なる欲望の強さとも言える。科学の進歩は、宇宙を次々と解明しながら、地球の未来像を明らかにしてきた。そして、より遠い未来予測を可能にする。文化的水準が高まれば精神的欲求も高まる。芸術や科学は、まさにそうした精神から発達してきた。
しかし、純粋な知への渇望は、同時に脂ぎった欲望を呼び起こす。進化と退化は表裏一体というわけか。人間の文明は必要以上の狩りを推進してきた。自然の原理からすると、人間の欲望は必要以上を求めない下等動物よりも劣るのかもしれない。
いずれにせよ、高等か下等かなどは、人間が勝手に格付けした価値観に過ぎない。おそらく予言者の知能は高いのだろう。なぜか?占い師は詐欺師にしか映らないが...

4. 先験的認識
先験的認識とは、どこから生じる思考なのか?既に宇宙が誕生した頃から獲得しうる能力なのか?宇宙の起源と同時に誕生した素粒子を構成要素とする生命体が、普遍的に獲得する本能なのか?そして、遺伝子として受け継がれるのか?
アインシュタインは、時間と空間を混在させた時空という物理量を持ち出した。極小空間へ迫るということは、極小時間へ迫るのと等価である。そして、科学者は宇宙の起源を求めて素粒子の解明を試みる。こうした試みは、人間精神の解明に通ずるものを感じる。多くの偉大な科学者が、神学に憑かれるのもうなずけるわけだ。
その一方で、心理学的に人間精神に迫ろうとする試みがある。なんとなく精神は、生前から存在し、死後も存在し続けるような予感がする。この不思議な感覚が、神の存在という仮説を生み出し宗教思想を盛り上げ、無意識に宇宙の時系列を精神の寿命と重ねる。
キェルケゴールは「人間とは精神である。精神とは自己である。」と語った。実存論者たちは、人間の実体は精神であり自己の中に存在すると主張する。言い換えれば、固体である肉体にはなんの意味もなさないことになる。幽体離脱した霊魂こそ純粋生命体というわけか。そして、精神をあまりにも崇高な地位へと押し上げた挙句、宇宙の創造主たる神と同列に扱うところに、人間のご都合主義が現れる。成功すれば自分の努力の賜物とし、失敗すれば偶然のせいにするのも道理というものか。

2011-01-02

時間不在説

一人の人間は、若い時期と老いた時期を同時に体現することはできない。
ところが、時間という概念を加えることによって、その両方を体現することができる。つまり、一人の人間に多重人格性を与えるわけだ。物理学は、物体の運動を当たり前のように時間の関数で扱う。対して、思考の活動は、精神時間と物理時間の偏微分関数で扱うがよかろう...
時間の概念は、精神になんらかの変化をもたす。この現象を「成長」と呼ぶ。ただし、時間は一方向性しか示さない。過去を悔いても、神は「おとといおいで!」と嘲笑う。すなわち、退化もまた成長と同じ方向にある...
無学な人物だと侮っていても、数年後には変貌する可能性だってある。数年前に借金した人格は、現在では違った人格になっているかもしれない。したがって、借金の取り立てに会えば「今の俺は昔の俺とは別人なんだ!帰ってくれ!」と追い返すこともできるわけだ。自己破産法とは、この別人論に則ったものである。したがって、法の裁きが求める反省には、「チャラの原理」が内包される。
...アル中ハイマー著「時系列における別人論」、序説第三章「借金揉み消しの原理」より抜粋。

1. 時間不在説
数学は、あらゆる次元を平等に扱う。だが、実際に幅のない線なんて存在しない。厚みのない平面なんて存在しない。おそらく縦、横、高さだけで定義できる純粋な立方体なんて存在しないだろう。これらは数学上の抽象概念に過ぎない。数学者は、時間もまた一つの次元に過ぎないことを心得ている。
しかし、人間の認識は、時間という次元を特別扱いする。精神が拠り所にする実存という認識は、時間の流れをともなう空間の存在を前提しなければ説明できない。人間は、「三次元 + 時間」という空間認識の中で生きている。おそらく、存在を認識できる生命体は、「認識できる次元 + 時間」という概念からは逃れられないだろう。
では、精神を持つことを放棄すれば、認識する行為を放棄すれば、時間という枠組みから解放されるだろうか?数学者が考えるように、時間という次元もまた他の次元と同じように平等に扱えるだろうか?時間の概念があるから、経験や知識は蓄積される。矛盾の深みに嵌りながら...
アインシュタインは、エントロピーは全ての科学にとって第一の法則であると語った。エントロピーを一言で説明するならば、「一方向性に支配された認識や知識の蓄積」とでも言ってやるか。その証拠に、ほとんどの物理現象が不可逆性の呪縛に嵌ったままだ。あらゆる物理現象は、純粋な物理現象に人間の観測系が加わってはじめて成り立つ。それが認識の原理である。相対性理論は、人間の観測系においてのみ成立する理論なのかもしれない。となれば、観測する行為を放棄すれば、あらゆる物理現象は純粋な可逆性を示し、エントロピーは均衡を保ったままかもしれない。つまり、「エントロピー増大の法則」とは、観測系の原理というわけさ。
そして得られる帰結は、「時間は人間認識の産物に過ぎない」というわけさ。そもそも、実存なんて幻想なのさ。人間はそれを薄々と気づいているから、人間社会は現実から逃避するかのように仮想化へと邁進するのさ。

2. 浦島太郎伝説
昔々、時計もなくカレンダーもない時代があった。それでも、昼夜や星座の動きで時の流れを感じることはできた。もし、周りに何も変化がなければ、物体の運動が存在しなければ、時の流れをどのように感じることができるだろうか?
浦島太郎は、亀に乗って竜宮城へ行き、戻ってみるとそこは数百年もの歳月が経っていた。もし、地球ごと竜宮城へ行ったとしたら、それでも数百年が経っていたと言えるのだろうか?地球ごと瞬間移動するという宇宙現象が、頻繁に起こっている可能性はないのだろうか?いや、宇宙空間全体が瞬間移動している可能性は?そして今!この瞬間に亀に乗っているという可能性は?時間の流れの方向は、人間が勝手に決めただけのことで、実は自在に過去と未来を行き来している可能性はないのだろうか?時間が、過去、現在、未来の順番にきちんと整列して、一定間隔で刻まれるというのは本当なのか?などと考えるうちに、宇宙法則そのものに時間という概念があるのかも疑わしくなる。
そういえば、ちょっと前に「百年安心の年金制度」という謳い文句があった。百年も随分と短くなったものだ。国会議事堂の周辺には黒幕の住む穴があって、タイムスリップを頻繁に繰り返しているに違いない。これがブラックホールの原理というわけか。
時間認識とは、相対的な変化を認識することであって、人間はいまだ絶対時間なるものを知らない。もし知っているとしたら、それは光速であろうか?それはともかく、亀は絶対時間を知っているに違いない。亀(かめ)と神(かみ)には、なんとなく同じ音律を感じる。
破壊と創造が宇宙の原理だとすれば、精神の成長は自らの破壊によってもたらされるであろう。乙姫が「けして開けてはいけません!」などと言って玉手箱を渡すから、浦島太郎は衝動に駆られて自らの未来を破壊した。「浮気をするな!」などと言うから、男性諸君は破壊の乙姫を求めて夜の社交場へと向かうのさ。

3. なぜ、寿命があるのか?
食べ続ければ細胞は合成と分解を永遠に繰り返し、老化という現象がなくなってもよさそうなものである。DNAには、細胞の再生回数でも記録されているのだろうか?寿命とは、人間が神に近づくことを防ぐ仕掛けなのか?それとも、悪魔に進化することを防ぐ仕掛けなのか?
一方で、老化の先に死の恐怖が見えるからこそ、苦しみや喜びによって感動することができる。目の前の出来事がほんの一瞬に過ぎ去るからこそ、輝きを放つ。寿命は、精神の成長には欠かせない原理というわけか。その過程で、人間には、必死に生きるか、必死に死ぬかの二つの選択肢しか与えられない。
経験や知識の蓄積は、次の世代に受け継ぐしかない。だが、負の遺産も紛れる。人間社会は、相変わらず子孫にツケを残したまま借金を増幅させる。伝統的に「いまどきの若い奴は...」と説教じみた愚痴が呟かれるが、今では「いまどきの年寄りは...」と嘆かれる。医療が進歩し寿命が延びれば、年齢差はますます誤差に吸収されるだろう。そして、親よりも子供があの世へ先立つケースも珍しくはなくなるだろう。いくら長生きしても、知性と理性を同時に装備することは難しい。
歳を重ねるとだんだん一年の長さが短く感じられる。生きてきた年数に対して一年の占める割合が小さくなれば、それも自然であろう。子供は早く大人になりたいと夢を見る、大人はいつまでも子供のままでいたいと夢を見る。寿命というシステムの存在が、人生の果敢さを強烈に印象づけやがる。