2010-09-26

"経済発展の理論(上/下)" Joseph A. Schumpeter 著

ユーロ圏のように、流通の利便性を促進するために通貨を統一するという考えもあろう。しかし、ギリシャ危機はその考えに疑問を呈する。ギリシャ国家の財政破綻は、世界的に規模が小さいにもかかわらず、ヨーロッパを震撼させた。ユーロを導入していないアイスランドやイギリスも財政赤字で喘ぐのは同じである。ギリシャが独自の貨幣を持っていたら、流通レートを変えることで経済危機をヨーロッパに波及させることはなかったという意見も聞く。そもそも、ユーロ創設の過程で、貨幣の受け入れ準備ができていない国々にまで単一通貨を押しつけた経緯がある。欧州のリーダたちは、共通価値の幻想のようなユートピアにでも憑かれていたのだろうか?国々で貨幣が統一されていないのは、ある意味リスク回避になっているのかもしれない。それにしても、財政再建のために、神話に登場するイオニア海やエーゲ海の島々が売却されるという噂を聞くと心苦しい。世界的遺産は、国家の思惑の及ばないようところに置きたいものである。
もう一つ、国家危機と言えば、先日の中国との外交問題における日本政府の態度には呆れた。伝統的に危機管理に疎い体質を見れば、予測できる展開ではあったのだが...しかも、高度な外交問題の責任を他部門に押し付けるという前代未聞まで演じるオマケ付きだ!本当に地検が勝手に判断したとしても、そんな言い訳をする政府の態度は国家戦略が存在しないことを宣言しているようなもので、むしろ最悪だ。なるほど、この分野の地方分権化は進んでいるというわけか。
更に、大きな問題を露呈したのは、政府ばかりでなく一国に依存し過ぎる産業界の体質である。しかも、その相手国というのが、いまだ共産主義の旧体質に憑かれたままという恐ろしい現実がある。冷戦構造が終結したとはいえ、もはや平和ボケでは済ませられまい。おそらくリスク管理を怠ってきたのは、政府や産業界ばかりではないだろうから。さて、愚痴はこのぐらいにして...

本書は、経済学の古典としてケインズの「一般理論」と並び評されるらしい。近代経済学の巨人とも言われるヨーゼフ・シュンペーターは、20歳代にしてこの大作を書き上げたという。彼は「エレガンス」という言葉を好んだというが、これが優美な体系を具えた書かどうかは意見の分かれるところだろう。
シュンペーターは、社会現象や歴史現象などから分離した純粋な経済学の領域だけで理論立てようと試みる。その結論が彼の意図したものかどうかは別にして...種別すると、純理経済学という分野があるらしい。終始、批判に対する防衛的な態度で語られるあたりは、思いっきり批判に曝されたことがうかがえる。ちなみに、アル中ハイマーは、社会現象や歴史現象、あるいは、慣習性や心理学的要因などの多角的な観点を取り入れない経済理論に対して、批判的な態度をとる天の邪鬼である。本書に触れたからといって、その根本の考えが揺らぐわけではない。
しかし、だ!方法論として、どのようにアプローチするかは別である。経済現象の分析の第一歩として、社会学や歴史学との境界を明確にしようと試みることは悪いことではなかろう。何もかも複雑に入り乱れた状態のままでは客観的に考察するにも無理がある。社会学などのカテゴリー分析論がいったい何を解決してくれるのか?と疑問を持ちつつも、現実に分析しようとすれば、まず対象の定義や境界を明確にするところから始めるしかない。
古来、人類の歴史には、哲学的な難題を解明するために、数学的な公理から始め、徐々に抽象度を上げるという伝統的思考方法がある。すなわち、客観的考察の限界に対して、精神にかかわる主観的思考を組み合わせることによって、より実態に近づこうとする試みである。本書も、その流れを汲む分析の第一歩と捉えれば、経済学において貴重な存在と言えよう。その筋道が納得いかないにせよ、ここまで論理的に順序立てて考察を進める経済学書は珍しいかもしれない。
したがって、これを経済学書としてではなく、分析論における思考方法の参考例として読んでいる。

本書は、まず経済現象から、社会的現象、歴史的現象、政治的現象、自然現象などの外的要因を切り離すと宣言する。社会的現象とは人口増加や技術革新など、歴史的現象とは慣習的な民衆心理によって生じる行動など、政治的現象とは戦争や政治情勢など、自然現象とは気候変動などで、こうした影響をまったく無視するというのである。その前提を語る丁寧振りには、いくら前戯の大好きなアル中ハイマーでも「なに無味乾燥的なことを言ってんだ!」と愚痴をこぼし、一旦は「この本を買ったのは失敗だったか!」と思わせた。だが、そこは貧乏性の悲しい性、買った以上は元を取らないと気が済まない。そして、読み進むうちに、その感情は沈静化していく。
その主旨は、経済の内的要因だけで経済理論が構築できるならば、それに越したことはないが、その理論構築に限界があるとすれば、そこではじめて他の学問と連携すればいいということであろう。この分析論が実態経済から乖離する可能性を承知した上で考察され、経済学的思考の意義というものを認識させてくれる。ただし、解釈が偏れば、市場原理主義的な思想も見えてくるわけだが...したがって、社会現象や歴史現象などを無視しているという批判は適当ではないだろう。それらを無視した上で、純粋な経済理論がどこまで構築できるか?という問題と対峙しているのだから。
そして、本書の経済理論は未完成に終わる。当然と言えば当然であるが...著者も、理論としての本質が十分でないことを認めており、その結果、最初から意図したものではなかったと回想している。
また、「経済発展の理論」が第一次大戦前に発表されたことは注目すべきであろう。当時、アメリカは資本主義の新興国として、市場経済を武器に経済力で台頭してきた。その過程で莫大な富が集中したりと、市場原理的志向が強まりつつある時代である。経済発展の過程で、好況と不況の波が生じるは必然であって、その過程で恐慌現象の可能性を指摘している。つまり、世界恐慌を経験する前に、経済理論の観点から市場の暴走を説明しているわけだ。そこには、経済人の心理的傾向も考察されるので、社会学的分析とも言えるわけだが...
ところで、企業体や個人といったミクロ経済の観点で眺めると、それが常識的な行動であっても、マクロ経済で眺めると、たちまち矛盾が生じてしまうのはなぜか?群をなすと、まるで別の生命体に生まれ変わるかのように。そして、良くなるように考案された経済政策は、しばしば悪しき作用をする。科学現象では、単独の光子が粒子性を示すのに対して、光という群をなすと波動性を示す。個と群の二重性とは...それが自然法則なのだろうか?

1. 経済循環と経済発展
本書は、「循環」と「発展」という二つの経済過程を切り離して考察し、「発展なき経済」から循環要因を語り、続いて「発展する経済」のための必要な要因を語る。
まず、単純な循環経済では、自由競争や帰属作用によって価値の増殖があったとしても、それは根源的な生産要素である土地用役や労働用役などの価値変化に吸収されて余剰価値の存続する余地はなく、利潤も利子も発生しないとしている。そして、永続的な循環においては、失業という概念も登場しないという。
その一方で、発展経済では、連続的な成長というよりは断続的な飛躍であり、循環とは異質である。その要因は、企業者の「新結合の遂行」という言葉で説明される。ひとことで言えばイノベーションであろう。例えば、新しい財貨の生産、生産の新方式、販路の開拓、原料の新たな供給源の獲得、新組織の構築や体制の見直しなど、経済活動における効率性を求める行動である。つまり、企業者の革新的精神こそ、経済発展の根幹ということである。ここでは、滑稽な消費者の欲望という動機を度外視すると言っているが、企業者側の儲けを拡大する欲望と言ってしまえば、純粋な経済行為だけでは説明できないような気もする。だが、その欲望が生産の効率性と捉えるならば、純粋な経済行為なのかもしれない。つまり、自由競争に参加すれば、生き残りの原理が働き、自然に革新的な態度が現れ、経済人の合理的活動が生じるというわけだ。ただ、現実に、企業者は生産量の最適値を知っているわけではなく、試行錯誤で経験的に雇用量や生産財を調整しているに過ぎないのだが。
企業者は自社の効率性を求める行為を連続的に行っているわけだが、同時に新体制への移行や新興勢力の出現には反抗的に振る舞う。新しい風潮は最初から馴染むわけではなく、徐々に社会に浸透する。先駆者はいつの時代でも苦労するもので、追従者たちが新たな風潮を加速させることになる。したがって、新結合の遂行の効果は、連続的な成長として現れるのではなく、群生的なエネルギーの塊として現れることになる。
また、共産主義のような権威的な経済では、新結合の遂行が命令的で支配的に行われるが、資本主義経済では、企業者の購買力が重要だという。生産財を購入するには資本が必要であり、それを利益だけから捻出するのは難しい。そして、企業成長には投資が欠かせない。銀行から投資を得るにしても、信用が重要な役割を果たすことになる。したがって、資本主義社会では、信用を通じて購買力が創造されることになる。しかし、信用もまた社会的な慣習という性格が強く、純粋な経済活動だけで説明することはできないだろう。結論として、経済発展の根幹は、企業者の革新的精神から余剰価値が生まれ、その要素として利潤や利子概念が生じるとしている。投資循環の原理からすると、企業者利潤と生産的利子の存在は必要不可欠であろう。尚、利子にもいろいろな種類があるが、ここでは生産的利子だけを対象にしている。

2. 信用と投資
経済発展の源泉である投資循環では、貨幣の影響や銀行の信用問題を議論する必要がある。信用の根底にはすべての価値評価があり、どんな経済的評価においても、共通の指標とされるのが貨幣である。現実に、貨幣があらゆる物の価値の代価として使われ、バランスシートが示す評価もすべて貨幣換算される。したがって、貨幣価値の信用が、市場を支配しているといってもいいかもしれない。
銀行の信用問題では、慣習的な動機や財務実績などの評価が経済活動の指針となろう。銀行は、主に支払いの約束を貸し付けることによって所得を得るという業務を遂行する。つまり、銀行の本業は決済業務であり、銀行の信用が支払い手段を増加させる役割がある。企業者が財産を担保にできるならば、銀行からの信用を容易に獲得できるだろう。だが、こうした活動は本質的な動機ではないという。経済発展における企業者の意義は、現存の財産にあるのではなく、将来における生産価値にあるからである。将来評価を過去の実績に頼るならば、新興企業は成り立たない。だが、購買力によって得られる財貨を担保にするならば、まさしく信用を担保にすることになる。そして、銀行業務で最も困難なのは、企業の将来価値を評価する目利きということになろうか。借り入れができなければ、企業は設備投資や業務維持も難しいので、信用が産業発展に貢献することは明らかであろう。だが、将来の企業評価の重要な要素に経営陣の能力があり、その評価も主観的にならざるをえない。そこで、企業の将来評価を示す役割を果たすものに金融市場がある。本書は、「発展なき経済」では金融市場は存在しないだろうという。金融市場が正常に機能すれば、経済情勢の天気予報ともなろうが、実際には複雑なデリバティブ商品などによって、貨幣の移動量が実態経済を上回る勢いで煽られる。金融市場が金融関係者によって信用を失墜させるとは、なんとも皮肉である。経済循環の域を脱する経済発展とは、信用に基づくものであり、これが資本主義の基本原理ということであろうか。
投資循環においては、まず、企業者は債務者になるのが原理的にある。そして、銀行の貸し付けに対して、企業者は利子を付加することによって信用金額を返済することになる。銀行も企業者も安定した信用を得ようとすれば、銀行はお得意様に利子率を低くし、企業者は購買力における利子を長期的に流通過程にとどめるだろう。信用が低ければ、担保評価も厳しく利子率も上昇する。経済発展が新興企業によってもたらされるならば、過渡的な時期では産業界の構図は信用のインフレ状態となろう。だが、取引を重ねるうちに信用を獲得する企業だけが生き残り、いずれは信用のデフレ状態となろう。不良債権が生じるのは、産業発展の過程においては、ある程度覚悟しなければならない。だが、現実には、信用評価は貸付け側の権利である。銀行は信用確率によって絶対に損をしないように調整することができる。万が一失敗しても、大銀行が潰れたら社会への影響が大きいという理由で、真っ先に公的資金が注入される。そうなると、銀行の信用評価がずさんになり、ことごとく周辺企業を倒産に追い込みながら、自分自身の保全だけが確保されることになり、信用バランスは崩壊するだろう。信用の均衡という観点からすると、銀行も平等に倒産させる方がいいのかもしれない。

3. 資本と資本主義
「資本とは、企業者の必要とする具体的な財貨を自分の支配下におくことができるようにする挺子(テコ)にほかならず、また新しい目的のために財貨を処分する手段、あるいは生産に新しい方向を指令する手段にほかならない。」
ちなみに、レバレッジとは、挺子(テコ)の働きという意味があるようだ。
資本の機能では、借入資本によって投資を行い、利子率よりも高い利潤率を見込むことになる。借入れ資本は、間接的に生産財の役割を果たす。だが、資本は生産過程では必ず生じるので、なにも資本主義経済を特徴づけるものではないという。
では、資本主義経済を特徴づける資本とは何か?本書は、資本を単なる資金や資材と捉えずに、購買力の基金や生産に向う財産と捉えている。生産財では、労働資本の重要性を認めることになろう。労働資本の評価では、賃金という貨幣手段を用いる。信用も流通量を示す貨幣量で評価せざるをえない。だが、資本は単なる交換手段ではなく、生産手段を調達するための目的として働かなければ、それは資本ではないという。つまり、「発展なき経済」では資本は存在せず、資本が生産過程に組み込まれて、はじめて資本主義が機能することになる。ここで言う資本とは、あくまでも私的資本であって、社会的資本は対象外としている。となると、資本主義とは、経済発展を目的として機能する私的活動ということになろうか。資本家も資本を持つ人であるのは間違いないだろうが、本書風に言えば、購買力や生産手段を目的とした資本を供与する人ということになろうか。
本書は、本質的な資本は永続的な生産手段となりうるので、それは購買力や創造力であるという。原料や消費財は生産過程で消滅し、道具や機械はいずれは廃れ破棄される。いずれも生産手段として転用されるが、これらは本質的な資本とは扱っていない。貨幣は、消耗することもなく、廃れることもないという意味では、連続的に人手を渡り歩く。貨幣そのものが生産手段になるわけではないが、生産手段として転用される部分は資本ということになる。ここに、貨幣と財貨が区別されるようだ。
「資本は特殊な動因であるが、それは言葉の通常の意味における財貨ではない。それは新結合を遂行する過程、方法を特徴づけるものである。」
こうして見ると、同じ資本主義でも、専門家によって資本の定義が微妙に違うことに気づかされる。

4. 資本と負債の区別
企業価値を評価する時、その資本額の尺度はバランスシートの借方に記載される総額で明示される。これは一般的な表記に過ぎないが、すべての資産は生産財になる可能性があるので、まったく無意味とも言えないだろう。企業の将来性の指標としては、生産性の創造力や流通手段における信用能力を見込む方が重要であり、これらを貨幣量として資産総額に加えることは難しい。ちなみに、ドイツ民法典では、資本を「営利のための貨幣量」の総額と定義しているという。ここで語られる資本は、バランスシートに現れる資本金と一致しない点も多い。こんなことは本質的なことではないのだが、借方と貸方の区別でずっと疑問に思っていたことが、この書で見かけられるのはうれしい。
本書は、資本は借方で負債は貸方に分類すべきだという。確かに、バランスシートでは資本は貸方に現れる。企業者からすると、資本を注入する立場なので、借方という解釈の方が良さそうに思える。株式が、返済義務が生じないという意味では、負債と同列というのも奇妙かもしれない。その分、資本家の監視の目がきつくなるという負担の意味での負債という解釈もできるわけだが。帳簿上の借方と貸方の区別は、本来的な意味があるのだろうが、現在ではあまり意識されないようだ。税務指導では左側と右側という捉え方で機械的に考えた方がいいと助言され、それに従っている。こうしたものは、論理的な解釈よりも、慣習的に是認されているとでも考えないと眠れなくなる。資本は、企業活動のために経費や資材などに交換されることになるので、帳簿上の右にあろうが左にあろうが、結局は相殺される。その区別が企業者の主観で区別されると、会計基準は成り立たなくなる。そもそも簿記の目的は、会計の明確化であり、むしろ税務的な役割が大きいと解釈している。企業成長を示すためのものであれば、PERやPBRなどの指標の方が有意義であろう。

5. 企業者利潤と労働賃金
本書は、労働賃金は労働の限界生産力によって決まるが、企業者利潤はこの法則の著しい例外であるという。労働力の確保にも競争の原理が働くならば、労働賃金もまた自然に決まるだろう。だが、現実には個人の価値観に委ねられるところが大きい。そうなると、利潤の定義は微妙となる。賃金を低くすれば搾取利潤が生じるが、これは本質的な利潤とは言えない。労働賃金に対する解釈も微妙で、企業者からの搾取と見るか、労働に対する報酬と見るかで世界観は変わってくる。
それはさておき、生産物価格が自由競争によって決定されるならば、利潤はひとえに生産効率によってもたらされるだろう。そして、企業者は利潤を最大限にするために、生産効率を上げようとする。
「発展なしには企業者利潤はなく、企業者利潤なしには発展はない。」
経営陣の報酬を規定できるものはないが、少なくとも労働者が社会保障に頼らなければ生活ができないほどの低賃金を強要して、経営陣が莫大な収入を得るような企業体は経済発展の弊害ということは言えそうだ。安定的で永続的な経済発展をもたらすには、経営者のよほどの倫理的資質によるところが大きいのだろう。

6. 利子の原理
利子は、現在の購買力に対する将来の打歩であるという。消費的利子や国家の信用需要も将来に渡って生じる。消費的利子とは、災害などの経済破壊によって生じる利子、あるいは、巨額な相続によって生じる利子などで、こうした利子は単純な循環経済においても存在するという。
本書が対象とするのは生産的利子で、それは新結合の遂行から生じるという。企業者利潤こそ利子の源泉であり、購買力需要の増減を媒介として利子の変動を引き起こすというわけか。もちろん信用需要にも影響を与える。
利子と物価の関係を眺めると、経済活動が活発になれば利子率が上昇し、そのために物価も上昇する。逆に、物価が上昇すれば利子に影響を与える。物価の上昇は、企業にとってはいっそう大きな資本を必要とするため、むしろ企業活動を鈍らせる。この場合、物価上昇が利子を引き下げることになる。したがって、利子の高い状態は、国民経済の繁栄の一つの指標となる。しかし、購買力の供給が大きくても、やがて需要によって吸収される。高度に発展した経済大国においては、利子が低いといった現象を見る。利子が高いということは、リスクも高いことを意味し、利子が低いということは技術が進んでいるとも言える。発展途上国の方が成長率も高く、利子も高くなる。となれば、利子の適正値は、国の経済力や技術力に依存することになろう。利子の基準だけでも、様々な見方ができ、それだけで利子理論の難しさがうかがえる。
本書は、利子は発展の成果に対するプレミアムではなく、むしろ発展に対する抑制要因であるという。同じことが株価にも言えそうだ。先進国の株価が発展途上国並に上昇すれば、それだけで異常を警告していることになろう。成熟した経済では、資金需要が枯渇していき投資効率も下がり利潤率も下がり、やがて、利潤はゼロに近づき利子率もゼロに近づくことになろう。となれば、資金需要の増加を継続しない限り、恒常的な価値増殖を形成することはできないのか?人口増加が続けば、必然的に世帯数が増え、需要はいつも創出される。生活レベルを維持するだけならば、生活用品はいずれ古びて買い替え需要が循環するだろうが、技術革新が続けば生産物の性能な品質も上がる。更に、競争の原理が続けば、いくら生産効率を高めても、やがて生産物価格は消費者の収入の範疇で買える価格まで下落し、利潤率は限りなくゼロへ近づくことになろう。

7. 景気循環の原理と恐慌
経済発展において景気の波が生じるのは必然的現象で、好況の原因は不況であり不況の収束のうちに好況の基盤が築かれるという。そして、不況を打開するには、新事業の出現が不可欠としている。新事業の生産物が市場に現れるまでに要する時間が、景気回復の鍵ということになる。
ただ、新たな企業者は慣習的制約を受け、新たな風潮を社会が受け入れるのに時間がかかる。新たな風潮が徐々に浸透すれば、追従者の参入を容易にし、群生的なエネルギーの塊として現れることになる。好況に向う本質的な要因は、資本投下と新企業の大量出現ということであろうか。逆に、好況を終わらせる要因は、過剰投資や過剰生産となろうか。
一般的にどんな不況も悪としたものだが、経済学的には、正常な不況と異常な不況があるということである。異常な不況の典型として恐慌がある。恐慌は、発展そのものを終結させ、多くの価値を崩壊させる。恐慌になる兆候が、すべての産業に一様に現れるわけではないが、パニックが加速すると正常な信用価値まで巻き添えを食う。恐慌の引き金になるのは、戦争や突然の保護関税の撤廃などの政治的問題もあれば、投機熱や過剰生産を煽るといった社会的問題もある。
では、純粋に経済学の領域で議論できる恐慌とは何か?本書は、投資が期待通りに利潤に結びつかない場合を考察している。つまり、あらゆる新結合の遂行は、難破する可能性があるというわけだ。しかし、企業者は、投資に対して成果が認められなければ、すぐにでも撤退するだろう。生産は出鱈目に行われるのではなく、あらゆる事態を想定しながら慎重に行われるはず。企業者たちはそれほど無能ではないだろう。こうした議論は、一部の会社の倒産で済みそうなもので、それが恐慌までに発展するのかは疑問である。とはいっても、現実に銀行家の過剰投資が金融危機を招いた例は少なくない。経営者たちは、なぜ暴走を黙認するのか?単に気づかないだけなのか?欲望に目がくらむのか?単なる楽観主義か?現実に人間社会には、それが問題の源泉と知りながら、都合の悪いことをタブー化する傾向がある。人間には、目先の不快なものが直接害とならない限り、見ぬ振りをする習性があるのだろう。
また、本書は、恐慌の処方箋についても考察しているが、ケインズとは異なる。その唯一の方法は景気予測の改善だという。つまり、正常な不況があることを認め、異常な不況から恐慌に至る前に事前に察知するということである。これは予防法であって解決策になっていないような...

2010-09-19

"雇用、利子および貨幣の一般理論(上/下)" John Maynard Keynes 著

ちまたでは、「無利子国債や非課税国債の発行」やら、「国有財産の証券化」やらといった発言で騒ぎよる。従来の国債と区別するようなものを創出すれば、国債そのものが暴落しそうなものだが。そもそも国債とは、国家の価値を証券化したものではないのか?国債の価値判断を複雑化することによって、国家の潜在的価値を誤魔化そうとしているのか?無い財源を捻出するには、無を有に装うしかないというわけか。まったく金融屋の発想である。...酔っぱらったド素人には、この程度にしか映らない。
まさしく、価値判断を複雑化する金融商品によって実体経済をあやふやにした結果、金融危機に陥れた。そもそも、市場経済の最大の問題は、価値判断がまともに機能していないことによる信頼失墜ではないのか?まさか、国家がそんな低次元の議論をしているとは思いたくない。しかし、どんな優秀な人間でもお金が絡むと、ころりと幻想に憑かれるから不思議である。
ついでに不思議と言えば、利子率が限りなくゼロに近づくことがあっても、マイナスになるというのは聞いたことがない。実質金利がマイナスになることはあるにしても。人間は希望の持てない未来ですら、なんらかの期待を持つものらしい。

本書は、あの有名なケインズの「一般理論」の翻訳である。まさか、この難解な書に手を出そうとは夢にも思わなかった。序文には、これを読むのは経済学の専門家であろうが、是非大衆にも読んでもらい議論に参加してもらいたい、といったことが記される。この一文がド素人を勇気づけてくれる。
政治や経済というものは、科学や数学よりも、はるかに一般社会に親密なはず。だが、経済学というと、専門家でしか議論できないことを大袈裟に強調し過ぎるのように映る。政治屋やエコノミストたちは、明らかに素人を蔑む傾向がある。だから肩書きを強調するのだろう。科学や数学では、専門知識が必要なのは明らかなので、理論提唱者が素人だろうが知ったこっちゃない。理論そのものにしか興味がないのだから。
本書の締めくくりは、なんとも印象的だ。
「経済学者や政治哲学者の思想は、それが正しい場合も誤っている場合も、通常考えられている以上に強力である。...誰の知的影響も受けていないと信じている実務家でさえ、誰かしら過去の経済学者の奴隷であるのが通例である。...実際には、直ちに人を虜にするのではない、ある期間を経てはじめて人に浸透していくものである。経済学と政治哲学の分野に限って言えば、25ないし30歳を超えた人で、新しい理論の影響を受ける人はそれほどいない。だから、役人や政治家、あるいは扇動家でさえも、彼らが眼前の出来事に適用する思想はおそらく最新のものではないだろう。だが、早晩、良くも悪しくも危険になるのは、既得権益ではなく、思想である。」
時代遅れのイデオロギーに憑かれた政治家が、庶民感覚と乖離するのは当然というわけか。尚、イデオロギーとは、理論が巧妙に宗教レベルにまで到達した状態を言う。

確かに、本書は「難解!」と言われるだけのことはある。ただ、おそらくエコノミストたちが「難解」と言っているのと少々ニュアンスが違うだろう。これは、利子率や貨幣量や為替レートなどの経済指数ばかりに目を奪われる一般的な経済理論とは違う。どんなに巧妙な経済政策を施しても、局面の微妙な変化によって、善にも悪にも作用するとさえ述べている。そして、経済循環の重要な要素として、消費者の心理的動機や慣習を加えながら貯蓄と投資を分析し、主に有効需要と雇用の関係を論じている。ここでは、市場体系を不完全な存在とし、ある種の複雑系として捉えている。中には、代数学的な考察もあるが、それほど難しい数学を用いているわけではない。ただ、現在の経済状況に照らし合わせれば、莫大な人口増加が労働人口を増加させ雇用変動をもたらすなど、不確定要素はますます増える傾向にあり、変数を少しばかり追加してやる必要がありそうだ。
当時は、投資家、労働者、金利生活者といった階級的にも住み分けがはっきりしていただろうが、現在では生活様式も多様化している。ちなみに、おいらは労働者で、経営者で、投資家で、金利にも生活を助けられている。要するに実体を複雑化して誤魔化す詐欺師なのさ...
経済現象に社会学的な心理学的な見解を少し取り入れれば、やたらと多くの条件や前提を仮定するのも仕方があるまい。本書を難解にしているのは、経済学的論理の範疇を超えて、経済人の価値観から不整合を感じるからであろう。したがって、おいらが言う「難解」とは、「一般理論」と宣言しているわりには曖昧な点が多く、おまけに哲学的な面も見せるので、様々な解釈を生むだろうという意味である。
「ケインズは死んだ!」と言われこともあるが、ケインズの悪評はケインジアンたちの歪んだ解釈によって広められたのだろう。ましてや、福祉国家原理主義者や社会主義者ではなかろう。そこそこ景気が回っている状況であっても、不況に陥る一部の産業分野が必ず存在する。新興産業の登場もあり、すべての産業の足並みが揃うほど経済体系は単純ではない。ケインジアンを自称する政治家たちは、好況局面ですら公共事業の必要性を訴えてきた。マクロ経済を運用する立場にありながら、ミクロ的な思惑で業界と結びつき既得権益を固守し、一般利益を犠牲にしてきた。そして、選挙に勝つことしか頭になく、政治に寄生する民間団体の都合で経済政策を実施してきた。この構図が、結果的にケインズ批判を助長しているのだろう。いざ大不況の局面になって、ケインズ理論を実施しようとしても、もはや処方箋が効くはずがない。好況も恐慌も区別なく資金を湯水のように垂れ流してきたのだから。まさに現在の財政赤字はそのツケがまわってきただけのこと。ケインジアン政治家たちは、平等という癒し系の言葉を巧みに操りながら国家財政を破綻させてきた。マルクスは「私はマルクス主義者ではない!」と言ったとか言わなかったとか、ケインズもあの世で「私はケインジアンではない!」と嘆いているに違いない。
あらゆる思想や理論は、歴史的背景から育まれてきた。ニュートン力学が通用しなくなったからといって、「ニュートンは死んだ!」などと叫ぶ量子論学者はいないだろう。ユークリッド幾何学が通用しなくなったからといって、「ユークリッドは死んだ!」などと叫ぶトポロジー学者もいないだろう。重商主義は、封建的束縛から農奴が解放されつつある時代に、慣習的な価値観に若干の客観的視点を与えた。自由放任主義は、市場において人間のできない価値判断を、自然法則に委ねる役割があった。ケインズ理論は、市場原理の不完全性を唱え、市場の暴走によって引き起こされる「恐慌」の処方箋として登場した。近年、市場原理主義に対抗して、またもやケインズの復活が囁かれるが、そもそも理論が生死を繰り返す学問自体がおかしい。経済学はもっと歴史を取り入れ、もっと過去の偉人に敬意を払ってもいいのではないだろうか。

本書は「ケインズ革命」と呼ばれ、新古典派理論の唱える自然法則的な楽観主義から、経済危機においては政府介入の必要性を説いた改革の書とされる。そこには、自由放任主義が暴走すると、失業状態から抜け出すどころか、むしろ負のスパイラルが加速するという人間社会の特性が分析される。そして、大方の結論として、雇用刺激策として思い切った公共投資の必要性を唱える。つまり、ケインズ理論は、市場経済が優勢な時代に、経済における政治の存在感を復活させたことになる。これには、政治家たちも勢いづいたであろう。公共事業を狂気的に崇めるケインジアン政治家たちの思惑と合致するのだから。しかし、本書は自由放任主義を完全否定しているわけではない。アダム・スミスや重商主義を擁護する記述や、「セイの法則」ですら機能する経済局面があると述べている。これは、新古典派理論はあまりにも理想主義に偏り過ぎているという批判書でもあるのだ。
ところで、ケインズ理論を最初に実践したのは誰か?アウトバーン建設や軍備拡張で大失業問題を解決したヒトラーという意見も耳にする。いや、エジプトのファラオか?確かに、権威的な国家計画を論じたり、ピラミッド造りを擁護するという弱点を露呈する。だが、それは本質ではないだろう。本書は、権威的な国家体制のもとで展開される経済体系ではなく、あくまでも自由主義的な資本主義的な経済体系を相手にしている。となると、最初の実践はニューディール政策ということになろうか。ただ、この政策がどの程度機能したかは意見の分かれるところだろう。結局、第二次大戦がアメリカ経済を立て直したという意見をよく耳にする。おいらは、大戦への参戦も、ニューディール政策の一環と見ているが...

経済学は「おニュー」がお好き!
近年、「ニューケインジアン」という言葉も登場したが、抽象度がほんの少し上がったぐらいにしか映らない。それを言い出したら、「ニュープラトン」、「ニューデカルト」といった具合に、あらゆる言葉に「ニュー」が乱れ飛び、世間は騒がしくしょうがない。「ニューニュートン」なんて言い出したら、酔っ払いはろれつが回らない。「新古典派」って新しいんだか?古いんだか?「新自由主義」ってどんな自由なんだか?大して新しくもないから、わざわざ強調するのか?...経済学者は寂しがり屋なのだろう。そう言えば、80年代頃に流行した「ニューハーフ」という言葉は、今も使われるのだろうか?

1. ジョン・メイナード・ケインズ
ケインズは、イギリスの超エリート階級出身で、大蔵省の主席代表としてヴェルサイユ講和会議にも出席したという。彼は、経済学者でありながら政治家でもあった。更に、数学的な考察が絡む。数学者G.H.ハーディは、著書「ある数学者の生涯と弁明」で、友人ケインズは数学者から出発していると語っている。なるほど、これほどの大作は、広い視野がなければ書き下ろすことはできないだろう。
ケインズは、ドイツの経済力からして、莫大な損害賠償金を課したことに危機感を募らせていたという。経済的に無理難題を押し付けた結果が、ヒトラーの台頭を呼び込むことになるのだから、歴史とは皮肉である。となれば、第二次大戦は、既にヴェルサイユ条約から始まっていたと解することもできよう。
本書が1936年に刊行されると、60年代には古典派から宗旨替えする経済学者が続出した。とりわけ、世界恐慌から第一次石油危機に至るまでの間はケインズ時代と呼ばれた。ニクソン大統領は「われわれはいまやすべてケインジアンである」と言い放ったという。だが、70年代になると状況は一変する。「小さな政府」への回帰を表明する新自由主義があらゆる政治政策の指針となり、グローバル化も手伝って世界中に蔓延する。そして、「ケインズは死んだ!」と言われるわけだが、現在においても、雇用と有効需要や利子率と流動性を組み合わせた経済理論で影響力を持ち続ける。ケインズ理論が、「大きな政府」を前提とした経済管理の理論であることは確かである。そして、マクロ経済学を確立したと言われる。だが、崇めすぎれば、個人の自立をないがしろにして巨大福祉国家を助長する危険性がある。資本主義は完璧なシステムではないが、これを修正しながら実態経済に近づけるのが現実的であろう。そこで、ケインズ理論が、どんな条件の元で機能するかは、近代経済を研究する上でも避けられないだろう。新古典派理論では、資源分配の効率性、パレート最適化の分析に焦点を当て、市場経済が自然法則的に収束してすべての問題を解決すると考えた。失業問題ですら、自由放任のもとで自然に解決されると信じてきた。しかし、市場経済の流動性を煽った結果、資金移動による利ザヤへの執念は狂気の沙汰となる。その狂気が、本来あるべき経済活動への意欲を弱め、資源分配に大きな歪みを生じさせた。「金持ちはますます金持ちに、貧乏人はますます貧乏に」という構図から抜け出せないのは、それが人間社会の特性なのか?

2. 消費と貯蓄
消費や貯蓄の動機は、心理的慣習や所得に対する個人的価値観といった主観的要因に大きく左右される。民族性や文化慣習でも違いが見られ、やたらと貯蓄する国民性もあれば、やたらとカードローンに頼る国民性もある。ちなみに、クレジット履歴がないと人並みに扱われない国もあるらしい。おまけに、クレジットスコアってものがあって、借金もないのにカードを使わないとスコアが悪くなり、それをカード会社が金融機関や自治体などに報告するもんだから、融資や賃貸に影響を与えるという愚痴も聞こえてくる。これは、利用者の信用をスコア化するという一種の合理性の例であるが、何か間違っているような...カード業界の陰謀か?そりゃ、クレジット詐欺も横行するだろう。
社会が安定すれば計画的な消費が生じるだろうが、不安定ともなれば計画性のない無意味な貯蓄も増えよう。消費は、社会状況に対する心理的要因に影響されやすい。となれば、安定した消費を呼び込むためには、将来不安を緩和した社会の構築を目指すことになろう。景気刺激策によって一時的な消費を煽ったところで、短期的にしか効果がない。それどころか、問題の先送りとなり、むしろ長期的には経済不安を煽ることになろう。更に、自然環境の変化や気候変動など、社会の不安要素は過去にも増して複雑化した。もはや、経済学しか学んでいない専門家が、的確な経済政策を打ち出すことはできないだろう。
貯蓄は、預金者に関係なく金融機関によって間接的に投資に使われるのだから、貯蓄の増加が悪いことではない。だが、将来に備えて貯蓄を増やしたところで、効率よく投資へ向かわなければ、ますます経済循環を悪化させるだろう。利子率が上昇すると、銀行から借り入れてまで設備投資をしようとは思わない。では、現在のような超低金利時代が続いていても、投資が一向に活性化されないのはなぜか?投資が利潤になる見込みが立たなければ、投資行動が鈍るのも当然であろう。貯蓄も無駄、投資も無駄、となれば、投機へ向かうのか?そして、あっさりとバブルが弾けるとなれば、ますます閉塞感に囚われる。利子率がどうのこうのという前に、革新的な社会がイメージできないところに根本的な問題がありそうだ。経済は、利子率だけで動くほど単純な構造をしていない。
本書は、消費が不変であれば、雇用の増加はただ投資の増加に比例するという。そうかもしれないが、消費が不変であるはずがない。更に、消費は比較的安定した関数になるとし、それを前提で理論を組み立てているが、はたしてそうなのか?このあたりにケインズ理論の弱点があるような気がする。豊かな社会になるほど、投資が浪費になる可能性が高くなるだろう。そして、豊かな社会ほど収入の右肩上がりは幻想となり、富の奪い合いへと移行するのかもしれない。だとすれば、草食系モデルは一つの地球人の未来像を提示しているのかもしれない。

3. 労働資本
伝統的に、労働者は賃金引下げに激しく抵抗する傾向がある。物価が下落しても、実質賃金が変化しないのであれば、経済的には問題はないはず。だが、抵抗する労働者の気持ちも分かる。名目収入が減るというのは、心理的圧迫も大きいのだから。ただ、おもしろいことに名目賃金ばかりに目くじらを立てるわりには、実質賃金には寛容である。
本書は、労働者が貨幣賃金の引下げに抵抗して、実質賃金の引下げに抵抗しないのは、それほど非論理的ではないという。つまり、賃金の引下げが段階的に行われるのではないかという将来的不安が生じるというわけだ。賃金の引下げが、社会不安を募らせながら消費にも影響を与え、結果的に資本の限界効率や利潤率も引下げるとなれば、不況作用がますます加速するだろう。だから、仮に賃金の引下げを実施するならば、これ以上下がらないという心理的水準を与えるべきだと主張している。確かに、理屈ではあるが暴力的な解釈がなされそうだ。
どんなに経済的に苦境に追い込まれても、年々右肩上がりの生活が保障されるとなれば、経済は活性化する方向であろう。しかし、将来が現在よりも酷くなりそうな予感がするところに、現代社会の抱える問題がある。
こうしてみると、労働資本は、他の経済要素に比べて硬直性が思いっきり高いことになる。為替レートや株価は日々変化するが、労働賃金の変化が単純に追従したら、それだけで社会不安を煽ることになろう。いくら市場に柔軟性があろうとも、その動きが速すぎて追従できない経済要素との間に常にねじれを抱えることになる。したがって、労働資本を柔軟に調整するためには、必然的に失業が生じることになろう。自発的失業や臨時労働者の存在は、硬直性の高い労働資本にわずかながら寄与していることになろうか。

4. 投資の限界効率とピラミッド造り
本書は、投資を最も重要な経済要素として位置付けている。投資をするからには貯蓄がなければならないが、資産のうちの投資と貯蓄の割合が論じられる。ここには、投資水準は、投資の限界効率の原理に従うという考え方がある。つまり、投資によって、利潤が現在から将来に渡ってどのように変化するか、その期待尺度にかかるという。投資の限界効率は、企業家の市場予測や長期的戦略にも影響されるだろう。投資関数は、主に長期利子率と利潤にかかわることになりそうだが、それだけではない。そこに、物価の上昇率や貨幣価値の変化などを加味しながら、他の要因にどれだけ依存するかと考えだすと複雑極まりない。また、投資水準が高くなると、貨幣流量の増加に及ぼす効果は減少し、投資の限界効率も低くなるだろう。過剰投資は単なる浪費になるつながる恐れがある。
しかし、本書は、恐慌時には、資本の限界効率を大幅に上回るような思い切った投資が必要だと主張する。その中で、ピラミッド造りでさえ容認しているような記述がある。
「古典派経済学の原理に立脚するわが政治家諸氏の教養が事態改善への障害になっている場合には、ピラミッドの建設、地震、そして戦争でさえもが、富の増進に一役買うかもしれないのである。」
更に、将来に備える貯蓄の拡大や、金融的準備金の拡大は、現存消費を圧迫させ、将来のための準備金も確保することが難しくなり、結果的に失業を助長すると指摘している。平たく言えば、将来に備えるために大きく投資しろ!というわけだ。ここには、公共投資による雇用拡大政策への正論がある。しかし、あくまでも所得と貯蓄のバランスの問題であって、借金を拡大してまで投資しろ!というのも受け入れ難い。豊かな社会では、これ以上何を建設するというのか?という批判的意見も多い。だが、本書は、それは民間投資や産業拡大と同じ理屈だという。これ以上産業を拡大してどうするのか?これ以上科学を進化させてどうするのか?と問うのと同じというわけか。
本書は、公共事業の効果は、深刻な不況下で発揮されることを論証している。資本主義は、増殖が止まった時点で終焉を迎えるのだろう。となると、人間社会は、革新の歩むを止めた時点で終焉を迎えるのか?破壊と創造が宇宙の原理だとすれば、人間社会自体をデフォルトするしかないのか?

5. 有効需要の理論
「消費性向と新規投資率が十分な有効需要を与えない場合には、現実の雇用水準は実質賃金における潜在的な労働供給量に満たない。そして、均衡実質賃金は均衡雇用水準の労働の限界不効用より大きくなる。」
有効需要は、総供給曲線と総需要曲線の交点によって決定するというお馴染みの理論がある。ただ、総供給曲線と総需要曲線は異なる。供給関数や需要関数も、国家や産業の事情によって、はたまた企業の事情によっても異なるし、各商品によっても異なる。おまけに、主役となる産業も時代によって異なり、新産業が創出される一方で旧産業が衰退するといった現象を繰り返す。本書は、こうした関係から全雇用量がどのように決定されるかを議論するが、明確な答えが見つかるはずもない。複雑さは人口推移にも影響され、どんな天才的な数学者をもってしても、これらの関数を導くことは不可能であろう。したがって、、一度目に成功した経済政策だからといって、二度目に成功するかは分からないということである。なるほど、経済政策のほとんどが、あまり効果を上げられないのも道理というものか。となれば、セイの法則が成り立つのは、まさしく二つの曲線の交点であり、古典派理論がいかにごく稀なケースで議論していたかがうかがえる。古典派理論にとって、失業とは均衡に至るまでの過渡的現象という意味合いが強い。現実には不均衡状態の方が普通であるが...

6. 流動性選好の理論
労働の全雇用量は有効需要の理論によって決定されるわけだが、総需要量は市場の利子率との関係も絡む。投資需要は利子率の変化で大きく変動するだろう。消費需要も、どの程度かは分からないが利子率とのかかわりがある。
本書は、流動性選好の理論で、雇用量と利子率との関係を考察する。
「利子率は貯蓄に対する報酬ではない。そうではなく利子率は流動性をある一定期間手放すことに対する報酬である。」
資産移動の手段は、債券、株式、手形、国債などまちまちであるが、特に金融資産の中でも重要な役割を果たすのが貨幣であろうか。ただ、本書の言う貨幣とは、中央銀行が発行する一般的な紙幣だけではなく、市場性の高い短期の金融資産も含むようだ。かつて、貨幣量を調整する経済政策はそれなりに機能していた。現在、そうした経済政策があまり機能しなくなっているのは、複雑な金融手段が乱立するからであろうか。資本主義は、資本の流動性の円滑によって発達してきた。そして、経済循環を良くしようとすれば、流動性を煽ることになる。だが、過度の流動性は、生産収益よりも投機的収益を優勢にし、市場の価値評価は実態経済からますます乖離させてきた。資本主義は、経済循環の活性化や資産の流動性を煽った結果、その本質によって自滅するのだろうか?
貨幣保有に対する需要は利子率と所得水準にもかかわるだろうが、慣習的に保有するところもあり、必ずしも貨幣価値に対して合理的な行動が生じるわけではない。政治情勢や経済情勢が不安定ともなれば、元本を割らなければいいという安全志向も働くだろう。
ケインズは、理性的な財政政策と合理的な金融制度が雇用を安定させ、所得分配を平等化させると考えていたようだ。このあたりはケインズも理想主義的ではある。市場利子率は、貨幣需要が貨幣供給に一致するような水準に定まる方向にあるのかもしれないが、それだけでは説明できないだろうけど...

7. インドの根深い怨念
後書きには、訳者間宮陽介氏が興味深いことを記している。ケインズがケンブリッジ卒業後にインド省に勤務した頃、イギリスとインドの間に通貨を巡る摩擦が社会問題になったという。イギリスが金本位制だったのに対してインドは銀本位制で、ポンドとルピーの為替レートは金と銀の相対価格で決まる。イギリスの軍事費や国家公務員年金は、主にインドが負担していてルピーで支払われていたそうな。イギリス軍がインド国防のために存在するという名目で、軍事費の大半をインドに負担させていたわけだ。また、イギリスの国家公務員は、任期中に一度はインドに赴任する慣わしがあったという。インドのために働くという名目が公然となされ、退職後の年金はインドが負担するのは当然という感覚がイギリスに蔓延していたという。インド植民地支配は、歴史的に冷酷で残忍さで悪名高い。現在でも、300年に渡る植民地支配の怨恨は深く残っているらしい。間宮氏は、ケインズはこのことを不問にして、ただ為替レートの研究に没頭したあたりは、いかにもエリート感覚であると指摘している。そのエリート感覚に対する批判が、新興国アメリカで多くの経済学者の反発をかっているのかもしれないと...

2010-09-12

"経済史の理論" John Richard Hicks 著

今年のW杯でのメディア報道は、経済学的様相を見せた。ベスト16が出揃った時点で「欧州サッカーの危機!」と一斉に報じながら、ベスト4の段階になると「個のチームは時代遅れ!」と南米スタイルの限界を報じた。節操がないというか...「サッカーの専門家は国際経済の専門家ぐらい信頼できない!」と誰が言ったかは知らん!

実は、J.R.ヒックスの著者「価値と資本」を読んでみたいと考えているが、絶版中!復刊しているのを一瞬見かけたが、たまたま気が向かずに逃してしまった。手に入らないとなると、余計に燃えるのが禁断のなんとかというやつか...電子書籍の話題で盛り上がる昨今、古典の復活にこそ期待したい。

本書は、経済学を歴史に照らし合わせ、経済活動に慣習や宗教的観点を加えながら考察を試みる。ここでは「商人的経済」と表現されるが、現代風に言えば「市場経済を信奉する経済人モデル」とでも言おうか、その出現と思考の源泉を古代ギリシャや古代ローマに求め、ルネサンスや産業革命に至る流れを論じている。言い換えれば、金融的思考の勃興を探求しながら、市場原理だけを専門とする経済学者が登場した背景とは何か?という疑問と対峙していると言えよう。
訳者新保博氏と渡辺文夫氏のあとがきには、興味深いことが記される。それは、ヒックス自身が、前期の作品を後期において大きく修正したり、自己批判に至っているというのだ。「経済史の理論」は、ちょうど前期ヒックスと後期ヒックスの転換期を象徴する作品だという。彼が「一般均衡と厚生経済学」に関する業績でノーベル経済学賞を受賞した時、次のように述べたという。
「そこからすでに抜け出してきた仕事に対して栄誉を与えられたことについては、複雑な心境である。」
偉い学者が自分の理論を検証し改めることは、自己を否定するようなもので勇気のいることだろう。本書が公刊された時、多くの経済学者から批難されたという。従来の経済学から脱皮し、政治学、社会学、歴史学、科学などの複合体であることに目覚めると、完全競争原理の仮定を放棄することが必要だと感じていくのだろうか?経済学が分化して専門馬鹿になっていく様子を皮肉っているのだろうか?偉大な経済学者の思考の変化を眺める上でも、自己批判の対象でもある前期の代表作「価値と資本」にますます興味がわく。自己批判というよりは、理論の不完全性に苛立っていたのかもしれないが...

商人的経済の発展は、経済活動をする人々を富ませてきた。そして、生存競争の名目において、あらゆる行為は正当化された。市場の浸透が暴走して武器の売買を促進すると、敵国を増強することさえある。わざわざ旧式の武器を売って、自国の軍事産業を活性化させる行為が公然となされる。
その一方で、経済交易が、文化交流や社会交流と同じように、互いの安全保障を強化する役割がある。交易相手が消滅すると自国経済を混乱させるとなれば、経済交流が民族的反目を緩和させることにも貢献する。したがって、民族的感情よりも、商人的欲望の方がグローバリズムに合っているのだろう。現在では、国家間の政治的結びつきよりも、商人的経済の結びつきの方が強いように思える。

経済理論に限らず、社会理論や歴史理論においても、体系的に説明できる場面があれば、説明できない場面がある。人間社会は自己矛盾のない単純な体系をなしてはいない。人間は、その人の立場になって考えられる時に、どのような行動をとるか想像を働かせることができる。逆に言えば、想定できない価値観に対しては想像が働かない上に、認識すらできないだろう。
貨幣量や利息あるいは資本理論といった価値観だけで経済理論が成り立つはずもない。だが、エコノミストたちは、ますます複雑な統計論の深みに嵌り、実存しないモデルばかりを持ち出す。ヒックスが生きた時代、経済学者はあまりに市場に浸り過ぎて、市場以外のものに考えを巡らすことはなかったという。相変わらず、金融業界は複雑な金融商品を開発しては実質価値を欺き、必要以上の流通量を煽る。現実逃避するかのように...
市場は、あくまでも価値評価を客観的なものに近づけようとする手段であって、社会混乱を防ぐための方策であるはず。物の価値を市場に委ねるということは、人間にできない価値判断を自然法則に委ねることである。市場原理が投資を活性化させ、経済発展に大きく貢献したことも事実である。となれば、経済学者の仕事は、市場をより完全に機能させる方法を模索することになろう。にもかかわらず、ますます市場は混乱の様相を見せ、経済危機の根源になっているのはどういうわけか?

1. 慣習経済と指令経済
原始的な仕組みに、慣習経済と指令経済の二つのタイプがあるという。いずれも純粋で極端なタイプであり、実際には中間的な形態が存在する。安穏な社会では民衆は慣習を重視する傾向にある。純粋な指令形態は非常事態でしか機能せず、専制君主であっても慣習を打ち破ることは難しい。それは企業組織でも見られる傾向で、一旦非常事態に直面すると共同体は軍隊のようになるが、いずれ民主的組織へと戻るだろう。複雑な民主的組織において、成功は完全な成功とはなりにくく、失敗も完全な失敗とはなりにくい。軍事体制が民主体制へ転換する過程で、だいたい革命や戦争の大敗といった経緯を辿るが、穏便に済むケースもある。
軍事国家は、他国を侵略すると、その土地を養わなければならない。征服地は占領すれば守るべき領地となり、かえって経済的負担となるかもしれない。かつて捕虜を奴隷として強制労働させた時代があったが、それでも奴隷を養うために税負担が必要となる。となれば、侵略的略奪は、自国の経済圧迫に見合うだけの利益がなければならない。
専制君主制では強制的に税負担を課す。だが、税負担によって社会が住み良くなるのであれば、強制する必要もないだろう。そして、税が完全に均衡すれば慣習経済となる。現実には、一部の人間によって搾取したり既得権益に固執するような動きがある。歴史的には、税は生かさず殺さずの精神で運営されてきた。官僚制が登場すれば、封建制よりも優れた体制に映っただろう。科挙のような官僚制は、試験によって広く民衆から登用され、貴族支配からの解放という意味では絶大な効果がある。しかし、民主的な風潮が根付くと、試験対策と出世欲に長けた人々が集まり、応用力のない硬直した組織となりがちとなる。官僚制に限ったことではなく、どんな組織でも大規模化や長期化の過程で腐敗が進むのが自然法則なのだろう。それは個人精神でも同じで、いかに自己検証を続けられるかが問われるのだろう。

2. 貨幣の起源
いつの時代でも、国家と貨幣制度は緊密であった。だが、貨幣の起源は少々意外で、国家が鋳造する以前から存在し、国家はその利便性を継承したに過ぎないという。それは、村落市場の集団社会に自然に登場する仲介者によって、財産の代替から始まったそうな。
古代から人類の価値観に、「価値保蔵」「価値尺度」いう概念があるという。家畜だって貨幣として扱うこともできるが、利便性に欠ける。金、銀、銅は、同じ自然鉱物でありながら、人間認識はその価値に重みをつける。貨幣が用いられると、金属の供給にも影響を与え、金属取引が活況となる。となれば、金属取引の独占者が経済を支配できる。ここに国家権力が目を付けた。そして、造幣局が製造したものに特別な価値を与える法律ができる。ここに、国家が後ろ盾になった貨幣の信用というものが確立される。
経済政策では、貨幣量を調整することが、経済を安定させる手段となる。逆に言えば、偽装貨幣を氾濫させて貨幣価値を暴落させるような極度なインフレを引き起こせば、敵国の経済を破綻させることができる。古代から、こうした策謀が企てられてきた。国家権力者たちは、自由経済や貨幣流通が、国家を窮地に陥れることを恐れてきた。したがって、経済の発展に商人たちを利用する反面、自由商人たちが迫害を受けてきた歴史がある。現在では、国家権力ですら及ばない市場経済が、巨大な怪物へと成長してきた。ウォール街の連中が、いまだにインフレに過敏に反応するのは、自分の財産価値の下落に怯えるからであろう。貨幣には、流通の利便性と裏腹に、欲望による策謀の機会を与えてきた歴史がある。

3. 空虚化する価値
貨幣が登場して以来、どんな政治形態であっても市場原理が存在したという。かつて、農業による生産階級と、それを税で搾取する領主が存在した。物の価値は、生産物に向けられた。やがて、経済の主眼は生産から流通へと移行し、物の価値も生産物という実体から貨幣という実体らしきものへと移る。更に、預金は小切手や手形で譲渡することができるようになる。小切手は振替えを銀行に指図する証書である。手形は小切手と似ているが銀行の保証付きで、手形を振り出した預金者に問い合わせることなく、持参者に支払われる。利便性を煽れば詐欺行為も生じ、財産を保護するための保険業が活況となる。純粋な価値には利息が加わり、おまけに保険料が加わる。現在でもコンピュータ業界が利便性をもたらせば、システム保護のためのセキュリティ業務が活況となる。これも安全対策という保険料を払っているようなものか。利便性とは、奇妙な付加価値をつけるものだ...
土地所有者が圧倒的に優位であった時代から、資本の所有者が台頭する時代になると、金融業界は、実体と仮想の差が分かりにくいほど儲かる仕組みを築き上げてきた。巧妙な制度が価値判断を複雑化させ、とんでもない金融商品を続々と登場させる。おまけに、その制度は政府の保証付きときやがる。専門知識を駆使して、世間に価値判断できないように武装してしまえば、それだけで社会を支配できる。収入を銀行に預け、決済能力を銀行が独占すれば、利率だけで経済を支配できる。農作物の流通や収入をすべて農協を経由するのであれば、農業は農協によって支配される。となれば、生産業者は販売ルートを自ら構築し、ローン決済も自らシステム構築したいと考えるだろう。
かつて、あらゆる工業製品を総合商社を通して購入すれば、様々な情報を得ることができた。総合商社には、製品スペックの比較や、より安価な製品など、企業戦略に必要な情報が蓄積されていた。それなりにマージンを取られる。だが、情報戦略が多様化すれば、総合商社を通す意味も薄れていく。流通ルートに独占的要素が減少すれば、価値を決定する市場経済の役割はますます大きくなるだろう。しかし、現実には、市場の混乱がそのまま社会混乱に直結し、市場に参加していない人々までも窮地に追い込む。いや、市場関係者はさっさと自己防衛に走り、無関係な人々に被害を押し付けたままだ。一部の連中の都合によって一時的に価値を釣り上げたり釣り下げたりすることは、専制君主が自らの利益追求のために価値観を押し付けているようなものである。

4. 金融の登場
ルネサンス時代になると、貨幣は金融と結びつき、その性格が変わったという。仲介業者の原理には利子の概念がある。古代ローマ人は利子をとることに良心を痛めなかったが、キリスト教の登場で利子は罪悪という価値観が生まれる。ルネサンス期に信用の概念も現れたという。それは、返済不履行で破綻した時の担保という形で現れる。契約は、法廷での判定材料として使われ、多くの訴えに対して裁判効率を上げる。担保物件が貸し付け価値よりも高ければ、債務不履行で債権者は得をする。そして、合法的に抵当権が執行される。無担保であれば、高利貸しが登場し、いずれにせよ生産活動をする人々を圧迫する。生産活動で国家経済を支えてきた人々は、資金面で仲介業者の風下に立たされてることになる。
金融仲介業者は、その立場上、中立でなければならないはず。プロテスタントの倫理がその立場を強調したが、宗教改革以前からそうした倫理的流れがあったという。その流れで登場した証券市場は、あくまでも仲介中立の立場を目的とするのだろう。商業取引は金融取引に発展し、利便性サービスの提供を金融業者が一手に引き受けるようになる。そして、証券業や金融業が高度に発達すると、無理やり取引を煽り、大量のマネーを動かし、高額なボーナスを享受する巨大な怪物へと変貌するわけか。彼らは、返済義務のない株式を登場させ、これを都合良く自己資本と呼ぶ。
ヒックスの時代、財産税や資本税が所得税よりも優れているという意見が多かったという。税の基本理念は公平性である。だが、財産を評価する手間もかかれば、正当に評価することも難しい。公平性を実践する上では、所得税は現実的なのだろう。消費税は、消費した量に対する課税なのだから、一見公平そうに映る。税の直間比率を個人の財力に合わせるという目論見であろうが、生活必需品もあれば贅沢品もあり、すべての税率が一律というのも疑問が残る。
いずれにせよ、税の公平性は国家が担い、価値評価の公平性は金融が担うことになる。これらをセットで制度化しないと、公平性は構築できないだろう。そもそも、金融は単なる仲介業者に過ぎない。銀行が利潤を得ようとすれば、預り利率は貸出利率よりも低く設定することになる。仲介業務は、投資先を見つけたり価値評価を第三者の立場で検分する役割を担い、それを仲介料や手数料とすることができる。やがて、銀行が国家へ貸し付けをするようになると、制度上の恩恵も受けられるようになる。債務不履行が発生すれば、国家が頼りにする銀行が潰れる危険性もあり、それだけで国家からの保護対象となる。
銀行は、無理やりにでも預金額を増やすことに躍起になるように映るが、本書は必ずしもそうではないと指摘している。預金金額が増加すれば、取付けの危険性が高くなるからである。金融の原理は、仲介業こそ基本であって、そこから乖離しつつある危険性を指摘している。

5. 奴隷労働から自由労働へ
本書は、商人的経済には階級がなく一見ドライな社会に映っても、従者的労働や慣習的精神と深く結びつくと語る。そして、奴隷制の廃止よりも奴隷貿易の廃止の方がより重要であると主張する。雇用主は、利潤率を高めるために労働賃金を最低水準に抑えようと考えるだろう。かつて、指令体制は階級社会によって形成され、封建社会も主従関係によって成り立ってきた。奴隷が子供を持って家族を形成すれば、主人は家族ごと養い、そこに主従関係が生まれる。だが、奴隷が転売されれば、主従関係の安定が崩れる。これも、労働市場に臨時労働者が増えれば、いつ解雇されるかわからないのと同じか。労働者を道具として扱えば、雇用主もいつ見限られるか分からない。ストライキも起こる。労働力が不安定であるのは雇用主にとって重要な問題である。したがって、労働者への福祉を導入した方が得策となる。現在では奴隷という言葉を使わないが、現実に大会社と下請け業者の間で微妙な力関係が存在する。結局、土地の所有から、企業体の所有、労働資本の所有、これらを独占しようとする脂ぎった所有欲は抑えられない。持つ者と持たざる者の関係は、永遠に続くようだ。
キリスト教以前ですら、ローマ法で若干ではあるが奴隷の保護を与えていたという。キリスト教が奴隷制の廃止を唱えているわけではないが、キリスト教的倫理観が自由の風潮を加速させたという。そして、15世紀のアフリカ航路が開かれるまでに、自由労働は確立されていたという。だが、異民族に対しては、厳しい人種差別が続く。
ここで注目したいのは、「自由労働が確立すると、自由労働はいっそう低廉になる」と指摘しているところである。結局、奴隷並の賃金に抑えられ貧困層はますます貧乏になり、資本階級はますます金持ちになるという構図は変わらないのか?プロレタリアートの中にも知識層が誕生し、労働者階級の中でも格差が生じる。そして、プロレタリアートの知識層が、知識を持たない労働者階級を扇動するという、ややこしい社会関係が生じる。プロレタリアートの知識層が、労働者から資金を募り政治活動をする。現在でも、労働組合が政治団体と化し選挙活動と強く結びつくが、こうした組織が労働者を代表しているとは到底思えない。労働賃金が上昇すれば、人件費が上がり、生産コストが上がり競争力を失う。民衆の生活水準が上がれば経済成長は小さくなり、国際競争力を失うというジレンマに襲われる。したがって、先進国ほど大幅な経済成長が期待できないのは自然であろう。高度経済成長期に見られるような給料の右肩上がりは当然であるという時代は、80年代末に終焉したと考えねばなるまい。

6. 産業革命と工業化の意義
経済的には手工業と商業は似ているという。市場向けの生産を行う職人は、同時に商人である。純粋な商人は買う物と売る物が同一であるが、職人は買った物を形を変えて売るという違いぐらいか。企業の経済活動の状況は会計上に現れる。製造業の会計方式と商業の会計方式の双方に、同一の勘定項目を見かけるのも、経済的には似ているのかもしれない。金融業の貸借対照表は、ちょっと異質だが...
商業の資本は、主として運転資本や流通資本といった回転資本だという。商業は、事務所や倉庫といった固定資本も使うが、これらは営業の中核をなす財の保管場所に過ぎないという。手工業では、道具は使ってもそれほど高価ではないので、原材料の回転こそが本質的な仕事である。
しかし、産業革命期に商業と工業には明確に違う現象があるという。それは、近代工業で固定資本が中核になったことである。固定資本財には、建物や運輸手段である機関車や船舶が中心となり、資本蓄財の拡大だけでなく設備投資の拡大がある。この現象は、産業革命と工業化に大きな意味を与えそうだ。金融市場が、有価証券の売買を円滑にし、資金の動きやすい状況をつくり、資金流通の基盤が産業革命を後押しする。だが、最大の根底には科学の進歩があると指摘している。それは、蒸気機関に代表されるような新たな動力源の発明である。科学の進歩は、産業界に異種交配といった相乗効果を生む。多くの工作機械が開発されると、戦争手段までも変えてしまう。
また、工業化が実質賃金を上昇させてきた。ただ実際には、実質賃金の上昇は工業化からかなり遅れているという。経済成長は労働需要よりも先行するのだろうが、過剰労働がなくならない限り実質賃金の上昇は起こらないらしい。古典派経済学では、資本を増大させるものすべてが労働需要を上昇させる要因になると考える。だが、工業の労働需要と強い相関関係があるのは、工業資本全体ではなく流動資本のみだと指摘している。実際には、流動資本は固定資本への切り替えがあり、結果として総資本が上昇しても流動資本が低下する場合があり、労働需要の伸びが鈍化することもありうる。新たな機械を導入すれば生産コストが低減でき、固定資本による生産効率が上がる、そして、機械が労働者にとって代わる。となれば、過剰労働は抑制されるかもしれないが、労働需要が上がるとは言えないだろう。
本書は、近代工業が景気変動に影響を受けやすく、工業労働者の失業が流動的であることを指摘している。その流動性を吸収しているのが臨時労働者ということになろうか。失業も必然的に生じるだろう。常雇労働者の賃金は固定費として扱われる。近代工業が固定資本に依存するとなれば、その要素自体が革新的性質を持たざるをえないだろう。設備は必要に応じて新たな機械と入れ替えられる分、革新的性質と言えそうだ。労働者を固定資本とするならば、労働者自身が革新的精神を怠ることはできいないということかもしれない。

2010-09-05

"生命保険のカラクリ" 岩瀬大輔 著

この手の本はだいたい立ち読みで済ますのだが、そうだろう!そうだろう!と相槌を打ちながら買ってしまった。なにしろ、むかーしの愚痴を代弁してくれるのだから...

生命保険と縁を切ったのは15年ぐらい前であろうか。初めて生命保険に加入したのは、1980年代の新入社員の頃、バブル時代の前である。生保レディたちが、昼休みに職場に居座り、飴玉やお菓子をばらまいて回る勧誘手法は今もあまり変わらない。当時は、誰もが生命保険ぐらい加入するものだ!という風潮があった。まだ高度成長時代の余韻が残り、給料も右肩上がりで将来設計のしやすい時代である。どこの生命保険会社を選んでも大した違いはないので、営業員の人柄で商品を選ぶのもそれなりに合理性はあった。だが、営業員の入れ替わりが激しい業界である。そのくせ「私どもに将来設計をお任せください!」などと自信満々に語るのが不思議でならなかった。所属会社とのつながりで某大手保険会社と契約したが、真っ先に経営破綻になろうとは...とっとと解約しといて良かったと胸を撫で下ろしたものだ。
当時、月々1万円ほどで「積み立て」付きの終身型保険に加入した。利回りが保障され、貯蓄できない人間にはうってつけの商品である。これを定年まで眠らせるつもりでいた。
ところが、だ!5年ぐらい経つと、「今ならガン保険が月々500円で追加できてお得です!」なんて言われたもんだから手続きしてみると、なんと!一旦解約させられて、新規契約の扱いになっているではないか。保障された利回りはチャラにされた。保険会社も生き残るために、契約条件を社会状況に追従させるのも分かる。だから、利回り保障を優先させたのに。以来、生命保険会社は信用できないという結論に達した。本書のカラクリを読めば、当時の判断が間違いではなかったことに気づかされる。愉快々々!

ちょっと前までは、「生命保険にも入ってないの?」と馬鹿にされることもあったが、さすがに今時そんなことを言う奴は滅多に見かけない。いまや保険業界の評判は「不払い問題」で地に落ちた。どっちが馬鹿にされるか、時代も変われば変わるものである。ここ数年、ボランティアで介護にかかわるようになってから、ますます生命保険会社への疑いが増した。
一日の通院費や入院費といった高々5千円ほどの給付金のために、高い保険料を払い続けるぐらいなら、自分で貯めた方が効率がいい。ガン保険などの特約なんて「高額療養費制度」の存在を知れば、わざわざ医療保険を民間会社に頼る必要のないことに気づくだろう。本書は、国の医療制度がそこそこ充実していることと、それが一般的に認知されていない状況があることを教えてくれる。ただし、今後の医療制度がどうなるかは知らん!民間の保険会社に比べればましかもしれないが...
生命保険会社は、国の社会保障制度をまったく説明せずに不安を煽りながら、必要のない「おまけ付商品」を複雑に絡める。考えてみれば、金融のプロでさえ説明できない複雑な保険商品に、生涯をかけて1千万円近く投資するのだから、なんと恐ろしいことか!何を根拠にそこまで信用できるのか?そうは言っても、若い頃はどうしても備えが追いつかないので、緊急時の保障が必要である。ただ、10年もすればそこそこ貯蓄ができて、その必要性も薄らぐであろう。あとは、死亡時の遺族保障と失業時の所得保障が気になるぐらいか。つまり、保障とは、「時間を買うもの」という解釈が成り立つ。一方で、貯蓄を、わざわざ怪しい保険会社に運用を任せるまでもない。他にいくらだって方法はあるのだから。
利回りの良い時代では、保険会社の安定利率や配当金にも魅力があった。だが、現在の超低金利時代では、配当金なんてものは、支払う保険料にあらかじめ上乗せされているか、あるいは、とんでもないリスク運営をしているか、でもないと説明がつかない。そもそも、保障と貯蓄では性格がまったく異う。保障は不慮の事故などの近い将来への備えであり、貯蓄は老後などの遠い将来への備えである。本書は、保険会社側から見ても、「保障はリスクの引き受け」であって、「貯蓄は運用資産の預かり」であるという。にもかかわらず、多種多様な保障と特約が一つのパッケージになっているところに胡散臭さがある。契約内容が完璧に把握できなければ、いざ支払われる時の請求にも困るだろう。となれば、不払い問題は必然的に生じることになる。結局、保険会社の言いなりになって、泣き寝入りするしかあるまい。契約時に、支払う保険料の内訳で、保障の部分と貯蓄の部分がどのように振り分けられるのか、などの仕掛けを聞いてもまったく教えてくれない。営業員は、ひたすら手作り資料で感情論に訴えるだけだ。これはリスクを隠蔽するための偽装か?資金運用という重要な商品を扱っているにもかかわらず、これほど情報を開示しない業界も珍しい。したがって、「貯蓄」と「医療保険」と「保障」は完全に分離して考えるようになった。おいらにとって保険とは、「保障」の部分、つまりは「かけ捨て」にしか興味がない。

そもそも保険業とは、「みんなで不幸に遭遇した人を助け合う」といった主旨から成り立つものであろう。つまり、保障が主な業務であって、「かけ捨て」が基本となる。みんなが支払う保険料の総額は、契約者に還元される総保険金の額と保険会社の手数料の額である程度は決まるはず。だが、貯蓄や配当金などの資産運用の業務が絡むと極端に複雑化する。資産運用ともなれば、公社債や株式、企業への貸し付け、不動産投資などの運用内訳も情報開示する義務が発生する。そして、保険会社の良心度は、すべての業務の手数料率によって、ある程度判定できるだろう。手数料率は、生命保険会社を選ぶ時の指標にもできる。
保険業界では、運用経費などに充てられる手数料を「付加保険料」と呼ぶらしい。そして、わが国の保険業界は、付加保険料の開示をタブー化してきたという。こうした情報開示は欧米の保険会社では当り前のようだ。売り手と買い手で大きな情報格差を抱えた業界が、長続きするはずがない。ちなみに、定期保険の付加保険料は3割から6割もあるという。
「株式投資に関するベストセラーを書いたある評論家は、テラ銭はパチンコ屋で2割、競馬で2割5分、宝くじで5割強、生命保険は、それらよりも悲惨なギャンブルだと評した。(山口揚平の時事日想)」
日本版金融ビックバン以降、続々と外資系が参入し、安価な保険商品を見かけるようになった。それは、従来の保険商品があまりにも高すぎたことを物語っているのだろうか?規制緩和したところで、大手生保系が自由競争に耐えうるだけの企業戦略があるとは思えない。
本書は、わが国の大手生保会社が抱える問題の本質は、情報開示を拒む体質と、高コスト体質にあると指摘している。あれ?そうなると奇妙なことになる。手数料率が開示されないとなると、純利益も分からないではないか。公開される貸借対照表も怪しいことにならないか?本書は、保険業界のPERのような指標はまったく当てにできないと言っている。業種別で情報格差があるということか?東証の上場基準も機能していないことになりそうだが...なるほど、上場企業の経営破綻が突然発覚するのも道理というわけか。

1. 日本人は生命保険がお好き!
日本人の生命保険加入率と一人当たりの保険金額は、他の先進国に比べても群を抜いているという。個人保険の世帯加入率は、日本の90%に対して、アメリカ50%、イギリス36%、ドイツ40%、フランス59%だそうな(2009年)。日本のGDP550兆円に対して、年間生命保険料40兆円は、7、8%の高い水準にある。公的な社会保険制度が不備だらけのアメリカならいざ知らず、なぜ?日本人はこれほど生命保険に執念を燃やすのか?日本人の安定志向は、貯蓄率にも現れる。なにも保険金で今より贅沢な生活を求めることもなかろうに...
日本人の論理的思考の欠如は方々で指摘されるところではあるが、一般的に「かけ捨て」は損という感覚がある。おまけに、ボーナス的にもらえる給付金や返戻金、更新時にもらえる配当金などが心を惑わす。
生命保険文化センターの調査によると、一世帯あたりの平均で年間45万円も支払っているという。20年間で1千万円近く支払う計算だ。人生で二番目に大きな買い物と言われるわけだ。本来、生命保険料は年齢とともに高くなるはずだが、一般的には払いやすさを考慮して、長期に渡って保険料を一律にする「平準保険料方式」を採用するという。そうなると、途中解約すると損した気分にもなろう。また、消費者は「キャッシュバック」という言葉に弱い。無事故だったら健康ボーナスがもらえる商品があると、なんとなく嬉しい。だが、こうしたものは、あらかじめ余分に保険料として組み込まれていなければ、経営が成り立たない。
日本では「一生涯保障!」「割安な保険料!」などのキャッチコピーが出回るが、欧米ではそんな広告は見られないという。「一生涯保障!」とは、その分保険料を多く払うことを意味し、「割安な保険料!」とは、その分保障範囲が狭まることを意味するだけなのに...

2. 護送船団行政と高コスト体質
日本の生命保険料は、商品によっては欧米の2、3倍だという。その原因は、欧米市場が自由参入を原則としているのに対して、日本では旧大蔵省が護送船団行政によって、厳しい規制を敷いてきたからだと指摘している。
2006年に保険業法施行規則が改正され、外資系や新興勢力が押し寄せてきた。ちなみに、著者が副社長を務める「ライフネット生命」は、74年ぶりに誕生した独立系生保なのだそうな。アメリカでは、生命保険業界が、早くから銀行、証券、投資信託などの厳しい競争に曝されたために、生命保険が十分なシェアを獲得できなかったという。日本では、銀行、証券、保険の相互参入を認めなかったために、業界別の縦割り行政で保護されてきた。生命保険料は税優遇もされる。
生命保険協会内には、加盟各社が集まって設けられる各種の委員会なるものがあるという。それは、社外秘級の情報を交換する慣れ合いの仕組みだそうな。そもそも民間企業という概念すらないのかもしれない。

3. 生保商品の流れ
欧米では貯蓄志向が強いのに対して、日本では死亡保障のニーズが高いという。アメリカでは女性の社会進出が進み、死亡保険よりも個人年金のニーズが高いそうな。日本では、女性の社会進出が遅れているため、遺族のための死亡保障のニーズはいまだに高い。それでも、1970年代までは保障市場は、日本も欧米並だったという。
従来の主力商品は、満期保険金と死亡保険金が等しい貯蓄タイプの「養老保険」だったという。30歳の時に60歳満期の保険金500万円の養老保険に加入すると、30年間保険料を支払うことで途中の死亡に備えることができる。そして、ほとんどの場合、満期に500万円を受け取る。つまり、貯蓄の性格が強い。
しかし、80年代頃から、貯蓄部分を薄くして死亡保険金が満期保険金の10倍や20倍といった高倍率の保障商品が数多く販売されたという。こうした死亡保障の大型化が進んだ理由は、核家族化で世帯の稼ぎ手が一人となり、遺族保障のニーズが高まったと説明されることが多いらしいが、実は、保険会社側の事情にあると指摘している。
80年代には、死亡保障に依存する商品は限界に近づき、新規契約の伸びも頭打ちとなっていたという。高齢化社会ともなれば、医療保障や年金保険へのシフトが考えられるが、医療保険は保険料単価が低いために、主力商品に据えるには物足りない。そこで、「定期付終身保険」が登場したという。

4. 「逆ざや」と「転換セールス」
保険業界の利益率は、日本の9%に対して、ドイツ3%、アメリカ2%、フランスとイギリス2%弱だという。この収益性を見れば、日本はおいしい市場だ。最近では、外資系生保の国内シェアが高まり、保険料収入の3割近くが外資系で占められるという。他の金融分野でも、これほど外資系がシェアを奪う例も珍しい。当時の事情を知る関係者は、「銀行、証券への米国勢の参入を防ぐために、生保が差し出された」と語ったという。
1997年、日産生命が経営破綻。続いて中堅生保7社が相次いで破綻。バブル崩壊後、金融緩和政策でほとんどゼロ金利となり、「逆ざや」が財務基盤に大きなダメージを与えた。当時、「逆ざや」問題の解消で「転換セールス」が展開されたという。過去に加入した商品で積み立てた保険料を振り替えて新しい保険に加入することで、一見保険料が安くなるように見せかけ、実は利回りの高い商品を解約させ、利回りの低い商品へ転換させるというやり方だ。昔、頭にきたのは、まさしくこれだ!当時、大蔵省は、転換セールスに問題有りとして、改善指導したという。
当時の生保営業員の言葉が紹介される。
「罪深いと思いつつ、給料のため転換を勧めている」
「転換しないと会社が苦しいからと朝礼で言われる。葛藤の毎日です。」
現場に罪意識があるような業界が続くはずもない。「逆ざや」が残した禍根は、2008年の金融危機で更に拡大させた。ちなみに、生保会社が契約者に対して保証し、保険料を計算する際に前提とする利回りを「予定利率」といい、運用実績が予定利率を下回ることを「逆ざや」という。
予定利率を高く設定すると、超低金利時代では、市場の長期金利より低いために利回りも低くなる。例えば、1985年に終身保険に加入した人は、生涯に渡って5.5%の利回りが保証された。だから、加入したのだ!それが、90年代になると予定利率が3%ぐらいになる。市場の長期金利国債でも1.5%程度。つまり、3%でお金を借りて1.5%前後の利回りでしか運用できない。90年代からの超低金利政策は、巨額な「逆ざや」で苦しめてきたことになる。80年代には死亡保険の市場が成熟し新規契約が伸び悩む。そのテコ入れで、予定利率の引き上げを推進したことに問題があると指摘している。素人にでも分かりそうな論理だが...
そして、高利回りの一時払いの養老保険や個人年金を拡販し、総資産を10年間で4倍以上に膨張させたという。それまでの生保は、低い予定利率で資金を調達し、高金利で安定した大企業向けの貸付で運用していたという。80年代に高利回りを約束した貯蓄性商品が爆発的に売れたこともあり、それに対応するためにリスクの高い資産運用へシフトせざるを得なくなった。まさしく自爆である。金融業界の破綻は、すべてこのパターンに陥るから不思議だ。巨額な資金は、人間を盲目にするらしい。
短期商品であれば、一時的な高利回りを約束してもリスクは限られるかもしれない。だが、20年を超える長期商品となると高利率を保証することの危険性は計り知れない。
では、その失敗のコストは誰が負担しているのか?それは、その後の新規加入者だという。生保各社は、「逆ざや」による大きな損を、死亡率が高めに設定される「死差益」で穴埋めしてきたという。「死差益」とは、保険料を決定する際に織り込まれる死亡や入院などの発生確率に比べて、実際の保険金の支払いが低かったことによって得られる利益である。本来、死差益は配当として契約者に還元されるはずだが...
19世紀の米国生保行政の礎を築いた立役者の一人、エリザー・ライトの言葉を紹介してくれる。
「生命保険は、文明がこれまでにもたらしたものの中で、悪党がもっとも利用しやすい、便利で永久的な巣窟であると信じるようになった」

5. 高額療養費制度
この制度が思いっきり認知度が低いのは問題であろう。おいらは、数年前から介護にかかわる機会があって知った。自己負担額に上限が設けられる制度で、標準的な所得層で一月当たり上限は10万円弱だという。例えば、ガンで入院して、治療に300万円かかったとすると、現状の健康保険では3割負担だから90万円となる。この場合でも、一月あたりの負担額は、10万円 + αが上限になるという。
ちなみに、「国保のてびき(平成22年度版)」には、医療費が100万円かかった場合の計算例が記載されている。自己負担額は3割負担なので30万円だが、自己負担限度額は80,100円 + 267,000円を超えた分の1%を負担。つまり、80,100円 + (100万円 - 267,000円) x 1% = 87,430円 。
こういうものを利用すれば、民間の医療保険に入る必要性をほとんど感じない。
一方で、アメリカでは、医療保険に加入できない人が多くて、社会問題になっているという話を聞く。オバマ政権の医療改革も、結局は業界に押し切られた形で中途半端に終わったようだ。そもそも、業界が巨額な選挙資金を提供しているのだから、業界の言いなりになるのも当然のように思えるが...

6. 保険数理と死差益
保険料を計算するための保険数理という数学がある。保険業界には、日本アクチュアリー会という保険数理の専門家集団が作成している「標準生命表」というのがあるらしい。ちなみに、アクチュアリー資格試験というのは、司法試験よりも難しい国家試験なのだそうな。しかも、プロの高い倫理観を持った集団だという。
どんなに倫理的な数値を算出したところで、利用する側が改竄すれば意味がない。保険会社は、健康な人たちを選びだして保険に加入させる。となれば、国民全体の死亡率よりも低くなる。日本の生保各社で用いる生保標準生命表の死亡率は、実際よりも20%以上高いという指摘もあるという。異常に高い死差益率に経済評論家が、気づくのも時間の問題であろうが...

7. 保険料のフローと責任準備金
基本的には、「受け取る保険料 = 支払う保険金 + 発生する費用」で運営される仕組みがある。つまり、資本コストゼロの投資というわけか。生命保険の資金は、7割が責任準備金だという。責任準備金とは、保険金積立金であり将来契約者に支払うべき負債性のものである。ちなみに、戦後、安定運用されるために、長期の設備投資や住宅建設資金の供給者として、政策的に活用されたそうな。
資金運用の内訳は、従来は企業への長期貸付が中心で、1980年頃は、貸付金6割、有価証券3割であったが、2000年前後には逆転して、有価証券が6割、貸付金が3割になったという。企業への貸付が大幅に減少した理由は、高度成長期の終焉にともない、企業の長期資金需要が低下したことや、金融の発展や国際化にともなう資金調達手段の多様化などがあげられる。わざわざ生保から資金を借りなくても、資本市場で増資や社債が発行できるようにもなった。
しかし、いまだに生保は、日本最大の株式投資家だという。その運用では、国内株式が一般勘定の30%以内、外貨建て資産が30%以内、不動産が20%以内という規制があるという。責任準備金は、本来、公社債を中心とした低リスクで運用されるものである。その運用実績は、金利状況に大きく左右され、そのまま保険料に影響を与える。長期金利が2%前後の状況では、国債中心の運用では利回りは期待できない。そこで、リスクの高い株式、外国証券などに資産の3割が占められるという。ますますギャンブル性が高くなっているわけか。