2010-05-30

"量子コンピュータ" 竹内繁樹 著

チューリングマシンが登場して半世紀以上、その集積度と性能の向上には凄まじいものがある。なにしろ、最近のパソコンの性能でも十年前のスーパーコンピュータ並なのだから。だが、その勢いも陰りを見せる。もはやムーアの法則が崩れようとしているのか?それとも、構造的変革が求められているのか?
量子コンピュータという言葉は、電子工学を超越した何かを匂わせる。名称からして量子論と結びついているのは言うまでもないが、その実現で不確定性原理と対峙することが容易に想像できる。コンピュータ工学は電子工学によって発展してきた。そしていま、物理量はどこまで微小なのか?という問題を扱う量子論と結び付く。そして、電子工学の役割は終焉を迎えようとしているのか?

コンピュータの構造は、メモリやレジスタといった状態の保持によって実現される。その基本は、0か1の状態を持つビット構造にある。大きな数字を扱うにはビット列を対応させ、n次元を扱うには複数のビット列の組み合わせを対応させる。もともと、コンピュータは数値演算の道具であり、その主な用途はデータ解析であった。オイラーの解析学のように複素空間を扱う場合は、実数部と虚数部にそれぞれビット列を対応させて、三角関数に投射しながら位相関係を解析したりと、擬似的な座標空間を形成する。フーリエ変換は、まさしく三角関数の直交性質を利用した解析法である。
もし、位相状態をなんらかの方法で直接制御できるならば、扱える状態も無数となり、演算効率が格段に向上するだろう。直交関係だけでなく、位相による相殺の関係に持ち込むことができれば、演算を単純化できる。位相状態を持ったもの同士で演算ができるとなると、並列処理も可能となろう。
量子コンピュータの基本を成す「量子ビット」とは、0と1を「重ね合わせ」の状態で保持できるものらしい。従来のビットに位相を加えてセットにしたようなものか。その鍵となる素子が「アダマールゲート」である。これは、量子位相ゲートのようなもので、複素数演算が数式のイメージのまま計算できると言おうか。しかも、位相の制御を、原子レベルのスピンやエネルギー準位でやろうというのだから尋常ではない。原子や電子レベルともなれば、不確定性に支配された「ゆらぎ」の問題があり、重ね合わせ状態を破壊するだろう。光子の偏向をスプリッタで分離したところで、一つ一つの光子の動きを予測することは不可能である。本書は「重ね合わせ」の概念を中心に語られるわけだが、そうなると確率論に持ち込まれることになろう。半導体素子にしても、バンドギャップ内で生じるキャリア効果が、フェルミ準位近辺で電子が移動できるかどうかの確率で決定されるのだから、似たようなものかもしれない。
コンピュータは1ビットでも怪しい動きをすると、破綻するシステムである。とはいっても、現在のコンピュータには誤り率が存在する。磁気装置や半導体装置などシステムの性質によって、誤り訂正符号を駆使しながら実用レベルに誤り率を抑制しているに過ぎない。完璧なコンピュータシステムがあれば、バックアップ機能なんて必要ないわけだ。よく分からないのが、量子コンピュータは理論的には100%の正しい解答が得られるという。従来の誤り訂正の発想とは根本的に違うのだろうが、にわかには信じがたい。本書は、「量子誤り訂正符号」という補正の仕組みを紹介してくれる。それにしても、人間が不確定性原理を凌駕しようとは、神に近づこうとしているかのように映る。
本書は、入門書ということもあって、ひたすらイメージで捉えやすいように配慮される。その分、肝心なところがあやふやな気がしてならない。構造的な話が中心であるが、もう少し数学的な解説がほしい。難しいものを、あまり簡単に説明しようとすると、余計に混乱することがある。難しいものは、素直にある程度難しく説明してもいいような気がする。ただ、量子コンピュータに少し興味を持つきっかけになったのはありがたい。もやもやした気分にさせて興味をそそるのが、本書の思惑なのかもしれない。モザイク映像が興奮を掻き立てるように、見事にアダルト戦略にしてやられた感がある。

コンピュータが解ける範囲は限られる。それは、計算によって導けるようにうまいこと問題設定がなされた場合のみである。コンピュータが哲学的問題を解決することはないだろう。すべての実数演算ができると信じるのは狂信的である。解けないものの方が多いのだから。コンピュータ工学を学んだ人は、実数演算をいかに近似で誤魔化しているかを知っている。たまーに、浮動小数点演算で答えが合わないと騒ぐ新人君を見かければ、IEEE754の意義を匂わせてやればいい。アラン・チューリングは、プログラムが停止するかどうかを決定する機械的方法が発見できれば、あらゆる実数演算が計算できると主張した。いわゆる、対角線論法によって証明された「停止問題」である。また、計算が可能であっても、計算量が莫大でスーパーコンピュータを使っても宇宙年齢を超える時間を要するような問題がある。本書は、数学で有名な「ナップサック問題」と「巡回セールスマン問題」を紹介している。こうした数学的問題で必ず登場するのが因数分解である。だから、暗号アルゴリズムに利用される。その有名な古くからの解法に、小さな素数で順に割っていく「エラトステネスのふるい」がある。とはいっても、500桁の素数をベースにすれば、たちまち限界に達する。
ところが、シェア博士は、量子コンピュータを使えば、計算量が桁数に比例する程度の時間で因数分解が解けることを発見したという。ここには、動作周波数を超えた発想がある。従来のコンピュータが論理的思考だとすると、量子コンピュータは直観的思考とでも言おうか。直観には、なんとなく並列的な発想があるように思える。もしかして、「量子並列性」とは直観のことか?

ところで、量子とは不思議なものである。かつて、光は粒子説と波動説で論争が繰り返され、やがて二重性で落ち着いた。アインシュタインは、光のエネルギーの最小単位を仮定した。光子とは、エネルギーの固まりを持った波といったところだろうか。光は電磁波の一種であり、電子や原子にも二重性がある。電流が流れると、原子の中で回転する電子は常に運動の向きを変える。電子からは電磁波が放射され、その分エネルギーは失われるはず。となれば、電子はだんだん原子核に近い軌道を描きながら、ついには原子核に吸収されはしないか?人工衛星が、大気との摩擦でエネルギーを失いながら徐々に地球に近づき、ついには大気圏に突入するように。だが、うまい具合に、電子波の波長で軌道が安定するから摩訶不思議!ここに宇宙の真理があるとすれば、すべての物体は、個体性と波動性の二重性があるのではないか?と考えてしまう。個々の人間が群衆エネルギーと化せば、もはや個人の性質を解析したところで全体像を把握することはできない。どんなに規制を強化したところで、悪事は干渉現象のように、ちょっとした隙間から回り込んでくる。これは、まさしく波動現象ではないか。もはや、一部の人間の政治力では、民衆の波を制御することはできないだろう。そのうち、人間社会を不確定性原理で説明する社会学者が登場するかもしれない。そして、社会学も物理学に吸収されるかもしれない。

1. 量子コンピュータは万能ではない!
おもしろいことに、量子コンピュータは、どんな問題でも速く解けるわけではないようだ。1 + 1 といった単純な計算でも、量子コンピュータを使うと、家庭用パソコンに遠く及ばないという。となれば、論理コンピュータと量子コンピュータが共存するような時代が来るのだろうか?人間の思考が客観性と主観性でバランスされるように。
量子コンピュータの得意分野は、因数分解やデータ検索などだそうな。インターネットなどの情報検索では、時間をかけて完璧な結果を得るよりも、だいたい正しいだろうという結果を高速に得られる方が有用である。検索キーが明確でも、検索しようとする思惑は検索者の主観に委ねられる。そもそも、検索結果が正しいかなんて検索者の満足度でしか計れない。こうした分野では確率分布が重要となる。高速性を求めると確率的なリスクを背負うことになる。そこで、ランダムアルゴリズムが効果を発揮する。とはいっても、擬似ランダム性に頼るしかないのだが...量子コンピュータが実現すれば、純粋ランダム性なるものが見えてくるのかもしれない。その先にリーマン予想も見えてきそうだ。様々な要素がでたらめに存在する複雑な社会では、正確性よりも高速性からある程度の実用性を求めるケースが多い。ただ、真理が多数決によって支配されると悲劇であるが...
アインシュタインは、不確定性原理を受け入れられずに「神はサイコロを振らない!」と言った。アル中ハイマーは、社会泥酔論を受け入れて「神の博奕好きには、困ったものだ!」と呟く。

2. 「重ね合わせ」と「もつれ合い」
本書は、重ね合わせを半透鏡で説明している。明るい部屋と暗い部屋を半透鏡で仕切った場合、暗い部屋では自分の部屋の光が鏡に反射する光よりも、明るい部屋から通過してくる光の方が強いので、明るい部屋の様子が見える。一方、明るい部屋では、自分の部屋の反射する光の方が強いために鏡のように見える。これがマジックミラーの原理である。
ところで、半透鏡で光を分離した後、再び重ね合わせようとすると、奇妙な現象が起こるという。それは、光の波長と経路によって、微妙な違いを見せる。二つの経路があったとして、最初に一つの半透鏡で二つに分離し、二段目の鏡でそれぞれを反射させて三段目の半透鏡で合わせる。そこで、二つの経路をまったく同じにすれば、位相差はゼロになるので完全に透過する。だが、経路差を波長の半分にすると、位相は逆転して完全に反射するという。つまり、経路差を微妙に調整することで、光の分離量を変えることができるというわけだ。波長と経路の関係は、マクスウェルの電磁気学で説明できる。光子を一つ一つ観察すると、でたらめに透過したり反射したりするのだが、全体としては、光子自体が分離されるのではなく、光量を分離していることになる。光が一定方向にしか進まなければ単純化できるが、現実には、光子や電子は様々な経路を辿るから厄介である。だが、波長に対して、微妙に経路差を調整することによって、確率的に考察することは可能である。これはトンネル効果における電子の透過確率に似ているような気がする。
本書は、「確率波」という考え方を紹介している。光子が存在する確率は、確率波の振幅の二乗で表されるという。これは、波のエネルギーが振幅の二乗に比例することに対応している。光子の経路確率だけとっても、安定した範囲はかなり絞られるだろう。ただ、安定位相を0, 90, 180, 270度の4つだけだとしても、演算効率は格段と増す。位相を反転するだけでnotも表現できる。コンピュータの構成要素として用いるためには、量子メモリや量子レジスタとして位相を保持できる仕組みが必要となる。となれば、量子コンピュータの実現には、この位相状態を、どこまで明確に予測できるかが鍵となりそうだ。従来のビット列は、ビット毎に独立した状態を保持する。だが、量子ビットでは、重ね合わせ状態を分離して、複数の量子ビットの関係を独立には扱えないという。となれば、量子演算素子は、量子ビットと重ね合わせ状態をセットにしたものになるのだろう。これが、「量子もつれ合い状態」というらしい。この「重ね合わせ」と「もつれ合い」が超並列処理を可能にするという。

3. 量子暗号
量子コンピュータで問題となる不確定性原理だが、量子暗号では、むしろこの性質を利用しているという。光子の偏光状態は様々な位相状態を持つために、一個の光子を観測しただけでは特定することができない。つまり、同じ偏光を持つ光子の複製は不可能ということらしい。光伝送経路において、途中で中継して光子発生装置で再送信したとしても、正確に情報が複製できないために、途中経路で盗聴されたかどうか容易に判別できるという。しかも、盗聴者の追跡調査も可能だそうな。これは、重ね合わせの状態をどのように設定するかは可能でも、どのように設定されているかは、不確定性原理によって第三者の解読は不可能という原理に基づいている。盗聴者から秘密鍵を解析することが、不確定原理によって不可能となれば安全性は高い。しかし、送信側の設定を何らかの方法で受信側に伝えなければならない。結局、どんなに優れた通信システムであれ、内部の人為的ミスや悪意からは逃れられないだろう。

2010-05-23

"はじめての構造主義" 橋爪大三郎 著

時々、「構造主義」という言葉にでくわす。社会学や歴史学の書籍ばかりではなく科学書ですら。その都度悩まされ、いつも読み流している。物理学の法則を「質量主義」や「物理主義」などと言っているようなものか?民族社会を分析する時、慣習や系譜などに着目して、抽象化しながら分類したり系統立てたりするのは普通であろう。偉い学者さんたちは、何かと大袈裟な専門用語を用いたがるようだ。研究の格式を高めようとするかのように。あらゆる事象を分析しようする時、構成要素を抽出して構造的に解析しようと試みるものであろう。したがって、ここで語られるものは、ごく普通の自然的な社会学に映る。
日本で「構造主義」が持てはやされたのは、1960年代から70年代にかけてマルクス主義が廃れはじめた頃だという。ヨーロッパでは50年代に流行したそうな。その火付け役になったのが、フランスの人類学者レヴィ=ストロースの著書「悲しき熱帯」だという。ちなみに、昨年、亡くなった(2009年10月31日, 享年100歳)と大々的に報じられて以来、「悲しき熱帯」を購入予定リストに挙げている。大作のために尻込み状態にあるが...

一言で「構造主義」といっても、その思想へのアプローチには様々な考え方があるらしい。それもそのはず、思想の解釈は極めて主観的であり、様々な解釈が入り混じる。後にマルクスが悪者に仕立てられたのも、マルクス主義信奉者たちの解釈がそうさせたと言ってもいい。マルクスは、「私はマルクス主義者ではない」と言ったとか...
思想観念のこうした事情もあって、本書は構造主義の生みの親と呼ばれるレヴィ=ストロースを中心に、その思考プロセスを紹介してくれる。だからといって、構造主義の具体像が見えてくるわけではない。多くの書籍や人物を紹介しながら、いろいろ考えてみてほしいと読者を励ましているかのようである。そもそも思想なんてものは、そんなものなのかもしれない。あらゆる思想を具体化すれば、必ず論理的弱点が顕になる。正確に示そうとすると、抽象的に語らざるを得ない。だから、誤解を招いたり暴走したりする。過激派が解釈すれば暴力的な革命と化し、平和派が解釈すればユートピアへ現実逃避する。共産主義者や社会主義者たちは、下級労働者を代弁するかのように装いながら、プロレタリアートの中でもエリート階級によって扇動する。
対して、構造主義は、その名前からして機械的な冷たい社会を印象付け、反人間主義の評判がつきまとう。従来の思想が主観性が強過ぎるのに対して、客観的な思想という捉え方もできそうだ。人間主義には、人類共同体のようなものを形成し、互いに協力するという思想がある。そこには、異民族や異文化どうしで対等という認識が前提にあるはず。だが、自らの思想を最高だと崇めた時に宗教化が始まり、他の価値観を否定し、極度の有難迷惑主義に陥る。本書は、構造主義こそ、人類学や言語学の方法で、共存の認識を広げようとしたものだという。

ここで注目したいのは、思想の源泉を数学に求めているところである。真理へ近づこうとすれば、人間精神にかかわる部分と宇宙原理的な部分に分かれる。西洋的価値観では、真理に近づくための二つの思考パターンがある。一つは宗教的な神で、啓示は聖書などによって定められる。もう一つは理性で、論理によって組み立てられる。論理的思考では、証明という伝統的手法がある。一つの論理的証明が完成しなければ、次のステップへは進めない。これが、理性構築の基本的思考である。ただ、数学には証明抜きでも真理として崇められるものがある。それが公理である。つまり、公理が体系化の前提となっている。一度証明された数学の法則は永遠であり、数学のみが純粋な普遍性に支配されているように映る。したがって、あらゆる学問において永遠の価値観を求めるために、科学的に数学的に分析しようとするのも道理である。しかし、社会学や経済学で、都合よく数学が乱用されてきたために、論争の武装手段となっているのも否めない。
本書は、構造主義は幾何学と論理学をルーツにしているという。ただ、あらゆる思考の源泉を遡れば、ここに辿り着くような気がする。数学の源泉は幾何学にあり、非ユークリッド空間が登場するまでは、ユークリッドが理性の象徴のようなものであった。それに匹敵するのがアリストテレスの論理学であろうか。宗教的思想と数学的理性が対立しながら、科学を発展させてきた。しかし、真理は一つしかないと仮定したところで、個人が思考すれば各々勝手な真理の像を描く。それは避けられない現実である。そこで、カントの批判哲学は、時間と空間のみをア・プリオリな認識として、理性の源泉を説明した。非ユークリッド空間が登場して数学が混迷の時代を迎えると、公理主義から形式主義へと移行する。その筆頭がヒルベルトであり、この形式主義運動から「構造」の概念が生まれたという。形式主義の重要な概念の一つに射影幾何学がある。その源泉は絵画の遠近法にある。レヴィ=ストロースの根底には遠近法があり、その思考方法には、射影幾何学から形式主義、そして構造主義という系譜が現れるという。レヴィ=ストロースは、その経歴からも哲学的素養と訓練をそなえた人物だったそうな。

1. 「構造」とは何か?
構造主義を唱える人ですら、「構造」の意味を理解している人が少ないらしい。それも仕方がないだろう。明確に定義されたものはなく、レヴィ=ストロースも比喩的な表現しかしていないという。「構造」という言葉は、多くの社会思想で登場するようだが、どれも意味合いが違うらしい。ここでは、全体構造のような実体を想像しても、あまり意味がなさそうだ。
そこで、遠近法の登場である。遠近法は、遠くにあるものを小さく、近くにあるものを大きく描くことによって立体感をもたせる絵画的手法。つまり、二次元空間に三次元空間を感じさせるように欺瞞する世界である。奥行きを見せるためには、平行線を交わるように描けば、視覚的に錯覚が得られる。これはユークリッド空間に生きる人間の感覚を欺くもので、すべての平行線が無限遠点で交わることはありえないという認識の前提がある。そもそも宗教画は、神様のような価値あるものを大きく、価値のないものを小さく描くので、遠近法のような概念がなかったそうな。リアリティを求めるには、遠近法は合理的手段である。となれば、自分を描く時に自らの存在位置を意識しないわけにはいかない。人間の認識は、主体を客体として描いたり、客体を主体として描いたりする。視点の位置が変われば、正方形もいろいろな形に変形して見える。音源の位置を仮想的に与える擬似ステレオや擬似サラウンドも似たような感覚がある。まさしく、違って見える図形を一つの変換群として抽象化するのが、位相幾何学や射影幾何学である。この位相変換群が「構造」というものらしい。つまり、異民族や異文化を理解するとは、視点を変えて観察するということである。それは、異民族や異文化を構造的な要素に分解して再構築すると、どの文化も似通った形で再現できるという意味だろうか?そして、分解できる要素は、言語学的あるいは生活様式などに現れるということであろうか?ただ、生活様式や慣習を抽象化して、あるパターンを見出そうとする試みは、何も真新しい手法には感じない。しかし、レヴィ=ストロースの特徴は、「構造」の源泉を民族の神話に求めているという。

2. 構造と神話
神話には、宗教的な性格や思考の流れの法則のようなものが現れやすい。日本人は「水戸黄門」のような正義と悪がはっきり分かれていて、苦労の挙句に最後には正義が勝つというワンパータンを好む傾向がある。英雄伝説やおとぎ話には、民族固有の物語もあれば、似通った物語もある。似通った物語には、人類共通の価値観のようなものがあるのだろう。構造主義には、あらゆる民族が持つ神話をなんらかの置換群として抽象化できるという考え方があるようだ。とはいっても、正方形の要素は四つの辺や角で明確であるが、神話の基本要素となるとイメージが難しい。とりあえず、喜怒哀楽といった感情の要素を思い浮かべてみても、どんな時に喜ぶのかも価値観によって違う。共通意識として、親しい人が死ねば誰しも悲しむだろうぐらいなものであろう。だいたい神話自体が主観性が強く、そこに数学的構造を持ち込むのだから、なんとなく胡散臭い気もする。神話の視点を変えるだけで、同じように見せながら、抽象化するなんてことが可能なのだろうか?主観的思考を、角度を変えながら射影幾何学的に眺めると、客観的思考に見えてくるのだろうか?実は、主観も客観も人間の意識が勝手に区別するだけのことで、そんな区別すら抽象化できるのかもしれない。主観的思考を客観的要素に解体するというのだから、宇宙人的な変人的な発想である。レヴィ=ストロースは変人なのか?天才とは一種の変人なのだろう。

3. 音韻論
20世紀の言語学はソシュールに始まるという。ソシュール以前、言語学は歴史的研究に目を奪われていたが、ソシュールは言葉の意味に歴史はあまり関係がないという見解を持っていたという。
言語学は、音韻論、統語論、意味論の三つに分類されるという。音韻論は、言語がどんな音組織で形成されるかを分析する。統語論は、文法のことで言葉のつながりや配列の規則性を分析する。意味論は、意味として理解できる仕組みを分析する。ソシュールは、言語を記号システムとして捉えることで、音素を発見したという。音素は周波数で決定されるので、物理現象でも説明できそうなものだが、そう単純ではない。同じ発音でも人によって微妙に違う。一人の発音でも年齢を重ねると変化する。なんとなく音声認識とも関係がありそうだが、音韻論は音響学ではない。言語学にとって大切なのは、物理的な音の区別ではなく、人間がどのように区別するかだという。ソシュールは、恣意的な区別があると考えたという。確かに、同じ音でもまったく意味が違う単語がある。「酒」と「鮭」のどちらも美味いが、酔えるか酔えないかの差は大きい。人間の発声器官や口の形態は物理的に似通っていて、発声できる音や聞くことのできる周波数には限界がある。
ヤーコブソンは、二項対立の原理を取り入れたという。音組織は対立システムなのだそうな。ここでは、母音と非母音、子音と非子音、鼻音と非鼻音、密と散、無声と有声...といった対立性が示されるが、ちょっと強引やなぁ。ヤーコブソンによると、幼児が言葉を習得する音の順番も決まっているという。母音ならば、a,i,u、子音ならp,t,kで、これが母音三角形と子音三角形というものらしい。周波数のエネルギー分布で、密と疎、鋭と鈍の二つに軸で表現すると、見事に三角形を示す図を紹介している。この組み合わせは世界中で共通なのだそうな。

4. 機能主義人類学
レヴィ=ストロースは、ブラジルで原住民のナンビクワラ族やポロロ族などのインディオを調査した。そして、世界中の民族で、親族の基本構造に着目したという。ちなみに、親族とは、日本の親戚とはまったく違うもので、家族を超えた集団的特徴が生活様式や祭祀などに現れるという。アフリカでは親族の見事な枝分かれ構造が見られ、中国や韓国にも宗族や門中といった親族組織があるという。こうした親族組織は、日本ではあまり見られないそうな。日本人の民族系統でいろいろな説が入り混じるのも、そのせいかもしれない。
習慣や制度や宗教が、社会でどのように役立つか、その関連を「機能」と呼んでいる。つまり、「機能」とは、何かに役立つという意味で、目的と手段のかかわりを分析することである。機能主義人類学とは、人類学の伝統的な伝播主義や歴史主義とは対立する立場にあるようだ。構造主義も、歴史法則に支配された伝統的な思考とは一線を画し、機能に着目するそうな。しかし、機能主義や構造主義の弱点は、機能一点張りなところにあるという。目的と手段の関係は一列に並んでいるとは限らず、回り回って循環したりする。理由もなしになんとなく行動することもあり、すべての生活様式を目的という観点だけで説明できるものではない。レヴィ=ストロースは親族だけを研究しても、解決されないと考えたという。その機能的目的も、所詮ヨーロッパ的価値観でしか測れないからである。ヨーロッパでは、植民地支配能力から普遍的な価値観を持った民族だと自負していた時代である。

5. インセスト・タブー
近親相姦の禁忌という現象はどんな社会にも見られるという。昔から、遺伝子に悪影響を及ぼすという生物学的な知識があるわけではないが、無意識に獲得した普遍的な価値観のようなものがあるのだろうか?おまけに、父方の従兄弟は禁止で、母方の従兄弟なら奨励する部族も多くあるという。オーストラリアの原住民の一部には、婚姻クラスなるものがあって、ややこしい規則に従って結婚相手を決める風習があったとか。同じ近親相姦でも、その範囲は民族によっても様々というややこしい事情があるようだ。そういえば、英語でbrotherと表現しても、兄と弟の区別がなく混乱しそうだ。日本語のイトコにも、従兄弟と従姉妹があり、従兄、従弟、従姉、従妹と書くこともある。近親を呼ぶ時の抽象化は民族風習とも関係するのだろう。

6. 親族の基本構造
レヴィ=ストロースの仮説には、「親族は女性を交換するためにある。」というのがあるという。おっと!フェミニストから刺されそうな発言だ!
人間は生活を豊かにするために、物々交換から貨幣を手段とした取引など様々な交換システムを発展させてきた。そして、交換物品の価値に注目し、がらくた品を交換しても意味がないと考えるようになる。その一方で、お歳暮やお中元など心をこめるという風習が残る。交換する物品が重要なのではなく、交換という行為そのものが重要と考える風習は、様々な部族で見られるようだ。そして、部族の交流では人間自体が交換対象になる。贈り物の媒体も女性である場合が多い。この価値観は、戦国時代に、敵国どうしで血縁関係を結ぶことにも通ずるものがある。女性が他社会との交流の手段だとすれば、そこにインセスト・タブーという価値観が隠されているという仮説も成り立つかもしれない。考えてみれば、妻も姉妹も同じ女性なのに、姉妹は生理的に受け付けないなんて理屈も不思議である。だが、社会的交流の観点からすると、近親で結婚すると効率が悪いことになり、必然的に姉妹との結婚を避けるだろう。嫁に出すだけでは自分の種族が亡ぶので、迎え入れる必要もある。そして、人間社会を維持するために、必然的に種族が循環することになる。なるほど、女性が社会形成の根本を担っているという解釈もできそうだ。
しかし、だ!そもそも異なる部族で交流する必要があるのか?交換や交流には、信頼関係という根本原理が働くはず。そこには、種族の共存という本能が隠されているのだろうか?となると、国際結婚も意義深い。あるいは、単なる好奇心かもしれない。そもそも、必要性や目的といった認識がないのかもしれない。交換の動機には、利害関係といった意識のない純粋な時代があったのかもしれない。純粋な生き物は、ひたすら無意味を実践することに苦痛を感じないだろう。高度な文明社会は、なにかと目的意識に結びつける価値観がある。そして、交換システムの循環思考には、「情けは人の為ならず」という原理が働く。結局、他人に情けをかけておけば、巡り巡って自分に報いが来るというご都合主義に陥るのか?目的意識を持ち出したがために利害関係を認識するとは、なんとも虚しい。

2010-05-16

"そうだ、葉っぱを売ろう!" 横石知二 著

本屋を散歩していると、なんとなく心の和む写真が目に留まった。おばあちゃんのくしゃくしゃな笑顔!副題には「過疎の町、どん底からの再生」とある。
単なる事業の成功物語であれば、それもほど興味を示さなかったであろう。そこには、忘れかけていた大切な何かが暗示されているような気がする。それは、何を拠り所に生きていくかという根源的なものである。

電子メールや携帯電話に追われる煩雑な日々を過ごす中で、手段が目的化することがよくある。便利な社会になるほど、人々は手段や道具といった表面的なものに振り回される。政治のほとんどがその傾向を強め、終始表面的な議論に徹する。社会福祉や社会保障となると支援や補助金の方にばかり目がいく。
しかし、本書は、事業のあり方を通して「真の社会福祉とは何か?」を問題提起しているような気がする。成功のための事業ではなく、弱者である高齢者がいかに生き甲斐の持てる社会にするかという問題である。そこには、徹底した現場の視点がある。毎日、診療所やディサービスを利用するのが当り前となっては、生きる気力も失せるだろう。本書は、これを「気の空洞化」と呼んでいる。やがて、補助金のたかり方ばかり考えていた連中が、医療サービスを利用する暇もなく、商品の研究に余念がない姿へと変貌していく。全国で福祉センターのような箱物が続々と建設される一方で、この町では逆の現象が起きている。本書は、これを「産業福祉」と呼んでいる。人間は自らの居場所を求めて生きている。その場所を提供するのが、真の社会福祉なのかもしれない。

田舎というと、父の実家を思い出す。一人一人はとても優しくて良い人ばかりなのに、村組織となるとあまり良い印象がない。そこには、国家指導のもとで農協様に洗脳された姿がある。よそ者に対して異常な反感を持つわりには、中央から派遣された人にペコペコする。派遣された人は、特に地方に思い入れがあるわけでもないのに。選挙は宗教的な行事となり、支持者が落選すると裏切り者がいると叫ぶ輩までいる。改革的な意見はたちまち村八分にされる。こうした体質は若年層を町から逃避させる。農家の年寄りたちは高度成長時代に都会へ出稼ぎに行った経験のある人ばかりで、子供や兄弟のために生活を犠牲にしてきた。もっとも彼らは犠牲とは思っていないかもしれない。そうした光景を目の当たりにすれば、農業を捨てて経済的に有利で体力的に楽な職業に就く傾向があるのも仕方があるまい。自分の生まれた村を悪く言う人も多く、ますます農業は高齢者の産業となる。そして、主な関心事は補助金となる。国の洗脳政策に嵌ったといえば、それまでだが...
情報が少ない分、頑固にもなりがち。しかし、厳しい自然を相手取って生活をしているので素朴で逞しい。それだけに意識改革さえできれば、有望とも言える。
まさしく、本書の舞台は、このイメージにぴったりと嵌る。

本書は、著者が20年かけて成し遂げた2億6000万円規模のビジネスと、それを支える70歳、80歳のおばあちゃんたちの物語である。著者は農協の指導員として村に派遣される、いわゆるよそ者である。そのよそ者が民衆を意識改革してビジネスを成功へと導くわけだが、ビジネス規模などはどうでもいい。表面的には収入も増えて、めでたしめでたし!一般の企業家であれば、むしろそれが目的となろう。確かに、ビジネスとして成功したから美しい物語として完結できる。だが、労働者が充実できなければ持続しない。たとえ、売上を伸ばしても、経営者が満足するだけでは一時的な成功で終わる。成功の基準は目的によっても違ってくる。信念の持てるようなものがあれば、失敗しても無駄にはならないと信じたいものである。
本書は、なぜか?充実できるならば失敗したってええんでないかい!と楽観的な気分にさせてくれる。失敗ばかりしているアル中ハイマーは、成功への願望はもはや楽しけりゃええんでないかい!と諦めに変わった。だが、努力している高齢者たちの姿を見せ付けられると、自分の生き方が愚かで恥ずかしくも見える。それは、社会に役立つことの喜びをひしひしと語っているからである。なんとなく元気をお裾分けしてもらった気分である。

また、事業を第三セクターという形態にしていることにも注目したい。第三セクターというと、組織すること自体が目的となって、産業振興という看板倒れになっているケースばかり。そのほとんどが箱物行政の餌食となっている。それもそのはず、政治や行政あるいは企業の思惑を優先して、民衆の目線を無視するからである。日本社会は、政治、官僚、財界の魔のトライアングルに支配される。
ところが、ここでは第三セクターという形態を利用して目的を果たそうとしている。というより、農協という巨大な障壁があって、第三セクターにせざるを得なかったのかもしれない。著者自身が社長となって起業するという手段もあるが、あえてその方法を避けている。地方に密着しながら、農家の人々に直接出資者となってもらい、自立をうながすことを目的としているからである。こうした姿は、当り前と言えば当たり前だが、それが通用しないのが政治の世界である。純粋な目的で運営されるならば、第三セクターという形態も悪くないのかもしれない。

1. 株式会社いろどり
「葉っぱビジネス」とは、日本料理を飾る季節の葉や花、山菜などを栽培して、青果市場に出荷する農業ビジネスのことだそうな。これらの飾りを、一般的に「妻(つま)」とか「妻物(つまもの)」と呼ぶらしい。ただ、こういう商売をなんとなく考える人は多いのではなかろうか。紅葉の美しい季節に温泉旅館へ行くと、料理の中にそこで採ったモミジを添えてくれて、なんとなく癒される。こういうものを都会の割烹や料亭で出せば、商売になるだろうと思うことがある。
ただ、考えるのと実行するのとでは全くレベルが違う。最初の二年ぐらいは散々だったという。通常なら一年ぐらいで諦めそうなものだが、根気よくやったお陰でノウハウが蓄積される。日本料理には伝統的な知識が詰まっていて、単に花を添えて綺麗に飾ればいいというわけではない。客は、日常では味わえない、季節感や雰囲気を求めてやってくる。そして、葉っぱを見ただけで、どんな料理に出されるのか、その光景をイメージできなければならないという。そのセンスが、「彩(いろどり)」商品をレベルアップさせる。ちなみに、著者は連日の料亭通いでパンパンに太り、痛風になった写真が掲載される。これは二十歳の写真とは別人だ!おばあちゃんたちにも現場を知ってもらうために、高級料亭に招待した様子が語られる。しかも、すべて自腹で、結婚してから生活費を家にまったく入れず、親のバックアップで生活していたと告白している。嫁さんも文句を言わずに楽観していたそうな。一般的には親のすねかじりというと悪い印象を与えるので、なかなか公表できるものではないだろう。こうした文面には、目的のために見栄を捨てた著者の人柄を垣間見ることができる。何事も勉強するためには自己投資が必要である。意外と成功者の中には、誰かのすねかじりで下積みをしてきた人が多いのかもしれない。町の復興という目的を優先した結果住人たちを喜ばせたのだから、家族ぐるみで貢献したとも言えよう。
ただ、親のすねかじりが農家の人々にバレたおかげで、会社設立へとつながる。事業が軌道に乗り始めた頃、著者は40歳で自分の生活を見直して、農協に辞表を提出したという。それを知った農家の人々は慌てて役所に席をつくって引き留めると、今度は農協の販売ルートがボロボロになったという。そこで、農家の人々は役所に嘆願し、第三セクターという形態で会社を設立することになる。
事業が加速した要因には、マスコミの宣伝効果が大きかったという。一旦、販売が順調になれば、情報通信システムと融合できる。そこで、おばあちゃんたちにパソコンを普及させる苦労話も紹介される。ちなみに、希望者全部にパソコンを導入したことで話題になった村があったが、そこを視察すると、ほとんど使われていない実態があったという。目的が明確でなければ、どんなに便利な道具もただの箱となり補助金はばらまきで終わる。そこで、パソコンを改良して使いやすくして、POSシステムを導入したという。バーコード管理では、「ばあちゃんをコードで管理してどうするだか?」という冗談も飛び出す。今では、UターンやIターンの移住者が増え、人口減少に歯止めがかかったとさ。

2. 田舎町の意識改革
四国で最も小さい町の徳島県上勝町は、人口2000人余り、65歳以上の高齢化率48%という典型的な過疎と高齢化の田舎町だそうな。物語は、農協の営農指導者として派遣された著者が、よそ者扱いされて町民の大反発を買うところから始まる。よそ者が改革案を持ち出せば、決まって「内部事情を何も知らない奴は黙れ!」と一喝される。これは、農家に限らず、言葉の汚さに多少の違いがあるだけで、企業でも見られる光景である。集団意識の強いところやプライドの高いところほどその傾向が強い。著者も町から追い出されそうになったという。改革者のパワーは半端では勤まらない。アル中ハイマーのような根性なしは、あっさりと出て行く方を選択するだろう。
当時の上勝町は男性社会で、役場や農協で朝っぱらから酒をくらい、悪口ばかり口走る評論家になりさがっていたという。新たな作物に取り組んで失敗すると、営農指導員として責任論は免れない。ただ、素直に謝ると農家の人たちは寛容だったという。現場で共に苦労する姿は、歯の浮くような台詞で欺瞞する政治家たちとは根本的に違うことを、彼らも理解しているのだろう。
そんな時、大寒波の襲来で主要産業のミカンが全滅するという歴史的災害に見舞われる。もはや復興に待ったなし!「禍を転じて福と為す」とはこのことか。ただ、大変な危機に見舞われながら、のどかな雰囲気が漂い、純粋で野性的な光景がある。
当初、葉っぱをお金にするなんて発想は大笑いされる。そりゃそうだろう!辺り一面に落ちているのだから。そもそも、日本料理の必須アイテムといっても、「一見さんお断り」の高級料理店の感覚が一般庶民に分かるはずもない。葉っぱビジネスは、力仕事ではないので影で支えるおばあちゃんや女性たちを主役にできる持って来いの商売。しかも、秋が深まると大きな柿の木の葉が大量に落ちてきて、掃除するのが大変だったものが、金になる木へと変貌するのだ。
そう言えば、昔、祖母に、戦時中、田舎は貧乏だから山菜料理しか食べられなかったと聞かされた。そりゃ贅沢やて!と突っ込んだものだ。都会と田舎の価値観の違いってこんなものである。
成功の鍵は情熱や信念であろうが、成功の保証はない。人間は将来に対して臆病になりがちだ。人間の意識は、どん底まで落ちぶれないと、外部へ耳を傾けないのかもしれない。となれば、日本の政治はもっと追い込まれないと改革などできないだろう。少なくとも、今の政治家には全員退場してもらわなければなるまい。

3. 農協の役割
通常の農作物は、需要より多く採れると、出荷しても単価が下がり、それなりに売れるだろう。だが、「彩」商品は、需要を超えるとゴミになるだけ。使われる場を用意しないと成り立たない商売であり、生産管理と需要管理がシビアな世界のようだ。
本書は、「営農指導はいらない!」と訴える。営農指導をして、どんなに立派な作物をつくったところで、売れなきゃ話にならんと。
そして、「共済はしない!」と訴える。本来農協は、農家どうしで共済するための機関である。しかし、共済や保険よりも、まず売ることが先決であり、それが農協のためにもなるという。
こういう発言は農協の組合長からも叱られたという。なるほど、農協が政治家への影響力を増せば、なぜか農業が衰退するという構図も、分かるような気がする。

4. ごみゼロ宣言
「彩」商品は、紅葉がきれいに色づくす山奥でなければできない。水も空気も綺麗な田舎だから、調達できる品種がある。しかも無料で。
本書は、「田舎は超条件有利地域」だという。上勝町では、全戸で普及した生ゴミ処理器で自家処理させるという。上勝産ブランドの価値を高めるためには、ごみを出さない、処分場もない美しい環境が大切だから。
しかし、「ごみゼロ宣言」は、生活の安定が前提であると指摘している。福祉だ!環境保護だ!などと綺麗事を並べたところで、現実に生活の保証がなければ何もできない。廃れた町では、環境保護もできないと語られる。

2010-05-09

"リーマンのゼータ関数" 松本耕二 著

序章に「リーマンのゼータ関数の理論への入門書」とあるので、自らの能力を顧みず誘われてしまった。ちなみに、必要な予備知識は、微積分と複素関数論のみだという。確かにその通りだが、ε-δ論法で数学をとっくに挫折したアル中ハイマーにとっては不等式を見るだけで蕁麻疹がでる。本書にも、重要な場面でビッグオー記法を用いた近似の概念が盛り込まれる。原理の推論には、不等式を使った限界点を探る方法が有効だからである。
本書は、リーマン予想の動向を述べたもので、基本的な理論を中心に、そのエッセンスを紹介してくれる。

「ゼータ関数の自明でない零点の実数部はすべて1/2である。」
リーマン予想は数学上の有名な未解決問題の一つで、ゼータ関数は無限級数で定義された一種の複素有理関数である。この関数が注目される理由は、素数分布に関する本質を内包しているからである。素数といえば、直感的にまばらに存在し、数が大きくなるにつれて減少していき、やがて無くなるような気がする。しかし、永遠に存在することをユークリッドがエレガントに証明した。
では、次の疑問は、まばらに存在する様子に法則性があるのか?ということになる。リーマン予想では、ゼータ関数の解が複素平面上で実数1/2の直線上に無限に現れることを唱えているが、虚数値の分布状況については言及していない。ところが、虚数値の分布が素数の分布状況と重なる可能性があるとされる。その気配に最初に気づいたのが巨匠オイラーと言われる。おまけに、素数分布がランダム行列理論と重なるというから神秘と言わざるを得ない。もし、純粋ランダム性が宇宙法則に従った何らかの体系で説明できるとすれば、あらゆる複雑系の現象を数学で説明できるかもしれない。
更に、アル中ハイマーはリーマン予想を泥酔性と結びつける。「自明でない零点」を「記憶のない例の店」と置き換えれば、ゼータ関数の正体が見えてくる。例の行付けの店で、実際にコップ半分しか飲んだ記憶がないのに、虚空間では無限に飲んでいる可能性がある。そして、夜の社交場をまっすぐ歩いているつもりでも、いつのまにか例の店に何度も立ち寄る現象は、実空間で体感する直線運動が虚空間では螺旋運動をしている可能性を示唆する。この足取りこそ臨界線である。たとえベロンベロンに酔っ払った(発散した)としても、別の人格(定義域)では俺は酔ってないぜ!(収束している)と主張するのも、ゼータ関数が都合よく定義域によって変形する様を表している。そして、純粋ランダム性は、純米酒のまろやかさが体内に広がる様子とエントロピー増大の法則とで重なる。なるほど、泥酔者のランダム・ウォークをゼータ関数で説明できそうだ。
はたして、ゼータ関数 = 素数分布 = 純粋ランダム性 = 泥酔性という神秘の法則が成立するだろうか?

1. ゼータ関数とオイラー積
ゼータ関数を下記に示す。
ζ(s) = 1 + 1/2^s + 1/3^s + 1/4^s + ... = Σ 1/n^s
ζ(2) = (π^2)/6 は、オイラーの解いたバーゼル問題で、解にπが出現するところに神秘を感じる。
ζ(4) = (π^4)/90
ζ(6) = (π^6)/945
sは、今日では複素変数として扱うのが通例であるが、当初は実数で扱われた。
sを実数とすると、s > 1 の時、1 + 1/(s-1) で収束し、s = 1 の時、発散する。
オイラーは、ゼータ関数をオイラー積で表した。
Σ 1/n^s = Π 1/(1-p^-s), ただし、pは素数。
この式の興味深いところは、実数を成分とする無限和が、素数全体を成分とする無限積で表されることである。ここにゼータ関数が、素数と何らかのかかわりを持つと考えるのは自然であろう。

2. 素数定理
素数分布の漸近的挙動をルジャンドルとガウスが示している。両者の予想は、どちらも第一近似が次のようになる。
π(N) ~ N/log(N) : ~(チルダ)は近似の意味。
これが素数定理である。ちなみに、π(N)は素数個数関数であり円周率とは関係ない。
素数定理をビッグオー記法で表したものに、次の定理があるという。
x → ∞ の時、π(x) = li(x) + O(x・exp(-c√log(x)))
となるような、定数c > 0 が存在する。
ちなみに、li(x) = x/log(x) + x/(log(x))^2 + ... (n-1)!・x/(log(x))^n + O{ x/(log(x))^(n+1) }
O()がビッグオーで、引数が無限大に向かう時の関数の大きさに制限をかけている。つまり、O()は誤差項である。この誤差項の探求が、ゼータ関数の研究と結びつくようだ。
ところで、リーマン予想を仮定して、実数部を1/2にすると、
π(x) = li(x) + O(√x・log(x)) ...こんな風になるのかな???

3. 非臨界領域と「自明な零点」
sを複素数に拡張して、s = σ + it (ただし、i = √-1) と表す。
変数を実数と限定する限り、σ > 1 の時、ζ(s)は収束するので零点を持たないが、σ = 1 の時、無限大となる。ところが、複素平面に展開した途端に、その無限大の障壁が破れるという。つまり、実数での定義域が、複素数に拡張された途端に、未知なる次元の宇宙へと飛び出すというのだ。
更に、ガンマ関数で表すと、以下の式が成り立つという。
π^(-s/2)・Γ(s/2)・ζ(s) = π^(-(1-s)/2)・Γ((1-s)/2)・ζ(1-s)
ここで、s = 1/2 は特別な意味がありそうだ。1/2 = 1 - 1/2 で、両辺でζ(s) = ζ(1-s)となるからである。これは、1/2 を軸とした対称性を示している。
ガンマ関数は、実数部が正の時、Γ(s)は絶対収束する積分で表わされる。
そして、Γ(s+1) = sΓ(s) が成り立つが、これを実数部が負の領域でも定義できれば、複素数全体で有理型の関数として拡張することができる。その極は、s = 0, -1, -2, -3, ... のみで全て1位の極であり、また零点を持たないという。
変形すると、
ζ(s) = π^(s-1)・Γ((1-s)/2) / Γ(s/2)・ζ(1-s)
これは、右辺のζ(0)の値が定まれば、ζ(1)が求まることを意味している。
右辺の商Γ((1-s)/2) / Γ(s/2)は、s = 0,-2,-4,-6...で1位の零点を持つ。したがって、s = -2, -4, -6, ... の時、ζ(s)は零点を持つことになる。これが「自明な零点」である。
こうして、s > 1 と s < 0 の領域での考察を見ていったわけだが、逆に、0 ≦ s ≦ 1 の解明が困難であることが分かる。これが臨界領域である。リーマンは、臨界領域の中で、1/2を臨界線(クリティカルライン)として、非自明な零点はすべて臨界線上にあると予想を立てたことになる。
ちなみに、ガンマ関数の公式に、Γ(s)Γ(1-s) = π/sin(πs) というものがあるという。
ジョン・ダービーシャー著の「素数に憑かれた人たち」には、下記の式が記載されていた。
ζ(1-s) = 2^(1-s)・π^-s・sin((1-s)π/2)・(s-1)!・ζ(s)
なるほど、変形すると同じような形になりそうだ。ここで、1-s = -2, -4, -6, ... の時、sin成分が0となるので、ζ(-2) = 0, ζ(-4) = 0, ζ(-6) = 0, .... となる。

4. 臨界領域
リーマン予想を証明するためには、臨界線 s = 1/2 において左右対称性を示すので、1/2 < s ≦ 1 の範囲において、ζ(s) ≠ 0 を証明すればいい。しかし、臨界領域におけるζ(s)の挙動を定式化することは極めて困難!ここに値分布を解析しようと試みてきた数学の歴史を感じる。
ここで、次の定理があるという。
「任意の固定した 1/2 < σ ≦ 1 に対し、集合{ζ(σ + it)|t ∈ R}は、Cで稠密である。」
これを基に、有限和による様々な近似式や、ζ(s)の絶対値の大きさを求めるオーダー評価を紹介してくれる。
ディリクレ級数表示すると、こんな感じになる。
ζ(s)^2 = Σ{ d(n)/n^s }, ただし、σ > 1
d(n)は、自然数nの正の約数の個数で、約数関数のこと。これは、ζ(s)^2の平均値である二乗平均値は、約数関数d(n)と密接に関係することを示す。また、ディリクレの漸近式から誤差項を求めている様子も紹介してくれる。
リーマン予想は、誤差を定式化するという最も難易度の高い分野と言えそうだ。
ところで、リーマン予想は、実数部が1/2と言ってるだけで、虚数部については言及していない。本書は、虚数部が正の零点を、p1, p2, ...とし、pn = βn + iΓn とすると、次のように近似できるという。
Γn ~ 2πn/log(n), n → ∞
Γnの挙動は、臨海領域において、1を法とした一様分布であることが分かっているそうな。

5. リーマン予想を前提とした研究
「零点密度理論」という研究分野があるという。あくまでも、リーマン予想が正しいという前提で存在する分野だそうな。歴史的にも、定理が正しいという前提で進められる様々な研究がある。定理が反証されれば、すべて無駄に終わるわけだが、数学者たちはこうしたものに人生をかける。純粋な探究心がなければ持続できるものではなかろう。自然科学は、こうした研究者の地道な努力によって成り立っている。中にはフィールズ賞やノーベル賞といった輝かしい表舞台に立つことのできる偉人もいれば、世間から認識すらされない偉人もいることだろう。たとえ無駄な研究に終わっても、科学への貢献という意味で差別できるものではない。名声や賞金目当てに、政治的にうまく振る舞える人ほど有利であるのは、どの世界でも同じだろうが、偉人はそうした偶然性で得た名声をそれほど意識はしないものらしい。巨匠オイラーは、真理が覗けるのであれば、その功績が誰のものであってもええ!というようなことを述べたという。

2010-05-02

"珠玉の電気回路200選" EDN Japan 編

本書は、EDN Japan誌の「Design Ideas」で過去7年間の掲載記事から200を厳選したものだという。副題には「世界のエンジニアが生み出した」とあるので、高級なレベルについていけるか不安であったが、意外と単純なアイデアばかり。「単純さにこそ、崇高さがある!」というわけか。そこには、教科書に載ってそうなお馴染みなものから、実装のためにちょいと工夫したもの、あるいは回路テストのための便利な道具などが紹介される。中にはロジック的なものもあるが、ほとんどアナログ的な話題で、昔、真剣に悩んでいた問題も登場する。組織名や個人名も記載され、発案元がはっきりしているとは知らなんだ。ただ、年代が明記されないのが惜しい!こうした趣向(酒肴)は、アル中ハイマー世代に何やら懐かしいものを感じさせる。
今宵は、昔のくだらない体験談を語ってみよう。ちなみに、おいらはデジタル技術者である。いや!ほとんど設計もせず、ネットワーク整備や些細なスクリプトを書くぐらいなもので、その実体は雑用係だ!もはや流行技術にもついていけない。最近は教育係を仰せつかるので、暗に引退勧告されているのかもしれない。したがって、ハードボイルドをモットーに、ソフトなピロートークを持ち味に生きるのであった。

アナログ技術から逃げ回っていたおいらは、厳密にアナログ回路を設計したことがない。とはいっても、20年以上前は、実験室でアナログ技術から完全に逃避することはできなかった。実験レベルでは、いつも便利な素子を探してきて、それを使いまわすことに専念すればいいのだが...いずれアナログ技術は、すべてデジタル技術に置き換わると叫ばれた時代である。それが現在では、アナログ技術者の方がはるかに重宝されるから皮肉である。
デジタルシステムとはいえ、レギュレータぐらい使わないと火が入らない。安定化電源はシステムの命であり、リセット動作は確実さが求められる。電池動作ともなるとちょいと工夫が必要で、電池駆動の小型システムだからといって馬鹿にはできない。電源オフ時に、マイコンを動作させてEEPROMやフラッシュメモリにバックアップさせたい場合などは、遮断回路にも気配りする。デジタル回路はノイズ源でも悪名が高く、迷惑をかけないように気を使う。システムが複雑化すれば、電源シーケンスを疎かにすると、ラッチアップや過電流の原因ともなる。些細なところでは冷却ファンも耳障りだ。
実験用の周辺回路では、振幅や周波数、あるいはデューティ比を制御できる発振回路や、モノマルチを使った簡単な信号発生器が重宝する。ピーク検出器も、カットアンドトライをやる時に便利だ。デジタルシステムではビット誤り率を計測する道具も必要だ。今では、通信用LSIなどで似たような発想が見られ、誤り情報などの統計情報を収集する機構が組み込まれる。オペアンプは様々な用途に使える便利な素子であるが、その構造すら理解できずに、参考書や先輩のやる事を見様見真似で試していた。熟練者を観察していると、しばしば感心させられる。理論は単純でも、実用レベルとなると、職人とも言うべきおもしろい工夫が見られるからである。ノイズ対策はもちろん、入力インピーダンスの高いアンプともなれば静電気も問題になる。過電圧や過電流の保護といった安全面も考慮される。システムが小型化すれば消費電力の問題も大きく、部品削減といったコスト面にも気を配る。本書は、そうした些細な工夫でありながら、重要な技術が満載である。

デジタルLSIを設計するにしてもシミュレーション技術のしょぼい時代で、大型汎用機を使っていた。汎用機は会社の持ち物のくせに、管轄が違うだけでCPUの使用時間で課金され、別途予算をとらなければならない。おまけに、検証パターンの長さも今では信じられないほど短く制限される。したがって、実際にロジック素子を繋いで実機テストを行うのが必須だった。1万ゲートクラスでも、すべて汎用ロジックで組み上げるものだから、数十枚のユニバーサル基板を筐体に収納する。今風に言えばブレードコンピュータのような格好をしている。実機と設計情報が一致しているのを、どうやって保証するのか?という余計な問題も生じる。ちょうどプログラマブル・デバイスが登場した頃で、まだ実機に耐える性能が出せなかった。
経験的には、最初に火を入れた時、回路動作がまったくしないのと、回路動作はするんだけど微妙におかしな動きをするのとでは、後者の方が厄介である。まったく動作しない時は単純なミスであることが多いが、微妙に動作する時は微妙なミスが介在するので、その発見も困難になりがち。実験机ひとつにしても、スチール製だと反射で誤動作の元になる。古びた木製の机に愛着を持っていた。信号線にプローブをあてると動作するが、プローブを外した途端に誤動作するといったこともある。プローブ負荷がノイズを抑えるからだ。逆に、プローブ負荷が高速動作を妨害することもある。また、電源電圧レベルが大きいとノイズも強調されて誤動作するが、電源電圧レベルをぎりぎりまで下げると、ノイズも抑制されて動作することもある。配線のやり方ひとつでも、動作が不安定になる場合があり、スパゲッティ配線はプログラムと同様に誤動作の元になる。几帳面な技術者の配線は美しく、電磁ノイズも考慮されている。おいらは不器用なので、基板上に装着された不良LSIをパターンを壊さずに付け替えるのが苦手だった。QFPで、ピッチ1mm以下ともなればやる気がしない。任せろ!と言いながら平気で付け替える先輩の職人技はまさしく芸術品だ!だが、さすがにBGAは無理だろう。いや!彼ならやるかも。
本書を読んでいると、次々と懐かしい思い出が蘇る。そういえば、今ではハンダ付けすらやらなくなった。現在携わる仕事は、アルゴリズムやアーキテクチャの検証をソフトウェアで実行するぐらいなもの。ますます、泥臭いおもしろさから遠ざかっていく。それはそれで数学的で理論的でおもしろいのだが、大工さんの精神が仮想空間に閉じ込めらたような錯覚を感じることがある。昔は、ちょっとした回路キットが流行ったものが、プリント基板が高密度や多層構造になると人間が直接触れるには手に余る。その分、既に出来上がった基盤に搭載できるソフトウェア部品を豊富に体験できる。どちらも違ったおもしろさがあるのだが、双方を体験できるアル中ハイマー世代は幸せなのかもしれない。
おいらの前の世代になると、マスクパターンを三畳ぐらいの模造紙にプロットアウトさせて、人海戦術で蛍光ペンでチェックする様子を写真で見たことがある。当時、その模造紙は事務所の天井に飾ってあった。コンピュータ室では「ネズミホイホイ」なんてものを初めて見かけた時には驚いた。ネズミがケーブルをかじって、しばしばトラブルを起こしたそうな。そういえば、テレビ部隊の実験室には、股間用の防磁グッズが置いてあったのを思い出す。股間に高周波を浴びると女の子供しかできないという話があった。確かに先輩方の子供は女の子ばかりだった。電磁波はXY染色体に影響を与えるのかもしれない。ただ、Hが下手だと女の子が生まれるという説もあった。いまだに、こちらの方が説得力を感じる。

会社や組織によって文化が違うのも自然であろう。客観的であるはずの専門用語ですら、企業や組織によって微妙にニュアンスの違いを見せる。画像処理系と通信系という分野の違いでも、用語の使い方が微妙に違って戸惑うことがある。ずっと一つの組織に依存していると、組織文化に染まっていることすら気づかないものだ。そして、当り前のように文化を押し付け、言葉が通じないと馬鹿にされることもある。こっちが馬鹿だから仕方がないかぁ。宗教のように無条件で信じられるものがあるということは人を強くするものらしい。初対面で、専門用語の意識合わせを心掛ける人を見かければ、それだけで信用に値する。
仕事のやり方で最も文化の違いを感じるのは、検証に対する思想の違いであろうか。本書にも、設計のアイデアもさることながら、検証のアイデアも紹介される。ちなみに、日程会議の時、「設計が終わった時点で、検証も終わっているでしょう!」と主張するマネージャがいるのには、たまげた!その理由は「動作させながら設計するから」ということらしい。世の中には、信じられない文化が存在する。逆に、こちらにも世間からは信じられない文化があるのだろう。

では、ちょっと目に付いたところを軽く摘んでおこう。

1. 2相クロックのドライバ
2相クロックで駆動するデバイスでは、nチャンネルとpチャンネルのスイッチング速度にミスマッチが起こる。つまり、ターンオン時とターンオフ時の遅延時間が違う。そこで、増幅器と基準電圧を比較して、その電圧差を調整するといった補正手段を紹介している。

2. 音像位置操作用パンポット
モノラル信号をステレオ化する時に使われる機能としてパンポットがある。パンポットとはパノラマ分圧器のこと。ステレオ音場での音源(音像)位置を決めるわけだが、音源位置を変更しても音量が変化しないようにするために、左右を等電圧にするのではなく、等電力に制御する必要がある。その切り替えを簡単にスイッチイングする方法を紹介している。

3. コモンモード電圧(CMV)対策
CMVによる誤動作や性能劣化は、昔からある問題である。問題の原理は単純で、あらゆる箇所で基準電圧レベルを厳密に等しくするのは難しい。あらゆる箇所でグランドレベルを同一にするのも基本ではあるが、容易ではない。そこで、まず思いつくのは、グランド線を太くするという力技である。格好良くやるならば、信号系統を差動型の計装アンプで補正するといったことも考えられるが、信号線ごとに専用のアンプ回路を実装するのは現実的ではない。そこで、2個のオペアンプとマルチプレクサで一気にCMV除去する回路を紹介している。

4. 電池駆動
電池駆動の装置では、いつも大電流を必要としているわけではない。スリープ状態やパワーダウンモードがほとんどで、平均すると大した電流を必要としない。だが、瞬時には大電流を必要とし、それなりのエネルギー供給量が求められる。単純にはキャパシタを備えることで対処できるが、キャパシタの容量は厳密な計算が必要だろう。他にも電池を用いた装置には、いろいろな工夫が見られる。残量検出、パワーキャパシタ、電池寿命を延ばすための工夫、あるいは電圧計なしでも、コンパレータを使って電池電圧が測れるなど...

5. スイッチング電源
スイッチング電源といえば、電磁ノイズで悪名高い。よくEMIフィルタが使われるのだろうが、ノイズが大きくなると基板面積も要する。そこで、スイッチング周波数を変調することでEMIを低減できる方法を紹介している。つまり、PWMコントローラの周波数を変調するという単純な仕掛け。

6. 電話端子を利用した電源回路
うまいこと電話線を使って充電すれば、電気代が浮くなんてことを考えたことがある。電気通信事業法に違反するのはまずいのだが、その前に充電の仕掛けを自宅に構築する方がコストがかかりそうだ。

7. LEDドライバ
マイコンのI/Oポート1個で複数LEDを制御して、バーグラフを表示する方法を紹介している。ちょっとした表示にはLEDは手軽である。シフトレジスタと組み合わせれば、いろいろな表示の工夫ができる。ディスプレイ表示が高価な時代は、製品にも使われた。今では、周辺の明るさに追従して、LEDの発光強度を制御するなどは当り前であるが...

8. 基板の短絡検出
電圧降下法で基板の短絡を検出する安価な方法を紹介している。接続チェックをするだけでも設計者のストレスは大きい。接続状態を誤認すると非常にやっかい。テスターには、接続チェックで「ピッ!」と音が鳴るものもある。これは便利だと思っていたら、微小な抵抗値でも反応する。したがって、しっかり電圧値を確認しないと気が済まなかった。現在では、プリント基板も小さくなり、しかも多層構造で、短絡を調べるのも難しかろう。本書は、AC信号を利用したケーブル断線チェッカも紹介している。

9. ランダムなビット列生成器
デジタルシステムでは、ランダム発生器は重要である。ランダムデータは、ソフトウェア的に簡単に生成できるので、コンピュータを使えば楽である。だが、昔は、わざわざ雑音発生器を使って、ランダム信号を生成していた。擬似雑音発生器は、LFSRで簡単に構成できる。EORに帰還をかけたシフトレジスタで多項式を形成するのは、現在のアルゴリズムと同じだ。ランダム以外に、規則的な信号も現象を分析するのに便利である。こうした信号源を作るのにカウンタを駆使していた。巡回符号を作るようなイメージだ。本書は、周波数をN+1で除算する分周期や、M系列の生成を紹介している。

10. クロックの逓倍
理論上は同期クロックの逓倍は簡単である。分周器とPLLで実現できるから。だが、高速となると難しい。今では、高速なFPGAが利用できるので考えもしない。