2010-01-31

"エチカ(上/下)" Baruch De Spinoza 著

ずーっと前からスピノザにちょっとだけ興味を持っていたが、この大作を目の前にすれば尻込みしてしまう。だが、泥酔した精神はその感覚さえ麻痺させる。アル中ハイマーにとって勇気とは、精神の泥酔状態を言う。

本書には汎神論と決定論の立場からの唯物論的世界観があり、スピノザの形而上学的な認識論が展開される。ただ、一般的な哲学が精神を探究するのとは少々違っていて、倫理観からの幸福や善を論じている。理論的な認識論というよりは、認識によって人間を救済することを主眼にしていると言った方がいいかもしれない。それは「エチカ」という題名からもうかがえる。「エチカ」は一般的には「倫理学」と訳されるようだが、ここでは「生き方」と言った方がしっくりする。当時、神の存在に対する独自の解釈が、デカルト主義の神学者たちから罵倒され、「エチカ」の出版はスピノザの生前には実現しなかったという。彼の宗教観には、民族的な背景も影響しているようだ。スピノザの祖先たちは、長らくスペインやポルトガルなどで宗教迫害によってユダヤ教からキリスト教に強制的に改宗させられた、いわゆるマラーネ(マラーノ)であったという。彼らがネーデルランドへ自由の地を求めて移住した頃には、既に宗教的思想は見失われていたという。彼らにとって新たな宗教観の構築が性急に求められ、幸福を基本とした実践的な思想が必要だったということであろうか。

本書の特徴は、幾何学的手法を用いているところであろう。それは、ユークリッドの「原論」を思わせるような記述に現れる。ただ、哲学を幾何学的に論じるのはそれほど珍しいことではないのだが。当時、この認識論の幾何学的展開は先蹤者デカルトの一歩後退と評されたという。しかし、スピノザが経験的持論を展開したことは、むしろ実践的功績を残したと評すべきであろう。彼の死後、一旦は危険思想の有害書として発売を禁止されたという。本書には「神」という言葉が頻繁に登場するので、そのまま受け止めれば神秘主義ともなりそうだが、神を宇宙原理に従った崇高な存在と解釈して、哲学的理性論と見る方がいいだろう。そう見えるのは翻訳の成果かもしれないが。ちなみに、各国の翻訳によって様々な解釈を生んでいるようだ。「神に酔える哲学者」として理性的な哲学的宗教と見る人もいれば、唯物論と見られたり、あるいはマルクス主義の先駆者という見方まであるという。
スピノザは用語の使い方にルーズなところがあるようで、一つの言葉を様々な意味合いで用いているという。そもそも哲学とはそうしたもので、哲学者によっては独自の用語を持ち出したりと、極めて抽象度の高い世界である。純粋な精神を探求すれば、言葉の限界とも対峙し、その境界線でさまようことになろう。自己精神の解明もできない人間によって形式化された言語という手段で、精神を完璧に言い尽くすことなどできないのだから。いずれにしても、著者がどんなに意図しようとも、読者の解釈に委ねられる運命にある。
「エチカ」には、壮大な観念が語られているにもかかわらず、序文がない。スピノザは序文を大切にするのが常で、その序文の位置付けに「知性改善論」があるという。解釈するのに困難な部分は、この「知性改善論」が参考になるそうな。ただ、上野修氏は、その著書「スピノザの世界」で、難解な文献なので解説書としては期待しない方がいいと語っていた。

本書の流れでは、一旦、自由意志は、神の自然法則に従うとしてその存在を否定されるが、理性概念によって復活させる。人間が自由意志を獲得するには、受動的感情から脱して理性と知性の支配を確立しなければならないと説く。そうすることによって、受動的感情は明瞭判然と認識されるとともに、受動たることをやめるという。つまり、能動的な精神の解放のみが、自由意志をもたらすということである。
また、精神の客観的認識が、感情の中にある神あるいは自然を認識させるとして、すべての正しい認識は、必然的に神の認識をともなうとしている。こうしてみると、宗教的哲学と言われるのも分かるのだが、「神」を「宇宙原理」との一体化と解釈すれば、ずーっと読みやすくなる。神秘主義というよりは、むしろ科学的な見地から眺める方が良さそうだ。いや!それは勝手な解釈であって、スピノザは本当に神秘的な世界へ引きずり込もうとしたのかもしれない。
本書は、精神が認識するものを、万物の本質である神や自然に属するものと直観的に把握することで、最高善や最高の喜びが得られるとしている。そして、精神の喜びと神の観念が結びついた知的愛という観念を登場させる。これは永続的な愛であって、理性的自己愛は神の境地と一体化するという。人間の精神は本能的に死を恐れるが、理性の獲得によって死は永遠となり、精神を死の恐怖から解放するとしている。こうした理性的で神秘的な領域に精神が到達することは困難であるが、不可能ではないと励ましながら次の言葉で締めくくる。
「すべて高貴なものは稀であると同時に困難である。」

「真に神を愛するものは、神からも愛されることを願ってはならない。」
神が完全であるならば、神は愛することも憎むこともしないはずである。なのに宗教はなぜ?神はすべての人間を愛すると教えるのか?なんと不合理な思考であろう。なるほど、神がどんな罪人でも愛するならば、犯罪者は宗教へ帰依するはずだ。どんな暴力も、どんな残虐も、すべて神が愛してくれる。したがって、宗教に憑かれた地域ほど紛争が多いわけか。「苦しい時の神頼み」というが、自分にだけ不幸が及ばないように祈ることは、神の意志を自己のエゴで支配できると信じている行為であり、もはや神の存在を否定していることになる。こうした矛盾する行動様式によって精神が不安から解放されるならば、それもよかろう。なるほど、人間の精神を救済するためには、どうしても「矛盾」の概念を必要とするわけか。神という概念は、不完全性や完全性といった区別すら抽象化してしまう、もっと超越した存在なのかもしれない。

1. 神について
本書は、神をすべての究極原因とし、しかも、神は何の原因性も持たない存在者と定義している。そして、神は無限にある属性から成り立ち、人間の自由意志も神の属性の一部であって宇宙原則に従うとしている。自由意志は三角形の内角の和がニ直角になるのと同じくらい必然的な存在であるといい、人間の自由を否定し、万物は神によって存在するという決定論の立場をとる。ここにはキリスト教の予定説的な思想が見えてくる。その証明では、自由意志が存在すると信じる人間が、自由意志や衝動の原因に対して無知であることから演繹している。ただ、前半部で自由意志を否定しながら、後半部の倫理的考察では、理性の獲得によって自由意志の存在を復活させることになるのだが。
そもそも、神は何かの目的のために宇宙を創造したのだろうか?もし、神に欲求があるとしたら、不完全性に支配された宇宙は考えにくい。いや!完全性や不完全性という区別に意味があるのか?神の創造物である人間は気まぐれに支配される。神の気まぐれにも困ったものだ。人間が永続的に存続しようとする欲求は、人間のエゴイズムであって神が望んでいるわけでもなかろう。神の意志とは、単にそこに宇宙原理なるものが存在するだけのこと。つまり、神に意志はない、人間の自由意志もない、意志なるものは幻想に過ぎないということか?

2. 精神について
人間の認識を、肉体と精神の二つの属性で論じ、これらの属性は一つの実体の二面性にほかならないという。精神は肉体を認識し、精神の内面をも認識する。そして、感情や欲望は一種の観念であって、精神もまた観念であると定義している。ここで観念と称しているのは、知覚は対象から受ける働きであるが、観念という言葉には能動的な印象を与えるからと言っている。この二面性は一体化しており、精神が充実すれば肉体の活動を促進し、精神が鬱になると肉体の活動を阻害する。
また、認識には、表象知、理性知、直観知の三つがあるという。表象知は感覚的経験に基づく認識であり、理性知は概念的で推論的認識であり、直観知は事象の本質を直接感じて神の依存の中に見える認識である。そのうち、表象知のみが誤謬の唯一の原因になるという。夢を見る認識とは何か?人間は愛という錯覚を夢見る。これも自然法則に支配された表象なのか?誤謬は人間認識の欠乏によって生じるという。なるほど、人間は理性を失うから結婚するのかもしれない。自由意志が存在すると信じたところで、その原因性を説明できる人間などいない。意志の本質を人間精神で解明しようとすれば、精神が精神を探求することになり、自己矛盾に陥るであろう。本書は、精神の認識は神の原因性によって存在するので、永遠や無限なる本質を認識するのは、完全に妥当すると言っている。

3. 感情について
人間のいかなる愚行や感情も自然の必然的現象なので、嘲笑したり悲しんだり侮辱したりしてはならないという。そして、人間の基本的感情を欲望、喜び、悲しみの三つに抽象化し、様々な感情はこの基本原理の合成から生じるとしている。欲望とは、自己保存のための衝動であり、自己の維持に有益なものを求める努力であるという。つまり、自己保存に有益なものを善と意識する。喜びとは、人間がより大きな完全性へ移行することの意識で、悲しみとは、人間がより小さな完全性へ移行することの意識であるという。人間精神は、自分の憎むものの存在を排除しようと努力する。人間が自己の原因性を見出すことができなければ、絶対的な道徳観など獲得できるはずもない。人間が自己に対して絶対的な能力を発揮できると考えるのは、道徳家ぐらいなものだろう。親切の押し売りをする者ほど、相手に感謝されていると勝手に評価する。名誉欲は、何にもまして名誉を欲し、何にもまして恥辱を恐れる。これも人々に気に入られようとする努力である。他人の喜びを刺激すれば自らの喜びを刺激し、他人の悲しみを刺激すれば自らの悲しみを刺激する。そこには自己満足もあれば後悔もある。本書は、名誉欲と高慢さが結びついて、名誉を好む人間ほど高慢になり、周りから嫌われていながら気に入られていると思い込むようなことが容易に起こるという。これは、まさしく政治的思考回路ではないか。人間の判断は不安定なもので、しばしば自己の感情に支配される。喜びや悲しみをもたらすと信じて起こす行動や、所有しようとする欲望は、単なる幻想なのかもしれない。
「後悔とは、原因としての自己自身の観念を伴った悲しみであり、自己満足とは、原因としての自己自身の観念を伴った喜びである。そして、これらの感情は人間が自由であると信ずるがゆえにきわめて強烈である。」
感情は精神の受動状態であり、これは外的な原因性に基づいて決定付けられる混乱した観念であると語られる。

4. 自由人
人間の隷属は、感情抑制の上の無能力に由来すると説いている。通常の感情は、非妥当する観念から生じる感情と、外的刺激によって生じる感情といった受動的感情であるという。非妥当する観念とは、宗教的な信仰力の強い、半強制力から生じる感情のことである。人間の精神には限界があるが、宇宙に存在する外的現象には限りがないので、感情は受動的にならざるを得ないという。つまり、通常の感情は隷属から生じるというのである。その一方で、能動的な感情がある。それが理性である。理性による自己保存は、真の意味での自己保存であるという。理性によって自己の善と判断されるものは、他人にとっても善であり、利己は利他と連なるからである。ここで、精神が単なるエゴイズムに陥るかに見えた「エチカ」的見解は、理性主義的な倫理説へと変貌する。そして、受動的に生じる感情を善と悪に分類しながら考察される。理性を獲得した人間には受動的感情を必要としないという。ここに隷属的な感情から解放される原理が現れる。自己の本性は理性によって決定付けられ、この理性法則に従う人間を「自由人」と名付けている。
誤った観念は、真なるものが説明されたとしても除去されるものではない。例えば、太陽と月は似たような大きさで距離も感覚的に近くにあるように見える。しかし、真の大きさも距離も人間の想像を絶するほどの差がある。その事実を知ったところで、感覚的な表象が除去されるわけではない。どちらも、果てしなく大きく果てしなく遠いという意味では似たようなものかもしれないが。人間の精神には、誤謬と理解していても、感覚的に受け入れるところがある。これは、真であるという理由だけでは、すべての感情を抑制できないということを示しているのだろうか?人間が欲望を持つのは自然であって、欲望は自己の存在に固執する。幸福とは、自己の存在を維持できる安心した状態といったところか。自己保存の意志は本質であって、その価値を見失えば自殺といった行為も現れる。そこで、感情と理性の調和が求められることになろう。
本書は、貧欲、名誉欲、情欲は一般に精神病とは見なされないが、これも一種の狂気であると定義している。憎しみは憎しみ返しによって増大し、やがて復讐となる。憎しみで生きるのは惨めなもので、これを愛で克服するのが理性であるという。理性の導きによって生きる人間は、憎しみの感情に捉われぬように努め、他人にも憎しみの感情で悩ませぬように努めるという。自己満足は理性から生じることができ、理性から生じる満足のみが最高の満足になるという。そうなると、名誉は理性に矛盾せず理性から生じる可能性がある。いわゆる虚名であり、社会の影で名誉を求める者といったところだろうか。理性から生じる欲望は過度になることはないという。もし、理性の持つ欲望が過度となれば、それは人間を超越することになるからである。
「恐怖に導かれて、悪を避けるために善をなす者は、理性に導かれない。」
宗教の戒律や法律的な強制力によって導かれる善では、理性の構築は無理であろう。本書は、理性に導かれる人間は、恐怖によって服従に導かれることはないと語る。

2010-01-24

"時間と自己" 木村敏 著

古くから、哲学の問題に「時間とは何か?」というのがある。時間の存在論は、アリストテレスの時代から多くの哲学者によって議論が重ねられてきた。カントは、ア・プリオリな純粋認識は時間と空間の二つのみであると規定した。
時間は客観的な物理量として存在するのは事実である。だが、人間にとっての時間は単なる意識の産物に過ぎないのではないか?と昔からなんとなく考えている。神は、人間に生きることを飽きさせないために様々なパーツを用意してくれた。昼と夜が繰り返し訪れ、月が移動する様は、生命に時間の流れを感じさせてくれる。そして、客観性を持つ時間の流れは、精神の主観性と結びついて、奇妙な認識を与える。昨日のことが、ずーっと昔に感じたり、昔のことが、つい昨日のように感じられる。幼少の頃、嫌なことがあると「時間は、いずれ過ぎ去る!」と呪文を唱えたものだ。台風が過ぎ去るかのように、じっと待つ。これが生きる術でもあった。いつのまにか、精神と時間との係りを強く意識してきた。昔から精神病になる資質があることは自覚していた。というより、誰しも潜在的に精神病を持っていると思っている。本人が気づかないこともある。精神病の気がない者は、欲望の病にとり憑かれているだけのことかもしれない。
人間は、自らの存在感という精神の居場所を求めながら生きている。これは精神を獲得した生命体の宿命であろうか?先進国では、物質的な豊かさをもたらしても自殺者の数は減らない。人から頼りにされると生きる力も湧く。停年になったり、役職を失った途端に気力を失う人も少なくない。子供たちが巣立ち家庭内の役割を終え、後は多くの孫に囲まれながら平穏に余生を送るだけとなった途端に痴呆症になる人を見かけるが、これは単なる偶然だろうか?知的障害者は、老けるのが早いという話も聞く。忙しい時には見せなかった兆候が、一安心した途端に病状が現れる。役割を期待される、あるいは、そう思われていると信じる妄想が気力を支える。権力誇示や既得権益を頑なに守ろうとするのも、自らの存在価値を見出そうとする防衛本能が働くのだろう。なるべく無神経さを演じて他人から期待されぬように仕向けるのも一つの防衛本能であろうか。そして、本当に他人の気持ちが見えなくなってしまう。こうしてブログを書いているのも、自らの居場所を求めているだけのことかもしれん!

本書で興味深いのは、自己の存在意識と時間意識の関係を、精神病の視点から解明しようと試みているところである。そして、自己の存在意識と、時間の流れを感じる意識は、実は同一のものではないかと語られる。精神病者に共通して見られる傾向は未来志向的だという。それは、遠い未来を夢見る自己の理想像を追い求める姿や、近未来をプログラムしたような緻密な計画から自己を見出すような姿である。実現不可能な夢想からは自己分裂を引き起こし、緻密な将来設計から逸脱すれば自分自身が許せない存在ともなろう。
また、死に対する人生観の違いによっても病状の違いがあるという。それは、死を否定的に考えて避けようとする心理と、逆に大いなる死と崇めて高揚感を求める心理といった違いである。分裂病患者には遠い未来を求めて夢想する性格、鬱病患者には近い未来の計画性と几帳面な性格、躁病患者にはお祭り気分的な高揚感を求める性格などの傾向があるという。いずれも、未来志向から現実と乖離した時の現実逃避と捉えることができそうだ。本書は、過去、現在、未来の時間軸を通常は連続性として認識するが、精神病患者は離散的に認識すると指摘している。そして、時間と自己の関係が均衡されている間は正常であるが、一端均衡が崩れると誰にでも異常になりうるという。

1. 「もの」と「こと」の差異
本書が紹介してくれる「言葉の差異」は興味深い。「もの」とは、「存在するもの」を意味し、西洋的実存論に通ずるものがある。自然科学は客観的観察を求めること、即ち「もの」を見ることを基本姿勢としてきた。実存論は、精神の存在を肉体と同じように物理的存在としての「もの」として議論される。ちなみに、「理論(theory)」の語源は、ギリシャ語の「見ること」だそうな。
もし、すべてが客観的に解釈できれば、すべてを「もの」として処理できるだろう。だが、そうはいかない。素晴らしい景色を眺めれば、眼に映る客観的情報があり、同時に心を動かされた主観的感情が現れる。景色と自己が一体化してこそ、精神は余韻として味わうことができる。
本書は、客観的に映るものを「もの」と表現し、主観的に映るものを「こと」と表現している。「もの」を「こと」という言い方で存在論的差異を表す習慣は、欧米の言葉にはまったく見られず、日本語独特の用法だという。とはいっても、カントも批判書の中で、唯物論よりは唯心論の方が優勢であると語りながら、認識の中にある主観性を強調していた。これも、認識の体系化に限界があるという意味では、思考的に似ているように思える。ちなみに、日本語の「もの」と「こと」の差異について、最初に哲学的考察を行ったのは和辻哲郎氏だそうな。
様々な場面で遭遇する「こと」には、すべて不安定な性格がある。人間には、自ら感じる意識に対して、他人にも同調してほしいと願う性格がある。精神の持つ自己の弱さは、個人意識に差異が生じることを認めようとはしない。だから、あらゆる議論で客観性を強調して他人を説得しようとしたり、無理やりにでも認識を合わせて同調したかのように演じたりする。人間は、寂しがり屋なのであろう。
しかし、精神の中にある「こと」を客観的に固定することはできない。自然科学を解明しようとする願望は、主観性が客観性を求めて、心の安定を求めている証なのかもしれない。一方で、芸術の世界では、思いっきり主観性を解放し、精神の限界に挑む。そうすると、精神病を患うようなところからしか、真の芸術は生まれないのかもしれない。
西洋的思考には、事件、出来事などを「もの」として解釈する客観的な合理的世界観がある。一方で、日本的思考には、「こと」として解釈する主観的な感性的世界観がある。どちらがより本質的かは比べようもなく、好みの問題であろう。人間には、一般的に世論や群集に流される性格がある。客観性を訴えたところで、実は主観性の多数決に支配される。これも、共通感覚によって精神の安定を求めている行為なのかもしれない。

2. 「事」と「言葉」
古代日本には、「事」と言葉の「言」の区別がなかったという。口に出したコト(言葉)は、そのままコト(事実や事柄)を意味していたという。微妙に区別され始めたのが奈良、平安時代なのだそうな。次第に「言」は表面的な一端を表現するに過ぎないものとなる。とはいっても、現在においてもその区別は微妙である。「事」が内面的で本質的な意味で意識されているかも疑わしい。言葉そのものが表面的であるのは確かであろう。そして、内面的な質を見せるのは読者の解釈として現れることになろう。

3. 文明の影響
文字を持たない原始社会と文字を持つ文明社会でも、精神病の現れ方に特徴があるという。文字を持たない原始社会では、感情の高揚を原因とする躁病とった祝祭的な病状があったそうな。昔から、断片的で一貫性のない妄想や幻覚、時間空間の認知傷害といった症状があったという。ところが、西洋的な分裂病や鬱病といった病状は、文字を持つ文明社会で現れ始めたという。自己の存在認識と言葉には、本質的な関係があるのだろうか?著名な作家が精神病を患わして自殺するのも、文字の影響による職業病のようなものか?文章を書くということは、自己を観察しながら冷静な立場で自己精神を眺めていることになろう。そこには多重人格的な性質も現れる。言葉は、自己認識を伝達する手段として使われる。言葉の持つニュアンスは完全な客観性に支配されるわけではないが、主観性であっても、感情の近似という意味では伝達手段として機能している。自らの思考を文章として綴る時、自己精神を検証することができる。言語という媒体は、現在という時間を実感しながら、過去と未来という時間の連続性をも再認識させてくれる。
言語を持たない動物たちは、もっと純粋な感覚で生きているのかもしれない。言語が発達し、文明が高度化すれば、人間は精神病へと向かうのだろうか?文明の発達は、医学の進歩や良質な食料をもたらし、寿命を長くする。だが、肉体的な病は精神的な病で相殺されるのかもしれない。寿命が延びたところで、精神がそれだけ成長しているかも疑わしい。むしろ、死を目前にした人間が神秘的な力を発揮することがある。精神の成長は、実は年齢に関係するのではなく、死に近づくことから得られるのかもしれない。

4. 癲癇病
少々異色ではあるが、癲癇病について議論しているところはおもしろい。癲癇は古来「聖なる病」と呼ばれてる一方で、悪魔の呪いとも呼ばれてきた。そういえば、シーザーも癲癇だったという話がある。映画でも痙攣するシーンがある。サヴァン症候群のダニエル・タメット氏は、その著書「ぼくには数字が風景に見える」で癲癇を患ったことを告白している。癲癇になる確率は自閉症スペクトラムの人が高いという話もある。ドストエフスキーも癲癇だったという話は広く知られる。本書は発作の体験を表した文章を紹介している。
「憂愁と精神的暗黒と圧迫を破って、ふいに脳髄がぱっと焔でも上げるように活動し、ありとあらゆる生の力が一時のものすごい勢いで緊張する。生の直覚や自己意識はほとんど十倍の力を増してくる。が、それはほんの一転瞬の間で、たちまち稲妻のごとく過ぎてしまうのだ。そのあいだ、知恵と情緒は異常な光をもって照らし出され、あらゆる憤激、あらゆる疑惑、あらゆる不安、階調にみちた歓喜と希望のあふれる神聖な平穏境に、忽然と溶けこんでしまうかのように思われる。」
癲癇患者の多くは自分の発作が意識できないからか?さほど深刻に受け止めず、服薬や受診を怠ける傾向があるという。むしろ、癲癇患者は発作を欲しているようでもあると感想を述べる学者もいるぐらいだ。発作の襲来と終始は突然であって、時間の流れが完全に寸断されるという。本書は、これも現在を過去と未来を隔離した離散的な意識が現れるのではないかと考察している。癲癇患者には、永久調和の存在を直感するといった感想もあるという。これは性的自慰行為の一つなのか?あるいは、現在だけを崇高な時間と崇める心理が働いて、自分だけに与えられた幸福と感じているのか?突然時間が止まり、全宇宙を感じ、神を感じ、聖なる永遠の力を得るような、そんな境地にでもなれるのか?本書は、死の世界を覗いているというよりも、死の世界から生の世界を覗き込んでいるような体験と言っている。
そういえば、癲癇とは対称的に、恐怖やショックを受けると、その時間帯だけ記憶喪失になるといった現象もある。これも時間の離散的な意識という意味では似ているのかもしれない。

2010-01-20

もしも、アル中ハイマーなプロマネがいたら...

もしものコーナー...
もしも、アル中ハイマーなプロマネがいたら...だめだこりゃ!

人生は短い!アル中ハイマーと出会ったがために無駄な時間を過ごしたメンバーも多いことだろう。この記事を運の悪いメンバーに謝罪を込めて捧げたい。

1. プロジェクトマネジメントは肩が凝る
マネジメントとは、肩の凝る仕事である。クビを賭けねば勤まるものではない。とはいっても、滅多にクビになるわけでもないが、それだけの覚悟がなければ思い切った判断は下せない。ましてや優秀な人材を簡単に手放すはずもない。ちなみに、おいらの場合は簡単であったが。昔、捺印済みの辞表を机の奥に忍ばせ、あとは日付を書き込めば提出できる状態にしていた。だが、こうした行為は愚かである。人間は衝動の誘惑に駆られるのだから。
技術屋さんをマネジメントするのは、比較的楽である。だいたい論理的な説明をすれば納得してくれるから。技術屋さんには、気難しい奴や、人付き合いの嫌いな奴が比較的多いかもしれない。それでも、あまり感情論に振り回されない分、付き合いやすい。おいらはこんな奴らが好きである。そう言うおいらが、人見知りが強く気難しい人間である、と言っても誰も信じてくれない。
一方で、経営的立場にある人は、論理的な説明があまり通用しない。政治的な思考でなければ納得しない。だから、彼らが現場をマネジメントしても上手くいくはずがない。それぞれの社会的立場で思考の違いが生じるのも自然であろう。マネジメントとは、極めて社会学的な領域にある。
マネージャが権力者になっては、技術チームの発想力を失う。マネージャのカリスマ性に頼ったチームもあるが、極端な個人崇拝が永続的であるはずがない。そうした組織には、キーマンがいなくなった途端に崩壊する脆さがある。
マネージャは、しばしば様々な人間関係で衝突する。不思議なことは、最初に苦労した人間関係ほど後々うまくいくことが多いことだ。最初から本音をぶつけるからであろうか?また、人間的にどんなに努力しても合わないという直観は最初に働く。こうした現象を経験から学ぶが、その理由を論理的には説明できない。
プロジェクトには失敗がつきものである。もし「失敗したことがない!」と発言するマネージャがいたら、それは失敗するような仕事を任されていないか、失敗したことすら気づいていないかのどちらかであろう。失敗の規準は個人によっても違うものである。
プロジェクトの成功は、偶然性やその人の生まれ持った何かによっても微妙に左右される。あらゆる成功例は、実に多くの成功要因によって構成され、すべての要因を解明することは難しい。ここに成功例から学ぶことの難しさがある。一方、失敗例は、多くの要因の中の一つでも満たさなければ失敗するので、その要因も顕になりやすい。したがって、失敗例の方が学びやすいであろう。成功者の判断力は天性のセンスがあって、真似してもうまくいくものではない。結局、判断力は自ら磨くしかあるまい。したがって、マネジメントに基本原則のようなものがあるにせよ、形式化した黄金手法などないと考えている。

2. プロ意識の持続
組織戦略には長期的な視野が求められる。その中で最も重要な要素は人材であろう。目先の成果のみを追求して邁進しても、完了した途端に人材が逃げだすのでは大失敗である。技術者にとって大切な精神はプロ意識の持続である。技術者たちは、革新的な精神を望み、自らの成長を願う。よく、マーケティング戦略で生産物の品質を妥協せざるをえないことがある。だが、技術者に仕事の質を劣化させるように要求することは危険だ。かつて、アル中ハイマーは「プロジェクトの必殺仕事人」と言われたことがある。いくつかのプロジェクトを抹殺してきたのは事実であるが、実に不本意なネーミングである。くだらないプロジェクトを無理やり創出して無駄な予算を計上するぐらいなら、早く潰した方がいい。メンバーの意欲が湧かない仕事は、恐ろしくチームの体質を劣化させる。失敗しても、やってみる値打ちのある仕事を見出したいものである。ちなみに、20年以上前、先輩に言われた言葉が鮮明に記憶されている。
「初めての技術だから失敗したなんてのは、プロの言葉じゃないね!」
これにはエンジニア魂の伝統のようなものを感じた。当時、説教されたというよりは、聞き惚れたものである。
チームの意欲を持続させるためには、哲学的な共通意識が必要である。メンバーに同じ目的と共通意識があれば、重要な問題が発生した場面でも少々無理がきく。技術チームのマネジメントは、マーケティング戦略や技術能力の管理と考えがちである。悩みが技術的なものであれば、まだ健全である。チームの問題は、技術的な問題以上に手ごわい。マネージャが人間面よりも技術面に注意を払うのは、それが重要だからではなく解決しやすいからであろう。プロ意識の持続とは難しいもので、マネジメントの仕事のほとんどが、この問題と対峙する。
メンバーはあらゆるストレスの中にある。意気消沈したり、愚痴っぽくなったりと微妙な変化を見せる。マネージャの仕事は、技術的な助言も必要であるが、メンバーの精神状態に応じて対処することの方がはるかに重要である。プロジェクトは生き物のようにうごめく。したがって、流れ作業的な手法が通用するはずがない。優れたマネージャは、自然にコミュニティを形成できるようだ。その振る舞いは仕事として意識されるわけでもない。マネジメント能力とは、人間を知ることかもしれない。マネジメントは仲良しグループを形成することが目的ではない。チームワークとは、ぬるま湯の関係ではない。現実に、うまくいっているチームでも人付き合いの嫌いなボスがいる。とっつきにくく、わがままなくせに、誰よりも人材を育成しているオヤジがいる。好かれるというのと尊敬を集めるというのでは、意味が違うということだろうか。こういうマネージャは、部下に一流の仕事を要求すると同時に、自らも一流の仕事を課す。仕事に対して、感情論に動かされることなく、論理的思考で合理的に評価しようとする。一見ドライに見えるが、余計な雑念に振り回されない信念のようなものがある。技術チームにおいて、その人の好き嫌いに気を遣わなければならない状況は、最悪の人間関係と言えよう。くだらないストレスから解放されないと、純粋に課題に立ち向かうこともできないのだから。哲学的な共通意識で動機づけ、かつ目標設定が高ければ、くだらない政治的な思惑も自然と消える。知識労働者の動機付けは、ボランティアの動機付けに似ている。満足のいくコミュニティを形成して成功したチームには、人を惹き付ける何かがある。プロジェクトの完成で得られる達成感は金銭的なものより得難い。むしろ芸術の完成に見る喜びと似ている。

3. チーム殺しと技術チームの形成
プロジェクトの失敗は見事に呪縛に嵌る。チーム殺しの多くは、仕事を蔑むかメンバーを蔑むことによって効果的にダメージを与える。ヤル気を出させるための規定は、見事にヤル気を削ぐ。ワークシートといった愚行は、管理部門による嫌がらせでしかない。技術業界に人材派遣業が蔓延するのは、まさしく技術者を部品扱いしている証であろう。
中には、顧客の要求をそのまま技術者に伝える伝言板役に徹するマネージャがいる。そして、双方の機嫌をうかがいながら、決定事項だから仕方が無いと政治的に丸め込む。こうした行為は、人の良さを見せながら無神経なだけに余計に罪が重い。プロジェクトを成功させたければ、重要なのは部下を管理することではなく、上層部と喧嘩する覚悟を持つことだ。
一方で、あらゆる管理手法を駆使して、やたらと凝った手法を用いるマネージャがいる。そもそも、管理なんて必要なのか?哲学的な共通意識が根付けば、特に部下を管理する必要もあるまい。しばしば、マネージャが悪役になることで、周りがうまく回転することがある。辛い立場の時にどのように行動するか、メンバーたちは敏感に読み取っている。人が良く、保身的な人間ほど厄介なものはない。
プロジェクトはいつ危機に見舞われるか分からない。技術的課題、突然の仕様変更、厳しい日程など、要因を挙げると切りが無い。ストレスが増せば、人間関係もぎくしゃくする。問題発生は常に想定しておくべきである。そこで、チーム内には笑いのネタにできる人物が一人ほしい。馬鹿を演じられる人間は貴重で、実は賢いと認められた人間の成せる技である。また、チーム内にはいつも笑いを起こせる共通のネタを仕込んでおきたい。おいらは自分自身を笑いネタにするために、夜の武勇伝を大げさに公表する。ほとんど作り話であるが、メンバーたちは素朴なもので簡単に信じてしまう。
経営者は従業員よりもマーケティング戦略を優先する。これも理解できる。ただ、中間管理職が経営者と同じ立場に立てばパワーバランスは崩れる。そもそも、技術者が組織に所属する必要があるのだろうか?日本型の組織が、税金から何もかも雑用の面倒をみてくれるのはありがたい。確定申告まで免除される。だが、サラリーマン馬鹿に飼い馴らされる。そこで、大工さんのような一人親方のような制度は技術者向きだと思う。個人で企業と契約し、棟上げなど忙しい時に集まって、後は一人でコツコツと家を建てる。必要な人材を揃えられるのは、ひとえに信頼関係と言っていい。対して、固定された部署単位に仕事を作る方が、人材確保という意味では安定するのも確かである。そして、少々の人員不足は派遣を利用すればいいと安易に考える。だが、技術レベルの確保という意味で健全なのか?
社内の就職活動によってチームを形成するというのもいいかもしれない。組織内に一緒に仕事をしたいマネージャがいれば、個人的に売り込むのもいいだろう。逆に、マネージャからメンバーに誘うのもありだ。ここで注意したいのは、人間には好き嫌いがあることである。悪い方に傾けばイジメに発展する。いずれにせよ、会社の看板に寄り掛かった技術者と交流したいとは思わない。技術畑では、組織を超えた文化交流は必須であろう。

4. 愚痴れる環境
チームの状態を見るには、メンバーに本音を言わせることが手っ取り早い。それには愚痴らせるのが良いだろう。それも冗談で言える段階から。愚痴れるということは、反発するパワーが残されている証でもある。体制の維持が目的ならば、イイ子ちゃんほど都合の良いものはない。だが、革新が目的ならば、むしろ弊害となる。もし、組織が完璧だと満足しているならば、宗教化が進み思考停止状態に陥っていると見る方が正しかろう。完璧な体制などありえないのだから。沈黙の抗議が始まれば手遅れである。そうならないように、笑いながら愚痴れる環境を作ることに専念する。アル中ハイマーのプロジェクト手法は、これに尽きる。
技術的な問題は比較的対応しやすい。もし、メンバーが技術問題を抱えていれば、人前で喋らせればいい。技術者には、内気で喋るのが苦手と言う人も多い。だが、責任の範囲を明確にすれば、いい加減にはできないはず。メンバーは、自分で喋っているうちに思考を整理しながら、いつのまにか自ら解決策を見出す。周りはそれを聞いてやるだけでいい。悩み事を相談していたはずが、いつのまにか解決方法を自ら自信満々に語っている。こうした光景がしばしば見られるからおもしろい。ここには、一種のプレゼン効果がある。ただ、マネージャの存在感が薄いのがちょっと寂しい。プロマネは少し存在感が薄く、ちょっと馬鹿ぐらいがちょうどいいのかもしれない。みんなが愉快になれば、そのまま場所を変えて宴会となる。これに付き合わされるのが辛い。どっちが付き合わされてるかって?したがって、プロマネは概してアル中ハイマー病患者になるであろう。

5. 現場の精神
マネジメントの仕事でも、必ず自ら設計するモジュールを持つことにしている。それがどんなに小さくても。それも、設計者の気持ちを忘れないためと言い訳しているが、実は設計が楽しい。ただ、マネージャがモジュールを担当するのは、ちょっと辛いものがある。ちなみに、おいらの仕事は、デジタル回路設計やその実装のためのアルゴリズム設計といったところだろうか。いわゆるハード屋か?回路設計と言っても言語で設計するし、検証環境ではプログラム設計もやる。アルゴリズム設計ではプログラミングは必須。となれば、ソフト屋か?なんとも微妙だ。はたしてその実体は...雑用係である。したがって、アル中ハイマーは、ソフトなピロートークを武器にハードボイルドをモットーに生きるのであった。
検証作業は大嫌いだが、検証環境を作るのは案外おもしろい。よって、立場を利用して環境構築を担当したりする。回路設計を言語で行うといっても、その記述方法は実装の制限に見舞われる。その点、検証モジュールは機能のモデリングや環境の自動化など、その手段において制限に見舞われることはあまりない。顧客によっては使う言語を指定してくる場合もあるが、手抜きをする方向でなければ、だいたい交渉で誤魔化せる。
昔、ある経営者に、マネージャはコーディングしてはならないと言われたことがある。おいらはこの意見に否定的だ。マネージャであっても、設計の醍醐味を忘れたくはない。
ドナルド E. クヌース曰く、「システムを担当する設計者は、実装にも全面的に関わらなければならない。」

6. 無駄から学ぶもの
目先の作業に惑わされて、突っ走らないと気が済まない人がいる。全体の方針が決まらないのに、勝手に設計を始めたり、コーディングを始めたりといった行動をとる。自分の作業が遅れることで責任を負うのが嫌だ!と明るみに主張する人もいる。誰も責任を押し付けようなどと思っていないのだが、そのような政治的な体験をしてきた技術者は多い。部分的に進んでも、足並みが揃わないと、後戻りすることになると説明しても無駄である。あえて、そうした人の行動を止めたりはしない。それでステレスから解放されるならば、それもいいだろう。こういう人は作業をしていないと落ち着かない。コードを書くことがある種の精神安定剤になっている。無闇にコンピュータに向かっている時間が長い人の仕事量が多いとは限らないのだが。人間を言葉だけで啓蒙するのは無理である。おいらは、他人を啓蒙したり説得するのが嫌いだ。新たな思考方法を書籍に求めるにしても、どこかに興味や共感できる思考の欠片を持っているから、その本を選ぶことができる。むしろ言葉だけで簡単に操れる人間の方が怪しい。目先の作業に惑わされる人には、事前検討や上流工程を綿密にやれば、日程の精度が高まり、結果的に仕事が加速することを体験させてやることだ。それまで我慢するしかない。何事も結果が付いてこないと説得力はない。よく検討された仕様が日程の精度を高めることを知っていれば、上流工程の大切さを無視して目先の作業に囚われることはなくなるだろう。
また、仕事のパターンをなんでも形式化してしまうマネージャがいる。形式化できるに越したことはないのだが。コーディングルールなどを細かく規定すれば、それなりに品質は維持できるし、技術レベルの個人格差を吸収することもできる。だが、厳密な規定は意欲の妨げになることもあれば、ワンパターンの仕事スタイルは思考の硬直化にもなる。人間であるからには、作業よりも思考することに価値を見出したい。
優秀な人ほど事前検討を大切にし、無駄を排除しようと努力しているように見える。彼らは、一番大きな無駄は後戻りすることだと知っている。それだけ、無駄な努力を経験してきたとも言えるわけだが。世の中は無駄に満ち満ちている。無駄から学べば、無駄は無駄ではなくなる。

7. 政治力と評価
人の評価は難しい。どんな人間でも、必ず好き嫌いの感情が介入する。客観的な評価を求めるために、数字で段階評価する光景をよく見かける。これがまったく意味がないとは言わないが、どれほどの効果があるのか?カリスマ性2、技術力3、発想力4、協調性1、まるで戦略シミュレーションゲームだ。評価項目に当てはまらない事象や表現できない事象も多い。評価される側も、売上の数字などで部署や人の評価を求める人がいる。しかし、経営の立場から考えると奇妙な話である。誰が担当してもそれなりに成果の出る仕事と、失敗する可能性は高いが将来を見込んで挑戦したい仕事とでは、どちらに優秀な人材を投入するだろうか?困難な仕事ほど優秀な人材を配置するのが合理性というものである。おいらの評価基準は単純だ。その人が組織にとって居なくなったらどれだけ困るかである。ただ、居なくなって初めて、その人の価値が認識できるから困ったものである。恋愛は別れた時に、その人の良さが見えるものである。
プロセスの遵守の度合いを評価の重点に置いている組織がある。そこには、定められたプロセスに従ってさえいれば、この世は全てうまくいくという宗教じみた理屈がある。失敗した時の責任逃れに絶好の言い訳にもなる。ISOを取得して喜んでいる組織のお偉いさんは、それでうまくいくと狂信する。だが、規定されたプロセスが、禍をもたらすケースは意外と多い。
応急処置が泥沼の原因になることは、多くの技術者が初期の段階で経験しているだろう。応急処置は悪魔のように誘惑してくる。だが、長期的に考えれば自ら地雷を埋め込むようなものだ。常に物事の本質を解明しようとすることが、プロ意識というものであろう。計画段階では、安易に流用モジュールを使えばスケジュールが短縮できるといった意見が必ず飛び出す。だが、流用できるかどうかの検討は慎重でなければ危険である。そこには、政治的な思惑が絡むことが多い。既にモジュール設計者が辞めていて、問題が発覚しても原因すら追求できないといった事態も珍しくない。そんな事は新人君でも分かりそうなものだが、なぜか?部長クラスのお偉いさんは政治力で捻じ伏せやがる。彼らには、開発の結果よりも、もっと重要なことがあるに違いない。

8. 割込みと雑音
頭脳労働者にとって、割り込みを発生させないことは重要である。技術者が理想とする精神状態とは、フロー状態といったところだろうか。完璧に集中すると、時空を超えた一種の心地よさを感じる。無我の境地とでも言おうか。一旦集中してしまえば音など気にならないが、集中する手前ではリセットされる。電話のベルが鳴ろうものならイライラしてなかなか集中できない。電話のない時代、研究者は手紙で情報をやりとりしていた。頭脳労働者にとって技術革新は劣悪な環境をもたらすのだろうか?メール受信のポップアップですら鬱陶しいが、自動受信を止めればいい。メールとはおもしろいもので、即返信すると、なぜか?即返事がくる。まるでチャットだ。ビジネスマンはせっかちなのだろう。そこで、わざと時間を置いて返信することにしている。鬱陶しいのはメッセンジャーであるが、ほとんど切っているので、気分転換ツールと言った方がいい。
それにしても、やたらと電話をかけてくるマネージャがいる。ほとんどメールを活用しないのだ。こういう輩は技術者を部品ぐらいにしか思っていないのだろう。発言したことが証拠に残るのを嫌うのか?いや、嫌がらせに違いない。ちなみに、酔っ払いにとって割り込みの最優先は携帯メールだ。ホットな女性からのメッセージを優先せずして、人生で何を優先するというのか!
複数のプロジェクトを掛け持ちしていた頃は、一日に200通以上のメール処理に追われた。逆に言うと、何一つ仕事をこなしていない。メンバーも「緊急!」とか「重要!」といったサブジェクトで気を引こうとする。しかし、中身は酒の誘いだったりで笑わせてくれる。気を遣っているのか?邪魔しているのか?よくわからん連中だ。
プロジェクトの掛け持ちは避けるべきだろう。それだけで人生を無駄に過ごした気になる。高度な情報化社会が生産性を高めたことは認めよう。だが、創造性や思考力を高めたかは疑問である。利便性は人間の思考力を奪ってはいないか?
ところで、音楽を聴きながら作業すると効率が下がるというのは本当だろうか?「ピ-プルウェア」には、プログラムのような論理思考は左脳が働き、音楽のような直感的なものは右脳が働くので影響がないという実験結果を紹介していた。だが、技術者は突然のヒラメキによって直観的に問題を解決することがある。右脳が音楽に占有されるとヒラメキの余地が無くなるので、やはり音楽は邪魔になりそうだ。とはいっても、音楽は精神を安定させる効果がある。そこで、精神をリラックスさせることが優先か、思考することが優先かは、状況に応じて使い分ければいい。独立した空間を一人で占有できるならば、音楽は特権である。だが、チームで職場を共有するならば、無音環境が良いに決まっている。

9. 会議
会議で召集されるのはいいが、事前に何をするのかはっきりしない会議は実に多い。1時間の会議をしようとすると、主催者は下準備に半日ぐらいはかかるものである。会議中は、担当者の作業を止めることにもなるので、だらだらとした会議は作業者のストレスを招く。だから効率良くやろうと気をつかう。ほとんどの場合、事前準備の要領が悪い人の説明は異常に難しい。何をするのかシミュレーションできていないのだろう。しばしば、会議がお偉いさんの勉強会になることもある。事前資料にも目を通さないので、用語の意味すら通じない。会議とは議論するところなのに。前提を出席者に浸透させておくのも主催者の務めであろう。
また、会議でマネージャが目立つのは、議論の活性化を妨げることにもなる。互いに対等でなければ、まともな議論はできないので、権力者は遠慮するぐらいでちょうどいい。司会者が目立つ討論会が、ろくなものになるはずがない。ましてや、発言中に司会者が割り込んで黙らせては、深夜の討論会「朝まで生ビール」となってしまう。

2010-01-17

もしも、千鳥足な天文学者がいたら...

もしものコーナー...
もしも、千鳥足な天文学者がいたら...だめだこりゃ!

「人類とは何者か?どこから来たのか?そして、どこへ行くのか?」
人類の正体を暴こうとする渇望が、人類の住む宇宙を解明する欲望を駆り立てる。そして、神に近づこうとすればするほど、神からの制裁を受けるのかもしれない。人類は、自らの進化によって、自滅する運命にあるのかもしれない。


1. 天文学の意義
古代から探求されてきた「人間精神は実存するのか?」という哲学的論争は、いまだ決着を見ない。人類の住む宇宙を探求するということは、人間の生きる意義を求めているのだろう。したがって、天文学は信仰と深く結びついてきた歴史がある。この学問が科学の域に達していない時代、宗教観から外れた客観的見解を示すと、異端宗教と見なされ迫害された。ガリレオは、地動説を主張したばっかりに宗教裁判にかけられた。しかし、一旦科学が認知されると、宗教の方が胡散臭い立場へと追いやられる。そして、地球の地位を確認するために、あらゆる天体までの距離の計測が始まった。生命の住む惑星の神秘に憑かれながら、地球外生命の存在の可能性を想像してきた。はたして、宇宙の正体が解明できた時、人類の正体を暴くことはできるのだろうか?地球のエネルギー史は、地球誕生時にそのほとんどが決まる。せめて、地球が解明されるまでは、この惑星を大切にして人類の文明を存続させたいものである。
ところで、科学の進歩に限界があるのだろうか?科学の進歩は、宇宙の誕生から消滅までの過程に同期しているような気がする。現在は宇宙の壮年期で、科学の進歩にも無限に広がる可能性を感じる。いずれ宇宙の膨張が停止すると、科学の進化も熟年期に入り、過去の知識に立ち返り、立ち止まる運命を背負うだろう。そして、宇宙が収縮し始めると、科学は結末の覚悟を決める。この時、人類は絶対的な価値観を会得できるのかもしれない。ただし、宇宙消滅まで人類が存続できればの話だが。

2. 酔っ払いの住む惑星
しばしば地球は水惑星と言われるが、実際には地球が含む水の質量は0.1%程度である。だが、地表の3分の2が海に覆われ、水の及ぼす影響が大きいのも事実である。そもそも物質が液体状態になりうるのは、限られた温度と圧力の範囲においてである。太陽からの距離も絶妙で、大きさも適度、木星や土星といった巨大惑星の絶妙な配置が隕石の防波堤となる、などなどの諸条件が重なって知的生命体が誕生したと言われる。そして、偶然にも恐竜の絶滅があって、人類の繁栄があるのかもしれない。地球の自転軸傾斜は数万年で約1度変化し、軌道離心率も約10万年で変化し、それが原因で数万年から10万年で氷河期を繰り返すと言われる。おまけに、磁気圏が宇宙線を地表に到達できないようにする。こうした極めて偶発的な条件が重なったおかげで、生命体が進化できる可能性を与えてくれる。この惑星に奇跡的な予感がするからこそ、神の存在を感じさせるのかもしれない。
地球の自転から昼と夜が与えられ、月が移動する様は、生命に時間の流れを感じさせてくれる。時間認識とは、生きることを飽きさせないために与えられたのかもしれない。
地球の自転は、北半球と南半球で逆向きの力を与える。いわゆるコリオリの力である。台風の渦が、北半球では反時計回りになるのに対して、南半球では時計回りになる。ロケットや大砲の弾道計算では、コリオリの力を補正する必要がある。そして、アル中ハイマーも地球の自転の影響を体感しながら生きている。夜の社交場をぐるぐる回るのは、北半球に住んでいるせいであり、南半球に移住すれば、きっと昼間に図書館めぐりをしているはずだ。また、店のゲートを通過する度に体温が上昇するのは、地球上に流動するアルコール成分の影響であって、一種のエルニーニョ現象と考えている。

3. ゆらぎと宇宙創生
宇宙の始まりは、無からの創生である。それは、時刻ゼロで、物質やエネルギー密度が無限大に発散した状態から始まる。宇宙物理学者は、何らかの方法で極微の時空を作りだすことができれば、ビックバン宇宙へと発展する可能性を仄めかす。しかし、無とは何か?なぜ?無から極微な空間が創出できるのか?物質のエネルギーは、運動エネルギーと位置エネルギーの合計で決まる。つまり、運動しなければ全てが位置エネルギーということになる。しかし、何かが存在しなければ、膨張するエネルギーを与えることはできないはず。ところが、量子論者は、どんなに運動を小さくしてもこれ以上小さくできない運動エネルギーの存在を仄めかし、その最低状態の運動をゼロ点振動で説明する。無とは、体積ゼロであるから全エネルギーはゼロ、時空の大きさもゼロのはずだが、量子論的にはゆらぎが存在するという。これがゼロ点振動のエネルギーというわけだ。量子論者は、何もないところに突然負の仮想エネルギーを登場させ、都合よく宇宙を膨張させやがる。しかも、これすべて不確定性で片付けやがる。無から虚時間に量子的ゆらぎが生じ、ゼロエネルギーが膨張して、実時間の世界を創るとでも言うのか?さっそく、アル中ハイマーも実験してみよう。ある店で熟成したスコッチを飲んで体を揺らしてみると、いつのまにか別の店にいる。なんと!虚時間の世界が体現できるではないか。

4. 「宇宙の距離はしご」と「夜のはしご」
天体を観測する上で手っ取り早いのは直接観測であるが、現在の科学では無理というものだ。なにしろ、太陽以外の最も近い恒星ですら到達するのに何光年もかかるのだから。
ところで、距離の計測には全ての天体に応用できる測定法があるのだろうか?歴史的には、近傍から遠方へと手法をつないできた。太陽系の惑星では、ケプラーの第3法則を用いる。つまり、惑星の軌道半径と地球の軌道半径の比は、惑星の公転周期と地球の公転周期の比から求まる。近傍の星までの距離は、三角測量を用いて、離れた2点において、別々に見える方向の角度を計測する。地球上の2点では距離が近すぎるので、地球が移動する場所から2点を選べば年周視差が得られる。
視差で測定できない遠方となると光源法が登場する。既知である天体の真の明るさを基にして、天体の見かけの明るさを測定することにより距離を求める。見かけの明るさは、真の明るさに対して、距離の2乗に反比例して暗くなるので、見かけの明るさと真の明るさが分かれば距離が求まるというわけだ。運良く星雲内にセファイドが見つかれば、その変動周期を測定することで、星雲までの距離が求まる。
遠方銀河では、統計的な方法を用いる。ある明るさの天体がどれくらいの個数存在するかを表す光度関数があるという。光度関数はガウス関数で近似され、そのピークの明るさがどの銀河の球状星団でもほぼ一定になることが分かっているそうな。
こうした様々な方法で点間距離の概算はできるのだろうが、誤差も大きいはず。夜の社交場を「はしご」しながら店間距離を求めようとしても、千鳥足というゆらぎによって、その誤差は計り知れない。ちなみに、アル中ハイマー効果とは、ドップラー効果とは逆に、酔っ払って赤くなると下品に近づき、気持ち悪くなって青ざめると周囲の人々が遠ざかっていく。

5. 「無境界仮説」と「記憶のない虚時間」
古典的な運動法則では、粒子は壁を通り抜けることができない。ところが、量子論ではトンネル効果によって壁を通り抜ける可能性を示す。その確率を、ホーキングは、宇宙の経路和を使って波動関数で示した。
ところで、宇宙の経路ってなんだ?とりあえず、宇宙の始点をビッグバンとし、終点はビッグクランチとする。その間には、曲率がプラスだったりマイナスだったりと、様々な形をした宇宙がある。宇宙の経路とは、アインシュタインの重力理論による空間の曲がり具合の違いといったところだろうか。経路の違いによって、空間に存在する物質の分布状態も様々であろう。無数の物質の分布状態を足し算することによって波動関数を求めるわけだが、現実には近似するしかない。近似であるからには、まんべんなく均一といった条件を前提とする。
ホーキング曰く、「宇宙の波動関数の境界条件は、境界がないことである」
そもそも境界条件を与えないで、波動関数が得られるのか?どうせ量子重力理論は完成していないので、量子効果によって特異点が消滅するなんて証明できないのだから、仮説ならなんでもありということか?ビッグバンの最初の特異点は、時空図上では実時間で尖った点となる。それが、数学のトリックを使って、時間を虚数にすると、丸くなるというから訳がわからん!言い換えると、密度も温度も無限大といった「時間の始まり」なんてものは存在しないことになりそうだ。では、ファインマンの経路和を宇宙に当てはめる時、なぜ実時間ではNGで、虚時間ならOKなのか?数学のトリックには、指数関数と三角関数の関係を示す有名なオイラーの公式がある。指数関数では急激に増大するものが、虚数を用いると三角関数の振動に置き換えられ、くるぐると回るループに閉じられるというわけだ。こうした実証論者の思考回路には、ついていけない。ちなみに、アルコール成分をオイラーの公式にあてはめてみると、同じ店に何度も立ち寄る行動パターンは、記憶のない虚時間においてのみ説明がつく。

6. 「絶対」と「相対」
ニュートンは、著書「プリンキピア」で絶対運動と相対運動について言及している。となれば、絶対空間と相対空間を定義しなければなるまい。そして、絶対時間と相対時間も。
ところで、いかなるものにも平等で、数学的に一様に流れる絶対的な真の時間なるものが存在するのだろうか?人間が計測できる時計や、運動によって測れる時間は、相対的な見かけ上の時間でしかない。だが、宇宙には、いかなる変化も受けない絶対時間なるものが存在するのかもしれない。また、いかなる事物にも無関係に、常に不動で同じ形のまま存在し続ける絶対空間なるものが存在するのかもしれない。宇宙は膨張していると言われるが、宇宙の外にそうした開空間なるものが存在するのだろうか?相対空間は、可動であって物体の状態によって決定されるに過ぎない。もし、絶対空間や絶対時間なるものが存在するならば、絶対運動というものも定義できるはず。絶対運動とは、絶対空間の中の絶対的な位置から絶対的な位置へ物体が移動することである。となれば、絶対的な真の静止状態というものも存在するだろう。だが、人間は、永遠に運動しているように観測することができても、真の静止状態を観測することはできない。人間が生きることを認識するとは、自らの運動を意識し続けられるということであろうか。人間が定義するという行為そのものが、相対的認識に過ぎない。もし、人間精神が、絶対的価値観に到達することができれば、神は絶対的な真の静止状態を見せてくれるのかもしれない。では、相対的な認識が絶対的な認識に変化すると、人間はどういう存在になるのだろうか?そうなると、生命体そのものの意味が失われるのかもしれない。

7. 三体問題と自己中心説
二体問題は厳密に解けるのに、三体問題となった途端に、たちまち複雑化する。ニュートンが議論した三体問題にしても、近似的な解法を示したに過ぎない。現在ですら厳密な解法が見つかっていないのだから、それも仕方があるまい。となれば、人間の三角関係が複雑になるのも当然である。円満な家庭は、第三者の力学によって楕円変形する。だが、人間はチャレンジャーだ。三角関係に突入する衝動は抑えられないのだから。そこで、二つの物体の運動の中心と、三つ目の物体の関係を分けて考察してみるのもよかろう。だが、三角関係を複雑化する要因は、運動の中心と仮定する二つの物体の選別が難しいことにある。そして、人間は自己中心説を唱えるしかなくなるのであった。
宇宙論には、古代からの議論にオルバースのパラドックスがある。
「空は無限に明るくはない。ゆえに目に見える宇宙は無限ではない。」
これは、宇宙が無限であれば、恒星も無限に散らばっていることになり、電磁波である光が永遠に直進するからには、夜空も輝きで満たされなければならないという仮説である。なるほど、ホットな女性が発する電磁波は直進性が強く、それだけで男どもはいちころだ。そこには一種の電磁場が形成され、見事なほどに自己中心説が再現される。男性が回りを囲めば、この微力な磁場が強力になってソレノイドを形成する。そして、「君に酔ってんだよ!」という台詞が口の動きに任せて発せられ、大の男どもが一人の女性の前にひれ伏す。逆に、夜の社交場では、煙草をくわえるだけでお姉様方に火をつけられ、「おっと、俺の心に火をつけやがったな!」と条件反射で口走る。なるほど、人間は永遠に自己中心説から逃れられそうにない。

8. 「人生最大の失敗」は「人生最大の発見」となるか?
アインシュタインは、宇宙項の係数である宇宙定数をわずかに正とすることで、万有引力に対する万有斥力なるものを仮定した。これが定常宇宙を説明するために、無理やり用いた方法かどうかは知らん。ただ、宇宙が膨張しているという観測結果が得られると、彼は宇宙項を「人生最大の失敗」と嘆いたと伝えられる。ところが、だ!近年の観測結果は、これが「人生最大の発見」となる可能性を示唆する。かつて宇宙の膨張は減速しているという説が優勢であったが、現在ではその膨張は加速しているというのだ。その原因とは何か?古くから、人類は夜空を眺めながら、光輝くものだけが宇宙を形成していると信じてきた。しかし、今、宇宙の謎を解く鍵となるものは、暗闇に隠れているものとされる。宇宙物理学者たちは、暗黒物質(ダークマター)と暗黒エネルギー(ダークエネルギー)という仮説を登場させる。しかも、暗黒物質と暗黒エネルギーは宇宙の96%を占めるという。これら暗闇に隠れたものが不明といことは、宇宙の96%以上が解明できていないことを意味する。そのうちエーテル充満説も復活するかもしれない。
暗黒物質と暗黒エネルギーは宇宙創生時に創出したとされる。暗黒物質は、星と銀河を引力によって結びつける。銀河と銀河の間が膨張するのに対して、地球や太陽系や銀河系自体は膨張していない。暗黒物質は、どんな物質でも瞬時に通り抜け、しかも相当な質量があるので、銀河の形成や回転速度などにも大きな影響を与えるという。おまけに、光の放出や吸収もしない。もはや、通常の物質の概念を覆す重力子のようなものか?暗黒物質は、宇宙のいたるところに満ち満ちているというが、その存在はいまだ証明されていない。あらゆる銀河が不規則な形で存在するのは、その形成の骨格をなしている何かがあるということになる。物体の形成をなすものが重力だとすれば、まさしく暗黒物質が宇宙の支柱や骨格として存在するということか?その正体とは?ブラックホールか?ニュ-トリノか?あるいは、WIMP、アキシオン、MACHOなどが候補とされる。これまた、量子論の得意とする仮想物質の登場か?
その一方で、宇宙を膨張させるための反発力を登場させなければならない。それが暗黒エネルギーというわけだ。宇宙の創生からしばらくすると、ビッグバンから生じた膨張力に対して、やがて暗黒物質の引力が優勢となり、宇宙の膨張は減速すると考えられてきた。しかし、宇宙が広大になるにつれて、その引力が暗黒エネルギーの斥力に負けて、今度は膨張を加速させると考えられている。では、暗黒エネルギーの正体とは何か?それが、アインシュタインの定義した宇宙定数なのか?ここには真空エネルギーなるものの存在を予感させる。これは悪魔のような存在か?幽霊エネルギーか?その影にダースベイダーの存在を感じる。
ところで、宇宙の運命はいかに?暗黒物質の重力どうしの衝突によって、宇宙は潰れてしまうのか?はたまた、暗黒エネルギーが宇宙を引き裂いてしまうのか?暗黒エネルギーがこのまま優勢であるとすれば、銀河と銀河を引き離し宇宙に悲劇をもたらすであろう。現在では、宇宙は温度が下がった挙句に凍り死ぬという説が有力のようだが。いずれにせよ、暗闇に隠れたものの正体が解明できない限り、宇宙は膨張し続けるのか?膨張が止まるのか?収縮に転ずるのか?の答えが見つかるはずもない。いずれ、古代ギリシャ時代から議論される「物質とは何か?」あるいは「人類とは何か?」という哲学的な問題を、暗闇に隠れたものの解明によって科学が解決してくれる日が来るのかもしれない。

2010-01-13

もしも、アル中ハイマーな遺伝子学者がいたら...

もしものコーナー...
もしも、アル中ハイマーな遺伝子学者がいたら...だめだこりゃ!

障害者が生まれてくる可能性が無くなれば、人間社会に差別は無くなるだろうか?「普通」という言葉に、どれほどの意味があるというのか?

1. DNAと運命
生体を解明すると、暗号として機能するDNAと、これに組織され制御されるタンパク質から成る。生物の構成アルゴリズムにおいて、一個の細胞から有機体が形成されるところに神秘がある。DNAには遺伝情報を伝える役割がある。生物の基盤はタンパク質であり、更に様々なアミノ酸からできている。このすべてがDNAの指揮のもとでスケジューリングされるというわけだ。
驚くべきは、DNAは不死身ということである。しかも、複製ミスを二重らせん構造によって互いに補完しあう仕組みを進化の過程で構築した。これは、未来を洞察するように設計されているのだろうか?人生の冒険をも、DNAでスケジューリングされているとしたら、まさしく運命には逆らえないことになる。ならば、このアルゴリズムを、純米系の成分によって逆転させてみたい。髪の毛が戻り、肌の張りが戻り、不幸な結婚生活が逆戻りできるとすれば、多くの人を救済できるであろう。

2. 不公平な遺伝子
ずーっと前、鎌形赤血球遺伝子の話を聞いたことがある。アフリカのマラリア発生地域と鎌形赤血球遺伝子の分布には強い相関があるという話だ。この遺伝子を持つと、赤血球が鎌形に変形して酸素運搬機能が低下し、貧血症が起こる。逆に、鎌状赤血球にはマラリア原虫が寄生できないという優位性がある。マラリアに強い遺伝子を生物の進化の過程で見事に作り上げたというわけだ。となれば、正常な赤血球と鎌形赤血球の両方の遺伝子を引き継ぐと、病気に強い体が形成できそうだ。だが、病気に強い遺伝子に恵まれる一方で、五体満足でない人々が存在する。DNAの複製段階で、生命に致命的ダメージを与えるものや、機能面で何らかの支障をきたすものもある。これは、生物学的にも統計学的にもやむをえないであろう。
社会には、ある低い確率において普通には生きられない人々がいる。障害者は意外と周りに多い。同級生の家庭に障害者がいると聞かされるのは、たいてい卒業後で、しかも第三者からだ。社会人になってからも、そうした境遇で生きている人は意外と周りに多い。彼らは自ら打ち明けないことも知っている。家族に障害者を持つ人は自ら悲観的に語る人もいる。なぜ自分にだけ不幸が降りかかるのかと嘆くように。まるでお荷物とでも言っているかのように。それは、せっかく生を受けた人間に対して失礼であろう。たまに宗教に駆け込む例もある。だが、お布施をぼったくられて誰が不幸の根源なのかも分からない。遺伝子に恵まれる人間がいる一方で、恵まれない人間がいる。だからといって悲観することはない。単に、自然界は遺伝子コピーの不完全性を示しているに過ぎないのだから。親戚ですら、無神経に遺伝のせいにして、勝手に「不幸な家族」のレッテルを貼る輩がいる。こうした環境が、社会の反抗分子という遺伝子を引き継ぐ。そして、無神経さでは上手をいくのであった。だが、遺産をめぐって骨肉の争いを繰り広げる方がよほど悍ましい。
社会には環境に恵まれて成功する者もいれば失敗する者もいる。その要因は運や偶然性に微妙に左右される。幸運に出会うということは、一方で不運に見舞われる人々がいることを意味する。
全人類のヒトゲノムは99.9%が同じで、0.1%程度の個人差があるという。この配列が、何世代にもわたって誤差として蓄積され、更には、父方と母方の混合物から創られる。この偶然性は、人間が好む差別の存在など、全く無意味であるように思わせる。

3. 「食べる」とは何を意味するのか?
遺伝子構造が解明されていくと、「生命とは何か?」という問いに対して、「生命とは自己複製システムである」という答えが見えてくる。生命体はプラモデルのような静的なパーツから成り立つ機械分子ではない。パーツ自体が動的なモデルである。その中で、生物を無生物から区別するものはとは何か?それは「食べる」という行為とかかわりがありそうだ。人間は、自らの生命体を維持するために食べる。現在では、食材が豊富なので、人生を楽しむために食べるという価値観がある。そこで、一つの疑問にぶつかる。「食べ続ける」とは何を意味するのだろうか?タンパク質のアミノ酸が外部から吸収され、次々と入れ変わっていく様子は、食べることの意味を教えてくれる。絶え間ない合成と分解を繰り返し、傷ついたタンパク質や変性したタンパク質を取り除き、不純物が蓄積されるのを防ぐ。これが生命体の秩序を守るということであろうか。脂肪でさえも、アル中分子でさえも、駆逐しようとする。ただ、おもしろいのは、食材からして自分のDNAとは全く違う成分を採取していることだ。必要なものを吸収し、不要なものは排泄する。ここには、自分のDNAに合ったものを選んで吸収するという自動維持システムがある。しかし、必要な栄養分でも多く採りすぎて、蓄積速度よりも排泄速度が遅くバランスが崩れた時、蓄積されたエントロピーが生命体に危機をもたらす。なるほど、ベロンベロン状態とは、一種のエントロピー最大の状態と言えよう。それは、アル中ハイマーにとって、極めて気持ちよく自然な飽和状態と言っていい。そして、体内秩序を保つために飲み続け、最期には飲まれる。「飲んで!飲んで!飲まれてー飲んで!」食べ過ぎれば、栄養素の飽和状態となろう。その典型に、タンパク質の立体構造が変化して引き起こされるプリオン病があるという。アルツハイマー病、狂牛病、ヤコブ病などなど。
しかし、だ!これだけ懸命に食べ続けて合成と分解を繰り返すにもかかわらず、なぜ人間は老化するのだろうか?なぜ寿命があるのだろうか?DNAには、細胞分裂の繰り返し回数でも記録されているとでも言うのか?いや!自然法則は、生命体の究極の進化を妨げているのかもしれない。なるほど、神は悪魔というライバルの出現を拒んでいるわけか。

4. 生命科学の時代と遺伝子売買
遺伝子研究が進めば、病気のみならずあらゆる面で優位になろうとするだろう。人間の欲は計り知れない。遺伝子学の進歩とともに遺伝子売買が始まるかもしれない。そうなると、遺伝子に格付けがなされるだろう。価格競争も激化し、オークションも登場する。人間は、他人と差別するのが好きな生き物だから、学歴差別のごとく遺伝子差別なんて問題が発生するだろう。長寿遺伝子、スポーツ遺伝子、学者遺伝子などなど。「流行遺伝子創刊号」なんて雑誌が出回るかもしれない。食材は天然ものが良いとされるが、そのうち天然ものが馬鹿にされる時代が到来するかもしれない。そして、天然の人間が姿を消し、ついに遺伝子格差社会の登場を見る。しかし、刺身は天然物の方がはるかに美味い。

5. 崇高な病と創造力
癲癇という病は、遺伝なのだろうか?この病は、脳の中で一瞬電気的な不具合を起こすために、痙攣発作に見舞われるという。癲癇にかかる確率は普通の人よりも自閉症スペクトラムの人の方が高いという統計情報もあるらしい。癲癇を患った著名人は意外と多い。その代表はシーザーである。映画でも痙攣するシーンがある。ドストエフスキーには、癲癇病の体験を記したものがある。
「ほんの一瞬のあいだ、普通の状態では決して味わえない幸福感に包まれる。自分にもこの世界にも完全に調和しているという感覚。それがあまりにも強烈で甘やかなので、その至福をほんの少し味わうためなら人生の十年間を、いやその一生を差し出しても構わないとさえ思うほどだ。」
癲癇病患者は自ら発作を求めるかのようだと感想を述べる専門家もいる。この病は、古来「聖なる病」と呼ばれる一方で、「悪魔の呪い」とも呼ばれてきた。「不思議の国のアリス」のルイス・キャロルも側頭葉癲癇を患っていたと言われる。画家のゴッホも、かなり重度な発作を起こして鬱病になったという。癲癇と創作活動には関連性があるのだろうか?狂気のないところに、天才は生まれないのかもしれない。
似たような脳障害にサヴァン症候群があると聞く。この病は、左脳が障害を受けて右脳がその埋め合わせをしようとして能力が高められるという。数字に対する執念や計算能力などサヴァン症候群で一般的に見られる能力は、左脳の能力をすべて右脳でやってしまうために、感覚的な能力が高度な並列処理を目覚めさせるのかもしれない。論理処理を得意とする従来のコンピュータが、量子コンピュータに進化するかのように。人間の主観能力には、恐ろしいパワーが秘められているようだ。こうした病は、自閉症障害に起因するとも言われる。実は、鬱病や精神病を患う人ほど、人間精神と正面から対峙する勇気の持ち主なのかもしれない。
ちなみに、昨年、アル中ハイマーは二度完全に意識を失うという今までにない体験をした。行付けの店で...どんなに泥酔しても意識だけはしっかりしていて、行儀のよい酔っ払いだと自負していたが、それも改めなければなるまい。癲癇のような痙攣を起こすわけではない。いきなり床に倒れるらしい。頭をぶつけて...5分間ほどだが、苦しそうにしているのか?よく分からないらしい。声をかけても反応しないのだそうな。救急車を呼ぼうか一瞬悩むらしい。しかし、本人は心地良い時を数時間過ごしている気分である。まるでホットなお嬢さんに膝枕してもらっているような、もう目が覚めたくないほどに。死ぬ瞬間とはこんな感覚だろうか?気がつくと天井が見えるからビックリ!一瞬ここはどこだ?とうろたえる。そして、何事もなかったかのように飲みはじめる。以来、行付けのバーではマスターに「二杯までね!」と注意されている。また体験したいと言うと怒られる。安心できる店でしかならないのかもしれないが、優しい人たちに囲まれると安心して酔えるとは、まったく迷惑な話だ!

2010-01-10

もしも、アル中ハイマーな物理学者がいたら...

もしものコーナー...
もしも、アル中ハイマーな物理学者がいたら...だめだこりゃ!

仮説の大嫌いなニュートンは、渦動説派たちが唱えるエーテル充満説を受け入れなかった。
仮説の大好きなアル中ハイマーは、磁気吸引派たちが唱える夜の社交場における女性磁界説を受け入れる。そして、幽体離脱派たちが唱えるアルコール成分による自我分離説を受け入れる。


1. 科学の美
科学の美に崇高なものを感じるのは、素晴らしい真理をみせてくれるからであろう。科学は人間味に欠け、宇宙における人間の地位を引きずり降ろすものとみなされる。その一方で、宗教は人類を特権的な地位へ無理やり押し上げる。思うに、人を惑わせる宗教よりは、自然に酔わされる科学の方がはるかにイケてる宗教である。
ところで、科学的創造性と芸術的創造性の差異とは何か?カントは、天才は科学者の中には存在せず、芸術家の中のみに存在すると語った。だが、そうとは言い切れまい。ニュートンの偉業には独特な存在感がある。科学から得られる帰結は客観性に満ちているが、そこへ辿り着くまでには、科学者の豊かな直観に頼るところが大きい。科学界には、プラトン時代から継承される哲学がある。それは、どんな複雑な現象も、その背後には単純な宇宙法則が潜んでいるに違いないと信じる執念である。自然法則は単純さで魅了する。数学のエレガントな証明にも単純さが現れる。
科学実験に目を向ければ、アイデアは単純でも非常に凝った工夫が見られる。科学が知覚できる瞬間とはどんな時だろうか?ブラックホール説を唱えたところで、実際に見られるわけではない。実験室では、そうしたものを少しだけ体験の場として見せてくれる。真の物理法則を得るためには、極限状態を確保しなければならない。そこに熟練した技が現れる。科学者の人間性にも左右され、資源、予算、人員といった制約の中で発揮される。
ゲーテ曰く、「制約の中にのみ、巨匠の技が露になる。」
科学実験のプロセスには、想像力や独創性に富んだ世界がある。そこには、科学者の伝記と呼べるほどの物語がある。科学を論理性と正当性だけでしか見られないのであれば、あまりにも寂しい。結論よりも、発見のプロセスにこそ人生の醍醐味がある。彼らの情熱と執念が成功へと導いた時に、一種の芸術を見せてくれる。これが科学の美というものであろうか。

2. 相対論派と量子論派
科学の進化を牽引してきたのは、物理学と言っていいだろう。宇宙の解明には、相対論派と量子論派の二つの相反するアプローチがある。相対論派は重力理論を強調し、量子論派は素粒子理論を強調する。重力は人間の体感できる範疇にあり、まだしも手に負えそうだ。だが、量子論となると、なんでもありなのか?と思わせるものがある。量子論は、真空には突然仮想粒子を登場させ、物質の誕生には反物質を登場させる。何もないところに仮想エネルギーを登場させ、都合よく宇宙を膨張させてしまう。ブラックホールになるかならないかの際どい境界で、都合よくプラスとマイナスが分かれて、一方は放射し一方は吸い込まれる。しかも、これすべて不確定性で片付けやがる。プラスの現象には、マイナスの現象で相殺してしまえば、エネルギー保存則になんら矛盾することなく説明できるというわけだ。スーパーテクニックが続々と登場する様は、高度な科学のようで巧みな詐欺のようでもある。量子論の本筋は、極微な世界を覗くことである。ところが、物質を細かく見れば見るほど巨大宇宙の解明につながるから摩訶不思議!もとを辿れば、宇宙もちっぽけなものというわけか。そりゃ、人間が実存するかも怪しいもんだ。
ただ、宇宙論に目を向ければ、相対論派が主張するインフレーション理論よりも、量子論派が主張するサイクリック宇宙論の方が受け入れやすい。インフレーション理論は、ビッグバンから、ただ一回の急激な膨張で現在の宇宙に近い大きさまで拡大したと考える。一方、サイクリック宇宙論は、数十回のビッグバンとビッグクランチの繰り返しの中でエントロピーが蓄積された結果と考える。つまり、特異な膨張期間を考えなくて済む分、気分がええ。しかも、ビッグバンとビッグクランチの境界は、実時間で受け継がれるという。サイクリック宇宙論には精神の輪廻を思わせるものがある。人間社会も破壊と創造を繰り返す。まさしく宇宙は破壊のカオスの中にあるというわけか。膨張と収縮、あるいは破壊と創造といった対称性にこそ、宇宙の真理があるのかもしれない。神は、宇宙空間の住人に安住の地を与えず、常に変化を強要しやがる。安住の地は墓場にしかないかのように。
アインシュタインは、不確定性原理を受け入れられずに「神はサイコロを振らない!」と語った。アル中ハイマーは、社会泥酔論を受け入れて「神の博奕好きには、困ったものだ!」と呟く。

3. 物体の正体
ポーは著書「ユリイカ」で、すべての物体は引力と斥力の二つの基本要素のみで説明できると情熱的に語った。すべての物体は原始粒子から構成される。では、原始粒子はどこまで極小なのだろうか?引力の原子相互作用によって物質が構成されるわけだが、双方の原子が無限に接近しても接合することはない。そこに斥力が存在するからである。斥力は絶対に極小粒子の融合を許さない。引力はニュートンの重力法則によって説明される。では、斥力の正体とは何か?時には熱、時には磁力、時には電気であって、二つの物体の異質性の原理に基づく。これは、二人の男女がどんなに愛し合って合体しようが、けして心が一つにはなれないことを教えてくれる。人を強制しようとすると必ず反発力が発生するものだ。
太陽系を眺めれば、直観的に太陽を原子核、惑星を電子と重ねてしまう。自然法則が引力と斥力でのみで支配されるならば、太陽系はすばらしい原子モデルである。となれば、どんな小さな空間にも、太陽系のような極小の宇宙が無数に存在するのではないかと考えたりする。生命体の大きさは、そこに住む天体の質量によって相対的に最適化されるのだろう。時間の概念も、生命体の質量に比例した認識能力が得られるのだろう。こんなことを、学生時代に学校帰りのラーメン屋でいつも考えたものだ。スープの中にも宇宙があって、極小の生命体が存在するかもしれないと。麺を浸すと、スープの波が突然の宇宙変革をもたらすと。
人類の住む宇宙はグラスの中に注がれたアルコールの中に存在するのかもしれない。そして、太陽がアルコール原子核だと考えれば、俗世間に酔っ払いが溢れるのも説明がつく。酔っ払いは同じ言葉を同じ調子で口走る。これがステレオタイプというわけだ。時間が経てば熟成度も上がって、強烈なアルコールへと変貌する。そして、人間社会はますます泥酔度を増していくだろう。

4. 粒子性と波動性
コンピュータが解ける範囲は、計算によって導けるようにうまいこと問題設定がなされた場合に限られる。どんなに性能の高いコンピュータでも、哲学的問題を解決することはできない。実数演算にしても、解けないものの方が多い。計算が可能であっても、計算量が莫大過ぎてスーパーコンピュータを使っても宇宙年齢を超える時間を要するような問題もある。その代表的な数学の問題に因数分解がある。500桁ほどの素数をベースにすれば、たちまち限界に達する。だから、暗号アルゴリズムに適していると言われる。しかし、量子コンピュータを唱える人々は、因数分解ですら計算量を大幅に減らして解けることを仄めかす。ここには、動作周波数を超えた世界がある。従来のコンピュータが論理的思考だとすると、量子コンピュータは直観的思考とでも言おうか。直観には、なんとなく並列処理的な性質があるように思える。「量子並列性」とは、直観のことか?
ところで、量子とは不思議なものである。かつて、光は粒子説と波動説で論争が繰り返され、やがて二重性で落ち着いた。アインシュタインは、光のエネルギーの最小単位を仮定した。光子とは、エネルギーの固まりを持った波といったところだろうか。同様に、電子や原子にも二重性がある。電流が流れると、原子の中で回転する電子は運動の向きを変える。電子からは電磁波が放射され、その分エネルギーは失われるはず。となれば、電子はだんだん原子核に近い軌道を描きながら、ついには原子核に吸収されはしないか?人工衛星が、大気との摩擦でエネルギーを失いながら徐々に地球に近づき、ついには大気圏に突入するように。だが、うまい具合に、電子波の波長で軌道が安定するから摩訶不思議!
同じように、すべての物体には、個体性と波動性の二重性があるのではないか?と考えてしまう。莫大な人口が人間社会というエネルギーの塊となって、もはや個人の性質を分析したところで全体像を把握することはできない。どんなに規制を強化したところで、悪事は干渉現象のように、ちょっとした隙間から回り込んでくる。おまけに、条文を都合よく解釈して、法律障壁をも簡単に飛び越える。これは、まさしく波動性ではないか。もはや、一部の人間の政治力では、民衆の波を制御することはできないだろう。人間社会のような複雑系では、個々の物体が人間であっても、集団ともなれば波動関数が適応できても不思議ではない。そのうち、人間社会を不確定性原理で説明する社会学者が登場するかもしれない。そして、社会学は物理学に吸収されるのか?

5. 「ひも」っなんだ?
物質を細かく見ていくと、そこには原子があり、原子核の中に陽子と中性子があり、その核子を構成するクォークがある。そして、全ての素粒子の根源に「超ひも」が登場する。超ひもの形状には、両端が開いたものや輪ゴムのように閉じたものが考えられる。これらが絶えず運動し静止することはない。回転したり、振動したり、伸び縮みしたり、変形したりと。これは想像の世界ではなく、厳密な理論上の計算から導き出されるらしい。超ひもが様々なエネルギー状態によって異なる振動をすることによって、いろいろな粒子に見えるという。現在の素粒子は、クォークと、電子やニュートリノなどのレプトンであるとされているが、その素粒子の正体は一個のひもというわけだ。これは、熟成させたスコッチが琥珀色に見えるのも、ピート香やスモーキーも、単に「生命の水」が振動しているだけだということを暗示しているのかもしれない。
超ひもは、原理的には、引き伸ばして人間の目の見える大きさにすることも可能なのだそうな。ただ、それに必要なエネルギーはというと...ミニブラックホールができてしまう。超ひも理論のおもしろいところは、ひもの長さの半分がニ倍に等しくなるというから訳がわからん。時間も半分がニ倍に等しくなる?極微の世界では、コップ半分しか飲んでいないのに、二杯分請求されるということか?これは詐欺か?いや!二杯飲んでも一杯も飲んでいないと言い張ることもできるわけだ。つまり、極微な宇宙とは、飲んでも飲んでも酔えない世界というわけか。これは天国か?地獄か?

6. 次元の正体とは?
超ひも理論の古典解としてDブレーンという安定したエネルギーの塊があるという。それがソリトンというやつか。例えば、波が押し寄せる様子で、波が形を変えずに安定した形状を保ちつつ押し寄せる姿がソリトンである。Dブレーンの登場で、様々な真空の重ね合わせができるというから訳がわからん。トンネル効果もDブレーンで説明できるのだそうな。例えば、アルファ線が原子核を抜け出すような現象は、ある確率で真空を超えられると考える。プラスとマイナスでエネルギーを相殺する現象は、真空を重ね合わせる上でも好都合というわけだ。安定した空間を説明するためには、必ずエネルギー相殺の概念が登場する。超ひも理論は、10次元の理論とも言われるらしい。物事を一般化するということは、視点を増やすことかもしれない。そして、時空の次元を増やしてやれば、矛盾の生じない統一理論ができるのかもしれない。あらゆる説明のできない複雑系の現象は、別の次元を加えることによって、エネルギー保存則、運動量保存則といった「不変」あるいは「対称性」の原理に帰着するのかもしれない。そして、あらゆる次元が解明された時、結局、ニュートンやユークリッドに帰着する可能性はないのだろうか?神を蔑む無神論者が、結局、独自の神学を構築するように。
ところで、人類の住む宇宙は、どの次元空間にあたるのか?人類は、10次元宇宙に浮かぶ4次元空間だけを認識しながら生きているのか?人間が認識できる相互作用は重力である。言い換えれば、重力を感じない空間が目の前に存在しても認識することすらできない。ここには、なんとなくパラレルワールドの存在を感じる。普段、均衡しておとなしくしている異空間から、突然表れる重力波を感じても不思議ではない。これが霊感というやつか?ニュートンの重力法則は、天体規模でしか成り立たないとされる。だが、極微の世界ではその関係が崩れるのではなく、別のDブレーンの存在が影響しているだけなのかもしれない。千鳥足で気持ち良くゆらぐ足取りに向かって、突然重力点(店)からの影響によって軌道がずれるのも、そこにDブレーンが潜んでいるからに違いない。なるほど、ホットな女性には特別の重力波を感じる。

2010-01-06

もしも、アル中ハイマーな数学者がいたら...

もしものコーナー...
もしも、アル中ハイマーな数学者がいたら...だめだこりゃ!

大デカルトのように、若き日に哲学や倫理学を蔑み、数学だけが真理を与えるとしながら、結局哲学へ帰依していった偉大な数学者は多い。したがって、あらゆる数学の公理には、なんらかの哲学的な意味が内包されている。
アインシュタインが時空の概念を持ち出す前から、カントが時間と空間のみをア・プリオリな認識と規定したことには意義深いものがある。


1. 数学は哲学である
人類が学問を始めたきっかけとは何か?その源泉となる思考とは何か?などと、ぼんやりと考えてみる。それは、人間とは何か?自己とは何か?生きるとは何か?こうした素朴な疑問から始まったことだろう。そこには、人類の住む宇宙の真理を探求する欲望がある。となると、思考の源泉は欲望であろうか。人間精神という得体の知れないものを解明しようとすれば、明確なところから徐々に形式化していく。抽象化技法とは、古代から受け継がれる哲学的思考方法である。そして、人間の思考から生まれた公理は、見事な宇宙原理を示している。公理は直観によって生み出され、そこから客観的に演繹されたものが理論体系として構築される。数学という学問の流れが始まったのは、こんな感じであろうか。人間精神から形式化されたものだけが数学として分離し、そして、いまだに人間精神の真髄部分だけが哲学に留まり続ける。つまり、自然哲学として分離したものが数学であると解釈している。それは、ニュートンの著書プリンキピアの正式名「自然哲学の数学的原理」が示していると言っていいだろう。したがって、数学も哲学も論理体系化しようと試みる点では、同じ学問である。
古代から、数学は完全なのか?数学は絶対的真理でありうるのか?という哲学的論争がある。アリストテレス以来、論理学は真か偽のどちらかを追求してきた。数学の問題を一つ解決すれば新たな問題が生じ、数学は常に不安定な状態にある。というより、すべての学問が常に危機的状況に曝されると言っていい。だから学問なのである。これは悲観論というより積極的に捉えるべきであろう。数学や論理学には、常に直観と形式の対立が見られ、方法論においても哲学的な論争が繰り返される。人間味と無味乾燥の対立は延々と続くかのように。
ユークリッドの「原論」は、人類史上最も厳密性のある書物と言われる。だが、非ユークリッド空間が登場すると、数学の真理に疑いを持つ風潮が現れた。第五公準は、明らかに他の公準よりもややこしい。いわゆる平行線公理である。ここにユークリッド自身が、非ユークリッド空間の可能性を暗示していたと解釈するのは考え過ぎか。そこで、数学の乱れに方法論的に方向付けをしようと試みたのが、ヒルベルト・プログラムである。しかしこれまた、不完全性定理の登場によって、数学は哲学の領域に引き戻された感がある。この感覚は、チューリング・モデルを推奨する純粋数学者たちにとっては気持ち悪いものに映ったであろう。
G.H.ハーディ曰く、「数学者が作る様式は、ちょうど画家や詩人の様式と同様に美しくなければならない。様々な概念は、色や言葉と同様に、互いに調和しつつ全体を形作らなければならない。美が第一の条件である。この世には醜悪な数学に永住の地はない。」

2. 異質な学問
純粋な数学は他の学問と比べて異質である。物理学は、機関車やエネルギーといった、人間社会を豊かにしようとする具体的な目的を持っている。あらゆる学問は、人間社会への貢献を具体的に掲げる。それに反して、結果的に害となるケースも多いわけだが。対して、数学は不思議な世界で、そこに目的なんてものはない。ひたすら美しい理論や真理を探求するだけだ。結果的に何に使われようが知ったこっちゃない!言い換えれば、純粋な精神を探求する世界である。数学のほとんどの定理が、日常生活に役立つわけではない。役立てているのは占い師ぐらいか。純粋とは言っても、難問を解くことによって名声を得ようとか、賞金をものにしようといった野心もつきまとうわけだが。
発見された理論は、偶然にも後に応用分野で活躍する場が与えられる。まさか素数の発見者が、暗号アルゴリズムに使われるとは思わなかっただろう。あらゆる技術分野において、数学の知識がなければ仕事ができない。人類への貢献という意味では、数学は間接的にしか拘われない。だからといって、他の学問がどれほど人類に貢献したというのか?どんな学問であれ宇宙に貢献したものなどあるのか?偉大な生命体の歴史を眺めれば、一匹のプランクトンよりも貢献した人間なんているのか?どんな優れた知識でも、人間社会にとって薬にも毒にもなる。多くの科学者が純粋な知識を政治的に悪用されて苦悩してきた。弾道計算や航空力学など、数学の戦争への貢献は大きい。もし、戦争が終わるのが早いほど善とするならば、科学の戦争への貢献は絶大と言えよう。更に悲観論に持ち込んで、人類滅亡の危機まで背負い込めば、宇宙平和のために貢献していると言えるかもしれない。自然環境にとって、もっとも有害な人間社会を抹殺できるのだから。
数学者たちは、純粋に学問に取り組むために、政治的な思惑にかかわることを避けたいと考えるだろう。そして、人間社会にかかわることを嫌うかもしれない。純粋な精神を追い求めれば、人間嫌いにもなる。肩の凝る世間体に巻き込まれたり、片意地を張っていては、純粋な精神を解放できるはずもないのだから。こうした境地は、凡庸な酔っ払いの憧れでもあるが、けして到達できるものではない。自由とは、天才にのみ与えられた特権なのだろう。
「凡庸な、いや!凡庸未満の酔っ払いは自由がほしい!と大声で訴える。純粋な天才は無言で自由を謳歌する。」

3. 数学の神
数学の歴史は抽象化と一般化の歴史である。もともと数学の対象は数であり、それは自然数から始まった。自然数の欠点は、引き算や割り算を行うと、答えが自然数の系からはみ出すことである。算術によって系が閉じられない現象は、数の概念を、整数、有理数、実数、複素数へと拡張させた。そして、無限の概念にぶつかった時、神が現れた。論理的限界に到達した時、不完全性定理が姿を現し、数学ですら矛盾の概念には無力であることを証明した。数学は、またもや宗教へと引き戻されるのか?
数学の抽象化は、射影幾何学でおもしろい現象を見せる。写しを完全にするか?不完全にするか?と議論すれば、実存論やイデオ論に通ずるものがある。まさしくトポロジーの世界は、あらゆる物体の形状を位相的に同等化して、物体の実体を曖昧にする。物体の構造は、抽象化の進化とともに分解され、もはや実存から離れていくかのようだ。数学的実存は、形而上学の問題を多く解決してきた。だが、人間の持つ抽象化概念は哲学的な実存問題をややこしくする。数学の発達がコンピュータを進化させ、議論の対象を実空間から仮想空間へと変えてきた。科学が天動説から地動説へ変化させ人間の地位を下げていくかのように、数学は実存の概念から遠ざけようとしているのかもしれない。そして、人間の存在すら蔑むのだろうか?
数学界には、二つの相反する宗派がある。それは、「離散」と「連続」である。代数学は自然数や有理数などの離散数を対象とし、解析学は関数や無理数などの連続体を対象とする。代数学は真理を求める理論的方法であり、解析学は生きるための実践的方法と言えよう。それぞれの宗教的立場は、無限を神に崇めるか自然数を神に崇めるかの違いである。離散数の極限には神秘な宇宙が拡がり、連続体の中で自然数は特別な輝きを見せる。
また、数学界を違った角度から眺めると超越数の諸派が入り乱れる。その代表が、円周率π派とネイピア数e派である。誰がどの宗派に属するかは簡単に見分けられる。ちなみに、アル中ハイマーはe派である。その証拠に、オッパイ星人ではなくて、脚線美にこそ自然美の対(つい)を心底感じるからである。これを「自然対数底の原理」という。ところで、超越数と超越数を足すと、答えは超越数になるのだろうか?
あらゆるカルト宗教の源泉が無限の概念に憑かれる。彼らは布教活動に数秘術を使う。まず、4,3,2,1で形成される正三角形を崇め、足せば10となり、これを聖なる数とする。神の正体を暴くには、親しみのある数を元にする。そうでなければ民衆は理解した気になれないので、詐欺は成立しない。ちなみに、鏡の向こうに、「十の時が流れる」という名を持つ赤い顔をした住人がいる。彼はテトラクテュスの申し子か?はたまた霊能者か?いや!単なる泥酔者だ。

4. 無限の概念
人間の認識は「無限」という概念をあっさりと受け入れる。人間はなぜ?このやっかいな概念を受け入れられるのだろうか?数学者は、無限濃度アレフを崇め、より次元の高い無限!無限の無限!寿限無!寿限無!と呪文を唱える。微分という数学の道具を使って「無限」に近づこうとする。だが、永遠に近づこうとするということは、永遠に到達できないことを意味する。逆に、「有限」の概念を考察すれば、それだけでは語れる世界が狭いことに気づかされる。「無限」の概念は、単に「有限」との対比として存在するだけなのかもしれない。単に、「無限」の概念を受け入れれば、精神が安住できるだけのことかもしれない。酔っ払いは、「俺は酔ってないぜ!」と永遠に酔っ払っていることを否定しながら、どこまで飲めるか限界を試す。だが、記憶にないから永遠に飲める量が解明できない。結局、有限も無限もその境界線は永遠に解明できないではないか。ここから得られる帰結とは、酔い潰れて気分悪くその場に寝込んでいる状態が「有限の概念」で、精神だけが「あぁ気持ちええ!」と幽体離脱した状態が「無限の概念」である。これは天国か?無限地獄か?人間は「無限」という言葉に憑かれる。人間精神には幻影を追いかける性質があるのだろうか?実存するかも分からない不可能な観念を熱烈に求めるのは、人間精神の持つ本質なのか?だから、実りもしない愛を求めるのか?なるほど、愛は実を結んだ途端に興ざめするのも道理である。

5. 巨匠の影と複雑系の道具
複素解析に重要な指数関数と三角関数の関係を示したのは、言わずと知れた巨匠オイラーである。この数学の道具は、急激に増大し発散する世界を、振動する閉じた世界に変えてしまう。そのお陰で、ホーキングは、虚時間という概念を持ち出し、宇宙の境界線まで無くしてしまった。アルコールのピッチが上がれば上がるほど、同じ台詞を繰り返してホットな女性を口説くという現象もオイラーの公式によって説明がつく。夜の社交場へとまっすぐに向かう足取り(クリティカル・ライン)は、いつのまにか例の店(零点)にいる。店を出て、更にまっすぐ歩くと、またまた例の店(零点)に辿り着く。ただ、クリティカル・ラインがまっすくだと信じているのは、歩いている本人だけで、結果的に螺旋を描いている。この現象は、実(実数部)は半分(1/2)しか飲んでいないのに、ひょっとしたら(虚数部で)無限に飲んでいるのかもしれない。しかも記憶がない(自明でない)。おまけに、たとえベロンベロンに酔っ払っていても、別の人格(定義域)では、「俺は酔ってないぜ!」と主張する。これはまさしくゼータ関数の特性ではないか。なるほど、リーマン予想は、酔っ払いの気まぐれな行動をも体現させる。
ひょっとしたら、あらゆるランダム現象は無限級数によって数学的に表記できるのかもしれない。ゼータ関数の自明でない零点は、多くの研究分野でランダム・モデルとして使われる。複雑系を議論する上では、確率論に持ち込んだ方が現実的な答えが得られるからだ。量子論では、エネルギー準位やカオス系において粒子の存在確率を議論する。ネット検索では、完璧な検索結果を時間をかけて得られるよりも、だいたい正しいだろうとする結果を高速で得られた方が有用性が高い。ランダム性には、実は数学的に体系化できる何かがあるような予感さえする。これすべて、背後に偉大なオイラーの影を感じる。
全ての行動規範を論理に頼るのは危険である。宇宙は矛盾律で成り立っているのだから。コンピュータ工学を学んだ人は、実数演算をいかに近似で誤魔化しているかを知っている。たまーに浮動小数点演算で答えが合わないと騒ぐ新人君を見かければ、IEEE754の意義を匂わさてやればいい。そこに、べき乗の壁があることを。実数演算が全てできると信じるのは狂信的である。実数演算はできないものの方が多いのだから。アラン・チューリングは、プログラムが停止するかどうかを決定する機械的方法が発見できれば、計算できない実数演算も計算ができると主張した。いわゆる、対角線論法によって証明された「停止問題」である。
微積分学は、人間社会を実践的に捉え、極限に近づくことで豊かにしたと言っていい。数学は、社会現象などの複雑系を体系化する道具として用いられる。だが、数理物理学を支えてきたこの偉大な概念も、三百年に渡って息切れしている。そこで、実践的な解決策として「アルゴリズム」という概念が登場した。アルゴリズムは記号を操作する手続きに過ぎない。だが、知能の概念をも解き明かそうとするから摩訶不思議。アルゴリズムの計算は、有限で不連続で、ただシミュレーションによって離散的にスナップショットするだけだ。数学者は、この不連続なものを貼り付けることによって、近似的な仮想世界を推論する。いまや、自然科学の基本法則は、アルゴリズム、情報、記号の三つの概念によって救済されると言っていいのかもしれない。つまり、人間は、現実世界を仮想世界によって近似して実践しているわけか。

2010-01-03

もしも、泥酔した反思想家がいたら...

もしものコーナー...
もしも、泥酔した反思想家がいたら...だめだこりゃ!

あらゆる思想というものは、社会風潮の反発エネルギーから育まれた。いずれも当初は素晴らしいものだったに違いない。だが、その創始者がどんなに天才であっても、凡庸な人々によって改竄されていく運命にある。
おそらく、あのナザレの大工のせがれは、噂されるほどの偉大な人物だったに違いない。お釈迦様が気の毒なのは、仏像として拝まれることである。あの偉大な釈迦がそんなことを望むはずがない。


1. 反思想家の告白
神は、宗教を通して人間に義務を与える。これが神学の意義であろうか。宗教の矛盾は、神の言葉によって強制力を発揮するところにある。言葉は人間から教えられるものであって、神からは沈黙しか教えられないはずなのに。そして、自ら持つご都合主義と有難迷惑主義によって、自己矛盾という呪縛にはまりこむ。
その一方で、科学者や数学者たちは、神を思いっきり蔑みながら、独自の神学を構築する。そこには、それなりに合理性が見られる。強制する神の存在は邪魔だが、自由に創造できる神の存在は邪魔にはならないということである。
あらゆる思想は、社会的慣習の上に成り立ち、その上に宗教的思想が育まれてきた。けして宗教によって先導されてきたわけではない。しかし、宣教師たちは、宗教の存在を大前提にしながら、その上に思想が成り立つかのように洗脳する。だから、無宗教家や無神論者を蔑むのであろう。
思想や哲学を構築する過程では、あらゆる角度から論理的な検証を試む。だが、けして思想構築に完成を見ることはない。自己矛盾と対峙しながら思考を繰り返し、下手をすると精神病まで患ってしまう。精神病患者とは、自らの精神と正面から立ち向かう勇気の持ち主なのかもしれない。人間は、退屈すぎれば、ろくなことを考えない。忙しすぎれば、思考することすら怠る。精神は泥酔するぐらいでちょうどいい。精神分裂をアルコール分解と錯覚するから。そして、真の思想家は、独自の思想を構築するために、あらゆる思想から遠ざかり、ついには泥酔した反思想家と呼ばれる羽目になる。

2. 思想のカルト化
あらゆる思想の創始者は偉大であったのだろう。だから、少なからず信者がいる。問題は、偉大な創始者を伝承する人々が凡庸だということである。教えを民衆に広めるためには、分かりやすく、しかも象徴となるものがあると便利である。高貴な思想は、受け継がれていくうちに凡庸化し、崇高過ぎる思想は様々な解釈を生む。聖職者たちは自らの存在感を強調し、罪人たちは改心すれば全てを水に流してくれると信じるだろう。そして、宗教組織は愚行で暴走し、多くの偶像崇拝を誕生させてきた。宗教家たちは、無条件に信じるように仕向け、群集を脳死状態に陥れる。しかも、その思想を幸福という最高位の価値観に崇めながら、自らを善人像として仕立て上げる。だが、あのヘブライ人を崇めるのと、キリスト教を崇めるのとでは、意味が違う。
パスカル曰く、「キリスト教を本当だと信じることによって間違うよりも、間違った上でキリスト教が本当であることを発見するほうが、ずっと恐ろしいだろう。」
偉大な人物は抽象的にしか語ってくれない。真理を探究した挙句に、具体的には何も語れないことを悟ったかのように。だが、凡庸な人々は具体的な言葉を求め、司教たちは具体的な行動をお示しなさる。偉人たちは、あの世で嘆いているだろう。「私はそんなことを言った覚えはない!」と。
無条件に信じられるものがあれば、人間は幸せになれる。ただ、幸せは、ちっぽけなぐらいでちょうどいい。幸せ過ぎると、無理やりにでも余計な悩みをこしらえるのだから。幸せを求める人間の欲望には限りがないのだから。伝統や思想になんの疑いも持たずに、ただ服従するのであれば、カルト化する。聖書を単なる読み物として出版し、解釈を一般の読者に委ねれば、優れた倫理学の書となるであろう。宗教は遠くから眺めるぐらいでちょうどいい。近づき過ぎれば盲目となって狂乱する。愛は近づきすぎるから盲目となる。
どんな組織や機関も、創設された当初は、きっと美しいものであったに違いない。それらは、社会問題を解決するために現実的な手段として誕生したことだろう。だが、長期化すると腐敗し、やがて社会の害へと変貌していく。人間精神は、いつも安住の地を求めてさまよう。一旦その地を獲得すれば、今度は頑なに守ろうとする。人間は面倒臭がり屋なのだ。美しいものが、長期化の中で醜いものへと変化するのは、宇宙原理なのかもしれない。人間社会は、宇宙膨張とともに、ますます破壊のカオスへと膨む。となれば、人間は思考の検証を永遠に続ける義務を背負わされることになろう。人間社会には、政治家がまつりごとを破壊し、 経済学者が経済危機を招き、道徳家が道徳を崩壊させ、平和主義者が戦争を呼び込むという矛盾した現象で溢れる。矛盾律は宇宙原理として存在するかのように。

3. 「教える」とは何か?
ソクラテスは教育学を否定し、子供の精神の自発性を呼び覚ます人を教師と呼んだそうな。それは、教育者が自分を押し通して精神的な統率者になろうとするのではなく、教育者とは弟子に弟子入りする人といったところであろうか。権威的で強制的なところに、真の精神は宿らないというわけか。
知識は何のために得るのか?と問えば、それは人生の意義を豊かにするためという答えが返ってきそうだ。では、知識はどうやって得るのか?それは、先人たちの知恵や思想といったものを参考にしながら、自らの能力によって加工することであろうか。教科書や参考書といった自分に合ったものを探しだす思考のプロセスにこそ、知識の源泉がある。知識とは、自主的に得るものであって、他人から教わるものではない。したがって、「教える」とは、学問の意義や楽しさを匂わせることぐらいしかできないであろう。コンピュータ部品のように、人間を記憶素子化しても無駄である。記憶至上主義は、子供たちの創造性を奪うであろう。そして、学問は、他人との詰め込み度の差別化によって、優位性を感じるだけのものとなる。知識を得ようとすればするほど、物事が見えなくなる。理解しようとすればするほど、理解できなくなる。実体を把握しようとすればするほど、実体が見えなくなる。そして、何もかもが空虚に思えてくる。そもそも、人間精神とは夢想に過ぎないのかもしれない。知識への欲望とは、自己の実存を感じるための手段といったところだろうか。最初から教材や結論が与えられれば、学問の意義や楽しさを奪うことになる。教材が自分に合うかどうかなんて、自分にしか分からないのだから。人間は、あらゆる問題の解決方法を具体的に模索しようとする。その答えを第三者に求めても見つからない。具体的な方策は自ら編み出すしかあるまい。結局、学問は第三者の意見を参考にすることはできても、我流で育むしかない。「独学にまさるものなし!」学問する時間は、ほとんど人生の道草の中で費やされる。それがたまらなく愉快なのだ。教えるもののない者にとって、「教える」とは、自らの馬鹿さ加減を暴露することである。

4. 学問の意義
一般的に、学問を早期に始めることを煽る風潮がある。子供はあらゆる知識を容易に吸収できるから、それも間違いではないだろう。だが、幼児英才教育にしても短期的には意味があろうが、長期的な効果があるかは疑わしい。大人になって自発的に学習しなければ、学力は低下するであろう。学問はいつから始めるというよりも、「続ける」ことが肝要である。だが、この「続ける」という行為が最も難しい。
あらゆる学問が深みを増せば、専門化が進み専門馬鹿に仕立てられる。それも仕方がないだろう。学問は、数学などの自然科学から始めるのもいい。歳を重ねると数学で求められる柔軟な発想が難しくなるから。すると、必然的にコンピュータと触れ合い、コンピュータ工学を学ぶのもいい。論理的思考を重ねながらプログラミングしていると、いずれ文学に通ずるものを感じるであろう。また、日常生活から必然的に社会学や政治学に触れる。生活手段では経済学も必要となる。はたまた、生活の知恵や学問の根底には、先人たちの培ってきた歴史学がある。そして、最終的には哲学に辿り着くであろう。あらゆる学問で真理を探求すれば哲学的思考からは逃れられないから。
昔、理系の方がはるかに学問的意義が高いと信じていた時期がある。やがて、理系や文系の枠組みになんの意味があるのかと疑いを持つようになった。コンピュータの世界には、文学と科学の融合が見られる。美しくプログラミングするには文章センスが問われ、効率良くプログラミングするには工学的構造を知らなければならない。
高度な情報化社会では、容易に知識が得られる分、生産性が高まったことは間違いないだろう。しかし、創造力や思考力が高まったかは疑わしい。情報が溢れる分、落ち着いて物事を考える時間は減ってはいないか?現代人は忙しいのだ。古代の哲学的思考や科学的発想は、現代人をはるかに凌駕しているように思える。知識から、結論や具体的な解決策が見つかるに越したことはない。だが、焦ることもあるまい。見つからなくて結構!むしろ、知識を得るまでの過程を大事にしたい。人生は死までの暇つぶしであるから。
一方で、人間には信仰が必要である。何か信じるものがなければ、信念のようなものがなければ、学問を続けることも難しい。となれば、信仰的強制力に囚われずに、解放された精神から納得のいく信仰を構築すればいい。一つの事に集中して匠の世界を究められるのは、豊かな才能に恵まれた人々だけに与えられた幸せであろう。専門分野だけで、芸術の域に達した精神を味わえるのは、一部の天才たちだけであろう。対して、凡庸な、いや!凡庸未満の酔っ払いでも、それなりの生き方があると信じたい。したがって、「学問とは、気の向くまま、足の向くままに探求することによって持続すること」と解釈している。

5. 読書の是非
学者の中には、強制的や権威主義的な読書に批判的な人も少なくない。何事も知識を得るのに、興味を持たなければ効果は期待できない。本に出会うにしても、それなりに興味があったり共感できるものがあるから、その本を選ぶことができる。多く読書をすると賢くなるという学者の意見も耳にするが、そう単純でもなかろう。テロリストやカルト宗教に嵌る人ほど、よく読書しているように映る。
知識が、逆に思考の邪魔をすることもある。煮詰まった時に思考をリセットしてみることも大切であるが、余計な知識のために、思考の転換の妨げになることもある。知識とは不思議なもので、得れば得るほど物事が分からなくなるような気がする。自信を持っていた知識は、だんだん自信を失っていく。
パオロ・マッツァリーノ氏は、OECDの調査では読む時間を問題にするが、日本の読書調査では冊数ばかりを問題にすると指摘していた。冊数で読書の質を評価することは、統計の暴力のなにものでもない。酔っ払いは一冊を読むのに時間がかかるので、冊数で評価されたら落ち込むしかないではないか。貧乏性だから、くだらない本でも隅々まで読んで元を取ろうとする。ハズレないように、必然的に立ち読み時間も長くなる。経験的には、手軽に読める本よりも、苦労して読む本の方が得るものが大きいような気がする。読むのが難しいということは、読者に思考の働きを求める。読むのが易しいということは、思考せずにそのまま鵜呑みにする恐れがある。具体的で分かり易いものほど洗脳力が高いと言えよう。
義務教育で盛んに行われるのに読書感想文がある。そもそも、感想というのがクセモノだ!感想とは自由であるはずなのに、教師が正しいと思う思考へと誘導される。子供たちも大人たちの顔色をうかがいながら優等生振りを装う。したがって、感想文を書くことで文章が嫌いになる子供も多いはず。酔っ払いはその典型だ。自由に文章を書くことに喜びを感じはじめたのは、論文を書くようになってからであろうか。だが、技術論文は形式的であって、主観性を排除する慣わしがある。とはいっても、完全に主観性を排除する文章なんて書けるだろうか?純粋な客観性で綴るならば、数学の公理のような表現しかできないはず。ほとんどの客観性は、業界の慣習に従っているに過ぎない。客観性で語ると宣言した論者が、客観性で語っていたためしがない。どうせ客観性で語れないのなら、思いっきり主観性で綴ってみるのも悪くない。そう開き直ると、気楽に文章が書けるようになる。お陰で技術論文でさえ、冗談を忍ばせないと気が済まなくなったのは困りものだ。