2009-03-29

もしも、アル中ハイマーな哲学者がいたら...

ドリフのもしものコーナー...
もしも、アル中ハイマーな哲学者がいたら...だめだこりゃ!

1. 矛盾というパズル
哲学書は、難解な論理の羅列がBGMを聴いているような錯覚に陥れる。難解な文章を遠目から眺めれば、いろんな思考が錯綜する。そして、一つの言葉でも違った意味をめぐらせながら精神を混乱させる。一語異義的な世界とでも呼ぼうか、一貫性さえ疑いたくなる。これも、人間の精神が矛盾律で成り立っている証であろう。
人類の歴史は矛盾の概念に憑かれている。神が完全であるならば、神は愛することも憎むこともしないはずである。なのに、宗教はなぜ?「神はすべての人間を愛する」と教えるのか?なんと不合理な思考であろう。なるほど、どんな罪人であっても神が愛してくれるならば、犯罪者は宗教へ帰依するはずだ。「苦しい時の神頼み」というが、自分にだけ不幸が及ばないように祈ることは、神を冒涜する行為である。こうした矛盾した行動によって精神の不安から解放されるならば、それもありかもしれない。神は、人間の精神を救済するために、矛盾というパズルをお創りになったに違いない。
近年では情報化の波が押し寄せる。膨大な情報量を消化するには労力がかかり、人間はますます忙しくなる。言い換えれば、思考の深さを妨げることにもなろう。人生は短いのだ。高度な情報化社会では、情報に対する目利きがなければ、精神の本質へ近づこうとする思考を妨げるという不思議な関係が成り立つ。社会の進化は人間に新たな能力を要求する。なるほど、哲学が真理を求める学問であるならば、暇人にしかできないわけだ。人間社会は、エントロピー増大の法則に従って複雑系へと陥る。その中で人間が生き抜くためには、自ら精神病を患わせないように深い思考を妨げる必要があるのかもしれない。これも神が人間に与えてくれた一つの防衛本能なのかもしれない。
ゲーテ曰く、「優れた人で即席やお座なりには何もできない人がある。そういう性質の人は事柄に静かに深く没頭することを必要とする。そういう才能の人からは、目前の必要なものが滅多に得られないので、我々はじれったくなる。しかし、最高のものはこうした方法でのみ作られる。」
競争社会では、深い思考を妨げながら知識を詰め込むことを奨励し、記憶力によって優位性を決する。だが、これは神が与えてくれた人間の最高の才能に反する。その才能とは「忘れる」ことである。だからノイローゼにならなくて済む。この才能は神にも敵わない。おそらく神はノイローゼを患っているに違いない。だから、「人間」なんて不完全なものを創造してしまったのだ。おそらく神は後悔しているだろう。そのために矛盾というパズルを必要としたのだから。そう、神をも超越する概念を必要としてしまったのだ。

2. 哲学してみる
哲学と数学は同じ論理学を扱う意味ではよく似ている。ただ、扱う対象が違う。数学は物理量や時間スケールといった「空間の量」を対象とする。一方、哲学は人間認識や理性といった「精神の本質」を対象とする。論理学は常に客観性に基づく体系化を求める。数学の公理は永遠である。ところが、精神ってやつは主観と客観の双方の領域にかかわるからややこしい。数学は哲学から派生した学問だと思っている。本質を見極めようと普遍原理を探求する中で、体系化を見出すことができたものが数学として分離したと考えるからである。逆に言うと、人間精神にかかわる部分だけが哲学にとどまっているとも言える。不完全性定理は、まさしく数学の領域から哲学の領域に引き戻した感がある。数学の証明には直観的確実性や自明性なるものが現れるが、哲学の証明には弁証法なるものが現れる。弁証法が有効だと認めている時点で、人間は矛盾と対峙する運命を背負うことを自覚しているのだろう。あらゆる学問は人間にかかわる現象に対して体系化を求めてきたが、ことごとく失敗してきた。しかし、失敗したからといってその試みは無駄ではない。体系化できるかできないかの境界性をさまよいながら、人間精神の限界を知ることができるからである。哲学が特殊なのは、他の学問に比べて知識の果たす役割が小さいことである。ひたすら精神の働きによって真理を求めることができる。あらゆる学問で本質の探究を試みれば、哲学的考察を避けることはできないだろう。物事を深く掘り下げれば哲学的思考に辿り着くはずだ。あらゆる学問で偉大な学者が、同時に偉大な哲学者であったのもうなずけるわけだ。ところで哲学者ってどうやったらなれるの?自称すればええのか?

3. 自己言及の罠
哲学的思考では、物事は本当に存在するのか?と疑えば実存論争が巻き起こり、存在意義はあるのか?と疑えば無意味論と対峙する。そして、哲学とは何か?と自己言及の領域へと入り込む。数学界では、自ら定義した論理的命題を自己矛盾によって撃破され、不完全性定理を登場させた。科学界では、原子の解明に微小粒子を衝突させるように、粒子の解明に更なる小さな粒子の衝突を求めた結果、不確定性原理はこれ以上分解できない素粒子の解明という矛盾を匂わせる。いずれも、自己言及の罠によって自己矛盾を導いた結果である。もはや、系の姿を解明するためには、更なる高次の系から眺める必要があるように思われる。だが、必ずしもそうとは言い切れない例もある。数学の難題であるポアンカレ予想は、宇宙の外から眺めなくても、宇宙の外観をおおむね理解することができることを暗示している。これは、系の中に存在するものが、その系の姿を解明できる可能性を示しているのかもしれない。微分積分とは、事象の正体を解析するために仮想的に次元を上げたり下げたりする数学の道具である。ポアンカレ予想を解いたグレゴリー・ペレルマンは、まさしく微分幾何学を使ってトポロジー数学者の度肝を抜いた。しかし、ペレルマンはフィールズ賞を辞退して失踪してしまった。これは、人間自身が住む宇宙を解明した途端に、人間自身が精神を失った結果なのかもしれない。まさしく哲学は、人間精神の解明に人間精神がどこまで迫れるかという自己言及の問題を突きつける。自分自身を変えることができるのは自分自身でしかない。いや、自分自身ですら変えることができないのかもしれない。それを見極めるためにも自己言及を避けるわけにはいかない。そして、「俺は誰なんだ?」と問い続ければ「飲むしかないではないか」という結論に達する。しかも、酒を飲んでいるのか?酒に飲まれているのか?も分からず自己認識の存在すら疑わしい。これが哲学するということである。したがって、あらゆる哲学者はアル中に違いない。

4. アル中ハイマーの哲学とは
  • 哲学とは、暇人の学問である。
  • 人生とは、死までの暇つぶしである。
  • 生き甲斐とは、死の恐怖から逃れる手段である。
  • 多忙とは、神経疾患への麻酔薬である。
  • 退屈とは、不安と葛藤する勇気を養う時間である。
  • 天国と地獄があるなら、まさしくこの世である。生き甲斐が見つかれば天国。見つからなければ地獄。
  • 幸福とは、不都合なことを忘れさせてくれる瞬間である。
  • 絶望という名の希望は、人生を時々立ち止まり、そして振り返ることの大切さを教えてくれる。
  • 人間は解釈することができても、永遠に理解することはできない。
  • 浅はかとは、理解したと自負することである。信じるとは、思考を停止させることである。おまけに、哲学するとは、酒を飲むことである。したがって、酔っ払いはいつも理解した気分になる。あぁ愉快々々!
  • 物事をできるだけ抽象的に語り、様々な解釈を思わせる可能性を示せば、そこには、崇高な地位へと押し上げる何かがある。これが哲学の極意というものだ。したがって、哲学はチラリズムに満ちている。
人生の泥酔者には、自然に揺られる心地良さがある。なすがままに揺られる姿には、「Let it be.」の精神がある。これは絶望や諦めといった反応に似ているが、けして負の思考ではない。自棄になっては、どこかに未練がある証拠だ。運命とも思える現象を受け入れ、のんびりと酒を飲みながら自然に浸る。無意味論に対しても、愉快ならば「ええんじゃないか!」と対抗する。そして、気分良く飲まずにはいられない。なぜかって?そこに酒があるから。

2009-03-22

"哲学者ディオゲネス" 山川偉也 著

「酔っ払ったディオゲネス」を名乗るからには、この本を避けては通れない。ディオゲネスは、自ら非人間階級に属し、積極的に社会からの関与を拒んだ。名誉を捨て、物乞いとなり、進んで乞食となったこの人物は、世間から犬と蔑まれる一方で、生きる上での必要な誇りとは何か?を追い求めた賢人とも評される。イエスしかり、偉人はホームレスの中に生まれるものなのかもしれない。ラファエロ作「アテナイの学堂」には、有名なギリシャ哲学者と一緒に描かれ、中央で一人だらしなさそうに横たわっているのがディオゲネスと言われている。その描かれる位置からは存在感が伝わり、その姿からは異端者であることが感じられる。
大甕に住んだと言われるこの犬派の哲学者を語る時のアル中ハイマーは熱い。本書も文庫本でありながら500ページと厚い。後書きには、600ページを超す原稿量になったが、500ページ以内に収めてくれと言われてかなりの部分を削除したとある。おいらの論文も長くしつこいので、必ず削るように指摘される。特に、理系の文書はコンパクトさが好まれ、余計な修飾は蔑まれる。ただ、前提条件を細かく吟味することは有用だと考えている。でも、世間からは受け入れられない。必要無ければ、読者が判断して読み飛ばせば済むことではないのか。おいらは前戯に目が無いのだ。実際に理系の論文であっても芸術的で感動させられるものもある。主観と客観を明確に使いわける分には大した問題にはならんだろう。ゲーテ曰く、「想像力は芸術によってのみ制御される。」文章表現はその人の精神を顕にする。表現の仕方を否定することは、その人の精神を否定することにもなる。ここで思い出されるのがモーツァルトの逸話である。それはオペラ「後宮からの逃走: K384」に関するものだったと思う。皇帝ヨーゼフ2世が「我々の耳には音譜が多すぎるようだ!」と言うと、モーツァルトは「音譜はまさに必要とされる量ございます!」と食い付いた。そう、芸術の域に達するものは、作者の主観に委ねられるべきだ。確かに、あまり分厚いと文庫本の読者からは敬遠されるだろう。だが、なるべく削らずに残してもらいたかった。たっぷりと主観を交えた専門家の意見を聞きたい。読者が客観的な目で眺めればいいだけのことで、作者の思考の深さをじっくりと味わいたいものだ。文庫本という形態にも制約があるのだろう。ならば上下巻に分ける手もある。などと思うのも、ディオゲネスに関する文献があまりに少ないからである。数々の逸話が残されているにもかかわらず、史料の少なさはアンバランスと言うほかはない。この人物は西洋でも意外と知れ渡っていないらしい。その理由はよくわからないが、思想が明確に残されていないからではなかろうか。その思想は逸話から想像するしかない。
本書は、数々の逸話を考察しながら、ディオゲネスの「世界市民」という世界観に迫ろうとする。その考察はかなり丁寧で、読むのも大変であるが、なかなかの重厚ぶりを披露してくれる。ディオゲネスについてこれだけ熱く語られた文献を他に知らない。おいらにとっては待望の作品である。ちなみに、アル中ハイマーは子猫ちゃん派である。

古代ギリシア時代に現れた都市国家群には、なんとなく興味がある。それも、グローバリズムの進む現在において、都市モデルとして通ずるものを感じるからである。ディオゲネスが生きた時代は、アテネイ、スパルタ、テバイベなどの有力な都市国家が凋落し、マケドニアが台頭してきた時代である。その時代に「世界市民」思想を先取りしていた点も興味深い。本書は、思想に迫るための前提条件として、逸話に対する信憑性から論じている。歴史家は、こうした曖昧な事象を放っては置けないのだろう。でなければ専門家とは言えない。これらの逸話は、ドラマティックに仕立て上げられているのも事実で、ほとんどが疑わしい。だが、その事実関係に目くじらを立てるつもりはない。それも二千数百年前の話だ。現在でさえ、著名人の語った見識を正確に報道できないでいる。注目したいのは、なぜこれらの逸話が、しかもこのような形で残されているのかということである。歴史の逸話には、通常その対象を称賛するか、あるいは、蔑むかといった一方向での誇張が見られる。ところが、ディオゲネスの逸話となると、その両方の傾向を合わせ持つところに謎めいたものがある。プラトンに「狂ったソクラテス」と渾名されるあたりは、ソクラテスと同列に扱われていると言ってもいい。アレクサンドロス大王やマケドニア要人との逸話は、思想や体制への批判であることは想像に易い。歴史には、本人が意図していたかは別として、周りの人々によって担がれ政治利用されてきた著名人が多い。ディオゲネスはアテナイの有名人で、しかも変人扱いされていたがゆえに、そうした象徴にされたのかもしれない。それは、おそらくキュニコス派(犬儒派)によってであろう。だとしても、反体制思想を持っていたことは間違いないように思える。本書は、プラトンと直接議論した可能性を否定し、批判の対象はその弟子アリストテレスに向けられたものだと語り、アリストテレスの国家思想と対比させる。本書の半分近くがアリストテレスについて議論しているという丁寧ぶりだ。また、資本主義の源流とも言うべき姿も現す。これらは推理小説ばりの展開が見られておもろい。

アリストテレスと言えば、幸福主義が思い浮かぶ。市民は平等であり、その最高善は幸福であるというものだ。しかし、「市民」の定義に疑問を持たざるをえない。その根底には「生まれつき奴隷」の思想があるからだ。そこには「市民」の身分を獲得できない人間が存在する。女、奴隷、農民、商人、手工業者、在留外国人など。古くから市民の自由や平等を唱えた政治家や思想家は多い。にもかかわらず、近代まで奴隷制や人種差別や植民地を伴なってきた歴史がある。古代ギリシア思想の終着点とも言えるアリストテレスの思想や、マケドニア人による支配体制を批判したのがディオゲネスの「世界市民」思想である。そこには「自足」と「上下逆転」の概念が現れる。どんな境遇の下に生まれるか、どんな国家に生まれるかは、運命とも言うべき偶然性に支配される。ディオゲネスは、家柄、富、名声といった生まれの違いを、「悪徳をめだたせる付け足しの飾り」と呼ぶ。これは、まさしく「生きること」がではなく、「よくいきること」が大切だと説いたソクラテスの精神を継承したものである。金と名声は、往々にして人を堕落させる。怠惰を求めると、なぜか勤勉になる。人間とは、おもしろい因果の下で生きているものだ。「世界市民(コスモポリテース)」という言葉は、ディオゲネスが作ったという。この言葉は、弟子クラテスを通じてストア学派の祖であるゼノンに伝わり、やがて帝政ローマの基本思想となる。ルネッサンス後は、欧州の道徳家たちの思想基盤となり、ルソーやカントの世界市民思想の伝統は、ニーチェなどを通じて現代まで受け継がれる。こうした継承の源流にディオゲネスの影が映るのは気のせいだろうか。ゲーテにも「聖ディオゲネス」という言葉を使った格言めいたものが現れる。

現在のグローバリズムには二つの対立した関係がある。それは国境を越えた分配思想と愛国心である。愛国心はグローバリズムと矛盾するという意見もあるが、それは本当だろうか?問題は宗教のように他を否定するところにある。過去にも「世界市民」と似通った言葉を使った政治家や思想家は多い。彼らは、自らの立場を正当化し言葉を操るのが得意だ。政治家や思想家は、物事を何もかも二極対立構造で捉えすぎる傾向がある。経済現象しかり、社会現象しかり、専門家は類似の議論をする。二極議論は分かりやすいので、注目もされ、大衆を扇動しやすい効果がある。人間は揉め事が好きなのだろう。精神は退屈しているのだろう。宗教では「聖なるもの」と「俗なるもの」という二つの関係で規定される。果たして、複雑系である人間の本性を二極対立の議論で単純化できるのだろうか?天体の二体問題は厳密に解けても、三体問題となると途端に迷走する。現在のグローバリズムは、欧米化であったり、先進国化であったり、異宗教の不和であったり、外国人の排除であったり、国粋主義であったりと、お国の事情によって様々な矛盾が対立する。神様は人間の精神を退屈させないために、矛盾の概念をお創りになったに違いない。この時代にディオゲネスが生きていたら何を語ってくれるだろうか?彼が唱えた「世界市民」とは、そんな単純なモデルであるとは信じたくない。こうなると「世界市民」の定義がなされていないことが残念だ。その分、想像の世界は広がる。モザイク画像だからこそ想像が膨れ上がって興奮するのだ。

1. 通貨変造事件
「そのことがあったればこそ、哀れな奴め、わしは哲学をすることになったのだ。」
「そのこと」とは通貨変造事件である。ディオゲネスはシノペの人で、古代都市シノペは現在のトルコ北端にある黒海沿岸のシノップという港町で、その名はアソポス河神の娘シノペに由来する。ディオゲネスの父は、銀行家ヒケシオスであるが、ただの銀行家ではなかったという。それは通貨発行に関わる最高責任者だったという。通貨変造事件を引き起こしたのは、ディオゲネス自身か父かは不明であるが、その事件によって父は投獄され、ディオゲネスはシノペから追放される。では、なぜ通貨を変造したのだろうか?それは、既に偽造通貨が多く出回っていて、シノペ通貨の信用が傷ついていたという。これは国家を揺るがす大問題である。この対策が通貨変造であると言われる。これは、むしろ正当化されるべき行為である。なのになぜ犯罪者とされたのか?当時ギリシアとペルシアが対立し、シノペはその間に位置する。本書は、シノペにペルシア帝国を後ろ盾にした勢力が入り込んでいたという推測を紹介する。また、単なる下級役人の不注意でノーマルな硬貨に対しても変造されたのではないかという推測も紹介する。ここには陰謀の香りがする。だからこそ、官僚の地位から振り子が真逆に振れて、自由人として生きたのではないだろうか。そして、国を捨ててアテナイへ流れ着き、哲学者となったのではないだろうか。

2. 狂ったソクラテス
プラトンにとって、ソクラテスは英雄的な存在であり、ディオゲネスはソクラテスの真逆の人物であった。「狂ったソクラテス」と表されるからには、ソクラテスと同列に扱われたとも言える。しかし、一般的には同列扱いされることを不快に思う人もいるだろう。ソクラテスは、追放刑を申し出れば助かったものを、自ら毒杯を仰ぐ「遵法の人」だった。ソクラテスは、不信心にして新しき神を導入し、青年を腐敗せしむる者として死刑を宣告されたが、あくまでもアテナイを愛し、国法に従ったのである。ただ、既に年老いていたので気力も失せていたのかもしれない。一方、ディオゲネスは、自ら国を捨て、国境なき世界市民として生きた。本書は、もしソクラテスが追放刑になって助かったならば、ディオゲネスと同じような道を辿ったかもしれないと考察する。両者の違いは、母国にこだわったかどうかであり、そこには思想的な類似性が現れるという。その思想とは、国境にとらわれない世界市民主義である。

3. アレクサンドロス大王との会見
ディオゲネスの逸話で最も好きなのがこれである。コリントスでアレクサンドロス大王と会見する。この地でギリシア軍が集結し、ペルシア遠征へ向かう直前の場面である。大王は、多くの政治家や哲学者が挨拶にくる中、ディオゲネスも出向いてくると期待した。ところが、ディオゲネスは大王すら相手にしない。そこで、大王の方から出向き、日向ぼっこをしているディオゲネスの前に立つ。この会話は本書と少々違うが、おいらはこの方が好きだ。
A: 「余が大王のアレクサンドロスだ!」
D: 「わしが犬のディオゲネスじゃよ!」
A: 「お前は物乞いだと聞く。欲しいものがあればなんでも申せ!」
D: 「では、日が陰るから、そこをどいてくれ!」
A: 「おまえは余が恐ろしくないのか?」
D: 「おまえは何者だ?善人か?悪人か?」
A: 「むろん、善人だ!」
D: 「ならば、誰が善人を恐れようか!」
会見後、ディオゲネスの誇りに感銘を受けて、次のように洩らしたという。
「余はアレクサンドロスでなければ、ディオゲネスでありたかった。」
この逸話には、ディオゲネスの偉大さもうかがえるが、アレクサンドロス大王の傲慢さも伝わる。本書は、この逸話も判官びいきのディオゲネス伝作者によって作られたものだろうと推測している。そして、マケドニアの要人との逸話では、そのほとんどがディオゲネスを反マケドニア派に仕立て上げようとする作為を感じるという。いずれにせよ、大王をも引き立て役にしての伝記が残るということは、それだけの存在感を考慮しなければならない。何を言ったかは別にして、両者が会見した可能性までは完全否定できないだろう。それにしても、ディオゲネスの死んだ日が、アレクサンドロス大王と同日というのは、あまりに出来過ぎである。だが、これを反証する証拠はないらしい。

4. アリストテレスの思想
プラトンが「人間とは二本足の、羽のない動物」と定義すると、ディオゲネスは、雄鶏の羽をむしりとり、「これがプラトンの言う人間だ」と言ってアカデメイアに乗り込んだという逸話がある。ただ、時系列的にも実際に両者が体面したこと自体が怪しいという。これは、プラトンへの批判というよりは、アカデメイアで講義するアリストテレスを批判したとするのが妥当だという。ただ、プラトンが「狂ったソクラテス」と揶揄したことは、噂で耳にすることはできるので、否定はできないようだ。アリストテレスは、「人間とは、その本性においてポリス的動物である」と定義した。そして、全てのポリスは共同体であり、その共同体は善を行うためにつくられるとした。人間が生きていくためには共同するしかない。ここに神と人間の境界線がある。アリストテレスは、共同を必要とせずに自足できる者が神か獣で、共同を必要としなければ生きていけないのが人間であると主張する。ここでおもしろいのは、共同を必要とせずに自足できるものに、獣を含めているところである。詭弁のようにも思えるが、獣とは罪人などの非人間階級を指している可能性がある。なんとなく、国もなく、家もなく、日々を物乞いしてさまよう人間の存在を感じる。ディオゲネスこそ、共同することのできない人間で、「犬」のレッテルを貼られている。アリストテレスの世界観には、人間中心主義的自然観と目的論的自然観がある。全ての自然が、その必然性によって生まれ、奇形も一種の獣として扱う。奴隷も獣と同様で戦争の道具であり、「生まれつき奴隷」という概念がある。アリストテレスは、あらゆる動物の中で、最も完全なのが人間で、その中でもギリシア人が最も完全で、男は女よりも完全であるとした。アリストテレスの国家構想は、支配する者と支配される者によって成り立つ奴隷制を前提としている。

5. アリストテレスの正義
アリストテレスは、人間を「国家への貢献度」という物指しで査定したという。ただ、この時代に宗教との関わりを断ち切っている点では評価できそうだ。アリストテレスは、ユークリッド以前の人物であるが、その法則には幾何学的命題にも精通している。政治体制が違えば、人物や事物の価値を測る基準は変わる。だが、変わらないものがあるという。それが「需要」である。ただ、需要自体は計算することができない。だから、これに代わって万物を数えたり比較するための手段が必要となる。アリストテレスは、それが金銭だと主張する。貢献度の尺度として、一見能力主義を唱えているようだが、評価対象が技能ではなく、人間そのものであることに注目すべきであろう。人間の価値は値札をつけられてランク付けされるのだ。人間関係が資本関係に置き換えられ、貨幣至上主義を打ち出しているようでもある。この尺度によって配分の正義と、交換の正義が成り立つという理屈で、奴隷に値がつくのもうなずける。実際には、人間の価値評価は曖昧なので、不平等が生じるのは言うまでもない。この思想は、今日、安く買って高く売るという不平等交換が国際市場を動かし、それが一部の投機家によって扇動され、投機に直接関与しない人々までもが失業し自殺に追い込まれ、世界規模の経済危機に陥れられる様子と重なる。本書は、アリストテレスの正義を、プロタゴラスの命題「万物の尺度は人間である...」をもじって次のように結論付ける。
「万物の尺度は金銭である。それ故に、正義の本質は金銭である。」
アリストテレスは、人間社会に不平等が生じるのは当然だと言っているようなものだが、市民階級に限っては平等と言っている。これは市民階級の人間能力は皆同じということか?ここで、ディオゲネスのピッタリとはまる言葉がある。
「人間どもよ!と叫ぶと人々が集まった。おれが呼んだのは人間であって、がらくたなんぞではない。」

6. 「自足」と「上下逆転」の概念
「自足」をプラトンの定義集から引用すると、「自分で自分自身を支配する」とあるらしい。つまり、人生を自ら指導する能力、人生を思いのまま生きる能力ということである。
デモクリトス曰く。「思慮ある人とは、自分が所有していないものについて思いわずらうことなく、現に所有しているもので喜びを感ずる人のことである。」
限度をわきまえて必要以上のものを求めない能力は動物の方がはるかに優れている。人間は欲望の野放図になる。ただ、欲望の抑制を知識と鍛錬で克服できると主張する哲学者も多い。こうした思想は基本的にソクラテスに通じるものがある。ディオゲネスの思想もこの延長上にあるが、半端ではない。生活に必要なものを最小限に切り詰め、何一つ必要としないといった神々の境地にまで達しようとする。
「あるとき彼は、小さな子が両手で水をすくって飲んでいるのを見て、この子に負けたと言って、持っていたコップを投げ捨てた。」
この逸話は文明否定にもとれるが、そうでもない。それは以下の発言からもうなずける。
「市民国家が存在するのでなければ、文明化していても何の益もない。しかるに、市民国家は文明化をもたらすものであり、また市民国家が存在するのでなければ、法は何の役にも立たない。したがって、法は文明化をもたらすものだ。」
ここで言う国家は、既存の国家を指しているのではない。既存の国家が崩壊した後に見せる理想の国家である。つまり、既存の国家では、まだ文明すら語れるレベルにないと言っている。ディオゲネスは、奴隷は主人無しでも生きていけるが、主人は奴隷無しでは生きていけないと揶揄している。ここに「上下逆転」の概念がある。
「人を屈服させ隷属させることによってしか自分自身のプライドや生き甲斐を感じられないような連中は、すべて、自主独立した人間ではなく下劣な奴ら、奴隷に過ぎなかった。」
人間は自らを鍛錬し切磋琢磨して自足の道を歩まなければならない、これこそが自由であると唱えている。

ディオゲネスが奴隷市場で売りに出された時の逸話から...
「おまえはどんな仕事ができるか?と尋ねられたところ、人々を支配すること、と答えた。その時、立っていろ!と命令されても、そんなことはどうでもいいではないか。魚だってどんなふうに並べられていようとも、売られていくのだから。」

ディオゲネス臨終時の逸話から...
「死んだ折にクセニアデスが、どんなふうに埋葬しようかと訊ねたところ、うつぶせに、と答えた。なぜそんなふうにするのか?と尋ねると、まもなく上下が逆転するだろうから、と答えた。」
クセニアデスとは、コリントス市民で、奴隷市場でディオゲネスを買った人物である。ディオゲネスは、クセニアデスの二人の息子の教育と家の管理を任されたという。

2009-03-15

"死に至る病" セーレン・キェルケゴール 著

人間は本能的に死を感じながら生きている。精神は、無意識に死までの時間を計測し、死へのカウントダウンの中にある。人間は生まれて死んでいく。人間にとってこれ以上のイベントがあろうか。だが、人間はこの二大イベントの瞬間を自ら意識することができない。人間が死を意識するとは、自らの死ぬ瞬間の前後を意識できるということである。もしかしたら意識できるのかもしれないが。生まれる瞬間も単に記憶が失われているだけかもしれないが。死という得体の知れないものが近づけば、人間は狂乱する。末期患者が死を宣告されて狼狽する姿を曝け出すのも至極自然であろう。最近の社会傾向として、生活保護が受けられずに餓死する例がある。昔は楢山節考のような貧しい時代があった。考えてみれば犯罪もせず自殺もしなかったわけだから、強靭な理性の持ち主なのかもしれない。その一方で、死を目前にした人間が想像もつかない超人的な力を発揮することがある。こうした例は、死に近づくことによって精神の成長がある可能性を示している。それは時間との闘いであり寿命との闘いである。精神という無形化した世界で虚しくも認識の時計だけが刻まれ、やがて肉体が衰え精神が泥酔していく。人間はそれを待つばかりの無力な存在でしかない。人間は死に至るまでの時間を自我と認識しているのだろうか?そういえば、時間(じかん)と自我(じが)には同じ音韻が感じられる。そして、ヅガンも同じ音色に聞こえてくる。アル中ハイマーは、死に際にスーパーヅガンな人生を走馬灯のように振り返るのであろうか?いや!記憶があるはずもない。人間の最高の才能は「忘れる」ことである。だからノイローゼにならなくて済むのだ。この才能は神にも敵わない。おそらく神は慢性的にノイローゼを患っているに違いない。だから魔が差して「人間」なんて不完全なものを創造してしまったのだ。
などと、ぼんやりと考えながら本棚を眺めていると、なんとなく読み返したい一冊に目が留まった。おそらく20年ぐらい前に読んだ本である。
「人間とは精神である。精神とは自己である。自己とは自己自身が関係するところの関係である。すなわち関係ということには関係が自己自身に関係するものなることが含まれている。」
なんだこの難解な言葉の羅列は!狂ったかキェルケゴール!これが当時の印象である。

「死に至る病とは、絶望のことである。」
この病で人は死ぬことはない。この死は肉体的な死をともなわない。絶望の苦悩は死ぬことさえできない。人間は絶望に憑かれてまさに生き地獄の中にある。では絶望とは何か?なぜ人間は絶望に憑かれるのか?本書の答えは、「それは人間が精神だから」である。大デカルトを始めとする実存論者は、人間の実体は精神であり自己の中に存在すると主張する。逆に言うと、固体である肉体にはなんの意味もなさないことになる。実存主義の先駆者とも評されるキェルケゴールは、人間が精神であるがゆえに無意識に自己の病を抱えこむという絶望論を展開する。この絶望を通しての人間心理の考察は鋭い。そこには、絶望を罪として捉え、その救済を信仰との対立の中で弁証法的に論じられる。信仰の攻撃対象はキリスト教界で、皮肉をこめて論述と教化を対立させる。キェルケゴールが生きた時代は、実存主義とマルクス主義の二大思潮に分かれていたという。両者とも自己疎外の問題に言及したことに注目したい。マルクスは近代社会の矛盾から生じる人間疎外や人間分裂を問題にした。キェルケゴールは不安と絶望に悩む人間の姿を暴露する。本書は、絶望の視点から人間心理を考察した歴史的名著と言えるだろう。

セーレン・キェルケゴールは、デンマークの哲学者で、その名は珍しく渾名で呼ばれるという。デンマーク語のKirkeは、ドイツ語のKirche、英語のchurch。Gaardは、ドイツ語のGarten、英語のgarden。つまり、「教会の庭」あるいは「寺屋敷」や「墓地」を意味する。彼の祖先は貧しい部落の百姓で、教会の中の牧師館を借家としていたことからこの名がきているそうな。Kierkegaardは、Kirkegaardの中に無意味な一字eを入れて、固有名詞に転化されたという。彼の父親は厳粛なキリスト教に憑かれていたというから、その反動が現れたことも想像できる。ヘーゲル哲学に強い影響を受けながら、その徹底した批判者としても知られる。彼は主体性こそ真理であるという立場を貫く。その生い立ちでは、彼自身に例外者としての意識が根付いていたという。背骨の曲がる「せむし」という病だったという説もある。知性は群を抜いて卓越していたが、肉体的な欠陥によって精神と肉体の不均衡が見られたという。天才は、なんらかの苦悩を背負う運命にあるのかもしれない。
アリストテレス曰く、「狂気の要素のない偉大な天才は、未だかつて存在したことがない。」
彼にとって絶望は、あくまでも病であって救済との関係にこだわる。絶望こそが最も不幸な境地で、生きる希望の失せた世界を生きるという矛盾を克服しなければならない。自殺によって墓場で安住できるとすれば、それはキェルケゴールの世界では絶望の極致ではない。それは、信仰では救済されないことを訴えているかのように映る。

ある程度の絶望は自分のためには都合が良いものであろう。自己は、自らを空想の世界に追いやり現実を直視せず、可能性はあらゆるものに秘められると信じる傾向がある。つまり、自己に欠けているものは、現実性であり、自身の限界を認めることである。絶望は、挫折に追い込まれた時に現れ、欠けているものが何かを教えてくれる。女性は、結婚前「夢を持った男性に惹かれるの!」と言いながら、結婚後「子供みたいに夢ばっかり追っかけてんじゃないわよ!」と豹変する。妻は夫の態度で恐妻化し、夫は妻の態度で飼育化される。したがって、一般的に男はMとなる。なるほど、manの頭文字だ。これが家庭円満の法則というものか。その様子を観察すれば結婚は絶望に映る。「女房に逃げられるのを恐れて男が勤まるかい!(じゃりン子チエ、より)」
信頼は絶望と背中合わせにある。絶望に対する解毒剤があるとすれば、実現の不可能性を覚悟し、信頼を裏切る可能性を覚悟することであろう。こうしたことに対抗するには共通した意識が必要となる。それは自己を失わないという意志である。それが理性ってやつか?なるほど、「なぜ結婚しないのか?」と問われれば、それは「理性を失わないから」と答えて独身主義を通すのも優れた選択と言えよう。神はあらゆるものの可能性を示唆しながら、突然運命付けようとしやがる。宗教へ帰依する者は宗教へ恋するが、恋は盲目なのだ。宗教は芸術などの感情の領域にあるかと言えばそうでもない。そもそも、死後の世界を用意している思想ほど胡散臭いものはない。宗教は論理的否定を拒む。宗教の矛盾は神々の言葉によって強制力を発揮するところにある。言葉は人間から教えられるのであって、神からは沈黙しか教えられないはずなのに。その証拠にお祈りの言葉を捧げても、肝心な時に神はお留守をなさる。いったいどんな時に神が現れるというのか?もし、人間が論理的思考の限界に到達することができれば、そこに神を見ることができるのか?凡庸な人間の前には神は永遠に現れないだろう。では、天才の前には神が現れるのか?などと言えば、自ら神と名乗る人間が登場する。神が人間の姿を借りて現れるという思想は永遠に消し去ることができないようだ。こうしてアル中ハイマーは、神の存在と死後の世界を想像しながら夢の中をさまよい続ける。そして、少なくとも生きている間は生きている者同士で付き合いたい...死んだら死んだ者同士で付き合い、生きている者にその眠りを邪魔されたくない...などと金縛りの中で呪文を唱えるのであった。

1. 絶望とは何か?
キリスト教的な意味では、死でさえも死に至る病ではないという。キリスト教の立場では、死とは生への移行であり、死そのものが終局ではない。本書はこの教化が誰も知りえない悲惨へ導いたと指摘する。それが絶望である。絶望には優越と欠陥があるという。絶望の感情に至るのは人間であり、他の動物よりも優越を示す。しかし、絶望する人間は、最大の不幸と直面し、悲惨であるばかりか最大の堕落となる。人が死を体験するには、自らの死ぬ瞬間を意識できなければならない。したがって、人間は永遠に死を体験することができないだろう。ところが、絶望する人間は永遠にその瞬間を体験し続ける。ソクラテスは、肉体は肉体の病によって食い尽くされることがあるが、魂は魂の病によって食い尽くされることはありえないことから、魂の不死を証明した。もし、絶望が自己を食い尽くすことができれば、人間は絶望する必要がないのかもしれない。絶望こそ人間の一番尊い部分を浸食する。そこには、死ぬことのできない終わることのない終局がある。しかも、自らの力で自己から抜け出せない限り、この病からも逃れられない。もし、自己から抜け出せたと思い込んでも、それは幻想に過ぎない。精神は肉体が滅びない限り永遠に存在する。

2. 自己の放棄
全く健康な人などいないだろう。全く不安を感じない人などいないだろう。おまけに、全く絶望したことのない人などいないだろう。人間が精神であるならば、これは普遍的に逃れられない。自らが絶望していることすら意識できない形態もある。逆に、自ら絶望を感じていても、必ずしも絶望の極致にあるとは限らない形態もある。人間を単に霊と肉との総合と考えれば、健康が直接的な規定となるだろう。だが、人間が精神によって規定されることを自覚していないと、そこには絶望が現れるという。いかなる人間も自己を持つことが使命である。しかし、他人を怖れるあまりに自己を放棄することがある。自己が信じられず、自己であろうなどと考えず、他人と同じであると考える方が楽な場合もある。この時、自己は群集の一部でしかなくなる。こうした状態も、自己を放棄しているという一種の絶望状態であるという。だが、人々はそれに気づかない。彼らは単に生活に不都合をきたさなければいい。しかし、その安易さが絶望を招き寄せる。人生の冒険には失敗の可能性が付きまとう。したがって、冒険しないのが賢明であるという考えがある。失敗すれば、あたかも何かを失うかのように誇張する風潮がある。確かに、物質的に失うものがあるかもしれない。だが、自己を失うことは決してない。あらゆる冒険を避けて利益を得たとしても、それは自己を失うだけである。

3. 欲望と意識
「意識の度が増せば増すほど絶望の度も増す。」
自己は感性が知性よりも優勢である。どんなに冷静に装っても、そこには自己を押し込めた感性が潜む。そこに絶望があろうとも、希望によって優勢を保ち不快な立場から目を背ける。人間には虚栄心があり自惚れが強い。本書は、絶望に対する無知は不安に対する無知と似たような事情にあるという。精神的に安定しているようでも心の奥底には不安が潜む。錯覚の魔法が解かれ、自らの存在が動揺する時に絶望が現れる。絶望に気づかない人は、気づいている人よりも、真理と救済から遠ざかっているという。真理に近づくには、あらゆる否定を受け入れなければならない。だが、真理に近づけば、それだけ絶望を認識することになるではないか?という疑問もわく。絶望がゆえにますます絶望へと導かれ、絶望の無間地獄に嵌るではないか。だから死に至る病ではないのか?したがって、真理から遠ざかるのも一つの救済法と考えられるではないか。ただ、救済先が宗教となると、結局地獄へ引き戻されることになる。しかも絶望すら感じない。これは一種の麻薬である。これが幸福かどうかは酔っ払いの知ったことではない。哲学的弁証法で粗探しをしたら切りが無い。したがって、哲学の良いところは解釈の仕方が読者に委ねられるところである。ちなみに、宗教的論理には粗しか見当たらないが。本書は、絶望の反対は信仰でもあるとも語っている。人間の欲望こそが絶望を招くように映る。諦めの境地にも、絶望が潜んでいるように映る。自分自身でありたいと願う欲望によって絶望が生じるならば、自分自身でありたくないと願うのも欲望であって、そこにも絶望が生じるであろう。

4. 孤独と強情
「孤独への衝動は精神の徴候であり、精神のありかたを量る尺度である。」
かつて、人間は孤独を求め、その意味するものに尊敬の念を抱いていたという。それが社交の時代になると、孤独に怖れを感じるようになる。まるで孤独は犯罪者に対する刑罰であるかのように。近代社会では、精神を所有することが社会的な罪とされるのか?ここには、著者の生きた時代で自己が大衆に呑みこまれてステレオタイプに押し流されていく様子がうかがえる。社会に絶望し、政治に絶望し、地上のあらゆるものに絶望するかのように。そして、自己の中に閉じこもり、永遠の自己と対峙する。自らの弱さによって自らの傲慢さを言い訳し、絶望がその度を強めると強情になるという。しかも、この状況で迫ってくる危険は自殺であるという。そこには絶対的な秘密がある。閉じこもった人の秘密を理解する者がいれば、自殺から免れるかもしれない。しかし、沈黙を破った瞬間に絶望することもありうる。ここには秘密を明かす衝動との戦いがある。強情とは、自己自身であろうと欲する絶望であるという。自己の中に絶対的な支配者である自己が現れ、あらゆるものに向かって狂暴となり、全世界から不当な扱いを受けている人間のままでありたいと願う。自分の意見が、正しいかどうかの検証もできないので自らを納得させることもできない。独自の世界で自らの不安を永遠に抱き続ける。その強情自体が本人にとって快楽であり享楽となる。強情は、自らに向けられる抗議や反論といった相手を、永遠に確保しておかなければならない。

5. 罪の意識
「絶望は罪である。」罪とは、弱さの度や強情の度の強まったもので、絶望の度の強まったものである。そこには、宗教的な詩人のような特質があるという。それを「詩人的実存者」と表現している。キリスト教的には詩人的実存者はすべて罪であるという。一般的に詩人は、存在する代わりに詩を作り、空想の中で真理と関わるだけで現実逃避した世界を創造する。だが、詩人的実在者は、なみはずれて弁証法的で、しかも漠然としているので、意識の中でも混乱するという。意識の中では、神の観念が一緒にされ、ひたすら信仰に頼り、自らの苦悩を自分で引き受けることができない。まるで不幸な恋愛のために詩人になった者が、恋愛の幸福を霊妙に賛美するかのように。そして、朦朧とした意識の中で自己を失う。詩人的実存者は、神の前でしか自己を持たないから利己心が現れるという。もはや、罪を犯したという意識すらなくなり絶望的な無知に陥るわけである。「神が見ておられるから悪行を犯してはならない」という宗教的な教義をよく耳にする。そこには、「神の前」という絶対的な思想がある。逆に、神が見ていなければ何をしてもいいのか?ここに宗教と倫理の境界がある。人間は罪を犯しながら生きていく。罪の意識の規準は個人の意識の中にある。ほとんどの人間は、自己の中では善人である。しかし、その境界線を超えた時に罪を意識し絶望に苛まれる。罪の意識を背負ってのみ生きるのは辛い。したがって、信仰すれば救われるという宗教的な教義も理解できなくもない。しかし、信仰すればどんな罪も正当化できるという矛盾が生じる。宗教心の強い地域ほど紛争が多いというのも想像に易い。

6. ソクラテス的な罪の意識
ソクラテス的定義では、罪は無知である。ソクラテスの立場は裁判官として神と人間の間に立って監視した。本来、罪は無知ではない者に根ざすであろう。ということは、意識のないところに罪は存在するのか?宗教は罪を意識するために神という絶対的な第三者を登場させた。これは倫理の実践的方法とも言える。ソクラテスの時代は、知性があまりに幸福で素朴だったために、罪の規定を明確にすることはできなかった。古代は、罪の規定すら必要なかった良い時代だったのかもしれない。それゆえに、この時代で倫理を理解できた者などいないと批判する者も多い。では、近代では明確な倫理を必要とするということか。倫理が主張される時代とは、醜い時代の証なのかもしれない。キリスト教はそうした時代背景で生まれたのだろう。キリスト教は、ソクラテス的倫理を発展させ、罪は意志の中にあることを示した。では、罪はどうして始まったのか?それは知識の進化とも言える。人間は善の知識を持ちながらも、あえて不正を行う。正しいと理解していても、それを行うことを放棄する。境遇によって仕方なく罪を犯す場合もあれば、知識があるがゆえに罪を犯す場合もある。罪は消極的にも積極的にも存在する。

7. 牧師の教化
「もう二度としません」「反省しています」とは、よく見かける台詞である。本書は、自分を許さないという心があるならば、自らを許す雅量があってもよいはずだと語る。心の懺悔とは、ほとんどが逆であり、むしろ自らの正体を暴露するという。罪の度に一層強められた性格となり、ますます悪魔の絶望へと向かう。こうした人間の絶望は極めて利己的である。ここに、再犯の原理が見てとれる。彼らに与えられる牧師の処方箋は、むしろ病気を悪化させてしまうと指摘している。本書は、キリスト教界を罪の許しに対して絶望している状態とし、これに属しているというだけで前進していると妄想し、優越感に浸っていると揶揄している。しかも、牧師たちが教会員にそれを保証し、キリスト教の教説ほど神と人間を近づけた宗教はないという。なるほど、大衆に広めるためには馴染みのあるものにするのが効果的であろう。キリスト教の堕落は、教説者を神の地位に近づけてしまい、相対的に神の力が失墜させた結果であるという。
人間は精神である。デカルトの「我思う、故に我在り」とは、そういうことであろう。だが、本書はこの言葉も虚偽かもしれないと疑う。人間もまた固体であり、その個体性こそが最高なのかもしれないと。「罪を憎んで人を憎まず」という言葉がある。これは、罪を固体化して罪人を概念に押し上げる。人間尊重の思想が、人間を神に近づけるとしたら、人間は固体であると蔑んだままの方がいい。罪は固体であり、また人間も固体である。したがって、罪人は罰せられるべし。ここに人間の地位を巡っての論争がある。宗教は人類の地位を高め神に近づけたくてしょうがないようだ。実は、神を冒涜しているのは宗教ではないのか?神に近づいて冒涜を犯すぐらいなら、まだしも無神教の方がまともである。

2009-03-08

"ぼくには数字が風景に見える" Daniel Tammet 著

著者ダニエル・タメット氏は、映画「レインマン」の主人公と同じサヴァン症候群であることを告白する。彼は、知的障害者の中でもごく稀な才能に恵まれ、数字を色相などに結びつける共感覚を持ち合わせる。そして、円周率22,000桁以上を暗唱しギネス記録を塗り替えた。彼には数字列が風景に見え、累積演算のような複雑な計算を瞬時に行うことができる。しかし、これまた知的障害者に見られるアスペルガー症候群でもあり、幼い頃から人とのコミュニケーションにハンディを持っていたという。天才と障害は紙一重なのかもしれない。普通の人とは違う障害が、超人的な方向へ向かうか、社会生活すら困難な方向へ向かうかは様々である。その境遇によっては、障害ととらえるか恩恵ととらえるかも見方が変わるであろう。

おいらは、この種の本を避けてきたところがある。第三者はこうした物語を、ドラマティックに仕立て上げ奇妙な感情移入を企てるが、落ち込むだけで感動などしないからである。著者もTV番組「ブレインマン」の製作で矛盾を感じると証言している。本書を手に取ってみる気になったのは、障害者本人が記したものだからである。驚くことは、とても本人が書いているとは思えないほど、第三者的な分析が綴られることである。数字に対するイメージの仕方や、人の気持ちが理解できず他人を怒らせてしまう様子などを、自らの脳構造を解明するかのように。孤独や将来への不安といった心境も語られるが、あまりに淡々としているために悲観的には映らず、友人や恋人ができる様子なども交えて、むしろ和める。それが逆に家族とともに苦悩してきたことが伝わるのであるが。著者は以下のように語っている。
「いまでも、積極的に自分をさらけだして人とつきあうのが難しいと感じるときがあるが、無理にでもそうすべきだという思いが強くある。以前もそういう思いはあったかもしれないが、それを理解するのに時間がかかった。」
こうした告白本は障害者を持った家族を励ますことであろう。著者の勇気には敬意を表したい。もう一つ驚くことは、文面が非常に読みやすいことである。これは翻訳の成果でもあろう。原文にはおそらく難しいニュアンスの表現が多いに違いない。それを翻訳の中で無理やり表現しては、逆に説得力を失う可能性がある。中途半端な印象を与えるぐらいなら、その感覚を読者に任せた方が良い。後書きからは翻訳者のそうした苦労もうかがえ、著者の純粋な心を伝えようとする努力が伝わる。本書の醸し出す情景には、なんとなく子供の頃の何か忘れてしまった懐かしいものを想起させるものがある。実は、おいらの弟は言葉の喋れない重度の知的障害者である。この本を記事にするのは少々悩んだが、ほんの少しだけ自らの精神を解放してみることにした。この記事を落ち込んでいる或る知人に捧げる。

社会には、ある低い確率において普通には生きられない人々がいる。ある確率で必ず障害を持った人間が生まれる。障害者は意外と周りに多い。同級生の家族に障害者がいると聞かされるのは、たいてい卒業後で、しかも第三者からだ。社会人になってからも、そうした境遇で生きている人は意外と周りに多い。彼らは仕事で時間的な制約を受ける場合もある。おいらはプロジェクトリーダをする機会が多いが、こうしたケース以外にも様々な境遇にある可能性を踏まえて、区別無く全員に仕事の時間を自由にさせることを優先する。たまに、自由を与えられるということは自己管理の厳しさを与えられるということに気づかない人もいるが。特殊な環境にある人の雰囲気はなぜかなんとなく掴める。彼らは自ら打ち明けないことも知っている。だから、先に告白するのだ。家族に障害者を持つ人は自ら悲観的に喋る人も多い。なぜ自分にだけ不幸が降りかかるのかを嘆くかのように。まるでお荷物とでも言っているかのように。それは、せっかく生を受けた人間に対して失礼である。たまに、宗教に駆け込むといった光景も目にするが、お布施をぼったくられて誰が不幸の根源なのかも分からない。遺伝子に恵まれた人間がいる一方で、恵まれない人間がいる。だからといって悲観することはない。単に、自然界は遺伝子コピーの不完全性を示しているに過ぎないのだ。親戚ですら遺伝子のせいにして勝手に「不幸な家族」のレッテルを貼る輩もいる。だが、遺産をめぐって骨肉の争いを繰り広げる方がよほど悍ましい。社会には環境に恵まれて成功する者もいれば失敗する者もいる。その要因は運や偶然性に微妙に左右される。幸運に出会うということは、一方で不運に見舞われる人がいるということだ。
ところで、障害者が生まれてくる可能性が無くなれば、人間社会に差別は無くなるだろうか?普通という言葉にどれだけの意味があるのか?本書はそうしたことに疑問を投げかけているように思える。

本書を読んでいると、障害者への接し方で反省させられるところが多い。できれば、もっと早く出会いたかった本である。著者の行動様式が、おいらの弟とかなり重なる。どんなに周りが気持ちを落ち着かせようとしても、人とは隔たりのある世界に居ることを、どこかで感じている。子供の頃は意地悪もされるだろう。そして、自閉症や鬱病などの複合的な症状も現れる。精神障害はもちろん肉体的な障害が現れるのも珍しくない。弟が何か行動を起こす時には、いつも決まったパターンがある。それは儀式でもあるかのように、首を振りながら決まった場所にしばらく立ちすくんで、心の中で呪文を唱えているかのように何かを数える。その途中で口を挟んだり、急がせたりすると、リセットされたかのように最初からやり直す。そのパターンへのこだわりには執念を感じる。著者も、数を数えると精神的に落ち着くという。しかも、服の枚数を数えてからでないと外出できないと語る。弟は行付けのスーパーへ連れて行くと落ち着く。幼少の頃から母親と行動を共にしているからだ。買う物も決まっていて、いつも同じお菓子を買う。食べることよりも買うことが重要なのだ。仕方なく一緒に食べる。そして、おいらの好きなお菓子に誘導しようとするとパニックを起す。数字には様々な執念を見せる。家計簿をチェックするのは日課である。また、時計とカレンダーが大好きだ。食事の時間はいつも決まっている。いつも時計ばかり気にしている。著者も、毎日同じ時間にお茶を飲まないと気がすまないと語っている。カレンダーは、毎日めくるタイプのものを置いている。それを毎朝一枚ずつ破るのが日課である。無理に優しくしたり、理解しようとしたり、世話をしようとすると、逆にパニックを起こす。弱者を見ると、つい助けたくなるのが人情というものだが、本人にとっては鬱陶しいようだ。適当に放っておくのが良い。その方がこちらも気が休まる。以前、ワンパターンの行動に我慢できず、矯正しようと努力した時期もあった。あまりにも型にはまり過ぎるのが良くないと思ったからだ。幼い頃は言うことをよく聞く時期もあったが、やがて反抗的になっていく。パニックを起こした時は手が付けられない。深夜に踊り出したりする。専門家からは、無理に矯正することは人格を否定することになると指摘されたことがある。大きな赤ん坊と考えていたが、歳とともに人格も認めてやらなければならない。昔から理解しているつもりだったが、全然理解していなかった。今でも理解できていないに違いない。知的障害者の接し方は様々である。弟の扱いに慣れていても、他の知的障害者に同じ接し方は通用しない。それは知的障害者が集う行事に参加してみると分かる。不思議なことに一人一人が微妙に違う症状を持っている。世話をする人達が、全てのパターンを把握した上で対処しているのには頭が下がる。親同士のネットワークによって親たちはお互いの子供の接し方にも慣れていく。こうした世界に接することは、人間模様を観察する上でも教えられることが多い。要するに、人間は何を拠り所にして生きていくか?という問題に帰着するような気がする。昔、どんなにやけになっても最後の一線で踏みとどまれたのは弟の存在が大きい。これはありがたいことである。

1. サヴァン症候群とアスペルガー症候群
サヴァン症候群は、知的障害者の中でも、特定分野で特別な能力を持った人である。サヴァンは、フランス語で「学がある」という意味があるらしい。アスペルガーは、「自閉症精神病質」の概念を提唱した小児科医アスペルガーの名からきている。アスペルガー症候群は、言語能力には問題なく普通の生活を営むことができる。平均以上のIQを持つ人が多く、論理的思考や視覚的思考を得意とする。また男性の割合が高く90%だという。こだわりがその決定的な特徴で、行動様式の中に法則性とパターンを見出そうとする強い欲求があるという。記憶力や数学的能力に秀でているのも一般的な特徴なのだそうだ。ただ、自閉症の子供は、言語の発達に障害があり2歳か3歳に見つかる可能性が高いが、アスペルガー症候群は、言語発達の遅れが見られないことから、幼少時に見逃されることも珍しくないという。人の気持ちがわからないので対人関係がうまくいかない。一つのことに強くこだわり、新しいことや環境の変化がなかなか受け入れられないといった点では自閉症とよく似ている。聴覚や触覚の刺激に非常に敏感だったり、かんしゃくやパニックを起こしやすいといった共通点もある。

2. 自閉症スペクトラム
本書は、「自閉症スペクトラム」という言葉がよく登場する。精神科医の山登敬之氏によると、障害であることに大して違いはなく、程度の差なのだから区別することもないだろうという意味で使われる言葉なのだそうだ。一つの言葉によって、多少オタックっぽい人から、アスペルガー症候群、高機能自閉症、知的障害をともなう重度の自閉症にいたるまで、境界線を無くす意識を強調する。こうした区別しない考えは、臨床的に有用であるばかりか、社会福祉的にも意味があるのだという。障害を抱える人の苦痛の一つに区別されることがあるからである。ちなみに、「自閉症スペクトラム障害」という言葉は、イギリスでは浸透しているが、日本では、「広汎性発達障害」と呼ぶのが一般的だという。

3. 癲癇
著者は幼少の頃に癲癇を患わしたと語る。癲癇は、脳の中で一瞬電気的な不具合を起こすために、痙攣発作に見舞われる病気である。癲癇にかかる確率は普通の人よりも自閉症スペクトラムの人の方が高いという。それは側頭葉に起因している。専門家によると、サヴァン症候群の能力は左脳が障害を受けて、右脳がその埋め合わせをしようとして高められると説明している。数字や計算能力などサヴァン症候群で一般的に見られる能力は、すべて右脳に関わっているからである。ただ、著者の場合、癲癇が左脳の損傷の直接の原因なのかは分からないらしい。祖父も癲癇だったというから、遺伝なのかもしれない。著者は、生まれた頃、大泣きする赤ん坊で、それも一年間続いたという。過剰な大泣きは将来行動上の問題を起こすサインかもしれないと指摘する専門家もいる。ちなみに、おいらはよく泣く赤ん坊だったという話だ。初対面の人はもちろん、久しぶりに親戚に会ったりすると大泣きして手がかかったらしい。逆に、弟はほとんど泣かず、ほとんど手がかからないので良い子とされた。振り返ってみると、おとなし過ぎるのが、既に障害を持っていたのかもしれない。
著者は、癲癇の発作が人格形成に大きな影響を与えたのではないかと自ら分析している。そして、癲癇を持っていたドストエフスキーの言葉を紹介している。
「ほんの一瞬のあいだ、普通の状態では決して味わえない幸福感に包まれる。自分にもこの世界にも完全に調和しているという感覚。それがあまりにも強烈で甘やかなので、その至福をほんの少し味わうためなら人生の十年間を、いやその一生を差し出しても構わないとさえ思うほどだ。」
「不思議の国のアリス」の著者ルイス・キャロルも側頭葉癲癇を患っていたと言われる。その作品に登場する表現にも発作の経験から生まれた節があるらしい。癲癇と創作活動には関連性があると考える研究者もいるようだ。画家のゴッホもかなり重度な発作を起こして鬱病となったが、多くの水彩画や油絵を生み出している。そういえば、シーザーも癲癇だったという話がある。映画でも痙攣するシーンがある。他の本でも、患者自身が完全に意識を失う分、苦しみよりも永遠に時間が止まるような崇高な気分が味わえるようなことが記される。患者は自ら発作を求めるかのようだと感想を述べる専門家もいる。癲癇は古来「聖なる病」と呼ばれてる一方で、悪魔の呪いと解釈する学者もいる。

4. 共感覚
数字を見ると、色や形や感情が浮かび上がるのが共感覚である。複数の感覚が連動する珍しい現象で、たいてい文字や数字に色が伴って見える。ところが、著者の場合は、もうちょっと複雑で、数字に形や色、質感、動きなどが伴っているという。
「1という数字は、明るく輝く白で、懐中電灯で目を照らされたような感じ。5は、雷鳴、あるいは岩に当たって砕ける波の音。37は、ポリッジのようなぼつぼつしているし、89は舞い落ちる雪に見える。」
自閉症で共感覚が持てる確率は極めて低く、一万人に一人だとか言われているらしい。著者は、9973までの素数は一つ残らず、浜辺の小石そっくりの滑らかで丸い形をしているので、すぐに分かると言っている。素数は美しく特別な形で浮かびあがるのだという。著者にとって数字は友達である。どこへ行こうと何をしようと頭から数字が離れることはない。著者は累乗計算が好きだという。特に二乗数はシンメトリーの形に見えて美しいというが、この感覚はコンピュータ設計などに携わる人間にはなんとなく分かるような気がする。累乗計算の答えは独特な形をしていて、答えの数が大きくなるにつれて、形と色も複雑になるという。掛け算をする時は二つの形から変化して第三の形が現れ、頭を使わずに計算している感じなのだそうだ。
「37の5乗は、小さな円がたくさん集まって大きな円になり、それが上から時計回りに落ちてくる感じだ。...ある数を別の数で割ると、回りながら次第に大きな輪になって落ちていく螺旋が見える。」
50桁の数字を3分間じっと見つめただけで完璧に記憶し、しかも何年経っても忘れることがないといった現象は、サヴァン症候群の人達にはよく見られるのだという。専門家によると、共感覚の神経基盤と、詩人や作家の言語創造にはつながりがあるという。ある統計情報では、創造活動に携わる人で共感覚を持つ人の割合は一般人の七倍もあるそうだ。シェークスピアは隠喩をよく使うが、その多くは共感覚によるものだという。

5. 円周率の暗唱
著者は、国立癲癇協会の寄付金集めのためのイベントで、円周率を暗唱しギネス記録を樹立した。そのインタビューでは円周率πが好きなことが語られるが、司会者が「私もパイ(おっぱい)は好きですよ」と言った台詞を紹介し、さらりとジョークを交えるあたりは和める。長い数字列を記憶する一般的な方法は、文章や詩をつくって語呂合わせすることであろう。例えば、単語の文字数に当てはめることが考えられるが、ゼロの存在が問題となる。著者は、数字の羅列をいくつかの塊にまとめ、それぞれの風景が流れるように見えるという。円周率の数字列には有名な「ファインマン・ポイント」がある。小数点以下762桁から767桁までの、...999999...である。同じような数字のつながりが、小数点以下19437桁から19453桁に現れるのだそうだ。4つの連続した9があり、しばらくすると、また5つの連続した9が現れ、またすぐに二つ連続する。17個の中で9が11個もある。著者はこれが22,500個の数字の中で一番気に入っていると語る。

6. キム・ピークに会う
レインマンのモデルとなったサヴァン症候群のキム・ピークに会う場面には感動する。キムの父は、医者から息子を施設に入れて息子のことは忘れなさいと言われたという。ロボトミーの手術を受ければ、施設に収容しやすくなると言った脳外科医さえいたという。ちなみに、軽い痴呆症の人間を老人施設に入れるために、注射で意識を朦朧とさせるような話を時々耳にするが。
肥大したキムの頭には水が溜まっていて左脳に障害を受けていた。後に調べたら、左脳と右脳をつなぐ部分である脳梁がないという。しかし、キムは1歳半で字が読めるようになり、14歳で高等学校のカリキュラムを修了した。本を開いて2ページを同時に読むことができ、片目で1ページずつほぼ完璧に記憶するという。これまで9千冊以上の本を読んできたが、そのすべてを記憶しているという。複雑なカレンダー計算もできる。著者は、同じサヴァン症候群の人と会って話しをするには初めてだったという。キムとダニエルが二人っきりで手をつないで図書館を歩き回る。歴史の話、電話帳には数字が多いからおもしろいなど、その光景には心が和む。そして、著者は同じ障害でありながら自立できている自分が幸せであると語る。

7. ブレインマン
ドキュメンタリー番組「ブレインマン」は、映画「レインマン」をもじって名付けられた。著者は人間の脳を解明するため、番組制作に意欲的に取り組む。ラスベガスでレインマンのようにカードゲームに勝つそっくりの場面を撮ろうとした時、こうした意図的な撮影に矛盾を感じると語る。
「ぼくがもっともしたくなかったのは、自分の能力を貶めて陳腐なものにしたり、自閉症の人々みながみなレインマンのようだという錯覚を広めたりすることだった。」
番組ではゼロから新しい言語を覚えていくという企画がある。その題材にアイスランド語が選ばれる。アイスランド語は世界中で最も難しく習得しにくい言語と言われているらしい。著者は10カ国語を操る天才で、言語も数字と同じく視覚化できるという。ただ、なかなか分析できない文章構造もある。例えば二重否定で結果的に肯定するような構造である。限られた教材の中で、CDを聴く場面では集中力が持続することが難しいという。それは、人間相手ならば緊張感を持続しないと会話が成り立たないが、CDが相手だと必死に努力する必要がないからだろうと分析している。そして、大量の文章を読んで、文法への直感的理解を深めていく。その成果を発表するために、生番組でアイスランド語でインタビューを受ける。なんと、アイスランド語をたった一週間で話した様子が語られる。著者は不思議に思っている。能力は変わっていないのに、子供の頃は疎まれ孤立していたが、大人になると、その能力のお陰で人とのつながりや、新しい友人ができたことを。

2009-03-01

"農協の大罪" 山下一仁 著

日本社会には実に多くのタブーがある。企業と裏社会、皇室、同和問題、朝鮮人、宗教団体、教育、桜田門など挙げると切りが無い。最近では、環境タブーや少子化タブーまで登場する。そこには、政、官、業の馴れ合いの中に、スポンサーや広告代理店の介入、あるいは記者クラブが絡み、真実を書けないジャーナリズムの姿がある。そして、政治資金と係り圧力団体となり社会構造を複雑化し、ついには聖域と化す。本書は、こうした聖域の一つ「農協」について論じている。ただ、買う時に一瞬躊躇した。それは著者が元農林官僚だからである。巨大な官僚政治と揶揄される中で、まともな官僚もいると信じたい。いや、本で一儲けしようという魂胆かも。などと思慮が錯綜する。ところが、眺めていると直感的にうなずけるところが多い。まともな集団の中にも、ある低い確率で犯罪者は必ず存在するが、その逆の現象があっても不思議ではない。そもそも、大半の組織は使命感や正義感といった高尚な価値観から創設される。それが長期化する中でいつの間にか腐敗するだけのことである。そして、破壊と創造が繰り返されるのが社会の法則というものだろう。
自然法則には実に多くの対称性が存在する。引力と斥力、天体には点対称性や軸対称性が現れ、人体にも左右対称性が現れる。対称性には、普遍的原理が内包されているような想像を掻き立てる。これらの対称性は共存してこそ美しさがある。人間の価値観にも自由と平等の対称性が共存する。ところが、イデオロギーってやつは、自由と平等をめぐって対立するからやっかいである。自由を崇め過ぎると格差社会を助長し、平等を崇め過ぎると経済活動を抑制し産業を衰退させる。イデオロギーが美しく見えないのは、共存できることに気づかないからであろう。農業の世界は明らかに平等を崇め過ぎているように映る。

政治報道で批判的な意見が出るのは、ある意味健全であろう。複雑系の人間社会において意見が一つしかなければ、思考停止を意味する。ただ、公平な批判は難しい。タブーを無視しては、意識的な偏重報道と批判されても仕方が無い。タブーに踏み込んでこそ議論の正常化が望める。しかし、圧力団体に逆らうには体を張らなければならない。不都合な事実を報道すれば、それ以後は取材拒否される。そして、自国のタブーをわざとリークして、海外メディアを通じて流れるといった現象も見られる。タブー化する原因の一つは、組織が宗教化しているからであろう。神のように組織を崇める連中に何を言っても無駄である。おまけに、既得権益を堅持する行為が組織的に行われる。そんな連中と付き合ったらこっちまで頭がおかしくなる。よほどの志が強くないと対抗できるものではない。町山智浩氏はその著書「アメリカ人の半分はニューヨークの場所を知らない」で、アメリカの実態は3割にも及ぶ脳死状態に陥った福音派によって大統領が選ばれると語っていた。日本だって負けてねーぜ!

「農協」というと、幼少の頃から悪いイメージがある。それは減反政策に代表される。親父の実家は農家であるが、今では高齢化のために事実上廃業している。実家で取れる米は美味い。余分に作った米は商売できないから、よく送ってくれたものだ。しかし、製造能力があるにもかかわらず、わざわざ土地を遊ばせるのはなぜか?よく祖母に遊んでいる土地をくれ!とせがんだものだ。また、農業をやるというだけで自動的に組み込まれる組織は、ある意味宗教団体よりも質が悪い。それは、選挙といったイベントで顕著に現れる。里帰りした時、その会合で美味いものが出ると聞いて釣られて行ったことがある。そこには、偉い人が考えることだから悪いはずがないといった宗教じみた意見が支配的だったのを覚えている。彼らが支持する政治家が落選すると、裏切り者がいるなどと叫ぶ輩までいる。こうした会合で必ず見られる現象は、外野の意見が飛び出すと、内部事情を何も知らない奴は黙れと一喝されることである。普段は優しい叔父さんや叔母さんが、ものの見事に洗脳されている姿を見せつけられた。農業が3K労働という理由で若者離れを指摘する人がいるが、はたしてそれだけだろうか?宗教じみた体質に拒否反応を示す若者が多くても当然だろう。こうした体質は一般企業にも見られる。創業者を神と崇めても、まさか創業者がそれを望んでいるとは思えない。むしろ逆であろう。お釈迦様が気の毒なのは仏像として拝まれることであって、偉大な釈迦がそんなことを望むはずがない。また、「なぜ株式会社にしないのか?」といった疑問を祖母にぶつけたことがある。答えは「農協様がおられるから」祖母が無くなって随分と経つ。おいらはおばあちゃん子で可愛がってもらったが、農協に対する思い入れだけは受け入れられなかった。そして、祖母と小学生の会話の中でタブーとなった。

農作物を作るというのは製造業に分類できるのではなかろうか。自動車産業や電機産業と何が違うのか?売れなければ作る量を減らす。生産量は市場を見据えて調整されるのが産業というものである。ただ、他製品に比べて難しいのは、食料は生命の根幹に関わるので安定供給が求められることである。気候といった自然現象にも左右され製造調整も難しい。とはいっても、来年の人口は二倍になるなんてことはありえないので、ある程度の生産計画は見通せるはずだ。そこで、先物市場や市場価格の変動が、農業の安定をもたらすはずである。市場を無視した価格の吊り上げは産業の破壊をもたらす。また、季節によって作業の多い時期と少ない時期があるのも、工業と違って労働力の平準化が難しい。仕事が集中しない時期に労働力を遊ばせると労働コストの無駄になる。しかし、現在では年中働きたいと思わない人も多いだろう。人生が多様化すれば農業復活のチャンスとも言えよう。実際に、昨年エンジニアを休業して春から秋にかけて稲作に出かけた奴がいる。もともと変人であるが、専業農家で募集していたのに乗っかったらしい。彼から水分を十分に含んだ美味い米が送られてきたのには感動した。実はおいらも考えていたが、先を越されて悔しい思いをした。おいらのように農業経験のない人間には不安がつきまとい、いまいち踏み込めないでいる人は少なくないはずだ。
農業の問題は、一般の製造業が海外に目を向けるのに対して、国内にしか目を向けないことにもあるだろう。食料危機に直面する貧困国が存在する一方で、余分な米を処分している裕福な国がある。この矛盾を小学生にどうやって説明するのか?食糧危機の国からテロ行為があってもおかしくない。最近は環境問題のせいか?自然災害も大規模化する。もし、国際社会が食糧危機に陥れば、いくら農業大国でも自衛のために輸出を制限するだろう。我が国の食料自給率が40%を切るのはあまりにも異常である。日本の農作物の品質の良さは、数々の食品スキャンダルの中で消費者が実感しているだろう。一般の製造業が海外進出で成功してきたのも品質の信頼にある。形の整ったものが良い農作物とは言えない。スーパーでは曲がったキュウリは規格外とされるが、キュウリをそのままの形で食べる人などいるのか?子供の教育にも、キュウリが真っ直ぐなものだと信じ込ませるのは悪い。形の悪い農作物は外食産業用として工夫している農家もある。

政府が保護した産業がことごとく国際競争力を失い、破滅の道を辿る運命にあるのはなぜか?農業の保護という理由で高米価で固定した政策は、国際競争力を失ってきた。高い関税を導入すれば、国際世論から反発されるので、輸入枠を受け入れざるを得ない。国際的に米の価格差が大きくなるほど、その枠を広げるように要求される。そして、政府は素直に輸入枠を広げる方向に政策を取り続けてきた。米価を高値で固定し続けるためには、供給量を制限する必要がある。そこで減反する。減反を進めれば農業所得が減る。そこで補助金によって支援する。減反面積を増やせば補助金額も増える。こうなれば農業が衰退するのも当り前で、小学生でも分かりそうな論理である。もやは、農業の保護というよりは、既得権益を持つ農協の保護といった方がいい。ここに農協が強化されるほど農業が衰退する構図がある。ただ、既得権益で凝り固まった組織は、なにも農協だけではない。そのことに気づいている人も少なくない。ネット社会ではタブー化された話題があちこちで議論される。ところで、世論は援助とか補助といった癒し系の言葉に弱い。これをマスコミが煽る。しかし、補助金政策は難しい。よほどの計画性と実行性をともなわないと、単なるバラマキ政策で終わる。その手段が自立のための援助でなければ破綻する。輸血だけしても寝たきりの体は健康にはならないのだ。癒し系の言葉は下手をすると麻薬漬けにする。投資家ジム・ロジャーズは、アフリカ旅行で食料援助によって原住民が畑を耕す苦労をしなくなった光景を目の前にして、その矛盾を指摘していた。黙っていても列に並べば自動的に食料が配給される仕組みには問題がある。似たような光景は一般企業にも見られる。企業が補助金に頼る体質となって破綻する姿である。これは公的な補助金に限らず金融機関にも見られる。融資をする側は、往々にして事業の内容を正当に評価できない場合が多い。その逆に、黒字事業が資金不足で廃業に追い込まれる光景がある。これはもはや金融機能が麻痺した社会としか言いようがない。

本書の内容は、一言で表すと「農政トライアングル」の暴露話である。農政トライアングルとは、「農協」「自民党」「農林省」である。ここにも魔のトライアングルが存在するとは「農業よ!お前もか!」農水省は農林族議員を通じて農協によって間接支配されているという。ただ、農林官僚の中でも、この構図に問題意識を持った人も少なからずいるらしい。なるほど、農業が衰退すれば農林省の存在意義も失うわけで、危機感を募るのも不思議ではない。その悪政の代表として、まず減反政策の弊害を論じている。そうだろう!そうだろう!こんなマイナス思考が長続きするわけがない。また、農協と多数の兼業農家の深い結びつきが弊害をもたらし、本気で農業を営もうとする少数の専業農家を妨害していると指摘している。多くの農家は農地が分散し規模も零細である。画一的な減反面積の配分という兼業農家への配慮は、大規模稲作といった効率運営を妨害することになる。その結果、日本の農業の担い手は、週末に農業をやるサラリーマンや、退職後の余生で農業をやる高齢者になってしまったと語る。そこには、農業の衰退と反比例して農協が順調に発展してきた姿がある。では、政権が自民党から民主党に移れば農政は変わるのだろうか?民主党にも似たようなバラマキ思考が蔓延る。本書は、民主党が2004年戸別所得補填の導入と減反政策の廃止を主張しながら、2008年には減反の必要性を訴えいてると指摘している。ここにも農協の票田をあてにする姿が見え隠れする。どうやら反対勢力は民衆の中にしかなさそうだ。それが民主政治のメカニズムというものか?自らの考えを放棄し群れたがる国民性では、まともな選挙は成り立たないのか?

1. 農協の弊害
農業収入を維持するために米価維持は重要であると考えるのも分からなくはない。高度成長時代、物価や労働賃金が急激に上昇し、1980年代には世界一物価の高い国となった。労働コストの上昇は国際競争力の弊害にもなる。そもそも、農業には組織化されない小作人の姿がある。戦前は地主に支配されていたが、戦後は地主解体によって小作人を解放した。地主の中にも農民のことを真剣に考える人もいただろうが。ただ、突然小作人たちに自分で考えて運営しろと言われても途方に暮れるだけである。そこに登場した農協の当初の目的はおそらく美しいものだったに違いない。高価な農機具、農薬や肥料、販売組織などを組織によって効率化することは誰でも考えるだろう。一般社会に労働組合ができる流れの中、協同組合とはいかにも癒し系の言葉である。サラリーマンが厚生年金や共済年金で保護される中、政府が農家や自営業に不公平を押し付けてきたのも事実である。本書は、農協だけが奇妙な形で組織化されたのは食管制度との絡みだと説明している。なるほど、食料は生活の根幹に関わる問題で政治の力学に支配されやすい。そして、米価の高値維持のために減反政策が実施され、効率的な組織化が進まず、零細な兼業農家がそのまま滞留することになる。農業の機械化が進めば、作地面積当たりの労働時間も短縮し、より多くの面積を耕作できるはずだ。しかし、農家戸数が減少しなければ、経営規模の拡大や体質強化にはならない。農業大国フランスでは、農業戸数が大幅に減少したものの、耕地面積の減少がわずかだったために、農家の経営規模は拡大したという。だが、日本にはその逆の現象が起こる。おまけに、機械化によって余った労働時間を活用して他産業に就業する兼業化が進む。兼業農家を維持すれば農家戸数を多く維持できるので、農協の政治力が維持できるわけだ。兼業農家の代弁者である農協は、専業農家を振興する構造改革を一貫して反対してきたという。1961年の農業基本法が描いた構造改革が挫折したのも、それが原因だという。農協は、農地改革で保守化した農家を組織化し、自民党を支える戦後最大の政治団体になったと指摘している。しかも、兼業農家の農外所得や、莫大な農地転用利益を預金として吸い上げる。農業を営めば自動的に農協の組合員になり、農家の流通は全て農協口座を経由する。更に、科学肥料や農薬を多投すれば農協が儲かるという仕組みがある。営業努力もなしで自動的に農協資金が集まるわけだ。しかし、この莫大な預金は農業が衰退したにもかかわらず農業への融資にはほとんど使われないという。その7割が有価証券などで資産運用され、農協は金融や保険の分野でもトップレベルの企業体となる。これは農業を犠牲にした機関投資家と言った方がいい。全国区、都道府県、市町村と、これほど見事な三段階の階層構造が成り立つ組織も珍しい。とはいっても、金融や共済で農業事業の赤字を補填し続けるにも限界があるだろう。そろそろ化けの皮がはがれても良さそうだが。

2. 汚染米と関税の関係
本書は、汚染米の原因が高価米と減反政策にあると主張する。汚染米の転用が発覚して以来、食品業界で続々とスキャンダルが発覚する。それは監査システムが機能していないことは明らかである。監査機能が働かないのは、農業に限ったことではない。霞ヶ関の言いなりになる地方行政ほど、破綻するとはどういうことか?ここに官僚との癒着があることは想像に易い。天下りの中途半端な規制は、むしろ天下りを助成することになるだろう。議会の役割には官僚の監査役がある。つまり、議会の存在意義が問われているということを地方議会を含めて自覚できないでいる。
永田町の中でも、農水相の石破氏は優れた知識と理論を持っているという。そう言えば、石破氏は汚染米問題の根幹は高い関税で農業を守るという農政にあるといった意見をインタビューで語っていた。さすがに、タブーを意識してか?「農協」を名指ししていない。政府は、汚染米を廃棄処分すると発表したが、そもそも輸入米が汚染されていては問題の解決になっていない。ちなみに、堂々と汚染米と宣言されたものでも安ければ貧乏人は食すだろう。それだけ格差は広がりつつある。WTOは自由貿易を促進する方法として、国内農産物の保護のために輸入禁止的な高関税を認める一方で、その代償としてミニマムアクセスという低関税の輸入枠を認めさせる。この二重の仕掛けにも問題があるだろう。一定量の輸入を認め、汚染された食料品が無条件に入る。そして、問題が発覚すれば無条件に廃棄するとは、最初から外国に税金をばらまいているようなものである。WTOは最初から外国に税金を払わせる仕組みをつくっているのか?政府は莫大な財政負担を自ら犯し増税を煽る。恐ろしいことに、政府はミニマムアクセスをさらに拡大する方向で交渉を進めているという。高関税を維持したければミニマムアクセスの拡大が要求される。なぜ高関税を維持したいのか?それは高い米価を維持したいからで、農協にとって重要な政策だからだという。販売手数料が稼げて、農薬や肥料が農家に高く売れる。米価は、水田の4割で米を作らないという供給制限カルテルによって維持されるという。カルテルとは、業者が結託して市場への供給を制限したりして高い価格を維持することである。これは独占禁止法にひっかかる行為ではないのか?もっとも、カルテルに参加しない業者が、カルテルで実現された高い価格で自由に生産すれば儲かるだろう。闇米業者が少々価格を下げたところで儲かるわけだ。そこで、カルテル破りをさせないように、毎年2000億円、累計7兆円に上る補助金をばらまくという。ならば、自由に生産させて国内米の価格を下げ、ミニマムアクセスの枠を無くしてしまった方が健全であろう。減反政策とは、米を作り過ぎているという論理からくるのだろうが、おかしな話である。

3. 農業の実態
農家戸数が農業就業人口を上回るという。なんじゃそりゃ?日本の農業には、かつて不変の三大基本数字というものがあったという。農業面積600万ヘクタール、農業就業人口1400万人、農業戸数550万戸。これは明治初期から85年間続き、大きな変化があったのは1961年の農業基本法が成立してからだという。農業人口が減少しているにもかかわらず、農業戸数の減少が少ない。これは兼業農家が増加しているためだという。しかも、高齢者だけが農業を継続している。専業農家の減少に対して、むしろ兼業農家は増加する。農家戸数285万戸、農協職員だけで31万人、農協の組合員は500万人、准組合員440万人(2006年)。んー?准組合員ってなんだ?なんとなく胡散臭い。一般的に日本の土地は狭く農業には向かないという考えがある。しかし考えてみれば、これだけ資源の乏しい国でありながら一般の製造業はお盛んである。本書は、水資源の豊かさを指摘して農業に不向きの土地柄という意見に反論している。なるほど、日本には四季という恵まれた気候がある。農業基本法は農家所得の向上を目的とした。その起草者である小倉武一氏は、この法律の失敗に三つの原因を挙げているという。一つは、農業の国際化を無視したこと。二つは、当時の社会党の反対で、構造改革は「貧農切り捨て」だと叫び、農林省の労働組合も反対運動をしたこと。おまけに農協が農業基本法に同調しなかった。三つは、価格維持に固執して、ミニマムアクセスを認めるしかなくなったこと。
戦後の農地改革は、零細農業を固定化してしまったという。そして、農地が宅地やパチンコ店に化けていく。農地改革は、農地を農業に利用するという責務を果たしていないと著者は嘆く。それも、政府が農家の構造的な問題を無視し、農地利用のあり方を無視して、零細農家と農協の保護に没頭した結果だと指摘している。なるほど、皮肉にも高米価、兼業、農地転用によるキャピタルゲインという三つの政策で農家所得は増加した。農業が潰れても農家は潰れないという政策、もはや産業が機能しているとは思えない。