2009-01-25

"GNU開発ツール" 西田亙 著

昨夜から、ポールジローを飲み続ける。この季節はストーブにおでんを仕込むのが慣習である。そして、ベランダから眺める雪景色はなかなかいい。寒いとはいえ、ここまで積もるのも珍しい。おまけに、深夜は晴れていて、灯りが遠くの山まで通るのが幻想的だ。今日もその余韻にひたりながら、真昼間っからブランデーにひたる。そして、一本空いてしまった。気分良くなんとなく本棚を眺めていると、一冊の本に目が留まる。重厚なハードカバーは、味わい深い洋酒の解説書を思わせる。3年ほど前に読んだ本だが、なんとなく読み返したくなった。寒い季節は、なぜか?感傷的にさせやがる。

本書は2006年に著者西田亙氏により自費出版されたもので、当時、初版を購入した。こうした個人で活動されている方の試みは、アル中ハイマーに良い(酔い)刺激を与えてくれる。本書は、アル中ハイマー世代には懐かしい香りがする。おいらが初めて買ったコンピュータはFM7、20年以上前、媒体はカセットテープだった。通常のオーディオ機器でプログラムがコピーできた時代である。録音レベルの調節を失敗すると暴走したりもした。社会人になって自己啓発と称して購入したのが98互換機だった。その時、虚しかったのは、ローンの残高が次々に登場する新型マシンの価格を追い越すことだった。記憶装置は5インチのフロッピーディスクが主流で、まだ3.5インチの信頼性に疑いを持っていた。おいらは、プロセッサの設計やCPU周辺回路の設計などに携わっていた。ターゲットCPUは、Z80系が主流で、ワンチップマイコンという言葉が流行り出した時代である。回路検証のために、リアルタイムモニタとでも言おうか、OSもどきを自作せざるを得なかった。LSIの検証のためにブレッドボードを製作していたが、今では考えられないほどの労力をかけていた。それでも、小学生が科学するような作る楽しさがあったものである。近年コンピュータの処理能力と記憶領域の進歩は凄まじいものがある。高機能化したOSや高速なネットワーク環境によって、ハードウェアやソフトウェアはますます複雑化し、もはや、システム全体を個人で把握することはできない。強固なOSは、かつてマイコンが許していた内部操作さえも拒絶する。こうした流れは、コンピュータの基礎であるプリミティブな部分を軽視する傾向へと向かわせる。社会が便利で豊かになるのは歓迎であるが、逆に、複雑化した社会では基礎を学ぶ場が難しいとも言える。著者は、入門者を基本の学べる場へと導くために、「Computer Architecture Series」を誕生させたという。本書はシリーズの第一弾で、その原点をC言語の入門書で御馴染みのhello.cに求めている。

ところで、物事の真理を探究する欲求は、よりプリミティブな方向へと向かうのだろうか?真の芸術は原点を自然に求め、文学は自らの精神を曝け出すことを鉄則とする。哲学は、人生の意義を追求した挙句、自らの存在をも疑わせる。科学の探求はあらゆる物質の基本構成へと向かわせ、数学の原理を素数に求め、アルゴリズムの基本原理をランダム性に求める。あらゆる探求がプリミティブな方向へと向かうのは、自然の理なのかもしれない。笑いの感性も例外ではなく、鉛筆が転がっただけで笑えるような感覚にこそ、本物の笑いがある。この感性を習得するには女子高生に弟子入りするのが一番だ。ということで、、アル中ハイマーは逆援助交際の相手を募集している。

本書は、GNU開発ツールを使って、ソースプログラムから生成される実行コマンドの正体を暴いていく。それは、gccが裏で何をしているかを -vプションで解明していくことである。GNU開発ツールは、gccパッケージと、binutilsパッケージから構成される。binutils由来のリンカがldである。gccの役割は、プリプロセッサ、コンパイラ、アセンブラ、リンカといった4つのビルド作業の調整役である。おいらがコンピュータに触れた頃は、こうした手順が自然と見えたものだが、今ではほとんど自動化されあまり意識する必要がない。しかし、トラブルが発生した時、こうした情報を知っていて損はない。本書で一番盛り上がるのは、静的リンクと動的リンクの違いを手動で試す場面であろう。いかにgccが便利な社会を提供しているかが実感できる。静的リンクで作成されたコマンドは、それ自体で完結しているため、ディスク障害などで一部が破壊されても、自身をメモリ上にロードできれば起動することができる。一方、動的リンクは、elfローダと共有ライブラリに依存するため、いずれにかに障害が発生すると、全てのコマンドが起動不能となる。OpenBSDでは、その危険性を考慮して、/sbin, /binに格納するコマンドは全て静的リンクで作成されているという。一方、linuxでは、initやbashが動的リンクとなっている。
ちなみに、fedora9ではこうなっている。
----------------------------------------------------
$ file /sbin/init
/sbin/init: ELF 32-bit LSB executable, ..., dynamically linked...
$ file /bin/bash
/bin/bash: ELF 32-bit LSB executable, ...., dynamically linked...
----------------------------------------------------

以下、なんとなく気になるところをメモっておこう。

1. /etc/passwdの管理
/etc/passwdの管理で、ログイン拒否やクラッキング防止方法を紹介している。シェルの起動の代わりに、Linuxでは、/bin/falseを活用する。OpenBSDでは、/sbin/nologinを活用する。

2. gcc -v hello.c
gccは、裏で6つの処理を行っていることが分かる。
(1) specsファイルの読み込み。
(2) ビルド時のconfigureオプションの表示
(3) プリプロセス(以前はcpp0が担当していたが、ver3からcc1が兼任)
(4) コンパイル(cc1)
(5) アセンブル(as)
(6) リンク(ld)
specsは、ビルド作業の自動実行を制御するための設定ファイル。ちなみに、-save-tempsオプションを使えば、中間ファイルが保存できる。fileコマンドで、オブジェクトファイル(hello.o)が、elf形式による再配置可能であることが分かる。
----------------------------------------------------
hello.c: ASCII C program text
hello.i: ISO-8859 C program text
hello.o: ELF 32-bit LSB relocatable, ...
hello.s: ASCII assembler program text
a.out: ELF 32-bit LSB executable,... dynamically linked...
----------------------------------------------------

3. プリプロセス
自前のライブラリをインクルードファイルで管理することはよくある。そして、オーバーライドなどによって、プロトタイプ宣言の微妙な違いによって、コンパイルエラーや、奇妙な動作で悩まされることがある。ヘッダファイルの探索順によっては、思惑と違うファイルを参照することもある。ローカルファイルの管理ミスで、システムと衝突したりすると頭が痛い。また、定義済みのマクロで嵌ることもある。例えば、文字型のビット長などは、未定義だと思っても正常にビルドできたりする。
次のコマンドで定義内容が確認できる。
cpp -dM < /dev/null

4. アセンブラ
asciiコードで表示(hexdump)と、実行コードからの逆アセンブル(objdump)の紹介。
objdump -j .rodata -s hello.o
# -j は解析対象セクション -sと組み合わせてセクション内容を表示。
readelf -S hello.o
# セクション一覧表示

5. 静的リンク
実行可能ファイルにはプログラムヘッダが含まれる。プログラムヘッダの内容は、readelf -l a.outで確認できる。静的Cライブラリの実体は、libc.a (Archive)。gccランタイムライブラリ(libgcc.a)も必要。
libc.aに含まれるオブジェクトファイル群の表示は以下のようにやる。
$ ar t /usr/lib/libc.a

_startシンボル未定義による致命的エラーは、以下のファイルをリンクする必要がある。5つのcrt(C Runtime start up)ファイルは、プログラム起動時に呼ばれる初期化コードやコンストラクタ、デコンストラクタを格納する。(crt1.o, crti.o, crth.o, crtbegin.o, crtend.o)

6. 動的リンク
動的リンクは、crtファイルや外部ライブラリとリンクする点は静的リンクと同じであるが、共有ライブラリを使用し、プログラム起動時にelfローダを必要とするところが違う。libcの共有ライブラリ版は libc.so (Share Object)。
----------------------------------------------------------
$ cat /usr/lib/libc.so
/* GNU ld script
Use the shared library, but some functions are only in
the static library, so try that secondarily. */
OUTPUT_FORMAT(elf32-i386)
GROUP ( /lib/libc.so.6 /usr/lib/libc_nonshared.a AS_NEEDED ( /lib/ld-linux.so.2 ) )
----------------------------------------------------------
ライブラリ本体は、GROUPに記載されるlib/libc.so.6にある。
----------------------------------------------------------
-rw-r--r-- 1 root root 3105844 2008-07-17 07:14 /usr/lib/libc.a
lrwxrwxrwx 1 root root 11 2008-08-05 18:25 /lib/libc.so.6 -> libc-2.8.so
-rwxr-xr-x 1 root root 1758448 2008-07-17 07:30 /lib/libc-2.8.so
----------------------------------------------------------
libc.aの3MBに比べて、共有ライブラリ(libc-2.8.so)1.7MBと小さいのは、シンボル情報が削除されているため。よって、シンボル情報を得るためにnmコマンドでは解析できないので、readelf -sを使う。
$ readelf -s /lib/libc-2.8.so

リンカの-lcオプションの解釈順
-lc -> libc.so -> /usr/lib/libc.so -> /lib/libc.so.6 -> /lib/libc-2.8.so

elfローダ(ld.so/ld-linux.so)は、ダイナミック・リンカローダとも呼ばれる。elfローダを指定するには、-dynamic-linkerオプションを使用する。
ld -dynamic-linker /lib/ld-linux.so.2 ...
共有ライブラリの格納情報を記録しているキャッシュは、/etc/ld.so.cache
テキスト形式で確認するには、/sbin/ldconfig -p

2009-01-18

"代数に惹かれた数学者たち" John Derbyshire 著

今宵は代数学の歴史を酔っ払いの目で語ってみよう。なぜかって?そこにピート香のきいた煙臭いスコッチがあるから。

数学の歴史は抽象化の歴史でもある。もともと数学が対象としたものは「数」であり、それは自然数に始まる。自然数の欠点は、引き算や割り算を行うと、答えが自然数の世界からはみ出すことである。算術によって世界が閉じられないという現象は、「数」の概念を、自然数、整数、有理数、実数、複素数へと拡張させてきた。そして、1600年頃、方程式を解きたいという欲求から文字による記号表記が現れ、抽象化レベルを一段と高める。抽象化の流れは、未知数や係数を記号表記する多項式の概念を登場させる。ここに、数の代わりに文字を扱う「代数」が始まる。ニュートンの「普遍算術」の世界とでも言おうか、人間の精神は、未知数と係数の関係を探求する方向へと向かう。ここまでの抽象化は、まだ二次元の世界にとどまる。しかし、対象がベクトルや行列の領域に到達すると、多次元の世界が広がる。そして、大学初等教育では「線形代数」に出会い、アル中ハイマーは奈落の一途をたどった。
1900年頃、文字記号は数の概念から離れはじめた。幾何学に革命が起き、人間の精神は非ユークリッド観へと向かう。数学の対象は、もはや「数」ではなく、体、環、群、そして、イデアルへと移行する。イデアル論は、酔っ払いの実存すら疑わせ、プラトンのイデア論へ通ずるものを感じる。アル中ハイマーは、既に「アルジェブラ」という強烈なカクテルによって一撃を食らっているが、抽象化の波はこれでも収まらない。トポロジーが登場し、凸多面体、星形多面体、メビウスの輪、トーラス、クラインの壺など、もはや現実逃避の世界が広がる。そして、アレクサンドル・グロタンディークのコホモロジー理論に到達した時、止めの一撃を食らった感覚すら感じない。ヤコービ多様体?不分岐類体論?モティヴィティック・コホモロジー?もはや純粋数学の領域にあるとは思えない。そして、代数学は幾何学に呑みこまれてしまった。いや!幾何学が代数学に呑みこまれたのか?いずれにせよ、アルコール濃度の高い方に飲みこまれたに違いない。ここで初めて数学はアルコール漬にされたことを自覚するのであった。
ヘルマン・ワイル曰く。
「トポロジーの天使と抽象的な代数学の悪魔が、数学の領域の一つ一つの魂を求めて戦っている。」
代数学で扱う素数や、方程式や、因数分解って、一体なんだったんだ?現代の代数学は、群、多元環、多様体、行列といった概念によって構築される。今後、代数学はどこへ向かうのだろうか?「普遍代数」へと進化するのだろうか?代数学は、既にアル中ハイマーには手に負えない宇宙へと旅立ってしまった後だった。

幾何学が代数学的なものに見える瞬間がある。それを本書はヒルベルトの零点定理とリーマン面で紹介してくれる。多項式の零点集合を観察していると、おもしろいものが見えてくる。例えば、次の4次方程式が&型曲線を描くのには感動する。
4(x^2 + y^2 - 2x)^2 + (x^2 - y^2)(x - 1)(2x -3) = 0
多項式の値がゼロになるなら、その多項式のべき乗も、このイデアルになるという。多項式の不変量の研究は、環の研究に他ならない。そして、イデアルの中のすべての多項式がゼロになる多様体とはどんなものか?といった探求が始まる。本書では、円錐曲線から代数曲線へ展開し、代数曲線の漸近線、つまり、無限大に近づくときの曲線の振る舞いが議論される。リーマン面においては、その威力が発揮されるのは逆関数を考えた時だという。平方関数の逆関数は平方根関数である。問題はゼロでない数には平方根が二つあることだ。リーマン面では、複素数がすべて対になっていて、一方がもう一方の上に重なっている。なるほど、垂直方向(z軸方向)の2点が平方根を表している。ただし、切れ目のところ以外であるが、4次元で図示できるとすれば、この切れ目は消えるというから驚きだ。リーマンは、現代微分幾何学を生み出し、いずれ一般相対性理論で使われることになる。

1. 代数の父は誰か?
「代数の父」という称号は、誰に与えられるべきであろうか?これは議論の分かれるところだろう。本書は1世紀から3世紀頃に現れたディオファントスを支持している。ただ、その600年後のアルフワーリズミーとする説も有力である。彼の名はアルゴリズムの語源になったという説もある。ディオファントスは、未知数、べき乗、引き算と等号に特別な記号を使ったという。それも、負数が登場する前の時代である。ただ、未知数に特別な記号を使ったのは、ディオファントスが初めてではないようだ。その最初の人物は不明という。そこに本当の意味での「代数の父」が存在する。それでも、文字表記した問題群を伝えた最古の人物なのは確かなようだ。「代数(アルジェブラ)」という言葉はアラビア語起源である。本書は、この「アルジェブラ」が、アルフワーリズミーの著書の題名からきているという説に納得がいかないようだ。ディオファントスの著作「数論」は、未知数やべき乗を記号で表しているが、アルフワーリズミーの著作「アルキターブ・アルムフタサル・フィ・ヒサブ・アルジャブル・ワルムカーバラ(補完と削減による計算の手引き)」には、記号表記ではなく文章で表されているという。ディオファントスの著作には、幾何的方法から記号操作へと向かう歴史的な転換が見られるが、アルフワーリズミーの著作にはそれが見られないらしい。本書は、むしろ時代に逆行しているではないかと指摘している。

2. 3次方程式と4次方程式は誰が解いたか?
3次方程式の一般解は誰が解いたかということについては、やや複雑な歴史がある。ジェロラモ・カルダーノは、著作「偉大なる技について」、すなわち、代数の規則に関する第一の書物で、3次方程式と4次方程式の一般解を掲載した。当時、3次方程式の型は三つあったという。
(1) n = ax + bx^3
(2) n = ax^2 + bx^3
(3) ax + n = bx^3
(1)と(3)は、同型に見えるが、当時は負数という概念がようやく認められようとした時代で、まだ区別されていた。(1)型の一般解を見つけた人物に、ボローニャ大学の教授シピオーネ・デル・フェッロがいる。彼は、亡くなる前にアントニオ・マリア・フィオーレという学生に打ち明けたという。以降、かわいそうなことにフィオーレはどんな数学史にも凡庸な数学者として記されているという。フィオーレは、数学の競技で名をあげようと、既に競技で有名だったニコロ・タルターリアと勝負した。その時、タルターリアは三つの型の3次方程式を解いた。その勝負をカルダーノは、ツアンネ・デ・トニーニ・ダ・コイから聞き、タルターリアに接触して他言しないという約束で解法を聞き出したという。4次方程式の解はカルダーノの弟子ルドヴィコ・フェラーリが解いた。カルダーノとフェラーリは、3次方程式についての貢献がタルターリアが最初ではなく、その前にデル・フェッロであったことを知ると、3次方程式と4次方程式の一般解を著作に載せた。タルターリアは、3次方程式の解法を発表しなかったが、彼が独自に解いたことに疑いはないという。しかし、その栄誉はデル・フェッロとの共同扱いにされタルターリアは苦しんだ。カルダーノは、3次方程式と4次方程式の解法を示した著作が後ろ盾になって、政治的にうまく振舞ったという。

3. ニュートンの功績
著者の好きなニュートンの逸話を紹介してくれる。
「1696年、ヨハン・ベルヌーイがヨーロッパの数学者に二つの難問を出した。ニュートンは問題が出された日にそれを解いて、自分の答えをロンドンのロイヤル・ソサエティに出し、ソサエティはそれを、誰が出した答えかを言わずに、ベルヌーイへ送った。ベルヌーイは、匿名の答えを読んだとたん、それがニュートンのものだと悟った。ベルヌーイは、「爪を見れば、ライオンとわかる」と言ったという。」
ニュートンは、科学への貢献と微積分を発明したことで知られるが、代数学者としてはあまり知られていない。彼は、ケンブリッジ大学で代数学を講義していたという。ルーカス教授職の後任ウィリアム・ホイストンは、その講義録を「普遍算術」という本にまとめて出版した。ニュートンは出版を許可したが、しぶしぶだったという。著者として、自分の名前を出すことを断り、しかも、破棄できるように全部を自ら買い占めることまで考えたという。ただ、ニュートンの功績で注目すべきは、ずっと以前に書かれた「数学著作集」の第一巻に収められたメモの方だという。そこには、ニュートンの定理と呼べるほどのものがあるらしい。
「n個の未知数による対称式は、n個の未知数による基本対称式を使って書くことができる。」
基本対称式とは、次の三つ。
(1次) α + β + γ, (2次) βγ + γα + αβ, (3次) αβγ
対称式とは、αに対して行われることが、すべてβやγにも行われるもので、足し算、掛け算の組み合わせも未知数に対して均等に行われるものである。例えば、次のようなものである。
5α^3 + 5β^3 + 5γ^3 = 5(α + β + γ)^3 - 15(α + β + γ)(βγ + γα + αβ)
この定理が、方程式を解くことに重要な関わりを持つことになる。

4. 5次方程式
数学界には、離散と連続という二つの相反する学派がある。代数学は離散数を対象とし、解析学は連続体を対象とする。代数学の歴史では、18世紀頃に歩みの遅い時代があった。それは、3次方程式と4次方程式の一般解が発見されてから、5次方程式に一般解のないことが証明されるまでの期間に象徴される。それも、微積分の発見が、代数学の進歩を減速させたと見ることもできるだろう。5次方程式への取り組みは、巨匠オイラーをもってしても証明できなかった。そこにアーベルが代数学を復活させたと言ってもいいだろう。1824年、アーベルによって5次以上の方程式に決まった代数的解法がないことが証明された。フェラーリが4次方程式を解いてから160年が経っていた。この過程も多くの数学者によって支えられる。ヴァンデルモンドという、フランス人っぽくない名前のフランス人、ヴァンデルモンドの行列式で知られる人物である。彼の考えを発展させたのがラグランジュだという。ちなみに、この名はフランス人っぽいがフランス人ではない。ラグランジュは、分解方程式から迫る。ルッフィーニもラグランジュの考えに従ったものだという。本書は「かわいそうなルッフィーニ」と評している。そして、アーベルの証明はアーベル=ルッフィーニの証明と表すのが良いと語る。だからと言って、アーベルの評価を蔑むものではない。ガウスは、アーベルの証明を見せられていたが、うんざりしてどこかへ置きっぱなしにしたという。既に有名だったガウスの元には、大問題を証明したと主張する変人たちが多く寄ってきた。アーベルもその一人として扱われた。アーベルはアウグスト・クレレと出会う。クレレは数学者ではなく、数学のプロモーターのような人物である。クレレは自分の雑誌にアーベルの論文を掲載した。クレレからアーベルにベルリン大学の教授に迎えるという知らせが入ったのは、アーベルの死後2日だったという。なんとも巡りあわせの悪い歴史であろうか。

5. 4次元へ
1次元の実数から2次元の複素数へと思考が移ったことで数学は豊かになった。ウィリアム・ローワン・ハミルトンは3次元についても、同様の代数を展開する。もちろん、実数や複素数のように交換法則や結合法則などの算術の基本法則が成り立たなければ意味がない。しかし、彼は、3次元ではできなくても、4次元ならばこの基本法則が成り立つと主張したという。いきなり2次元から4次元へと飛躍するとは?これでは3次元の立場がない。そこには、複素数とモジュラ計算の体系が展開される。ハミルトンこそ、ベクトルとスカラーなどの言葉を現代的な意味で使った最初の人だという。ベクトル解析の幕開けである。ただ、掛け算を厳密な交換法則と結合法則から解放すれば、あらゆる奇妙な物が姿を見せる。零ベクトルが因数分解できるような多元環もある。ゼロの因数には複素数も現れる。行列の掛け算で二つの零でない行列を掛けると、しばしば零行列が現れる。零の因数を認めることによって、多元環の概念は発展していく。

6. 行列式
中国の「九章算術」という本が書かれたのは、紀元前200年以降の前漢の時代と考えられる。これが西洋にどれだけの影響を与えたかは、意見の分かれるところだろう。この本には、連立方程式の解法があり、ガウスの消去法も記載されているという。ここで表される連立方程式を眺めていると、ある法則が見えてきて、それも行列に見えてくるからおもしろい。そして、置換などの基本操作が見えてきて、はたまた固有値問題へと発展する。数学の授業では、行列が先に登場し、その後に行列式を学ぶが、歴史的には行列式の方がずっと前に発見されているそうな。1683年になってから、行列式の発見がドイツと日本で二度あった。ドイツではライプニッツが、日本では関孝和である。日本人が書いた最初の数学書は、1622年、毛利重能の「割算書」で、関孝和は毛利重能の弟子である。関孝和は、おそらく中国の「九章算術」も知っていただろうという。彼は、係数、未知数、未知数のべき乗を表すのに漢字を使った。今日、ヤーコブ・ベルヌーイが紹介したベルヌーイ数は、実はその30年前に関孝和が発見していたという。連立方程式を行列式を使って解く手順にクラメールの公式がある。行列式に筋の通った理論を確立したのはコーシー。この数学の道具は、ハミルトンの4元数も表すことができるどころか、多元環も表すことができる。

7. 体、環、群、そして、イデアル
19世紀に入ると、「体」と「群」が数学的対象として加わる。「体」は数の体系で、四則演算をいくら行なっても、答えは同じ「体」にある。「体」には非可換性が紛れ込むが、有限体となると事情が変わる。有限個の元からなる「体」は、四則演算で定義された閉じている有限集合である。これがガロア体である。有理数の演算で答えが有理数となれば、それは有理数という「体」にある。しかし、現実には、高次元の方程式を解くと、わずかに無理数の「体」や複素数の「体」が現れる。係数の「体」よりも、解の「体」の方が大きい。この関係をガロアの群論が論じている。「群」とは、対象の集合である。「群」は、わずかな四つの公理、つまり、閉じていること、結合法則が成り立つこと、単位元があること、逆元があること、によって定義される。この単純な公理がその後の広い展望をもたらし、非ユークリッド幾何学へと向かわせる。「体」は「群」よりも複雑なもので、更に多くの公理が必要となる。その分、「体」の方が制限も多い。現代数学では、その対象に「環」というものがある。「環」は「群」よりも複雑だが、「体」ほどではない。「環」は、数学者にとって、ちょうどよい世界を提供する。例えば、整数の「体」において、足し算、引き算、掛け算は自由にできても、割り算はできない場合がある。整数は割り算において閉じているわけではない。数学の対象には、こうした三つの演算はできるが、もう一つの演算ができないものが実に多くある。これが「環」である。「体」は「環」よりも定義が厳しく、「群」は、もっと緩やかで「体」を広げることができる。「環」が「群」と「体」の中間に位置するのも、こうした事情がある。ガウスは複素数の「環」を見つけた。「環」には、一意的な因数分解という性質があるという。ただし、ガウスの時代には、「環」という言葉を使わなかった。その100年後に「環」という言葉が現れる。ここで鍵を握る概念「イデアル」が登場する。「イデアル」とは、数ではなく、数からなる「環」であるという。例えば、ある「環」として整数をとると、その中にある整数の倍数は全てイデアルであるという。ということは、公約数の二つの数でも、イデアルが得られそうだ。デデキントは、イデアルの定義から、どんな「環」についても、素数、約数、倍数、因数の定義を生み出すことができたという。

8. トポロジー
トポロジーという言葉は、1840年代、ゲッティンゲンの数学者ヨハン・リスティングによるものらしい。リスティングの考え方の多くは、ガウスに由来するという。リスティングはメビウスの輪についても述べているという。しかし、その4年後にメビウスが発表している。トポロジーの構造を調べるのに、面から離れずに出発点を縮めることができるか、といった経路を議論する。経路であるループを調べることによって構造を分類したのが、アンリ・ポアンカレ。本書は、ポアンカレが現代トポロジーの創始者となったことには、興味深い矛盾があるという。トポロジーの学派には二通りある。一方は幾何学に由来し、もう一方は解析学に由来する。解析学は、極限、微積分など、連続性を扱う。滑らかで連続的な変形と考えるならば、トポロジーとの関連はつかみやすい。トポロジーは柔軟で滑らかに連続的に伸び縮みするゴムシートのようなものだからである。ところが、最初に姿を見せたトポロジーの不変量はトーラスの穴の数で、これは整数である。次元もトポロジーの不変量で、これも整数である。ポアンカレが明らかにした基本群も、連続群ではなく、数えられるものである。つまり、トポロジーは離散的なものを対象としている。これに対して矛盾とは、ポアンカレがたどり着いた手段が、解析、特に微分方程式を使ったことにある。次元がトポロジーの不変量であることを証明したのは、L.E.J.ブラウアーだという。
「ブラウアーの不動点定理: n次元球体のそれ自身への連続写像には不動点が存在する。」
n次元球体とは、二次元ならば単位円、三次元ならば球である。これらをn次元に一般化している。つまり、それぞれの球体の点を移動していくと、結局出発点に戻ることができるという定理である。

2009-01-11

"素数に憑かれた人たち" John Derbyshire 著

「本書を読み終えてリーマン予想が理解できなければ、これから先も理解できないことを確信してもいいだろう。」と、前置きされる。本書は、リーマン予想の入門の入門書といったところで、厳密な数学者を対象としたものではない。これで理解した気になれなかったら落ち込むだろう。自らの馬鹿さ加減を再認識させられるかもしれないと思うと気合も入る。昔々、アル中ハイマーが美少年だった頃、このような本に出会えていたら数学で挫折せずに済んだかもしれない。いや!単に延命しただけのことかもしれん。ここには、言うまでもなくリーマンのゼータ関数が登場する。ゼータ関数は無限級数で定義された複素空間の有理型関数の一つ。この関数が注目される理由は、素数の分布に関する本質を内包しているからである。その気配に最初に気づいたのが巨匠オイラー。数論は離散的な対象を扱う一方で、解析学は連続体を扱う。その互いに相反する学派の中で、オイラーは数論を解析的に扱った。ここに数論の関心事の一つ「素数が自然数の中にどのように分布しているか?」という問題への探求が始まる。素数定理に最初に触れたのが巨匠ガウスと言われる。素数という純粋な数字を眺めていると、なんとなく純米酒が飲みたくなる。ついでに買って帰ろう。なぜかって?本屋の隣が酒屋だから。

素数といえば、直感的にまばらに存在し数が大きくなるとともに減っていく。そして、やがて無くなるような気がする。しかし、永遠に見つかることをユークリッドがエレガントに証明したのは有名である。では、次の疑問は、まばらになる様子に法則性はあるのか?与えられた数よりも小さい素数は何個あるか?これが本書で扱う問題である。数論の世界では、自然数、整数、有理数、無理数、そして複素数まで拡張することを研究する。その中で、リーマン予想は有名な数学上の未解決問題の一つで以下に示す。
「ゼータ関数の自明でない零点の実数部はすべて1/2である。」
これは、ゼータ関数を複素数空間に適応すると、0となる解は、実数部が1/2で虚数軸方向の直線上に現れるということを意味する。この直線がクリティカル・ラインであり、この直線上に現れる零点が「自明でない零点」である。リーマンは素数個数関数とゼータ関数の関係を示した。本書では、クリティカル・ライン上の点から得られるゼータ関数の特性は、複素平面で螺旋のような曲線を描き、何度も原点を通過しながら繰り返される様子を示している。この原点を通過する瞬間が、自明でない零点である。酔っ払いには、この螺旋が自然法則の謎めいた姿を象徴しているかのように映る。
ゼータ関数の自明でない零点は、ランダム性が表れる分野のモデルとしても使われる。物理学者フリーマン・ダイソンは、量子のエネルギー準位が、ランダムなエルミート行列の固有値と一致することを観測したという。また、数学者ヒュー・モンゴメリは、ゼータ関数の自明でない零点がランダムなエルミート行列の固有値と一致すると述べたいう。量子の振る舞いが素数分布と一致するとはなんとも信じ難い。更に、ゼータ関数の零点の虚数部分は、カオス系のエネルギー準位になるという。なんと、カオスのモデルにもなっているというから神秘と言わざるを得ない。ランダム性には、実は数学的に体系化できる何かがあるような予感さえする。インターネットの検索方法のように、優れた計算アルゴリズムの多くはランダム化に基づいているのも事実である。もしかしたら、リーマン予想によってアル中ハイマーのランダムな行動パターンも形式化できるかもしれない。夜の社交場をまっすぐに歩いているつもりでも、いつのまにか同じ店に何度も立ち寄る現象は、実空間の直線運動が虚空間の螺旋運動に対応する可能性を示唆する。この酔っ払いの足取りこそがクリティカル・ラインというものか?「自明でない零点」を「記憶のない例の店」と置き換えれば、ゼータ関数の正体が見えてくる。ここで、アル中ハイマーは、「人間社会の複雑系は、自然法則に従ってエントロピー増大へと向かい、やがて数学で体系化されるランダム法則に帰着するに違いない。」と熱弁する。そして、純米酒のまろやかさが体中に広がるのを、エントロピー増大の法則と重ねつつ、今日も夜の社交場へとランダム・ウォークするのであった。

アル中ハイマーの数学嫌いは、無限級数に出会ったあたりから始まった。無限級数を加算すると、直感的には無限大になりそうだ。
例えば、1 + 1/2 + 1/3 + 1/4 + 1/5 + 1/6 + ... = ∞
ところが、発散せずに収束する無限級数もあるから、数学は摩訶不思議である。
例えば、1/2倍していく数列の加算は、1 + 1/2 + 1/4 + 1/8 + ... = 2
確かに、1の次の数である2に対して1/2ずつ極限に近づくと考えれば、2を超えることはありえない。
また、分子と分母の和をとって次の項の分母とし、分子と分母の2倍とを足して次の項の分子とした場合、
1/1, 3/2, 7/5, 17/12, 41/29, ... , √2 に収束するという。
んー?有理数の数列が、なぜ無理数に収束するのだろうか?数学のトリックに嵌った感がある。
また、定義域の問題もおもしろい。例えば次の関数を考えると。
S(x) = 1 + x + x^2 + x^3 + x^4 + ..... は、
S(x) = 1 + x(1 + x^2 + x^3 + x^4 + .....) と変形できる。
S(x) = 1 + xS(x)
あれ?S(x)の右辺に自己言及するかのようにS(x)が現れる。
S(x) = 1/(1 - x)
つまり、1/(1 - x) = 1 + x + x^2 + x^3 + x^4 + .....
これは同じように変形を続けるとえらいことになりそうだ。無限自己言及とでも言おうか。数学は魔術か?いや!関数というのは、定義域を限定すれば、いろんな見え方をする。ゼータ関数も、定義域によって様々な姿を見せる。発散するものがいつのまにか収束したり、足し算の繰り返しが掛け算の繰り返しと等しくなったりする。定義域(人格)によっては、いくら飲んでも「俺は酔ってないぜ!」という主張も決して間違いではないのだ。

1. ゼータ関数
ゼータ関数は、以下のように表される。
ζ(s) = 1 + 1/2^s + 1/3^s + 1/4^s + ... = Σ n^-s
ζ(2) = (π^2)/6 は、オイラーの解いたバーゼル問題。
ζ(4) = (π^4)/90、ζ(6) = (π^6)/945
関数ζ(s)は、s > 1 の条件で収束するが、s = 1 あるいは、s < 1 で発散する。ということは、ゼータ関数は、s > 1 の定義域でしか使えないのか?ところが、数学のトリックというものは恐ろしいもので、s < 1 の条件でも収束するように見えてくる。ここで、以下の関数を考える。 η(s) = 1 - 1/2^s + 1/3^s - 1/4^s + 1/5^s - 1/6^s + 1/7^s - 1/8^s + ... 関数η(s)は、s > 0 で符号を相殺しながら収束することが証明できるという。これを変形すると、
η(s) = ( 1 + 1/2^s + 1/3^s + 1/4^s + ...) - 2 (1/2^s + 1/4^s + 1/6^s + 1/8^s + ...)
η(s) = ζ(s) - 2 × 1/2^s × ζ(s)
η(s) = (1 - 2 × 1/2^s) ζ(s)
ζ(s) = η(s) / (1 - 2 × 1/2^s)
つまり、ゼータ関数は、関数η(s)で表現できる。あれ?いつのまにかゼータ関数が、s > 0 の定義域でも収束しているではないか。
では、s < 0では、どうなるのか?ζ(s)とζ(1-s)の関係をオイラーが唱えている式がある。
ζ(1-s) = 2^(1-s) × π^-s × sin((1-s)π/2) × (s-1)! × ζ(s)
ちなみに、本書では、ガンマ関数による表記がなされていないので少々長ったらしいが、分かりやすさではこの方がありがたい。偉大なオイラーを信じると、ζ(4)が分かればζ(-3)が求まることが示されている。また、s = 1/2 の場合、特別な意味を持つ。1-s = 1/2 になるからである。 ここで、1-s = -2, -4, -6, ... の時、sin成分が0となるので、
ζ(-2) = 0, ζ(-4) = 0, ζ(-6) = 0, .... となる。
つまり、sが負の偶数はゼータ関数の零点である。これが「自明な零点」である。これぞ定義域のトリック!芸術の域に達した詐欺とは、こういうものを言うのだろう。

2. オイラー積
ここでエラトステネスのふるいの話が登場する。まず、2からの整数をすべて書き出す。そこから2の倍数を除く、そして、素数3の倍数を除く、次は素数5の倍数...と続けていく。すると、残るのは素数だけになる。この時、除こうとする素数pについて、p^2より小さい素数はすべて得られるはずだという主張である。
この考え方と似たようなことをゼータ関数でもやってみる。
ζ(s) = 1 + 1/2^s + 1/3^s + 1/4^s + 1/5^s +... について、
1/2^s, 1/3^s, 1/5^s, 1/7^s,...1/p^s (pは素数)の順に括っていく。
まず、ゼータ関数を1/2^s倍する。
(1/2^s)ζ(s) = 1/2^s + 1/4^s + 1/6^s + 1/8^s + ...
これを、ゼータ関数から引くと、
(1 - 1/2^s)ζ(s) = 1 + 1/3^s + 1/5^s + 1/7^s + ...
次に、これを1/3^s倍する。
1/3^s (1 - 1/2^s)ζ(s) = 1/3^s + 1/9^s + 1/15^s + 1/21^s + ...
これを、前の式から引くと、
(1 - 1/3^s)(1 - 1/2^s)ζ(s) = 1 + 1/5^s + 1/7^s + 1/11^s + 1/13^s + ...
これを繰り返すと、以下の式が得られる。
Σ n^-s = Π 1/(1-p^-s)、ただし、pは素数
オイラー積のおもしろいのは、正の数を成分とする無限個の和が、素数全体を成分とする積で表されることである。これは、s = 1 の時、左辺が無限大であることから、右辺の積も無限大となり、素数は終わらないことの証明にもなっている。素数が無限個あることは既にユークリッドが証明しているが、オイラーが解析的な手法を用いたことは注目すべきであろう。

3. 素数定理
素数分布の特徴は、数が大きくなるにつれて希薄になることと、その分布がランダムということである。素数定理は、自然数の中に素数がどのくらいの割合で含まれているかを論じた定理で、次のように表される。
π(N) ~ N/log(N)
π(x)は素数個数関数であり円周率とは関係ない。~(チルダ)は近似の意味。Nは自然数。ちなみに、PrimeのPに相当するのがギリシャ文字のπで、当時、ギリシャ文字への割り当ては枯渇していたという。確かに円周率と重なって紛らわしい。
素数定理からの帰結は以下のようになる。
(a) Nが素数である確率は、~ 1/log(N)
(b) N番目の素数は、~ Nlog(N)
逆に、これらの帰結が素数定理でもある。ここで、対数積分関数が登場する。
Li(x) = ∫1/log(t)dt
関数Li(N)が、N/log(N)よりも良い推定であることから、素数定理は以下のように表される。
π(N) ~ Li(N)
ちなみに、Nが大きくなればなるほど、その近似誤差も少なくなるという。

4. チェビシェフの「偏り」
素数を4で割ると、余りは1か3になる。そして、余りが3になる方が多い。ところが、その特異な偏りは、p = 26,861のところで破れるという。素数を3で割ると、余りは1か2になる。そして、余りが2になる方が多いが、その偏りは、p = 608,981,813,029のところから破れるという。いまではチェビシェフの「偏り」自体が偏った見方だという。

5. ビッグ・オー
ビッグ・オーは、引数が無限大に向かう時の関数の大きさに制限をかける方法である。その定義は、次のようなものである。 「十分大きな引数について、Aの大きさがBの定数倍を超えないならば、関数Aは関数Bのビッグ・オーである。」
ビッグ・オーは符号を気にしない。よって、ある関数f(x)が1のビッグ・オーというと、f(x) = 1, f(x) = -1 の2本の直線の間に永遠に閉じ込められることを意味する。関数Aは、関数Bの境界線を超えられないので、これは関数の比較には便利な記法である。ヘルゲ・フォン・コッホは、リーマン予想が正しければ、π(N)とLi(N)の絶対差は、√x log(x)のビッグ・オーと主張したという。
π(N) = Li(N) + O( √x log(x) )
これは、素数分布を定義している。

6. メビウス関数
ゼータ関数ζ(s) = Π(1/(1-p^-s)) の逆数をとる。
1/ζ(s) = (1 - 1/2^s)(1 - 1/3^s)(1 - 1/5^s)(1 - 1/7^s)(1 - 1/11^s)...
これは、無限にある括弧を掛けることになる。各項は、1とそれ以外の組み合わせの項でできている。ここで、無限個の1以外の数字だけを掛けるパターンに着目すると、1と1/2の間に存在するので、それを無限個掛けると0に収束する。全部1の項は、言うまでもなく1。
一つだけ、1でない数を掛け合わせる組み合わせは、
-1/2^s × 1 × 1 × ... = -1/2^s
-1/3^s × 1 × 1 × ... = -1/3^s
...
よって、1 - 1/2^s - 1/3^s - 1/5^s - 1/7^s - 1/11^s...
次に、二つの1でない数を掛け合わせる組み合わせは、
-1/2^s × -1/3^s × 1 × 1 × .... = 1/6^s
-1/2^s × -1/5^s × 1 × 1 × .... = 1/10^s
-1/2^s × -1/7^s × 1 × 1 × .... = 1/14^s
...
-1/3^s × -1/5^s × 1 x 1 × .... = 1/15^s
-1/3^s × -1/7^s × 1 x 1 × .... = 1/21^s
...
よって、ここまでをまとめると、
1 - 1/2^s - 1/3^s - 1/5^s - 1/7^s - 1/11^s ...
+ 1/6^s + 1/10^s + 1/14^s + 1/15^s + 1/21^s + ...
次に、三つの1でない数を掛け合わせる組み合わせは、(符号はマイナス)
-1/2^s × -1/3^s × - 1/5^s × 1 × 1 × .... = - 1/30^s
-1/2^s × -1/3^s × - 1/7^s × 1 × 1 × .... = - 1/42^s
...
よって、ここまでをまとめると、
1 - 1/2^s - 1/3^s - 1/5^s - 1/7^s - 1/11^s ...
+ 1/6^s + 1/10^s + 1/14^s + 1/15^s + 1/21^s + ...
- 1/30^s - 1/42^s - 1/66^s - 1/70^s - 1/78^s + ...
これを、四つの1でない場合、五つの...と続けて並び替えると、
1/ζ(s) = 1 - 1/2^s - 1/3^s - 1/5^s + 1/6^s - 1/7^s + 1/10^s - 1/11^s - 1/13^s + 1/14^s + ...
ここで見られる、右辺に登場する素数以外の数はなんだろう?
欠けている数字は、4,8,9,12,16,18,20,24,25,27,28,...のように何かの素数の平方で割れる数。この欠けている数字をアウグスト・フェルディナント・メビウスにちなんでメビウス関数と呼ぶ。これはμ(ミュー)で表し、以下のように定義される。
「定義域Nは、自然数で、μ(1) = 1
nが平方の約数を持つならば、μ(n) = 0
nが素数か異なる奇数個の素数積ならば、μ(n) = -1
nが異なる個数個の素数の積ならば、μ(n) = 1」

そして、ゼータ関数は、メビウス関数で以下のように表現できる。
1/ζ(s) = Σ(μ(n)/n^s)

7. メルテンス関数
リーマン予想に重要な関数としてメルテンス関数Mがある。
M(k) = μ(1) + μ(2) + μ(3) + ... + μ(k)
この関数は非常に不規則であり、ランダム・ウォークしながら振動するという。引数を大きくすれば、その絶対値は増加現象にあるが、以前として0を中心に振動する以外は、明らかになっていないらしい。

2009-01-05

"アメリカ人の半分はニューヨークの場所を知らない" 町山智浩 著

正月早々、書店の入り口に山積してあるのを手に取った。アル中ハイマーは、陳列の罠にコロッと嵌るのであった。ペーパーバックスは立ち読みで済ませられる手軽さがいい。それにしても本書は笑える。読み終わろうとしたその時、店員のお姉さんから「そんなにおもしろいですか!」と声をかけられた。そんなにニヤニヤしていたのだろうか?思いっきり照れて「この本を頼む!」とドスの利いた声でお返しした。ペーパーバックスのコーナーで綺麗なお姉さんが笑顔で話し掛けてくれば、いつも買うに違いない。

自宅で冷静に読むと、これが世界の覇権を握った国家なのかとムカついてしまう。狂信した保守派の婆さんが登場すると、「女性に選挙権を与えるな」「原爆を落としたら日本人は羊みたいに従順になったわ」「環境破壊なんて左翼のデマよ。人間は地球をレイプする権利があるの」などと叫ぶ。これは、ちょっと大げさ過ぎやしないかい?そこで、知り合いのアメリカ人にこんな本があるんだけどって紹介したら大笑いしだした。あながち大げさでもないらしい。英語が少ししか分からない日本人と、日本語が少ししか分からないアメリカ人の会話は異様なものがあるようだ。通りかかったオーストラリア人の女性が大笑いしながら加わってきた。彼女は日本語にも英語にも精通している。二人の分析はなかなかおもしろい。まあ、日本に住むような外国人は革新的で知的な人種であろう。そして、アメリカ人は是非これを英訳してくれって頼むので、日本には「知らぬが仏」という諺があることを教えてやった。アメリカ人の中でも出身地などで考えも違うのだろうが、このアメリカ人は西海岸出身だ。ただ、オーストラリア人がニューヨークに住んでいたというから、この二人の意見はそれなりにバランスされているのかもしれない。おいらの周りは革新的な考えを持った人種が多い。いや正確には、社会に対して愚痴ってる奴ばかりと言った方がいいだろう。
ところで、二人は「日本人はなぜ中国のことを辛口で言わないのか?」と質問してきた。「それは、社会的に抹殺されるのを恐れているからだろう。」と答えると、二人は妙にうなずいていた。ちなみに、中国人女性を追いかけて大連まで行ったことがあるなどという記憶はない。

本書は、アメリカはさすがにスケールが大きい!と随所に感じさせてくれる。その馬鹿さ加減、政治家の問題発言、呆れたメディア、宗教に汚染された国家などなど。そこには、外国について何も知らず、聖書以外の価値を完全否定するブッシュ的なアメリカ社会がある。本書は、あらためて政教分離の大切さを教えてくれる。
デヴィッド・ミンディック著「投票者数/なぜ40歳以下のアメリカ人は時事ニュースを知らないか」によると18歳から34歳のアメリカ人で新聞を読むのは3割に満たないという。CNNの視聴者の平均年齢は60代だそうだ。おいらでもケーブルTVで深夜に眺めている。大新聞を読まないのもインターネットの方が有意義だという意見も多い。ただ、インターネットでチェックするにしても、アメリカ人のこの年齢層では11%に過ぎないという。ちなみに、おいらはこの年齢層から仲間はずれだ。んー寂しい!

アメリカが仕掛ける戦争は、本当にテロ撲滅のためなのか?と疑問に思う人も少なくないだろう。キリスト教原理主義とイスラム教原理主義とで繰り広げられる宗教戦争であって、これに世界が巻き込まれているだけではないのか?9.11テロとイラクを勝手に結びつけて戦争を仕掛けても、その証拠はない。大量破壊兵器も見つからない。アメリカの若者達を大義名分のない戦争で死なせている。9.11テロの前からイラクの大量破壊兵器を調査して、なんでもいいから口実を探していた国である。そういえば、ブッシュに真っ先に支持を表明した首相がいた。今年オバマ政権が誕生するが、大変な問題を残されて気の毒である。政治家は前代の政治家が残した批難材料をそのまま引き継ぐ宿命を背負う。

1. 福音派
アメリカ人の無知の根底には、「無知こそ善」という「反知性主義」があるという。歴史学者リチャード・ホフスタッカーによると、この原因はキリスト教福音主義にあるという。福音主義とは、聖書を一字一句信じる生き方で、特に過激なのは聖書福音主義と呼ばれるらしい。まず、相手の人格を全否定して自我を崩壊させ、真っ白な状態で教義を叩き込むのが洗脳の基本テクニックである。これは宗教に限らず、共産主義の思想改造にも見られる。そもそも、州法で進化論も教えてはならないお国柄だ。科学がこの国を豊かにしているにもかかわらず、福音派にとって科学は敵である。そもそも、科学は宗教を否定したわけではなく、真理を求めただけなのだ。聖書以外の書物を読まないことを誇りに思う輩が大勢いるのだそうだ。知識を身に付ければ聖書に疑いを持つ。となれば、無知は聖書に純粋に身を捧げることになる。神の正体を知るために、自ら神になるしかないとでも考えいているのだろうか?それにしても、本書で紹介される宗教家のスキャンダルはおもろい。レイプやコールボーイとの肉体関係などなど。なるほど、神はどんな極悪人でも無条件に愛するから、宗教家は神を熱心に信じるわけだ。こうした福音派が人口の3割を占めるというから恐ろしい。そこに目を付けたのが共和党で、福音派が強力な票田になっているという。その他にも、無知の原因は、右派メディアの暴走、教育の崩壊などがあるという。ちなみに、リック・シェンクマン著「我々はどこまでバカか?」によると、日本に原爆を投下した事実を知っているアメリカ人は49%に過ぎないという。ほんまかいな!

2. 絶対禁欲性教育
ブッシュ政権が推進するものに絶対禁欲性教育というものがあるという。結婚するまで一切の性交渉をしないというものだ。「絶対」であるからには避妊法は一切教えない。学校は禁欲のガイドラインから外れると助成金が受けられない。その結果10代の妊娠者が続出、その一方で中絶は殺人だと教える。レイプされても中絶できない。この教育では、セックスの禁止のみが強調され、オーラルやアナルなら大丈夫という知識が横行したという。その結果エイズ感染者も増える。親心としては、娘には結婚するまで純潔を守ってもらいたいだろう。だが、自分が子供の頃を思い出せば、単なるエゴイズムでしかない。人間社会には善悪が共存する。悪を直視しなければ、理想を夢見るだけの脳死状態に陥る。
ここで、昔記事にもしたが、レヴィットとダブナー著「ヤバい経済学」を思い出す。犯罪の減少についての考察で、犯罪件数が1990年を境に大幅に減少した原因に中絶の合法化を挙げている。これは、親から望まれて生まれたのではない人間の犯罪率に着目したものだ。1990年代は、法律の施行からちょうど生まれてくるはずだった人間がティーンエイジャーになる頃である。この考察でも、宗教家から批難されたと愚痴っていた。

3. 戦争の外注
イラクには、警備会社や傭兵派遣会社から5万人働いているという。冷戦が終わってアメリカ軍が縮小されたので、兵員不足を民間企業が穴埋めする。彼らは民間会社であって目的は金である。本書はブラックウォーターという会社を紹介している。そして、彼らはイラクに憎しみをばらまいているという。民間人虐殺事件などで、彼らはゲリラが銃撃してきたと主張して、やりたい放題なのだそうだ。イラク政府はさすがに我慢できず、ブラックウォーターの活動を禁止する声明を出したという。ブッシュ大統領は慌てて彼らにもアメリカ軍の規則に従わせるとなだめたそうだが、身を守るためだったら規則を破る権利を認めたというから慰めにもならない。レーガン政権以来、共和党は政府の仕事を片っ端から民営化してきたが、ついに軍隊までアウトソーシングしてしまったということか。
エジプトの学生がアメリカを嫌うのはムバラク大統領を支援するからだという。ムバラク大統領は軍事独裁政権であるが、アメリカ政府は反共で反イスラム原理主義というだけで支持する。なるほど、かつてイランと対立したフセイン大統領やソ連と戦うアフガンのイスラム派も支援していた。サウジアラビアでは、余計なことを言うと思想犯として斬首されるという。石油のある大金持ちの国では一握りの人間に独占され、貧困層はイスラム過激派に身を投じる。その憎しみは、サウジ政権を支援するアメリカに向けられる。本書は、次々にタリバンに身を投じる若者たちがいる現実を指摘する。
「テロの原因は自爆するほど追い詰められた惨めな生活なのだから。イスラム教のせいですらなかったのだ。」
テロの首謀者を捕まえたところでテロは終わらないということか。

4. 格差社会
「ウォルマート/激安の代償」という映画があるらしい。ウォルマートは徹底的な価格破壊戦略でチェーン店を広げた世界最大級の企業である。何でも激安になるのは、消費者にとってはありがたい。しかし、その実態を次のように語る。
「近くにウォルマートがオープンした町では、代々続いてきた地元の店が客を取られていっきに潰れる。まるで爆撃機のようだ。20年ほど前から、アメリカの小さな町のダウンタウンはどこもゴーストタウンになっている。」
地元の店が潰れればウォルマートで働くしかない。従業員の賃金も異常に低い。正社員の半分は貧困層として社会福祉を受けているという。政府から受ける援助の総額は年間16億ドル。つまり、本来ウォルマートが支払うべき賃金を税金が補助しているというのだ。なんだそれ!この非情なコスト削減にもかかわらず、CEOの年収は約27億円!いまや、アメリカの全ての大企業がウォルマートのマネをしているという。そこには、低賃金労働者や貧困層を構造的に作り出している実態がある。最低賃金で1ヶ月生きられるかといったワーキング・プア人体実験映画まで登場する。生活がぎりぎりな上に、ちょっとでも病気しようものならたちまちホームレスに転落する。アメリカは先進国で唯一国民健康保険がない国なので、高い民間の保険に入るしかない。したがって、国民の15%以上が健康保険に入れない。アメリカの国民全体の平均年収は約450万円であるが、国民の総収入97%を上位20%の富裕層が独占している。しかも、社会保障制度を株式で運用するから、金融危機に陥れば奈落の底へと落ちる。アメリカン・ドリームとは、貧困層から毟り取るということか?もはや、資本主義が正常に機能しているとは思えない。プッシュ政権が金持ちと大企業に大減税を進めた結果、税金を支えているのは中産階級だという。日本では、地方分権を訴える動きが活発だが、アメリカに比べればまだまだ救える余地がある。いまのうちに政治が機能しなければ同じ轍を踏むであろう。政策が後手になると、投入する税金は大幅に拡大する。それが、日本の現状とも言えるのだが。アメリカは日本にしてみれば素晴らしい反面教師ではないか。

5. サブプライム
サブプライムローンにはデタラメな貸し付けの実態がある。本書は年収360万円の若造に2億円の住宅ローンを貸し付けた例を紹介している。マイホームを持つという夢は日本でもアメリカでも同じようだ。ローン会社はあらゆる手段で客を取り込む。しかし、返せなければ破綻するのは見え見え。そこで登場したサブプライムローン。金融屋は他人の預金を使ってとんでもない金融商品を考え出す。貸す金は他人の金、儲けた金は自分の金なのだ。当然不動産価格に目を付ける投機筋が現れる。クレジット会社は、支払い能力のない連中にカードを持たせて破産させる。まるで麻薬の売人。アメリカのGDPは依然として世界一位だが、その70%は個人消費(日本は57%)だという。しかも莫大な貿易赤字をかかえる。ろくに収入もないのに買ってばかりの国。カード利用者のうち、期限までに返済できないのは32%にのぼるという。サブプライムローンの次の時限爆弾はクレジットカードと言われているらしい。

6. 医療格差というより健康格差
病人を見殺しにする医療保険、これは日本も似たようなものだろう。ただスケールが違う。アメリカの場合は、保険のイメージがちょっと違う。HMO(健康維持機構)というシステムで、医師への報酬を保険会社が支払うという仕組み。つまり、医療内容を保険会社が管理する。となれば、医療コスト削減のために、医師に手抜き医療を推進する。医師は、医療拒否して保険会社の支出を減らせば、それだけ評価されて奨励金がもらえるという。同じように保険会社の職員も支出を減らせば給料が上がる。しかも、過去に病歴があると加入拒否される。要するに、健康な人ばかり受け付けるシステムということだ。健康な人はより健康に、病気がちな人はより病気になるというわけか。ちなみに、アメリカの医療費は世界一高いという。なんだこの矛盾は?いくら民間でも、昔はこれほど医療拒否することはなかったという。クリントン政権時代、ヒラリー夫人は国民健康保険の実現を目指したという。だが、議会は「アカになるより病気で死んだほうがマシだろ」と脅したという。全般的に、社会主義っぽい制度に対して、強烈な拒否反応を示すお国柄のようだ。また、議員が、保険会社の政治献金や、天下り先を目当てにしている現実もあるという。

7. 保守とリベラル
アメリカの保守とリベラルの対立は、日本の右と左の対立とはかなり様子が違うようだ。共和党の伝統的な保守思想とは自由主義のことだという。あれ?リベラルって自由のことじゃなかったけ?そもそも、アメリカは伝統主義のイギリスから逃れた自由の国である。アメリカのイデオロギー論争は、いろんな自由の争いであって、共和党の「自由」と民主党の「平等」の対立だという。リベラルとは、社会的リベラルという意味だそうだ。よって、民主党はリベラルということになる。これを保守派はアカと呼ぶらしい。なるほど、学校で習ったのとはイメージも違うし、分かりやすいのがいい。自由放任主義が強くなると、政府の権限は小さいほど良いことになる。だから軍隊も民営化となるのか。経済政策の立場も、アダム・スミスを始めとする新古典派が強いのはなんとなく見て取れる。新古典派は世界恐慌時代に大失策を演じる。そこで、ケインズ派の登場でニューディールのような公共事業で立て直す。しかし、一旦成功すると原理主義が蔓延るのが経済学である。ケインズ派の弱点は公共事業ならなんでもあり、つまり、ピラミッドでもええのだ。どこかの行政は相変わらずピラミッド造りに励む。人類には、完全な「平等」を徹底的に追求した結果、自由を失い、官僚主義、共産主義、そして全体主義へとなった歴史がある。そこで、「自由」という概念が重要な役割を果たす。つまり、両輪がバランスしなければとんでもない社会体制ができるわけだ。では、ネオコン(新保守主義)ってどういう位置付けにあるのだろうか?新しい自由放任主義というより全体主義っぽいイメージがある。アメリカの伝統に不干渉思想のモンロー主義があるが、積極的に軍事介入を続けているのだからこれとも違う。ネオコンは、もともとリベラルのような?左翼のような?とにかくその方面からの転向組だという。彼らには「トロツキズム的な世界改革の理想」があるという。これはうまい表現だなあ!ちなみに、トロツキーはスターリンの古参ボルシェビキの大量虐殺にあった一人で、亡命先のメキシコで暗殺された。もっともスターリンの場合、イデオロギー論争というよりはライバルの暗殺が目的であるが。
ところで、日本の二大政党の自民党と民主党の違いってよく分からん!

8. おもろいメディア
本書は、FOXニューズをブッシュ政権の大本営と蔑む。ホワイトハウスの晩餐会でコメディアンのスティーヴン・コルベアのホメ殺しのスピーチは笑える。
「貧乏人に告ぐ!貧乏をやめろ!諸君らが貧乏なせいで大統領が責められる。貧乏なのは愛国心が足らない。」「アメリカをダメにするリベラルなマスコミ関係者だらけでヘドがでます。いや、FOXニューズは違いますよ。両サイドの意見を報道しますから。大統領の意見と副大統領の意見を。」「ブッシュ政権をタイタニック号にたとえる人がいますが失礼な話です。この政権が斜めに傾いているのは沈んでいるのじゃなくて上昇しているんです。飛行船ヒンデンブルグ号のように!(ちなみに、ヒンデンブルグ号は上空で爆発した。)」
隣に座っているブッシュの顔は真っ赤になったという。しかし、ホメ殺しは延々と終わらない。このスピーチを新聞やテレビは報道しなかったが、チャンネルC-SPANだけがノーカットで放送し、YouTubeにアップされ数百万人が観たという。コルベアのスピーチは、記者たちにも向けられる。
「ブッシュ大統領になって5年間、ホワイトハウスの記者の皆さんはずっとイイ子ちゃんでした。無茶な減税や、イラクに大量破壊兵器がなかったこと、野放しの地球温暖化についても、あまり大統領に突っ込みませんでした。記者の皆さんはそれを追及しない節度がありました。さあ、もう一度ホワイトハウス記者の決まりをおさらいしましょう。何かを決めるのは大統領。それを記者に伝えるのは報道官。記者は大統領のお言葉を書き写す....(と続く...)」
この言葉は、某国の記者クラブに捧げたい。

2009-01-01

本棚のパワー

ブログを続けて二年が過ぎた。飽きっぽいアル中ハイマーにとっては驚くべき事実である。学生時代、ある先生に読書や音楽鑑賞は趣味といった類のものではないと言われたことがある。つまり、本を読まなかったり、音楽を聴かない人など、いないということである。しかし、ある特質した分野に精通するのであれば、そうとは言えないだろうと心の中で反発したものだ。例えば、モーツアルトに凝ってその歴史を遡り、その音楽の特質に堪能できれば、それは立派な趣味だと思う。そう考えると、おいらの場合は読書が趣味とは言えない。数もそんなに多く読んでいるわけでもない。それでも、結果的に読書がテーマになっているのは、奇妙な話である。

今、ブランデーを飲みながら本棚を眺めている。これがなかなかおもしろい。それも、自分自身の歴史を振り返ることができるからである。昔読んだはずの本が新鮮に見える。数は少ないが、結構おもしろい本を読んでいたことに気づかされる。今思えば随分と本を処分してきた。20代、30代は引越を繰り返していた。半年しか住んでいないマンションすらある。自らに変化を求めるには生活環境を変えるのが一番だと、強く信じていた時期である。お陰で引越し貧乏が慢性化していた。その都度荷物は処分する。特に書物は重量が嵩む。古本屋に持ち込めばお金にもなる。当時は、一度読んだ本を読み返すなど考えもしなかった。本に出会うタイミングも難しい。くだらないと思った本でも馬鹿にはできない。受け止められるだけの心構えができていなければ、どんなに素晴らしいものに出会っても見過ごしてしまう。処分した本の中にも、もったいないことをしたものがたくさんあるに違いない。最近の売れ筋よりは、昔読んだ本を読み返す方がおもしろい。今になって処分したことを後悔している。

30歳から...40歳から...といった啓発本が書店の陳列を賑わす。ただ、その時に、自らの歴史を振り返ることができなければ先には進めない。30歳から何かしたければ、20代を精一杯生きることだ。40歳で何かしたければ、30代を精一杯生きることだ。もし、40歳で何も見つからなければ、40代を精一杯生きて50歳になるのを待つことだ。人生は死ぬまで続く。人間は永遠に答えの見つからない自問と対峙する運命にある。よって、人生に年齢など関係ないと信じたい。記憶力のないアル中ハイマーには、過去を振り返りたくても遡る手段がない。これは辛い!と思っていると、そんな役割を本棚が果たしてくれる。本棚は、先に進むパワーを与えてくれる。ただ、残念なことに、本棚には社会人になってから10年間ほどの本がぽっかりと空いている。辛うじて、実家に置き去りにしていた学生時代の本が残っているぐらい。したがって、振り返ることができるのは10年分ぐらいだろうか。時々絶賛されている古い小説が紹介されるのを見かければ、読んだ覚えのあるタイトルにでくわす。だが、中身がまったく思い出せない。本棚をあさっても見当たらない。出版社を調べても絶版だったりする。そして、自らの歴史を穴埋めするために古本屋へ駆け込む。これが、ここ数年の行動パターンである。当時を振り返ろうと、もがきながら、古本屋を散歩するのも楽しい。アル中ハイマーの哲学の一つに、「のんびりと精一杯!」という言葉がある。頭の回転が鈍い人間には、何事もじっくりと構えないと得られるものが少ない。本という媒体は、そういう人間にピッタリだということが、今になって気づかされる。人生には、リズムとバランスが大切だと思っている。そして、時々立ち止まり振り返ることも付け加えたい。本棚は、その立ち止まって振り返る時に力を与えてくれる。昔から、歴史という分野は好きだが、まさか自らの歴史を振り返るなど考えもしなかった。本棚に自らの歴史を刻みつけた時、信じられないパワーを発揮する。

本には、表紙のデザイン、タイトル名、後書きなど、隅々にまで著者の思いが込められる。おいらは、こうした全てを舐めまわすように眺めるのが好きだ。映画館では、上映が終わると、エンディング音楽が流れている途中でほとんどの観客が席を立つ。しかし、製作者の情熱は、このエンディングにも刻まれる。おいらは完全にフィルムが止まるまで味わう。そうしないと気がすまないのは貧乏性の証でもある。出された食事は、皿を舐めまわすように食さないと気が済まない。どんな本でも、その能力と情熱には敬意を表したい。

ブログを始めて気づくことは、精神を解放できることである。何を考え、どんな感情に見舞われるかを確認することができる。ただ、自らの精神から冷めた領域に身を置かないと文章は書けない。そして、どんな媒体であれ、情報は発信した方が良いと思うようになった。さて10年後、自らの記事をどんな思いで読み返すことができるだろうか?それも一つの楽しみである。おもしろい本を見つければ、その参考文献も読みたい。そして、次々と読みたい本が登場し、そうした感情が輪廻するようにできている。ToDoリストは永遠に溢れるようにできているようだ。

ところで、読書する意義とはなんだろうか?一つは知識を得る手段である。だが、それだけではあるまい。高度な知識を身に付けて、他人の間違いを指摘することに命を掛ける人がいる。何かに憑かれたように知識を吸収することに専念しても、自らの精神で消化できなければその意義を失う。方法論に目くじらを立てても、目的論になると議論を怠る場合も多い。この偏りはなんだろうか?また、知識の縦割りといった現象もある。せっかくの繊細な知識を他の分野で応用するのは難しい。泥酔者ともなれば知識の縦割りと横割りの両方が生じる。精神も知識も泥酔状態、アル中ハイマー病とはそうした病である。知識を得る意義の一つは事実関係に迫ることである。ただ、事実は単なる現象である場合がある。重要なのは、知識から何を学ぶかであり、決して得られることのない真理を探究することであろう。数学的公理は永遠であるが、歴史の知識となると、その解釈は時代とともに変化する。ただ、知識が思考を助けるのも事実だ。全然知識が無ければ思考することすら難しい。だが、知識が多いからといって思考が深いとは限らない。エリートはこの罠に嵌りやすい。実際、知識人の発言には、なんとなく説得力を感じる。頭の回転の速い人の発言には圧倒される。そして、冷静に考えてみると酔っ払いの直観が訴える。「その発言に疑問を持て!」と。読書という手段が、知識を得ることだということに固執する必要はないだろう。どんなに知識を得ようと頑張ったところで、次の瞬間には消え去る。既に記憶領域が破壊されている。アル中ハイマーは、知人の名前を覚えることすら苦手なのだ。結婚式の案内状で友人の名前を思い出すことはよくある。知識よりも文章表現によって、その瞬間に感動を与えるものがある。読書している瞬間に心を癒してくれる何かがある。その時の気分によって、その時の精神状態によって、同じものでも違った視点が見えることがある。同じ本を読んでも、気分次第で違った景色が見えるのは得した気分になれる。酔っ払いは感情の起伏が激しい。読書の意義には、むしろ精神の安らぎを求めたい。自らの精神を解放し、新たな思考を巡らせるための手段としたい。そして、本ブログを自らのエゴイズムを追及する場にするのであった。

アル中ハイマーは思いついたフレーズは全て言いたいと思う質である。よって、どうしても文章が長くなる傾向にある。酔っ払いはお喋りなのだ。ちなみに、酒を飲まずに記事を書いたことがない。そこで、モーツァルトの好きな逸話を思い出す。それはオペラ「後宮からの逃走: K384」に関するものだったと思う。皇帝ヨーゼフ2世が、「我々の耳には音譜が多すぎるようだ。」と言うと、モーツァルトは、「音譜はまさに必要とされる量ございます。」と答えた。このエピソードに励まされる思いである。アル中ハイマーにとって語るだけで精一杯!コンパクトにまとめるのは至難の業である。文章を書くこととプログラムを書くことには、なんとなく通ずるものを感じる。言いたいことを羅列する様には、モジュールの摘出の姿が重なる。文章構成にはまさしくモジュール構成の姿がある。アル中ハイマーは、しばしばスパゲッティプログラムを書いてKernel Panicを起す。そして、今日も昼間っからスパゲッティ文章を書いて泥酔するのであった。