2008-12-26

アル中ハイマー流「悪魔の辞典」

今年の最後はこのネタで締めくくろう。今宵もいい感じで酔っている。hpにもアップしとこうっと。

西暦2108年、とある人工島で100年前の古い文献が発見された。その人工島は、かつてアドベンチャーな企業が集まり経済の中心地であったという。現在では、当時の面影はまったく残っておらず、ゴーストタウンと化している。発見された文献の名は、「アル中ハイマー流、悪魔の辞典」。ちなみに、著者は読み人知らず。昔々社会混乱のさなか、アル中ハイマー病を患い半狂乱した人物によって記されたものらしい。

1. 政治学
政治屋...
それがどんなに善行であっても、自分を経由しなければ反対の立場をとる輩。政治家は前の代の政治家が残した批難材料をそのまま引き継ぐ宿命を背負う。それゆえに、前の代の政治家は今の代の政治を猛烈に批判する。

議会制民主政治...
議員たちが揉めている隙に官僚体制を強固にしてしまった、もはや取り返しのつかない我が国特有の政治システム。議会が機能しないという弱点を有するが、全く心配はない。もっと上手の官僚が仕切っているから。この世界では、賛同しない者を不誠実と呼び、自らの斡旋を中立独立と呼ぶ。都合が悪くなると誠意がないと叫び、正義にかられて偽証できない者を自重しろと説教する。中国の官僚制は1500年もの長い年月をかけて科挙を廃止してきた。にもかかわらず、未だに古代システムの亡霊に憑かれている。日本の官僚制はその亡霊を猛スピードで追いかけている。

第三者会議...
その人選は当人が決める談合会議。したがって、この会議が完璧に機能した時は政策に反映されない。

有識者会議...
そもそも、会議というものは無識者で構成されるものだというこを知らしめてまわる言葉で、極めて政治力の強い世界で使われる専門用語。尚、会議に参加できるのは自称有識者に限る。

骨太の政策...
身と肉を削る政策。また、自ら過大評価していることを知らしめてまわる政界の専門用語。真に充実した政策ならば、くだらない形容は不要なはず。類似語に「百年安心の年金制度」というのがある。

2. 社会学
社会学...
人間の行動によって引き起こされる矛盾した現象を扱う学問。人間社会には、政治家が政治を破壊し、経済学者が経済危機を起し、道徳家が道徳を崩壊させ、平和主義者が戦争を招くといった現象がある。

報道屋...
言論の自由を訴えながら、他人の意見を迫害する輩。強大な権力者には優しく弱者をいじめる連中。したがって、落ち目の権力者は徹底的に叩かれる運命にある。そして、なによりも正直者である。決してデマを流すわけではなく、些細な事実を思いっきり盛り上げ、重大な事実をささやかに伝える。したがって、彼らの情報操作は超一流だ!

大新聞...
民衆の誰もが信じる最も洗脳性の強い新聞。だからこそ、どの大新聞もこぞって同じ記事を掲載する。彼らは透明性のない記者クラブの下で情報を作成する。クラブ活動とはよほど楽しいものらしい。ちなみに、アル中ハイマーも夜のクラブ活動に励んでいる。

天職...
どんな人間であっても、性格や趣味などその人間性に似合った職業が用意されている。自然法則を探求したいから科学者になる。あらゆる美と戯れたいから芸術家になる。詩の虜になれば文学の道がある。精神の持つ真理を覗きたいならば哲学者にもなる。統計をとって社会の行く末を占いたいから経済学者になる。説教をしたい輩は教育者にもなろう。噂を広めておもしろがってる輩は報道屋になればいい。「火の無い所に煙は立たない」と言うが、自ら油をまいてマッチを持ってまわる放火魔もこの職に属す。では、腹黒い人間には、いったいどんな職業が用意されているというのか?神はその救済に政治家という職業を用意したのであった。

自由と平等...
近代のイデオロギーは、「自由」と「平等」の互いの関係をめぐっての論争の中にある。一方の派は、「平等」を「自由」と敵対する概念と考え、自由至上主義を唱える。他方の派は、「自由」を悪魔のように考え、やたらとバラマキ政策を唱える。前者は「平等」的な政策をアカと呼び、後者は「平等」的な政策にピラミッド造りを推し進める。いずれのイデオロギーも、「自由」と「平等」がいまだ共存できることに気づいていない。

アル中ハイマー病...
精神と記憶がアンダーステア状態で、自分が何を語っているかも分からない病。よって、いつも人から馬鹿にされる。ただ、それすら分からないので、人生は気楽だと信じこんで幸せである。ちなみに、アル中ハイマーの愛車のセッテイングは、軽いアンダーステアだ。ここから得られる帰結は「人間はちょっと馬鹿なぐらいがちょうどええ!」

3. 歴史学
歴史のメカニズム...
「歴史は繰り返す」と言うが、歴史を繰り返すことはない。その法則性は人間社会の複雑系の中に紛れるからである。だが、歴史を学ばなければ失敗を繰り返す。これが歴史のメカニズムである。成功例から学ぶものが少ないのは、そこに偶然性が潜むからである。しかし、失敗例から学ぶことは多い。失敗の因果関係は表面化しやすいからである。したがって、偶然性を高く評価できる人間こそ、その因果関係に精通することができる。

人類の歴史...
「人間」という身分をめぐっての抽象化の歴史。「人間」という身分をどの範囲に適応するかで、その人が人間扱いされるかが決まる。よって、古代哲学がいまだに通用するのは、倫理観が古代から進歩していない証である。

4. 経済学
経済学者...
物質的な利害関係のみで人間社会が成り立っていると思っている狂信者。経済学者と称する者で、社会学的観点のない者は単なる統計調査員である。おまけに、数学的観点のない者は単なる占い師である。ある統計情報によると、経済学を勉強すると利己的になる傾向があるらしい。アマチュアの唱える経済学は危険である。だが、プロの唱える経済学は危険の度を通り過ぎている。経済人の非合理性は、別の人間には合理性となりうる。つまり、合理性の定義は個人によって違う。人間の理念は十人十色ということだ。ところで、占い師ってどうすればなれるの?

銀行屋...
他人資本を自己資本と勝手に思いこんでいる輩。そして、他人からの資本提供によって儲けた金を自分の金だと得意げに語る。彼らは、資金難に陥ると、公的資金を注入しないと潰れるぞ!と脅す。潰れると預金が戻らないから民衆は怖気づく。これは学生時代の教訓そのものである。金を貸した時、「返さないぞ!」と脅されて反論できなかった。

景気対策...
好景気とは、金持ちだけが潤った状態。不景気とは、貧乏人が自殺を覚悟する状態。したがって、景気対策はもっぱら好景気を目指す。金持ちが貧乏人を牽引するというが、貧乏人が牽引される前に不景気局面となる。したがって、貧乏人は永久に好景気を知らない。これが経済サイクルというものだ。つまり、景気対策とは格差促進を意味する。ところで、人類最初の経済学者はコロンブスだと揶揄する話がある。インドだと思ったらアメリカ大陸だったのだ。つまり、それだけ経済政策は的を外しているということらしい。

経済分析...
市場経済の分析にはファンダメンタルズ派とテクニカル派がある。アル中ハイマーは市場経済に重力法則が成り立つと信じているので、限りなくファンダメンタルズ派に近い。だが、実際に適正な市場価値を判断できる人間はこの世にはいない。ファンダメンタルズ派であっても、株価を判断するのに過去の経験則を用いて計測する。アル中ハイマーも夜な夜な経済分析を繰り返す。したがって、今では、夜のテクニシャンと名乗っている。

消費者金融...
一昔前はサラ金と呼ばれていた。呼び名が変わっただけで上場もできる。

派遣労働者...
一昔前は日雇い労働者と呼ばれていた。派遣会社と名乗れば上場もできる。

下請けいじめ...
大企業の業績を支えている企業形態。ある日、某大手企業とその下請け企業の間でスポーツの試合が行われていた。下請け企業の凄まじい応援には、根深い恨みが現れていた。

5. 哲学
宗教家...
どんなことでも無条件に信じる特徴を有し、脳死状態に陥った幸せな連中。しかも、その幸せを他人にも強要するので、善人とも呼ばれる。

偶像崇拝...
お釈迦様が気の毒なのは仏像として拝まれることである。偉大な釈迦がそんなことを望むはずがない。そういえば、土下座してまで当選回数にこだわった政治家がいた。どうやら銅像が建つらしい。

物事の本質...
物事の本質を探求するとは、よりプリミティブへと向かうことである。科学は宇宙全体を解明するために原始粒子を探求する。芸術は精神を解明するために自然を探求する。精神の中にある「笑う」という感覚は幸せを与える。そして、その感覚もまたプリミティブへと向かう。つまり、箸が転がるだけで笑える感覚こそ、精神の本質がある。したがって、アル中ハイマーは女子高生に弟子入りしようと、逆援助交際を目論む。

知識人...
自らの知識に絶対的に自信を持ち、他人を蔑む輩。そして、どんな話題にも獰猛に喰いつき、他人の間違いばかり指摘し、自らの精神は語れない。彼らの「姑チェック」は完璧だ。したがって、知識馬鹿ほど便利な存在はない。

思考力...
外圧から解き放たれた時に働く気まぐれ。したがって、ベロンベロン状態にこそ最強の思考力が得られる。ただ、同時に記憶力が失われるという反作用を具える。つまり、思考力とは、虚しさを意味する。

時間の収支...
10年早くこの知識に出会っていたら、10年早くこの人に出会っていたら、10年早くこの勉強を始めていたら、とはよく聞く台詞である。人生は短い。人生は後悔の連続なのだ。そんなことを考えていると、すべてを忘れるために飲まずにはいられない。そして、10年後に同じ台詞を言うのであった。時間の収支は永遠に赤字なのである。

人徳...
ゲームの中に登場する人物のパラメータ。なぜか?この数値が高いと限りなくゲームを有利に展開できる。したがって、人徳とはゲームのテクニックに違いない。

道徳家...
人徳を有する人。つまり、ゲームの達人。得意なゲームは「人生ゲーム」。ちなみに、「人生ゲーム」の欠点は、必ず結婚して必ず子供ができることである。彼らは、紋切り型の人生しか想像できない。

自由意志...
コントロールできそうで、実は手に負えない自我。自由意志がコントロールできたら、人間は自らの存在そのものを罪と感じるだろう。したがって、最も人間らしい精神は、気まぐれである。ところで、精巧に造られたロボットには霊的なものを感じる。ここにも自由意志は生成されるのだろうか?一昔前、ソニーの犬型ロボットAIBOが登場した時、足を付け替えたりすると、子供は足をもいでいると勘違いして虐待だと叫ぶ。しかし、これはロボットだ。映画「ターミネーター」でシュワルツェネッガーが腕を切るシーンがある。これもロボットだ。いや!シュワちゃんの腕だから気持ち悪い。では、女性ロボットとの関係に不倫は成立するのだろうか?

幸せ...
ちょっとした不幸によって帳消しになる現象、または錯覚。幸せな生活とは束縛を意味する。愛は本来自由なものであったはずだが、結婚すると愛は義務と変貌するらしい。なるほど、義務とは息苦しいものである。一般的に人間は幸せを求める。なるほど、一般的に人間はMということか。「手のしわとしわを合わせて幸せ」って聞いたことがあるが、「指のふしとふしを合わせて不幸せ」ってのもあるらしい。どちらも誰が言ったかは知らん!

6. 科学
物体の本質...
ポーは著書「ユリイカ」で、物体は引力と斥力の二つの基本要素のみで成り立つと直観的に語った。だから、二つの原始粒子が引力によってどんなに近づいても、斥力によって一つに融合することがない。つまり、男女がどんなに愛し合って合体しようとも、決して心は一つにはなれない。これが宇宙原理というものだ。

熱力学の法則...
一瞬で燃え上がる愛情熱は一瞬に失う理性エネルギーと相殺する。これが熱力学の第一法則である。そして、愛情熱は冷める方向へと進み、愛情の縺れはますます混沌へと向かう。これが熱力学の第ニ法則である。

エントロピー増大の法則...
爆発的な人口増加によって人間社会が複雑系に向かう法則。凡庸な政治指導者がますます増えるのも、この自然法則に従ったものだ。

微分学...
永遠に到達できない概念。正弦波を微分すると余弦波になる。これは、波をいくら微分しても永遠に波でありつづけることを意味する。そして、千鳥足は永遠にゆらぎ続ける。永遠に近づこうとすることは、永遠に到達できないことを意味する。すなわち、愛は永遠に到達できない。しかも、到達したと錯覚する特異点では急激に発散する。これを愛の興ざめと言う。

電波の枯渇...
周波数帯の枯渇は電波の奪い合いを引き起こす。なるほど、「運命の赤い糸」のコードレス化が進んだわけだ。

リーマン予想...
アル中ハイマー病患者の行動パターンに関する予測。「ゼータ関数の自明でない零点の実数部はすべて1/2である。」には、実は素数定理とは違った深い解釈が内包されている。「自明でない零点」は「記憶にない例の店」を意味する。夜の社交場へまっすぐに向かう足取りこそ、クリティカル・ラインが現れる。そして、アル中ハイマー流に書き換えると、「記憶にない例の店では、実は半分しか飲んでいないのに、虚空間では無限に飲んでいるかもしれない。」となる。また、ゼータ関数は都合よく定義域によって形が変化する。たとえ、ベロンベロンに酔っ払っ(発散し)ても、別の人格(定義域)では、俺は酔ってないぜ!(収束している)と主張する。つまり、ゼータ関数はアル中ハイマーの気まぐれな行動を示している。

フーリエ解析...
飲酒状態を解析する方法。いろんな酒を飲むと、つい悪乗りして行き過ぎた行動にでる。これは、いろんなアルコール成分の係数和が急激に振動して、人格がオーバーシューティングするためである。これがギブス現象の正体だ。この現象は、どんな人格であっても、波の成分とその成分の係数が分かれば解析できることを意味する。ここで解析に使われる波は、直交特性が必然である。例えば、千鳥足のような「ゆらぎ」の中で夜の社交場へ直行する性質である。そして、ベロンベロン状態であればあるほど精度は高い。

7. 夜の社交学
夜の社交場...
ホットな女性から発生される一種の電磁場。「君に酔ってんだよ!」とドスの利いた声が自然に出る場。煙草をくわえるとお姉さんが火をつけ、「おっと俺の心に火をつけやがったな!」と条件反射で答える場。一人の女性がいるとそこには磁場が発生する。この微力な磁場を強力にするには、男性が回りを囲めばいい。これがソレノイドである。目をつけた女性の視線は直進性が高い。これは一種の電磁波である。永遠に進み続ける電磁波にアル中ハイマーはいちころである。これが「夜の社交場の法則」である。

親切...
酔いつぶれている人に、もっと酒を勧めるのが親切なのか?それとも、酒を止めてあげるのが親切なのか?いや、責任をとって「俺が飲む!」が答えである。

恋と愛...
下心があるのが「恋」。心を下に書くので下心がある。見返りを求めないのが真の「愛」。心を真中に書くから。...とバーでgさんがほざいていた。

女に優しい男の美学...
麻雀をやっていると、「俺は女からは当たらない主義だ!」と主張する奴がいる。彼はその美学に酔って生きる。つまり、女に優しい主義とは、その美学に酔って淋しく生きることである。

酔っ払い達のテロ行為...
気分悪そうにしゃがんでいる人に大丈夫か?と尋ねると、決まって大丈夫という返事が返ってくる。そこで、安心して背負うと、なんとなく首筋が生暖かくなる。これを「延髄ゲロ」という。ベッドの中で仰向けでやっているのを「自爆ゲロ」という。その横で一緒に寝ると「ゲロ心中」となる。他人の顔の上でやると死刑は免れない。電車の中で、綺麗な女性がこちらを真剣に見つめている。駅に着くと突然、女性はゴミ箱に向かって突進した。その瞬間、ゴミ箱に顔を突っ込んで...しばらくすると、そのままゴミ箱と一緒にお寝んねしてしまった。これを「特攻ゲロ」という。

2008-12-20

"不完全性定理" クルト・ゲーデル 著

おそらく、数学の本を岩波文庫で読むのは初めてだろう。こうした気まぐれも悪くない。本書は、冒頭から「不完全性定理」の翻訳から始まる。立ち読みしている時は、どう処理したものかと悩んだが、その後に続く解説はおもしろいので買うことにした。この翻訳文と解説がセットであることが、価値を高めていると言ってもいい。ちなみに、翻訳と解説は、林晋氏と八杉満利子氏。

不完全性定理といえば、数学というよりも哲学の香りがする。そうした感覚が、チューリング・モデルを推奨する純粋数学者たちにとっては気持ち悪いものに映るのだろう。アリストテレス以来、論理学は真か偽のどちらかを追求してきた。昔から数学は完全なのか?数学は絶対的真理でありうるのか?という哲学的論争がある。一つの問題を解決すれば、新たな問題が生じる。つまり、数学は常に不完全な状態にある。これは悲観論というより積極的に捉えるべきであろう。数学や論理学には、直観と形式の対立が常に見られる。いわば、主観と客観の対立である。両者は対立するほどのことではないのだが、しばしば研究者は些細な論理の違いを強調していがみ合う。これは、厳密性を追求するからこそ現れる態度であろう。方法論においても哲学的な相違が見られる。大別すると直観的なアプローチと形式的なアプローチである。人間味と無味乾燥の対立とでも言おうか。今日でも、科学者たちの中にプラトン哲学が継承されているところがある。それは、どんな複雑な宇宙現象も、その背後には単純な自然法則が潜んでいるに違いないと信じてきた執念である。直観と形式の融合あるいは合理化は、数学に留まらず、人間の永遠のテーマなのかもしれない。

ゲーデルは、なぜ不完全性定理のようなものの考え方をしたのだろうか?本書は、ヒルベルトの提唱したヒルベルト・プログラム、つまり、公理論と無矛盾性の証明に関する計画を振り返り、その考えに至った歴史背景を物語る。19世紀から20世紀初頭にかけて世界の数学界を牽引し、数学の方法論に方向付けをしたのが、ヒルベルト・プログラムである。国際数学者会議で発表された「ヒルベルトの23の問題」の中に、連続体仮説やリーマン予想などがある。このプログラムは、数学の絶対的な安定性と完全性を保証し、ヒルベルトのテーゼとして定着させようとした。ヒルベルトは、永遠に枯渇することのない数学を夢見ていたのだろうか?この時代の数学的論争は、ヒルベルトの形式主義、ラッセルの論理主義、ブラウワーの直観主義の三派の争いに単純化してしまいがちだが、実は複雑な様相を見せる。本書は、多くの論争の勝者であるヒルベルトの立場から描かれる。ヒルベルトは、非計算的数学という革命を起こし、集合論のパラドックスという危機と、それに伴う反革命を、数学的かつ政治的に捻じ伏せた。この論争のどの立場にも属さなかったゲーデルは、その勝者をも打ち破り、論争自体に終止符を打った。この論争には勝者も敗者もいない。どの論派も間違ってはおらず、数学は総合的視野が必要な段階まで到達したということであろう。ゲーデルの超数学的推論は、通常の数学とは異なる。ヒルベルト・プログラムの終焉が、ゲーデルの不完全性定理の幕開けとなった。だからと言って、ヒルベルトの功績を蔑むことにはならない。ヒルベルトこそが、数学論に論争を与え、不完全性定理を呼び込んだと言ってもいい。多くの数学者は集合論に安定性を求めていない。ましてや集合論が数学の本質とも考えていない。集合論は一つの便利な数学の道具である。
ところで、科学の進歩には、誰かが失敗するように運命付けられる。数学の進歩は多くの部分を形式化するかと思えば、また新たな問題を発見し、そこに哲学的論争が生まれる。数学と哲学の距離は離れては近づき、これを繰り返すかのように見える。不完全性定理は、人間が不完全であることを証明しているのかもしれない。

1. ヒルベルトの公理論
ヒルベルトの方法論は、有限算術化に無限算術化を融合した。つまり、算術に頼る数学から、計算しない数学へと世界観を変えたのである。例えば、ゴルダンの問題のように、アルゴリズムが複雑過ぎるものは当時は現実的に計算できない。ヒルベルトは、こうした複雑なアルゴリズム自体の存在意義を疑っていた節がある。複雑過ぎるアルゴリズムによる証明は、数学の本質を隠す可能性があることも事実だ。そこで、無限的方法や集合論といった、大胆で新しい概念と推論による方法を支持する。そして、カントールの集合論やリーマン面のように、哲学的恣意性に訴える。数学における存在の証明は三段階ある。第一にその存在だけを証明する。第二にどこに存在するかを証明する。第三に実際に計算する。ヒルベルトは、第二、第三の方法しかなかった代数学に、第一の段階を取り入れ、不変式論や整数論に革命を起こした。その世界観を、伝記作家コンスタンス・リードは、「ゴルディオスの結び目」の逸話に喩えたという。ちなみに、この逸話は、それを解く者がアジアの王になるという伝説があって、アレキサンダー大王はこれを剣で切断して解いたという話で、おいらの好きな逸話の一つである。数学を公理からの演繹で構築する方法は、ユークリッド時代からの古い手法である。かつて数学は、公理から論理推論だけで理論を積み重ねることで発展してきた。これに対してヒルベルトは、定理の論理的依存関係に目をつけ、概念の総合的視野として数学を眺める。注目点が、一つ一つの真理から、その相互依存関係に変わる。また、公理が無矛盾であるだけでなく、互いに独立であることを求める。この新公理論は、数学をシステムとして捉えている。ヒルベルトは超限数の公理系を定義する。これは、実数論の公理系が示す結合の公理、計算の公理、順序の公理、連続性の公理に類似している。この公理系で示される式と推論法則を、機械的に定義できれば形式化できると考える。現在では、チューリングの機械的定義を当り前のように使うが、当時は形式化するだけでも容易なことではない。ヒルベルトの定義には曖昧さも現れている。

2. コーシーの解析学
当時、解析学は、ニュートンやライプニッツなどによる無限級数を代数的に扱う手法を用いていた。そこに、コーシーは無限小の変量を与える。
「ある変量xが特定の定数aに限りなく近づく時、関数値f(x)とその定数bとの差はいくらでも小さくできる」
この定義が、真の意味で解析学に厳密性を与えるきっかけとなったという。コーシーは、連続関数は微分可能であるという事実を前提に証明しているが、実は、その事実は成立しない。極限への定義には曖昧さが残っていたのである。この極限の定義が厳密化され、解析学の証明を本当の意味で自律させたのは、カール・ワイエルシュトラスのε-δ論法である。この論法で示される極限の定義は、分かり難いので有名だ。おいらは、これのおかげで大学時代に数学とおさらばした。ただ、分かり難いから直観の入る余地が少ないとも言える。その検証も機械的となり、誤りを自律的に排除できる。この解析学の厳密性は、ヒルベルトのテーゼとなる。

3. カントールの集合論
カントールは、集合の要素の数を無限集合へと拡張した。その定理に、実数は自然数の数よりも大きいというのがある。彼は、数えるという動的行為を、1対1で対応付けるという静的条件に置き換えた。無限集合を数えることは無理でも、1対1の対応付けは可能である。彼は、実数と自然数の対応付けから背理法によって証明した。そして、集合の要素の個数を「濃度」と呼び、実数の濃度は自然数の濃度よりも大きいとした。カントールの発見で印象深いのは、平面上の点と直線上の点が同じ濃度であるという定理である。
ところで、無限に濃度が存在するならば、濃度の分割ってできるのだろうか?
「任意の無限集合は、それを元の全体と同じ個数を持つ二つの部分集合に分割できる」
無限を分割しても無限ではないのか?無限には宗教的意味合いを感じる。伝統的にヨーロッパの数学界から、無限を排除する動きがあったのもうなずける。カントールはこのタブーを打ち破った。カントールの無限集合の本質は超限数論にある。そこに無限への批判も起こる。クロネカーによる批判である。カントールの論文は、クロネカーの雑誌をはじめ、多くの雑誌から掲載を拒否されたという。これはクロネカーによる出版妨害であるという説もあるが、単に時代精神が受け入れなかったという説もある。無限集合を扱う数学では、「答えが存在する」という証明ができても、実際には計算できないことが多い。カントールは、数学界に哲学や神学は排除されるべきかといった問題を提起したようにも映る。

4. ラッセルのパラドックス
集合論と不完全性定理は密接な関係にある。その最大の関係は対角線論法であるという。
「任意の集合Xについて、Xの濃度よりも大きな濃度をもつ集合Yは必ず存在するか?」
これが成り立てば、集合の世界は無限に膨張を続ける。Xのべき集合、つまり、集合Xの部分集合をすべて集めた集合を考えると、そのべき集合の濃度は、集合Xの濃度よりも大きいことになる。ここで、自らを要素として含まない集合を考えるとパラドックスが現れる。そもそも集合とはそういうもので、全ての数の集合は数ではない。全ての犬の集合は犬ではない。しかし、通常ではありえない、それ自体を集合として含む集合がある。集合の集合はどうか?複数の集合を、集めて一つの集合とした場合、要素に集合が含まれる。この問題は自己言及に基づいている。ここで、集合Xについての条件Aは、「Xは、X自身の要素とならない集合である」とする。そして、「集合Xは要素ではない」と仮定すると、条件Aを満たすので、集合XはXの要素となり、仮定が崩れる。「集合Xは要素である」と仮定しても、条件Aを満たさず、集合XはXの要素とならないので、仮定が崩れる。この議論は、「この文章は偽である」という文章が正しいのかどうか?という問いに似ている。論理学のあらゆる矛盾は、こうした自己言及の罠に嵌る。自己言及は自己陶酔を招き自らをアル中にしてしまう。そして、アル中ハイマーが「俺は酔ってないぜ!」と主張するのも、あながち間違いとは言えないのだ。

5. 批判者ポアンカレ
ポアンカレは、数学は常に人間が介在するものであり、ヒルベルトのような意味では形式的には扱えないと考えた。彼のヒルベルト批判は、数学的帰納法が最大のポイントであるという。自然数の公理系には数学的帰納法が必要である。これがないと理論展開ができない。したがって、数学的帰納法を公理として追加する必要がある。ヒルベルトは、数学的帰納法を追加しても、無矛盾性の証明が可能であると主張する。しかし、ポアンカレは証明できるはずがないと主張する。帰納法は、出発点で検証し追加点でも検証できれば、全てが証明されたことになるという考え方である。よって、ヒルベルトが提唱した方法で説明するならば、帰納法で帰納法の無矛盾性を示すという循環論法に陥る。パラドックスを引き起こした集合論では、循環論法によって容易に矛盾が生じる。ポアンカレは、その解決策として、一般の無限概念は認めず、自然数の無限個までは認めたという。そして、カントールが考えた無限集合は数学では考えられないとした。つまり、数学的帰納法は、人類がぎりぎり使える無限の道具であり、これを数学的方法で正当化することは無意味であると主張したのである。

6. 不完全性定理
不完全性定理は難しい文章で表されるため、これをアル中ハイマーの理解力で記すことはできない。ただ、本書は、その意味を分かりやすく説明してくれる。
第一不完全性定理
「数学は、矛盾しているか不完全であるか、そのどちらかである。」
第ニ不完全性定理
「数学の正しさを確実な方法で保証することは不可能であり、それが正しいと信じるしかない。」

ゲーデルの定理の本質は、ラッセル・パラドックスの変装した姿であるという。なるほど、第一不完全性定理の基本的な仕組みは、このパラドックスの表現に似ている。不完全性定理は、もはや数学には解の得られない問題があると述べている。人文科学や社会科学の理論は、個人によって解釈が違い、その真偽を決める絶対的な方法は存在しないだろう。その一方で、数学の解釈が、他のいかなる分野よりも、安定しているのは事実である。その中で、この定理は数学でありながら人文学的な解釈があるところに難しさがある。一般的に不完全性定理は、人類の知の限界を示すものであるという見解がある。しかし、ゲーデルはそれを否定しているという。本書は、数学が完全であるかを問う前に、数学自体が何か?を議論する必要があると語る。数学論と、数学の形式系とは同一視してはならないということらしい。論理数学から見た数学観には、哲学の見地から見た数学を顕にする。物事が全て機械的に定義できるならば、コンピュータがすべて計算して判断できることになる。ヒルベルトのテーゼは、機械仕掛けの数学を数学論と同一視している点が問題であるという。ゲーデルは、数学論そのものに不完全性の存在を認め、ヒルベルトのテーゼを否定した。

2008-12-14

"はじめての「超ひも理論」" 川合光 著

量子論というのは、なんでもありなのか?真空には突然仮想粒子を登場させ、物質の誕生には反物質を登場させる。また、何もないところに負のエネルギーを登場させ、都合よく宇宙を膨張させてしまう。プラスの現象には、マイナスの現象を登場させて相殺してしまえば、エネルギー保存則になんら矛盾することなく、何事もなかったかのように説明できるというわけだ。このようなウルトラCの技が続々と登場する様は、高度な科学のようで巧みな詐欺のようでもある。量子論の本筋は極微な世界を覗くことである。ところが、物質を細かく見れば見るほど巨大宇宙の解明につながるから摩訶不思議である。本書は、こうした酔っ払った感覚しか持ち合わせないアル中ハイマーにも分かりやすく解説してくれる。何よりも分かった気分になれるのが幸せである。

物質を細かく見ていくと、そこには原子があり、原子核の中に陽子と中性子があり、その核子を構成するクォークがある。そして、全ての素粒子の根源に「超ひも」が登場する。超ひもの形状には、両端が開いたものや輪ゴムのように閉じたものが考えられている。これらが絶えず運動し静止することはない。回転したり、振動したり、伸び縮みしたり、変形したりと。これは想像の世界ではなく、厳密な理論上の計算から導き出されるらしい。超ひもが様々なエネルギー状態によって異なる振動をすることによって、いろんな粒子に見える。現在の素粒子は、クォークと、電子やニュートリノなどのレプトンであるとされているが、その素粒子の正体は、一個のひもであるという。これは、熟成させたスコッチが琥珀色に見えるのも、ピート香やスモーキーさも、単に生命の水が振動しているだけだということを暗示しているのかもしれない。超ひもは、原理的には、引き伸ばして人間の目の見える大きさにすることも可能なのだそうだ。ただ、それに必要なエネルギーはというと...ミニブラックホールができてしまう。超ひも理論のおもしろいところは、ひもの長さの半分を考えた場合、それがニ倍に等しくなるという。はあ?時間も半分がニ倍に等しくなる。はあ?量子論の世界では、コップの半分しか飲んでいないのに、二杯分請求されるということか?これは詐欺ではないか。いや!二杯飲んでも一杯も飲んでいないと言い張ることもできるわけだ。つまり、飲んでも飲んでも酔えない世界のようだ。

極微の世界では、もはやニュートンやアインシュタインの力学は通用しない。しかし本書によると、超ひも理論によって、全ての物理現象を統一して記述できる可能性があるという。物理学には、重力、電磁力、弱い力の相互作用、強い力の相互作用の四つの力がある。重力はエネルギーを持つものの間で働く力、電磁力は電荷のあるものの間で働く力、弱い力は中性子のベータ崩壊などを起こす力、強い力はクォーク間で働く力。この四つのうち重力を除く三つまでは、ゲージ理論によって統一される。ゲージ理論は、ローレンツ変換で見られるように、どのような慣性系に変換しても理論は不変であるというところから発展した理論である。それは、座標そのものの変換ではなく、時空の各点毎に変換しても不変性が保てるということである。歴史的には、一般相対性理論はゲージ不変をもった最初の理論ということらしい。ここで、人間が親しみやすい重力が力学の統一で最も遅れをとっているとは、なんとも皮肉である。人間が直観できる世界とは、宇宙では超常現象なのか?人間は自然法則を無視した悪魔か?量子力学といえば、波動関数によって完成させたシュレディンガーと、行列力学を確立したハイゼンベルグが思いつく。これらは等価であり、そのアプローチが微分か行列かの違いである。超ひも理論では行列模型を用いる。この行列模型は、非可換幾何学という数学の道具にも関係し、超ひもの挙動を明らかにするという。

1. 宇宙の起源への挑戦
宇宙の起源の謎を解くには、アインシュタインの方程式では扱えない領域を覗くことになる。それは、これ以上小さくできないプランクの長さ、これ以上過去へさかのぼれないプランク時間、エネルギーの限界値プランクエネルギーであり、いわゆるプランクスケールへの挑戦である。プランクの長さは、超ひもの大きさに相当し、プランクエネルギーは超ひものもつエネルギーとも言える。アインシュタインは、時間と空間を混在させて時空という概念を持ち出した。極小空間へ迫るということは、極小時間へ迫るということである。そしてビッグバンへと迫る。結合エネルギーは、素粒子間の振る舞いを力学的に説明できる。それを細かく観察するには、高エネルギー状態が好都合である。そこで、エネルギーを拡大する実験装置に加速器が使われる。粒子と粒子を高エネルギーで加速して衝突させることによって、量子の世界を覗く。宇宙の成長過程をさかのぼればのぼるほど、高エネルギーであると考えられる。原子核に電子が回っているのは、太陽系のように地球が回っているようなイメージはできない。素粒子の運動には、位置と運動量を同時に決められないという不確定性原理がつきまとうからである。位置と運動量が同時に決まらなければ、電子の軌道は特定できない。ものを細かくみるための指標として温度も重要ある。温度とエネルギーは比例関係にあるからである。素粒子のエネルギーは、プランクエネルギーが上限であるのに対して、超ひもではそれ以上のエネルギーを持ちうる。エネルギーが増えた分、超ひもの形状はいくらでも伸びることができる。エネルギーがどんどん増えると、温度の上昇はしだいに小さくなり、やがて上限値に達するであろう。この温度の上限が「ハゲドン温度」である。実際には、プランクエネルギーよりも高エネルギーになったとしても、ハゲドン温度のままという事態が起こるという。ところで、超ひもには密度という概念はないのかな?密度が低くなる分エネルギーに転換されるってことか?ますます謎は深まる。

2. クォークの誕生
クォークが誕生するまでに四つのステップがあるという。それを逆にさかのぼると。四つ目のステップは、安定段階で三個一組のクォークがくっつきあって核子を構成している。三つ目のステップは、この安定段階よりもエネルギーを上げていくとクォークが不安定に動く状態になる。クォークどうしがねばねばとした力線を伸ばし、無秩序にくっつきあってどろどろのスープのようになる。二つ目のステップは、更にエネルギーを上げると、単独で動くクォークが質量を獲得する。そして一つ目のステップが、真空から励起される段階である。どんな構成要素でも、結合エネルギーよりも高いエネルギーを与えれば分離することができる。しかし、クォークは、加速器でいくら高エネルギーを与えても、引き離してクォークを取り出すことはできない。これが「クォークの閉じ込め」である。クォークの閉じ込め以前、宇宙には陽子と反物質である反陽子があったと考えられている。反物質とは、物質と電荷などが反対で、性質は同じもののことを言う。現在、反物質は存在しない。物質と反物質が対消滅し、なぜか反物質よりも物質が多かったため、物質だけが残ったということのようだ。この対消滅を経て、個性をもった核子として陽子が生まれた。陽子と反陽子には、それぞれクォークが三つ入っていて、クォークと反クォークが混じりあった状態を「クォーク・グルオン・プラズマ状態」という。グルオンは、クォーク間に働く強い力の相互作用を媒介するゲージ粒子のことである。ゲージ粒子とは、四つの力の相互作用(ゲージ相互作用)を引き起こすボース粒子のことで、電磁気力を伝える光子、重力を伝える重力子、弱い力を伝えるWボソン、強い力を伝えるグルオンがある。

3. ヒグスメカニズム
クォーク間の強い力の相互作用を生んでいるのが「グルオン場」であり、四つの力を作り出している場を総称して「ゲージ場」という。重力場や電磁場もあるのだが、ここでは重力場が統一見解から外れる。クォークが質量を獲得する場が「ヒグス場」である。いわば質量の起源である。ヒグス場は対称性を破りやすい性質を持っているという。この対象性を破る現象でクォークが質量を獲得するのが「ヒグスメカニズム」である。ひもの挙動を調べていくうちに謎のグラビトン(重力子)が発見される。素粒子はスピン(自転)している。エネルギーを与えれば、その回転は大きくなり質量が増える。しかし、グラビトンはスピンがあるにも関わらず質量がゼロである。この重力子の発見によって、超ひも理論が、重力場をも含む統一見解を示唆することになる。

4. インフレーション理論
ビッグバン宇宙論は、主に二つの観測で裏付けられる。一つは、様々な銀河の光が赤方偏移していることから、多くの銀河が遠ざかっていることがわかる。ハッブルは、銀河の後退速度とその銀河までの距離が比例していることを見出し、遠くにある銀河ほど速く遠ざかっていることを発見した。ハッブル定数は宇宙の年齢や大きさに目安を与える。二つは、3K宇宙背景放射で、温度3Kの電磁波が宇宙のあらゆるところから地球へやってくる。人工衛星WMAPは、3K宇宙背景放射のゆらぎまで観測できるという。インフレーション理論は、水素原子の原子核が一気に地球の公転軌道ほどの大きさに広がったとするもので、ビッグバン宇宙論を補完したものである。実際に宇宙をプランク温度になるまでさかのぼると、その時の宇宙の大きさがとてつもなく大きく、平坦に近い状態になってしまう。よって、宇宙の創世をプランクの長さとするならば、どこかで爆発的に大きくなる瞬間が必要である。この平坦問題を巧みにというか、無理やりこじつけたのがインフレーション理論である。インフレーションの間、絶対温度はほぼゼロと考えられている。あまりにも急激な膨張によって密度が薄められるからである。プランクの長さの宇宙は冷たく高エネルギーをもった真空である。そこから、急激な膨張によって、エネルギーは温度に化け、冷たい宇宙は再加熱され、場が振動し粒子が励起され物質が誕生する。この高エネルギーはどこから得られるのか?そもそも、真空にエネルギーがあるのか?アインシュタインの方程式は、この真空のエネルギーを導き出せるという。真空のポテンシャルエネルギーが正の値で、しかもあまり運動をしない状態では、アインシュタインの方程式で圧力が負になるという。この負の圧力が膨張エネルギーを自己調達させて勝手に膨らむといった現象が起こるというのである。本書では、風船を膨らますのに、空気を入れなくても勝手に膨らむという説明がなされる。確かに、内圧がゼロで外圧が負ならば、相対的に風船は膨らみそうだ。では、その負の圧力はどこからくるのか?エネルギーのタダ食いか?それがアインシュタインの方程式だという。この負の圧力を生み出す真空のエネルギーはアインシュタインの宇宙項で表される。この宇宙項は、インフレーションの時期に使い果たしたと思われがちだが、実は今も少し残っているとされる。だから、宇宙は今もエネルギーのタダ喰いで膨張をするということになる。

5. Dブレーン
アメリカの物理学者ポリチンスキーが発見したDブレーンは、超ひもからなるエネルギーの塊である。超ひも理論の古典解としてDブレーンという安定したエネルギーが見つかった。この安定したエネルギーの塊が「ソリトン」である。例えば、波が押し寄せる様子で、波が形を変えずに安定した形状を保ちつつ押し寄せる姿がソリトンである。今までの摂動論では、いろいろな真空の間を偏移することを表すことができなかった。つまり、エネルギーがゼロの基底状態、すなわち真空から少しだけ励起された状態で、多くのひもが同時に関係する現象は扱えなかった。これに対して、Dブレーンは多くのひもがいっぱい詰まっている状態と見なして摂動論の限界を超える。ちなみに、Dは、微分方程式のディリクレ条件の頭文字に由来するらしい。Dブレーンは、超ひもが密集するいろいろな次元の面と考えることができる。Dブレーンの功績は、様々な真空の重ね合わせができたことである。トンネル効果もDブレーンによって引き起こされたと考えれる。例えば、アルファ線が原子核を抜け出すような現象を説明する時、ある確率で真空を超えられる。ここで、オリエンティフィールドというマイナスのエネルギーをもった変わったDブレーンが登場する。プラスとマイナスでエネルギーを相殺する現象は、真空を重ね合わせる上で好都合である。安定した空間を説明するためには、このエネルギーの相殺が必要である。超ひも理論は、10次元の理論とも言われるらしい。無数のタイプの真空があるからであろう。物事を一般化するというのは視点を増やすことにもなろうが、時空の次元を増やしてやれば、矛盾の生じない統一理論ができるということなのか?ところで、人類の住む宇宙は、その真空のどれにあたるのか?人類は10次元宇宙に浮かぶ4次元空間に住んでいるのか?人類へ影響を及ぼす相互作用は重力である。逆に言うと重力を感じない陰の空間が目の前に存在しても感じることすらできない。これが霊感なのか?なんとなくパラレルワールドへと導かれる。普段、均衡しておとなしくしている異空間から、突然表れる重力波を感じても不思議ではないのかもしれない。天体規模ではニュートンの重力法則は成り立つが、超接近するとその関係が崩れるのではなく、別のDブレーンの存在が影響しているだけなのかもしれない。気持ち良くゆらぐ千鳥足に向かって、突然重力点(店)からの影響によって軌道がずれるのも、そこにDブレーンが潜んでいるからに違いない。

6. サイクリック宇宙論
超ひも理論を支持する素粒子物理学者たちは、多くの宇宙研究者に支持されるインフレーション理論とは違った見解を持っている。それがサイクリック宇宙論である。人類は、ビッグバンとビッグクランチのサイクルを30回から50回繰り返した途上の宇宙に住んでいるという見解である。宇宙は膨張しているのか?縮小しているのか?それとも定常宇宙か?宇宙の膨張のしかたは、宇宙項と、宇宙に存在する物質の密度との関係によって論じられる。宇宙項は、真空がどの程度のエネルギーを持つかを表す定数である。宇宙項が大きいほど、エネルギーのタダ食い効果が大きく、宇宙は速く膨張する。物質の密度は、銀河と銀河がどの程度離れて存在するかを意味する。つまり、万有引力の関係で、密度が高ければ、それだけ収縮する力が強いことになる。現在の宇宙は膨張し続けているので、密度は下がり膨張速度も減速する方向であるが、宇宙項の加速方向との競合によって、宇宙の運命も決まる。インフレーション理論では、宇宙のエントロピーは、ただの一回の指数膨張と、それに次いで起こる再加熱によって作り出されると主張する。一方、サイクリック宇宙論では、ビッグバンとビッグクランチを繰り返しながら、徐々にエントロピーを蓄えてきたと考える。そこから計算されたのが30回から50回で、インフレーションという特異点を考慮する必要がないわけだ。宇宙は、ビッグバンとビッグクランチを繰り返していくうちに、だんだん巨大化しているのか?ちなみに、ビッグバンとビッグクランチの境界は、実時間で受け継がれるという。ただ、アル中ハイマーには、一晩に同じ店へ何度も繰り返して立ち寄る現象は、虚時間を持ち出さないと説明がつかない。サイクリック宇宙論には精神の輪廻を思わせるものがある。人間の肉体が成長して亡びていく様は、遺伝子で継承される。サイクリック宇宙論はなんとなくDNAを暗示しているように感じる。自然法則は、宇宙にも生物にも成り立つ可能性があるだろう。そして、人間の精神は、だんだん巨大化していくのだろうか?

2008-12-07

"ガリア戦記" ユリウス・カエサル 著

岩波文庫の歴史叙述はなるべく読みたいと思っている。それも時代によって廃れることがないからである。ただ、手を出すのに気が向かない大作も多い。例えば、昔からトゥキュディデスを読みたいと思っているが、いまだに果たせないでいる。本書で登場するゲルマーニアの考察には、タキトゥスに受け継がれるものを感じる。タキトゥスといえば、その代表作に「年代記」があるが、これも昔から目をつけている。いずれも、その大作を目の前にすれば尻込みしようというものだ。

ところで、歴史学の考察には、主観をいかに排除するかを問題にすることが多い。人間の思考は、主観に傾く傾向にあるので、客観に固執するぐらいでちょうど均衡がとれるのかもしれない。ただ、この考えに少々疑問を持つことがある。完全に主観を排除すれば、歴史学者の思考を放棄したことにならないだろうか?単なる現象の羅列からは、せいぜい最寄の事象の関連付けぐらいしかできない。歴史事象の原因は、深い思考の試みがなければ解明できないことも多い。一方、客観性に支配されると言われる科学の分野では、科学者が完全に主観を排除して思考しているわけではない。科学の進歩は天才たちの直観に頼ってきた面も多い。直観は極めて主観に近い領域にある。主観と客観の境界線も個人差があって微妙である。したがって、主観と客観の按配こそ、歴史学者の腕の見せ所であると考えている。主観も客観も人間の持つ本質であって、どちらからも逃れることはできないだろう。主観には精神の高まりを呼び起こし思考の深さを牽引する役割があり、客観には理性を研ぎ澄まし精神と知性の均衡を保つ役割があると考えている。アル中ハイマーは、主観と客観の両面を凌駕してこそ、人間の持つ合理性に近づくことができると信じている。
歴史学の考察では、別の角度の論説を唱える歴史家もいる。クラウゼヴィッツはその著書「戦争論」の中で、批判的考察の有効性を説いている。単なる事象の指摘よりは、批判的な立場をとることで、もう一歩踏み込んだ思考に達するということだろうか。このあたりの詳細は、いずれこの大作を読み返してブログ記事にしたいと考えている。だが、その分厚さを目の前にすれば、またもや尻込みするのであった。

「ガリア戦記」は、紀元前58年から51年にかけて行われたローマ軍のガリア遠征を記したものである。8年に及ぶ征服の記録は一年毎に巻を改めて全8巻あるようだ。ただ、カエサルが記したとされるのは、第7巻までで第8巻はカエサルの死後ヒルティウスが書き加えたものとされている。歴史家によってはカエサルの自筆という説に異論を唱える人もいるようだが、傑作であることは間違いない。ガリアの遠征は、紀元前52年のアレシアの決戦でその目的を達成し、51年は匪賊討伐でおまけのような印象を与える。本書も多くの訳書の慣例にならって第7巻までが記される。そこには、戦記はもちろん、部族統治や、種族の風習といった文化的考察にも長けている様がうかがえる。それもカエサルの政治家としての手腕を示していると言えるだろう。また、歴史の回想録として感嘆させられるところも、モンテーニュから優れた歴史家と評される所以であろう。
カエサルは、ローマ軍の指揮官として、毎年元老院に詳細な報告書を送った。そして、元老院を熱狂させ、敵からも味方からも賞賛と尊敬を得たという。従う部族には、その忠実性を評価して、功績に対しての免税や、部族の掟と法を復活させたりする。その一方で、抵抗する部族には容赦しない。相手を野蛮人と呼びローマ軍の正義を強調する。部下たちもカエサルからの親愛を得たいと願って奮起する。そして、ガリア平定とゲルマーニア人との戦争へと向かっていく。本書は、カエサルが惨めな者や嘆願する者に慈悲深い人物であった事を描いている。これが自筆かどうかは別にしてもローマ側からの視点なので、ある程度差し引いて受け止めなければなるまい。

1. ローマとガリア
ローマとガリアの関係はカエサルよりも300年も前にさかのぼる。ガリー人の将ブレンヌスがローマを攻略したのは紀元前390年、その後もガリア人はたびたびローマを脅かした。紀元前3世紀になるとガリー人は、エトルスキー人やサムニテース人と結んで反ローマ同盟を結成する。これを最後にして、その後ガリー人が北伊を下ることはなかった。ハンニバルのローマ遠征を通じて北伊のガリー人は勢力回復を試みるが、紀元前2世紀には内部分裂を重ね、もはやローマに対抗する力がなかった。ローマは盟邦マシリア(マルセイユ)を援助して南ガリアへ侵入する。紀元前121年にはガリー人の連合軍を撃破して周辺を属国とした。こうして、カエサル以前からガリア遠征の下準備は整っていたのである。
ちょうどその頃、ガリアでは、レーヌス河(ライン河)を越えてゲルマーニア人の進出が度々見られるようになった。ガリアは東からのゲルマーニアと南からのローマの危機に直面していた。ガリー人の中で、その危機の打開運動が起こり、これがローマのガリア遠征への直接のきっかけとなる。カエサルにとって、ガリア遠征の勝利は英雄伝となり、ローマのすべてを支配することになる。

2. ガリア平定
ガリー人の中には、ゲルマーニア人の進出を恐れてローマに肩入れした部族もあれば、ゲルマーニア人に肩入れした部族もある。カエサルはどんな部族にも二つの党派が存在するのは必然であると語る。勝者が敗者に思いのまま命令するのは、当時の戦争の掟である。ローマも敗者に命令する。カエサルは、人質を差し出し年貢を納めれば、どんな種族にも不当な戦争をしかけず友邦と見なす。しかし、怠れば残虐行為が待っている。ゲルマーニア人は、法外な体格を持ち、信じられないほど勇気があり、戦争に鍛えていると、ガリー人や商人が伝える。しかし、カエサルはそんなものを恐れない。もともと、大柄なガリー人は小柄なローマ人を軽視する風潮があるという。ローマ軍が移動小屋を建て、牆壁を築き、遠くに塔が組み立てられるのを見ると、なんのためにそんな遠くで造るのかと、そんなに重い塔をこちらの防壁まで運べるわけがないと嘲笑したという。ところが、本当に動かし城壁に向かって近づくのを見ると、おじけづいて講和の使節を送る。カエサルは、破城槌が防壁に触れる前に降伏すれば、部族を存続させるが、武器を渡さなければ降伏を認められない。そして、圧倒的な近代武力の前に次々と武装解除させる。ガリー人は、地形と人工で固められた町が、ローマ軍の到着後わずか数日で落とされるのを見ておじけづく。ローマ軍の圧倒的勝利の評判は部族間に伝わる。そして、各地の部族から人質を差し出す使節がカエサルの下へ送られてくる。

3. ガリー人の分析
カリー人のほとんどが奴隷と見なされ、多くの人が借金と重税で有力者の乱暴に屈して隷属しているという。その中で尊敬される人間は二種類で、僧侶と騎士である。これは、カエサルにしてみれば服従させるのに問題があった人種でもある。僧侶は神聖で公私の犠牲を行い宗教を説く。公私のあらゆる論争や、犯罪や殺人、相続や国境をめぐる闘争が起こると、裁決して賠償や罰金を決める。個人でも部族でもその裁決に従わないと、最も重い罪となり社会的制裁を受ける。僧侶の中でも最も勢力を持つ一人がすべてを支配する。それは投票で選ばれ、時には武力で争う。僧侶は戦闘に加わらないのが普通で、税金も支払わない。その大きな特典に多くの人が憧れる。僧侶は、霊魂が不滅であることを説き、死後霊魂があちこちに現れることを教える。ガリアの部族は宗教に深く打ち込んでいて、重病人や戦争などで危険に身をさらすものには生贄を差し出す風習がある。人の生命を捧げなければ、不滅の神々はなだめられないと信じている。盗みや強奪などの罪で捕まった者の刑罰は、不滅の神々に喜ばれると思っている。しかし、そんな人間がいない時は、罪のないものまでも犠牲にする。夫は子供にも妻にも生死の権利を持つ。葬儀はガリー人の文化に比して仰々しい。生前に愛した動物を火にかける。そして、愛されていた奴隷や被護民も葬儀が済むと一緒に焼かれる。

4. ゲルマーニア人の分析
好戦的なゲルマーニア人との衝突は、レーヌス河の近辺で度々繰り返されカエサルを悩ませる。ゲルマーニア人の文化は、ローマやガリアとまったく風習が異なるという。神聖な仕事をする僧侶もなく犠牲にも関心がない。はっきりした形に見える太陽や火や月だけを神々とする。生活は狩猟と武事に励み、幼い頃から労働と困苦を求める。最も長く童貞を守ったものが絶賛され、童貞を守ることが身長も伸び、体力や神経が強くなると信じている。河で混浴し、獣皮や馴鹿の短衣を着ているので、身体の大部分は裸である。農耕にも関心がない。自分の土地や領地を持たない。首領や有力者は部族や血族に土地を割り当てるが、翌年には移動させる。その理由は、戦争する熱意を農耕にとって代わらないため、広い領地を得た有力者が下賤から財産を奪うといった心を抱かせないため、寒さ熱さをしのぐのに気を使って建築させないため、争いの元である金銭の欲望を起こさせないため、民衆が有力者と平等に扱われていることで満足させるため、という具合に分析している。自分の周囲を荒廃させて、国境を無人にして置くことは最大の名誉だという。これが、不意の侵入を防ぎ安全だと考えている。平和時には、首領はおらず、地方の有力者が裁判をし論争を静める。部族の領地外では強奪は不名誉にならない。むしろ青年を訓練し怠惰を抑えるために良いとしている。かつては、ガリー人がゲルマーニア人より武勇で優り、レーヌス河の向こうに植民した時もあったという。ゲルマーニア人は、不足と貧乏と忍耐の生活を続け、食料も衣服も変わらない。一方で、ガリー人は舶来品をおぼえ贅沢や便宜も多く与えられる。そして、幾度かの戦争に敗れ、次第に敗北に慣れ、武勇でゲルマーニア人と争おうともしなくなったと語る。

5. ゲルマーニア人との衝突
レーヌス河近郊に住む部族は、商人とも交流があり、ガリアの風習にもなれていた。カエサルはこうした部族とは友好を結んでいる。しかし、ゲルマーニアの各部族がところてん式に刺激されて、西方へ追い出されてくると、ガリー人との武力衝突が起こる。ローマ軍もゲルマーニア人と戦い、政治的解決も試みる。といっても人質を差し出すように要求するのだが、素直に従う部族もあれば、拒否する部族もある。カエサルはレーヌス河の渡河を決意する。船で渡るのは安全ではないので橋をかけることを検討する。河の幅と深さ、流れの速さで困難ではあるが、土木工事で奮闘する様も描かれる。橋が作られ始めると、逃走したり、人質を差し出す種族も現れる。そして、ある程度レーヌス河を越えてローマの栄誉と利益のために十分に貢献したと見るや橋を壊した。