2008-08-31

"ホーキング 虚時間の宇宙" 竹内薫 著

著者の本は何冊か読ませてもらっている。そのくだいた表現力には毎度関心させられる。おいらは、技術の話を人に説明する時、いつも悩まされる。大学では数式で誤魔化す先生も多い。ところが、著者はほとんど言葉で流すところが凄い。哲学や思想の領域まで踏み込まないと、分かりやすく表現するのは難しいだろう。学生の理系離れが叫ばれる昨今、こうした企画は貴重である。

アル中ハイマーには、量子論の世界はなんでもありなのか?と思えて仕方がない。真空で何もない空間に、都合よくエネルギー保存則が成り立つようにプラスとマイナスの粒子が突然発生し、更に都合よく、ブラックホールになるかならないかの境界線で、プラスとマイナスが分かれて、一方は放射し、一方は吸い込まれる。これ全て不確定性で片付けられても、酔っ払いには「飲みが足らん!」と言われているようである。アインシュタインですら、量子論には抵抗感があったというから尚更である。更にホーキングは、実時間では特異点に始まり特異点に終わると言われる宇宙も、虚時間という概念を持ち込んで、特異点を無くしてしまい、宇宙の境界線すら消してしまう。天才が考えることは、どこかブチ切れている。地球表面上に住む人間は、地球の果てを求めて探検しても、その果てを見つけることはできない。これは、平面上を歩いていると信じていても、実は球面上を移動していることを知らずに、境界の無い世界をさまよっているようなものである。実数の指数関数も、虚数の概念を持ち込めば、複素平面上をぐるぐると回る。そもそもマイナスとマイナスを掛けるとプラスになるという発想は、人類のご都合主義によるものなのだろうか?むしろ、虚数の世界にこそ、自然法則が顕になる何かがあるのだろうか?人類は、実存論への答えすら見つけられず、空虚な世界をさまよう運命にあるようだ。
実は、おいらも虚時間を体感している。行付けの店に入り込めば、ブラックホールに落ちるかのようにアルコールによって分子レベルまで分解される。そして、気づいた時には亜空間な別の店に存在する。その店間経路は、虚時間によって受け継がれることにしなければ説明がつかない。

スティーブン・ホーキングは、「車イスのニュートン」と呼ばれ、ニュートンが在職したルーカス職の数学教授を勤めた。彼はALS(筋萎縮性側索硬化症)という不治の病にかかったことでも有名である。ALSは、発病すると手足の自由がきかなくなり、話すことも食べることも呼吸さえも困難になる難病である。発病当初は余命数年と宣告されたという。しかし、彼は前進を続け現在も活躍する。発病した頃、最愛の女性と結婚し三人の子供をもうけ、巨大な富を得て、そして、離婚、再婚と波乱万丈である。
科学者の世界には、二つの相反する研究態度がある。それは、実在論と実証論である。自然現象を、なんらかの物理的存在理由があると考えるか、あってもなくてもいいと開き直るかの違いである。ホーキングは典型的な実証論者のようだ。その理論を分かりにくくしている原因がこの思想にありそうだ。彼は、自分の研究の利点を強調する時に、他人の欠点を嘲笑うことが多いという。頭にくると電動イスで相手の足を轢いてしまうという逸話がたくさん残っているらしい。
本書は、ホーキングの研究論文は、一貫してアインシュタインの正統な後継者を思わせるものがあると語る。彼は、アインシュタイン理論をブラックホールや宇宙といった対象にあてはめた。そして、相対性理論に量子効果を加味した考察が特色である。本書はこの言葉から始まる。
「ホーキング博士によれば、ブラックホールは、本当はグレーホールであり、つまり、熱くて周囲に放射を出しているのであり、時間が経つと蒸発して消えてしまうのだそうである。」
通常の物質は、いろいろな分子からできていて、色や堅さといった属性を持っている。ところがブラックホールは、質量、電荷、角運動量といった属性しか持たない。では、ブラックホールに落ちた情報はどこへ行くのだろうか?存在し続けるのか?永遠に失われるのか?2004年ダブリン会議でのホーキングの講演はこうした問題を扱っていた。ホーキングは、アインシュタインとファインマンを足して2で割ったような人だという。アインシュタインの重力理論に、ファインマン流の経路和をつかった量子論を利用するからである。歴史的には、理論物理学者は相対論派と量子論派に分かれる。現代物理学の懸案は、重力理論と量子力学を統一して、量子重力理論を構築することである。そのアプローチに、どちらから迫るかという選択がある。「超ひも理論」の素粒子物理学者は、量子力学からアプローチしたものである。ホーキングは重力理論からアプローチする。そして、異常なほど宇宙の始まりについて固執する。まるで旧約聖書に反論するかのように。

1. 相対性理論
相対性理論では、時空という概念がある。単に時間と空間を一緒にしたものではなく物理的に混ざったりする。また、数式だけでは理解し辛いので、ビジュアル的に捉えられるように時空図が考案されている。時空図は、三次元で表現され、縦軸の時間に対して、二次元平面の空間を表す。本書も、この時空図を使って説明してくれる。また、幾何学単位系を用いてできるだけ省略する。(光速cを1とし、ニュートンの重力定数Gを1とし、プランク定数hも1とする)本書は、アインシュタインは物理学を幾何学としてとらえたが、その精神からするとあらゆる物理量の単位をなくして、純粋な数字であつかう方が自然なのだろうと語る。ちなみに、特殊相対性理論は、特殊な座標変換に対して物理量は不変であると主張する。対して、一般相対性理論は、光速を固定する。どんな変換系であろうと、どんな空間であろうと光速が変化しないということは、時間と空間の方が伸び縮みするということである。アインシュタイン理論では、空間の曲率は物質の質量に比例するので、平らなユークリッド空間からズレが生じる。つまり、空間が曲がっているということは、物質が存在するということと同義である。

2. 特異点を追求した科学者たち
(a) カール・シュヴァルツシルト
シュヴァルツシルトはブラックホールの半径を計算した。彼は重力場を記述する特殊解を見つけ、ブラックホールの存在を示唆した。これは「シュヴァルツシルト半径」や「事象の地平線」と呼ばれ、時間が消えて空間が無限大になる境界線である。通常の星では、シュヴァルツシルト半径は星の半径よりも十分小さいので、星の内部に隠れる。
(b) スブラマニアン・チャンドラセカール
重い星は自らの重力によって収縮し潰れるはずである。しかし、量子論では星が潰れるのを防ぐ面白い法則がある。それが「パウリの排他律」である。同じ状態にある電子どうしをくっつけることはできないということがわかっているらしい。つまり、重い星がある程度まで収縮すると電子どうしが接近して反発するようになる。パウリの排他律とは、電子どうしが互いに排他的になるという意味である。しかし、チャンドラセカールは、太陽の1.4倍より重い星の場合、パウリの排他律による反発力でも支えきれずに星が潰れてしまうことに気づいた。星が収縮し続けると、いずれシュヴァルツシルト半径という魔の領域に到達するかもしれない。すると、時間が消えて空間が無限大になるような時空の境界線が、星の外部にはみ出してしまう。
(c) ハートランド・スナイダー
光は音波と同じように遠ざかると周期が間延びするので、星が収縮している間は光波も間延びする。しかし、ある程度収縮すると光波も安定する。ブラックホールが「凍りついた星」と呼ばれる所以である。ところが、星の表面で観測すると別の光景が待っている。観測者にしてみれば、シュヴァルツシルト半径を超えたとしても、それを感じる徴候は何もない。そこでは、重力もさほど強くなく、空間に亀裂が入るわけでもない。観測者の時計が止まることもない。しかし、一旦シュヴァルツシルト半径の内側に入ったら、そこから脱出することはできない。観測者は、どんどん中心に向かって落下しつづけることに気づくだろう。やがて、観測者は左右から押し付けられ、上下に引き伸ばされる力「潮汐力」を感じる。そして、身体もバラバラになり分子レベルまで分解され点にまで潰される。スナイダーは、シュヴァルツシルト半径が後戻りできない線であることと、遠方からは凍りつく場所であることを示した。シュヴァルツシルト半径では、光でさえ脱出できない。
(d) ロジャー・ペンローズ
魔の境界線は消え去っても、ブラックホールの芯が残る。この芯こそが特異点である。特異点といっても、大きさがゼロの点で、物理量が定義できるわけではない。物理学者はこの特異点に悩まされる。分母にはゼロを与えられない。ここで本書は、地球儀を使って、おもしろい特異点の話をしてくれる。地球儀は、どこの都市でも緯度と経度という座標系で場所を特定できる。しかし、北極と南極は特定できない。緯度が90度でも経線が集中する。これも、緯度線と経度線という座標系に潜む特異点である。では、シュヴァルツシルト半径の数学的特異点とは、座標系がまずいのであって、適した座標系に変換すれば除去できるのだろうか?どんな座標系でも除去できない本物の特異点がある。それは、温度や圧力、空間の曲がり具合といった物理量自体が無限大になる点である。ペンローズが証明したのが、まさしくこの本物の特異点の存在である。ブラックホールの芯では、そこで物理が終わってしまう。時間と空間の終わりである。
(e) ホーキング
ホーキングは、ブラックホールになる仮定を時間反転して、宇宙の始まりは特異点であり、ビッグバンから始まる宇宙論を証明した。ただし、ホーキングの特異点原理は、アインシュタインの重力理論が前提である。もし、アインシュタインの理論が間違っているとしたら、この証明は学術的意味を失う。ここで微妙なのが、宇宙の初期状態では、アインシュタインの重力理論は成り立たないと考えている物理学者が多いことである。
ホーキング曰く。「特異点定理は、必ずしも時間の始まりがあったということではなく、アインシュタインの重力理論だけでは、宇宙の始まりは扱えないことを意味している。」

3. ホーキング放射
ホーキングの計算によると、シュヴァルツシルト半径はブラックホールの質量に比例するという。そして、ブラックホールの面積は質量の二乗に比例し、ブラックホールの温度は質量に反比例する。つまり、熱いブラックホールは軽く、冷たいブラックホールは重いことになる。ホーキングは、ブラックホールが周囲に熱を放出する割合を求めた。これが「ホーキング放射」である。通常、星が崩壊してできたブラックホールは、最低でも太陽の質量の1.4倍が必要で非常に冷たい。通常のブラックホールは周囲の宇宙の温度よりも圧倒的に低い。だから、周囲から吸収する熱の方が、放射する熱よりも大きい。だが、宇宙が膨張しつづけると宇宙の温度はどんどん下がり、いずれブラックホールの温度は宇宙の温度よりも高くなるだろう。その時点から、熱の流れが逆転し、ブラックホールは熱とエネルギーを放出し始める。周囲からエネルギーを失うにつれて、ブラックホールは軽くなり熱くなる。そして、ほとんど絶対零度に近い宇宙空間でブラックホールだけがどんどん熱くなる。やがて、エネルギーを放出し続けると、しまいには質量はゼロになって蒸発してしまうという筋書きだ。だが疑問は残る。光さえ脱出できないのに、なぜ放射できるのだろうか?その答えは量子論の不確定性原理にあるという。いよいよ、やっかいな「ハイゼンベルクの不確定性原理」が登場する。ホーキング放射のメカニズムでは、まず、シュヴァルツシルト半径の近辺で粒子と反粒子が生成され、そのどちらかがブラックホール内に落ち込み、残された方が遠方へ逃げていくという。この粒子と反粒子は、ともに量子であり互いに反対の電荷をもち、短時間だけ存在してやがて衝突して消えるもので、仮想粒子と呼ばれる。本来、真空には何も存在しないが、エネルギーと時間の不確定性により、極めて短時間でエネルギーが「ゆらぐ」ことが可能だという。真空ではエルギーがゼロだから、粒子が一つ生成されるのであれば、エネルギー保存則が成り立たない。そこで、ペアでならプラスとマイナスで「ゆらぐ」ことが可能というわけだ。シュヴァルツシルト半径の外では、粒子と反粒子はすぐに衝突して消えてしまう。しかし、境界線では、都合よく内側に生成された方が特異点に向かって落ちていき、残った方は自ら消えることができないので外へ逃げていく。こうして、ブラックホールから粒子が放射されるように見え、ホーキング放射として観測されるという。ただ、放射される側は、プラスのエネルギーと決まっていて、特異点へ落ちるのは必ずマイナス側というのも奇妙な話である。
そのことについてホーキングはこう語っているという。
「ブラックホールの内部の重力場は極めて強いので、その中では実存粒子でさえも負のエネルギーをもつことができる。」

4. ファインマン流の経路和
物体の移動では、経路の足し算をすることはない。移動の経路は一つだからである。しかし、電子や原子のようなミクロな世界では、あらゆる可能な経路の足し算をして確率を求める。それも、複雑過ぎて確率論に持ち込まないと議論できないからである。学校教育では、光子の入射角と反射角は等しいと習うが、実際は光子の経路は無数にある。足すといっても、方向があるからベクトル演算である。光子の場合は方向を考慮すれば良いが、それ以外の量子となると複雑である。電子は運動エネルギーの他に位置エネルギーも考慮しなければならない。ここでも、位置と運動量の二つの情報は不確定性に支配されるという。量子論の世界では、光は直進するという古い考えを捨てなければならないようだ。ファインマン流に言えば、次のようになるという。
「不確定性原理はもはや原理ではない。それは経路和という原理によって導かれる一つの結果に過ぎない。」
経路和は量子の波動性を示す。もともと粒子と波動の違いは、重ね合わせることができるかどうかである。つまり、干渉効果があるかどうかである。ベクトルが同じ方向を向いていれば強調し、互いに逆方向を向いていれば打ち消しあうのも、波動の性質と言える。ファインマンの矢印である確率振幅は、波動関数と呼ばれることも多いという。但し、量子は粒子性もある。その挙動は確率的な推測しかできず不確定性に支配される。これが量子の本質のようだ。

5. 無境界仮説
古典的には粒子は壁を通り抜けることができないが、量子的には壁を通り抜ける可能性がある。これがトンネル効果である。この通り抜ける確率を表したのが波動関数である。ホーキングは、経路和を使って宇宙の波動関数を計算してみせたという。ところで宇宙に経路なんてあるのか?とりあえず、宇宙の始点をビッグバンとし、終点はビッグクランチとする。その間には、曲率がプラスだったりマイナスだったりと、様々な形をした宇宙がある。宇宙の違う経路とは、アインシュタインの重力理論による空間の曲がり具合ということである。また、空間に存在するあらゆる物質の分布状態も考慮する。そして、ビッグバンから始まったあらゆる空間の曲がり具合と、無数の物質の分布状態を足し算することによって波動関数を求めるという。無数といっても、現実には多数で近似する。その近似方法に、宇宙は「均一」で「等方」であると仮定する。だが、こんな計算が本当にできるのか?学術的に意味があるのか?天才が考えることは神がかりである。更に、ホーキングは特異点すら除去しようと、恐るべき提案をする。
「宇宙の波動関数の境界条件は、境界がないことである」
そもそも境界条件を与えないで、波動関数が得られるのか?どうせ量子重力理論は完成していないので、量子効果によって特異点が消滅するなんて証明できないから、なんでもありなのか?ビッグバンの最初の特異点は尖った点であるが、これを丸く均すことを考える。これは、数学のトリックを使って、時間を虚数にすることで実現できるという。実時間では空間と時間が区別できるが、虚時間では空間と時間の区別ができない。これが、本書では時空図で説明され、なんと!特異点が丸くなっちゃった。言いかえると、密度も温度も無限大という「時間の始まり」は存在しない。では、ファインマンの経路和を宇宙に当てはめる時、なぜ実時間ではNGで、虚時間ならOKなのだろうか?本書は虚数の指数関数を用いて説明する。通常の指数関数はプラス方向に急激に増大する。しかし、虚数の指数関数は波の性質がある。具体的には三角関数でオイラーの公式に従う。実数を虚数にするだけで、急激に増大するものが、くるぐると回る永遠のループになる。ところで、虚時間という概念に何の意味があるのか?ここで重要なのがホーキングの実証論者という哲学的立場である。

6. 超ひも理論
ブラックホールはあらゆる物質やエネルギーや情報を呑みこんでしまう。そして、やがてホーキング放射によって蒸発して消滅する。その際、落ち込んだ情報はどうなるのだろうか?相対論派は、ブラックホールに落ち込んだ情報は回収不能で、蒸発する時に一緒に消滅すると主張する。量子論派は、蒸発する時に元の情報を回収できると考える。この論争の解決策は「超ひも理論」にあるという。超ひも理論では、宇宙のあらゆる物質は、素粒子よりも小さい「ひも」からできていると主張する。そして、「ひも」の様々な振動状態が素粒子に見えるという。「ひも」は、ひも状になったエネルギーという意味のようだ。「ひも」はあまりにも小さいので、数学的にはブラックホールと同等に扱うらしい。そして、物質のエネルギーや情報がブラックホールに落ちこむ際、その全情報は「事象の地平線」にコピーされて残るというのだ。ブラックホールが持っている情報は、その表面積に比例するのである。ただ、ホーキングは情報が消えるという結論に飛びついてしまったという。本書は、ホーキングもアインシュタインと同じく重力理論の影響を強く受け、量子論を受け入れられなかったようだと語る。

2008-08-24

"宇宙を測る" Kitty Ferguson 著

今日は、ブルーバックスを買うと固く決意して本屋へ向かった。最近ブルーバックスをあまり読んでいない。というのも、新刊がいまいち肌に合わない。そろそろ、ブルーバックス教から脱退する頃合なのだろうか?ちなみに、岩波文庫教は衰えを知らない。岩波文庫はウィスキーのように年代物にこそ味わいがある。
立ち読みしながら物色していると、二日酔いで頭が重い。昨晩、はしごをしたようだ。ついでに、「宇宙の距離はしご」も悪くない。店間距離を測るには夜の社交場をはしごする。それは、千鳥足というゆらぎに支配され、予測不能な行動パターンが生じる。宇宙の点間距離を測るのも、量子論のゆらぎに支配され、予測不能な誤差が生じる。アル中ハイマーには、宇宙も夜の社交場も同じ磁場に見える。

本書は、プトレマイオスからホーキングまで、宇宙の果てに挑んだ天才たちの歴史を振り返る。それは、宇宙の距離を測ろうとした歴史であり、測定誤差との戦いでもある。科学が発展すればするほど、課題も増え登場人物も増えていく。そして、研究や実験が個人であったものが、グループによって成し遂げられるようになる。これは、解明する速度よりも、複雑化する速度の方が速いことを示しているのだろうか?コンピュータの構造も、社会システムも、ますます複雑化し、人口も爆発的に増加する。これは全て自然法則で、エントロピー増大の法則へと向かっているのだろうか?
おもしろいことに科学の発展は、人間中心の宇宙から人間の地位をどんどん引き摺り降ろしていく。だが、いつの時代でも宗教は、それに待ったをかけようとする。宗教は、実は神を崇めようとしているのではなく、人間を崇めようとしているのか?一方で、哲学的な精神はそれほど変わらない。現在においても、プラトン哲学が継承されているところがある。それは、どんな複雑な現象も、背後には単純な自然法則が潜んでいるに違いないと信じてきた科学者の執念である。

本書は少々古いので、ホーキングが登場するあたりまでである。それでも、学生時代が思い出されて楽しい。ちなみに、おいらは自らの能力を顧みず、宇宙物理学に夢を見ていた時代がある。
本書には登場しないが、新しい宇宙観では、超ひも理論の登場で、素粒子物理学者によってサイクリック宇宙論を支持する人も多い。宇宙の膨張は、宇宙項と物質の密度との関係によって論じられる。宇宙項とは、真空がどの程度のエネルギーを持つかを表す定数である。宇宙項が大きいほど、エネルギーのタダ食いの効果が大きく、宇宙は速く膨張する。宇宙は永遠に膨張するか、やがて停止し定常宇宙となるか、いや、収縮に転じるかもしれない。インフレーション理論では、宇宙のエントロピーは、ただの一回の指数膨張と、それに次いで起こる再加熱によって作り出されると主張する。一方、サイクリック宇宙論では、ビッグバンとビッグクランチを繰り返しながら、徐々にエントロピーを蓄えてきたと考える。そこから計算されるのが、30回から50回の繰り返しで、その途上に人類は住んでいると主張する。つまり、インフレーションという特殊な時期を考慮する必要がない。宇宙は、ビッグバンとビッグクランチを繰り返していくうちに、だんだん巨大化しているのか?ビッグバンとビッグクランチの境界は、実時間によって受け継がれているのか?ただ、一晩に同じ店へ何度も繰り返して立ち寄る現象は、虚時間を持ち出さないと説明がつかない。

宇宙論には、こんな名言がある。
ホーキング曰く。
「もしも宇宙が永遠の過去から存在するならば、あらゆるものの温度は等しいはずである。」
オルバースのパラドックス。
「空は無限に明るくはない。ゆえに目に見える宇宙は無限ではない。」

1. 視差と光
カッシーニは、火星が地球に最も接近する絶好の機会に、視差法によって距離を測った。そして、ケプラーの法則によって、惑星との距離が算出される。
光の明るさは、光源からの距離の二乗に反比例して減衰する。元々の星の明るさが同じだと仮定すれば、見かけの明るさを比較すれば距離はわかる。しかし、全部同じ明るさと仮定するのも無理がある。ニュートンによって分光学が登場し、星の明るさを分類できる手段を得る。ニュートンの重力の法則は、ケプラーの法則の背後に潜んでいた物理学を構築する。人類の知性の歴史における最も偉大な業績と評される著作「プリンキピア」は、光学、神学、錬金術、微積分など多岐にわたる。ニュートンは、プリズム実験で、すべての光線を一点に集めることはできないと知るや、レンズによる望遠鏡の性能には限界があることに気づく。そして、鏡を使った新型望遠鏡の開発に貢献した。
ハレー彗星の軌道計算で有名なエドモンド・ハレーは、水星の太陽面通過の時刻を計測した。彼は、惑星が太陽面通過の時刻を測定することが正確に測る機会と考え、他の手法はあまり信用していなかったという。ジェームズ・ブラッドレーは、年周視差を試みるが、困難を極めた。そして「光行差」を発見する。つまり、地球の移動方向にずれて見えるのである。また「章動」も発見する。つまり、地球は完全な球ではないので、ぐらつくのである。
ドップラー効果では、遠ざかる星は赤方偏移し、近づく星は青方偏移する。ドップラー効果の応用は、あまり遠くない星群に対しては有効な方法だという。見かけの移動量とドップラー効果を使えば、移動方向の角度が分かる。この方法で、最も近いおうし座にあるヒアデス星団までの距離がわかった。運動星団法である。幸運にもヒアデス星団には、いろんな種類の星が含まれているので、スペクトルによって絶対等級を計算できるようになった。分光視差法である。ドップラー偏移と視線方向の速度を求めた後、星団の平均速度を求めることができる。統計的視差法である。星はいろいろな方向に動くが、星団としては平均化されると仮定するのである。

2. セファイド変光星
ヘンリエッタ・スワン・レヴィットは、マゼラン星雲から整然とした変化を示す変光星があることに気づいた。極大光度へ急激に上昇した後、ゆっくり減光する。これがセファイド変光星である。そして、絶対等級が同じセファイドは、変動周期も同じになることを示した。これは、視差法では測れない遠い星を測定する足がかりとなる。星雲内にセファイドが見つかれば、その変動周期を測ることで、星雲までの距離が測れるようになる。ちなみに、北極星もセファイドである。今では、セファイドは主系列であることがわかっているらしい。主系列とは、水素からヘリウムへの核融合反応が定常的に起こっている状態で、いずれ赤色巨星に達し年老いて終わる星である。主系列を過ぎると、星の中心核は収縮し始める。すると温度が上がって、熱が外層へ流れ出し、一階電離ヘリウム原子を活性化させる。一階電離とは、原子から電子が一個失われている状態を言う。エネルギーが上昇すると、もう一つの電子がたたき出され、原子は二階電離となる。二階電離した原子は、すぐに光を吸収する。その結果、星の大気は不透明となり、熱を閉じ込め、ますます熱くなり膨張する。星の外層は膨れ100倍の大きさにもなる。星が膨張するとエネルギーは広範囲に広がり、外層は冷える。そして、ヘリウム原子が冷えて、二階電離から一階電離へと戻る。大気は再び透明となり収縮し始め、そのサイクルが繰り返される。これが、セファイドのメカニズムである。

3. ビッグバン説
ハッブルとミルトン・ヒューメイソンの共同観測によって、近傍の銀河は別として、他の銀河がどれも遠ざかっていて、互いに離れていくことを発見した。宇宙膨張説の始まりでる。一般相対性理論から、宇宙は膨張するか収縮するかのどちらかになるという結果が得られる。しかし、アインシュタインは宇宙膨張論を嫌っていた。そこで、宇宙定数という宇宙が静止状態になる項を導入した。これは、生涯の最大の失敗であると嘆くことになるが、宇宙定数の概念は、その後も残っている。アレクサンドル・フリードマンは、アインシュタインの理論を額面通り受け入れて、膨張宇宙の可能性を示唆する。ニュートンは、どちらもありえないと考えた。膨張や収縮をするならば、運動の中心というものがなければならない。宇宙が無限の空間で、物質が一様に分布しているとしたら中心はない。しかし、膨張宇宙となると、宇宙誕生がなければならない。ジョルジュ・ルメートルは、宇宙は原始アトムの爆発から始まったと主張した。ビッグバン説である。この説にクエーサーの発見が後押しする。クエーサーのスペクトルは大きな赤方偏移を持ち、遠方で高速に遠ざかるように見える。かなり老齢なものと考えらているが、依然として謎である。ビッグバン説が正しいとすると、宇宙の果てまでの距離を測れば、宇宙の寿命がわかる。

4. インフレーション理論
ビッグバン説における気がかりは、地平線問題と平坦性問題である。地平線問題は、情報が光速より速く伝わらないという前提からくるもので、宇宙背景放射の等方性は問題となる。離れた領域でも放射強度が等しいのである。平坦性問題は、宇宙がすぐさまビッグクランチに陥って崩壊することもなく、また、暴走的に膨張しあっという間に年老いてしまわないのはなぜかという問題である。宇宙の幾何学、曲率は、宇宙の全エネルギー密度によって決まるが、観測される宇宙が極めて平坦であることへの説明がつかない。アラン・グースは、ごく短時間で膨張する宇宙の初期モデルを提唱し、ビッグバン説を補完した。これがインフレーション理論である。これは、ホーキングとペンローズの特異点への挑戦へと導く。いよいよ無境界宇宙へと展開を見せそうだ。量子力学の世界では、素粒子は自発的に生成消滅すると言うから二日酔いには解読できない。ホーキング曰く。「量子論的揺らぎで、何でもできてしまう。」量子論はなんでもありの世界なのか?これは、向い酒をせずにはいられない。なんとなく、昔読んだホーキングの本を読み返したくなってきた。

2008-08-17

"ハッカーと画家" Paul Graham 著

お盆は酒びたりである。今日も朝っぱらから飲んでいる。ウィスキーの綺麗な琥珀色に、日の出間近の薄明るさが交わると、夕日に見えるので、時間としては全く問題ない。そして、ほど酔い気分で本棚を眺めていると、なんとなく読み返したい本を見つけた。本書は、数年前に読んで感動したような気がする。世間が夏休みの間に処理しておくのも悪くない。過去に良書と思ったものは、なるべく記事に残していきたい。

本書は、タイトルが示すとおり、ハッカーと画家の類似性について語る。つまり、優秀なプログラマは芸術のセンスを持っているということだ。これは、科学者や数学者にも見られる。科学者は、自然法則を見つけるために、芸術的な実験方法を模索する。数学者はエレガントなアプローチで証明に迫る。ハッカーというと、一般的にはコンピュータに侵入する連中と思われがちだが、コンピュータの世界では優れたプログラマのことを指す。Hackという言葉には、達人を思わせる臭いがあり、なんとなく知的好奇心をくすぐられる。最近、Hackという言葉が専門書の間で賑わっているのも、優れた世界に触れてみたいという表れであろう。実際に接したエンジニアでも10倍ぐらいの能力差がある。それが、ハッカーとなると平気で100倍以上は違うのだろう。おいらは優れたハッカーを知らない。ハッカーは優れたハッカーと一緒に仕事をしたがる習性があるという。類は友を呼ぶということか。ところで、ハッカーを見分ける方法はあるのだろうか?履歴書なんか見ても無駄だ。一緒に仕事をしてみるしかないだろう。しかし、おいらには優秀過ぎる人間は宇宙人に見える。そう言えば、宇宙人のような発想をする人に何度か出会った。ひょっとすると彼らがハッカーかもしれない。企業は、優秀な人材を集めるために、履歴書を見て面接をする。面接官は、なぜ技術者の生産物を検分しようとしないのだろうか?ハッカーの生産物が芸術作品であるならば、その芸術を理解できる人間でないと見分けられない。良い製品を造る上で、良いデザイナーを集めれば、解決するという考えがある。しかし、良いデザイナーって誰が見分けるんだ?かつて「成果主義」という言葉が世間を賑わした。成果って誰が評価するんだ?プログラマは、優れたハッカーになりたいと願う。では、どうすればなれるだろうか?賢くなる方法は分からないが、馬鹿になる方法は分かる。プロジェクトの成功例はあまり役に立たないが、失敗例は参考になることが多い。世の中には、実に多くのハウツウものが出回る。しかし、成功例は複雑系の中にあり、そこにある偶然性を見極めなければならない。

本書を読んで、少しでも優秀な人と関わった気分になれるのは幸せなことである。ハッカーは、一般的にはオタクで野暮ったいと見られがちだ。しかも、異端児で天邪鬼と言われ、多くの管理者に嫌われる。こうした印象だけなら、おいらと大して変わりはない。しかし、本書は、表面的には無秩序のように見えても、隠された秩序があるという。そこには、外見は汚くても、生成されるコードは緻密で、極めて神経質な世界がある。本書は、プログラムコードは、都市計画のように慎重に計画して組み立てるものではないという。それは、画家がスケッチするように、使い捨てを覚悟でコードを書き始め、徐々に詳細化していく。作品を創りながら理解してくところは、むしろ芸術に近い。慎重に計画して仕事をすれば、当初のアイデアを精密に実現できるだろう。だが、当初のアイデアというものは大抵間違ったものとなる。技術業界で仕様変更はつきものだということは、ほとんどの人が理解しているだろう。そこで、できるだけ早くプロトタイプを提示し、改善していくといった手法がとられる。そこには、新しいアイデアをどんどん取り入れるといった柔軟性が現れる。本書は、作成の過程で新しいアイデアを受け入れることは、なによりも士気を保つことができるという。士気の持続しないところに良いデザインは生まれない。芸術作品は決して完成することはない。
本書は、ソフトウェアには、「Just Do It! (とにかくやる)」という思想があると語る。個人主義的で、不服従的な性格がなければ、芸術は現れない。多くの管理者は、従業員の不服従な態度を警戒するが、ハッカーにとって不服従は独創性の副産物に過ぎない。技術の仕事には、なによりも革新が必要である。本書は、革新と異端は実質的には同じ方向にあるという。優れた技術者は、全てを疑問に思う習慣がある。本書は、社会にうまく適合できず偶像崇拝を嫌う者が、ハッカーになりやすいと語る。おいらは、思考をある程度まとめてからでないとプログラムが書けない。頭が悪い人間には、ある程度の方向性を定めないと作業ができない。それでも、考えてみれば、とりあえず使い捨てのコードを書いたりする。厳密な仕様書を書かないと作業する気がしないと言いながら、最初に書く仕様書は実にいい加減なものだ。ドン臭いおいらでも、本書にはなるほどと思わせるところが多い。ただし、酔っ払いは、世間のお邪魔にならないように心掛けなければならない。

本書で、技術者として興味を惹くのは、プログラミング言語に関する問題である。ハッカーが、芸術家のように、生産物を作りながら理解していくならば、その手段であるプログラミング言語は柔軟でなければならない。プログラムは使う言語によって何を言えるかが決まる。日常言語にしても、思考によって発達するものだ。必然的に言語選択は、プログラマの思考方法に大きな影響を与える。状況に応じて最適な言語を選ぶことは、有効なビジネス手法の一つと言えるだろう。本書は、ハッキングする上で、プログラミング言語以上の方法はないと語る。
「実はハッカーというのは、言論の自由に対してものすごく執着するものなんだ。」
仕事の要求が高ければ、それだけ優れた言語を使う意味は大きい。しかし、実際には、それほど要求の高くないプロジェクトがゴロゴロしている。よって、慣れ親しんでいる言語を使ったり、流行を追いかけるのも悪い選択ではないだろう。過去の資産や、政治力によって強要されることもある。プログラミング言語には宗教のようなところがあって、洗脳されるケースも多い。実際にExcelをI/Fにして、データ解析している者もいる。ただ、近寄りたくはない。ところで、人気のある言語はそれに見合っているのだろうか?そもそも良い言語の定義とは何か?本書は、それを理解する方法は、ハッカーが何を欲しがっているかを観察することで得られるという。大抵の人々は言語の利点で選ぶことはない。また、ハッカーが良いと考える言語が、一般的に支持されるとは限らない。技術の進化は速い。しかし、人間の扱う言語の進化は遅い。言語は人間の思考に深く結びつくからである。プログラミング言語にも同じことが言えるだろう。数学や科学は、人間が分かりやすくするために抽象化方法を選ぶことはない。単に証明を短くするために抽象化方法を選ぶ。しかし、芸術は人間が理解するためのものであり、デザインは人のためにする。本書は、言語は使いやすいものでなければならないと語る。
言語の論争には二つの派閥がある。一つは、プログラムの間違った行いを防ぐべきだとする考え、もう一つは、プログラムのやりたいことは何でも許すべきだとする考え。以前、「オブジェクト指向」という言葉が流行した。そこには、プライベート情報を隠蔽する概念がある。ただ、C++には、フレンド関数によって覗き見することが許される。おいらは人見知りが強いので、C++となかなかフレンドリーになれない理由である。

1. ハッカーと画家
ハッカーと画家は、どちらも良いものを創ろうとしている点では共通している。本書は、ハッカーにとって、コンピュータは単なる表現の媒体に過ぎないという。そして、ハッキングの最良の形態は仕様を作ることだと語る。多くのプログラマは、仕様変更を想定しながら書き進めるだろう。ソフトウェアで、早期の最適化の危険性を知っている人も多い。そこで、柔軟性を持たせるために、なるべく抽象化しようとする。プログラマの生産性が、コードの行数で測られるのはナンセンスである。偉大な画家が観賞者が見ないところにも気を配るように、ハッカーもプログラムの書き方にこだわる。これがプロ意識というものだろう。本書は、「ソフトウェア工学」という言葉が、ハッカーをエンジニアと誤解させていると語る。しかし、多くの企業では、ハッカーをエンジニアとして強要する。プログラマは、管理者のビジョンをコードへ翻訳する技師と見なされる。そして、仕事のやり方を規制することによって、一定の生産性と品質の確保を求める。大企業が、生産性のばらつきを抑えるのは、大失敗を避けたいからである。しかし、ばらつきを抑えると、低い点は無くなると同時に高い点も無くなると語る。

2. 共感能力
芸術作品には、人を惹きつける何かがある。それは観賞者の気持ちを理解しているということだろう。そこには共感能力がある。ハッカーと偉大なハッカーの違いは、この共感能力の違いだという。ハッカーの中には、非常に賢いが共感できず自己中心的な人間がいる。そして、ユーザの視点でものを見ることができない。共感能力のないところに、偉大なプログラムは生まれないという。共感能力を見る良い方法は、技術知識のない人に、技術の説明をしている様子を観察することだという。能力が優れていても、滑稽なほど説明の下手な人がいる。ユーザに対する共感と、コードを読む人に対する共感が必要である。コードを他人に読まれることは、自分のためにもなる。著者は、人に説明することが難しいことから脱Perl宣言をした人を多く知っているという。

3. プログラミング言語
プログラミング言語は、どれを選ぶのが最適だろうか?尽きない論争である。用途によって、より効果的な言語は存在するだろう。酔っ払いには、動的な記憶領域の管理などランタイムに任せるのが身のためだと考えている。したがって、スクリプト言語を多用する。だが、自分で書いたPerlは暗号に見える。しかも、脳の中に暗号解読機がないから困ったものだ。言語を選ぶ上で、有効なものに抽象レベルがある。ハードウェアが進化すれば、より高レベルの言語を選択するケースも増える。動作効率を考慮したければ、低レベルの言語を使えば高速なコードが得られる。また、特定の問題を解決するために、豊富なライブラリを具えた言語で開発効率を上げることも検討するだろう。最初に書くプログラムは、最低限の努力ででっち上げたいものだ。本書は、非効率性とは、マシン時間を無駄にするのではなく、プログラマの時間を無駄にすることだと語る。

4. Lisp
著者は、実際にLispを使って素早く開発し事業に成功したと、その魅力を熱く語る。現代のプログラム構造は、動作部からデータ構造へと注目点が移った。本書は、Lispハッカーは、データ構造を柔軟に持つことの価値を知っていると語る。そして、最初のアプローチで、なんでもリストで処理するように書くことが多いという。ところで、どこまでデータ構造を抽象化できるだろうか?配列は、ハッシュテーブルのキーが整数のベクタであると考えることができる。更に、ハッシュテーブルもリストに置き換えられるのだろうか?数値というデータ型も、整数nはn個の要素を持つリストとして表現できる。そして、基礎的なデータ型から数値を取り除くことができるのだろうか?Lispの抽象度は非常に高いらしい。本書は、Lispを学べば、実際にLispプログラムを作ることがなくても良いプログラマになれると語る。リスト型の言語には、データ構造の本質でも覗かせてくる何かがあるのだろうか?おいらには、Emacs-Lispを、数十行書いたことがある程度で、全く経験がない。いずれ挑戦してみたいと考えているが、なかなか手を付けないでいる。それも、括弧だらけの奇妙な構文を見るだけで、なんとも怪しげな香りがするからだ。本書は、奇妙な構文というより、構文そのものが無いと言った方がいいという。高級言語の中にも抽象度の差がある。あらゆる高級言語が機械語よりも強力であることは誰もが認めるだろう。中でもLispが最も強力だという。そんなに強力ならば、なぜみんなが使わないのか?全ての高級言語の中から、力の差を把握できるのは、最も強力な言語を理解した者だけだという。Lispが最も強力な言語というのが事実ならば、Lisp使いにしか分からないということか。大抵のプログラマは、使っている言語に大きな不自由を感じなければ、それで我慢する。Lispの最大な武器はマクロで、これが多くの括弧と深い関係にあるのだという。マクロ機能は、ほとんどの言語でサポートされるので、真新しいものを感じないが、Lispのマクロは特有らしい。Lispのコードは、Lispのデータオブジェクトからできているという。ソースコードは、パーサに呼び込まれると、人が解析できるデータ構造になる。他の言語なら、コンパイラが構文解析をして、内部に構文木を作る。ところが、Lispは直接プログラムとして書き下すという。構文木はプログラムからアクセスできるので、構文木を直接操作できるということらしい。Lispでは、これをマクロと呼ぶそうだ。本書は、Java、Perl、Python、Rubyと登場した順を見ていくと、だんだんLispに近づいているという。ただし、Javaをけちょんけちょんに貶しているあたりは、ストレス解消に良い。優れたものでも、早く登場しすぎて、時代に受け入れられないものがある。もし、Lispがそんなに良いものであるならば、少しずつ近づく言語が登場して大衆を誘導するのかもしれない。それが、PythonだったりRubyだったりするのだろうか?

5. ハッカーが求めるもの
科学者や数学者がそうであるように、ハッカーは簡潔さを求める。簡潔さは、抽象度を上げることによって得られる。そもそも高級言語を使う理由がここにある。本書は、プログラムを眺めて、より少ないトークンで表現できないかを常に自問するべきだと主張する。究極の簡潔さは、すでにライブラリで用意されていて、それを呼ぶだけというものだろう。だが、ライブラリがやたら多く、探すのに苦労したり、使い方がへんてこなものでは困る。本書は、ハックのしやすさを強調する。つまり、プログラマがやりたいことがやれることが重要だという。良いプログラマは、しばしば危険で不道徳なことをする。それは、高レベルで抽象化されたデータの内部構造をいじってみるといったことだ。ハッカーはハックするのがお好きである。これは知的快感という人間の心理を反映している。そして、プログラミング言語は、書き捨てのプログラムを書くのに適したものを求めるという。大きなプログラムを書く手法は、書き捨てのプログラムから始めて改善し続ける。これは、Perlの例が印象的で、Perl自身が書き捨てのためのプログラムだったという。

2008-08-10

"Core Memory ヴィンテージコンピュータの美" M. Richards & J. Alderman 著

数ヶ月前、オライリー・ジャパンから新書の案内がきた。その中で本書には、なんとなくタイトルに惹かれる。アル中ハイマーは、ヴィンテージものが飲みたくなるのである。

本書は、マーク・リチャーズの写真とジョン・アルダーマンの文章によって構成される。そこには、シリコンバレーの「Computer History Museum」に所蔵されるヴィンテージコンピュータが、なかなかの酒肴(趣向)で撮影されている。これは技術書ではない。美術観賞を楽しむものである。そして、電子計算機の歴史的意義を、知識としてではなく感覚として味わえる。思えば、コンピュータの歴史は半世紀ぐらいと短いものである。それでも重厚感がある。今宵は、間違いなく年代物のブランデーが合う。なんとなくバーで眺めたくなるような味わい深さがある。明日のこの時間は、間違いなく夜の社交場に姿を現すであろう。

AppleやCompaqの写真を眺めていると、昔を思い出す。おいらが最初に買ったコンピュータはFM7である。大学時代、媒体はカセットテープだった。通常のオーディオ機器でプログラムがコピーできた時代である。録音調節を失敗すると暴走したりもした。社会人になって、自己啓発と称して購入したのが98互換機だった。その時、虚しく思ったのは、ローンの残高が次々に登場する新型マシンの価格を追い越すことだった。もう20年以上前のことである。その頃、お洒落なMacが一世風靡しそうな勢いだった。ディスプレイと一体型のマシンを、先輩が登山家のように専用リュックに担いで会社に持ってきていたのを思い出す。そこから作成される綺麗なドキュメントには感嘆したものだ。マシンは一人一台の時代ではない。それでも他の部署よりははるかに恵まれていた。研究所というのも比較的良い環境にあったのだろう。グレードの高いマシンは熟練者から与えられる。当時はハードディスクが外付けされるだけで画期的だった。容量は10MB程度で、しかも高速で感動したものだ。バブル時代になると予算も通りやすく、下っ端のおいらでさえ、高価な計測器をほぼ占有できた。当時、GHz帯の測定器など、何の研究に使うんだと皮肉られたものだ。おいらは一箇所に落ち着くのが嫌いなので、ラップトップ型コンピュータを予算化した。ラップトップなんて言葉は今では死語である。こうした環境も、転職すると、なんと贅沢だったのかと知らされることになる。

本書を読んでいると、まず気になったのがページ番号の見方である。最初、意味が分からなかったのだが、3分の1ぐらい読んだところで、なるほど!パンチ風で、ギリシャ数字は10進数の桁を表しているのかあ。こんなところにも気配りがなされるところに、著者の感性が伝わる。ただ、2進数で表したら、もっとそれらしく見えると思うが、複雑になりそうだ。基板上の配線された写真などは、昔、苦労して製作したブレッドボードを思い出す。ラッピング配線とハンダ付けでは、どちらが接触抵抗が小さいか?などと実験室で競ったものだ。不器用なおいらはツールで誤魔化すしかなかった。ちなみに、スーパーおじさんのハンダ付けには、どんな優れたツールを持ってしても敵わない。本書には、世界初のコンピュータから、電卓、ルータ、サーバなど30数台のマシンが収録される。その中から、なんとなく酔っ払いの目のついたところを摘んでみよう。なぜかって?そこにうまい燻製の摘みがあるから。

1. Z3の加算機
最初のコンピュータは、実はENIACではないらしい。世界最初のプログラマブル自動電磁コンピュータは、第二次大戦のさなか、ドイツのコンラート・ツーゼ(Konrad Zuse)によって作られたという。しかし、1944年、連合軍のペルリン空爆によって破壊されてしまう。本書で紹介する写真は、加算機ユニットを教育目的で再現したものだという。ストレージ用の媒体は、映画用フィルムにパンチ穴を開けたものである。そこにはスイッチング用のリレーが並び、酔っ払いにはカタカタという音が聞こえてくる。

2. ENIAC
1946年、アメリカ陸軍とペンシルバニア大学によって製作された。その研究には、後に数学者ジョン・フォン・ノイマンも加わっている。当初の目的は、弾道軌跡計算を行うことだった。このプロジェクトはテストケースで、以降のプロジェクトであるEDVACやUNIVACのモデルになったという。ENIACは、プログラムが記憶できないため、新しいタスクには物理的な変更によって対処する必要があった。後にノイマンがプログラム記憶方式の概念をまとめることになる。しかし、その概念自体は、ジョン・エッカートとジョン・モークリーの成果によるものだったという。ここに、コンピュータ基礎理論が構築されたわけである。

3. UNIVAC I
1951年、世界初の商用コンピュータが、エッカートとモークリーによって製作された。メインメモリには、巨大な水銀遅延線を使ったという。そして、水銀管内に音波パルスを送り、それを検知して送り返すといったことをするらしい。その写真は、スクラップになったプロペラ機のエンジンを彷彿させる。この頃、記憶媒体としてテープドライブが登場する。ただ、顧客からすると、パンチカードはまだ目で見えるが、テーム媒体は目に見えないため、反発も激しかったという。当時のセールスマンの苦悩が目に浮かびそうだ。

4. Johnniac
1954年に製作された。給与計算、数値計算の他、チェスができるようにプログラムされたという。更に、OSは、タイムシェアリングを行っているというから興味深い。ただし、分単位のものらしい。また、磁気コアメモリにアップグレードされている点も注目すべきである。写真には、端末のキーボードが設置された大掛かりな装置が表れ、ファクトリーオートメーションといった印象を与える。

5. SAGE
1954年から63年に、アメリカ空軍とIBMによって製作された。ソ連軍の対航空戦略のために開発された。大型コンピュータのネットワークによって、レーダーからのデータをリアルタイムで分析し、情報をいち早く戦闘機に送るというもので、最初のリアルタイム対話型コンピュータである。また、最初にコアメモリが使われた。ディスプレイモニタ、モデム、ネットワークという革新的なハードウェアも搭載される。おもしろいのは、ライターと灰皿が組み込まれるところである。SAGE施設は、人里離れた地下200mの掩蔽壕の中にあったという。言われてみれば、自動車にライターと灰皿がついているのも奇妙な話なのかもしれない。最近の新車にはついていないようだ。愛煙家はますます住み辛い世界となる。

6. IBM System/360
1964年、IBMが互換性をもったファミリー機を登場させた。「互換性が全てを支配する」という目標の下にIBMは大躍進する。なによりも、同じ命令セットが使われるのが、ソフトウェアのアップグレードを容易にし運用性を高めた。マイクロプログラムを採用し、ROMに記憶されたマイクロコードが、アーキテクチャの違いに関わらずエミュレートする。このファミリー機のハイエンドは、アポロ計画や航空管制システムの基盤をもたらした。

7. DEC PDP-8
1965年、DEC社によって開発された最初のミニコンピュータである。いきなり、「セックスアピールのあるデザイン」という紹介があるが、そうかなあ?このマシンは、ユーザとの責任の共有、ユーザへの自己教育の促進といった哲学を提供した。当時のスタンダードはIBMの手法で、コンピュータの所有権を移転せず、リースして一切の改造を防ぎ、プログラミングを会社の認可した聖職カーストに限るというやり方であったという。しかし、DECのPDPシリーズは、これに従わず、むしろ改造、拡張を促していたという。なんとなくMSに従わない、オープンソ-スの精神に繋がるものを感じる。PDP-8は、パーソナルコンピュータとしては、ほとんど最初のものである。

8. Interface Message Processor
1969年、ARPANET向けに作られた最初のパケットルータである。ARPANETは、相互接続されたコンピュータによる世界というヴィジョンを持っていた。いわゆるインターネットの前身である。コンピュータそのものを規格化するという考えから、パケット側を規格化するという発想に転換された時代を思わせる貴重なマシンと言えるだろう。

9. Altair 8800
1975年に製作されたおもちゃ。当時、ほどんどのユーザが紙テープリーダを持たなかった。このマシンを買ってすぐにできることといったら、スイッチをパチパチさせてランプを光らせるぐらい。このマシンを持つことは、大きな想像力だけでなく、大きな忍耐力も必要だったという。このエピソードを読んでいると、なんとなくレーザーディスクを思い出す。大学時代、友人から画期的なマシンを手に入れたというから、何かと思ったらレーザーディスクだった。「レーザーディスクを見せてやるから遊びにおいで!」と自慢げに話すので遊びに行った。電源を入れる瞬間に緊張感が走る。しばらくすると、起動画面で「Pioneer Laserdisc」という文字が踊っていた。なんと、彼はソフトを一つも持っていなかったのである。確かに、見せてもらったのは「レーザーディスク」という文字だった。

10. Cray
クレイ・リサーチ社を設立したシーモア・クレイ。この配線の写真には、スーパーコンピュータへの情熱を感じ、Cray-1の姿には相変わらずの風格を感じる。

2008-08-03

"笹まくら" 丸谷才一 著

連続して素晴らしい文学作品に出会えて幸せである。最近、アマゾンのお薦めは精度が悪いような気がする。本を選ぶには、やはり立ち読みしてみるのが一番である。
本書は、素晴らしい趣向(酒肴)を見せてくれる。それは、現在と過去を自在に往来する文章構成である。文体の区切れもなく、何の前触れもなく、いつのまにか過去へ、いつのまにか現在へと。今宵は時空の移動を感じる純米酒がピッタリだ。

アル中ハイマーには文学センスが全くない。高校時代、国語や古典では学年で最下位を争っていた。試験問題では、作者が何を意図しているか?などと問われても、「知らんがね!」という態度を取っていた。そんなことよりも、読者の感覚を自由にしてもらいたいと願っていた。以来、文学作品は大嫌いになり、近寄りもしなくなった。親しい同級生には、「お前は国語が苦手なのではなく、試験問題に素直になれないだけだ。」と言われたものだ。この友人は、理系に進んでいるのになぜか数学が苦手だったが、文学の才能は抜群だった。数学に対する発想力もおもしろく、考えをヒントにさせてもらったことも多い。その奇抜な発想のために、混乱を招くことも多く、自ら蟻地獄に嵌りこんでいた。しかし、こういう人間こそ真の理系向きなのかもしれない。彼の最大の武器は根気強さである。これは、研究には欠かせない気質であり、羨ましく思う。おいらは、「お前は数学が苦手なのではなく、試験問題を解く効率が悪過ぎるだけだ。」と言い返したものだ。互いに、三角形の面積の解き方を何種類言えるかといった遊びで競ったりもした。幾何学的手法から、ベクトル解析、微分積分と、あらゆる方法で何十種類もでっち上げ、意地の張り合いをしたのが懐かしく思い出される。本書を読んでいると、なぜかそんな昔のことを思い出してしまう。それも、時代を自在に往来する時空の旅を見せてくれるからであろう。

「笹まくら」という題目は、鎌倉時代の歌から取ったものらしい。著者は、旅寝をしている時、かさかさする音が不安感に襲われると表している。時代は太平洋戦争。主人公は徴兵忌避者で国家から逃亡し、戦後まで生き延びる。そこには、やりきれない孤独や絶望を描いたアウトサイダーの物語がある。主人公は、戦後、問題にならなかった徴兵忌避が次第に噂され、勤務先で息苦しくなる。他人の生活を覗き込むような社会は、別の意味での軍隊生活。息苦しい戦後生活が逃亡生活と重なる。戦時中も戦後もたいして変わらないという意識を訴えているかのようである。おそらく著者は、日中戦争から太平洋戦争へと動く世論に反対の立場をとったのだろう。そう思わせる節がところどころにちりばめられている。著者は、自分自身と徴兵忌避者を重ね合わせる。著者自身が入隊し、戦地に送りこまれる前に終戦したという。
本書の注目すべきは、文章構成である。それは、戦時中と戦後を何度も自在に往来する。まさしく酔っ払いが、気分良く時空を散歩するかのごとく。本名と偽名の往来。戦時中に助けてくれた女性と、戦後の妻との対比。軍隊からの逃亡と、居場所のない戦後社会の対比。過去と現在の心の違いを放浪するテクニシャン振りは感動ものである。文学の世界には、このような技法があるのかと驚嘆させられる。だが、よく考えるとアル中ハイマーのてんでばらばらで時系列などない文章構成にも似ている。芸術と酔っ払いの領域は、隣り合わせの時空に存在するようだ。

1. 徴兵忌避者
物語は、逃亡生活を助けてくれた女性の死の知らせから始まる。主人公は社会復帰し大学職員として平凡に暮らし、既に戦後20年が過ぎていた。女性の死の知らせが主人公を戦時中へと連れ戻す。主人公は徴兵忌避者となり、家族にも友人にも知らせずに逃亡生活に入る。ラジオや時計の修理をしたり、砂絵師となって各地を転々とする。徴兵を忌避した理由は、自分が死ぬのが怖かったわけではない。人を殺すのが嫌だったと語る。戦争というものが生まれつき嫌いだったのだ。だが、家族や親類にも非国民の汚名が着せられる。逃亡中、母親の自殺。父親も早く参ってしまう。弟は憲兵に追いまわされ殴られ、結核で死ぬ。主人公は自らを責める。人殺しをしたくないと行動した結果、別の人を死なせてしまったという矛盾にやるせなさを感じる。徴兵制度は軍国体制の基礎で、それに逆らえば銃殺か危険な戦地に送られる。いずれにせよ死を運命づけられていた。戦後まで国全体を敵に回しながら逃げ通したのは奇跡である。皆の顔が、徴兵忌避者のせいで負けたと恨んでいるように見える。徴兵忌避者が勝利するとしたら戦争に敗れることしかない。にも関わらず喜べない。空虚な心。実は、生き残る可能性など信じていなかったことに気づく。笹の葉は、風が吹くにつれて、様々な色に微妙に変り、元の色に戻る。偽名で生きた人間は本名へ戻る。だが、本名に戻ることを恐れる。主人公は戦争が終わった後をどう生きるか考えていなかった。徴兵忌避者のせいか、社会を信じることもなく、異常な警戒感を持つ性格となっていた。一緒に逃げ回った質屋の娘の死。最後の一年間養ってくれた。もし、彼女がいなければ自首していたかもしれない。だが、ここで疑問が残る。なぜ、この女性と分かれたのか?国に逆らうことへ情熱を燃やしてきたが、戦争が終わった途端、二人の関係も終わる。過去を引きずることを嫌ったのか?少なくとも逃亡中には、その娘との小さな幸せがあった。小さな幸せを取り戻したいとでも思っているのか?現在に絶望し、過去を懐かしんでいる様が描かれる。

2. 戦後の光景
日本もここまで国力が充実した以上、そろそろ大国らしく原水爆を持って国民の誇りを高めるべきだという大新聞の論調が飛び出す。主人公は、意見そのものは酔っ払いの論旨であるとはねつける。戦後20年も経って、問題にされなかった徴兵忌避を、世間が急に咎めようという風潮が現れる。職場でも徴兵忌避者や卑劣漢と陰口されるようになる。そこに戦争反対派の学生が近づいてくる。彼らは赤新聞的で、右翼ジャーナリストの撲滅を訴える。ベトナム介入反対で徴兵忌避したアメリカ青年と共にアメリカ帝国主義に抵抗するように持ちかけられ、学生新聞の編集に加担させようとする。この時代、日本人の生活が贅沢になり、西洋と対等だと思うようになり、もう一度戦争をして、国威を発揚しようという思想が現れた様が語られる。それも、オリンピックみたいな気分で、日本全体の雰囲気が、主人公にとって不快なものとなっていた。しかし、昔、あれだけ世間に逆らったのに、いつのまにか世間の動向に助けられながら生きている自分に、空虚な気分でいる。

3. 戦時中の光景
逃亡中、炭鉱からの誘いもある。石炭会社は、犯罪者や徴兵忌避者を多く雇う。憲兵に渡したところで何の利益にもならない。弱みを持った労働者は歓迎できる。逃亡者も引け目を感じる。朝鮮人より待遇もいいし、祖国のために働こうと胡散臭く持ちかけられる。犯罪者が炭鉱で働くのも、誰にも見られぬ所へ逃れたいという深層心理が働くのだろうか?光を避けるように、暗い所を求めるのだろうか?主人公は、徴兵忌避した理由を追い求める。アメリカ相手の戦争の意味とはなんだったのか?単なる意地か?アジア諸国の独立と称して大東亜戦争と叫び、戦争を擁護する人も多い。民族の自由を掲げ、戦争を正当化した論調はどこにでもある。主人公は戦時中孤立していた。そして、今も徴兵忌避の過去から孤立している。この光景は、戦後の近代社会が人々を孤立させている現象を暗喩しているかのようにも見える。いろんな理由付けを探しても、結局、軍隊が嫌いだったという理由に帰着するのではないかという疑惑。軍隊の習慣である往復ビンタが嫌だった。人間はあらゆるものへの反抗を正当化するために理屈づけをする。ほとんどの反抗的行為が、単純な気分によるところが多い。アル中ハイマーが仕事を拒否する理由も、単に面倒だからである。

4. 青年たちの議論
二・二六事件については、天皇親政に帰るための方法として仕方が無かったという論調が登場する。そもそも、天皇親政などという時代は、大昔から日本史にはないではないかと議論が始まる。少なくともエリートたちに、天皇陛下が日本を治めるなんて信じる者はいない。百姓の息子を戦死させるために都合良くした教えに過ぎない。一人の学生は、天皇信仰は無知な大衆向けの国家論だと主張する。国家の目的とは何か?その目的は、戦争以外にはないんじゃないか。国民の幸福や、文化の発達は見せ掛けの目的ではないのか。スパルタは戦争愛好国で、アテネは文化愛好国というのは間違いで、どちらも戦争が目的の国ではないか。偶然にも文化が生まれただけのことで、文化国なんてものは存在しないんじゃないか。といった議論が展開される。明治維新以来、戦争ばかりやっているから、こうした議論も自然に見える。国家とは資本家のものか?政府は浪費ばかりしている。資本家は利潤のために浪費を願う。ここで、主人公は、国家とは無目的なものだと発言する。国家は、内的な緊張、党派の争い、階級の争いが起こりやすい。したがって、外的緊張が必要である。戦争が起こりそうだからといって挙国一致内閣を作るのではなく、挙国一致内閣をつくるために戦争を起こすのだと語る。そして、徴兵忌避の方法を論じる。銃が撃てないように、右手の人差し指を切り落とすとか、気違いを真似るとか、病気を装うとか、そして、アル中になるのもよいだろう。