2008-01-28

"論理哲学論考" Ludwig Wittgenstein 著

アル中ハイマーは岩波文庫を立ち読みするのが好きである。待ち合わせをする時、「どこどこ書店の岩波文庫の前」というのをよく使う。
本書はなんとなく題目に惹かれて買った。アル中ハイマーも論理的な思考は嫌いではない。ただ、人間は感情の動物でもあるので、バランスしないと中傷することにもなる。論理が万能なわけでもない。時には無力感に襲われる。論理だけで物事を語ると、範囲は限定的となる。アル中ハイマーは、哲学の意義とは何か?論理的な思考が真理に近づけるのか?といった疑問を、昔から持っている。正しい論理が真理であると語るならば、真理に近づくためには、人間の存在意義や宇宙の存在意義を語らなければならない。そんなものが語れるのだろうか?論理で目くじらを立てることの意義とはなんだろう?こうして酔っ払いの宇宙は拡散し続ける。本書の解釈には、広がりを見せそうだ。自己意識の確認にもできる。多分、10年後に読むと違った世界が見えるだろう。

本書は、哲学の諸問題を扱っている。そして、以下の言葉から始まる。
「ここに表される思想、ないしそれに類似した思想を、既に自ら考えたことのある人だけに理解されるだろう」
哲学の諸問題が、言語の論理に対する誤解から生じることもある。言語で論理的に命題を解くにしても、言語の限界からニュアンスの違いによって、明確にできないことも多い。時には、国語辞典でさえ無力である。もし、言語に限界があるならば、辞書にも限界があるということだ。人間という複雑系は、言語にもよく現れる。同じ言葉でも、良い印象と悪い印象を与えることもある。論理的思考の優れた人間は、自らの間違いがないことを念入りに検証するので主張が強い。だが、実際は言語というものは、それほど万能でもないのである。アル中ハイマーは、しばしば思考したことを表現できなくて悔しい思いをする。酔っ払いの場合は、単にボキャブラリーが無いだけであるが、議論する時、的を得た言葉を探すのは難しい。いかにも論理的に見える突っ込みは、もはや人を傷つける。思考は言語によって偽装され、比喩は揶揄となる。こうしてアル中ハイマーは無神経の代表となる。人を傷つけるだけならば当人だけの問題で済むが、公然となれば周りの人々をも不快にする。
本書は、「思考」対「論理」、もっと言うならば、「思考の表現の限界」対「論理」の対決と見て取ることができる。また、本書は哲学書ではあるが、数学的でもある。著者ウィトゲンシュタインは、フレーゲとラッセルの影響を受けていると自ら語る。思考の表現を明確化するためには、明確な言語が必要である。はたして、完全に正確に表現できる理想言語というのは存在するのだろうか?こうした問題に哲学者や数学者たちが立ち向かい、思考を表現する限界にぶつかってきた。外面的には、思考の限界は、思考の表現の限界に等しい。だが、その限界を意識できるということは、思考自体は、その言語の限界の境界線をまたいでいることになる。一方で言語を芸術の領域へ持ち込める人間がいる。到底論理的とは思えないものが、心を癒してくれる。いや、一見論理的には思えないだけであって、実は論理に従っているのかもしれない。だから人間の心を刺激できるのかもしれない。

1. 理想言語とは
本書の意義は、以下の言葉で要約できる。
「およそ語られうることは明晰に語られうる。そして、論じえないことについては人は沈黙せねばならない」
沈黙せねばならないというのは、沈黙のうちにそれを引き受けて生きるということである。哲学の問題でよく語られるのが、自我は実在するのか?というのがある。大デカルトは、自我の実在を証明できれば、神の存在も証明できると言った。所詮、証明できないものが多く存在する。そもそもこうした問題に意味があるのか?本書は、世界は全ての要素命題の列挙によって、完全に記述できると語る。確かにそうなのかもしれない。少なくとも論理によって決定される問題は、論理のみによって解決できるだろう。しかし、それが真理に近づけるものなのか?本書は、記号体系で曖昧さを排除するための条件を示そうとする。論理記号を組み合わせた時に、それ自体に意味があるかどうか?ナンセンスにならない条件とは?その意味が一つに定まる条件とは?著者は考察する。これが、理想言語なのかどうかはわからないが、そうした状態に近づこうとする。では、矛盾はナンセンスなのだろうか?世の中は矛盾で成り立っているではないか。真理関数を順番に解き、真偽をさまよい続け、ついには確率論へすがる。複雑系は、確率論でしか語れないのかもしれない。

2. 哲学とは
本書は、哲学の意義についても触れる。ざっと言葉を拾うと。哲学は自然科学ではない。哲学の目的は思考の論理的明晰化である。哲学は学説ではなく活動である。哲学は思考可能なものを境界づける。認識論は心理学の哲学である。などなど。しかし、哲学者たちが、非本質的な心理学研究に巻き込まれていると嘆く。
「哲学的について書かれた命題や問いのほとんどが、誤っているのではなく、無意味である」
極度に凝縮された哲学には、危険が満ちている。著者自身の方法論にも、その危険性があると語る。哲学を教える正しい方法は、ただ自然科学の命題のみを語ること、そして、可能なかぎり明晰さと緻密さで語ることであると主張する。その際、哲学的主張は学ぶ側に委ねられ、教師はその哲学的主張が無意味であることを示すだけでよいと語る。はたして思考には、主体があるのだろうか?世界には、形而上学的な主体が認められるだろうか?著者は、唯一語れないものは、その主体であると認めている。示すことができても、語ったことにはならない。人間は死を経験できないと語る。経験とは、過去に起きたことを認識することであるならば、死を認識できないだろうから、経験できないと言っても良いかもしれない。いや、ひょっとしたら、経験できる世界が存在するかもしれない。

x. 「偉大なる悪手」(おまけ)
この項は、本書とは無関係である。論理思考のゲームに囲碁やチェス、将棋などがある。ゲームが進むにつれ、囲碁は碁石のおける目が減っていく。チェスは駒が減っていく。よって、互いに終盤に近づけば静かになっていき、収束するゲームと言えるだろう。ところが将棋は升目が減るわけではない。駒も手持ちにすれば可能性も広がる。入玉を許せば、詰ますのも限りなく不可能となる。よって、終盤になれば激しさを増し、拡散するゲームと言えるだろう。ここが将棋の魅力でもある。
先週、タイトル戦の一つである王将戦第二局「羽生王将 vs. 久保八段」が行われた。後手久保八段の中飛車で超急戦型となった。昨年12局指されて先手の5勝7敗と、後手有利とも言えるデータである。ただ、後手が負けた5局のうち、4局が久保八段が指したものらしい。そのうち3局が対羽生戦、残り1局は渡辺戦。久保八段にはトラウマになりそうな戦型だが、この大舞台であえて挑むところは敬意を表したい。角交換になって、久保八段は自陣から角を打って飛車を牽制し馬を作る。羽生王将は5五桂で馬道を止める。ここまではよく見られる形だが、注目すべきは、次の久保八段の指した5四歩。これは、昨年の棋聖戦第四局「渡辺竜王 vs. 佐藤棋聖」で、佐藤棋聖が指して話題を読んだ新手。一見、渡辺竜王有利と思えるが、佐藤棋聖が指すと重みがある。結果的に佐藤棋聖が勝ったが、「偉大なる悪手」と評された。
この対処に、羽生王将は、6三桂成から9六角打で、あっさりと攻める。この9六角が成立しているかどうかは、今後の研究で明らかになるだろうが、鋭い一手に感動した。王将戦は二日制だが、初日で早くも羽生王将優位となった。酔っ払いのような素人が見ても、安心して見られる展開だから、トッププロのレベルからして、差がはっきりしているのだろう。残り時間を互いに1時間以上余していることからしても想像がつく。それでも、久保八段の粘りの手には関心させられる。ひょっとしたらミスを誘って逆転もあるかとも思わせたが、やはりこのクラスは甘くはない。今回の勝敗はあっさりしていたが、トッププロの盤面を通しての対話はおもしろい。

2008-01-23

"国際金融危機の経済学" Jean Tirole 著

アル中ハイマーが本屋で本を買う時は、立ち読みをしないわけがない。少なくとも前書きは読むはずだ。ところが、本書は読まずに買ったのだろうか?酔っ払いの衝動を自覚できるはずもないが、10冊ほどまとめ買いした中に紛れ込んでいる。本書は、翻訳の波長が合わないのか?内容が合わないのか?いまいちリズムに乗れない。行間が広く文字も少ない上に、170ページほどで一気に読める量だが、なかなか前進できない。それほど難しい本とも思えないのだが、度々読み返す場面に出くわす。せっかく減った煙草の量も増えてしまう。どんな分野でも専門用語が登場するのは当り前である。ネット社会の住民はその都度検索するので、それほど抵抗を感じることはない。それでも本書は、情報が断片的に脳を刺激するので、いまいち要点がつかめない。そもそも酔っ払った脳とは、文章が脳細胞まで到達しないものである。せっかく立派な事を書いてくれている著者には失礼であるが、後書きに頼りながら読んでいる。学者向けの本なのだろうか?素人が読んではいけないのかもしれない。

本書は、数々の世界経済危機の解釈から、国家の金融活動を効率的に行うための方策について議論している。その中で、まず、経済学者の思考パターンを概観してくれるところはありがたい。そして、国家が外国投資家から融資される仕組みについて述べられ、通常の企業金融との違いは、重複代理人と共通代理人の存在であると語られる。この二つの存在以外は、通常の企業金融と同じであるという前提で書かれている。著者は、重複代理人、共通代理人の観点からの研究の蓄積を訴えている。

1. 重複代理人
国家が外国投資家から融資を受ける場合、政府が窓口となり、民間へ配分されることになるが、実際には、その民間と外国投資家との間には契約が存在する。重複代理人とは、外国投資家の収益を担う役割が、政府と民間の複数が存在する状況である。外国投資家は民間との契約によって監視機能を果たせるが、政府とは契約を結ばない。そもそも政府は、その国で選出されるのであって、国民を優先するインセンティブが働く。政府が外国投資家に利益供与をもたらさない可能性だってある。本書は、外国投資家と政府とが運営上の契約を結べないことが、市場の失敗の原因であると語る。しかし、政府が国内を優先し過ぎる傾向にあれば、外国投資家から改善要求が出されるか、資金を引き揚げればいいだけのことである。もし踏み倒そうものなら社会的制裁を受ける。ただ、政府というのは政権交代する。自分の時代だけ乗り切ろうなんて政治家もいる。そして、後世に問題を押し付けて、自分の時代は良かったと思い出に耽る。経済活動に政治不安によるリスクはいつも付きまとう。

2. 共通代理人
本書は、政府が、複数の貸し手から借り入れた場合も、市場の失敗を招くと語る。それは、貸し手との融資契約が、他の貸し手とのバランスを欠いた時である。融資内容のミスマッチや、モニタリングの不公平さが生じる。そこで、共通代理人を立てれば効率良くなるだろう。では、その役割は誰が担うか?IMFのような国際機関が望ましいと語る。しかし、国際機関も旧態依然たる人事を繰り返す。IMFの長を務めるのは、決まってヨーロッパ人。世界銀行の長はアメリカ人。しかも、各国の代表は、その国の特定の産業や金融機関の利害関係に結びついた人間である。各国の思惑が入りすぎて、中立の立場を保持するのも難しいだろう。

んー!今宵はいまいち気が乗らない。
気分転換に学者気分で難しく語ってみよう。
ドリフのもしものコーナー!もしもアル中ハイマーな学者がいたら!

経済学はイデオロギー論争の中で迷走している。この学問は、人間の行動や社会システムを相手どった極めて高度な複雑系の中にある。しかし、無謀な体系化よりは、迷走していることを認識できる方が都合が良い。この世界を一つのイデオロギーで説明できるとは到底思えないからである。科学界は物理法則に不確定性な要素があることを認めた。数学界は算術の世界ですら不完全性の存在を認めた。計測不能だからといって、確率論という道具を用いて解析しようと努力している。多くの微分方程式が解けないと認めつつも、極限に近づくことを諦めたわけではない。ところが、イデオロギーというやつは一筋縄ではいかない。絶対に自らの主張が正しいという姿勢を崩そうとはしない。社会を良くするために考案された政治という人類の産物は、しばしば社会にとって悪しき作用をする。資金の流れを良くするために立案された政策は、リスクの高い場所から刺激が始まる。それは、人間の欲望という領域である。必要な規制と緩和がバランスしなければ受け入れ難い不平等を助長する。そして、社会不安を呼び起こし、経済は歪んだものとなる。GDPのような経済成長の指標は、あくまでも総合指数に過ぎない。平均値が判断の対象となれば、現象そのものを考察することを諦めたことを意味する。もし、人類が自然法則を受け入れるならば、時間はかかるだろうが、いずれ収束を見せるであろう。それは「臨機応変」という新概念へと。

だめだこりゃ!次いってみよう!

2008-01-18

"生物と無生物のあいだ" 福岡伸一 著

本書はアマゾンのお薦めにあった。前記事で「ゲノムサイエンス」を読んだからである。アル中ハイマーは、科学の分野で生物学ほど嫌いなものはなかったが、この本のおかげで少し興味が持てるようになった。そして、なんとなくショッピングカーをクリックしてしまう。酔っ払いはネット商法に引っかかりやすい。
本書は、科学と文学を融合したような本である。それを期待して買ったのであるが。文章もなんとなく癒してくれるところがある。本書は、「生命とは何か?」という問いに対して、「生命とは自己複製するシステムである」という答えに到達するまでの物語である。生命体はプラモデルのような静的なパーツから成り立つ分子機械ではない。パーツ自体が動的なモデルである。その中で、生物を無生物から区別するものはとは何か?人間が食べ続ける意味とは何か?という問題を、人間の生命観から考察していく。

1. 野口英世像
野口英世の研究業績の包括的な再評価は、彼の死後50年を経て行われてきたことを紹介してくれる。アメリカ人研究者イザベル.R.プレセットによると、彼の業績は今日意味のあるものはほとんどないという。当時、そのことが誰にも気づかれなかったのは、サイモン・フレクスナーという大御所の存在によるものらしい。彼が権威あるパトロンとして野口氏の背後に存在したことが、批判を封じ込めたと結論付けている。むしろ、ヘビー・ドランカーやプレイボーイとして評判だったようだ。生活破綻者としてのイメージがあるが、日本では偉人伝として神秘化されている。その証拠に千円札の肖像画にもなった。野口英世の時代は、世界はまだウィルスの存在を知らなかった。黄熱病も、狂犬病も、その病原体はウィルスによるものである。

2. ウィルスとは何か?
ウィルスは単細胞生物よりずっと小さい。栄養を摂取することがない。呼吸もしない。二酸化炭素を出すことも、老廃物を排泄することもない。いっさいの代謝を行わない。ウィルスはただの機械分子のように見える。しかし、単なる物質と一線を画す唯一の特性が、自らを増殖させることができることである。ウィルスは自己複製能力を持つが、単独では何もできない。細胞に寄生することによってのみ複製する。細胞に対して自身のDNAを注入し、細胞はそのDNAを自分の一部だと勘違いして複製する。新たに作リ出されたウィルスは細胞膜を破壊して外へ飛び出す。ウィルスは生物と無生物のあいだをさまようかのようである。ウィルスが生物か無生物かという論争はいまだに続いているようだ。

3. DNAの二重ラセン構造
昔、遺伝子の本体がDNAではなく、タンパク質であるという論調が強かった。タンパク質はアミノ酸を数珠つなぎにした物質であり、この複雑な配列こそ遺伝子情報であると考えられていた。そんな時、オズワルド・エイブリーが登場する。彼は、DNAの二重ラセン構造を発見し、DNAが細胞から細胞へと遺伝情報を運ぶことを示した。そして、構成要素の組み合わせを法則としたのが、シャルガフである。だた、ノーベル賞を受賞したのは、ジェームズ・ワトソンとフランシス・クリックである。彼らが、DNA配列を解明したと発表し、おいしいところを持っていったようだ。
DNAは、長い紐状の物質であり、強い酸の中で熱すると、その長い紐のつながりが切断されて、構成要素がバラバラになるという。その要素は、A,C,G,Tの四文字しかなかった。遺伝子情報は構成要素そのものではなく、その配列にある。更にそれぞれの文字は必ずペア構造をとる。重要なことは、DNAがラセン状に存在することではなく、ペアで存在することにあるようだ。これは生物学的に情報の安定を担保することになる。一方の文字列が決まれば、他方が一義的に決まる。二本のDNA鎖のうちどちらかが部分的に失われても修復することができるということである。生物が進化の過程で、過酷な生存競争の中で構築してきたシステムである。二重ラセンという美しいペア構造が、自己複製機構を示唆する。それは、互いに他を写し出し、それぞれラセン状のフィルムに遺伝子情報が暗号化されている。タンパク質の構造は、そのアミノ酸配列に依存し、アミノ酸配列はDNAの塩基配列に暗号化されてゲノム上に書かれているということらしい。ヒトゲノムは30億個の文字から成り立っているという。

4. シュレディンガーの問い
ここで、なぜか物理学者のシュレディンガーの二つ問いが登場する。「生命とは何か?」「なぜ原子はそんなに小さいのか?」逆に言うと、人間の体は、なぜ原子に比べてもこんなにも大きいのか?生命現象が全て物理法則に従うとすれば、様々なランダムな原子運動があるにも関わらず、生命が秩序を構築できるのは不思議である。その中に、人間の大きさの理由もあるはずだと語られる。ランダムな原子運動は、ある膨大な量が集まって、平均的なふるまいをし統計的な法則に従う。安定するためには、秩序を守るためには、エントロピーは増大する方向だろう。秩序を守り続けるために、絶え間なく体内で壊され続けなければならないのか?これがものを食べる原理なのだろうか?
シェーンハイマー曰く。
「生命とは、代謝の持続的変化であり、この変化こそが生命の真の姿である」
アル中ハイマー曰く。
「幸福とは、飲酒の持続的行動であり、この行動こそが幸福の真の姿である」

5. 食べるということ
タンパク質のアミノ酸が外部から吸収され、次々と入れ変わっていく様は、食べることの意味を教えてくれる。絶え間ない合成と分解が繰り返される。そして傷ついたタンパク質や変性したタンパク質を取り除き、これが蓄積するのを防ぐ。これが秩序を守るということのようだ。脂肪でさえも、アル中分子でさえも。ただ、おもしろいのは、食料からして自分のDNAとは全く違うものを採取している。そこから必要なものを吸収し、不要なものは排泄する。自分のDNAに合ったものを選んで吸収できるということなのか?生物の神秘はますます広がる。しかし、蓄積速度よりも排泄速度が遅くバランスが崩れた時、蓄積されたエントロピーが生命を危機に追い込む。その典型が、タンパク質の立体構造が変化して引き起こされるプリオン病であるという。その代表が、アルツハイマー病、狂牛病、ヤコブ病なのだそうだ。ここで、おいらは疑問にぶつかる。これだけ合成と分解の繰り返しが起こるのに人間はなぜ老化するのだろうか?遺伝子に細胞の合成と分解の繰り返し回数でも記録されているのだろうか?

ベロンベロン状態とは、エントロピー最大な状態である。それは、アル中ハイマーにとって、極めて気持ちよく自然であるからである。ランダム性から体内秩序を保つために飲み続ける。そして最期には飲まれる。
「飲んで!飲んで!飲まれてー飲んで!」

2008-01-11

"ゲノムサイエンス" 榊佳之 著

アル中ハイマーは、科学の分野で生物学ほど嫌いなものはなかった。用語の発音のリズムが合わないからであろう。学生時代の先生が嫌いだったせいもあるかもしれない。よって、アミノ酸やタンパク質と聞いただけで拒否反応を起こす。それでも、気まぐれで本書を手にしてみた。それも、ブルーバックス教の信者だからかもしれない。本書でも苦手な用語が登場するが、記号と思って目で抽象化する技を磨いたので思ったより苦にならない。本書のおかげでこの分野に少し興味が持てるようになったのはありがたい。

生体を分解すると、暗号として機能するDNAと、これに組織され制御されるタンパク質からなる。アル中ハイマーが生物創造のアルゴリズムで、神秘的で興味深く思えるのは、一個の細胞から有機体が形成されることである。DNAの役割は、遺伝情報を伝えることである。生物の基盤はタンパク質であり、更に、様々なアミノ酸からできている。このすべてがDNAというアルゴリズムの指揮のもとでスケジューリングされる。驚くべきは、DNAは不死身だということである。しかも、複製ミスをも二重らせん構造によって互いに補完しあう仕組みは、いかにも神秘的である。これは、未来を洞察するように設計されているというのか?人生の冒険をも、DNAでスケジューリングされているとしたら、まさしく運命には逆らえない。ならば、このアルゴリズムを、純米系の成分によって逆転させてみたい。髪の毛が戻り、肌の張りが戻り、不幸な結婚生活が逆戻りできれば、誰もが幸せを感じられるだろう。アル中ハイマーは、純米系の成分で自らのDNAを操作し、パラレルワールドでハーレムの世界を生きようと試みるのである。さあ、今日もいい感じで酔ってきたところで、本書のまろやかなところを摘んでおこう。なぜかって?そこに純米酒があるから。

1. 遺伝子ってなんだ?
アル中ハイマーは、遺伝子というと、先祖から受け継がれる形質や性質といった概念ぐらいしか思いつかない。それが分子生物学によって、物質としての実体解明が進む。ヒトの体は、約60兆個の細胞で構成されているという。その中で、生殖細胞や赤血球細胞などの特殊な細胞を除いて、すべての細胞は核の内部に全く同じDNAを持っているらしい。これは、A(アデニン), G(グアニン), C(シトシン), T(チミン)の組み合わせに支配される。ヒトのDNAには2万以上のタンパク質をコードする遺伝子が存在する。しかし、細胞内では、タンパク質コード遺伝子は、いっせいに働くわけではない。臭いを識別する嗅覚受容体遺伝子は嗅神経細胞でのみ働き、水晶体を作るクリスタリンというタンパク質を作る遺伝子は目でのみ働く。遺伝子はそれぞれの役割に応じて、必要な時に必要な場所で必要な量だけ、タンパク質を生産するように制御される。また、タンパク質をコードする遺伝子ばかりではないらしい。

2. 遺伝子操作
遺伝暗号表は、地上の全ての生物に当てはまり、全てが一つの祖先から生まれたことを証明するという。はさみとのり、遺伝子組換え、DNA断片を人為的に編集するなど、遺伝子操作の話はおもしろい。生物のゲノム地図を作るとは、気が遠くなりそうだ。遺伝子の組換えとは、全身の細胞を組み換えるのだろうか?全細胞に自然増殖させるのだろうか?ヒトDNA断片を持つ大腸菌の集団、すなわちヒトDNAライブラリというものがあり、これを組み換えるのだそうだ。これを取り出して、別のものに組み込めばクローンもできるわけだ。大腸菌が持つ乳糖を分解する酵素は、必要な時に必要な量だけ合成できるように複数の遺伝子が協調して調整する仕組みがあるという。これを利用して細胞を転写していくのだそうだ。

3. ヒトゲノム計画
世界規模の遺伝子研究プロジェクトを紹介してくれる。1996年バミューダ会議が開催される。参加国は米英日仏独の5カ国。基本方針は、個人の利益を追求するものではない。データは即時公開。データ利用に制約は無し。特許権など権利を主張するものではない。参加する特定グループや特定の国だけで利益を得るものであってはならない。などなど、まさしく人類規模の方針が並ぶ。これを「バミューダ原則」というらしい。
しかし、この国際チームの方針とは異なる戦略で民間企業がヒトゲノムの解読作業を始める。そして特許を取ったり、金を出したグループにだけデータを提供する。クレイグ・ベンター氏が率いるセレラ・ジェノミクス社である。民間企業がやや優位になると、国際チームは米英で勝手に方針転換する。これにドイツが異論を唱える。そして、理想主義のバランスが崩れ、日本も方針転換を迫られる。民間の機動性と官僚的行動の鈍さ、あるいは、民間の傲慢さと理想主義、といった対立構図はどこにでも見られる。また、政治的にも利用される。ヒトゲノムのドラフト配列の解読が完了した発表も、2000年に世界的イベントとして、米英主導で政治パフォーマンスとして行われた様が語られる。そのセレモニーでは、クリントン大統領、ブレア首相が参加する中、日本では森首相が総選挙で忙しかったようだ。せっかくの世界的技術に貢献した日本の研究者達も、政治的戦略で影に追いやられたのは苦々しい経験であると、著者は悔しそうに語る。そうした中、日独が中心に二十一番染色体の配列を決定する。各国で政府高官が盛り上げている一方で、日本の研究者達は政治的にはうまく振舞えなかったと語る。

4. 様々な遺伝子
遺伝子には様々な役割があるようだ。細胞の活動を支える遺伝子、形態形成、頭、手足、そして臓器などの体を形成する遺伝子、体全体の活動を調節する遺伝子などなど、臓器の活動をバランスする。酒飲み遺伝子についても触れている。アル中ハイマーとして反応しないわけにはいかない。酒をいくら飲んでも平気な人と、全く飲めない人がいる。これは、ゲノムの中のたった一塩基の個人差による。酒を飲むとアルコールは体内でまずアルデヒドに変わる。そして、アルデヒド脱水素酵素の働きによって更に水と酢酸に分解される。ところが、この過程の中でアルデヒドを分解するアルデヒド脱水素酵素をコードする遺伝子配列のたった一塩基の違い、すなわち487番目のグルタミン酸をコードするGAAという配列のGをAに置き換えてAAAという配列で受け継がれた人は、酵素が充分に働かないため、体内にアルデヒドがたまり気分が悪くなる。逆に、このAをGに置き換えれば、アル中ハイマーにもなる。

本書とは関係ないが、鎌形赤血球遺伝子の話を聞いたことがある。
アフリカのマラリア発生地域と鎌形赤血球遺伝子分布には強い相関がある。この遺伝子を持つと赤血球が鎌形に変形して酸素運搬機能が低下し、貧血症が起こる。逆に、鎌状赤血球にはマラリア原虫が寄生できないという優位性もある。マラリアに強い遺伝子を生物の進化の過程で見事に作り上げたのだ。正常な赤血球と鎌形赤血球の両方の遺伝子を引き継ぐと病気に強くなりそうだ。病気に強いなどの遺伝子に恵まれる一方で、五体満足でない人が確率の低いところで存在する。DNAの複製段階で、生命に致命的ダメージを与えるものや、機能面で何らかの支障をきたすものもある。これは、生物学的にも統計学的にもやむをえないだろう。障害者がいる家庭では、無神経な親類から、相手の家系の遺伝子のせいにする輩がいたりする。おいらも身近に知的障害者がいるが、昔は幼いながらもムカついたりしたものだ。こうして反社会分子という遺伝子を引き継ぐのである。
全人類のヒトゲノムは99.9%が同じで、0.1%程度の個人差があるという。この配列が、何世代にもわたって誤差として蓄積され、更には、父方と母方の混合物から創られる。この偶然は、人間が好む差別の存在など、全く無意味であるように思える。DNAの複製の過程で、極めてまれに起きる複製ミスによって生じるからである。

21世紀は生命科学の世紀と言われているらしい。
遺伝子研究が進めば、病気のみならずあらゆる面で優位になろうとするだろう。人間の欲は計り知れない。科学の進歩とともに遺伝子売買が始まるかもしれない。その時は、遺伝子に格付けがなされるであろう。価格も違ってくる。オークションでも登場する。人間は、他と差別するのが好きな動物だから、学歴差別のごとく遺伝子差別なんて問題が起きるかもしれない。長寿遺伝子、スポーツ遺伝子、学者遺伝子などなど。今月の流行遺伝子なんて雑誌が出回るかもしれない。食材は天然ものが良いとされているが、そのうち天然ものが馬鹿にされる時代がくるかもしれない。そして、天然の人間が姿を消し、遺伝子格差社会の登場である。しかし、酒の肴で喰うさしみは天然物の方が美味い。

2008-01-05

"人類の住む宇宙 シリーズ現代の天文学(第1巻)" 日本天文学会 編

今年2008年は、日本天文学会の創立100周年だそうな。その記念に刊行されたのが「シリーズ現代の天文学」全17巻である。いや、まだ7巻しか刊行されていない。第1巻だけ読んだ時は、なかなかおもしろいので、全巻揃えて17記事を掲載しようかとも思っていた。しかし、第1巻以外は難しい。アル中ハイマーにはお茶を濁すことぐらいしかできない。
天文学の書籍といえば、カール・セーガン著の「COSMOS」を思い出す。学生時代、どこぞの放送局が特番でやっていたのに魅せられて買った。本棚を探してみると、おっー!あるではないか。てっきり古本屋行きだと思っていたが奇跡である。1980年刊行!そんなに昔なんだ。アホな頭脳を顧みず宇宙物理学やらに夢を描いていた時代である。当時、アル中ハイマーは高台に住んでいた。街が一望でき、夜景が綺麗なのが自慢だった。ただ、幼稚園の遠足コースでもあり、雪が降ると動けないので馬鹿にもされた。妙に脚力があったのは毎日登山していたからだろうか?深夜、天体観測と称して友人の望遠鏡を持ち込んで遊んだものだ。今思えば、近所の住民から避けられていたような気がする。「のぞき」と間違えられたのかもしれない。徹夜で盛り上がり、カップ麺がうまかったのを思い出す。定番は「赤いきつね」と「緑のたぬき」だった。当時を思い出して喰いたくなった。記事を書く前にちょいとコンビニへ行ってこよう。

天文学のテーマといえば「人類とは何者か?どこからきたのか?どこへ行くのか?」第1巻は、この疑問に対する答えを探ろうとした人類の願望を語り、シリーズの序章の位置付けにある。天文学の意義、哲学的な宇宙観から始まり、膨張宇宙のビックバンへと、観測と想像の歴史を振り返る。科学は宗教の影響を受けた歴史がある。宗教的立場は、主張の異なるものを異端宗教と考える。宗教が道徳を説くと主張する宗派ほど、紛争がお好きなようだ。どの主張も正統性に基づいていると信じているから質が悪い。そして、科学も一つの異端宗教と考えられた。地動説を主張したガリレオは宗教裁判にかけられた。主張するのは勝手だが、なにも押し付けなくても。これが神の創造物である人間の正体か?神も随分と罪なことをなさる。と、独り言は置いといて、アル中ハイマーの疑問に合わせて本書を追ってみよう。

1. 宇宙の起源とは?
宇宙は時刻ゼロに、物質、エネルギー密度が無限大に発散した状態から始まる。無からの創生である。何らかの方法で極微の時空さえ作れば、インフレーション理論によってビックバン宇宙へと発展する可能性があるという。このインフレーション理論、酔っ払いには、いまいちよくわからない。物質のエネルギーは運動エネルギーと位置エネルギーの合計である。これは物理学を専攻すれば習う基本法則である。つまり、運動しなければ全てが位置エネルギーというわけだ。ところが、量子論では、どんなに運動を小さくしてもこれ以上小さくできない運動エネルギーが残るという。この最低状態の運動をゼロ点振動と呼ぶ。無とは、体積ゼロであるから全エネルギーはゼロ、時空の大きさもゼロのはずだが、量子論的にはゆらぎが存在する。これがゼロ点振動のエネルギーというわけだ。この無から虚時間に量子的ゆらぎが生じ、ゼロエネルギーが膨張して、実時間の世界を創る?とかいう説明がなされる。虚時間で膨張したエネルギー反応が、その反動で実時間に飛び出して、膨張を続けるのが宇宙創生モデルである。やっぱり酒がないとアル中ハイマーには解釈が難しい。スコッチでも飲んで体を揺らすことにしよう。

2. 天体までの距離はなんで分かるの?
本書でも天体を知るには距離を調べることが重要であるが、難問であると語られる。「宇宙の距離はしご」という言葉で紹介されるが、計測方法には全ての天体に応用できる測定法がないようだ。よって、近傍から遠方へと手法をつないでいく。簡単にそのステップを追ってみよう。
(ステップ1: 太陽までの距離)
惑星(水星、金星、火星)までの距離をレーダー法により測定し、ケプラーの第3法則「惑星の公転周期の2乗は、惑星の軌道半径の3乗に比例する」を用いる。惑星の軌道半径と地球の軌道半径の比は、惑星の公転周期と地球の公転周期の比から求まるようだ。ちなみに、太陽までの距離を1天文単位(AU)と呼ぶらしい。
(ステップ2:太陽近傍の星までの距離)
年周視差。よく知られる三角測量である。離れた2点において、別々に見える方向の角度を計測するのだが、地球内の2点では距離が近すぎる。よって、地球が移動する場所から2点を選ぶ。
(ステップ3:標準光源法による近傍銀河の測定)
「宇宙の距離はしご」の基本であり、既知である天体の真の明るさを基にして、天体の見かけの明るさを測定することにより距離を求める。これが標準光源法である。見かけの明るさは、真の明るさに対して、距離の2乗に反比例して暗くなっていく。よって、見かけの明るさと真の明るさが分かれば距離が求まる。
(ステップ4:遠方銀河までの距離)
ある明るさの天体がどれくらいの個数存在するかを表す関数を光度関数という。この光度関数がガウス関数で近似され、そのピークの明るさがどの銀河の球状星団でもほぼ一定であることがわかっているらしい。このピークとなる明るさを標準光源として用いる。

「宇宙のはしご」とは、なんとも夢心地でええ感じである。夜の社交場をはしごすると店間距離が求められるが、千鳥足というゆらぎによって誤差は計り知れない。

3. 物質の根源とは?
元素で一つの章をさいてくれるのは、学生時代の化学を思い出させてくれてうれしい。昔、化学で落ちこぼれた原因に、安定元素と放射性元素の存在がある。永遠に安定しつづけるとはどういうことか?宇宙がビックバンから発生し、それが永遠とは矛盾しないのか?なぜ、特有の寿命を持ち、いずれ放射線を放出して他の元素に移り変わるものがあるのか?核子の質量が小さければ、それだけ安定エネルギーは小さくてすむ。とはいえ質量は存在する。エネルギーは尽きないのだろうか?
本書は、単独の中性子が存在し続けるために必要なエネルギーがいかに大きいかを教えてくれる。軽い核種から核融合により重い核種に変化する。核反応の前後で質量差に相当するエネルギーが解放される。核融合反応に必要な条件として、この核種によるエネルギー差に加えて、原子核内に存在する電荷の間で引き合う電気的力、クーロン力を越える(クーロン障壁)だけの運動エネルギーを持たなければならないという。おいらは、高温にすれば物質中の原子核が互いに衝突し合い熱エネルギーが発散し、これがクーロン障壁を超えた時に核反応を起こすのだろうぐらいにしか思っていない。クーロン障壁を超える熱エネルギーが必要なのかと思えば、そうでもないらしい。クーロン障壁を量子力学的な効果で透過する(トンネル効果)確率がどのくらい大きいかが問題であるという。実際は、平均の熱エネルギーがクーロン障壁よりずっと低いエネルギーで、二つの原子核がトンネル効果によってさらに近づいた時に核融合が起きるらしい。

4. 太陽の熱源は?なぜ明るさを保てるのか?
天文学で、アル中ハイマーが、最初にぶつかった疑問である。石炭や石油などの化石燃料や、重力エネルギーでは、46億年にわたって太陽の明るさを維持できない。1950年代、太陽の中心部で、高温、高密度環境の元で、熱核融合反応によってエネルギーが供給されていることが明らかになった。水素の原子核が反応してヘリウム原子核と陽子ができる。この時、質量欠損に相当するエネルギーが発生する。これが太陽の熱源である。現在まで太陽を輝かすために消費した水素量は、太陽の持つ水素量のわずか1%に過ぎないという。また、太陽中心核にある水素量から見積もって、今後50億年程度は輝き続けられるようだ。

5. 地球的惑星は存在するか?
天文学者は、数々の観測法によって、地球型惑星の探求を続けてきた。ただ、いずれの方法も間接的な観測であり惑星そのものの光をとらえたわけではない。重力効果や影でとらえているに過ぎないことを紹介してくれる。間接観測によって発見されたものは、質量も大きく、地球規模の小質量の惑星を検出するには、もう少し時間がかかりそうだ。直接観測こそ、これからの大きな課題であろう。観測には、ロケット探索という手段もあるが、もっとも近い恒星ですら到達するのに1万年から10万年かかる。当面は天文学的な観測の方が現実的である。地球のエネルギー史は、地球誕生時にそのほとんどが決まっている。せめて、それまでは地球を大切にして、人類文明を存続させてもらいたい。

6. 生命の進化に必要な条件とは?
しばしば地球は水惑星と言われるが、実際には地球が含む水は質量の0.1%程度である。しかし、地表の3分の2が海で覆われ、水の及ぼす影響が大きいのも事実だろう。そもそも液体状態は、きわめて限られた温度と圧力の範囲だけで存在でき、水に限らず表面に液体が存在する天体自体が珍しい。これらの条件がなぜ成り立つのかは、まだ不明のようだ。太陽からの距離が絶妙であり、地球の大きさも適度である。地球の自転軸傾斜は数万年で約1度変化し、軌道離心率も約10万年で変化している。これが原因で、数万年から10万年で氷河期と間氷期をくりかえしている。磁気圏が宇宙線を地表に到達できないようにしているのも必要条件である。などなど、地球環境はあらゆる偶発的な条件が重なっているように見える。なんとなく神の存在を信じるのもわからなくはない。アル中ハイマーも地球の自転の影響を体で感じている。夜の社交場をぐるぐる回るのは、北半球に住んでいるからであり、コリオリの力が働いているに違いない。南半球に移住すれば、きっと昼間に図書館めぐりをしていることだろう。また、店のゲートを通過する度に体温が上昇するのは、地球上に流動するアルコール成分の影響で、一種のエルニーニョ現象と考えている。

2008-01-01

blogを一年間続けてみて

年末深夜、ドヴォルザークを聴きながらスコッチする。そして、夢想するのが年中行事の一環である。ブログを一年間続けてみて、ほとんどが読書論評に費やされてしまったのは情けない。思ったよりも、つまらない人生を送っていることに気づかされる。ネタを探すことに苦労はしない。どんな本を読んでも感想が無いなんてありえない。それは、映画や音楽でも同じである。ただ、読書はリアルタイムではないので記事にしやすい。映画や音楽は、その瞬間を楽しむものである。記事にしたいが、あまりのスピードに酔っ払いの頭では脳細胞に記憶が留まらない。
アル中ハイマーは、情けないことに要点をまとめるのが苦手である。よって文章も長くなる。頻繁に記事にすることもできない。そもそも酔っ払った脳は整理することができないのだ。ツボを押さえる要領を得たいものである。ちなみに、足ツボのマッサージは病みつきである。

昨年は、読んだ本の数が例年よりも減った。ブログ効果で文章を丁寧に読むようになったからであろう。今までは、いい加減に読むので内容すら覚えられない。ブログは記憶媒体としてすばらしい。内容ばかり気にかけていたものが、フレーズを楽しむことを覚えた。翻訳語に毒された酔っ払いには考えられない傾向である。また、学生時代に読んだ本まで持ち出す。アル中ハイマーの人生は、モジュロのような閉じた宇宙を回り続ける。そうだ!今度から年齢表記は16進数ではなくモジュロ計算することにしよう。何度も生まれ変われそうだ。
読書の数が減ったからといって嘆くこともない。目的は数をこなすことではない。楽しみが増えた上に経済的に節約できるのはありがたいではないか。気になるのは、どうしても分野が偏りがちだ。それも個性というものである。ただ、精神のバランスが知識のバランスから得られると信じているところもある。いや、知識が詩的な解釈を邪魔することだってある。無知がゆえに得られるものがある場合だってある。哲学を探求すれば鬱病となり、論理学に嵌っては精神病にさいなむ。あまりに見事な文章は驚嘆するばかりで記事にすらできない。ボードレールの詩的な文章の前では手も足も出ない。ためになる本は、読むのに苦労し、記事にするのも難しい。人は詩という言葉を、詩的な文章、詩的な風景、詩的な人物という具合に使う。詩は感情を煽る。こうした思考を表現するには、ある一定の距離を持った冷静さが必要である。感情移入された酔っ払いには、無力感に襲われるだけである。ただ、この無力を嘆くものでもない。馬鹿な自分を嘆くよりも、馬鹿な自分を楽しむのもいい。工学の世界では、技術の難問を解決した時に快感を味わう。哲学的思想は、心の遊びから快感を得る。芸術は、無力感を快感にしてくれる。

芸術の巨匠たちは、数々の偉大な作品を残した。凡人は、手も足も出ない作品を自らの世界へ持ち込もうとする。だが、自分自身のことを論じることぐらいしかできない。これが論評の姿である。凡庸な論評は実体そのものを壊す。だが、その衝動には勝てない。そして、一つの疑問にぶつかる。巨匠たちの傑作は完成品なのだろうか?天才たちには完成形が見えるのだろうか?自分の記事は読み返す度に修正したくなる。情けない文章にもうんざりさせられる。仕事でさえ完全に満足できたものはない。どこか気に入らない部分が必ず生まれる。技術の難問を目の前にすれば、「コンピュータは嘘をつかない」と探究心を励まし、ついには、「科学でも解き明かせない問題がある」と挫折する。思考は妥協を繰り返す。アル中ハイマーの思考は、今日も言い訳を探し求めてバーへ向かう。

仕事でも読書でも思考する上で心がけることは、決して無理をしないことである。じっくりと弓を引き、的を射抜こうとするのではない。矢の方から自然と離れていくのを待つ。これぞ、集中力の極意というものである。酔っ払いは気分を高めるために、しばしば深夜海へ行く。こちらから出向くのではない。自然に足が向くのだ。アル中ハイマーには、海を眺めているだけで思考をリセットできるという不思議な性質がある。ただ、困ったことにリセット解除の手段を知らない。深夜出歩くと警官から職務質問を受けることもある。いつも挨拶で済むのだが、たまに呼び止められる。酔っ払いの面を知らねーとは、勉強が足らねーなあ。
酔っ払いの思考は今も精神の探求をしている。精神を自由に放つと、そこは気まぐれに支配される。気まぐれは、波のように押し寄せる。この波は三角関数で表現できる。三角関数をいくら微分しても三角関数に帰着する。波は永遠に波であり続けるということだ。気まぐれという精神は、極限に近づきつつも、なおも揺れ続ける。そして、精神を追い求めて思考するうちに、やがてふらふらになる。思考の目的とは、ふらふらになって肉体を疲れさせることにある。疲れた時の一杯は格別である。スコッチのピート香が、精神をグラスと氷の板ばさみにして煙臭くしていく。もはや、酔っ払いの精神を相手にすることすら馬鹿らしい。アル中ハイマーの精神とは、気まぐれの集合体であるから。