2007-12-26

"アート・オブ・プロジェクトマネジメント" Scott Berkun 著

書店で立ち読みしていると、ある言葉に引き寄せられる。アートという言葉は、なんとなく癒してくれる香りがする。サブタイトルに「マイクロソフトで培われた実践手法」とある。これにはちょっと引っ掛かる。そうこうしているうちに第一章を読み終わった。ちょうどその時、カウンターから鋭い視線を感じる。なかなか可愛いお姉さんだ。どうやらおいらに気があるらしい。話かけるチャンスをあげよう。「この本を頼む!」とドスの利いた声で迫る。お姉さんは決まりきった営業台詞であっさりとかわす。どうやら照れ屋さんのようだ。

MSと言えば、ソフトウェアの品質を恐ろしく低いものにし、これを社会認識として標準化したというイメージがある。ユーザを飼いならしたのだ。しかし、本書はそうした固定観念を無視すればおもしろい。アル中ハイマーにもプロジェクトマネジメントの経験があるので、この分野に多少なりと興味がある。といってもそれほど多くの経験があるわけではない。規模も5人から10人ぐらいの小規模である。おいらは、マネジメントを体系化できるものとは信じていない。プロジェクトの前提は、人員や技術レベルなど、あらゆる面で異なるからである。本書は、例題を組み込みながらも哲学を優先しているところに感銘を受ける。ただ、読めば読むほど相槌を打ちながら、本に向かって話しかけている自分が怖い。妙な仲間意識でも芽生えたのだろうか?今日は、なんとなく愚痴りたい気分である。ついグラスの氷に話しかける。「君って冷たいね!」
今から述べる物語はフィクションである。

エピソード1 「刻まれた作業」
通りがかりにおもしろいスケジュール表を見かけた。そのプロジェクトは1年近く続いており、リリースまであと1週間と迫っていた。ちょうどコーヒーを入れて席に戻ろうとした時、ふと会議室を覗くと、おいらは目を疑った。マネージャはホワイトボードに線表を書き始めた。なんと10分単位で刻まれている。それも直接ホワイトボードで管理されている。そこは殺気だっていた。つい悪戯書きの衝動にかられる。
1時間後にトイレに立った時、ちらっと会議室を覗くとホワイトボードが炎上していた。刻まれたのは時間ではなく作業の方だった。きめ細かいスケジュール表を作成することに命をかけるマネージャがいる。何事も計画どおりにはいかない。きめ細かいものが精度が高いとはいえない。ただ、このマネージャはそういうレベルではない。彼の口癖は「死守!」である。この期に及んで、明日のためのスケジュールを時間単位で練っていた。
「明日はきっーと。なにかあるー。明日はー!どっちだあ...」

エピソード2 「1分と持たない会議資料」
会議で召集されるのはいいが、事前に何をするのかはっきりしない会議は実に多い。1時間の会議をしようと思うと主催者は下準備に半日ぐらいはかかるものである。会議をするということは担当者の作業を止めるということである。だらだらとした会議は作業者のストレスを招く。だから効率良くやろうと気配りする。
ある日、突然呼び出された。何をするのかわからない。事前資料もない。とりあえず議題を提供するために、疑問点や検討内容を事前資料として送付した。さあ、会議だ!いきなり大前提が変わったと発表がある。用意した資料は1分と持たなかった。おまけに状況がかなり複雑化している。そして意見を求められた。わけがわからないので考える時間をくださいと発言して会議は即終了!アル中ハイマーは頭が悪いので事前に考える時間がないと議論に参加できない。ほとんどの場合、事前準備の要領が悪い人の説明は異常に難しい。何をするのかシミュレーションできていないのだ。会議では、お偉いさんの勉強会になることもよくある。単語の意味すら通じない。そもそも事前資料に目を通さない。会議とは議論するところである。前提を出席者に浸透させておくのも主催者の務めである。

エピソード3 「嫌がらせの納品物」
初めての取引先に、試しにモジュール設計を外注したことがある。HDLで1000行ほどのコードに、キングファイル3冊にも及ぶタイミングチャートだけの検証報告書を納品された。初めての付き合いだったから、大量のデータでアピールするつもりだったのだろうか?製本されていて見かけは美しい。ブックエンドにでもしようと思ったが分厚過ぎる。これは嫌がらせに違いない。結局、検収できないのでマネージャ自身がやり直した。これはおいらの責任なので誰かにやってくれ!とは口が裂けても言えなかった。簡単なモジュールだからと言って意思疎通を怠ってはいけないという教訓を得る。そもそも、こんなモジュールを外注したおいらが悪いのである。

エピソード4 「マネージャ力石」
かつて失敗したことがないと自負するマネージャに出会ったことがある。失敗するような仕事を任せられていないか、失敗したことに気づいていないのだろう。成功、失敗の基準は人によっても違う。お金を回収できたという意味で失敗していないのかもしれない。いや!本当にそうなのかもしれない。だって、目の前で彼の仕事が炎上しているのだ。それも見事な燃えっぷりである。完全に焼き尽くして失敗した痕跡すら残らないほどに。
「ブスブスとそこいらにある見てくれだけの不完全燃焼とはわけが違う。ほんの一瞬にせよ。まぶしいほどに真っ赤に燃え上がるんだ。そして後には灰だけが残る。燃えかすなんか残りゃしない。真っ白な灰だけだ!」

エピソード5 「政治に支配された仕様」
ある日、モジュール設計を請け負った。その要求書には目を疑った。超スーパー間接アドレッシング・ミレニアムとでも呼んでやろう。これは笑った。論理的にも物理的にもイメージできない。一つのアドレスにRAMやらレジスタやらがビット単位でバラバラに存在する。おまけに1ビットの意味合いも複雑に絡み合う見事なスパゲッティ仕様の上にスパイシーなミートソースがきいている。わざわざ仕様確認のためのスペシャル仕様書を作ったものだ。こんな複雑なことになっているとは誰一人として気づいていなかった。思想の違う過去の仕様を組み合わせたことは明白である。おまけに部署間の政治力が遺憾なく発揮されている。当然のように決定事項なので変更できないと主張している。仕様決定は早いもの勝ちという体質も手助けしている。最初から日程が遅れることを見越して、責任逃れのための言い訳を準備している。そして実際に遅れると責められるのは政治力の弱い部署である。官僚体質で硬直化した組織の課長さんには同情する。上流工程はスケジュールの精度に影響を与える。よく検討された仕様は精度を高める。この仕打ちは、プロジェクトそのものを潰したいという裏の政治力が働いているに違いない。

エピソード6 「呪われた黒箱」
流用モジュールと聞くと呪文のように聞こえる。「実績がある」という言葉は人間不信に陥れる。ある仕事で、政治的に流用するように仕向けられたモジュールがあった。見るからに異様な香りが漂う。黒箱には黒幕が潜んでいるのだ。この香りだけでメンバー全員が拒否反応を起こす。おいらは、メンバーをやる気にさせるために、どうあってもこの異様な黒箱を葬り去るしかない。と言っても対処は簡単である。政治に屈するぐらいなら仕事自体をチャラにすればいい。政治的に仕向けるからにはモジュール説明会を要求した。そしてコードの説明が始まる。if... then... もし条件が成り立てばこれこれする。そのまんまじゃん!このモジュールがどういう振る舞いをするか、使う時の注意点などを質問しても一切答えがない。更に強烈なのはこんな会議に3日間缶詰にされたことだ。拷問とはNOをYESと言わせる手段である。だいたい流用モジュールで使えるかどうかは仕様書を見れば想像がつく。断固拒否したお陰で無事リリースできた。仕事の後のブラックコーヒーは美味い!余韻に浸りながらぶらぶらしていると、あれ?会議室が炎上している。どうやら、この黒箱を流用したプロジェクトがあったらしい。政治的陰謀に陥った連中がいた。気の毒に!噂によると提供されたソースが最新版ではないというのが1年経った今になって明らかにされた。

エピソード7 「ふるせー奴ら!」
メンバーにヤクザのあねさんがいると緊張感は半端ではない。
間違っても背中を見せられない。いつタマを取られるかわからない。
ただ、スケジュール管理は簡単である。あねさんが一言。「今度の連休はオーストラリアに行くのよね!」これで連休前にプロジェクトは完了する。これはどんな政治力もおよばない。自然災害でさえ無力だ。あねさんの趣味はダイビングである。某サイトではダイブ100回記念の写真が公開されているが、いまいち本人確認ができない。面がわれるとヤバいようだ。ちなみに、とっとと鮫に喰われちゃえ!と面と向かって言ったY氏は消息不明である。本人から博多湾の埋立地にアドベンチャーな会社を起こすという知らせがあったが、そのまま埋立地に埋まっているという噂もある。詳しい話はルーマニアのgさんに聞くといい。鉄砲玉だったM氏は韓国人女性と一緒のところを雑餉隈でパクられた。彼は大阪でもパクられたが、その相棒S氏はウクライナで匿われている。一世風靡したSMコンビも今となっては懐かしい。おいらは、というと一時中国に飛ばされたが、今では頭からビールをかけられて可愛がられている。
メンバーにおかまのIちゃんがいると緊張感は半端ではない。
間違っても背中を見せられない。いつタマを取られるかわからない。
彼の席は、おいらの隣であったが無事だった。ちなみに、向う隣のO氏はやられた。その証拠に会社を辞める時、彼は内股で歩いていた。示談で済んだと聞いたが、手切れ金をいくら払ったかは定かでない。ただ、O氏はそれを資金にして中洲でおかまバーを経営している。その店でアレックスを指名するとIちゃんが登場するというから恐ろしい。ショータイムにはパンティーとYシャツ姿でメキシカンダンスを踊るという。
メンバーに16進数がわからない奴がいると緊張感がなくなる。
痛みを伴わないと理解しないだろうと、ある日、お宅の16進数で1万円とおいらの10進数で1万円を交換しようと持ちかけた。しかし、これは損な取引である。奴は16進数で数えられない上に損得勘定はできるのだ。あんまりなので、O氏の店に放り込んでやったら、翌日アレックスとできていた。

おっと!飲みすぎた。スピリタスという酒には96%の現実を仮想空間へ追いやってしまう力がある。仮想空間では、アル中ハイマーは評判が悪い。お陰様であちこちの会社で出入り禁止をくらっている。アル中ハイマー病とは現実と仮想空間をさまよう病である。

いつのまにか本題がどっかへ飛んでしまっている。本書についても付け加えておこう。仕様書の記述や作業の文書化を行うにあたって万能の作法などないと断言している。仕様書は常に最新版に維持され、メンバーから信頼されなければ機能しない。神聖な存在であると共に、いつでも最適化できる柔軟性を兼ね備えてこそ機能する。実行するのは難しいが、実行しないと破綻する。Joel Spolsky氏著の「Joel on Software」で「仕様書は生きている!」というフレーズを思い出す。
本書は、更に仕様書の位置付けをコミュニケーションの一形態として捉えている。大規模なプロジェクトであろうと仕様書の著者は一人に限定すべきであると述べられるが、果たして可能だろうか?おいらが担当するような小規模なプロジェクトではマネージャが一人で作成してメンテナンスするべきである。担当者からいつも文句を言われ、悪者になったり、アホ面をするのもマネージャの務めである。アル中ハイマーはいつも酔っ払い扱いされるので、メンバーは文句を言いやすいようだ。実は酒に弱く、わざと酔っ払った演技をしていると言っても誰も信じてくれない。ただ、その演技力はリアルである。

本書を一言で要約すると、本文中にちょうど良いのが見つかった。
「プロジェクトマネージャの実力は、チームメンバーの人間関係で評価されると言っても過言ではない。」
エンジニアの中には気難しい人も少なくない。アル中ハイマー自身が人見知りが強く、気難しい人間である。チーム内を円滑にするために、笑いネタにできる人間が一人ほしい。Mタイプである。馬鹿を演じられる人間は貴重である。実は賢いと認められた人間の成せる技である。マネージャ自身の馬鹿げた行動を暴露するのもいい。チームには常に笑いを起こせる共通のネタを仕込んでおきたい。目的はただ一つ。仕事を楽しもうとしているだけなのである。しかし、どうしても合わない人間はいる。そういう場合は一緒に組まないのが一番である。アル中ハイマーが担当してきたプロジェクトは運良くメンバーに恵まれてきた。それなりに楽しくやれてきたからである。失敗もあるが今では笑い話にできる。
マネジメントの仕事は辛い。一つとしてクビをかけずにやった仕事はない。いつも机に忍ばせていた辞表は、捺印済みで、後は日付を書き込むだけの状態にしていた。しかし、こんなものを用意しておくのは良くない。人間は衝動にかられるものである。酔っ払ってつい出ちゃったじゃん!明日から生活どーすんだよ!スピリタスでも飲んで96%忘れるしかない。以上、遠い昔の出来事である。

2007-12-23

ホンダのリコール CBR1000RR

実は、さっきまで、鴎外通り付近の行付けのバーに、年末の挨拶まわりをしていた。うまい葉巻もいただいて、ええ気持ちである。ただ、一軒だけ混んでいて門前払いをくらったのは心残りである。いや!実は空いていたのかもしれない。もしかして乗車拒否?週末には必ず現れるというトップガンの兄さんにロックオンしてもらおうと思ったが、残念ながら時間が合わなかったようだ。もちろん、クラブ活動にも余念がない。黒木瞳風のホットな女性に癒してもらった。少なくともベロンベロンにはそう見えた。「君に酔ってるぜ!」。さあ!次週は中洲方面の挨拶まわりだ。ちなみに、本部と呼ばれる某大将の店に、最終日5時に行くとベロンちゃんに会えるという噂だ。どうも酔っ払わないとブログ記事を書く気がしないから困ったもんだ。そんな言い訳はどうでもええ!

先々週、CBR1000RRの「フューエルタンク交換」というリコール案内が届いた。フューエルタンクのエアベントパイプが、特定のエンジン回転数で共振して亀裂が発生し、燃料漏れを起こす恐れがあるというものだ。丁寧に対応してくれたスタッフの方々には感謝である。その時、カラーリングの相談を持ちかけたら、こけたら考えたらとあっさり流された。アル中ハイマーには、笑い話には期待にこたえないと気が済まないところがあるが、これだけは勘弁である。ちなみに、歴代の購入バイクでこけていないのは、これだけだ。一つ前のバイクは、買ったその日に立ちごけしたというおまけつきである。おいらは猫に弱い。見つめられると、どっちに避けていいか迷ってしまい、ついこけてしまう。ちなみに、クラブでも子猫ちゃんに見つめられると、いちころだ。ついでに08式のパンフレットを見せてもらった。来年はフルモデルチェンジの年である。ディーラーの店長は、フルモデルチェンジの度に買い換えているらしい。つまり、二年おきである。マフラーの配置は右へ戻っているが、デザインは斬新だ。フルパワー改造も大変そうだ。重量は、2kgほど軽量化したらしい。装備重量、199kg。



いつも思うのだが、乾燥重量という表記がある。今回は装備重量で示している。乾燥重量といって、実際に走れない重さを表示されても困る。そもそも、どこまで乾燥にするのか?オイルは基本的には全部抜くべきだろうが、ダンパーオイルとかも?メーカーによってまちまちのようだ。そこで、装備重量で表示してくれるのはありがたい。ただ、燃料は満タンと思っていいみたいだが、各種オイルは走行に必要分なのか?これも、メーカーによってまちまちなのか?やっぱり、両方表示してほしい。こうした表記は業界で統一できないものなのだろうか?今まで思惑をめぐらせていたメーカーほど統一には反対するだろう。それが政治というものだ。いずれにせよ、アル中ハイマーはヘタッピなので、数キロぐらい違っていても関係ないのだが、体が小さいので、なるべくなら軽いものを選びたい。

教習所では右回りが苦手だった。右回りの練習では、左手一本で右手はシートの後ろ左側に置いて体を内側に開いて、ずっとグルグル回ったものだ。大型バイクはアクセルを握らなくても勝手に進むから楽である。しかし、峠だと右コーナーの方が好きだというのも不思議である。そういえば、カートも右ヘアピンの方が下手である。へその位置がずれているのかもしれない。今宵は、サトウキビ系のアルコール燃料によって、アル中ハイマーの思考は限界ラップ中にある。コーナリングでは、Gを感じながらアンダーステアとオーバーステアの狭間にある。どんどん燃焼させて、「右曲がりのダンディ」と言わせてやるのだ。

2007-12-20

"ボーイング747はこうして空中分解する" Carl A. Davies 著

読んだ記憶もなければ、買った記憶もない本を見つけた。しかも、古いカバンの中にある。このカバンはニ年以上使っていない。本書はニ年以上眠っていたことになる。きっと誰かにもらった本だろう。いや!神様の贈り物かもしれない。いや!ホットな女性からのクリスマスプレゼントに違いない。今年中に処理してすっきりさせよう。

本書は、ボーイング747の墜落事故にまつわる物語である。747といえば通称ジャンボ、機首が卵型で頭でっかちなやつだ。この機首部分をセクション41といい、重要な欠陥があったという。著者は、ボーイングレポート(秘密修理文書)を入手し、更に数々の証拠を分析した結果、パンナム103便、TWA800便、エア・インディア182便の墜落原因は、この欠陥によって引き起こされたと主張する。そして、1988年12月21日のパンナム機爆破事件を中心に取り上げる。マスコミはパンナム103便をテロ事件として報じた。この事件はリビアによる報復事件として扱われる。
本書は、素人にも読み易すいように意識しているせいか?肝心なところが大雑把である。また、話が飛ぶので少々読み辛いところもある。それでも、政治的な話はまあまあおもろい。

1. 747の欠陥
初期型747の抱える問題は、飛行中にセクション41が胴体から外れるというものだ。まれに地上走行中でも機首が落ちるという報告があったというから笑わせてくれる。ボーイングレポートは、まさに構造修理を必要とする部分として示していると語る。事故後、パンナム103便、TWA800便、エア・インディア182便は、3機とも機首部分が他の残骸から何キロも離れた場所で見つかっているらしい。原因は、金属疲労と破断であるが、問題とされるのは劣悪なアルミニウムにある。1970年代初頭、数々の産業が苦難する時代、航空業界も例外ではなかった。コスト削減を強いられる中、アルミニウムのコストは馬鹿高い。そんな中でボーイング社は、低価格で納入するメーカーを旧ソ連で見つけたという。一般的に旧ソ連のアルミニウムの品質は悲惨なくらい劣悪なのだそうだ。ちなみに、初期型とは747-100、747-200、747-300を指す。ANAのサイトによると、747-400は活躍中のようだが、初期型は使ってないようだ。JALのサイトによると、747-100Bは、2006年に退役してる。747-200、747-300はまだ現役っぽいなあ。どっかの掲示板によると、747-200、747-300は、2009年に退役を控えているらしい。

2. なぜ陰謀説に?
なぜリビアによる報復事件として扱われたのだろうか?本書はテロリズムの根源についても触れる。それは、迫害され続けたユダヤ人国家であるイスラエルを建国したところから始まる。アラブ人の不満は、イスラエルがパレスチナの地に建国されたことにある。イスラエルはアメリカの後ろ盾により元気づくが、パレスチナは戦力で圧倒されゲリラ戦を余儀なくされる。よって、イスラエルを支援するアメリカは敵国である。これが現在のテロリズムであると語る。歴史的には宗教紛争はずっと以前からあり、その中で体当たり行為もあっただろう。これをテロリズムの根源とするのは、もう少し検証が必要だと思われるが、面倒なのでとりあえず、ここでは本書の説を受け入れておこう。こうした背景では、まずアラブ人を疑え!となる。パンナム103便事件の発端は、米軍がイラン航空のエアバスをイラン軍戦闘機と誤認して撃墜したことにある。ホメイニ師は、その報復にアメリカ航空機の撃墜を秘密裡に命じる。攻撃の実行を元シリア陸軍士官アフメド・ジブリルに委任する。彼はフランクフルトで実行しようとする。フランクフルトはアメリカの航空機にとって重要なハブ空港である。パンナム103便も、フランクフルトからロンドンを経由してニューヨークへ向かうはずだった。しかし、その作戦はドイツ警察に押さえられ失敗しアラブ人が逮捕される。その時、東芝製ラジオの中に爆弾を仕掛けたが、この型と同じラジオがパンナム103便の残骸から見つかったという筋書きである。この論理では、アフメド・ジブラルの関与ということになりそうだ。そしてシリアとイランに疑いをかけた。それがいつのまにかリビアになっている。まあ、リビアもアラブ社会であるのだが。イラクがクウェートに侵攻した時、ブッシュ大統領はイラク攻撃を開始し湾岸戦争が勃発した。ちょうど、イランと共謀してパンナム103便を爆破したとされていたシリアが多国籍軍に参加する。湾岸戦争には、普段アメリカと敵対していたアラブ諸国の支援も必要だったのである。ブッシュ大統領は、急遽、シリアの代わりにリビアの避難を始めた。なんでもかんでもカダフィ大佐のせいにしたのである。その後、二人のリビア人が指名手配される。リビアのせいにする論理も簡単である。レーガン大統領は1986年トリポリをはじめとするリビアを爆撃した。これに対する報復だとすればいいのである。リビアはドイツのディスコ「ラ・ベル」での爆弾テロに関与したとされているがいまだ不明である。

3. なぜ政府は747の欠陥を隠したのか?
無理やりテロ事件にしなくても、アメリカ政府はなぜボーイング社の問題を隠すのだろうか?747の問題に対処するためには大規模な修理が必要だった。莫大なコストもかかる。下手すると運行停止である。これは世界的な大混乱にもなりかねない。航空会社側も消極的になる。特にTWAは何度も倒産の危機に陥っていた。修理コストの負担など不可能だった。この問題は、航空業界、アメリカ連邦航空局、アメリカ政府も知っていたのだろう。クリントン=ゴア組は1996年の再選運動資金として航空業界から献金を受けているという。しかし、単純に747の欠陥を揉み消すためだけに献金したとは考えにくいのだが。
欠陥の問題については、航空業界の体質もあるだろう。欠陥の修理やメンテナンスは最終的には航空会社の責任となる風潮にも問題がある。

今宵のアイリッシュ・ウィスキーは不味くはないのだが奇妙な味がする。なんとなくつぶやきたい気分だ。
著者は、アメリカ政府や、それに関わる高級官僚は嘘つきであると語る。これは間違いである。こんなことはアメリカ政府に限った話ではない。どこの国も政府、高級官僚は嘘をつく。逆に、彼らは反論するだろう。全て国のためだ。国の面子のためだと。正確には、業界も含めた彼らの既得権益のためであるとした方が現実である。少なくともくだらない陰謀を施すよりは、国の理性を見せる方が国益というものである。冷戦構造も終わり、アメリカは自らの理念に従い、強大な軍事力を楯に世界の警察官を自認している。そして、様々な紛争に介入してきた。その理想主義はある意味すばらしい。しかし、一部の情報を隠蔽し、警察行動が世論で操作されるならば、あるいは司法の判断が世論に流されるならば、いくらでも支配できることになる。裁判官が有罪を下した以上、論理的な説明をする義務がある。ましてや、一国家に疑いをかけたのだ。これは、国際法から、個人を裁くものまで全て同じである。そうでなければ誰が警察行動を信用できようか。また、充分な検証もなしで、一国の行動を支持することは無責任である。これが世論操作によるものであれば、間違った世論を助長することになり、もはや同罪である。
おっと、悪酔いしたみたいだ。寒くなると理屈っぽくなるのよねえ。お前、誰やねん?ちなみに、アル中ハイマーは二重人格症である。その証拠にいつも物が二重に見える。

2007-12-14

"日本マスコミ「臆病」の構造" Benjamin Fulford 著

電車で移動中、暇つぶしにキオスクで買った本である。著者は20年間日本に滞在し外国人の目で日本を観察してきたジャーナリストである。アル中ハイマーは、昔、著者の本を読んだ記憶がなんとなくある。外国人にしてはなかなかの観察力だと感心したような気がする。そう言えばテレビで見かけなくなったなあ。著者は、政、官、業、ヤクザの「鉄の四角形」が日本の支配構造であると指摘する。そして、日本社会では書けないタブーが驚くほど多いと語る。本書はもともと単行本で発刊されたらしい。新たに文庫化してくれるのは移動中に読むのにありがたい。

本書は、マスコミの報道姿勢から日本人の特徴をよく観察している。9.11テロ報道は米国内においてさえその硬直ぶりを露呈した。そんな中、日本のマスコミも米国の統治下になったと語る。バブル崩壊後の経済不況の長期化にもマスコミの責任があるだろう。形式的な経済政策批判を続けたおかげで、政、官、業、ヤクザの癒着はより強固になった語る。誰一人として良いとは思わない記者クラブの制度についても疑問を呈してる点は注目したい。また、情報ソースの信頼できる順には考えさせられるものがある。外国人記者にとって、最も信用できるものは右翼の街宣車。続いて雑誌やタブロイド版夕刊紙。最大の嘘つきはメディアの本流をいく大新聞であるという。これは一般的な日本人の感覚からは逆の順ではないだろうか。おいらは、右翼の街宣車が駅前の銀行でぶちまけているのを、おもしろくて小一時間聞き入ったりする。ただ、大新聞が信頼できないのはわかるが、雑誌を馬鹿にしていたアル中ハイマーには衝撃である。今宵は悪い酒を飲んだせいか、思いっきり愚痴りたい。この季節は寒さが寂しさを助長するのである。

1. マスコミの構造
本書は、マスコミの情報ルートを解明してくれる。例えば、住専問題で、国会が何十億ドルもの税金を投じながら、住専から借りたまま返さない多くの暴力団を無罪放免している。日本の新聞はこれを全て知っていながら絶対に触れない。当時、右翼の街宣車が財務省を取り囲み、政治家の実名を叫んだ。このような事例は山のように挙げられるという。日本が民主主義国家とは言えないことはうすうす気づいているが、もはや法治国家であることも疑わしい。情報力だけを比較すると、最強の報道機関は、NHK、朝日、読売を筆頭とする新聞社であるという。やや矛盾しているようだが、仕掛けはこうだ。規模と取材体制が最も充実していても縛りがきつい。だから、彼らは絶対に書けない記事を、しばしば雑誌にリークする。それだけではない。政治家や官僚に、雑誌の動きをしっかりリークする。これはダブルスパイである。最後の駆け込み寺が、外国メディアかインターネットになる。皇室報道に至っては、情報に詳しいのは宮内庁記者クラブだけである。彼らはそれを書けないため週刊誌にリークする。週刊誌でも書けない内容は海外の新聞にリークする。英語の記事が出ると、それを後追いする。発信源である新聞が、わざとらしい調子で海外で言っているんだから間違いないだろうと報道する。新聞と週刊誌と海外メディアの共犯で成り立つこのシステムの歴史は古いらしい。そもそも海外のマスコミが皇室情報を得ることが難しいことは、素人でもわかりそうなものである。このような海外メディアが日本の記者の駆け込み寺になっているケースはたくさんあるようだ。他のメディアに代弁させるような手法は卑怯である。

2. 企業報道
日本の企業情報は、投資情報としてもニーズは高い。しかし、時折メディアにとって、企業記事は最大のタブーとなることもあるという。経済記事は、事実関係も大切であるが、優先順位がが最も重要である。素人が見てもスポンサーには逆らえない構図は想像がつく。金融機関の最大のスポンサーは政府であろう。破綻すれば公的資金が流れるようになっているからである。しかし、政府のスポンサーは国民であることは、しばしば忘れがちのようだ。本書は、宣伝部と編集部は物理的に距離を置くのが出版社としての常識であると語る。当然だろう。ところが、日本では宣伝部が編集部に口を出すのが当たり前なのだそうだ。よほど正義感の強い人でなければ編集部は務まらないということか。W.リップマンは著書「世論」の中で、ジャーナリズムの本質は人間の理性にかかっていると悲観的に結論付けていた。

3. 日本人の体質
日本人の体質の恐ろしいところは、下が上をまともに監視しない。不公平、不平等に対するアンテナが鈍く、上に従うという体質が恐ろしく根強いと語る。実に頭の痛い指摘である。著者がよく言われる言葉に、「外国人だから書ける」というのがあるらしい。日本人記者には、外国人記者が知りえないような重大な数字や、それだけで政権がぶっ飛ぶくらいのインパクトのある政治家の秘密を知っているくせに、なぜ書かないのか?知っているのに書かないのは、嘘より重い罪であると語る。
日本の社会システムで最も抜けているのは監視機構である。互いにこんな悪いことをするわけがないという楽観論が根強いからである。それも悪い感覚ではないのだが、過信してはいけない。また、面倒臭いという体質もある。民主主義やら自由というのは、実は自己管理を要求される面倒なシステムである。社会保険は役所任せで、サラリーマンは税金ですら組織に管理を任せている。酷い政治にも程度があるが、その境界線を政府も国民もなんとなく理解している。こうしたバランス感覚を外国人に理解することは難しいだろう。ただ、そのバランスも壊れている。醜い程度も閾値を超えている。マスコミの攻撃的な論調は、弱い立場の人間、情報を持たない人間に対してのみ厳しい姿勢で追及する傾向にある。

4. ジャーナリストとは
ジャーナリストは本来組織ではなく個人であると語る。会社の名刺がなくなった時、私はジャーナリストですと胸を張って言える人がどれほどいるだろうか?と疑問を投げる。これはエンジニアにも言えるだろう。エンジニアは比較的会社を移動する人が多い。おいらの周りがたまたまそうなのかもしれないが、技術を磨くのに、一つの凝り固まった文化に染まるのは好ましくない。独立して個人でやっている人も多い。今年も周りに何人増えたことだろう。もし、楽しそうだと勘違いしているとしたら、きっと後悔することになるだろう。いや!勘違いではない。人生に酔っ払うのは幸せなのである。職人の世界では、大工さんのような一人親方制度というのは悪くないと思っている。ジャーナリストもある種の職人と言えるだろう。

著者の取材経験から、外国人記者には裏情報が集めやすい傾向があるという。日本のマスコミには全く対応しない人物が、英語インタビューだと応じてくるケースも少なくないらしい。これは、外国人記者がエキゾチックで珍しいからではなく、日本のマスコミに対する失望や嫌悪、不信であると語る。日本人でも日本のマスコミに不信を抱いている人は少なくない。そんな事は、ほんの少しネットサーフィンすれば伝わってくる。記者クラブというギルドを形成し、政、官、業と馴れ合い関係を持っていることは言われなくても感じる。こうしたマスコミとの癒着構造がいいわけがない。ジャーナリストの連中でさえ悪い制度だと公言している。にも関わらす廃止できないでいる。誰もが否定する制度や組織がゾンビのように君臨している例は多い。これが日本社会の現実である。マスコミの存在意義とは何だろうか?もし独立した中立機関であるとするならば、真っ先に改革すべきであろう。記者クラブでさえ解散できないような連中が、組織や個人を攻撃している姿は滑稽に見える。

2007-12-08

"自壊する帝国" 佐藤優 著

「国家の罠」がまあまあおもしろかったので、ついでに本書も読んでみた。こっちの方がおもろい。前記事でも書いてが、本当は歴史の興味からラスプーチンが読みたいのだ。それも、しばらくおいておこう。アル中ハイマーは人生の道草が好きである。

本書は、著者が外交官としてソ連崩壊を目の当たりにした時の回想録である。どうやら、内容の波長と文章のリズムがアル中ハイマーには合うらしい。一晩で読見切ってしまった。出会った学生や神父、政治に関わった人々との会話や随想をまとめた一種の紀行文のようだ。おいらは、紀行文のような趣向(酒肴)を好む。どんな立派な主義主張よりも、事実をありのままに伝える方が説得力を感じるからである。また、ところどころに散りばめられた歴史や宗教の知識も参考になる。更に、外務官僚への皮肉もブレンドされているところが、ウォッカのようなクリスタル感を醸し出す。それにしても、やたらウォッカを一気に飲み干す場面が登場する。それも一人5本とか。こっちまで二日酔いになりそうだ。

本書は、バルト三国で高まった改革意識を中心に物語る。元凶はソ連共産党による極端な中央集権である。マルクス・レーニン主義の限界が訪れると新しいイデオロギーを提起する必要があった。これがペレストロイカである。これは表向き改革を掲げているが、実はソ連体制の維持を目的としていた。この矛盾した目的の二重構造を突いて市民が決起する。そして、ゴルバチョフ派を打倒したエリツィン派が登場する。ここで語られるペレストロイカは、一般的に西側で宣伝されている印象とは違うようだ。ゴルバチョフはノーベル平和賞を受賞している。
大部分の日本人は、日本国が崩壊するとは考えてもいないだろう。大企業でさえ倒産するとは考えていなかった。しかし、現実に起きている。程度の違いはあれ、なんとなく似た状況を感じる。日本も民主主義とは名ばかりの中央集権国家である。現在は、政治家のスキャンダルなどで表面化していないが、霞ヶ関の実態が明るみになれば、真の改革意識が加速するかもしれない。監督すべき立場の金バッチの現状からして、遠い道のりではある。ただ、市民はうすうす気づきはじめている。当時のアル中ハイマーは、ソ連という大国が崩壊するなどと考えもしなかった。国家とは、ある日突然崩壊するものなのかもしれない。

1. ソビエト社会主義共和国連邦の姿
当時のソ連は、ロシアが親分でその他の共和国が服従するという印象がある。この見方は間違っていたようだ。本書は、スターリンがロシア人の血が入っておらず、ひどい訛りのロシア語を話していた事実からしても、ロシア人が少数民族を抑圧していたという単純な図式では説明がつかないと語る。中枢はソ連共産党中央委員会であり、絶大な権限を持ってロシア人を含めて支配していた。この中央委員会は絶対に責任を追わない体質を持っているという。中央委員会がソ連外務省に指令するという構図である。成果を上げれば両者でその成果を分配し、失敗すれば外務省を叱責して責任を押し付ける徹底的な無責任体制が確立していたという。ソ連政府は弱みのある聖職者が大好きなのだそうだ。例えば、独身を誓った高位聖職者で女にだらしない者もいる。女性が子供の認知を求めるとKGBが揉み消す。こうしてKGBに貸しを作ると後が恐ろしい。ちなみに、カトリック教会の聖職者は独身制をとっている。プロテスタント教会は地上に聖なる人はいないと考えるので、聖職者という概念がない。よって、牧師は結婚して家族が持てる。ただ、カトリックの独身制にも合理性がある。家族を優遇するような間違った意思決定をさせない。中国やオスマントルコの宦官制度は、官僚が世襲制にならないように去勢された。脂ぎった金バッチもパイプカットするといい。
ロシア正教はもう少しややこしいようだ。司祭には黒司祭と白司祭がある。黒司祭は独身制を誓い修道院長や総主教になる。白司祭は結婚し家族をもち、黒司祭よりも地位は低い。黒司祭は、教会政治、研究活動に没頭できる。一方で、家庭の悩み事に応じるのは家庭を持つ白司祭の方が現実的である。こうした司祭の二分は、組織機能を合理的にするのである。

2. モスクワ大学の二重構造
モスクワ国立大学には、西側のために、わざとロシア語を上達させない特別コースがあるらしい。しかも、ロシア語の自由会話の授業で、日本政府を批判するような画策もあり、ロシア語を学ばせる意欲自体を減退させるような思惑もあったという。ソ連体制は、国民への思想抑制、特に大学あたりでの監視体制は半端ではないことも想像がつく。反体制論文を広めるには、わざと学生に発表させてそれを教授が叱責する。実はその教授が反体制派である。思想を広めるためには発表する機会が必要である。著者はそうした態度に最初戸惑ったという。また、反体制を批判する授業をするからには、反体制主義も勉強しなければならない。つまり、ソ連体制以外の勉強をしたければ、表向き批判するように見せかければいいのだ。禁じられた思想の文献を広めるには、まずイデオロギーの闘争は重要だと主張し欧米思想を紹介する。そして、共産党やレーニン思想から引用を散りばめて、けしからんとできるだけ説得力の無い作文をする。このような文献が、良書なのだそうだ。読者もそれを心得ているというからおもしろい。本書は、日本の外務省の先輩外交官たちが、モスクワ大学は共産主義に汚染されて学問レベルが低いと反応するが、表面的なものしか見ていないと指摘する。ソ連体制では、子供も幼稚園の頃から、表と裏の顔を持つように訓練されていく。虐げられる世界では、幼いなりに防衛策を自然と身につけるものらしい。人間とはたくましいものである。

3. ロシア人のアルコールへの執念
ウォッカなしでは、ロシア人は生きていけないらしい。ゴルバチョフが反アルコールキャンペーンを展開すると、まず食料品店から砂糖とイースト菌が消えた。砂糖を溶かして、イースト菌を入れて発酵させ密造酒を作るのである。街中から砂糖が消えると、次はジャムとジュース類が消えた。更に、果物の缶詰、瓶詰も消える。最後には歯磨き粉までも消えた。歯磨き粉でも酒が造れるのだそうな。ここまでは人体に悪影響がないらしい。ほんまかあ!歯磨き粉はええんかあ?挙句の果てに、化粧品店からオーデコロンが消える。アル中はこんなものまで飲むらしい。そして、死者も出る。これでもまだ終わらない。アル中は靴クリームまで食べた。日本で禁酒法が施行されたら、アル中ハイマーも末恐ろしい。
ロシア人にとってウォッカは人間性を調べるリトマス試験紙になるという。通常の時と酔った時の言動で極端なギャップがある人間を信用しない。アル中ハイマーの台詞は、酔っても酔わなくても「君に酔ってるぜ!」ロシアでは、ウォッカやコニャックなどの酒をちびちび飲むのはルール違反だそうだ。必ず一気に飲み干さなければならない。アル中ハイマーはロシアにだけは行かないと堅く誓う!

4. 自壊の始まり
ある学生の見解は、ゴルバチョフはもう終わっていると語る。歴史を作る力を持っているのはエリツィンだと主張する。ソ連には宗主国がない。ロシア人こそ虐げられている。その本丸は共産党中央委員会。しかし、ソ連共産党を潰すとソ連はなくなってしまう。共産党というシステムは、部分的に自由化や民主主義を受け入れることはできない。ゴルバチョフはそのことがわかっていないという。そして、新しい戦略が展開される。ソ連では主権国家が自発的に連邦を作ったという建前になっている。その締結国は、ロシア、ウクライナ、白ロシア、ザカフカス連邦。ザカフカス連邦は、アゼルバイジャン、グルジア、アルメニアに分かれる。バルト三国を占領した時、エストニア、ラトビア、リトアニアは連邦に加入する手続きをとっていない。これは法的な欠陥である。ゴルバチョフが法の支配を権力基盤にしている以上、バルト三国はスターリン時代の植民地政策に過ぎないという矛盾が生じる。この矛盾を逆手にとる。具体的な行動は、エストニアの首都からリトアニアの首都までは600キロ。一人1メートルとして60万人が集まれば人間の鎖ができる。1989年「人間の鎖」行動は、最大200万人、場所によっては二重三重の鎖が出来た。ここで学生は、日本の北方領土返還についても有利に働くだろうと指摘している。バルト三国にしても北方領土にしても、スターリン時代の負の遺産だからである。当時エリツィンは日露平和条約の締結に前向きだった。それも、お家騒動をかかえていたから止むを得ないだろう。しかし、日本政府はそのチャンスを逃した。

5. ゴルバチョフの軟禁
いよいよゴルバチョフはバルト三国へ軍事介入しようとするが、西側の世論に屈して手が出せなかった。ただ、西側の報道はゴルバチョフ一辺倒だったように記憶している。著者は、ゴルバチョフ派の官僚に霞ヶ関と同じ臭いを感じると語る。権力者の動向や目先の利益には敏感だが、信念がない。エリツィン派やロシア共産党は、それぞれ世界観や政治路線は対峙しているが、両者とも発言と行動がともなっているという。当時のアル中ハイマーの印象は、ペレストロイカという言葉のインパクトが強く、ゴルバチョフは良い人、エリツィンは悪い人という感覚しかなかった。エリツィン更迭は正解だと思っていた。1991年のクーデター未遂事件で軟禁から解放されたゴルバチョフは、もはや大統領の威厳がなくなっていた。着替える暇も与えずぼろぼろな姿でテレビの前に出されたのも、国民に無力を示す演出だったという。権力はもはやエリツィンに移っていたが、本人だけは、それに気づいていなかった。それまで、かたくなに拒んでいたバルト三国の独立を認め、寛容な新しいソ連体制ができたことをアピールしたが、政治的実効性を失って滑稽に見えたと分析している。

6. 情報屋としてのプロ意識
本書の中で、ところどころに著者が情報屋としてのプロ意識に芽生える様がうかがえる。モスクワの日本人記者は外交特権もないので、情報収集の際のリスクも外交官より格段に大きい。大使館が大勢でフォローしているのに、記者は数人で取材し分析している。にも関わらず、大使館のとれない情報をとってくる。そうした様を悔しそうに語る。
「本当の情報操作とは嘘に基づくものではない。部分的事実を誇張して相手側に間違った評価を与えることである。」
これだけ大きな変動がおきている場面では、国際政治や国際法の知識はほとんど役に立たない。むしろ、教会史や組織神学の知識の方が役立つと語る。本書はあらためて政教分離を考えさせられる。宗教は遠くから眺めてこそ見栄えがする。富士山は遠くから眺めると美しい。近くを登るとゴミが散乱している。

本書は、キャリア制度に疑問を持たせてくれる。著者はノンキャリアである。キャリアとノンキャリアで身分差があるのもおかしい。キャリア組は、専門職を恐れて最初から優位性を誇示したいのだろう。波長が合う先輩との会話で、わざわざ大使館を離れた場所に行って愚痴る場面がある。内部の足の引っ張り合いやら、醜い出世競争の渦がまいている。日本人にはソ連体制を嫌う人も多いだろうが、長く付き合うと体制まで似てくるといった話まで飛び出す。有能なキャリアはノンキャリアに対する扱いが丁寧であるらしい。優位性を誇示する必要がないのだろう。むしろ人間的にうまく付き合うことで、専門職の能力を有効に活用できるという論理的思考が働く。一方でキャリアでも明らかに能力の劣る者が、威張り散らすらしい。トイレ掃除を命じる輩までいるそうだ。昼メロ級である。
本物語には、学生やら知識人の見解が頻繁に登場する。その分析レベルは高度である。アル中ハイマーは、若い頃はもちろん現在においても、そんなレベルで物事を考えられない。社会に危機感がないと、優秀な知識人は生まれないのかもしれない。平和ボケでぬるま湯にどっぷりつかった社会では、せいぜ出世争いをするのがオチなのだろう。

2007-12-02

"国家の罠" 佐藤優 著

おいらは歴史の興味からラスプーチンが読みたいだけなのだ。それも古典風の。ところが、アマゾン検索は奇妙な答えを出す。最初にひっかかるのがなんと日本人。外務省のラスプーチン、佐藤優氏である。他をあたってみると、これまたしつこい。喧嘩を売ってんのか。そして、ドスの利いた声でつぶやく。「しょうがねーなあ。買ってやろうじゃねーか!」目的と違うからといって目くじらを立てることもない。人生とは寄り道である。こうして、アル中ハイマーはネット民主主義に屈っするのである。

著者のことは昔マスコミ報道で見かけた覚えがある。鈴木宗男氏との疑惑で捕まったダーティーなイメージがある。鈴木宗男氏と田中眞紀子女史の対立なんて聞きたくもない。アル中ハイマーには、マスコミ報道の固定観念が染み付いている。ところが、読んでみるとなかなかおもしろい。著者は情報屋で、それも凄腕のプロである様がうかがえる。その中で、プライドこそが情報屋の判断を誤らせる癌であると語る。また、神学や宗教哲学にも通じていて人間分析にも長けていそうだ。
本書は、外務省の陰謀や、政治家の足の引っ張りあいといった単なる政界の暴露本かと思っていた。前半はそうした部分もある。アマゾンでもそのような論評も多い。しかし、読みつづけると、そう簡単には片付けられるない。本書の主題は国策捜査である。国策捜査という言葉は流行りなのか?便乗したジャーナリストの問題提起した本が散乱しているようだ。民主国家において、政治の体制や方針を転換するには国民世論を必要とする。そのためにマスコミの支援は不可欠である。新旧体制の対立構図はワイドショーにできる。旧体制の象徴をスキャンダルに追い込めば、新体制への移行も容易となる。そこで、象徴的なターゲットに犯罪を作り上げ、その穴に落とし込む。これが国策捜査である。これは冤罪とは根本的に違う。冤罪は犯人を間違って罰するが、国策捜査はターゲットを葬る。元検事田中森一氏が告白本「反転」で、特捜が手がける事件は全て国策捜査であると語っていたのを思い出す。

本書の中で感銘を受けたのは、検事である西村氏の扱いである。敵対する相手を賞賛し、優秀な検事と被疑者の奇妙な関係を物語る。敵は外務省で、政界や霞ヶ関は「男のやきもち」の世界と、子供じみている。仕事は与えられた範囲でやればいいが、一線を越えると陥れられる。それが外務官僚の正体だという。本書はマスコミ不信も募る。著者の主張にはそれなりに説得力を感じるからだ。一流の情報屋にしてみれば酔っ払いを手玉に取るのは簡単だろう。おいらはニュースをあまり観ないようにしている。血圧が上がるからだ。事件に悲観しているのではない。著名なジャーナリストやタレントが正義感ぶって感情的な論調を繰り返すことに信憑性を感じないのである。ジャーナリストの口癖は、国民の知る権利を妨害してはならないと主張する。著者は、国民の知る権利は事実を知る権利であると主張する。アル中ハイマーは、迷惑な報道で悪酔いさせないでおくれと主張する。
本当の政治犯は、傲慢な官僚なのか?いや!それを監視する偉そうな政治家なのか?いや!それを選出する無知な国民なのか?いや!世論を扇動する無責任なマスコミなのか?ぐるぐる回って、ウォッカの力はついに闇の正体を教えてくれる。黒幕はダースベイダーなのだ。

本書は外務省の構図もわかりやすく説明してれる。外務省には学閥は存在しないが、「スクール」と呼ばれる研修語学別の派閥が存在するという。アメリカンスクール、チャイナスクール、ジャーマンスクール、ロシアスクールなど。また、業務による派閥もある。法律畑を歩んだ「条約局マフィア」、経済協力に関しては「経協マフィア」、会計専門は「会計マフィア」。近年は主要国首脳会議の裏方を担当する「サミットマフィア」もあるという。人事はスクールやマフィア内で行われ、情報も漏らさないため省内には閉鎖した小社会が形成される。これが良い方に出れば特出した専門家集団となり、悪い方に出れば不正の温床となるわけだ。本書は、著者が活躍したロシアスクールを中心に展開する。

1. ロシアの情報源、イスラエル
イスラエル建国を最初に認めたのがスターリン。もちろん理念を支持したのではなく、単にイギリスからの独立を支援したに過ぎない。冷戦構造とともにイスラエルはアメリカ陣営となる。国交断絶後、ソ連に在住するユダヤ人の出国は不可能となる。しかし、ユダヤ人は屈しない。抑圧政策を改めるようにロビー活動を展開する。これが米ソ問題まで発展しユダヤ人の出国を緩和させる。当時ソ連にイスラエル大使館は無かったのでオランダが代行していたらしい。出国希望のユダヤ人がオランダ大使館に殺到する。イスラエルの人口20%がロシア系だった。ちなみに、ソ連のオランダ大使館と日本大使館の距離は徒歩2分だったという。こうした背景で、著者はイスラエル人との関係を深めている。エリツィン大統領がチェルノムィルジン首相を解任したことが全世界で衝撃を受けたが、日本はいち早くこの情報を入手していたらしい。その情報ルートがイスラエルだったという。チェチェン問題も、プーチンが素早く制圧して国民の支持を得る。この時もイスラエル人のゴロデツキー教授から情報を得ている。これまで日本の政府関係者で、イスラエルの持つロシア情報に目をつけた人はいなかったらしい。ところが、ゴロデツキー教授に便宜をはかったことが、背任罪で逮捕されるきっかけとなる。

2. 北方領土問題
北方領土問題は、東西ドイツの分裂や東欧社会主義圏の成立と同様、第二次大戦の産物である。よって、解決する機会はベルリンの壁崩壊からソ連崩壊の間に最もチャンスが巡っていたと主張する。確かに、まともな論理に思える。その後にもチャンスは訪れているようだ。日露平和条約を締結するには、北方領土問題解決というのが互いの前提だったという。エリツィン大統領は、2000年までに平和条約に前向きだったらしい。その頃、自民党の大敗と、エリツィン大統領の健康悪化が重なった。小渕首相に至っては、北方領土問題の解決に熱心だっただけに、無念であることが語られる。ソ連崩壊で窮地に追い込まれた北方四島へのディーゼル発電機供給事業が行われる。ちょうど平和的に日本化が進む中、著者が偽計業務妨害容疑で逮捕される。これはクレムリンの陰謀か?ロシアの高級官僚にも領土縮小を快く思わない人がいるだろう。現在の外務省のロシア専門家は、アメリカのロシア研究については熟知しているが、西欧、イスラエルの研究にはほとんど関心を払っていないと指摘する。もはや、日露問題については絶望的なのだろうか?もし、その時代に北方領土問題が解決して日露平和条約が締結されていれば、当時ロシアの影響力が強かった北朝鮮との問題にも影響があったかもしれない。酔っ払いには、プーチンの時代では問題は悪化するように思える。というのもプーチンの資源帝国主義はかつての超ソ連の復活を目指しているように思えるからである。ソ連崩壊でKGBは解体されたが、プーチンの取り巻きは大部分を元KGBとFSBで固めているという噂だ。彼らに逆らう者は容赦なく消す。陰謀と暗殺のお国柄である。そういえばラスプーチンと似た名前だなあ。酔っ払いには、表向きの資本主義と旧共産体制が二重に見える。

3. 国策捜査
西村検事は、本件を国策捜査であると明言している。本件が鈴木宗男氏をターゲットにしたことは疑いの余地がない。ではなぜ、鈴木氏がターゲットにされたのだろうか?小泉政権では大きく二つで変化が現れた。
一つは内政である。競争原理を強化し経済を活性化する。ケインズ型公平配分路線からハイエク型傾斜配分路線への転換である。自民党政治の伝統は日本的な社会主義であることは、ほとんどの人が気づいているだろう。それを、経済的な強者が弱者を牽引し、弱者の生活水準も向上させるという方針に転換する。これは、かつてIMFと世界銀行が手がけた戦略に似通っているように思える。投機的なホットマネーを煽る金利政策や通貨政策をとり、世界レベルで経済的な弱者は強者の餌食になった。東アジア危機では多くの銀行を倒産させ、旧共産圏では市場経済へ移行する際、強烈なインフレを呼び込み庶民の財産価値を奪った。結果、世界中で貧困層を増大し不平等は拡大した。ホットマネーのリスクは現在でも市場を賑わしている。経済学者スティグリッツ氏は、グローバリズムに向かうのは自然の流れだが、この手法には社会的リスクという概念を無視していると警告していた。おいらは経済学は胡散臭いと思っているが、彼の本は何冊か読んでいる。中でも社会学的にアプローチしている点に感銘を受けている。おっと!ウォッカのせいで脱線してしまった。
国民の支持率が権力基盤である小泉政権は、競争原理の強化は地方を弱体化することや、金持ち優遇で傾斜配分が国益になるとは公言できない。そこで公平配分路線の政治家を血祭りに上げた。つまり、橋本元総理や森元総理でもよかったというのである。
二つは外交戦略である。国家意識、民族意識の強化。多角的外交路線から親米主義一本化へ。国際協調主義から排外主義的ナショナリズムへの転換であるという。安部元総理の「美しい日本」というのは、ナショナリズム高揚の道具なのだろうか?鈴木氏は、国際協調路線から北方領土問題を解決しようとした。四島一括返還以外は国是に反するとして、二島返還や先行二島返還は私的外交と非難される。そして、内政、外交の両面から攻撃対象として鈴木氏が適任だったというのである。この見解は、西村検事と著者で一致したようだ。国策捜査は突然終幕。最後に森元首相につながるということで検察庁は躊躇する。結局、ディーゼル発電機供給事業に関わった三井物産の社長は引責辞職。丸紅は入札に加わらない対価として5千万円を得た。これは税金である。しかし、鈴木氏との関わりは三井物産なので、丸紅は刑事責任を終われていない。本事件の勝者は、外務省執行部であると語られる。

4. 西村検事
西村検事は、国策捜査は「時代のけじめ」をつけるために必要であると皮肉っている。かなり激しい取り調べが展開されたかと想像していたら、心温まる話が多い。検事と被疑者が一緒に事件を分析しているあたりは、とても拘留されている話とは思えない。事件後、西村氏は水戸へ左遷されたという。官僚の世界では出世する奴の方が頭がおかしいのかもしれない。著者は西村検事についてこう評している。
「上司に媚を売るようなタイプではなく職人気質な検事である。人間として本当に勝負をかけている感じがする。誠実で優れた、実に尊敬に値する敵であった。」

せっかくだからスキャンダル沙汰も少しだけメモっておこう。
田中眞紀子女史は、9.11テロ事件の数時間後、米国務省の緊急連絡先を記者団に漏らすという大失態を演じた。また、突然人事課に乗り込み一室に篭城し、人事異動命令書をタイプさせるという暴挙にでた。米国務長官との会談をドタキャンした事件も非難の対象とはなるが、眞紀子イジメだとする感情論に支配された。ジャンヌ・ダルクと思っていたら西大后だったというオチである。

ここで著者とエリツィンが一緒に酒を飲んだエピソードを付け加えておこう。
ロシアでは友情を交わすのに3回キスするのがしきたりで、3回目には舌を軽く入れてくるのが親愛の証だそうだ。エリツィンもこのしきたりに従って酔うと男同士でキスをする。もう少し高いレベルの親愛もあるらしいが、日本の文化では想像に辛いという理由で紹介してくれない。もしかしたら著者はエリツィンにやられているのかもしれない。最後にうまいフレーズもメモっておこう。
「霞ヶ関と永田町は隣町だが、その距離は実はいちばん遠い。なぜなら、地球を反対側に一周しなくては行き着けないからである。」