2011-12-25

"ユークリッド原論 縮刷版" ユークリッド 著

人類の遺産で最も厳密性を極めた書と言われ、二千年以上も読み継がれるロングセラー振りは聖書に劣らない。ただ、この幾何学の基礎の基礎を義務教育から慣れ親しんできたというのに、いまだ原典的なものに触れたことがない。バイブル的存在としてあまりに早く知ってしまうと、逆に当たり前という意識が定着して疎かになることがある。生涯で一度は、この古典に触れてみたい。

「原論」の最高の意義は、その論法にあろう。自明であって証明の要なしという宣言は、まさに直観の偉大さを示してる。それは、定義、公準、公理で始まる論理スタイルが物語っており、人間能力の限界ひいては言語論の限界を唱えているように映る。また、あらゆる命題とその証明の後で「これが証明すべきことであった(Q.E.D.)」と締めくくる叙述方法は、今では哲学でお馴染みだが、定理の普遍性を強調している。こうした特徴は、ある意味宗教的ですらあるが、確実に宗教と一線を画す。幾何学とは、人間認識の立体的感覚、すなわち精神空間から生じた真理の学問とすることができよう。数学とは言語である。そして純粋な精神の手段である。それを実感させてくれる一冊である。
尚、本書は、共立出版(1996年)から刊行された「縮刷版」である。既に絶版となっているので図書館を利用した。だが、とても貸出期限2週間で読破できる代物ではない。一度は延長させてもらったが、二度となると顰蹙であろうか。てなわけで、アル中ハイマーな能力では斜め読みするぐらいしかできない。おっと、いつのまにか「追補版」が刊行されている。ちと高いが、衝動は抑えられそうにない。

「原論」と言えば、幾何学の集大成という印象がある。その通りであろうが、歴史的には代数的に解釈されてきた部分もある。驚くべきは、全13巻のうちのほぼ半分が無理量を扱うことに費やされることだ。代数的手段をまったく持たない古代ギリシャ数学において、これは由々しき問題である。そこで、数論を導入しながら、量の大小関係から比や比例関係を扱い、更に相似形によって相対的に無理数を説明する。幾何学のみで説明しようとすれば、そうするしかないのかもしれん。近代数学においても、多くの微分方程式が解けない事情から、大小関係から近似的に迫る方法が盛んに行われる。ε-δ論法はその最たるものだろう。そぅ、アル中ハイマーを数学の落ちこぼれにしやがった、あの忌々しいやつだ。得体の知れない対象に迫るには、既に分かっている量と比較しながら近づいていく。これが相対的認識能力しか持てない知的生命体の典型的な思考方法、あるいは合理性なのかもしれない。
無理量を大々的に扱っている第10巻は、なんと全体の1/3を占める。そして、二項線分、余線分、優線分、劣線分とかいう奇妙な言い回しで、無理線分なるものを定義している。そもそも、こんな量を扱う目的とは何か?それは、プラトン立体の正体を暴くための布石であろうか?古代ギリシャにおいて、プラトン立体の存在は哲学的にも大きな意義を持っていたに違いない。「原論」の目的とは、ピュタゴラスの定理とその拡張からプラトン立体に至るまでの道しるべ、すなわち、プラトン宇宙の体系化と解釈するのは行き過ぎであろうか?そう思えるのは、最後の第13巻が正多面体論で締めくくられるからである。
また、議論が盛り上がると、背理法的に命題が組み立てられる。もともと帰謬法と呼ばれた思考方法である。矛盾を仮定しながら、自ら解決するといった記述も目立つ。対話的でもある。当時、弁証法的思考から背理法的思考を進化させたのかもしれない。ユークリッドは、哲学と数学の境界線を明確にしようとしたのだろうか?
「原論」は、厳密性を重視した思考の方法論であるがために、読み辛い書となるのは避けられない。おまけに代数的な記号がまったくないので、プラトン立体が幾何学のみで表現されるのはなかなかの見物だ!ゲーテ曰く、「制約の中にのみ、巨匠の技が露になる。」
それにしてもプラトン立体が二重根号に帰着するとは...知っていたとはいえ、最後の最後に溜息しかでん!

[ 第1巻: 三角形と平行線、ピュタゴラスの定理 ]
三角形の合同条件や平行線の性質が綴られ、ピュタゴラスの定理に辿り着く。その定理が示す直角三角形の性質が知られたのは、「原論」よりもはるかに古く、古代バビロニアや古代中国においてである。だが、証明によって完全なる定理としたのは古代ギリシャであった。それは「ギリシャ人の奇蹟」と言われるそうな。
まず、23個の定義が唐突に始まり、次にあの有名な5つの公準が続く。
  1. 任意の点から任意の点へ直線をひくこと。
  2. および有限直線を連続して一直線に延長すること。
  3. および任意の点と距離(半径)とをもって円を描くこと。
  4. およびすべての直角は互いに等しいこと。
  5. および1直線が2直線に交わり同じ側の内角の和を2直角より小さくするならば、この2直線は限りなく延長されると2直角より小さい角のある側において交わること。
第五公準は平行線公準として知られ、これだけが明らかに異質である。古くから、第五公準は公理ではないかという意見があり、証明の必要性を唱える批判がある。ここに、非ユークリッド空間の可能性を示唆していたと想像するのは、考え過ぎだろうか?まさに、非ユークリッド空間の存在は第五公準の崩壊によって証明されたのだから。

早々、あの「ロバの橋」の証明が登場する。中世の大学生がつまずくことから、落ちこぼれには渡れないと皮肉られるやつだ。

「命題5: 二等辺三角形の底辺の上にある角は互いに等しく、等しい辺が延長されるとき、底辺の下の角は互いに等しいであろう。」

[ 第2巻: 幾何学的代数 ]
「定義2: いかなる平行四辺形においてもその対角線をはさむ平行四辺形のどれか一つは二つの補形と合わせてグノーモーンとよばれるとせよ。」

グノーモーンってなんじゃ?日時計が作る影と棒の関係のようなL字型の図形を言うようだ。
数論では、奇数の和を平方数で表すようなことをする。
 Σ(2k -1) = n^2
あるいは三乗和の公式のようなものもある。
 1^3 + 2^3 + ... + n^3 = (1 + 2 + ... + n)^2
これらはグノーモーンの考えから示される。すべての数は、縦・横の面積で説明がつき、すなわちグノーモーンに通ずというわけか。
ところで、第2巻の命題はすべて代数的な表現に対応するというから凄い!その内容を訳注に従って書き出すとこんな感じ。

 命題1: a(b + c + d + ...) = ab + ac + ad + ...
 命題2: (a + b)a + (a + b)b = (a + b)^2
 命題3: (a + b)a = a^2 + ab
 命題4: (a + b)^2 = a^2 + b^2 + 2ab
 命題5: ab + {(a + b)/2 - b}^2 = {(a + b)/2}^2
 命題6: (2a + b)b + a^2 = (a + b)^2
 命題7: (a + b)^2 + a^2 = 2(a + b)a + b^2、あるいは a^2 + b^2 = 2ab + (a - b)^2
 命題8: 4(a + b)a + b^2 ={(a + b) + a}^2
 命題9: a^2 + b^2 = 2[{(a + b)/2}^2 + {(a + b)/2 - b}^2]
 命題10: (2a + b)^2 + b^2 = 2{a^2 + (a + b)^2}
 命題11: x^2 + ax = a^2
 命題12: a^2 = b^2 + c^2 + 2b(-c cos a)
 命題13: b^2 = a^2 + c^2 - 2a(c cos β)
 命題14: x^2 = ab

こうして羅列してみると、かなりの部分で重複している。「原論」が厳密な書であるならば、必要最小限の命題しかないように配慮されているはず。幾何学的に何か意図があるのだろうか?ある研究によると、円錐曲線論を扱う統一的方法としての見解もあるそうな。尚、命題11と命題14は、二次方程式を解くことに相当する。

[ 第3巻, 第4巻: 円の性質、方べきの定理 ]
第3巻では、弦や接線、円周角と中心角、接弦定理を経て、方べきの定理に辿り着く。方べきの定理では、円と点の関係、しかも点は、円の外にある場合と内にある場合で区別される。これは、代数学と幾何学の抽象レベルの違いを示しているのか?あるいは、位相幾何学の概念を示唆していたと解釈するのは考え過ぎか?
第4巻では、円に三角形や多角形を内接、外接させる作図を扱い、正五角形の作図で盛り上がる。そして、正六角形を経て、十五角形の作図に踏み込む。その方法は、ピュタゴラスの定理の拡張という形で到達している。ここには、すべての平面図形を抽象化すれば、三角形と円の二種類に帰着するという考え方があるように思える。そして、三角形の作図は黄金比に帰着するというわけか。あの神の比だ。んー、やっぱり位相幾何学に通ずるものを感じる。

[ 第5巻, 第6巻: 比例論 ]
第5巻では、比と比例に関する基本定理が扱われる。無理量を扱うための準備といったところであろうか。ただ、比例の定義はかなりややこしい。比や比例は初等的な問題であるが、これを一般化して言及すると案外難しいようだ。

「定義5: 第1の量と第3の量の同数倍が第2の量と第4の量の同数倍に対して、何倍されようと、同順にとられたとき、それぞれ共に大きいか、共に等しいか、または共に小さいとき、第1の量は第2の量に対して第3の量が第4の量に対すると同じ比にあるといわれる。」

「定義10: 4つの量が比例するとき、第1の量は第4の量に対して第2の量に対する比の3乗の比をもつといわれる、そして何個の量が比例しようと常につぎつぎに同様である。」

定義5は、なんとなく言わんとしたことが分かるが、定義10は難解だ。4つの量による列の関係を示しているようで、ベクトル的な解釈もできそう。近代になって、この比例論が重要視されるのは、通約量、不可通約量の如何にかかわらず、一般量として成立することだという。不可通約量とは、現代では無理数に対応するもの。ユークリッドの時代、無理数の存在をどのように感じたかは知らん。ただ、ピュタゴラスの「万物は数である」という信仰が強ければ、表現できない数字があることに危機を感じたことだろう。数自体が明確にできないとなれば、相対的に扱うしかない。これが比や比例の意義であろうか。
第6巻では、その応用として三角形の相似や相似図形の基本問題を扱い、相似となる平行四辺形の作図、面積作図の定理が証明される。

[ 第7巻, 第8巻, 第9巻: 数論 ]
第7巻では、約数や倍数、最大公約数や最小公倍数、素数、互いに素な数の性質が扱われる。

「定義21: 第1の数が第2の数の、第3の数が第4の数の同じ倍数であるか、同じ約数であるか、または同じ約数和であるとき、それらの数は比例する。」

この定義は、第5巻の比例論から引き継がれる。ただ、ここではまだ無理数に適応されていないようだ。
最大公約数を求める方法では、いわゆる「ユークリッドの互除法」が登場する。

「命題1: 二つの不等な数が定められ、常に大きい数から小さい数が引き去られるとき、もし単位が残されるまで、残された数が自分の前の数を割り切らないならば、最初の2数は互いに素であろう。」

第8巻と第9巻は、連続比例する数がテーマで、現代風に言えば等比数列といったところか。そして、第9巻では、エレガントさで知られる「ユークリッドの素数定理」が登場する。

「命題20: 素数の個数はいかなる定められた素数の個数よりも多い。」

つまり、素数は無限に存在するというわけだが、その証明を要約するとこんな感じか。
...
定められた個数の素数をA, B, Γ とせよ。A, B, Γ よりも多い素数があると主張する。A, B, Γ で割り切れる最小数ABΓ をとり、これに単位(=1)を加えたとせよ。そうすれば、ABΓ+ 1 = Hが素数であるかないかである。まず、素数であるとすれば、素数A, B, Γ よりも数の多い素数A, B, Γ, H があることになる。素数でないとすれば、H は素数のどれかで割り切れなければならない。しかし、Hは、ABΓ+ 1 でしか割り切れないのでこれまた素数であると主張する。したがって、定められた素数A, B, Γ よりも多い数の素数A, B, Γ, Hが見出された。
...
んー...思考がエレガントでも、言い回しが馴染めない。

第9巻の後半は、偶数と奇数に関する基本的な命題が扱われ、最後に完全数が証明される。完全数とは、約数の和がその数自身と等しくなる数で、例えば、6 = 1 + 2 + 3, 28 = 1 + 2 + 4 + 7 + 14 がある。古代の歴史では、神が6日間で世界を創った天地創造、月の公転周期は28日、などの解釈で知られている。

「命題36: もし単位から始まり順次に1対2の比をなす任意個の数が定められ、それらの総和が素数になるようにされ、そして全体が最後の数にかけられてある数をつくるならば、その積は完全数であろう。」

「単位から始まる」というのは、1から始まることを意味する。そして、素直に書いてみると。
...
まず、順次に 1 : 2 の比をなす数、A, B, Γ, Δ があるとすると、1 + A + B + Γ + Δ = E が素数ならば、E x Δ = ZH となるようにすると、ZHは完全数になるとのこと。
...
現代風に書けば、「2^n - 1 が素数ならば、2^(n - 1)・(2^n - 1)は完全数」となるが、随分と違った景色が広がる。

[ 第10巻: 無理量論 ]
第10巻は命題が115個もあり、もう気が狂いそう!歴史的にも最も難解とされるところである。ここでは第2巻や第5巻から続く、無理量の詳細な理論が展開される。無理量とは通約できない量である。例えば、正方形の対角線など比の値が無理数になる量のこと。定義では、「いかなる共通な尺度ももちえない量は通約できない量」としている。通約できないということは、明確な数値で表せないことを意味し、比で相対的に扱うしかないというわけだ。そして、有理線分と無理線分、有理面積と無理面積の概念が出現する。比は方形の面積で扱われる。有理面積とは、長さにおいて通約可能な有理線分で囲まれた方形の面積のこと。無理面積とは、有理線分で囲まれても、平方においてのみ通約可能となる場合の面積のこと。
また、x^2 = ab から定められる辺xは無理線分であり、これを中項線分と呼んでいる。これは第2巻の命題14に相当する。更に、重要な概念として、二項線分、余線分、優線分、劣線分という奇妙な用語に振り回される。

「命題36: もし平方においてのみ通約できる二つの有理線分が加えられるならば、全体は無理線分であり、そして二項線分と呼ばれる。」
その証明では、次のように設定される。
「平方においてのみ通約できる二つの有理線分AB, BΓが加えられたとせよ。AΓ全体は無理線分であると主張する。」

「命題73: もし有理線分から全体と平方においてのみ通約できる有理線分がひかれるならば、残りは無理線分である。それを余線分とよぶ。」
その証明では、次のように設定される。
「有理線分ABから有理線分BΓがひかれ、BΓは全体と平方においてのみ通約できるとせよ。残りのAΓは余線分とよばれる無理線分であると主張する。」

「命題39: もし平方において通約できず、それらの上の正方形の和が有理面積で、それらによってかこまれる矩形が中項面積である2線分が加えられるならば、この線分全体は無理線分であり、そして優線分とよばれる。」
その証明では、次のように設定される。
「平方において通約できないで、与えられた条件をみたす2線分AB, BΓが加えられたとせよ。AΓ全体は無理線分であると主張する。」

「命題76: もし線分からその線分全体と平方において通約できない線分がひかれ、全体とひかれた線分との上の二つの正方形の和を有理面積とし、それらによってかこまれる矩形を中項面積とするならば、残りは無理線分である。そして劣線分とよばれる。」
その証明では、次のように設定される。
「線分ABから線分BΓがひかれ、BΓは全体と平方において通約できず与えられた条件をみたすとせよ。残りのAΓは劣線分とよばれる無理線分であると主張する。」

命題36と命題第39では点Γが線分ABの延長上にあるのに対して、命題73と命題76では点Γは線分AB上にある。気になってしょうがないのは、直線や点の名前の付け方に一貫性がないことである。命題41の補助定理あたりからの流れによるもののようだが、実にらしくない。二項線分や無理線分、あるいは、余線分や劣線分といった用語の使い方は、平方根を幾何学的に記述した結果であろうが、今日では当たり前とされる無理数の存在を認めないと、こうも複雑になるものか?この言い回しが、第13巻の正多面体論にも影響を与えるから頭が痛い。
尚、第10巻の目的は、現代風に書くと √(√a ± √b) の二重根号の形で表される無理量の一般化を考察しているらしい。

[ 第11巻と第12巻: 立体幾何学と取尽くしの方法 ]
第11巻では、立方体が扱われ、平面と点、平面と直線、平面と平面の位置関係が述べられた後に平行六面体が議論される。

「命題33: 相似な平行六面体は互いに対応する辺の3乗の比をなす。」

第12巻では、角錐、円柱、円錐、球の体積を扱い、「取り尽くし方法」と呼ばれる手法が用いられる。取り尽くし方法とは、図形の面積や体積を求める手法の1つで、ある図形に内接する多角形を描き、その面積から元の図形に近づけていく方法だという。現代で言う微積分の感覚であろうか。その方法が使われているのが、6個の命題だという。

「命題2: 円は互いに直径上の正方形に比例する。」
「命題5: 同じ高さをもち三角形を底面とする角錐は互いに底面に比例する。」
「命題10: すべての円錐はそれと同じ底面、等しい高さをもつ円柱の3分の1である。」
「命題11: 同じ高さの円錐および円柱はそれぞれ互いに底面に比例する。」
「命題12: 相似な円錐および円柱は互いに底面の直径の3乗の比をなす。」
「命題18: 球は互いにそれぞれの直径の3乗の比をもつ。」

[ 第13巻: 正多面体論 ]
正四面体、正六面体、正八面体、正十二面体、正二十面体を作図し、それぞれの辺と球の直径を比較する。つまり、プラトン立体で締めくくられるわけだ。そして、第10巻で準備された無理線分、あるいは劣線分や余線分との関係が述べられる。

「命題12: もし円に等辺三角形が内接するならば、三角形の辺の上の正方形は円の半径の上の正方形の3倍である。」
つまり、円に内接する正三角形の辺の2乗は円の半径の2乗の3倍であるとしている。
すなわち、s3 = (√3)r の関係。ただし、rは半径。

「命題13: 角錐をつくり、与えられた球によってかこみ、そして球の直径上の正方形が角錐の辺の上の正方形の2分の3であることを証明すること。」
つまり、球の直径の2乗は内接する正四面体の辺の2乗の2分の3であるとしている。
すなわち、k4 = {2√(2/3)}r の関係。

「命題14: 正八面体をつくり、先のように球によってかこみ、そして球の直径の上の正方形が正八面体の辺の上の正方形の2倍になることを証明すること。」
つまり、球の直径の2乗は内接する正八面体の辺の2乗の2倍であるとしている。
すなわち、k8 = (√2)r の関係。

「命題15: 立方体をつくり、角錐の場合のように球によってかこみ、そして球の直径上の正方形が立方体の辺の上の正方形の3倍になることを証明すること。
つまり、球の直径の2乗は内接する立方体の辺の2乗の3倍であるとしている。
すなわち、k6 = (2 / √3)r の関係。

「命題16: 正二十面体をつくり、先の図形のように球によってかこみ、そして正二十面体の辺が劣線分とよばれる無理線分であること証明すること。」
すなわち、k20 = {√(10 - 2 √5) / √5}r、これは劣線分との関係。

「命題17: 正十二面体をつくり、先の図形のように球によってかこみ、そして正十二面体の辺が余線分とよばれる無理線分であること証明すること。」
すなわち、k12 = (√15 / 3)r - (√3 / 3)r、これは余線分との関係。

最後に劣線分と余線分との関係が示されるということは、二重根号からは逃れられないということか。平方根は方形の面積で記述できるが、その面積の大小関係に踏み込めば、それも必然であろうか。はぁ~!

2011-12-18

"ユークリッド「原論」とは何か" 斎藤憲 著

雑念を払い、ひたすら厳密性に傾注した記述とはどんなものか?到底手の届かない領域にあることは想像に易い。それでも、生涯で一度は触れてみたい古典がある。アル中ハイマーな知識では、いきなり読んでも退屈するだろう。そこで、心の準備となる書を漁ってみた。

「原論」は、紀元前3世紀頃に成立したと言われるギリシャ語で書かれた数学書である。そして、9世紀にはアラビア語に、12世紀にはアラビア語からラテン語に翻訳されたという。
言語の優位性を眺めれば、その時代の文化や学問の勢力を読み取ることができる。8世紀頃、数学はイスラム世界を中心に発展し、ルネサンス期には科学論文はラテン語で書かれた。18世紀頃、文化の中心がパリへ移ると王侯たちはフランス語を学び、あのフリードリヒ大王までもフランスかぶれになった。20世紀以降、留学先はイギリスやアメリカが中心となり英語が世界語となった。よって、母国語の優位性を主張したければ、その言語圏で文化や学問を世界の最高水準に高めればよかろう。尚、ユークリッドの名は英語読みで、ギリシャ語ではエウクレイデスとなる。

「原論」は全13巻で構成される。だが、数々の写本が残されるものの原本は現存しないらしい。現在出版される各国語訳は、デンマークのハイベアが1880年代に出版したギリシャ語校訂版に基づくという。これは、19世紀初頭、フランスのペイラールが発見したヴァチカン図書館所蔵の9世紀の写本を基にして、他の写本を参考にしながら作られたものだという。そして、数々の修正を繰り返しながら今日に至る。
本書には、その第V巻までの概要が紹介される。このあたりが初等数学として一番多く読まれる箇所であろう。三角形や平行線、あるいは円や多角形の考察は、幾何学の基礎として数学入門者の間でも人気が高い。最初の6巻だけの簡略版も多く出回っているようだし。
ところで、ユークリッドは実在したのだろうか?集団説もあるが、今ではあまり顧みられることはないようだ。プトレマイオス朝の時代、アレクサンドリアで活動したという説はよく耳にする。ちなみに、「数学には王のための道はありません」と答えたという逸話もあるとか。ユークリッドに言及している最初の数学者はアポロニウスだという。
それにしても、古代ギリシアで、なぜ厳密性を問うような文献が誕生したのだろうか?霊感や占星術の盛んな時代にもかかわらず。ピュタゴラス教団でさえ宗教結社とされるのに。当時、ソフィストたちが、政治的、社会的影響力があったのは間違いなかろう。弁論術や処世術を教えて喰っている自称教育家たちである。ソクラテスは彼らを詭弁家として思いっきり批判したとされる。彼らの存在が、逆に主観性を極力排除すべし!という認識を急激に育てたのかもしれない。現在ですら、論理性に主観性が結びつくと、しばしば議論が迷走するのだから。主観性の強すぎた哲学が論理性を取り入れながら変化し、更に純粋な客観性としての数学が分離していく時代だったのかもしれない。

科学では、命題を検証や証明によって記述し、その命題の連鎖によって定理を積み重ねていく伝統がある。逆に言えば、一つの命題が否定された途端に脆くも崩れるという危険性を孕んでいる。客観性を強調するために、純粋な証明以外のメタ的見解を排除しようと努力してきた。まさに「原論」の示す形式である。
しかし、本書は意外な面を紹介してくれる。線や円など図形の名前のつけ方に一貫性がまるでないこと。命題参照で命題番号を付けずに代名詞で扱っていること。そして、暗黙的な表現が多く、一部の識者の共通認識を前提として書かれている節があるというのだ。数学の文献として整えられたのは、ずっと後になってからのことらしい。
また、図版では特殊なケースを扱っていて、一般化の配慮がまったくなされていないという。三角形を扱うのに二等辺三角形や直角三角形は特殊なケースだが、見映えがいいのも確かである。だが、紹介される写本の図版は現在の見慣れた図版とは大きく違い、わざわざ難しくしているようにも見える。実に奇妙だ。記述をパピルスや岩に残すことができたとしても印刷術のない時代、知識を伝えるには主に言明を手段にしていたことが推察されるという。代名詞を多用するのも、図版よりも言明を重視した結果ではないかと。この時代、まだ言明と文献の区別があまりなかったのかもしれない。そのために説明不足も生じる。同時に、最小限の命題とともに最小限の物言いで研究者たちの想像力を掻き立ててきたとも言えそうだけど。論理学では、余計な解釈や余計な形容を用いないという鉄則がある。アル中ハイマーの最も苦手とするところだ。
カント曰く、「多くの書物は、これほど明晰にしようとしなかったら、もっとずっと明晰になったろうに。」

1. 定義、そして公準と公理
原論には序文がなく、唐突に点や線の定義から始まるという。こんな具合に。
「点は部分のないものであり、また線は幅のない長さであり、また線の端は点である。直線とはその上の諸点に対して等しく置かれている線である。...」
その前の時代でも、アリストテレスの著書「自然学」のように、序文で前提や立場などが語られる慣習があったらしいが、唐突に始まるのは珍しいようだ。ちなみに、「自然学」は当時の物理学書のようなもの。
では、なぜ原論は唐突に始まるのか?実は、もっと前の紀元前5世紀、「原論」なるものがキオスのヒポクラテスによって編集されたという。尚、医学のヒポクラテスとは別人。それも完全に失われているので、ユークリッドのものが最古ということになるそうな。通説ではユークリッドはプラトンやアリストテレスの影響を受けたことになっているが、「原論」は哲学的議論を避けるようにできているという。論証スタイルも、アリストテレスの哲学論法とはまったく違うそうな。自明な事象を淡々と羅列する形式は、哲学の入り込む余地などないと宣言しているのか?そして、哲学なんぞに頼らなくても、最低限の公準や公理だけで宇宙は説明できるとでも言っているのか?
最初の点や線の定義は20数個からなり、次に証明なしで承認を要求するという。それぞれ「要請」「共通概念」とし、今日では「公準」「公理」と呼ばれるものである。いわば自明というわけだ。
ところで、有名な5つの公準のうち、第五公準はだけが長文でややこしいのはどういうわけか?いわゆる平行線公準である。ここに、非ユークリッド空間の可能性を示唆していたと想像するのは、考え過ぎだろうか?非ユークリッド空間が証明されたからといって、ユークリッドを蔑む気にはなれない。その本質的意義は論法にあるからだ。宇宙を説明する時、自明だが証明できないものがあるという前提は、天地を覆す発想である。これぞ、人類の最高の知的財産ではなかろうか。客観性と同じくらい直観の偉大さを示しているわけだが、ある意味宗教的ですらある。だから批判にも曝されるのだけど。科学と宗教の違いは紙一重ということであろうか。少なくとも、神の存在と死後の世界を具体的に提示するよりは、はるかに進んだ思考である。

2. 論理スタイル
定義、要請、共通概念の次に命題がくる。命題は伝統的に定理と問題に分けられるという。なんらかの性質を証明するのが定理である。なんらかの条件を満たす対象を得るのが問題で、図形ならば作図法を、整数論ならば数を求める手続きを示す。命題は六つの部分に分けられるのが慣例だという。それは、言明、提示、特定、設定、証明、結論。まず、命題を一般的に「言明」し、点や図形などを導入して「提示」する。次に、命題に即して少し言い換えて「特定」する。そして、具体的な作図手順を「設定」する。最後に、「証明」して「結論」を述べる。...といった具合。
おもしろいのは、命題の最後の最後に「これがなされるべきことであった」と締めくくられるという。それが、定理だったら「これが証明されるべきことであった」となる。そのラテン語文は、前者が Quod Erat Faciendum. 後者が、Quod Erat Demonstrandum. 略して Q.E.F. や Q.E.D. となる。哲学書でもお馴染みのフレーズだ。
ところで、古代、あらゆる運動や変化を否定したエレア派という学派があったそうな。ユークリッドは点や線から生じる物理現象を説明していることから、エレア派への対抗意識があったという意見もある。それを強く主張したのがアルパッド・サボーという人だそうな。エレア派の始祖パルメニデスの言葉に、「あるものはある、あらぬものはあらぬ」というのがあるという。あるというのは存在を意味し、存在することと存在しないことは違うこととして、存在から存在しない状態に変化することは矛盾すると考えるそうな。その解釈が拡張されると、物体の変化や運動の存在すら否定される。その対抗意識で、なにかと批判や文句を言う奴の顔を思い浮かべながら書くと、無味乾燥的な書になるのかもしれない。すなわち客観性に訴えることになろう。「原論」は、それを実践した結果なのかもしれない。

3. 幾何学的代数
第II巻には、ちょっと変わった歴史があって、20世紀に激しい論争が巻き起こったという。歴史的には、アポロニウスの「円錐曲線論」の研究で、「原論」の第II巻が本質的に代数であると主張したあたりから始まり、20世紀にはノイゲバウアーの「幾何学の衣をまとった代数」という解釈が通説になったという。
この論争で注目すべきは、命題5と命題6だという。
今、2つの線分 a, b で囲まれる長方形を r(a, b) と表し、線分aで囲まれる正方形を q(a) と表す。そして、面積公式から、r(a, b) = ab, q(a) = a^2 と書ける。

「命題5: 直線ABが点Gで二等分され、別のAB上に点Dが取られているとき、AD, DBに囲まれる長方形 r(AD, DB) に2つの分点G, D間の直線GD上の正方形 q(GD) を加えたものは、全体の半分上の正方形 q(BG) に等しい。」

この命題は、r(AD, DB) + q(GD) = q(BG) が成り立つと言っている。
ここで、AG = GB = a, GD = b とすると、次の展開式に対応する。

 (a + b)(a - b) + b^2 = a^2

実は、命題6も同じ展開式に対応する。命題5との違いは、点Dの位置で、命題5が線分AB上にあるのに対して、命題6では線分ABの延長上にあること。
そして、r(AD, DB) + q(GB) = q(GD) となり、展開式では次のようになる。

 (b + a)(b - a) + a^2 = b^2

つまり、命題5と命題6は代数的解釈では同じというわけだ。では、なぜ重複する命題が存在するのか?幾何学的に配置が違うことに意味があるのか?これが論争の焦点である。
従来の定説では、2数の和と積から求める連立方程式の解法に結びつけるものだったという。x + y = p, xy = Q の連立方程式が命題5に対応し、x - y = p, xy = Q の連立方程式が命題6に対応する。
作図問題が代数学と結びつくことは近代数学ではよくある話だが、はたしてユークリッドの時代にそこまで意図されていたのか?和や積が代数と結びつく幾何学的問題は、紀元前10世紀のバビロニア数学に遡るという。そして、バビロニア数学がギリシアに伝わり、「原論」に影響を与えたという説があるそうな。
なぜ代数学を幾何学で表したのかというと、ギリシア人は無理数というものを持たなかったので、平方根を表すのに幾何学的な手段を用いざるをえなかったという。ギリシア数学では、非共測量の発見後も無理数という形を用いなかったそうな。「原論」では、やたらと比や比例という概念を用いているらしい。幾何学的に言えば相似である。しかし、バビロニアの方程式の解法が「原論」に影響したという証拠はないらしい。
いずれにせよ、第II巻の命題が後述にどのように利用されるかを見ていけばよかろう。だが、あまり利用されていないというから困ったもんだ。強いて言えば、円錐曲線の理論で使われるぐらいだという。ちなみに、アルキメデスの業績のかなりの部分は、円錐曲線とその回転体に関する面積と体積の決定だという。ユークリッド自身も「円錐曲線原論」なる著作があったと言われているとか。では、第II巻の命題は、円錐曲線の理論のための補助定理だったかというと、そう単純でもなさそうだ。
本書は、「原論」で後述される「方べきの定理」で幾何学的な意義の可能性を説明してくれる。方べきの定理では、似たような定理でも巧妙に配置を変えることによって様々な形をとることが見て取れる。要するに、議論の対象とする点を円の外に置くか、円の内に置くかの違いで量的関係も変わってくるということのようだ。

4. 正五角形の分析
第III巻では三角形や多角形と内接、外接する円の問題が扱われ、続いて第IV巻では正五角形に関する命題が検討される。正五角形に関する命題は、「原論」の中でも屈指の成果だという。その本質的な作図は第IV巻の命題10にあり、それまで展開された多くの理論や技法が集中的に利用されるという。第I巻から第IV巻までの山場というわけか。尚、正五角形を円に内接させる作図は、続く命題11で行われる。
ギリシア数学では、作図すべき図形が描けてしまったと想定して、そこから何が成り立つかを探求する技法が使われたという。その技法は、「アナリュシス(分解)」と呼ばれるそうな。analysis の語源か。だが、当時の文献で解析手順を記したものは珍しいという。命題10でも、解析がなされたと推測されている程度のものらしい。
本書は、この命題の逆順を追っていくと、三角形の作図は黄金分割に帰着するという。その重要な概念は、比例と相似である。正五角形の作図には、三角形の相似と辺の比例がつきまとう。だが、これを巧みに回避しているらしい。命題10の議論は、比例と相似という言葉を回避することに大半が占められるという。
また、よく知られる「比例の内項の積は外項の積に等しい」という定理に相当するのは、第VI巻の命題17に現れるという。ただ、原論には線分の積という概念はなく、代わりに長方形や正方形の面積が使われているようだ。
更に、第IV巻では、命題16で正十五角形の作図法が記される。プロクロスは、この命題を天文学に関係すると指摘したという。正十五角形の一辺に対する中心角24度は、天文学で重要な黄金傾斜にほぼ等しい。ただ、命題16はその表現や形式から後世の追加であることがほぼ確実で、プロクロス以前の追加と考えられているそうな。

5. 比例と非共測量(無理量)
相似関係は初等的な問題であるが、比というものを非共測量と絡めると、これを言明するのは意外に難しいかもしれない。正方形の辺をs、その対角線をdとした時、その比である d/s = √2 となるのは、三平方の定理で簡単に導ける。しかし、無理数だ。ピュタゴラスの「万物は数である」という信仰が根強くあれば、数学の危機を感じたことだろう。近代数学で言えば、不完全性定理の発見と似たような状況にあったのかもしれない。数自体が明確に表現できないとなれば、比較によって相対的に記述するしかない。これが、比や比例の意義であろうか。となれば、相対的な認識しか持てない人間にとって、比較するという行為は本質的なもの、あるいは本能的なものかもしれない。
ところで、「原論」の比例の定義はヘンテコだ。ガリレオもかなり不満を持っていたという。

「第V巻、定義5: (4つの)量が、第一が第二に、第三が第四に対して、同じ比にあるといわれるのは、第一と第三の等多倍が、第二と第四の等多倍とを比較して、それらが何倍であっても、各々が各々に対して、同時に超過するか、同時に等しいか、同時に不足するときである。」

なんじゃこりゃ?4個の量において常に大小関係が一定で、しかも等多倍であるときに比例するということだけど。「原論」の比例の定義は難解とされ、16世紀になって正しく解釈されるようになったという。だからといって、この定義が非共測量の比例までも扱える一般性を具えた見事な記述だと賞賛する者はいないだろう。

6. ユークリッドの他の著書
ユークリッドの著作と思われるものに、こんなものがあるそうな。
「デドメナ」は、解析という問題探求の方法の基礎定理を提供した。
「オプティカ」は、今日の応用数学と呼べるもので、視覚すなわち物の見え方を幾何学的作図によって探求した。
「カトプトリカ」は、鏡による反射を扱った。
「ファイノメナ」は、天文現象を星が地球を中心とする球面の上にあるとして議論した。
「カノンの分割」は、音程や協和音を数の比で分析した。

2011-12-11

"フラクタル" 高安秀樹 著

前記事の山口昌哉氏の入門書でフラクタルな世界に魅せられた。そこでもう一冊。本書は1986年版と、ちと古いが、一歩踏み込んだ数学的な解釈がなされる。また、コッホ曲線やレビのダスト、あるいはローレンツ系などプログラムの具体例も多く紹介される。ただ、コードがN88-Basicというのが時代を感じる。

現象を細かく調べれば調べるほど、かえって実体を見失い理解が遠のく場合が往々にある。距離を置きながら大雑把に眺めてこそ、自然の美しさとその意味を素直に読み取ることもできよう。フラクタルとはそうした世界ではなかろうか。フラクタルの根源である非整数次元は、実は100年前から知られていたそうな。脚光を浴びるようになったのは、コンピュータによる可視化によって、複雑なフラクタル図形を感覚的に捉えることができるようになったからである。当時、フラクタル次元に明確な定義がなく、非整数次元を総称して呼んでいたところがあったらしい。本書は、フラクタル次元の様々なアプローチを紹介してくれる。
ところで、次元が非整数とは何を意味するのか?通常の図形ならば特徴的な長さや幅といった物理量がある。球ならば半径、人間の形ならば身長といった具合に属性なるものがある。幾何学で一般的に扱う対象は、このような属性を持った図形であろう。その特徴は、線や面が滑らかで連続的、すなわち微分可能ということである。だが、フラクタルは対極的で、特徴的な長さを持たない図形である。その重要な性質は、自己相似性である。一部を砕いていみると全体と同じような形をしているわけだ。フラクタルの語源は、ラテン語の「fractus」で、壊れて不規則に小さな破片になった状態という意味があるらしい。
フラクタルは、滑らかさを否定し連続性が保てないので、いたるところで微分が定義できない。現象を分析しようとする時、微分が否定されては解析学的に絶望に見える。そこで、自己相似性という単純な規則性によって近似するような、まったく違った発想が試みられる。ここでは、特徴的な長さを持った基本図形から粗視化の度合いを変えながらアプローチする方法、測度の関係から積分的にアプローチする方法、相関関数から統計量として捉える方法、分布関数から統計的にアプローチする方法、スペクトルからアプローチする方法が紹介される。自己循環にも陥りそうな自己相似性は、コンピュータが得意とする再帰的処理が威力を発揮しそうな予感がする。ここで注目したい概念は、「フラクタル次元」,「くりこみ群」,「安定分布」である。

本書は、フラクタルに馴染んでいくと、フラクタルもどきに惑わされると注意している。「通称フラクタル病」というものだそうな。複雑系を眺めれば、どんなものでも自己相似性に思えてくるものらしい。例えば、中華料理などの表面に浮かぶ油が大小様々な大きさになる様子は、その直径を調べてみると、べき分布ではなく指数分布に近いことが分かるという。人口分布も、べき分布でなく指数分布だという。都市社会学では、都市人口密度の法則というものがあって、大都市への人口集中が非常に強く、都市の中心から距離rにおける人口密度は、exp(-r/r0) に比例するという。カビの生え方も、指数分布だそうな。これらの例は、名古屋大学フラクタル研究会が調査したものらしい。そして、いまだデータ不足のために決着のつかないものが、蟻の軌跡、地磁気の反転、DNA配列などがあるという。古い情報なので、もう少し解明されているかもしれないが。ただ、べき分布に近づくということは、飽和過程においてロングテール現象のような傾向があるのは確かなようだ。
一方で、フラクタルを拡張して、どんな複雑系も、フラクタル的に当て嵌めて解決しようという試みもあるという。フラクタル次元を位相次元で補うような、トポロジー的な思考なども紹介してくれる。その意味では、フラクタルと複雑系の境界線も曖昧なのかもしれない。
ところで、全体が部分の相似であるという世界観は、はるか昔からあった。国家や民族といった集団を、まるで個人の性質のごとく一緒くたに語ることがよくある。日本人は論理的思考に弱いといった具合に。また、社会構造、権力構造、精神構造が、トップダウン的なピラミッド構造を見せるのも相似性と言えよう。宇宙空間も、原子核を取り巻く電子軌道から、太陽系や銀河系などの形状的な相似性を想像する。部分から全体を把握しようとしたり、全体から部分を推定しようとする考え方は、経験的思考であり、人間社会にある種の合理性を与えてきた。自己相似的思考は、一種の抽象化理論と言ってもいいだろう。解析学は客観的思考を強調するが、フラクタルは主観的感覚を重んじるといった感じであろうか。

1. フラクタル次元
通常の次元は整数で扱い、次元が増えれば自由度を増す。これが力学の基本である。線は1次元、面は2次元、空間は3次元と捉える経験的次元がある。
ところが、1890年、二次元であるはずの正方形上の任意の点を、たった一つの実数によって表されることが証明された。その代表例がペアノ曲線である。これが自己相似形で、いたるところで微分不可能であることは一目瞭然である。これを曲線と呼んでいいのか?という抵抗感もあるけど。一つの実数で表現できるということは、n次元空間を一次元とみなすことが可能というわけだ。
この次元の矛盾を解決するために、相似性次元という概念が生まれた。線分、正方形、立方体の各辺を二等分すると、線分は2個、正方形は4個、立方体は8個に分断される。それぞれ、2^1, 2^2, 2^3 で表され、その指数が経験的次元と一致する。これが相似性次元というものか。一般的には、こういうことらしい。
「ある図形が、全体を 1/a に縮小した相似図形 a^D 個によって構成されているとき、この指数Dが次元の意味をもつ。」
そして、ペアノ曲線の相似次元は、二次元(2^2)となり、正方形の次元と一致する。ある図形の全体を 1/a に縮小した相似形が b個によって成り立つ場合、相似性次元は以下のようになるという。

 D= log b / log a

例えば、コッホ曲線は、全体を 1/3 にした相似形4個によって全体が構成されているので、こうなる。

 D = log4 / log3 = 1.2618...

一次元と二次元の間に次元が存在するとは奇妙な話だが、一次元よりは複雑で二次元ほどには自由度がないと捉えれば、それなりに合理性がありそうだ。ただ、このままの定義では、適用範囲が限られている。厳密な相似性を有する規則的なフラクタル図形だけにしか、定義できないからである。そこで、ランダムな図形まで含めたものが用意されている。その代表がハウスドルフ次元だという。他にも、コルモゴロフによって導入された容量次元というものもあるらしい。

2. 悪魔の階段
カントール集合は、フラクタルの紹介で必ず顔を出すものだそうな。その応用範囲も広い。まず、線分 [0, 1] を3等分し、真中の区間 [1/3, 2/3] を消去する。残った部分をそれぞれ3等分して、真中の区間を消去するという操作を無限回繰り返し、極限に残った点がカントール集合である。このフラクタル次元は、こうなるという。

 D = log2 / log3 = 0.6309...

この密度分布を表す関数は、いたるところで微分が0になるような階段状になっていて、「悪魔の階段」と呼ばれるそうな。

3. くりこみ群
くりこみ群の目的は、観測における粗視化の度合いを変えたときの物理量の変化を定量的にとらえることである。あるスケールで粗視化した時の物理量を p とし、そのスケールの2倍で粗視化した物理量を p' とすると、変換関数 f において、次の関係が成り立つだろう。

 p' = f(p)

これを、更に2倍の粗視化の度合いを変えていけば、次のようになる。

 p'' = f(p') = f・f(p)

ここで、f は逆変換をもたないという。つまり、粗視化した状態を与えても一意的に元の状態に戻らないわけだが、このような性質の変換を数学では「半群」と呼ぶという。そして、物理学では粗視化による変換を「くりこみ」と呼ぶという。よって、f の変換を「くりこみ半群」と呼ぶのが正確だという。
「フラクタルとは、粗視化をしても変化しないようなもののことであるから、くりこみ群の変換 f に対して不変なものがフラクタルであるといってもよい。」
くりこみ群を用いれば、フラクタル次元や臨界指数を比較的簡単に求められるという。あくまでも近似だろうけど。

4. 安定分布
レビによって考案された「安定分布」という概念があるそうな。それは、次のような和に対する分布の不変性を意味する。X, X1, X2, ..., Xn を共通な分布Rをもつ互いに独立な確率変数とした時、その和が次式になるような定数 c, r が存在する場合、分布Rは安定であるという。

  X1 + X2 + ... Xn = cX + r

多くの場合、ある分布に従う確率変数の和は元と異なる確率変数となりそうだが、適当な一次変換によって元と同じ分布になるようなものが安定分布ということのようだ。このような分布でよく知られているのがガウス分布だという。ガウス分布の和もまたガウス分布というわけか。これは、統計学的に解釈した相似性の例ということができそうだ。

2011-12-04

"カオスとフラクタル" 山口昌哉 著

図書館を散歩していると、ある本に嵌ってしまう。本書はブルーバックス版(1986年)。尚、ちくま学芸文庫からも発刊(2010/12)されていることを後で知った。なるほど、復刊するにふさわしい入門書である。

カオスという言葉が文献に登場したのは、紀元前700年頃ヘシオドスの「神統記」にまで遡る。一方、数学界にこの言葉が登場したのはずーっと後のことで、1975年リーとヨークの定理が最初だという。その頃、ブノワ・マンデルブロが、フラクタルという言葉を持ち出す。当時、カオスの方は、決定論的プロセスと非決定論的プロセスの境界がなくなるとして研究者たちが群がったが、フラクタルの方は、あまり反響がなかったそうな。フラクタルに注目され始めたのは70年代末、コンピュータグラフィック技術の進化によってである。
カオスは、複雑系を確率論的にしか捉えられない不規則な世界である。関数もすっきりとした連立方程式から導かれるのではなく、波動的あるいは集合論的な関数によって導こうとする。対してフラクタルは、単純な基本図形から自己相似形を繰り返していくと、極めて不規則な、いや不規則そうに見える図形を形成するという摩訶不思議な世界である。どちらも混沌に向かってそうに見えるが、フラクタルは数学的に計算できるのが、その違いである。本書は、この二つは別々のものではなく、実はカオスのプロセスを逆に観察するとフラクタルが見えてくるという。その共通概念は非線形である。
ところで、線形という言葉の定義も難しい。線形やリニアとは、グラフで描けば直線になるもの、すなわち一次関数と習ったものだが、縦軸の目盛を対数にとれば対数関数や指数関数も直線になる。目盛を任意の関数にとれば、どんな曲線も直線になるだろう。線形とは、原因と結果が何らかの形で連続性を示す予測可能な関係とでも言おうか。
しかし、線形を求めたところで、あらゆる物理現象は非線形に見舞われる。世間では未来を予測するために法則というものを考えるが、実際には初期条件や境界条件なるものを前提しなければならない。電子工学でリニア素子と呼んだところで、限られた範囲の周波数特性において線形性を見せるだけだ。そう、非線形な現象の中から線形に見えるところだけを都合よく用いているに過ぎない。したがって、非線形な市場経済では、市場動向の予測可能な範囲で参加すればいいだけのこと。人生も非線形的で、成長著しい10代からやがて老化して飽和していく。なによりも生まれて死ぬという特異点がある。おまけに、その二大特異点で連続性が保たれるのか?と問えば、宗教しか答えてくれない。神は、人間が特異点に出会う度に想定外だと言い訳する態度を、滑稽に眺めているに違いない。

微分とは、物理現象を解析する上で、その瞬間をスナップ写真のように映しだす便利な道具である。微分方程式とは、未知の関数とその導関数との間に成り立つ関係である。ただ大きな問題は、微分方程式の多くが解けないことである。だから、ε-δ論法なんて近似的な思考を持ち出して、せっかくの数学愛好家を落ちこぼれにしやがる...と愚痴る。
近似と言えば、ニュートン時代からの古典的な思考に差分方程式がある。連続性を映しだすには、差分区間を無限小に近づけることになり、極めて微分の思考と似ている。
ところが、だ!本書は、その微小dtが差分Δtになった途端に奇妙な現象が起こるという。すなわち、限りなく小さい区間を、大雑把に小さい区間にすると、たちまち非線形性が現れるというのだ。ニュートン力学では物理現象を連続性で捉えるが、差分的思考では離散的に捉えて近似する。要するに近似とは、人間の認識能力を誤魔化す巧みな方法論なのだ。
本書は、カオスを引き起こす原因は離散力学系にあるとしている。電子工学では、滑らかで連続的なアナログ波形に対して、デジタル波形となると、たちまちオーバーシュートやアンダーシュートが起こる。いわゆるギブス現象というやつで、急激な変化点では発散する。この現象は、三角関数で連続的に微分できるにもかかわらず、フーリエ変換ですんなり証明できてしまう。となると、連続性よりも離散性の方に真理があるのか?と思えてくる。電子スピンはどういうわけか、離散的な軌道を描きやがるし。連続性を前提にした微分とは、永遠に近づけない真理への無駄な努力ということか?人間認識の本質が近似にあるとすれば、誤魔化しのきく人間ほど幸せになれるということか?いや、救いは離散系におけるランダム性に求めて、そこに真の純粋性があるに違いない。そう、精神分裂的な気まぐれこそ純粋哲学というわけだ。

1. ランダムとカオス
連続であっても非線形性で分かりやすいのは折れ線グラフであろう。滑らかな曲線だってサンプル数を減らせば折れ線グラフになる。コンピュータグラフィックでは、画素をドット単位で離散的に表示する。そして、最小サンプル数で描くと基本的な形が三角形ということになろう。フラクタル図形の基本は三角形の自己相似性にありそうだ。
また、ランダム性の最も単純な現象は、コイン投げのような確率であろう。その現象は、区間[0, 1]で三角形のようなグラフを描く。これが離散力学系の基本的な現象であろう。
グラフが直線ということは、微分不可能を意味する。次元が下げられない上に上げられない現象の正体とは?カオスの正体とは、微分不可能な領域にあるのかもしれない。
さて、ランダムもカオスに含まれるのであろうが、その違いとは何か?ランダムは事象が平等に現れるのに対して、カオスは事象がすべて現れるとは限らない。ランダム性は確率論的決定論と言えるのかもしれない。だが、実験すると極めてカオス的な現象を示す。おもしろいのは、決定論的な方法で非決定論的な結果が得られるということだ。そうなると、決定論と非決定論の境界も曖昧になっていく。
本書は、カオスはある区間に閉じ込められた時に生じるもので、もし区間が解放されれば、カオスは絶対に起こらないという。カオスが生じるということは、宇宙空間が閉じていることの証しなのか?エントロピーの正体は閉じた宇宙にあるのか?
「嵐の前の静けさ...という言葉があるが、静けさの時間が予言できれば、嵐も予言できるわけである。」

2. ロジスティック方程式
個体群生態学では、ベルハルストが考案したロジスティック方程式というものがあるらしい。生態の増殖モデルとして考案された微分方程式である。変化率を人口Nの関数になると考え、環境収容能力をK、増加率をrとすると、次式になるという。

 dN/dt = f(N) = rN (K-N)/K

その解は、初期値をN0とすると、こんな感じらしい。

 N(t) = K N0 exp(rt) / ( N0 exp(rt) + K - N0 )

ここでは、最初増加率が低く比例的に変化するものが、突如指数関数的に増加し、そして頭打ちになる例を紹介してくれる。数学的には簡単でも、その意義となると極端に理解が難しい。ゼロから存在が生じることは説明できないし、そもそも環境に依存する数値が客観的に得られるのか?という疑問がある。この方程式は、なんとなく数学と社会学の境界線、もっと言うなら客観性と主観性の境界線を暗示しているように映る。
ちなみに、ロバート・メイの離散的な数値実験では、パラメータrが3以下の場合、初期値が0と1との間のどんな値でも、1 - 1/a に収束し、予測可能になるという。だが、rが3.57...以上になると、初期値の微小な差で大きな差が生じて、たちまち予測できなくなるという。これが、カオスの所以ということらしい。

3. ローレンツアトラクタ
ストレンジアトラクタとは、「奇妙な引きつけるもの」いや「奇妙に終焉するもの」と言った方がいいだろうか。結局、どこかの状態に落ち着くことはよくある。カオスに対して逆行するような現象である。
本書は、二次元におけるカオスの数理からホモクリニックな点を紹介してくれる。カオスの抽象化は幾何学的にはトポロジーに通ずるものがありそうだ。
二次元の力学系であればまだ数値解析ができそうだが、三次元となるとたちまち複雑系へと迷いこむ。ローレンツの乱流モデルがそれで、あの奇妙な引力圏を描くやつだ。1963年、地球物理学者ローレンツは、三つの未知関数で流体運動を示したという。X(t)は対流の強さに比例、Y(t)は対流で上下する流れの温度差に比例、Z(t)は上下方向の温度分布が線形性から乖離する量、といった具合に。

 dX/dt = -σX + σY, dY/dt = -XZ + rX - Y, dZ/dt = XY - bZ

σは流体の拡散係数と熱伝導係数の比(プラントル数)。rとbは容器の形や流体の性質に関するパラメータ。本書は、ローレンツが示した連立微分方程式が三つの未知関数から成り立つことが重要であって、二つ以下の連続な力学系ではカオスは起こらないという。これは、三体問題と何か関係があるのだろうか?
ちなみに、ジャパニーズアトラクタというものもあるそうな。1961年、京都大学の上田睆亮教授によって発見された。上田教授の話によると、当初アナログコンピュータの故障かと思ったそうな。それは、二次元力学系のダフィングの方程式を写像した時に起こる現象である。ダフィングの方程式は次のようなもので、解は初期値の連続関数になるという。

 dx/dt = y, dy/dt = -ky - x^3 + B cosτ

連続力学系を離散力学系に写像した時に、たちまちカオス現象が生じるということらしい。

4. ファイゲンバウムの分岐ダイアグラム
物理学者ファイゲンバウムは、現事象の差分と次事象の差分の比に注目したという。

 (αn+1 - αn) / (αn+2 - αn+1)

そして、この比の極限を計算すると、次のようになるという。

 lim (αn+1 - αn) / (αn+2 - αn+1) = δ = 4.6602...

これがファイゲンバウム定数というやつか。分岐に関する事象では、普遍的な定数δによる法則性があるという。そして、その図形は「くまで型」になるという。こうなると、カオスにも法則性があると信じたくなるが、ほんまかいな?

5. カオスからフラクタルへ
ここで、おもろいパラドックス紹介してくれる。
「二等辺三角形の二辺の長さの和と底辺の長さは等しい???」
その証明は...二等辺三角形ABCでABの中点をB0、BCの中点をB1、ACの中点をC0として、底辺ACを二つの二等辺三角形AB0C0とC0B1Cに分ける。すると、AB = AB0 + B0C0, BC = CB1 + B1C0 となる。それぞれの三角形は相似で、これを繰り返すと分けられた三角形はジグザグな折れ線グラフを示す。そして、折れ線幅がだんだん小さくなり、やがて底辺の直線に近づいていく。なんと AB + BC = AC になるではないか。確かに、線分とは点の集まりであり、三角形も極小に近づけば点になるのだけど...
ところで、海岸線や国境線が正確に計測できないことは、広く知られている。例えば、スペインとポルトガルの国境線や、オランダとベルギーの国境線の長さは相互の国で公表値が違う。マンデルブロは、海岸線や、樹木の形、川の形などをシミュレートするためにフラクタルという概念を提案し、フラクタル次元なるものを提示した。その名前の由来は、フラクション = 分散という言葉だという。それは、普通の図形の次元は、1や2や3などの自然数であるが、コッホ曲線のように整数ではないところからきているそうな。ちなみに、コッホ曲線は、位相次元が1で、フラクタル次元は、log4/log3 = 1.36....となる。普通の次元は位相次元で示されるが、フラクタル次元が位相次元より高いものをフラクタルと呼んでいる。その性質は、全体はそれを縮小した部分から成る自己相似集合で形成される。ある部分の図形が全体の縮小された像になっていて、原型の入れ子構造となっているわけだ。
複雑な自己相似集合の例では、ジュリア集合とマンデンブロ集合を紹介してくれる。複素平面上で、以下の漸化式において、Znが無限大に発散しないような初期値Z0を持つような集合らしい。

 Zn+1 = Zn^2 + μ

その軌道は、μの値によって収束が決まる。マンデンブロ集合は、更にZ0を原点0にとって、nが無限大になってもZnが無限大にならないようなμの集合だという。その違いは、μを固定するか、初期値Z0を固定するかの観点の違いであろうか。

6. カオスの定義とは?
九鬼周造の著書「偶然性の問題」では、「必然とは、存在がそれ自身に根拠を持つ場合であり、そうでない存在を偶然」と呼んだという。この書には、他の学問は必然性のみを論じているが、形而上学のみが「偶然」に対して学問的に迫ることができると記されるそうな。形而上学を持ち出せば、学問は精神的方法論となり、それこそカオスの定義はメチャクチャになりそう。人間精神とは、自ら自己相似形によってメチャクチャにしているのか?
けして確率論も量子論も偶然そのものを研究しているわけではない。フラクタルとは、超経験的な直観的方法論にも見えてくる。これも決定論ということであろうか。
「カオスの研究は、偶然性そのものの研究といってはならないが、ある種の偶然性が必然性と近づく場面を、必然性の側から眺めているというべきではないだろうか。」