2011-02-06

"なぜ古典を読むのか" Italo Calvino 著

オライリー君の「ビューティフルアーキテクチャ」に、興味深い古典の意義が紹介されていた。その元ネタが本書である。ただ、絶版中なので図書館をあさってみた。この世には、絶版となってそのまま埋もれてしまった名著と呼べるほどの古典が数多くあろう。それが、なんとも惜しい!電子書籍の話題で盛り上がる昨今、古典パワーこそ見せつけてほしいものである。

「古典とは、ふつう、人がそれについて、『いま、読み返しているのですが』とはいっても、『いま、読んでいるところです』とはあまりいわない本である。
古典とは、読んでそれが好きになった人にとって、ひとつの豊かさとなる本だ。
しかし、これをよりよい条件で初めて味わう幸運にまだめぐりあっていない人間にとっても、おなじくらい重要な資産だ。古典とは、忘れられないものとしてはっきり記憶に残るときも、記憶の襞のなかで、集団に属する無意識、あるいは個人の無意識などという擬態をよそおって潜んでいるときも、これを読むものにとくべつな影響をおよぼす書物をいう。」
古典に新鮮さが感じられるのは、酔っ払いの幸せというものであろう。ただ、そのほとんどが直接的に読む機会に恵まれるのではなく、間接的にそれについて語られたものを読んでいる。おまけに、語学力がないので原書に触れることもできず、翻訳者の主観に身を委ねるしかない。そんな制約があっても、古典と呼ばれるものを読む意義は大きい。ベストセラーやロングセラーでさえ、古典の影響を受けているものばかりなのだから。古典に触れる機会が増えれば、現在の書物が系譜のどのあたりに位置付けられるか、イメージできるようになるだろう。

あらゆるものの出会いには、時宜というものがある。たとえ本は昔のままでも、読む側は確実に変化している。歴史の遠近法が変われば、本自体も相対的に変化しているとも言えるのだが...
若き日の読書は、忍耐を欠き、読み方も分からないものだ。重要な事象に出会っても、それを受け入れるだけの心の準備ができていなければ、目の前を通り過ぎる。ならば、昔読んだ本を読み返してみれば、新たな発見があるかもしれない。体験して初めて、その本の偉大さを感じることもある。歳を重ねたからといって、実りあるものにするのは難しいのだけど...
本書は、学校教育が本文が言わんとしていることを覆い隠し、むしろ反対を教える場合があると指摘している。人生経験が少なければ、教える者の主観に影響され、奇妙なイメージを押し付けられることもあろう。作品の評価は、批判的言説という形で伝えられ、評判によって形成されることも多い。だが、実際に読んでみると、そのイメージが壊れることはよくある。
「時事問題の騒音をBGMにしてしまうのが古典である。同時に、このBGMの喧噪はあくまでも必要なのだ。」
情報化社会では、多くの雑音が氾濫し、情報を集める能力よりも情報を捨てる能力が求められる。古典には、雑音フィルタの役割があるというわけか。ただし、古典を崇めて、期待し過ぎるのも危険である。
「私たちが古典を読むのは、それがなにかに役立つからではない、ということ。私たちが古典を読まなければならない理由は、ただひとつしかない。それは読まないより、読んだほうがいいから、だ。」

本書には、「なぜ古典を読むのか」の他にイタロ・カルヴィーノのエッセイ30篇が収録される。そして、これらの評論が古典の手引きにもなっている。ちょいと読んでみたいところをメモっておこう。

1. オウィディウス著「変身譚」
「変身譚は速さの詩だ。すべてが急テンポのリズムで進行して、読み手の空想力を圧倒し、ひとつのイメージが他のイメージに重ねられたり、ふいにきわだつかと思えば、かき消える。まるで映画の原理そのものだ。」
オウィディウスの詩のテーマには、あらゆる事物における対称性の原理が隠されているという。それは、動物界、植物界、鉱物界、あるいは肉体的、心理的、倫理的な集合体といった世界で見られるそうな。宇宙空間には、様々な特性や形態が閉じ込められている。この不規則極まりない複雑系において無理やり規則性を見出すとすれば、対称性であろうか。仮想と現実、絶対と相対、衝突と均衡、自由と平等、主観と客観、そしてDNAの二重螺旋構造...あらゆるものが表裏一体となって存在する。「変身譚」が詩である所以は、互いに異なった二つの性質の境界がぼやけているところにあるという。

2. アリオスト著「狂乱のオルランド」
この長詩は、書きはじめては迷い、終わろうとしては迷うかのような作品だそうな。それは、マッテオ・マリア・ボイアルドの著作「恋するオルランド」の続編のつもりで書いて、拡張し続けたせいだという。一つのエピソードを派生させては、その対称を編み出して構想を膨らませ、様々な事件を絡ませながら分裂を繰り返す。アリオストの詩の構想には、わざと結論から距離を保とうとするところがあらしい。これだけ独創的でありながら続編と称すのはないだろうと皮肉っているが、英国紳士的な控えめな表現ということらしい。
あらすじは...アンジェリカの恋に破れた不運なオルランドが、恐ろしいほどの錯乱状態に陥る。そして、彼を誇りにするキリスト教軍がフランスを失いそうになったのを目前にして、失いかけた分別を騎士アストルフォが月で見つけ、それを肉体に取り戻すという物語と...
サラセン軍の勇将ルッジェーロとキリスト教徒の女戦士ブラダマンテの運命付けられた恋がなかなか成就しない恋物語...
似つかわしくない二つの物語が同時進行するという、なんとも酔っ払いそうな作品のようだ。

3. シラノ・ド・ベルジュラック著「月と国家と帝国の愉快な物語」
シラノはSF小説の先駆者だという。彼の宇宙観は、無機物と有機物を区別せず、あらゆる物体の単一性を主張し、違いがあるのは密度の高低さだけ。乱雑で偶然に混ぜられた物質が構成されて人間が形成されるには、岩や花や彗星など、あらゆる物体の多様な形態が試みられた結果であるとしている。
月には楽園があるとし、エデンを追われたシラノはいくつかの月の都市を訪れる。ある都市では、可動で季節ごとに向きを変えられるように、家には車がついている。別のある都市では、地面に固定されて動かないので、冬の悪天候から守るために地上に潜ることができる。そして、地球に精通した案内人が登場し、この人物こそプルタルコスが言及した「ソクラテスの精霊(デーモン)」だという。
シラノは、自由奔放に夢想する自由思想家で、彼の月世界旅行は「ガリヴァー旅行記」を先取りしていると評している。

4. ダニエル・ディフォー著「ロビンソン・クルーソー」
難破船から一人だけ岸にうちあげられ、アメリカ大陸沿岸の無人島で28年間、孤独の人生を送った水夫の冒険物語。当初、難破した水夫の実話回想録として、著者の名は故意に伏せられたという。この作品には、商人が守るべき徳性が示されるという。規律を重んじる商人の詳述では、商取引の厳格さがある。幼い頃に絵本で読んだような気がするが、おそらく説教じみたものが語られ、児童教育にも用いやすいのだろう。
マルクスの「資本論」には、経済学者がロビンソン物語を好むことを揶揄している箇所があると聞く。アダム・スミス的な「経済人」を理解する方法として、この作品を薦める識者もいる。ディフォーは、産業革命で発達した資本主義を先取りしていたのかもしれない。ここに見られる冒険と実務的精神、あるいは倫理的悔恨の奇妙な混ざり合いが、後のアングロサクソン的資本主義の基本を形成することになると評している。

5. ヴォルテール著「カンディード」
この作品の魅力は、風刺とか倫理や世界観の提示などではなく、ひたすらリズムだという。スピードと軽妙さをもって、不運や責苦や殺戮が次々と駆け抜け、読者に陽気なバイタリティーを与えるのだそうな。虐殺と侵略がある一方で、すぐに救い出されるかと思えば、宗教裁判で火刑に処せられるなど、その場面の移り変わりは凄まじいものがあり、大惨事を続発させながら、コミック風に観客を笑わせる効果を発明したという。これでもか!という連続性と速度、これがブラックユーモアの原理、あるいは毒舌の原理というものかもしれない。
また、善悪を形而上学的に説明しても無駄なことで、善悪は主観的なものであり、これを定義することも計測することも不可能としている。つまり、人生観を楽観主義で語ろうが悲観主義で語ろうが無駄なことだということか?ここには、ライプニッツ哲学への批判もあるらしい。
「人間は、もはや個人と超越的な善悪との関係によって測られるべきではなく、大小にかかわらず個人にできることによって測られるべきだという思想。そこにこそ、厳密に資本主義的な意味での「生産性尊重主義的」な労働の倫理の源泉があり、また、それがなくては解決不可能な総合的な問題など存在しない、実務的で責任の所在を意識する義務についての倫理が生まれる。今日、人間にとっての真の選択は、つまり、ここに端を発しているのだ。」

6. ドニ・ディドロ著「運命論者ジャックとその主人」
ディドロは自分の事を語る物語から、読者とのせめぎ合いを起こさせるという。受け身がちな読者に問題提起するだけでなく、批判精神を眠らせない。そして、話が要にさしかかると、しばしば読者に可能な選択肢を与えるように弄ぶ。おまけに、小説らしい結論を没にして、読者をがっかりさせるそうな。
ヴォルテールがライプニッツを批判するのに対して、ディドロはどちらかというとライプニッツに味方するらしい。それ以上に、幾何学的に不可避な単一の世界の客観的合理性を唱えたスピノザに味方するという。ライプニッツにとって、この宇宙が多くの可能な世界の一つであるならば、ディドロにとって、人間の素行の善悪を問わず、その瞬間どのように行動できるかが価値を決めるという。自由意志による選択は、必然性をともなう時に効果を絶大にする。宇宙論的な神を持ち出せば、流れに逆らった自由意志の選択は、ことごとく打ちのめされることになろう。しかし、流れに逆らっているかどうかなどは、やってみないと分からない。そこに人間の虚しい運命性がある。

7. スタンダール著「パルムの僧院」
本名マリ=アンリ・ベイル。この作品を「戦争文学がはじめて用いた本物の屍体」と評している。ナポレオン占領下のミラノや、ワーテルローの戦場に参加するなど、著者の経験が主人公と重なるところ多いという。腕を硬直させたおびただしい死体の描写は、戦争とはどういうものかを教えてくれるのだそうな。
ナポレオンの栄光に目がくらんだ主人公ファブリスは、政治的陰謀の渦巻く中で、ファルネーゼ要塞の塔に幽閉される。彼は自分以外の人間を愛せない。だが、獄長の娘で天使のような思慮深いクレリアに命がけの恋をする。その結末がどうなるかは知らんが、軍隊の制服を脱いだ時、ついに聖職者になる誓いをたてるという物語。また、ローマの血なまぐさい陰謀と政治スキャンダルの歴史が描写されるらしい。
オノレ・ド・バルザックは、この小説を「新しいマキャヴェッリの君主論」と定義したという。

8. チャールズ・ディケンズ著「我らが共通の友」
小説の冒頭には、テムズ河のドス黒い描写が表れるという。それは死体探しのボート。テムズ河には、毎日にように残骸や死体が捨てられる光景があったという。死体収集家は、自殺者や殺害で放り込まれた人体を探し、死体運びのボートが読者を裏の世界に誘なう。
ところが、第二章では、一転して風俗と性格をめぐる喜劇が繰り広げられるという。晩餐会で、出席者同士がほとんど知らないのに、互いに知己ぶっている。そこに、水死体の話題が出て、冒頭との奇妙なつながりを見せる。名声欲に憑かれる様子は、貴族社会への風刺か?描写される友情が、本物か虚偽か、歪曲されたものかなど、友情のテーマが隅々にまで行き渡っているという。題名からは想像もつかない展開のようだ。それは、友情精神の裏を暴き出すという意味であろうか?
イギリスの作家チェスタートンは、この表題は言語学的には不適切と指摘しながら、まさにそのためにこの表題が好きだと述べたという。ちなみに、ディケンズの偉大さを世に知らしめたのがチェスタートンだそうな。

9. ギュスタヴ・フロベール著「三つの物語」
「聖ジュリアン伝」、「ヘロディア」、「純なこころ」の三作品。特に「純なこころ」と「聖ジュリアン伝」は絶品だそうな。
「純なこころ」は、すべて目に見えるものでつくられた話だという。簡素で軽やかな文章の中で絶えず何かが起こり、哀れな女中フェリシテの目を通して語られる。
「人生の悪も善も享受する自然な高貴さと純粋さを表現するための、ただひとつの手段は、物語の透明な文章なのである。」
「聖ジュリアン伝」は、残酷と憐憫の境界をさまよい、やがて動物の世界におびきよせられるという。猟をするジュリアンは血の好む天性の性格に導かれ、獣の目を通して光景が描かれるという。
「フェリシテの目、フクロウの目、フロベールの目。表面的にはあれほど自分のなかに閉じこもっているかに見える作家の真のテーマが、他者のなかに自分自身を確認することであったことに、私たちは気づく。...たぶん、「三つの物語」は、あらゆる宗教の外で達成されたもっとも非凡なたましいの道程を証明するものではないだろうか。」

10. レフ・トルストイ著「ふたりの軽騎兵」
トルストイの物語の構築方法を理解することは、あらゆる枠組みや構成などを隠しているから難しい。それでも、初期の作品「ふたりの軽騎兵」は、彼の仕事ぶりが比較的分かりやすいという。
主人公は、生命力さえあれば人々に好かれ、人々を支配できるように作られている。なにかと決闘をしたがる軽騎兵将校トゥルビン伯爵は、いかさま師、公金横領、たかり、放蕩者であるにもかかわらず、寛大さのおかげであらゆる軋轢が遊びとなり、祝祭に変える性格を持つ。伯爵は、暴力と軽さを合わせ持つ人物で、決闘で命を落とす。ロシアの貴族階級を蛮族とでも言いたそうな...
物語の後半は、息子が代わって軽騎兵将校となり、父の姿とは裏返しの様子が描かれるという。トゥルビン二世は、文明的で父の無作法を恥に思い、それを埋め合わせるかのように従僕たちと信頼を築く。だが、従僕の欠点をあげつらい、苛酷な点では父と同じ。おまけに、ケチ臭く、ルーズで不器用、横暴ながら寛大だった父親とは違って卑しい。
二世代に渡るロシア貴族の描写は、父はナポレオンを敗退させた世代に属し、息子はポーランドとハンガリーの革命を制した世代に属すという。この作品は、戦争における戦役や戦略ばかりが重要視される世評を皮肉って人間の本質を論じようとしたもので、その10年後に「戦争と平和」で開花することになったと評している。

11. ヘンリー・ジェイムズ著「デイジー・ミラー」
当時、新興国だったアメリカとヨーロッパを対比させながら描写するという。若いアメリカのあっけらかんとした性格や無邪気さといった象徴を、生命にあふれた少女を主人公にしたのは、ヘンリー・ジェイムズにしては分かりやすい小説だそうな。ちなみに、「ねじの回転」を読めば、ジェイムズが使用人の世界がどれほど無形の悪を体現するかを理解できるという。

12. ボリス・パステルナーク著「ドクトル・ジバゴ」
革命の情熱が未来へ及ぼす影響について疑問を呈した小説だそうな。むかーし映画で観たが、あまり印象は残っていない。ちなみに、革命批判としてソビエト連邦で発表が拒否され、イタリアで出版された作品としても知られる。政治的に暗い影のある国では、様々な思いを想起させるように暗喩的な叙述が発達するものである。そして、民衆の心は奥底に仕舞い込まれ、一つの逃避場として文学作品に向けられる。
本書は、逆説的にこれほどソビエト的な作品は他にはないとし、「政治用語としては大衆自発革命主義的な思想」と評している。これは、スターリン時代から継承される粛清への批判か?禁じられた思想を勉強するには、表向き批判するように見せかけるしかない。そして、ボリシェヴィキの熱狂的な思想を引用しながら、けしからんとできるだけ説得力の無いように語るぐらいなものか。虐げられるからこそ思考が進化するのであって、幸せな時代ほど名作は生まれにくいのかもしれない。

13. アーネスト・ヘミングウェイ
著者は、ヘミングウェイを神と呼んだ世代で、それは素敵な時代だったと回想している。この作家から悲観主義を教えられ、漠然と学んだものは、個人主義的な無関心、自己礼賛、自己憐憫の拒否、教訓や人間の価値を賛美する態度などだという。しかし、それがマンネリ思考に陥りやすいという欠点もあるという。その魅力は現実的な作風にあるようだ。ただし、抒情的な作品「キリマンジャロの雪」は最低だと評しているが。
行動派ヘミングウェイは、スペイン内戦や第一次大戦にも参加し、反ファシズムの象徴とされる。だが、戦争の生き証人でもなければ、大虐殺の告発者でもないようだ。任務を担いきれるかどうかの限界で、人間の存在を認めるといった実存主義的な方法で存在を理解するという。実際に機械を操作したり、技術を実践したりする中で、人間の存在といったものと対峙するそうな。機関銃を撃ったり、戦車に乗っている自分と向かい合うような...これが行動派の作家というわけか。

14. レーモン・クノー
この作家の特徴は、一つにまとめきれない要素があまりに多く、輪郭が複雑で多面的だという。晩年の25年間、表向きは百科事典編纂者でありながら、数学者、宇宙論者など様々な立場を見せるという。ピアジェの言うように「記号論理学は思考の公理化そのものである」とするならば、クノーは次のように付け加えるという。
「だが論理は芸術でもある、それは遊びの公理化なのだ、今世紀のはじめに科学者たちがそれぞれを構築した理想は、科学を認識としてではなく、規則と方法として紹介することだった。...要するに約束事を提示したのだった。だが、それはチェスとかブリッジなどと変わらないゲームの一種ではないか。科学はほんとうに認識なのだろうか、認識に役立つのか。...数学のなかに何を認識するのか...認識すべきことなど何もない。関数や微分方程式の世界は、具体的な現実を識っているほどには知らない。知っていることと言えば、科学者たちの共同体から真理であると受け入れられた方法であり、その方法は製造の技術につながる利点もある。だが、この方法はひとつのゲームでもある。科学全体が、完結した形態で、技術として、またゲームとして出現するのは、人間の行為であり、芸術の現れ方とほぼ似ている。」

15. チェーザレ・パヴェーゼ著「月とかがり火」
登場人物「わたし」は、アメリカで成功して故郷の葡萄畑に帰ってくる。彼が求めたものは、思い出でもなければ、もとの社会への回帰でもなく、若き頃の貧困の日々への意趣返しでもない。どうしてひとつの村は村であるのか、場所と名と多くの世代を結びつける秘密を探ることであった。彼が「わたし」と呼ばれるだけで、名前がないのは偶然ではない。貧民院で生を受けた捨て子だったのだ。しかし、アメリカには現在というものに深い根があるわけでもなく、誰もが通りすがりの人間で名前を気にすることもない。今、何も変わらない故郷に戻ってきて、現実と対峙しながら目の前に映る光景の本質を知りたがっている。美しい向こう見ずな地主の娘サンティーナは、どうなったのか?彼女はファシストのスパイだったのか?それともパルチザンと通じていたのか?それを答えられるのは誰もいない。彼女もまた意思とは関係なく、戦争の奔流に巻き込まれたのだった。彼女の墓を探しても無駄だ。銃殺後パルチザンたちは葡萄の蔓にくるんで亡骸を焼いてしまったのだから。
この作品は、歴史の象徴、すなわちパルチザンとファシストたちの死体、そして儀式の象徴、すなわち夏になると丘の枯草に放たれる火、という二つのアナロジーを辿るという。運命的な暗い思考とニヒリズムは文学作品にありがちな展開であるが、最も好まれる領域でもあろう。

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